2020年11月

2020年11月26日

憲法改正や九条第三項の加憲は究極の護憲運動である

 昭和45(1970)年11月25日、三島由紀夫は楯の会メンバーの森田必勝、小賀正義、小川正洋、古賀浩靖の4名と共に市谷駐屯地総監室に籠城し、憲法改正の必要性を訴え、森田と共に壮絶な割腹自殺を遂げてから半世紀が経った。

 改めて現憲法の矛盾性と不当性に気付いた多くの国民は、安全保障の観点から憲法改正の必要性を感じている。だが、三島が訴えたかったのは、皇軍であるべき自衛隊の存在を否定する憲法改正の訴えは単なる手段に過ぎない。

 三島が真に訴えたかったのは、現憲法の矛盾の象徴である自衛隊の存在に喩えてはいるが、日本人を骨抜きにしてしまった元凶でもある現憲法に対峙し、矛盾だらけのクソ憲法を破毀することこそが主眼であったと確信する。

 安倍改憲論は第九条へ第三項を加える加憲であり、つまりは現憲法を認めているということ。売文を生業とする営業保守派もコレと同じ認識で、国體よりも尖閣諸島の主権を主張し領土防衛の為の自衛隊強化の為に九条を改を訴える。

 自らの国家の防衛をも否定する矛盾だらけの現憲法を何故に認めるのだろう。違憲状態の自衛隊を「国軍」とすることに異議は無い。だが、現憲法は国家の基本法としては最早機能していない。何故に一部の改正で済ませ様とするのか。

 現在の自民党を始めとした取り敢えず改憲派らに、三島の渾身からの叫びが聞こえているとは到底思えない。現在の改憲論は現憲法護持と同じこと。我が国の正統な国法である大日本帝国憲法(欽定憲法)の復元改正を目指すべきだ。

「国防とは、それが滅びれば日本ではなくなることを死守することである」との三島は訓えた。国防とは、領土主権以上に国體を護持し、皇統を死守することであるならば、改憲ではなく大日本帝国憲法復元改正こそ採るべき道である。

 SNSでは、昨日の日中外相会談での茂木外相の対応を批判し、尖閣への主権侵害を強く抗議しろと騒がれてるが、茂木の媚中派ぶりと売国性は今に始まったことではない。加えて親中派の二階幹事長の後ろ盾だもの強く抗議するとは思えない。

 日中外交は弱腰と軟弱ぶりは、田中角栄が元凶であり、田中が発した日中国交条約締結での歴史認識を改めない限り、こうした弱腰軟弱外交は続くだろう。

 つ~か、尖閣問題や新型コロナ発症に対する問題があり、香港やウイグルへの人権問題に抗議の声が上がってる中で何で呼んだんだ。会談するなら尖閣問題に対する我が国の正当性と周庭の不当拘束を抗議しなきゃ世界から笑われるだけだ。

 力(国防力)の無い外交に意味は無い。営業保守派や自称愛国者らが茂木を批判するのは結構だが、茂木が王毅外相に宣戦布告ではないが、強気で主権侵害を抗議した結果、尖閣で日中衝突となったならそれを支持するのか。

 自衛隊員が殉死した場合に、その慰霊は市ヶ谷駐屯地の儘で好いとは思えない。殉職者を靖國神社に祀られない対応をどう思っているのか。尖閣問題というのは単に領土主権だけではなく多くの問題が山積していることを自覚するべき。

 中共が国連総会に於いて「敗戦国(日本)が戦勝国の領土(沖縄・尖閣列島)を占領しようとしている」と発言したのを覚えているだろうか。この主張は、国連憲章第53条並びに第107条の「旧敵国条項」を念頭にした発言である。

 国連憲章の敵国条項とは「連合国の敵国であった日本などが再び侵略行為を行った場合、他の国は安保理の承認なしに武力行使出来る」と規定されている。つまり、未だ我が国は、国連(戦勝国)からすれば「敵国」の儘なのだ。

 王毅外相が尖閣諸島を「我が国の主権」と発言したことに異を唱えるのは簡単だが、敵国条項が存在する限り、常任理事国である中共が「侵略」と看做せば一方的に排除出来るということ。それを承知で戦争する覚悟は在るや無しや。

 尖閣での日中衝突となれば日本が敗れると予想する評論家は多いが愚生はそうは思わない。軍事力では中共が圧倒するが、自衛隊の能力も士気の高さは世界のトップレベルであり、短期決戦の戦いでは自衛隊が地の利を生かして戦うだろう。

