2021年03月

2021年03月28日

原発事故の混乱を招いた菅直人の逮捕と民主党政権の総括を

 朝日新聞福島総局の小手川太朗記者の「かつて『原発事故で死亡者は出ていない』と発言した政治家がいたが、実際は全く違った。原発から4.5キロの双葉病院では、自衛隊や警察が放射性物質に阻まれて救出活動ができず、約50人が衰弱して亡くなった。当時の記憶を訪ね歩きました」との取材記事を読んでみた。

「原発事故で死亡者は出ていない」と発言した高市早苗のことを暗に批判してるが、高市は「原発事故の放射線で亡くなった人はいない」と言っただけ。高市が批判された当時もそうだが、感情剥き出しの世論の摩り替えでしかなかった。

 双葉病院の患者50人が衰弱死したのは「自衛隊や警察が放射性物質に阻まれて救出活動が出来なかった」のが原因だとしている。死亡人数は50人ではなく、双葉病院だけではなく介護施設「ドーヴィル双葉」の患者を含めて44名ではないのか。

 東京電力福島第一原発事故の刑事責任を巡り、業務上過失致死傷で強制起訴された東電旧経営陣3名に対し、東京地裁は無罪の判決を言い渡したのは記憶に新しい。反原発派らは「原発行政に忖度した不当判決」と喚いたが、無罪判決は当然だろう。

 東電幹部への強制起訴は「大津波を予見出来たのか?」ということが争点になっているが、双葉病院の患者ら44人を死亡させたとして業務上過失致死傷罪で強制したことに始まる。だが、この患者死亡の原因は民主党政権の避難指示に在る。

 起訴内容では、原発事故で避難を余儀なくされた双葉病院の患者や介護老人施設「ドーヴィル双葉」の入所者44名の死亡の責任を問われているが、死因は民主党政権下での「20キロ圏内」という科学的データを無視した愚策に因るもの。

 移動困難な、動かしてはいけない重篤な患者に移動を強いた責任者は、東電元幹部らではなく当時の首相であり災害対策本部長だった菅直人である。朝日新聞の偏向報道やデマはに事情茶飯事だが、この小手川記者も何かを況や。

 地震発生時、国会では菅直人の外国人からの不法献金が追及されていた。辞任已む無しの状況下で東日本大震災が起きた。菅は不法献金を有耶無耶にしようと、現場視察というパフォーマンスに出た。この軽挙妄動が禍根を遺すこととなる。

 東日本大震災当日から炉心溶融という「最悪のシナリオ」を予測していながら、菅直人自らが強く望んだ現地視察に因って、事故拡大防止の為に採るべき第二第三の矢を放つのが遅れてしまったことは決して見逃せない事実である。

 政府関係者は「首相を被曝させない」ことを優先する余り、1号機の炉圧を低下させる為の「ベント」と呼ばれる応急措置が遅れてしまった。この現場視察という菅の軽挙妄動こそが原発事故の現場の対応に要らぬ混乱を招き被害が拡大したのだ。

 菅直人こそ業務上過失致死傷罪で逮捕され刑務所に送り込まねばならない大悪党であり、菅が強制起訴されない裁判に意味は無い。 「自衛隊や警察が放射性物質に阻まれて救出活動が出来なかった」のであれば批判すべきは民主党政権だろう。

 東日本大震災時、民主党政権は「SPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)」の数値を隠蔽し、科学的根拠の無い「原発周辺20キロ圏内」という避難指示を下した。このSPEEDIの隠蔽が後々屋上屋を架すこととなる。

 双葉病院やドーヴィル双葉周辺は放射線量は低い地域だった。避難指示を解除し治療を優先すべきだったにも拘らず、発令した「原発周辺20キロ圏内」に拘泥して強制的に避難させてしまったことで重篤だった患者が死亡したというのが真相。

 東電旧経営陣らを庇うつもりは毛頭ないが、当時の最高責任者であり、混乱と更なる被害の拡大を生んだ菅直人が逮捕もされず、批判もされないことに正義が在るとも思えない。強制起訴までして旧経営陣のみを断罪してどうなるというのか。

 未曾有の原発事故は混乱を生んだのは致し方ないとして、事後法の如く「大津波を予見出来なかった責任は重い」だとか批判するよりも、過去の原発行政の功罪を検証し、事故当時の民主党政権下で謀られた多くの愚策の総括をするべきだろう。

 騒がれている処理水問題は何故に早くに海洋放出が出来なかったのか。何より「福島は除染をしなければ住めない土地」と風評を悪化させる原因は除染作業であり、何故に除染が強行されたのか予断なく検証するべきである。

 中間処理施設に運ばれるフレコンバッグは人体に影響を及ぼさない除染で出た単なるゴミ。これに20兆円以上の血税が垂れ流され、更には最終処分場建設という難題が残されている。反原発派の扇動に科学が負けたのはどうしてなのか。

 反原発から原発事故を殊更に論い、その責任論を然も当然であるかの様に振り翳すが、生き残った我々がいつまでも被害者意識丸出しで過去ばかりをふり返っている。だが、いつまでもその場に立ち止まっている訳には参らないのだ。

 今も凄惨な事故現場に於いて命懸けで収束しようと頑張っている方々が存在し、また、この教訓を活かそうと懸命に努力している方々が存在する。

 事故責任を問うのは法治国家では当然であろうが、それよりも大事なことは二度とこの様な「人災」と言われる過ちを繰り返さない為に我々はどうすべきなのか、また未曾有の原発事故の教訓をどう活かすかではあるまいか。

 福島原発事故に限らず、いつか起こるであろう韓国や中共、或いは世界に在る原発事故に対して、福島原発事故の収束技術と正確な科学的データが活かされることこそ、福島のこの地に住み続ける我々の願いでもある。

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2021年03月27日

プロ野球開幕。選手団の靖國神社参拝を熱望する!

