2021年04月

2021年04月29日

「昭和(ヒロヒト)天皇が戦争犯罪の最高責任者」と宣う国賊・志位和夫

 本日4月29日は、激動の時代を御納めになられた昭和天皇の御遺徳を偲ぶ「昭和の日」である。昨日の「主権回復記念日」に続き慶賀が続く。昭和恐慌と大東亜戦争を経て戦後復興を遂げた昭和時代を顧み、我が国の将来に思いを馳せる日である。

「昭和」という元号は「書経尭典」の「九族既睦平章百姓百姓昭明協和萬邦」に由来する。「九族(きゅうぞく)既(すで)に睦(むつ)まじくし て、百姓(ひゃくせい)を平章(へいせい)す。 百姓昭明(しょうめい)にして、 萬邦(ばんぽう)を協和す」と、国民の平和と世界の共存繁栄を願う意味が込められている。

 因みに「平成」は、史記「五帝本紀」の「内平外成(内平かに外成る)」や「書経」の「地平天成(地平かに天成る)」に由来し、「内外、天地とも平和が達成される」という意味は「昭和」の平和を願う想いに通じている。

 大東亜戦争後、昭和天皇が全国を行幸遊ばされ、敗戦で疲弊していた国民にとって大きな励みになったのは誰もが知るところであろう。常に「国民と共に在りたい」との昭和天皇の大御心は、上皇陛下や今上陛下の御姿とも重なり、皇国臣民として感謝せずにはいられない。だが、日本人らしからぬ輩が存在してるのも確か。

 日本共産党の志位が「戦争責任は前天皇にあり、現天皇には(現憲法上)謝罪権限がないので安倍総理が謝罪すべき」と宣ったのは記憶に新しい。

 韓国の文喜相議長の、「戦争犯罪の主犯である天皇(日王)の謝罪」との妄言に追随するものであり、志位もまた、「昭和(ヒロヒト)天皇が戦争犯罪の最高責任者」との認識を示したことは、正に国賊の戯言と嗤う他はない。

「天皇の戦争責任・退位論」は、昭和に始まった「天皇制廃止運動」の一環であり、これは1932年にソ連共産党から日本共産党へ指令された「コミュンテルンテーゼ(命令書)」の忠実な実行であり、それが息を吹き返したとも言える。

 保守陣営や右翼陣営の中にも歴史認識不足から「戦争責任論」を真に受けている輩がいるが、我が国は負けたから戦争犯罪や戦犯の汚名を着せられているだけで、先の大戦の大義は開戦の詔勅に記されてある通りである。

 欽定明治憲法下では国務は国務大臣、統帥は参謀総長及び軍令部長が陛下を輔弼しその責に任ずることになっており陛下には法的に責任は無い。

 しかし乍ら、道義的に最も責任を痛感されたのは昭和天皇であり、大東亜戦争終結に関する詔勅に於いて「五内為ニ裂ク」と仰せられた通り自ら身を苛まれたのだ。それを何が「戦争犯罪の主犯」だ。日本人なら恥を知れと言いたい。

 自らの国の歴史を知らない故に未だにこういう戦後民主主義教育侵された戯言が罷り通る。戦争犯罪や戦犯という呼称こそ日本人の幼稚さを示す一例であろう。

 敗戦は反省すべきところだが、戦争犯罪人は、昭和天皇でもなければ大日本帝国憲法や統帥権でもなく、況して軍部でもなければ当時の軍国主義でもない。

 真の戦争犯罪人は近衛文麿と尾崎秀美らそのブレーン達、即ち日本国内で蠢いていた共産主義者らであり、マルクス・レーニン主義思想が昭和の悲劇を生んだということは今や歴史的事実。共産主義者である志位も一蓮托生である。

 大東亜戦争とは、ソ連共産党と中国共産党、そして日本国内の共産主義者が仕組んだ共産革命の実現の為の争いであり、そのマルクス・レーニン主義者の策謀に当時の日本全体がまんまと嵌ってしまった愚かな戦争とも言えるのだ。

 未だに昭和天皇の戦争責任を問う声があるのも天皇廃止運動が継続されているという証左である。陛下の退位特例法案然り、女性宮家問題や女性天皇など共産主義者が謀る天皇廃止運動は、国民が気付かない儘に巧妙に実行されている。

 蛆虫・日本共産党始め、国内に巣食う共産主義者らを一掃しよう!

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2021年04月24日

米中が温室効果ガスの削減目標を掲げているが

 バイデン米大統領は、気候変動サミットで新しい温室効果ガスの削減目標を表明し、各国に積極的な対応を求め、我が国は同意し、何を勘違いしたかガソリン車の撤廃を掲げる始末。抑々、温暖化は温室効果ガスだけが原因ではないだろう。

 これに対し、米中は主導権を巡ってせめぎ合った。安全保障などで対立する中国共産党の習近平は表面的には協力姿勢を示しつつ、「緑の『一帯一路』の構築に向けた共同の取り組みを進める」と中共が中心の新たな世界の枠組み創りを示唆した。

 地球温暖化問題でも合意している米中はパリ協定を批准し、温室ガス排出に前向きに取り組む姿勢を見せてるが、中共が本格的にCO2の削減に取り組むのは2030年から。30年までの中期目標を掲げてはいるものの、60年までの長期目標は不明確。

