幕末からの戦いで斃れた全ての戦没者の合祀を図るべし!暴力団排除条例を無視し暴力団の公共施設利用を認める品川市長

2022年04月23日

「天に口なし人を以って言わしむ」「自らを助くる者を助ける」

「天に口なし、人を以って言わしむ」という。天は何も言わない。天は人々の頭上高くあって、黙って見ているだけである。だが、人間が天の意想によって生まれたものなら、人が見ると同じ様に天も見ているであろうという思いに至る。

 吉田松陰は「人は天地の気を受けて体とし、天地の理を受けて自分の心としている。これが人の心をそのまま天の心とするということである」と記している。

「天の観るは、我が民の観るに従う。天の聴くは我が民の聴くに従う」となり、また逆に「民の欲するところは、天必ず之に従う」ことにもなる。古より国民の多くは「天は見ている」という美意識に基づく自制心が道徳の基盤になっている。

 権力の横暴と不作為、閣僚の腐敗、官僚の傲慢、政商の暴利など、大衆の利益を顧みない人民の敵は、天が民の意を汲んでこれに天誅(天罰)を加えるのである。

 江戸時代、止むに止まれず起こした百姓一揆にしても、フランス革命で見せた民衆の怒りにしても、東欧諸国の崩壊の際に見られた市民蜂起が正にこれである。

 殺人などの凶悪犯、政治家絡みの贈収賄事件や詐欺など「免れて恥なし」という者が世間を見くびっていると「天網恢恢疎にして漏らさず」となって悪事がバレる。

「合法的なら」とか「法律の範囲内なら」と法を巧妙に抜け、不動産購入や蓄財をした小沢一郎を筆頭に法律を作る側の政治家が、巧妙に法の目を逃れているのを都合好く解釈して悪事を恥じようとしないのは万死に値する破廉恥行為である。

 政治家の傲慢且つ横暴、企業の営利主義も同じ様に天罰が下るであろう。天は公正無比であり、その正気が邪気を許さないのである。とすれば天は善に適う。
 
「積善の家には必ず余慶あり、積不善の家には必ず災いあり」となる。正大な天は不義、不正、不善を厳しく罰するが、然しその一方で、寛容さに於いては実に懐が深い。働いた悪事を許すというものではなく、悪事を悔い改めさせるのである。

「悔い改むるべし、遅ければ悔ゆることあらん」という。人間とは天の命によって生を享けた人である。そういうことであるならば、天は不幸な人間を放置しない。

 つまり、天は自らを助くる者を助けるのである。「天は自ら助くる者を助く」とは、人に頼らず自分自身で努力する者には天が助け、結果としての幸福を齎す。不幸を政治の所為にするのではなく、「国を助けて国に頼らず」という報国が大事。

 昨今の日本人は「天」を意識する美徳が薄れてしまった。唯物論では捉えきれない存在が天上に在している。それが神であり、「神様が我々人間の一人一人の働きを見守っている」と考えるだけで、人は理性的な存在になれるとは思わないか。

「お天道様が見ているぞ」という教えは今や死語になってしまったが、道徳教育の根本はこうした先人の当たり前の教えを再考することから始めるべきだろう。

※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。

《会費&御支援》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円(月2500円)。法人120000円。協賛会員は300000円~。

cordial8317 at 06:52│Comments(0)

コメントする

このブログにコメントするにはログインが必要です。

幕末からの戦いで斃れた全ての戦没者の合祀を図るべし!暴力団排除条例を無視し暴力団の公共施設利用を認める品川市長