 プロ野球が開幕した。その昔は、福島県内ではジャイアンツ戦しかテレビ中継しなかった。ジャイアンツファンというより熱烈的な長嶋茂雄ファンなので、どうしてもジャイアンツの結果が気になる。今年は日本一に返り咲いて欲しいものだ。

 野球が当たり前にやれなかった時代がある。支那事変が勃発し、国内では娯楽というのが消えて行った。プロ野球もその一つだが、野球選手が大好きな野球も出来ずに祖国の為に尊い命を投げ出されていることを国民は知っているだろうか。

 平和を謳歌し、愛する野球をやれるという当たり前のことを再認識する為にもプロ野球選手団は、開幕前に靖國神社に参拝し、犠牲となられ英霊となったプロ野球の先輩方に首を垂れ、顕彰することを熱望しているが未だ実現されることはない。

 参拝することで平和の尊さと、野球がやれる有難さを実感すれば選手としての思いもまた違ってくるだろうし、プロ野球人気も高まることだろう。

 読売ジャイアンツは宮崎キャンプインの際に恒例だった宮崎神宮への参拝を個人の信仰の自由(創価学会員の選手)を優先して取り止めたことは記憶に新しい。必勝祈願でさえ宗教行為と認識してる様では靖國神社への参拝は困難を極める。

 先の大戦で亡くなられたプロ野球選手は、我々が想像している以上に多く、試合の途中で出征した方や、幾度かの戦火を潜り抜けて帰還し、再び出征して終には戦場に斃れた方など、実に69名もおられる。この方々が靖國神社に祀られている。

 散華された英霊の中でも有名なのは、東京巨人軍(読売ジャイアンツ)の澤村榮治投手だろう。澤村投手がどんなに凄い選手かは説明するまでもないが、年間最優秀投手に与えられる「沢村賞」はプロ野球選手の最高の名誉である。

 澤村榮治は野球だけではなく、普段の何事に対しても真摯な態度で挑む人だったらしく、人間としても実に立派な方だったという。「巨人軍の選手たるもの紳士たれ」というのは澤村選手を見習ってのことだろうと思っている。

 背番号「14」は永久欠番となっているが、ベーブルースを三振にしたくらいで永久欠番になる訳はないだろう。プロ野球選手であるが愛国心捨て難く、異国の地で散華されたその崇高な精神を忘れない為のものであることは言うを俟たない。

 名古屋軍(現・中日ドラゴンズ)の石丸進一投手と朝日軍(現・横浜DeNA)の渡邉静内野手は特攻作戦に参加し、沖縄戦で散華されている。

 石丸投手は鹿児島県の海軍鹿屋基地から出撃の直前、最後のキャッチボールをして飛び立ったという。数時間後の死を前にどんな思いでキャッチボールをされたのだろうか、これこそが渾身の悩みであり、その心中を察するに余りある。

 渡邉静選手も同じく鹿屋基地から沖縄へ出撃している。夢見て憧れて入団したプロ野球人生での打席はたった二度しかない。戦争が悲しい現実を彼に与えてしまった。さぞ心残りだったろうが、未来を後輩に託して散華されたのだ。

 彼らは野球への情熱を「特攻」というカタチで尊い命を捧げ、沖縄を、そして祖国日本を死守すべく散華された。プロ野球選手団はそれに応える意味でも開幕前に靖國神社に参拝し、先人の御霊に感謝の誠を捧げるべきだと思う。

 現代の平和は英霊の犠牲の上で成り立っているのだ。自らの命を犠牲にすることで、祖国日本や家族、故郷や友人ら愛するものを守るという彼らの至高の精神を決して忘れてはならない。プロ野球選手団の靖國神社参拝を実現しよう。

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2021年03月26日

「聞くは一時の恥、聞かぬは末代の恥」というが

 愚生のブログのサブタイトルに哲学者・西晋一郎の「我が民族の将来と国家の前途を思うは人間の最も真剣なる感情であり、君国に忠、親に孝なるは最も現実なる道徳である。之を離れては人類愛も世界的正義も空想に過ぎない」と記している。

 西は「教えるとは実に教えられることである」とも教えている。本を読んだり、為になる話を聞いたり、感じた部分を書き留め、それを実際に他人に教えることで自分に足らないものに発見したりする。その気付きが学びに繋がる。

 子育てにしても子供に学び共に成長していくもの。また、教諭が生徒に教えられることもあるだろう。「教えるとは実に教えられることである」とは正しく。

 SNSなどでもアップした記事へ反論や批判に応じることで、新たな発見や理論の形成と自分自身の向上にも繋がるということも少なくなく、意見の対立しがちなSNSと雖も、持ちつ持たれつの関係が成り立っている。

「聞くは一時の恥、聞かぬは末代の恥」という。だが、分からないからと直ぐに「分かりません」とか「分からない」を連発するヤツというのは、説明してやるとその場では頷くが実際には全く理解出来ていない場合が多く時間の無駄となる。

 説明を聞く側も自分で調べた上で「分からない」ことを聞けば好いが、その基本的なことさえも備わっていないのに安易に聞いてくるのは余り感心しない。

 後輩や門下生にもいるが、こっちが話しているのに「分からない」と話の鼻を折るから先に進めない。その場で説明してやっても愛想よく返事するばかりで碌々理解していない。分からないならメモを取り、後で自分で調べれば好いこと。

「分からない」とは稚児だけに許された言葉であって、本来は大人が使う言葉ではないのだが、今では恥ずかしくもなく「ワカンナイ」を連発している。

「三つ心、六つしつけ、九つ言葉、十二文、十五理で末決まる」という金言がある。先達はこうした養育法を実践した。昔の寺子屋は三歳入学。それまでに親は愛情を注ぎつつ、心を自覚させることに重点を置いて育てることを意識した。

 六歳くらいになると善悪の判断を知る年齢になる。そこで「躾」というのが必要となって来る。躾とは「仕付け」とも書くが、着物を縫う時に仮縫いが大事な様に、幼少期の躾という仮縫いは親として最も大事な務めでもある。

 九歳までには言葉や挨拶の重要さを教え、十二歳になる頃には文章も書ける様にならなくてはならない。十五歳になれば昔の元服であり、立派な大人の仲間入り。

 そこで「理(ことわり)」を理解しなくてはならない。「理」とは道理であり、条理であり、つまりは当たり前な事であり、生きて行く上での常識である。

 我が国は性善説で成り立っているが、それは三歳頃までの親からの愛情や幼少期の躾、学校での学習と社会全体での「理」を教える環境が整っていなければならないのが大前提。そう考えれば現代の日本人に性善説など通用するとは思えない。

 将来を担う子供達を育むには「親」と「学校」と「社会(地域)」の三つのどれが欠けても好ましくはない。この三つのバランスが大事なのである。

 昨今は親が躾を放棄し、教諭が厳しくすれば「体罰だ」と大騒ぎ。会社の上司や同僚にも恵まれず、社長は社稷を重んじることなく金儲けに狂奔するばかり。

 そういう意味では親からも学校からも社会からも厳しく育てられて来なかった現代の若者というのは現代社会教育の犠牲者と言えなくもない。

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2021年03月24日

皇統断絶を謀る「女性宮家」「女性天皇」「女系天皇」論に騙されるな!