 現在、世界で排出される温室効果ガス温室効果ガスは20.1%は中共。米国は17.9%で世界の排出量の38%を占める。中共では車の排気ガスやPM2.5の影響で年間200万人が亡くなっているというし、30年までの9年間は問題外らしい(笑)

 今後規制が実行される間にもCO2とPM2.5の排出量は増え続け、数千万人が犠牲となるという問題点を看過した「パリ協定」というのもマヌケ過ぎる。

 温室ガスを垂れ流す米中が温暖化防止に取り組めば環境も大きく変わるだろうというのは短絡過ぎ。2030年まで中共は自国の発展、利益追求の為にCO2は出したい放題ということを米国や諸外国が容認しているというのも笑える。

 見方を変えれば2030年までにCO2やPM2.5で数千万人が死ぬことに合意し容認したという見方も出来る訳で、自国民を犠牲にして利潤追求に狂奔し、世界に悪害を撒き散らすことを容認したこんなふざけた合意が何処にあろうか。

 中共は共産党一党独裁で共産主義を崇めているが、利潤追求の方法が共産主義の労働価値観に矛盾しているし、米中が合意し批准したのだから「過去の地球の温暖化なんぞ関係ない」という理屈は些か乱暴で怪しからん話しではないか。

 地球上の二酸化炭素排出の殆どは海からで、人類が出すCO2は僅か3%に過ぎない。温暖化は人間が進化の上で及ぼしたというより自然の摂理であり、地球という星の寿命とも考えられる。温暖化という天譴を防ぐのは人間の智慧と覚悟次第。  

 米国のスリーマイル島、チェルノブイリ、東海村の放射線事故が起き、原発の廃止や削減が相次いだが、2006年に米国はそれまでの反原発政策を転換して、国際原子力パートナーシップ(GNEP)を策定して、原発推進を決定した。

 GNEPは、第一次安倍内閣の時にオバマ大統領に提案したものの、オバマが余り積極的ではなかったが、その原発推進という方向性自体は間違ってはいない。

 中共は電気自動車に力を注ぐと同時に、2030年迄に原発を300基に増設する計画を立てている。「原発技術で世界を制することが世界を制することだ」と訴えた鄧小平の確信を継承しているのだが、我が国はマヌケなことにその逆を目指している。

 反原発派は東京電力福島第一原発事故を利用して原発の安全性に疑問を呈し、彼奴の非科学的感情論に煽られた国民の異常とも言える放射線への拒否反応で原発再稼働が停滞し、新規原発の増設は実質的に不可能となってしまった。

 原発行政見直しの大きな理由はCO2削減と地球温暖化対策であるのは言うまでもない。原発の安全性の向上は当然だが、原発は発電コストを考えても安価で済むし、使用済み燃料再利用技術を向上させることで更にコストは軽減される。

 東日本大震災が起きたことで我が国は「脱原発」の流れになっているが、地球規模で考えても、エネルギー資源に乏しい我が国の将来を考えた場合、やはり日本製の安全性を高めた原発を推進し、輸出して行くことこそ国益に適う。

 中共は南シナ海に建設した人工島に原発を設置する計画をしているのは周知の通り。だが、万が一にも御粗末なこの中国製の原発が人工島に設置され、それが事故でも起こすことになれば温室効果ガスどころの騒ぎではないだろう。

 温室効果ガス削減という怪しい世論に迎合したパフォーマンスは実に胡散臭げで、二大元凶ともいえる米中の合意は実に怪しげでもある。過去を振り返ってみてもアジア動乱の原因は、米国と共産主義だったことは歴史が証明するところだ。

 20世紀は正に「自由と平等」の名の下にプロレタリア独裁を標榜する共産主義が猛威を振るった。第二次世界大戦の混乱後、キリスト教徒の望んだ中国共産党が世界の脅威となっていることをしても理解出来るというものだろう。

 こうした過去を見るまでもなく、米中の二大元凶による政策合意はアジアに更なる不幸を齎すものであると断言して好かろう。況してや武漢ウイルスを撒き散らした中共が、世界の主導権を握ろうとは言語道断。米中共に警戒を疎かにしてならない。

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2021年04月23日

つれづれなるまゝにその日ぐらし 「素直な心は母心」

 どうも未だ人間が出来ていない。30年間右翼活動家としてそれなりに戦って来たからだろうか、還暦過ぎても相手に対する物言いが刺々しくてダメだ。自分でも分かってはいるのだが、どうも相手に優しく諭す様には言えない(笑)

「人に意見してその人の欠点を直す」ことは大切なことであり、それは慈悲の心とも言える。「意見の仕方には骨を折る必要がある」と「葉隠」では訓えている。

 大方の人は、人に好まれない言い難い事を言ってやるのが親切の様に思い、それが受け入れられなければ、自分の力が足りなかったと自責の念に駆られる。

 だが、こうしたやり方は何ら役に立たないという。「意見とは間違えば悪戯に人に恥をかかせ、悪口を言うだけの事と同じ結果になってしまう」と教えている。

「意見」というものは先ず、その相手がその意見を受け入れられるかどうかを見極めることが必要だという。その為には先ずは相手と親しくなり、何時でも此方を信用する様な状態で仕向けるところから始めなければならないという。

