2023年03月23日
純日本的精神を追求した国学者・本居宣長と平田篤胤
徳川幕府を倒し明治維新の指導原理となり、また今日の民俗学や霊学、心霊研究などのオカルト的なものまでに大きな影響を与えたものが「復古神道」である。
「復古神道」とは、江戸時代の国学者の起った神道説で、中でも荷田春満(かだのあずままろ)、賀茂真淵(かものまぶち)、本居宣長(もとおりのりなが)、平田篤胤(ひらたあつたね)の国学の所謂「四大人(うし)」が本流である。
彼等の主張は、両部、伊勢、吉田、吉川、垂加神道に雑じっている、インドや支那の教えや説を取り除き、神道の純粋性を保とうとするところにあった。
「国学」というのは、日本の古典を有りの儘に吟味して、古典に込められている純日本的精神を追求しようとした学問である。つまりは、中世以来に伝来した儒教や仏教等を拠り所とするこじ付け的な日本古典の研究に反対するものである。
復古神道の成立に決定的な役割を果たしたのが、本居宣長と平田篤胤である。宣長は僧・契沖(けいちゅう)の書物に出会って古道を学び、後に賀茂真淵の著述に触れる。真淵は宣長を自らの志を引き継ぐ人物として入門を許し激励した。
この時、真淵67歳、宣長34歳だったという。宣長は真淵の期待に応えようと只管「古事記」の研究に没頭し、ついに57歳の時「古事記伝」を完成することとなる。実に宣長の一生は「古事記」の注釈に注がれたといっても過言ではない。
宣長は72歳で没する。宣長の没後に古道思想を継承し、神学的に発展させたのが平田篤胤である。 博学多識で知られた篤胤であるが、幼少の頃は才能には恵まれて無かったらしいというから、人間は何歳になっても精進が大事ということだ。
18歳になっても未だ「四書五経」、つまり「論語」や「易経」などという当時の武士の基本的教養書を理解することもなく、親からも「武士失格」の烙印を押された篤胤は、袴を着け、帯刀することを禁じられてしまったという。
そこで篤胤は一念発起し、出羽国秋田から江戸に出て行くのだが途中、雪の山中で遭難しかかった平田篤胤だったが、この時に何やら、異人に特殊な霊法を伝えられたという。異人ではなく宇宙人だった超常現象だったのかも知れない。
というのも、江戸へ出てからの篤胤は、以前の彼とは打って変わった様に古今東西のあらゆる本を読み解き、それを記憶し、時には著述に入ると1週間位は不眠でそれを成し遂げるという通常の人には考えられない様な能力を発揮し始めたからだ。
江戸では備中国松山藩士平田篤隠(あつやす)に認められ養子となり、松山城主板倉侯に仕えた。その後、本居宣長の著書に接し、深く感激しその門に入った。
篤胤は宣長没後の門人としてその学問を受け継ぎ、古を明らかにし皇道を遍く天下に広めることを以て自分の使命とした。以来着々と著述を進め且つ門人を集め古道を唱道した。全国神社会は篤胤の「復古神道」を以て統一されたのである。
篤胤は68歳で没するが、その一生に著した書物は驚くべき数に達している。その中で神道の中心をなすものが「霊能真柱(たまのはしら)」と「古史伝」である。「霊能真柱」では、人が神の道を実践する為には、「先ず大和心を固めなければならず、死後の霊魂の行方が解明されなければならない」と教えている。
その為には、「天地の形成過程を知り、神の功徳を認識し、日本こそが万国の本源の国であり、全てに於いて優れた国であり、天皇が最高の存在であることを十分に知らなければならない」との日本こそ中国であり天皇こそ最高の存在と覚る。
「古史伝」は自らの古伝を纏めた「古史成分」の注釈書であるが、「霊能真柱」の考えをより発展させたものである。 著述の中に一貫する日本本源論や皇国尊厳論は大いに注目すべきもので、また学問の範囲は非常に広く深く独創的である。
篤胤は幽冥界についても深く研究し、神界と現界の関連、霊魂、神仙の存在に関する書物を多く書き著して、その後霊や神仙などを研究や修行する者に多大な影響を与えた。 篤胤は、近代日本のオカルティズムの創設者とも言えよう。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援の御願い》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円。法人120000円。協賛会員300000円~。