 皇統断絶を目指す勢力の「女性天皇」や「女系天皇」の啓蒙が功を奏し、共同通信社の世論調査では実に国民の70%が賛成しているという。だが、アンケートに答えた人が女系天皇の意味を知っているとは思えない。

 新聞では「女性天皇」や「女系」とのタイトルが躍り皇位継承の危機を煽る。今上陛下が即位し、秋篠宮皇嗣殿下と秋篠宮悠仁親王殿下の皇位継承が確実なのに何を急ぐ必要があるのか。要は、敬宮愛子内親王を即位させる為の姦策に過ぎない。

 日本国憲法第二条には「皇位は世襲のものである」と明記されている。皇統断絶を謀る勢力は護憲派であり、今後はこの条項を理由に「秋篠宮殿下への皇位継承は憲法違反である」と騒ぎ立てて来るのは明らか。

 安倍前首相やその周辺の営業保守派やインチキ右翼らが憲法九条改正に躍起だが、国防とは領土主権だけではない。三島由紀夫は「国防とは、それを失えば日本では無くなってしまうことを護ること」と訓えた。

 畢竟、国防の中でも皇統を死守することこそ肝要であり、ならば、憲法九条より、第一章「天皇」の条項、特に第二条こそ議論すべきである。

 女性が天皇に就くというのは普通の生活は送れないということを意味する。女性天皇論者は、天皇としての国事行為や祭事の重要性を理解していないから安易に語れる訳で、天皇を軽んじてる証左でもある。

 過去に八人の女性天皇が存在したがその全ては男系の「女性天皇」であり、愛子内親王が天皇に即位されてもそれは男系の女性天皇となる。愛子天皇が御成婚となり、第一子を生んだ場合それは男系ではなく「女系」となる。

「旧皇族と結婚すれば問題ない」という声もあるが、ならば皇籍復帰を先に行うべきであり、本末転倒とはこのこと。若し、愛子天皇の御相手が元皇族でなかったらどうなるのか。女性天皇が嫡子を産まなかった重い意味を知るべし。

 女性皇族が結婚することで皇籍を離れるのは、一般人としての生活を重んじよとの天皇の大御心でもある。そうしたことを理解せず、女性が天皇に成れないのは女性差別であるかの様に語ることこそ女性差別だろう。

 多くの国民は陛下の御負担を「女性宮家創設で軽減する」と思っている。だが、天皇が重んずべき「祭祀」の代行は名代として掌典長のみが許され、国事行為の代行は憲法第四条の第二項よる委任か摂政のみが可能である。

「摂政」を置くにしても皇室典範と憲法に基づかねばならず、若し女性宮家を創設し国事行為を担わせるのならば憲法第四条を改正しなければならない。

 だが、安倍の改憲論を始め、それらに与する営業保守派や自称・愛国者らの改憲論は第九条ばかりで「第一章・天皇」の条項が議論されることはない。

 新聞記事には「政府の対応に有識者からは怠慢との批判が出る」と書かれてるが、その有識者とは一体誰か。所詮は女性天皇を推す学匪ばかり。上皇陛下が退位させられたのも所謂「生前退位を考える有識者会議」だったではないか。

 皇統のことは皇族の意見を尊重するべきだが、昭和22年、GHQはこの皇室典範を改悪し、憲法や法律以前の御存在であらされる天皇を法律の配下に置いた。

 現在の「皇室会議」は、皇族2名と衆参両院正副議長、最高裁長官、宮内庁長官ら非皇族8名の10人で構成されている。皇室会議の予備議員には「天皇は逮捕されるべきだ」と断じて憚らない反天皇活動家でもある菅直人がいた。

 明治皇室典範下の「皇族会議」は、成年男子皇族20名によって組織された機関だった。非皇族は内大臣、枢密院議長、宮内大臣、司法大臣、大審院長の5名で、皇族の意見が重んじられたが、今は有識者なる連中の意見が優先される。

 現在の「皇室会議」や胡散臭げな有識者が諸悪の根源でもある。成年皇族が少ないのは戦後、GHQに強制的に11宮家が臣籍降下させられたことが原因であり、皇統を盤石の安きに置くなら旧皇族の復帰を成す以外には無い。

 旧11宮家の方々は北朝第3代崇光天皇の皇子、栄仁親王から始まる伏見宮の系統に属し今上天皇との関係は、室町時代の伏見宮貞成親王を共通の祖先とされている。旧宮家が皇籍復帰すれば男子成年皇族は15名になり安泰だ。

 旧皇族の皇籍復帰に難色を示す勢力と「女性宮家」「女性天皇」「女系天皇」を推進している連中は同じ穴の狢。如何にも皇室の将来を案じているかの様に装ってるが、こうした奸賊共の策謀に騙されてはならない。

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2021年03月22日

今の境遇に合わせて、家に閉篭り、寝て暮らそうと考えている(葉隠)

 座右の書ではないが「徒然草」と「葉隠」は折折目を通す。「徒然草」三十八段には「名利に使われて、閑かなる暇もなく、一生を苦しむこそ、愚かなれ」とある。

 世俗的な名声とか地位とか財産とかに身も心も使われて、心静かにゆったりと生活を楽しむ余裕もなく、一生あくせくと暮らすなど実に愚かなことだと訓える。

 また「葉隠」には「自分は寝ることが好きだ。だから、今の境遇に合わせて、家に閉篭り、寝て暮らそうと考えている」との一節がある。

 こうした教えを真似している訳ではないが、団体を辞して以来、家に閉篭って、只管果報を寝て待つが如く、日々成るが儘に身を委ねている(笑)

 蟄居というのはチョッとカッコ付け過ぎで、何のことはない、「出れば出銭」ともいうし、慢性的手元不如意という今の境遇では、やりたいことがあっても儘ならないというのが正直なところで、閑居して不善を成すと言ったところか(笑)

「葉隠」の正式名称は「葉隠聞書」「葉可久礼」とも言う。佐賀藩士・山本常朝が、同藩の田代陣基(つらもと)に語った口述記録。「葉隠」の冒頭に書かれた「武士道といふは死ぬ事と見付けたり」との一節は誰もが知る言葉だろう。