 意見するにも言い方なども工夫し、時節を考え、自分の失敗談等を話しながら、余計なことを言わなくても思い当たる様に仕向けるのが最良だというのだ。

 先ずは、相手の良い処を褒めて気分を引き立てる様に心を砕き、そうした上で欠点を直していくというのが本当の「意見」というものだという。

 歌舞伎の十四代目 守田勘弥の芸談に意見の仕方に関するこういう逸話がある。ある時、勘弥が「弥次喜多(やじきた)」の出番で、楽屋の揚幕の方へ行きかけたら、弟子の一人が、「師匠、草鞋の紐が緩んでいます」と注意したという。

 すると彼は、「ありがとう」と礼を言って、紐をしっかり結び直した。さて、揚幕の前に来ると、また紐を解いて、注意される前の様に緩く結び直したという。

 緩く結んだのは長旅の様子を出そうとする芸の細かさ。一流の役者というのはこうした仕草一つでも流石に違うと感心する。だが、それだけなら未だ普通の出来事。

 こうした弟子との遣り取りを見ていた人が、「どうしてあの楽屋を出た時に、貴方の弟子に『おまえらも未だ芝居を知らないな。これは長旅の様子を出す為にしているのだよ』と教えてやったら好いじゃありませんか」と言ったそうだ。

 そうした意見に勧弥は、「人の親切は、素直に受けとくもんだ。もし、わしがあの時、若い者を叱ったらどうなる。あの時はそうであっても、そうでない時だってある。背中に綻びのある羽織を着て舞台に出ようとした時、(あ、これも師匠の演出かも知れない。余計なことを言ってまた叱られる)と黙っていれば、わしは綻びのまま舞台に出てしまうことになる。芸事を教えることは幾らでも機会がある。この場合は、人の親切は受け取ってあげることが大事だからね」と答えたという。

 ん~、実に良い話ではないか。この世の中がどんなに捻くれていようと、相手の好かれと思った意見を受け容れる素直な心は人間として生きる上での根本だろう。

 悲しい映画やドラマを見て泣き、涙を流す。寄席で落語を聞きながらその話しっぷりに笑う。喜怒哀楽というこうした感情も一つの素直な心と言えるのだろう。

 他人の目を気にするばかりに身構えて自分を曝け出さず、隠し通すことが当たり前の今の世の中だが、それは見方を変えれば素直な心が失われている結果でもある。

 自然をもっと大切にし、初心に帰って生きる。悲しい時には泣き、嬉しければ笑い、怒るべき時には本気で怒る。但し、怒る時は深い慈愛を込めて行うべし。

 今どき、この怒るべき時に怒る、叱ってくれる大人が少なくなったのは、子供や若者にとっては不幸とも言えるのだ。そういや、実家でのオヤジの13回忌に、酔いに任せて意見という憤懣を実兄にぶつけてやったのを思い出す(笑)

 酔ってても言ったことに間違いはない。実兄への長幼の序が乏しいだけか。実兄も実兄で、兄としての意地があるのか愚生の意見を全否定してたのはいつものこと。まぁ、単なる兄弟喧嘩だが、母親が闘病中で同席してなかったのが幸いだった。

 実兄の長男は大学を出て上場企業に就職した。その甥が突然「整体師になる」と会社を辞めたという。別に一身上の都合で辞めるのは好い。だが、親なら「今の会社で働いて貯めたカネで夢を追え!」と叱るべきだった思っている。

 社会人になってから親に無心したり、そうした軽挙妄動を諌めることなく同意する親も親だと思ったからだ。福島県相馬市の大聖寺の住職、暁仙が昭和3年に書き残したとされる「親父の小言」の中に、「子のいうこと八九きくな」と在る。

 そんな甥だが、整体師の世界で一流を目指すなら国士舘大学の後輩で有名トレーナーがいるので、そこで修業させてやろうかと思っていたのだが、そんな親切心は無駄だった。修業どころか学校を卒業したと思ったら自分の店を持った(笑)

 マッサージ業界も今や乱立し、熾烈なダンピングが行われていて生き残るには大変だろう。「満つれば虧(か)く」というが、盛りに達すれば必ず衰え始めるのは常だ。物事には必ず盛衰があり、整体師の業界も淘汰されるのは必至だろう。

 甥っ子を見ても学生時代に世話になった人へ挨拶も何も無し。義理に欠けるのは男として決定的にダメだと思う。本当に大人としてやって行けるのか心配にもなるが、「意見」されるのが嫌なのだろうか、当然、愚生のとこには寄り付かない(笑)

 そういや「親父の小言」には「大酒は呑むな」ってのがあったのをすっかり忘れてたな。酒の呑み過ぎは日常茶飯事。酒での失敗は数知れず。酒で覚えることは多いというが、未だ失敗だらけ。つ~か、それってダメじゃん。呵呵。

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2021年04月21日

日米首脳会談の共同声明で「台湾」を明記した意義

 我が国は日中国交恢復以来、台湾(中華民国)を国家として認めていないが、日米首脳会談の共同声明で「台湾」を明記したことは評価に値する。米国も第二次大戦後の国共戦で勝利した中華人民共和国を戦勝国として常任理事国入りを承認。

 昭和47(1972)年9月29日、我が国は「日中共同声明」に調印。代表である田中角栄は中国共産党を唯一の政府であると認め、主権回復した昭和28(1953)年4月28日に締結した国際法規である「日華国交条約」を一方的に破棄した。