 自衛隊が一時的にでも中共軍を追い払うことが出来なかったとしても、平和ボケしてる国民が領土主権の重要性に目覚め、憲法論や国防力を見直す契機にもなるだろうし、何より我が国がまとまな国家となる好機であり、願ったり叶ったりだ。

 中共の場合はそうはいかない。紛争での失態は、習近平体制の威厳を失墜させ、周辺国への恫喝も通じず、巨大な軍事力を背景に弾圧されてる国々は独立に向けて自信を深める結果になり、共産主義一党独裁体制を崩壊する危険を孕んでいる。

 戦争というのは外交手段の一つであり、国際法で認められている正当な行為。要は、主張が認められないのならば「戦争も辞さない」という覚悟が大事ということだ。 近隣アジアの緊迫と国際情勢の変化は真の独立を果たす契機でもある。

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2020年11月25日

「皇女制度の創設」はカタチを変えた「女性宮家論」である

 地元紙の一面と社会面に「皇女制度の創設検討」「皇室活動維持への窮余策」とのタイトルが躍る。要は、皇女制度の創設に拠って国賓・公賓への接遇や会食などの御公務を皇籍離脱後にも関わらせようという都合の好い政治利用に他ならない。

「皇女制度の創設」はカタチを変えた「女性宮家論」であり、皇籍離脱させられた旧宮家の方々の皇籍復帰論を絶つ反天皇勢力に拠る策謀というのが正しい。

「皇女創設」をしてまで皇室活動をやらせようとは本末転倒である。宮家の本分とは皇室活動ではなく祭祀を継承して戴くということにある。現憲法下での御公務や皇室活動は、憲法や政府の傀儡としての強要と言うのが正しい。

 天皇とは英国やスペインの様な「王室」や「国王」の存在だと思っている人も多いが、分かり易く言えば日本固有の信仰である神道を伝え導く神主(神官)の最高の地位者であり、ローマ法王などと同じく祈りを重んずる「祭主」である。

「女性宮家」では天皇の重んじる祭祀が叶わない。神に仕える神事を執り行うことが憚れるのだ。別に女性差別ではなく、これが伝統というものなのだ。女性皇族が行えるのは国賓・公賓への接遇や会食とイベントに華を添えることくらいなもの。

「女性宮家論」や「皇女制度」は、天皇の在り方や宮家の本分を理解することなく、皇族を単なる国事行為をする便利な存在としか思っていないから語れるのだ。

 皇女制度は都合の好い皇室利用である。皇族の本分でもある祭祀を継承するには旧皇族の復帰を図ることが重要。廃絶になった秩父宮・高松宮、女性皇族しかいない常陸宮と三笠宮の祭祀を旧宮家を再興し継承することこそ肝要となる。

 旧宮家の方々が皇籍復帰して頂くことで、国賓・公賓への接遇や、晩餐会での会食などの皇室活動はクリア出来るのに、敢えて皇女制度創設とは実に胡散臭い。

 皇統断絶を謀る反天皇勢力は次から次と策を謀り、マヌケな保守派がコレらに迎合する。何なんだ、地元紙に載ってる保守派の所功や百地章のコメントは(苦笑)

 我が母校・国士舘大学の特任教授である百地は「皇女制度は天皇陛下の公務負担の軽減が目的であり、皇族数減少に対する有効な選択肢だ」と応えているが、正に「陛下の負担軽減の一環」として退位法案が可決されたのと同じではないか。

「女性宮家論」と同じく「皇女制度」を創設すれば、天皇の国事行為や公的行事の御負担が軽減されるなどという意見は国民を誑かすまやかしである。

 悲しい哉、多くの国民は陛下の御公務の御負担を女性宮家や皇女創設で軽減されると思っているが、天皇が重んずべき「祭祀」の代行は、名代として掌典長のみが許され、国事行為の代行は憲法第四条の第二項よる委任か摂政のみが可能である。

「摂政」を置くにしても皇室典範と憲法に基づかねばならず、女性宮家を創設し国事行為を担わせるのならば憲法第四条を改正しなければならない。

 皇女制度を創設するにしても第一章の「天皇」条項を議論するべきだが、百地は、憲法学者らしく都合の悪い部分には沈黙を極め込む。所詮は、他の憲法学専門の学匪どもと同じく護憲派なのだろう。昔なら大学に行って抗議するのだがなぁ(笑)