 一般に我が国の「武士道」を著した本というと「葉隠」よりも、新渡戸稲造の「武士道」を挙げる人は多いのではなかろうか。「武士道」とは違って、「葉隠」から思い浮かべるのは「右翼的」や「忠君愛国的」というイメージだろうか。

「葉隠」は、親鸞の「歎異抄(たんいしょう)」と共に、学徒出陣で戦地に赴いた学生達に最も読まれた本でもある。それは「歎異抄」が「死の平安」を語り、「葉隠」が「死の覚悟」を語ったものだったからだろうと推測する。

 多くの人は、冒頭に書かれた「武士道といふは死ぬ事と見付けたり」だけが独り歩きし、ロクに読みもせずに「危険な書」だと決め付けているのではないだろうか。

 三島由紀夫は「葉隠入門」で、葉隠とは「行動の知恵と決意が自ずと逆説を生んで行く、類の無い不思議な道徳書。如何にも精気に溢れ、如何にも明朗な人間的な書物」と語っているが、危険な書というより道徳を分かり易く教えている。

 例えば「意見の仕方」というのがある。「『人に意見してその人の欠点を直す』ということは大切なことであり、慈悲の心とも言える。ただ、意見の仕方には骨を折る必要がある。大方の人は、人に好まれない言い難い事を言ってやるのが親切の様に思い、それが受け入れられなければ、自分の力が足りなかったとしている様だ。こうしたやり方は何ら役に立たない。ただ悪戯に人に恥をかかせ、悪口を言うだけの事と同じ結果になってしまう」と教えてる様に、意見や苦言というのは意外に難しい。

「意見というものは先ず、その人がそれを受け入れられるかどうかを見極め、相手と親しくなり、何時も信用する様な状態で仕向ける処から始めなければならない。言い方なども工夫し、時節を考え、自分の失敗談等を話しながら、余計な事を言わなくても思い当たる様に仕向けるのが良い。先ずは良い処を褒めて気分を引き立てる様に心を砕き、そうした上で欠点を直していくというのが意見というものである」と説く。

 なんと細やかな心遣い、これ程の気遣いをする現代人はいないだろう。「葉隠」は「死に狂いの思想」と云われている様に、狂信的な箇所も少なくないが、一方で現代人にも通用する教えも多く、非常に役に立つ内容も少なくない。 「美しく死ぬか」と教えるが、同時に「何の為に生きるか」とも説いているのだ。

「人間の一生なんて真に短いものだ。だから、好きなことをして暮らすべきである。夢の間の間の中にあって、嫌なことばかりして苦しんで暮らすことは愚かなることである。だが、このことは悪く解釈されては害になるので、若い人などには最後まで話すことがなかった秘伝といったものである。自分は寝ることが好きだ。だから、今の境遇に合わせて、家に閉篭り、寝て暮らそうと考えている」と語っている。

 三島由紀夫はこれを「逆説である」と教えている。「葉隠」は、書かれている内容のその裏の真実を読み取る術が要求されるとも語っているが正しく。

 出来ることなら「家に閉篭って、只管果報を寝て待つが如く、成るが儘に身を委ねている」という、愚生の裏の真実を読み取って、行動右翼としての生き様を全うさせようと物心両面で応援してくれる強力な支援者が現れないだろうか(笑)

「封建道徳は悪である」といった概念で読む人には「葉隠」は全く理解されることはないだろうが、「葉隠」に接することで、武士道の世界というのは現代人よりも、もっと優しさと慈愛に満ち溢れた世界だったことが理解出来るのではなかろうか。

 常朝は世知に長けた人物であり、常朝の日常の言葉を連ねた「葉隠」とは、日本人の優れた道徳規範と処世術を教えてくれる日本人必読の名著である。まぁ、取り敢えず三島由紀夫の「葉隠入門」から読んでみるのが好いと思う。

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2021年03月20日

「春分の日」や「秋分の日」は春季皇霊祭・秋季皇霊祭が始まり

 仏教では「春分の日」や「秋分の日」は、彼岸の中日として墓参りに出向く。祝日法では「自然をたたえ、生物をいつくしむ」ことを趣旨としている。何故にこの日に自然を称え、自然を慈しむのか、意味が今一つ分からない。

「暑さ寒さも彼岸まで」などと、季節の変わり目の様に感じているが、彼岸会法要は天皇の詔(みことのり)として始められた行事だった。皇室行事である春季皇霊祭・秋季皇霊祭を、国民が祖先を供養する日として定着するに至った。

 こうした彼岸会法要からも天皇と国民の深い結び付きを窺い知る。正に我が国は天皇の国であり、天皇即日本である。皇室は常に国民と共に在り、この「君民一体」こそが、万邦無比の我が国體の精華なのである。

 今では「春分の日」「秋分の日」という名称が当たり前になっているが、別にこの日が冬と春の境の日でも夏と秋の分かれ目でもない。祝日法の「自然をたたえ、生物をいつくしむ」とは、皇室行事を葬る為のまやかしである。

 戦前は秋分(春分)の日ではなく「皇霊祭」と称した。明治11年(1878年)、それまでの歴代天皇や主たる皇族の忌日を春と秋に纏め奉祀したのが始まり。

 明治41年制定の「皇室祭祀令」では春季皇霊祭・秋季皇霊祭が大祭に指定された。統治下だった昭和22年5月2日、GHQは「皇室祭祀令」を廃止する。然し乍ら、宮中では従来通りの春季皇霊祭・秋季皇霊祭が続けられている。

 皇居内の宮中三殿の一つである「皇霊殿」には歴代天皇、皇族の霊が祀られており、この日は皇室の重要祭祀である「皇霊祭」が斎行される。また、全国の神々が祀られる「神殿」では、神恩に感謝する「神殿祭」も同日斎行される。

 つまり、春分の日を「春季皇霊祭」として、秋分の日を「秋季皇霊祭」として復活させることは、我が国の国體の精華を取り戻すことでもあるのだ。

「春分の日」「秋分の日」を「彼岸」と言うが、これは「節分」「八十八夜」「土用」「入梅」「半夏生」などの雑節の一つで二十四節気の「五節句」などの暦日の他に、四季折々の季節の移り変りを日本的に表した特別な暦日のことをいう。