 これを受け、中華民国は直ちに我が国との国交を断絶。我が国が台湾を国家として認めていないのは我が国の国際条約の蹂躙が原因であり、主権国家として実に恥ずべきことで、道義国家として断じて赦されるものではない。

「日華国交条約」を破棄は、大東亜戦争終戦間際に「日ソ中立条約」を一方的に蹂躙したロシアの蛮行と同じであり、道義国家日本が失墜した象徴でもある。

「日華国交条約」の破棄は明らかな日本国憲法98条違反なのだが、首相に由る公然の憲法蹂躙に対して護憲派からもマスコミからも糾弾されたことは一度もない。

 田中は更に「先の大戦で中国国民に重大な損害を与えたことに、責任を痛感し、深く反省する」と詭弁を弄した。だが、我が国が先の大戦で戦ったのは「中華民国」であり、戦後4年も経って建国した「中華人民共和国」ではない。

 田中が幾ら詭弁を弄そうとも、先の大戦での賠償は「日華国交条約」締結を以て終わっているのだ。田中のこうした誤ちと歴史認識が容共派を生み、現在でも悪しき前例となり受け継がれ、中共への様々な優遇措置が講じられている。

「河野談話」や「村山談話」を糾弾する声はあるが、抑々、我が国の土下座外交と自虐的歴史認識は田中角栄の「日中共同宣言」が元凶と言っても過言ではない。

 多くの国民は親中派と同じく、日本と支那との関係を「一衣帯水」だとか、「古くからの隣人」などと心得違いをしているが、日中間に国交関係が樹立されたのは20世紀に入ってからで、未だ100年程しか経っていない関係である。

 況してや、共産党一党独裁の中華人民共和国との国交は50年も経っておらず、我が国と戦争もしていない中共が戦勝国として国連の常任理事国に就いていることが摩訶不思議なこと。本来、戦勝国は中華民国であり、つまり台湾であるのだ。

 親中派は日中友好を進める理由として「日中は同文同種、一衣帯水の関係」との認識を示す。だが、この認識は全くの誤りであり無知以外の何ものでもないが、こうした認識こそが中国共産党の策謀に嵌っている証左の一つでもある。

 607年、聖徳太子は小野妹子を隋に派遣し、隋との対等外交に踏み切った。後に、蘇我氏を滅ぼした中大兄皇子らが645年に「大化の改新」を実現する。

 天智2(663)年、唐・新羅連合軍に攻撃された百済は日本に救援を求めると、我が国はこれに応じ出兵。世にいう「白村江の戦い」である。日本軍はこの海戦で大敗を喫し、この敗戦を機に我が国は中華圏との正式な外交を絶つこととなった。

 白村江の海戦で大敗を喫し、生き残った者は捕虜となった。その中の一人、大伴部博麻は「唐が日本を攻める」という情報を得るも日本に知らせる術もなく、自らを奴隷に売って金を作り仲間を帰国させこの唐に因る侵略の危機を知らせた。

 これが持統4(689)年の事であり、その後、博麻が帰国したのは白村江の戦いから何と30年後のことだった。帰国後、持統天皇が博麻の功を顕彰する。

【朕 その朝を尊び国を愛ひて 己を売りて忠を顕すことを嘉ぶ】(日本書紀)

 これが「愛国」という言葉の由来であり、軽々しく日の丸を掲げて「反韓」だとか「反中」だとか、勇ましい行動を採ることが愛国というものではない。

 我が国が国書を携えて派遣したのは「倭国」としてであり、「日本」と名乗ってからは一度足りとも正式な国書を携えた外交はなく、親中派の「一衣帯水」「同文同種」という認識は実に軽々しいものと言わざるを得ない。

 明治4(1871)年に「日清修好条規」を結んだ相手は満州人の清朝であり、支那を支配していたが漢民族の国ではなかった為に、支那との正式な外交は、明治45(1915)年の「中華民国」誕生まで待たなければならなかったのだ。

 中華民国である台湾は中国の一部ではない。台湾は独立国である。国共戦争で敗れた国民党が台湾へ入植した訳だが、歴史を辿れば台湾は日清戦争の戦利品として我が国が割譲された領土である。そうしたことからも日台関係こそ一衣帯水であろう。

 日本の統治時代について日韓併合を論う韓国とは大違いで、台湾の歴史教育は実に公正に教えており、「台湾の近代化にかなり役に立った」という論調で書かれている。インフラのみならず、教育までも日本と全く同じレベルに徹底されている。

 台湾には「日本精神(リップンチェンシン)」という言葉がある。「勤勉である」「約束は破らない」「人を裏切らない」、こういう人を「あいつは、日本精神があるヤツだ」というらしいが、日本人として恥ずかしいやら申し訳ないやら。

 台湾には「信義誠実の原則」という、我々日本人が忘れてしまった日本的価値観の美徳が連綿と生きている。親日国である台湾との友好を深めることは我が国の国益にも適う。日華国交条約の蹂躙を詫び、日台国交の恢復を成し遂げよう。

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2021年04月20日

若者が行動しないのは政治がまともに機能しているということなのか(笑)

 拙ブログのタイトルの下に「我が民族の将来と国家の前途を思うは人間の最も真剣なる感情であり、君国に忠、親に孝なるは最も現実なる道徳である。之を離れては人類愛も世界的正義も空想に過ぎない」との、哲学者西晋一郎の言葉を載せている。