「復古神道」とは、江戸時代の国学者の起った神道説で、中でも荷田春満(かだのあずままろ)、賀茂真淵(かものまぶち)、本居宣長(もとおりのりなが)、平田篤胤(ひらたあつたね)の国学の所謂「四大人(うし)」が本流である。
彼等の主張は、両部、伊勢、吉田、吉川、垂加神道に雑じっている、インドや支那の教えや説を取り除き、神道の純粋性を保とうとするところにあった。
「国学」というのは、日本の古典を有りの儘に吟味して、古典に込められている純日本的精神を追求しようとした学問である。つまりは、中世以来に伝来した儒教や仏教等を拠り所とするこじ付け的な日本古典の研究に反対するものである。
復古神道の成立に決定的な役割を果たしたのが、本居宣長と平田篤胤である。宣長は僧・契沖(けいちゅう)の書物に出会って古道を学び、後に賀茂真淵の著述に触れる。真淵は宣長を自らの志を引き継ぐ人物として入門を許し激励した。
この時、真淵67歳、宣長34歳だったという。宣長は真淵の期待に応えようと只管「古事記」の研究に没頭し、ついに57歳の時「古事記伝」を完成することとなる。実に宣長の一生は「古事記」の注釈に注がれたといっても過言ではない。
宣長は72歳で没する。宣長の没後に古道思想を継承し、神学的に発展させたのが平田篤胤である。 博学多識で知られた篤胤であるが、幼少の頃は才能には恵まれて無かったらしいというから、人間は何歳になっても精進が大事ということだ。
18歳になっても未だ「四書五経」、つまり「論語」や「易経」などという当時の武士の基本的教養書を理解することもなく、親からも「武士失格」の烙印を押された篤胤は、袴を着け、帯刀することを禁じられてしまったという。
そこで篤胤は一念発起し、出羽国秋田から江戸に出て行くのだが途中、雪の山中で遭難しかかった平田篤胤だったが、この時に何やら、異人に特殊な霊法を伝えられたという。異人ではなく宇宙人だった超常現象だったのかも知れない。
というのも、江戸へ出てからの篤胤は、以前の彼とは打って変わった様に古今東西のあらゆる本を読み解き、それを記憶し、時には著述に入ると1週間位は不眠でそれを成し遂げるという通常の人には考えられない様な能力を発揮し始めたからだ。
江戸では備中国松山藩士平田篤隠(あつやす)に認められ養子となり、松山城主板倉侯に仕えた。その後、本居宣長の著書に接し、深く感激しその門に入った。
篤胤は宣長没後の門人としてその学問を受け継ぎ、古を明らかにし皇道を遍く天下に広めることを以て自分の使命とした。以来着々と著述を進め且つ門人を集め古道を唱道した。全国神社会は篤胤の「復古神道」を以て統一されたのである。
篤胤は68歳で没するが、その一生に著した書物は驚くべき数に達している。その中で神道の中心をなすものが「霊能真柱(たまのはしら)」と「古史伝」である。「霊能真柱」では、人が神の道を実践する為には、「先ず大和心を固めなければならず、死後の霊魂の行方が解明されなければならない」と教えている。
その為には、「天地の形成過程を知り、神の功徳を認識し、日本こそが万国の本源の国であり、全てに於いて優れた国であり、天皇が最高の存在であることを十分に知らなければならない」との日本こそ中国であり天皇こそ最高の存在と覚る。
「古史伝」は自らの古伝を纏めた「古史成分」の注釈書であるが、「霊能真柱」の考えをより発展させたものである。 著述の中に一貫する日本本源論や皇国尊厳論は大いに注目すべきもので、また学問の範囲は非常に広く深く独創的である。
篤胤は幽冥界についても深く研究し、神界と現界の関連、霊魂、神仙の存在に関する書物を多く書き著して、その後霊や神仙などを研究や修行する者に多大な影響を与えた。 篤胤は、近代日本のオカルティズムの創設者とも言えよう。
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cordial8317 at 05:59│Comments(0)
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