 こうした歴日が、我が祖国日本の四季折々の麗しい情景を深める。「春分」と「秋分」は、太陽が真東から昇り、真西に沈むので、西方に沈む太陽を礼拝し、遙か彼方の極楽浄土に思いを馳せたのが彼岸の始まり。

 現在では彼岸の仏事は浄土思想に結びつけて説明される場合が多く、浄土思想での極楽浄土(天国)は西方の遙か彼方にあると考えられている。

 彼岸会とは7日間に行う仏事で、「彼岸」は「日願(ひがん)」に喩えられ、仏教語としての彼岸は後から結びついたものであるという説もある。

 俗に彼岸の中日には先祖に感謝し、前後の6日間は悟りの境地に達するのに必要な6つの徳目「六波羅蜜」を1日に1つずつ修める日とされている。つまり、仏教徒というのは日々修行なのだ。でも、そんな仏教徒に会ったことはないが(笑)

「六波羅蜜(ろくはらみつ)」とは紀元前後頃に起こった大乗仏教に於ける六種の修行で、菩薩が涅槃に至るための六つの徳目のことで「六度」ともいう。

 その六種の修行とは、施しという徳「布施波羅蜜」、戒律を守る徳「持戒波羅蜜」、忍耐という徳「忍辱波羅蜜」、努力という徳「精進波羅蜜」、精神統一という徳「禅定波羅蜜」、智慧という徳「般若波羅蜜」をいう。

 六つの徳目の中で「持戒」「忍辱」「精進」「禅定」「智慧」の五つというのは言葉では理解するが、これらを修めるのは容易なことではない。

「布施波羅蜜」という施しは目に見えて分かるので、仏教の世界、中でも昨今の葬式仏教や新興宗教の世界では「布施」ばかりが信心の裏返しであるかの様な我田引水的な都合の好い解釈が罷り通っているのは仏の教えとは程遠い気がする(笑)

「施し」というのは、愚生的には、自分より能力的に肉体的に劣る者や難渋している者、悩みや壁にぶち当たっている者に対し助言や金銭的なものを含めて支えて悩みを軽くしてあげることこそが真の施しというものだと思っている。

 波羅蜜とは「魔訶般若波羅密多(まかはんにゃはらみた~)心経」で始まる般若心経にも頻繁に出てくる言葉だから馴染みがある言葉だろう。般若波羅密多の「魔訶」とは「尊いもの」という意味だが、理解している仏教徒は少ない(笑)

 死んでも戒名さえ貰えば極楽浄土に往けると思ってる仏教徒ばっかだが、戒名を頂くということは「御釈迦様(釈迦牟尼)の弟子になるということ」。要は、仏教徒というのは生きている間も、死んでからも修行は続くのである。呵呵。

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2021年03月19日

釈迦牟尼は「地獄」「極楽」を創られたがあれもウソだろう(笑)

「ウソも方便」という。だがその「ウソ」は言い訳とかではなく、相手の立場に立って、相手への思いやりが込められたものでなければならない。

 彼岸なのになんだが、釈迦牟尼は「地獄」「極楽」を創られたがアレこそ「ウソも方便」の最たるものだろう。だがこうしたウソを吐いて、民衆の心に安らぎを与えた。キリストもまた「天国」への夢を誘って多くの人々を救ってきた。

「人は小さなウソには騙されないが大きなウソには騙される」とはアドルフ・ヒトラーだが、「地獄」「極楽」「天国」なんてのは大きなウソの典型だろう(笑)

 人間死んだら終わり。「無」、何も無い世界だ。だから「極楽浄土」なんてのは死後の世界には無く、現世にこそ存在してると思っている一人でもある。

 如何にして身近にいる自分よりも劣る者や弱い者を助けられるか、与えられるか、難渋している人に如何に施してあげられるか、現世の苦しみを多少でも救ってやることこそ「極楽浄土」なのではなかろうかと単純にそう考えている。

「不妄語戒(ふもうごかい)」という仏語がある。「ウソ偽りを言ってはいけない」という在家が護るべき「五戒」並びに「十戒」の戒めの一つである。

 コレこそウソの典型の様なもので、人というのはウソや偽りを騙る性分なので守るのは困難。そうした自戒を込めた箴言というのが正しいか(笑)

「五戒」とは「不殺生戒(ふせっしょうかい)」。生き物を害してはならない。また他人に殺さしめてはならない。また他人が殺害するのを容認してはならない。

「不偸盗戒(ふちゅうとうかい)」。他人のものを盗んではいけない。また他人をして盗らせてはならない。また他人が盗るのを認めてはならない。

「不邪婬戒(ふじゃいんかい)」。不道徳な性行為を行ってはならない。これは、不倫や強姦を指すが、他にも性行為に溺れるなどの行為も含まれる。

「不妄語戒」。嘘をついてはいけない。また他人をして偽りを言わせてもならない。また他人が偽りを語るのを容認してはならない。

「不飲酒戒(ふおんじゅかい)」。酒を飲んではいけない。また他人をして飲ましめてもならない。また他人が酒を飲むのを容認してはならない。

 愚生には耳の痛い戒めだが、中でも「不飲酒戒」は守るのは絶対無理だわな。ここまで自分を律して生きてる人というか坊主もおるまい(笑)

 政治家の世界、特に我が国の政治では例え正論でもホンネは出来るだけ出さない方が好いとされている。これは政治家の伝統でもあるし、国民も、これが好いのか悪いのか、政治家のウソには馴れっこになってしまっている。

「ウソは泥棒の始まり」「ウソを吐くと閻魔様に舌を抜かれる」など、嘘を吐くことは悪いものだと教わって来た。だが、現代は「ウソは政治家の始まり」とも揶揄される。こうした政治家しかいないのは国民にとっては不幸なことだ。

「ウソは世情の宝」ともいうし、ウソというのは悪意のない、ウソだとバレバレでも、どこかクスッと笑える世間を和ませるものが好い。

「講釈師見て来た様なウソを吐き」なんてのもあるし、「商人は損と求めて蔵を建て」とかいうのもある。商人というのは、口では「儲かりません、儲かりません」と言いながら大きな蔵(家)を建てるなんてのはよくある話し。

「紺屋(こうや)の明後日」なんてのも笑えるウソだ。実家のラーメン屋でも出前の催促が来ると「今、出ました」なんてよく言ってたが、アレと同じ(笑)

 花魁の世界には「手練手管(てれんてくだ)」なんてのもある。「手練」とは人を思うままに操り騙す技巧だが、皆さんも、飲み屋でホステスのウソを勘違いして、ついつい熱くなってなんて、そんな思い当たる節はありませんか(笑)

 ウソには好いウソと悪いウソがあるのは理解しているだろう。自分の為に吐くウソは感心しないが、周りを安心させる様な、また和ませる「ウソ」は吐いても差し支えはない。そんな「いいウソ」も吐けないのは正直というよりバカ正直。

 そんな輩は世間からは遠ざけられる傾向があるが、そんな馬鹿正直な人も最近はめっきり見かけなくなった。まぁ、何事も一面な見方や考え方ではなく、ホンネやウソに隠された真実や優しさなどを見抜ける能力を身に付けることが肝心。

 皆さんも、シャレの効いたウソをたまには吐きませんか(笑)

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2021年03月12日

東日本大震災後での政治の不作為と混乱を予断なく検証し総括せよ!