 ネットでは政治を憂いて結論の出ない争いをしている一方で、若者の政治離れが顕著になっている。過日行われた地元の市長選での投票率が低いのも若者が行動しない結果でもある。家族を愛し、故郷を愛し、祖国を愛することこそ政治の根本である。

 若者が選挙権を棄権することは権利の放棄であり、その結果の悪政が自分自身に降り懸かろうとも文句を言える立場ではない。だが、本来、政治というものがきちんと機能していれば、若者を始めとした大衆が政治に係わることなどないものだ。

「胃痛の時に初めて胃の存在が意識されると同様に、政治なんてものは、立派に動いていれば、存在を意識される筈のものではなく、況して食卓の話題なんかになるべきものではない。政治家がちゃんと政治をしていれば、鍛冶屋はちゃんと鍛冶屋の仕事に専念していられるのである」との三島由紀夫の言葉は実に正鵠を射てる。

 そういう意味では、若者が行動しないのは、政治がまともに機能しているということなのだろう。一方で、ネットでは自分が然も政治家になったつもりで時局に一喜一憂し、あ~だこ~だと嘆いてることは真逆の現象でもある(笑)

 我が民族の将来と国家の前途を思い、政治を糺すのは大いに結構な心掛けだが、政治や選挙の仕組み、マスコミの報道姿勢が旧態依然なのだから変わり様がない。

 抑々、公職選挙法自体が昭和時代の遺物という代物であり、インターネットでの選挙活動が解禁された情報化社会の現代に於いて、「何の誰兵衛でございます」と選挙カーのマイクで訴える選挙運動が政策実行の効果的な方法だとは思えない。

 その昔は、選挙に出馬となると選挙カー代やらポスター代、文書交通費、光熱費やその他諸諸のカネが必要だったが、今やそうした選挙の経費は殆どが自治体が支払う。今や、国民が納めた血税が選挙の度に垂れ流されているのが実情である。

 そろそろ、地区対抗戦的な選挙カーでの選挙合戦を止めて、候補者が各地区を一緒に回り、公民館や体育館、集会所などで立会演説会をすれば好いではないか。何故、そんなことが出来ないのか。原因は公職選挙法で禁止されているからだ。

 公職選挙法では、選挙カーでの移動中は名前の連呼しか叫べないと決められている。立会演説会には立候補届け出の時に頂く粗末な許可証と幟を立てなければならないと決められている。それを一般人ではなく動員された連中が聞き入るだけ。

 日本共産党は、選挙期間中に選挙カーで政権批判や消費税廃止などを訴えているがこうしたことは本来ならば公職選挙法違反に問われる事案だが、規制されたことはない。要は、公職選挙法は最早、有名無実化してしまっているのだ。

 明治22年「衆議院選挙法」が制定され、翌年、日本で初めて国会議員の選挙が行われた。選挙権は直接国税15円以上で満25歳以上の男性に与えられた。

 大正15年には納税額は関係なく25歳以上の男性に与えられることとなる。敗戦後、占領下だった昭和25年に「公職選挙法」が制定され、20歳以上の女性にも選挙権が与えられることとなった。平成27年には、満18歳以上の男女が選挙権を持つ。

 男女平等から戦後の公職選挙法は誕生したが、女性への選挙権付与で世の中が大きく変わって行く。男女同権は兎も角、納税額は必要なのではあるまいか。

 況してや高校生に選挙権は要らない、18歳以上の働いてる男女に与えるべきだ。愚生の場合、酒税は一般人より支払ってるが、所得税や市県民税は支払ってはいない。そんな無職の右翼風情に選挙権を与える必要も無いだろう(笑)

 今回の公職選挙法違反事件を教訓に選挙方法の在り方を論じ、血税が垂れ流され続ける古臭い今の選挙運動そのものを廃止するべきだ。選挙方法が変われば、政治も政策論争中心となり、有権者の選択肢も増えるというもの。

 つ~か、余談だが、選挙カーに乗る「ウグイス嬢」は「車上運動員」と言わなきゃならないらしい。「看護婦」を「看護師」、「婦人警官」は「女性警察官」、「子供」は「子ども」と、男女共同参画社会ってのは単なる言葉遊びでしかない。

 今や、男女共同参画社会は国中に悪害を齎し共産党用語が氾濫し、「外国人地方参政権付与」「住民基本法案」「夫婦別姓法案」「戸籍制度廃止法案」「人権救済法案」「女性天皇論」「女性宮家」などなど、カタチを変えた共産主義が次々と企画され行政権に入り込み、また連結され様としている。

 男女共同参画社会とは、国民の共同参画というより「共参社会」というのが正しく、カタチを変えた「共産社会」の実現が着々と実行されているのだが、こうした愚策に対して異を唱えるには公職選挙法の是正と改正が必要不可欠となる。