 現憲法は、歴史的な国家としての継続された祭祀に関する天皇の役割を否定し国事行為のみとなり、祭祀は公的行為ではなく「私的行為」とされてしまった。

 こうした天皇傀儡制度にこそ保守派は意見や苦言を呈するべきなのに、何故か憲法の範囲内で語る不思議。尤も、保守派の改憲論は第九条のみの究極の護憲派だから然もありなん。現憲法の矛盾や不条理をそろそろ断ち切らねばならない。

 哀しい哉、憲法以前の御存在であらされる天皇は、今や日本国憲法に呪縛され政府の傀儡として国事行為を行うだけの都合の好い存在となってしまっている。現憲法は天皇を頂く我が国の正統にとっても実に不適格な国法と断じる他はない。

 天皇とは、我が国の古来の教えである神道の祭事を司る祭司であり、祭主であらされる。天皇にとって最も重んじるべき祭事は、元旦未明から斎行される「四方拝」から始まり「歳旦祭」「元始祭」や毎月の旬祭など年数十回程に上る。

 こうした日本国家としての重要な祭事が「天皇家の私事」となってしまっているのは我が国體を大きく毀損しているのだが、こうした祭祀のことには拱手傍観し、皇女創設でこうした祭祀が維持出来るかの如き報道は実に怪しからんことだ。

 憲法を優先する余り、国事行為が優先され、本来の御勤めであるべき祭事が軽んじられている現状は見るに堪えない。臣下である国民が皇室を語る不敬を赦してはならない。女性宮家論や女系天皇に続く皇女制度に断固反対するものである。

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2020年11月24日

三島由紀夫の獅子吼を我々は肝に銘じて生きるべきだ

 三島由紀夫は、市谷駐屯地で蹶起する昭和45年11月25日の4ヶ月ほど前の7月7日、産経新聞夕刊に「私の中の二十五年」と題して予言的な一文を寄せている。その中で三島は、これからの日本には大して希望を持てないとした上で、「このまま行ったら日本はなくなってしまう」と嘆き次の様に語っている。

「・・・その代りに、無機質な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るであろう・・・」

 三島が命を懸けて提起した戦後体制の虚妄とは一体何であったのか。

「我々は戦後の経済的繁栄に現を抜かし、国の大本を忘れ国民精神を失ひ本を正さずして末に走りその場凌ぎの偽善に陥り、政治は自己保身、権力欲、偽善のみに捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦汚辱は払拭されず誤魔化され、日本人自ら日本の歴史と伝統を潰してゆくのを歯噛みしながら見ていなければならなかった」

 現在の我が国はどうだろう。無機質な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、経済的大国となり、三島の予言がズバリ的中した。

「文化防衛論」の「反革命宣言」で三島はこう訴える。

「もし革命勢力、ないし容共政権が成立した場合に、例えたった一人の容共的な閣僚が入っても、もしこれが警察権力に手を及ぼすことが出来れは、忽ち警察署長以下の中堅下級幹部の首の挿げ替えを徐々に始め、或いは若い警官の中に細胞を潜ませ、警察を内部から崩壊させるであろう」と冒頭で記し、更にはこう宣言する。

「我々はあらゆる革命に反対するものではない。暴力的手段たると非暴力的手段たるとを問わず、共産主義を行政権と連結せしめようとするあらゆる企画、あらゆる行動に反対するものである。この連結の企画とは、所謂民主連合政権(容共政権)の成立及びその企画を含むことを言うまでもない。名目的たると実質的たるとを問わず、共産主義が行政権と連結するあらゆる態様に我々は反対するものである」

 今、周りを見渡せば「男女共同参画社会」は国中に悪害を齎し共産党用語が氾濫し、「外国人地方参政権付与」「住民基本法案」「夫婦別姓法案」「戸籍制度廃止法案」「人権救済法案」「女性天皇論」「女性宮家」などなど、カタチを変えた共産主義が次々と企画され行政権に入り込み、また連結され様としている。

「男女共同参画社会」とは共同参画というより「共参社会」というのが正しく、つまりはカタチを変えた「共産社会」の実現が着々と実行されているのだ。

 これらは全て共産党が推進し実行したのではない。総理府や中央官界に入り込んだ全共闘系と共産党系の過激な連中が共同謀議的に考案したものを、疑いも無く実行したのは自民党ら歴代政府である。左翼の破壊活動は巧妙化している。

 保守を騙るマヌケな連中に因って国體や国柄が破壊され続けている。三島が悲観した予言より酷い状況に陥ってるのが現代日本であるのだが、インチキ保守らは反中を声高に叫び憲法九条改正に与し、尖閣諸島の領土防衛を訴えるばかり。