 東日本大震災から10年の昨日、政府による追悼式が行われ県内でも追悼復興祈念式などが催された。ネットなどでも犠牲となられた方々へ哀憐の言葉が手向けられた。政府主催の式典では天皇皇后両陛下が御臨席遊ばされ御言葉を述べられた。

 県追悼復興祈念式で、内堀雅雄知事と太田光秋議長は犠牲者を悼み、遺族の方々に哀悼の意を表し「巨大地震と大津波に加え、原子力発電所の事故という未曽有の大災害は4000人を超える尊い命を奪った」と昨年と同じ式辞に違和感を覚える。

 東日本大震災で亡くなられた方々は巨大地震に因る大津波が原因であって、「原発事故関連」の死者はいるが事故での放射線被害で直接亡くなった人はいない。原発事故で尊い命が犠牲となったかの様な「複合災害」との言葉は混乱を生む。

 原発事故の関連死はあるが、放射線で直接亡くなられた人はいない。民主党政権が行った強制避難命令に由り、重篤な患者や医療弱者が緊急に移動させられ亡くなったのは原発事故が原因というより、民主党政権の科学を無視した愚策に在る。

 地震発生時、国会では菅直人首相の外国人からの不法献金が追及されていた。辞任已む無しの状況下で東日本大震災が発生。菅は不法献金を有耶無耶にしようと現場視察というパフォーマンスに出た。この軽挙妄動が混乱に拍車を掛けることとなる。

 東日本大震災当日から炉心溶融という「最悪のシナリオ」を予測していながら、菅直人自らが強く望んだ第一原発視察に因って、事故拡大防止の為に採るべき第二第三の矢を放つのが遅れてしまったことは決して見逃すことは出来ない。

 政府関係者は「首相を被曝させない」ことを優先する余り、1号機の炉圧を低下させる為の「ベント」と呼ばれる応急措置が遅れてしまったのだ。

 この現場視察という菅の軽挙妄動こそが原発事故の現場の対応に要らぬ混乱を招き被害が拡大した要因である。今日の金曜ロードショーで「FUKUSHIMA50」が放映されるが、この映画が野党らに不評なのは、事実が曝されているからだろう。

 東電幹部なんぞより菅直人こそ「業務上過失致死傷罪」で逮捕され刑務所に送り込まねばならない大悪党であり、菅が強制起訴されない裁判に意味は無い。

 東日本大震災時、民主党政権は「SPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)」の数値を隠蔽し、科学的根拠の無い「原発周辺20キロ圏内」という避難指示を下した。このSPEEDI数値の隠蔽行為が後々禍根を残す。

 双葉病院やドーヴィル双葉の周辺は放射線量も低い地域だった。避難指示を解除し治療を優先すべきだったにも拘らず「原発周辺20キロ圏内」に拘泥して強制的に避難させてしまったことで患者が死亡したというのが事実である。

 双葉病院や介護老人施設に入所していた移動困難な動かしてはいけない重篤な患者に移動を強いた責任者は、当時の首相であり災害対策本部長だった菅直人であり、科学的データを無視した避難指示は正しく殺人行為でもあったのだ。

 東電旧経営陣らを庇うつもりは毛頭ないが、当時の最高責任者であり混乱と更なる被害の拡大を生んだ菅が逮捕されないことに正義が在るとも思えない。当時の政権の失政を総括し、政治家全体の責任として猛省しなければその意味は無い。

 騒がれている処理水問題にしても何故に早くに海洋放出が出来なかったのか。何より「福島は除染をしなければ住めない土地」と風評を悪化させる原因を作ったのは除染作業であり、何故に除染が強行されたのか予断なく検証するべきである。

 事故責任を問うのは法治国家では当然であろうが、それよりも大事なことは二度とこの様な「人災」と言われる過ちを繰り返さない為に我々はどうすべきなのか、また未曾有の福島第一原発事故の教訓を今後にどう活かすかだろう。

 福島原発事故に限らず、いつか起こるであろう韓国や中共、或いは世界の原発事故に対し、福島第一原発事故の収束技術と正確な科学的データが活かされることこそ福島のこの地に住み続ける我らの願いでもある。

 余談だが、内閣府は今月初め「3月11日の午後2時46分に1分間の黙とうを捧げ、御冥福をお祈りすることとしております。国民の皆様におかれましても、これに合わせて、それぞれの場所において黙とうを捧げるなど、犠牲者の御冥福をお祈りいただきますよう、お願いいたします」との談話を発表した。

 気になるのは「御冥福を祈る」との言葉だ。「御冥福」とは「死後の幸福」という意味。浄土真宗の教義は「死は穢れ」ではないから死後の幸福は考えない。

 故人を阿弥陀如来の智慧の光明によって極楽浄土へと導くという真理である。「御冥福」を使うことは阿弥陀如来の否定であり、浄土真宗への冒涜でもある。

 ネットなどでも犠牲者を悼み「御冥福」の言葉が氾濫してる。「御冥福」というとそれらしく聞こえるから使いたくなるのだろう。亡くなられた方の宗派が分からないなら「哀悼の意を表します」「お悔やみ申し上げます」と言い換えるべきだ。

 葬儀告別式でも地元選出議員らの選挙活動の一環として弔電披露が行われる。宗派に関係なく「訃報に接し心より御冥福を祈ります」などとやってるアホ議員が多いのには厭きれる。死者を悼むならその前に仏教や宗派の教えを学んだら如何か。