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2021年04月08日

福島第一原発周辺に貯まり続ける処理水の処分方法は海洋放出しかない

 福島第一原発周辺に貯まり続ける処理水の処分を巡り、菅総理は「専門家の提言を踏まえて決定したい」と述べた上で海洋放出とする方向性を示した。

 反原発派や海洋放出に反対する勢力は「国民への説明不足」と騒ぐが、何をするにしても全国民の同意を得ることは困難であり、政治家の決断こそ大事。

 処分方法さえ決定していないことは、核のゴミの処分地を決められないことと同じく政治の怠慢であり、処分方法の全国的議論は問題の先延ばしに過ぎない。

 処理方法は海洋放出しかない。福島第一原発周辺に貯まり続ける処理水の海洋放出は住民の反対を理由に中断されていたが、漸く海洋放出を決断した様だ。

 人体に何ら影響もしていないセシウムの700分の1程度に過ぎないトリチウムの放射線に怯えるというのは如何だろう。これこそ感情論の何ものでもない。

 感情論で行われた除染は、住民の安心より「フクシマは除染をしないと住めない町」との風評を生んだ。トリチウム水の海洋放出は世界の常識。我が県を含めて何処に放出するかであって、処理水の開票放出を受け容れる都道府県を探すべきだ。

 原子力規制委員会の進言通り、海洋放出を決定した上で海洋放出する候補地選定をどうするかだ。そういう意味からも感情論を排し、「福島県沖ありきではなく、人体に影響が無い処理水を全国の何処に放出したら好いか」を議論すべきだと思う。

 原発周辺に更なるタンクを増設で問題を先送りしても根本的な解決は図れない。処理水の海洋放出を決定した上で、処理水に含むトリチウムの科学的データを示し、海洋放出は人体には全く影響のないことを周知するべきだろう。

 福島県沖への放出は人体的影響は問題は無いが、風評被害が怖いというのは理解出来る。住民の安心から進められた除染は「福島は除染をしないと住めない町」とのレッテルを貼られた。福島県沖への放出も同じ流言蜚語が飛び交うだろう。

 処理水の海洋放出が決定されれば反原発派らが大騒ぎするのは必至。考えてみれば風評被害を招いているのは反原発派も然ることながら放射線に無理解な県民も同じ。トリチウムの何たるかを知らず「トリチウムを含んだ処理水」などと騒ぎ過ぎ。

 全国漁業協同組合連合会(全漁連)と福島県水産加工業連合会が「深刻な影響が出る」「漁業を守らなければならない」などとして海洋放出に反対したが、こういう連中こそが自ら風評被害を招いているという自覚さえ無い。

 国内のみならず原発が稼働している場所では処理水は放出されている。福島原発も事故前は海に放出しており、周辺は人気の釣り場にもなっていた。福島第一周辺に貯まり続ける処理水だけが問題にされているのは福島差別ではないのか。

 不安を煽るだけのマスコミと反原発派の感情論にはもううんざりだ。政府は科学的データを公表し、核のゴミ(高レベル放射性廃棄物)の最終処分場選定と同じく、補償や地方交付税の増額等を示して放出先を応募すべきだと思う。

 状況からして福島県沖がベストだろう。「更なる福島への風評被害を生ませない」というのなら、粛々と海洋放出してしまえば好い。「人の噂も七十五日」ではないが、放出後に日々のデータを公表すれば反原発派の罵声は日々薄まる(笑)

 原発設置県として最悪の事故が起きてしまった以上、最後まで責任を持つべきだが、「県民の声を大切にして欲しい」なんて言ってるから事が進まない。政治家は、大衆の意見とは違う決断が時には必要であるということを痛感する。

 処理水問題は、福島県以外の数県が名乗り出てくれれば容易に解決出来るのだが、そうした決断を出来る知事が果たしているかどうかといえばそれも疑問。

 以前、松井一郎大阪市長が大阪湾受け入れを示唆したが立ち消えになってしまった。福島原発が主に首都圏の電源だったことをすれば東京なども候補地に名乗りを上げるべきだろう。福島県一県だから福島だけが貧乏籤を引くことになる。

 2020年東京オリンピック委員会の総会に於いて、安倍前首相は「(処理水問題の状況は)完全にコントロール出来ている」と大見得を切ったことは記憶に新しい。処理水問題は、我が国の首相が公約した国際的な約束事でもあるのだ。

 処理水の海洋放出は一歩間違えば国際的な問題に成り兼ねず、オリンピック終了までは断念せざるを得ないだろう。ここに来て東京オリンピックが1年延期されたが、処理水の海洋放出を断念しタンクの増設で事を濁してはならない。

 以前、建屋屋上へ溜まってた雨水40兆Bq/Lが流出したと大騒ぎになった。4京ではなく40兆Bq/Lで年間にすれば20兆Bq/L。汚染水にはストロンチウムやトリチウムが確認されているが、数値の高さに驚くが人体に影響が出る数値ではない。

 世界基準では、地下水バイパスやサブドレンの放出濃度運用目標は1500Bq/Lと定められている。これをトリチウム水の質量濃度に換算してみると、約2.8×10のマイナス14乗、つまり百兆分の2.8Bq/Lという極めて低い濃度となる。

 ppm(百万分率を表す単位で100万分のいくらであるかという割合を示す数値)や、ppb(10億分のいくらであるかという割合を示す数値)、ppt(1兆分のいくらであるかという割合を示す数値)にも至らないレベルということ。

 現在、世界各国の原発施設から海へ放出されているサブドレン/地下水ドレンのトリチウムは1000Bq/L以下、地下水バイパスでは100~150Bq/L程度。1F港湾内外のトリチウムは検出限界(約2.0Bq/L)以下とのデータが出ている。