 これらに対峙するべき愛国陣営や右翼を見渡せば、営業保守と何ら変わり映えのない活動に終始し、揚句は「暴排条例は人権を蹂躙するものだ」などと愚にも付かない運動を展開しているのは、右翼人側にいる愚生も隔靴掻痒の感は否めない。

 暴排条例や暴等法に反対なんぞ末の話しで右翼が訴えることとは思えない。任侠精神皆無のヤクザは正に暴力団そのものではないか。暴排条例や暴対法を問題提起するなら、勧善懲悪であるべきヤクザの生き様を問うべきだと思う。

 今を生きる我々は、「国家百年の大計を米国に委ね、敗戦汚辱は払拭されず誤魔化され、日本人自ら日本の歴史と伝統を潰して行くのをこれ以上、歯噛みしながら見ていてはならないのだ」との三島の獅子吼を肝に銘じて生きるべきだ。

 旧来の思想や社会構造を打破しようとする時にこそ常軌を逸した行動が生まれる。その行動こそ三島や森田必勝、山口二矢や野村秋介らの「正気の狂気」であり、この「狂気」こそが閉塞状況を打破する力に成り得るのである。合掌。

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2020年11月23日

「勤労感謝の日」との意味不明の名称を「新嘗祭」と改めよう!

 本日は「新嘗祭」。誠におめでとうございます!

 10月17日の「神嘗祭」は、天皇陛下がその年の新穀を皇祖の天照大御神を祀る伊勢の皇大神宮に奉り神恩に感謝される大祭であるが、11月23日はその新穀を陛下自ら召し上がられ万物の恵みに感謝する「新嘗祭(にいなめさい)」である。

 新嘗祭は、五穀豊穣と国家・国民の平安を祈る最も重要な宮中祭祀。即位後初めて「神嘉殿の儀」に臨まれる陛下は、続く「夕の儀」で、新穀などを神々に供えて拝礼し自らも食される。新嘗祭は翌日未明の「暁の儀」まで行われる。

 新嘗祭は、日本書紀には皇極天皇が皇極元年(642年)11月に執り行ったのが始まりとされ、旧くは霜月下旬の卯の日に斎行された。明治6年以降は11月23日に執り行われている。 因みに、天皇即位後初めて行う新嘗祭を「大嘗祭」という。

 宮中では祭祀が催される。GHQは占領下「神道指令」を発令し、皇室(神社)と国民との繋がりを断絶させた。こうした策謀に因り「新嘗祭」という呼称は廃止され、摩訶不思議な「勤労感謝の日」として現在に至っている。

「勤労感謝」というと労働していることに感謝する日の様に思ってしまうが、本来の意味は「人々の勤労によって生み出される万物の生産を祝う」というもの。つまり、神の加護による農作物を始めとした自然の恵に感謝する日なのである。

 悲しい哉、今日の祭日の意味を穿違えている国民が殆どだろう。簡単に言えば「勤労感謝の日」とは日本版ハロウィン(収穫祭)でもある(笑)

「人々の勤労によって生み出される万物の生産を祝う」とするならば、国策としての農業振興と、食の安全保障や食料自給率の向上こそ急務だが、政府からは「農」を考える言葉は発せられない。農家を護るべきJAも今や営利団体に成り下がった。

「農業」とは愛郷心や祖国愛に繋がるものであって、愛情というものがそこには無くてはならない。世界各国でも「農業」の保護政策が行われているのは、「農業とは国の本である」ということを自覚しているからに他ならない。

 占領下、GHQの日本弱体化政策に因り「農本主義」的国家観は排除された。大輸出国である米国の戦略に嵌り、大本を米国に委ね、軍事的安全保障でも自立出来ず、食料安保でも自立出来ず、これで果たして真の独立国家といえるのだろうか。

 国造りと農業の関係を経済論で語ることは、国家や郷土愛を放棄したと謗られても仕方ない。我らは平成の農本主義を構築する為にも安易な輸入物の購入を拒否し、国産物を購入し、食糧自給率向上を真剣に考えなくてはならない。

 本日は県内でも「山ノ神講」として、全国各地でも山々の神に感謝し収穫を祝う行事が各地で行われる。こうした行事は新嘗祭の風習や伝統を重んじ伝えて来た名残りでもあり、こうしたことでも天皇と国民の繋がりを知る。

 山の神講は女人禁制で行われるが別に女性差別ということではない。俗に、口喧しくなった女房を「山の神」とも言うが、いつも頭が上がらず、かみさんに感謝しているという点では神様も古女房も同じで実に有難い存在なのである(笑)