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2021年03月11日

本日は犠牲者を悼み心静かに一日を過ごしたいものです

 震災当日の午後3時頃、国会中継を見ていると「緊急地震速報」のテロップが流れた数秒後、ゴーという不気味な音と共に起きた大きな揺れに徒ならぬ不安を覚えた。約1分程の揺れが数十秒の間隔を置いて3回、凡そ5分間の激震が続いた。

 余震の続く中、部屋を見渡すとは色んな物が散乱し、天井は歪み、サッシ戸や窓は全て開き、風呂場の壁は剥がれ落ちてた。愚妻に連絡を取るも携帯は繋がらない。twitterやfacebookなどのSNSをやらせとけばと悔やんだが仕方ない。

 散乱した物を片付けながら帰りを待った。暫くすると倅夫婦と孫も一緒で全員の無事な様子に安堵した。 倅夫婦は孫のミルクもオムツなども持って来る余裕も無く、余震が続く中で近所のツルハドラッグに買い出しに行った。

 地震で散乱した店内。ミルクや紙オムツなど必要な物を探してレジに持って行くと、「こういう状況なので御代は落ち着いてからで結構です。困ってる時は御互い様です。また来店して下さい」との店員の言葉に甚く感動したのを覚えてる。

 翌日、イトーヨーカドー郡山店へ買い出しに行くも商品が少ない。水を購入しようと探すも2ℓサイズは既に売り切れで、普段は30円程で売ってる小さな300㎖のペットボトルの水が一人2本限定で1本100円で売っていたのには厭きれた。

 正に便乗商法。ツルハドラッグの店員とはエラい違いで、商魂逞しいと言えばそれ迄だが、営利主義の賤しさを目の当たりにし嫌な気分になったのを思い出す。

 兎に角、経験したことの無い長く強い地震だった。大津波で亡くなられた方々に比べれば無事だったことは不幸中の幸いとしか言い様がない。

 福島県の被災者は宮城や岩手県の被災者に比べて恵まれている方だ。だが、県内の被災者は生活の不満を口にし、何かと理由を吐けては帰還を拒み、「賠償」「賠償」のオンパレード。原発事故に託けて甘え過ぎてはいないか。

 原発事故の被害は原発周辺者に限らず県民なら誰もが同じことで、偶偶、原発周辺20㌔以内に住んでたからこそ補償の対象になっているだけのことだろう。

 民主党政権は「SPEDDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)」の数値を隠蔽して原発周辺20㌔圏内の住民の避難指示を決定した。自称原発被災者のホンネは、菅政権と東電サマサマというのがホンネ(苦笑)

 20㌔圏内だった川内村や楢葉町、双葉町、富岡町といった割かし放射線の低い地域にも避難命令が出された。川内村の住民は郡山市に避難することになったが、川内村の放射線量は当時の郡山市の放射線よりより低かった(笑)

 被災者らは口々に「帰りたくても帰れない」「昔の故郷に戻せ」「生業を補償せよ」というが、帰る気になれば帰れるし、昔の故郷とは原発設置以前の故郷か?農業だけで食えるのか?生業って原発好景気だった頃の生業か?

 原発周辺の住民は東電関連の仕事に従事していた方が多い。既に福島第二原発の廃炉が決まった現状では、故郷に帰っても仕事が無いというのが現実だ。福島第二原発の再稼働こそが復興の象徴になると考えていただけに残念でならない。

 感情的な反原発の流れから全廃炉を目指すというなら、地元から離れなくてはならなかった被災者に対して避難している土地での再起を促し、納得させるのも政治の責任である。同時に自称被災者の自主避難者への優遇措置は止めるべきだ。

 世界が福島原発事故の行方を注視する中で、ロクに休養も取らずに過酷な現場で従事している方々がいる。「FUKUSHIMA50」は、原発事故後構内に留まって業務対応に従事した勇者らを描いた映画だ。明日の金曜ロードショーで放映される。

 この50人の多くは地元の小高工業高校(現・小高産業技術高校)のOB。海外のメディアは、この従業員たちの勇気を讃え「Fukushima 50」と称えた。一方で、日本のマスコミといえば「東電社員が逃亡」などと噓八百の報道を垂れ流した。

 映画「FUKUSHIMA50」では当時の菅政権の対応がリアルに描かれているという。そんなこともあって中身を知られたくなかった元民主党の議員や反原発派らには至って評判が悪いらしいが、つまりは事実を描いた作品ということだろう(笑)

 原発構内で働いている彼らの勇気ある行動と人智が我が国の未曾有の国難を救い、その努力が必ずや報われる様に無事終息されることを願って止まない。

 マスコミは大震災を忘れまいと犠牲者を取り上げ、反原発派が原発事故を騒ぎ立てるが、本日は心静かに一日を過ごしたいものです。東日本大震災で発生した大津波で犠牲になられた方々に対し衷心より哀悼の意を表します。合掌再拝。

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2021年03月10日

3月10日は日露戦争奉天会戦勝利を祝う「陸軍記念日」

 明治38年(1905年)3月1日から、日露戦争最後の陸上戦である「奉天会戦」が大山巌陸軍大将指揮の下で干戈を交え、激戦の末に同月10日勝利を収めた。

 翌年政府は、奉天会戦の勝利の功績を遺そうと3月10日を「陸軍記念日」として制定。以後、国民挙って御祝いしていた記念日である。因みに「日本海海戦」で、バルッチック艦隊を撃破し劇的勝利を収めたた5月27日は「海軍記念日」である。

 昭和20年3月10日、戦果芳しくない大東亜戦争の起死回生の戦いと神風を信じ、国民が「陸軍記念日」を祝っている日に米国は日本本土一斉攻撃を断行する。

 この「東京大空襲」の爆撃に因って、非戦闘員である多くの無辜の人々の尊い命が失われた。米軍による大空襲はこの日が最初だった。米国は「日本の多くの家屋が木造だ」という理由から火炎の強い焼夷弾を投下したのは言うまでもない。

 米軍この大空襲に飽き足らず4月14日及び5月25日にも空襲を断行した。5月25日の空襲では、その戦災はあろうことか皇居にも及び明治宮殿が全焼した。更には陛下の執務室や御所、正殿などの儀式殿を失うこととなった。

 我が国の記念日への侮辱は東京裁判でも発揮され、所謂A級戦犯が「死刑」の判決日が、昭和天皇の「天長節」、処刑日は12月23日、当時の皇太子の誕生日であり後の「天長節」に合わせて執行され、贖罪意識の植え付けに狂奔した。