 堰内に溜まった雨水(堰内の汚染も含む)も、検出限界(約100Bq/L)以下で、 これらを質量の濃度に換算すると千兆分の1~十京分の1となる。

 仰々しい数値だが、原発周辺に貯まり続ける処理水の数値は気化されたものもあり数値は低い。セシウムの700分の1程度に過ぎないトリチウムの放射線に怯える必要は無い。風評という雑音は直ぐ消える。粛々と海洋放出を実行せよ。呵呵。

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2021年04月04日

我が母校でもある国士舘の「読書」「体験」「反省」「思索」の教え

 読書量を自慢し、本棚に並ぶ本の多さに悦に入ってる人がいる。斯くいう愚生も、若い時分にはそういうこともあった様にも思うが、その多くを処分してしまった。押し入れには処分してない段ボールに詰めた本が10個程ある(笑)

 読書量を誇ったところで意味はなく、本の中身の感ずる処を書き記し、自ら実践してみることが何より大事である。実践すれば失敗することが多いだろうが、その失敗を反省し、その失敗を次に繋げる糧とすることが貴重なのだ。

 我が母校の国士舘では「誠意」「勤労」「気魄」の他に、「読書」「体験」「反省」「思索」との四徳目の教育指針を示しているが、正しくこのことである。

 保守陣営などからは道徳教育の拡充や戦前の「修身」復活の声も聞こえる。だが、幾ら教えたところで、その教えを実践しなければ単なる画餅に帰すだけ。

「修身」や「教育勅語」に示された道徳教育とは体育の授業と同じで、理論を教えることは大事だが、学んだことを行動に移して実践しなければ意味はない。

 嘗て、明治開国を目指した我が国は「教育立国」として明冶の試練と昭和の国難を乗り越えた。極貧の中から多くの偉人が輩出したのは立派な教育の故であろう。 「坂の上の雲」で、父親が秋山兄弟に苦諌する場面がある。

「好きで貧乏しているのではない。敢えて君等の将来を考えてやっているのだ。昔の偉人や英雄は極貧の中から生まれた。金持ちから偉人や英雄は生まれん」

 教育の原点とは意外とこんな処に在るのではなかろうか。 現在はどうだろうか。国民の勤勉性、家族愛、愛国心、信義誠実の原則は失われ、心の中の高貴なものを失い、高邁さを忘れ、在るのは自己中心性の欲望だけだ。

 高邁な魂を喪失した日本国民に最も大事なものは教育の再生しかない。将来の祖国日本を担う子供達への教育を如何に充実させるかが肝要。保守派や愛国陣営が道徳教育や「修身」復活を願うなら、先ずは自らが実践して模範を示すことだ。

 修身には「おたけがめくらのてをひいて」との一節がある。少女が目の不自由な人の手を引いてやるシーンだ。だが、「めくら」は差別用語とされ、放送禁止用語。こうしたことを見ても「修身」復活は言うには容易いが導は無理だわな(笑)

 愚生は映画が好きで年間に少なくても200本以上は観てる。「座頭市」や「眠狂四郎」とか、古い映画ってのは放送禁止用語が飛び交ってて実に面白い。

 盲(めくら)、唖(おし)、吃(ども)り、跛(びっこ)、聾(つんぼ)なんてのは日常会話の様にしょっちゅう飛び交う。古い映画や古典落語には差別用語だけではなく、懐かしくも美しい日本語が溢れていて、実に実践した教育でもある。

「憚(はばか)り様でした」(ご苦労様です。恐れ入ります)
「傍杖(そばづえ)を食う」(思わぬ災難に遭う)
「荷が勝つ」(責任・負担が重過ぎる)
「武士は相身互(あいみたが)い」(同じ立場の者は助け合うべし)
「罪業(ざいごう)の深さ」(罪の原因となる行為)
「浮世(うきよ)に拗(すねる」(世の中に逆らう)
「卒爾(そつじながら」(人に声をかける時に言う語)
「阿漕(あこぎ)な奴」(しつこくずうずうしい)
「お為倒し(おためごかし)」(相手の為といいながら、自分の利益を図ること)
「朝未(あさま)だき」(夜の明けきらない頃)
「足元から鳥が立つ」(思いがけないことが起こる)

 こうした言葉を挙げれば限がないが、余り馴染みのない言葉や台詞が出て来るが、こうしたことを気にしながら、観たり聴いたりするのは実に楽しいものだ。

 こうした難解な言葉を四六時中考え、気にして見聞きしている訳ではない。因みに「四六時中」という言葉も、昔は「二六時中」と言ってたそうだ。

 一日を十二刻(昼六時、夜六時)に分けていた時代には「二六時中」だったという。現代の様に二十四時間になって「四六時中」に変わったというから面白い。

 言葉は移ろうものだが、古の日本人のどういう職業の人がどういう風に使っているのかを知れば、また違った世界を知ることが出来るというものだろう。

 道徳教育や歴史教育は大事であるのは言うまでもないが、その前に美しい日本語を教えることこそ肝要である。英語というのはバチカンでは「穢れた言葉」だった。そう考えれば、英語なんていう田舎言葉を教えてる場合じゃないぞ(笑)

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2021年04月03日

直きを友とし 真を友とし 多聞を友とするは益なり!