 遡ること明治37年12月10日、我が国は当時世界最大の軍事大国ロシアに対し敢然と宣戦布告した。開戦前、世界の軍事専門家の中で日本勝利を予想した者が一人もいなかったが、我が国は1年半に及ぶ大戦に奇跡とも言える勝利を収めた。

 国民が決死の覚悟を以て開戦に踏み切った日露戦争の勝利は、結果として白人主義の欧米列強に有色人種である我が国の地位を認めさせることとなった。

 この勝利に由って幕末以来の懸案事項であった不平等条約の改正に繋がって行く。 即ち、明治維新の真の目的であった「治外法権」と「関税自主権」という二つの不平等条約の改正が、この日露戦争の勝利によって実現されたのだった。

 この二つの不平等条約の内の「治外法権」は、既に日清戦争後の明治32年に克服したが、「関税自主権」は克服出来ず、日露戦争勝利に由り回復実現することで明治維新は成就し、我が国は真に独立を回復することが出来たのである。

 日露戦争の勝利は、世界の植民地政策で搾取や弾圧を受けている民族の独立心を駆り立て、後の大東亜戦争後の植民地の解放に繋がって行くこととなる。

 日露戦争の世界史に於ける歴史的意義は、有色人種の日本人が白人に勝利することに由って、当時、欧米列強に植民地にされていた世界中の被抑圧民族を感動させ、独立への夢を駆り立てた大きな意義を持つものだったのである。

 日露戦争が齎した歴史的課題である「人種平等」の本格的な実現は、大東亜戦争を待たなければならなかった。我が国の先人の努力と苦労に想いを馳せれば感謝と尊敬の念は益々深まり、日本人として生まれた事に感激せずにはいられない。

 陸軍記念日万歳!天皇陛下万歳!すめらぎいやさか!

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cordial8317 at 08:05|Permalink

2021年03月09日

感情的な議論より日本の技術力をもっと信用しようじゃないか

 東日本大震災の3・11に合わせ、県内を中心に犠牲者を悼む行事が各地で行われる。マスコミの報道は、恰も大震災で亡くなったのは原発事故だったかの様な世論誘導に違和感を覚える。大震災で犠牲になった方々の殆どが大津波に因るものだ。

 マスコミが行った世論調査では「県発事故の風化を感じる」という人も多いという。こうした結果を見ると、あくまでも危険であらねばならないと、放射線の恐怖と不安を煽り続けている反原発派やマスコミの思惑とは裏腹に、徐々にではあるが放射線が及ぼす影響はないということが国民に理解されて来た証左と言えよう。

 一方で「原発事故を風化させてはならない」という。「風化させない」というのは聞こえは好いが、悲しみは風化させなくてはならないし、いつまでも被害者ぶって、被害者意識丸出しで悲しみや慟哭に囚われていても仕方ないではないか。

 マスコミは津波のことより原発事故を取り上げて、故郷に帰れない被災者を悲劇のヒロイン的に報道するが、被災者の多くは民主党政権下でSPEEDI数値を隠蔽し、第一原発から半径20キロという非科学的な施策によって生まれた犠牲者だ。

 ジャーナリズムの本質は社会の木鐸として公正公平に真実を追究する姿勢に在る。風評とデマの差別の元凶が何処に在るのかこそ追求すべきで東京電力のみを糺す姿は正義とは思えない。反原発派に与し、曖昧で根拠のない報道こそが差別を引き起こし、それを助長してるのがマスコミであることを自覚すべきではあるまいか。

 震災直後、陛下は「被災者のこれからの日々を私達皆が、様々な形で少しでも多く分かち合って行くことが大切であろうと思います。被災した人々が決して希望を捨てることなく、身体を大切に明日からの日々を生き抜いてくれるよう、また、国民一人びとりが、被災した各地域の上にこれからも長く心を寄せ、被災者と共に夫々の地域の復興の道のりを見守り続けて行くことを心より願っています」と語りかけた。

 未曾有の国難ともいえる事態に、陛下の大御心に応えようと国民一人一人が心を一にし被災者や被災地を労わりあったことは紛れもないことだろう。

 だが悲しい哉、福島県や県民への差別や風評被害は未だ存在するのも確かで、東京都を始め関東各地へ電力を供給していた福島第一原発事故に因って、供給元の福島県や福島県民がこうした仕打ちを受けるとはよもや思わなかった。

 流言蜚語やデマが余計な混乱を生む。その元凶が民主党政権下で実行され、安倍政権下でも引き継がれている科学的根拠のない除染作業であり、「福島は除染しなければ住めない地域」との風評は止むことがない。こうした愚策が中間処理施設という更なる愚策を生み、復旧は愚か復興をも遅らせ福島県や県民を貶め続けている。

 何故にこうした除染作業という愚策が実行されるに至ったのかと言えば、何のことはない人々の優しさや幼稚な正義感に漬け込んで、原発事故での放射線への無知と無理解から来る憎悪や感情を利用して党勢拡大に利用しているに過ぎない。

 既に福島原発事故の教訓から、全国の各原発では「防波堤の建設」「浸水防止ドアの設置」「高台への非常用電源の確保」などの対策が進められている。大事なのはこうした原発事故の科学的データに基いた具体的な効率ある対策である。

 マグネチュード9という巨大地震の震源地に最も近かった宮城県牡鹿郡女川町 と石巻市に跨る「女川原子力発電所」は地震直後、原子炉は安全に停止し、被災者の避難所にもなった。 世界はこの「女川原発」に注目し、原発の地震対策を講じている。

 女川原発同様に万全だった福島第二原発だが、その安全性は語られることはなく、被害者意識丸出しで「廃炉ありき」から感情的に論じられているに過ぎない。

 福島原発事故で、原発は「冷源」と「電源」が確り保たれてさえいれば「冷温停止」に持ち込むことが可能ということを学んだ。つまりは巨大地震や巨大津波であっても原子炉を安全に停止させることは可能となったのだ。感情的な議論に意味はない。我が国の技術力をもっと信用しようじゃないか。

 多くの尊い命と被災された方々の犠牲の上に於いて、危機管理と防災と国防が万全なものとなり、更により高度な危機管理と対策が構築されて行くことが、先の大震災での犠牲者の無念さに応える唯一無二のものとなることを願って止まない。

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