「朋あり遠方より来たる。また楽しからずや」。親しい友とはかけがえのないものであり、「人生は邂逅の一言に尽きる」というが、人生の中で得た多生の縁を意気に感じつつ気の置けない友人と一献しながらの語らいほど愉しいものはない。

 然し、親しいからといって近づき過ぎると礼を失することになるし、かといって距離を取り過ぎれば余所余所しくなる。剣道などの武道でもそうだが、人間関係に於いても同じ様に程好い間合いというのが大事となる。

 支那南北朝時代末期の学者で、子孫に対して学問の重要性を説いた願之推(がんしすい)は、「優れた人物を友に持てば、長い間には自分もまた香気を放つ人物になるもので、友人との交際は慎重でありたい」と訓えている。

 自分より優れた人達との交際や交流が、自分自身を成長させる上で役に立つということ。要は、「己に如かざる者を友人とする勿れ」と言う様に、自らを向上させる為には自分より劣った者は友人として交わらない方が好いということ。

 そうした上で自らが香気を放てる立場になったなら、その能力を惜しみなく分け与えることが大事。孔子は「益者三友、損者三友」、つまり「直(なお)きを友とし、真(まこと)を友とし、多聞(たもん)を友とするは益なり」と訓える。

 益者とは「剛直な人」「誠実な人」「教養のある人」であり、損者とは「易きに付く人」「人当たりばかり良い人」「口先だけ巧い人」などをいう。

 見聞に長け教養のある人と交わることは有益であるが、その反対に、媚び諂い、易きに付く人、人当たりばかり良い人、口先だけの人を友とすることは有害なもの。だが、為にならない人も反面教師として見れば役に立つ場合もあるが(笑)

 確かに、自分に諂う様な人物を友としても何の役にも立たないことはよく知っていても、人というのは兎角、自分の短所や欠点を注意されることよりも、何やかんやと御世辞をいう、諂う友(人)を周りに置きたがるものだ。

 だから孔子は「良薬口に苦けれども病に利あり、忠言、耳に逆らえども、行に利あり」とも喩えている。こうした考え方は間違いではないが、如何せん、そういう立派な友などそうそうはいないのではなかろうか。皆、「朱に交われば赤くなる」の喩え通り、似た者同士が集まってしまうのも世の常というものだろう(笑)

 実社会の人間模様を見渡せば、善友、必ずしも善友ではなく、悪友、必ずしも悪友とは限らない。「毒を以て毒を制す」ではないが、悪友の方が、結果として善友以上の働きを示すことの方が多いのも確かだろう。

 分かり易く喩えれば、畳にこぼれた水を拭き取るには、乾いたタオルでは綺麗に拭き取れない。タオルを充分に水に浸し、これをキリリと絞り上げてから使うのがいい。タオルの水気が畳の水を綺麗に吸い上げるのだ。

 新しいタオルが水を吸わないのと一緒で、日頃からキレイゴトを言ってるヤツなどは、いざという時にはクソの役にも立たないものだ(笑)

 そんな上辺だけの者より、共に笑い、共に泣き、ある時は共に悪い遊びをした様な友達の方がいざという時は親身になって心配してもくれるし心強い。

 今どきのマスコミが垂れ流す安っぽい風潮に流され、請け売りの政治学を偉そうに語るヤツより、そんな政治のことは全く分からなくても、酒を愛し、趣味や惚れた女やスケベな話しを自慢顔で話してるヤツの方が信用出来るというもの(笑)

 相手の主体性を重んじることを「君子の交わり」というが、「君子の交わりは淡きこと水の如し、小人の交わりは甘きこと醴の如し」という言葉もある。

 物事をよく弁えた人の付き合いというものは水の様に自然なものなのであるが、つまらぬ小人物の交際というのは、まるで甘酒の様にベタべタした関係であり、一時的には濃密のように見えても、長続きせず、破綻を招き易いものでもある。

 facebookなどでの遣り取りを見ているとキレイゴトを並べ、ベタベタとした上辺だけのコメントが実に多い。互いに抑揚を抑え、大人の遣り取りをしているつもりなのだろうが、そんな付き合いなどに意味があるとは思えない。

「巧言令色鮮矣仁(こうげんれいしょくすくなしじん)」という訓えの通り、言葉巧みで、人から好かれようと愛想を振りまく者には、誠実な人間が少なく、人として最も大事な徳である「仁」の心が欠けているものだ。

 斯くいう愚生も、「巧言」というのは無きにしも非ずだが、「令色」に至っては、相手に気に入られようと機嫌を取ったり、笑顔を振りまく様なことはない。

 愚生の経験上、「女は愛嬌」というが、いつもニコニコと愛想を振りまいて笑顔を見せてる男にロクなヤツはおらず、根が性悪なのが少なくない。

 選挙の時だけニコニコと笑顔を見せて握手してる政治家もそうだが、「笑うと目が無くなる男には気を付けろ!」というのは強ち間違いではない(笑)

「巧言令色鮮矣仁」の言葉の対語は「剛毅木訥近仁(こうきぼくとつじんにちかし)」という。その意味は、意思が強く強固で、素朴で口数が少ない人物が、道徳の理想である「仁」に最も近い者であるということ。

 愚生は剛毅さはあると自負するが、右翼人というのは「よく読み・よく書き・よく喋る」という三拍子が必要不可欠で、そこに「よく呑む」が加われば最強。人から好かれ様とは思わないが、「巧言」というのは無きにしに非ず。呵々

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