 祝日法には「神々の加護と人々の勤労によって可能になる万物の生産を祝い国民が互いに感謝し合う日」であるとの趣旨が載ってある。であるなら、労働を意味する「勤労感謝の日」より古来からの「新嘗祭」との名称こそが相応しい。

 GHQに謀られた「祝日法」を再改正し10月17日の「神嘗祭」を祝日にすると共に、勤労感謝の日を「新嘗祭」の名称に戻さねばならない。皇室に由来する祝祭日を復活させることは、我が国の国體の精華を取り戻すことでもあるのだから。

 新嘗祭に当り、山河麗しい祖国日本に生まれた喜びと、豊穣の秋に感謝すると共に、畏くも皇室の安穏と陛下の弥栄を祈念するものである。

 すめらぎの 千代万代の御代なれや 花の都に言の葉もなし

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2020年11月22日

言葉や文章を書き留めて少しでも近付ける様に努力することは大事なことだ

 誰しも「好きな言葉」というのはあるだろうし、感銘を受けた本や座右の書というものもあるだろう。金言や格言の多くは実践と経験から学んだものであり、自戒を込めた言葉故に相手に響く。逆を言えば、実体験を伴わない言葉は軽々しい。

「人真似上手は個性を創造する」という様に、そうした言葉や文章を書き留めて、少しでもその尊敬する人や憧れの人物に近付ける様に努力することは大事なことだ。

「日本とロシアは提携の必要性がある」などといった開国論を展開し、安政の大獄で斬首された越前福井藩士の橋本左内は学問を学ぶ極意をこう訓えている。

「志を立て、その目的を達成する手段の中で最も近道だと思うのは、聖人の書物や種々の歴史本の中で自分が特に刺激を受けた部分を別紙に書き抜いて壁に貼っておくか、扇などに書いておき、日夜朝夕それを眺め、常に反省しつつ、及ばない点について勉め、進歩を楽しむのがよい」。日頃からの実践が後々の自分の身に成る。

 右翼人にも多いが、よく読書の量を自慢している自称読書家を見かける。斯くいう愚生も、若い頃は政治思想の本を中心に、雑駁ではあったが色々な書物を読み漁り、本棚に並べてはその読書量に悦に入ったりしたものだ(笑)

 そんな輩というのは「読書は楽しい」と宣う。だが、読んで楽しいというだけなら別に読書じゃなくても映画でも好いし、落語や講談、歌舞伎などでも好いだろう。

 本というものは読まないよりは読んだ方が好いというくらいなのもので、橋本左内ではないが、感じ入った部分を何度も読んだり書き留めたり、その書いた文章を眺めたりして、自分の糧になる様に心に確りと刻み込むのが好い。

 勉強とか学ぶという基本的な在り方は、活眼を以て生きた本を読むことだ。ベストセラーなんぞ単なる暇潰し。読んで学んで、実践しなければ意味は無い。

 常々、心眼を開いていれば「生きた学問」や参考書となるべきものは多く在る。「生きた学問」」「耳学問」で一番好いのが、失敗に失敗を重ねながらも成功した人物の話であり、くだらん営業保守らの本なんぞより学ぶことは多い。

 保守ブームに乗っかって稼いでいる営業保守の本なんぞ、領土主権や国防論を尤もらしく語って、反中共やら反韓・反北朝鮮の脅威を煽って稼いでるだけ。保守を気取ってはいるが、尊皇精神に乏しく、保守したいのは現在の立場だけ。

 経営の実践も無い経営学教授然り、小難しい言葉を羅列しては悦に入ってるが、よくよく読めば「常識」を尤もらしく書き綴っているだけのこと。憲法学の教授なんてのは憲法擁護の左翼学者ばかりで、現憲法を生業にしている学匪ばかり。

「小人の学は、耳より入りて口より入ず」というが、小人は学問を売り物にし耳から聞き齧った事をそのまま口にするので少しも身に付かない。未だ自分の口で話すだけ好いが、無言のリツイートは身に付かないどころか周りにとっては迷惑千万。

「小人の学は、耳より入りて口より入ず」との喩えは愚生的には実に耳が痛いものを感じるが、繰り返して語ることで自分の思想になっていく場合も無きにしも非ず。

 自分の中に真の学問を積んでいる人は決してひけらかすことはなく、衒学臭くはないという。確かに新渡戸稲造の「武士道」でも衒学は一番嫌われると教えている。

 武士道の一説に「学問は他人を説得したり、論破したりするものではなく、自分自身がどう生きて行くかのか、或いはどう在るべきか、といったことに答えを見出すものでなくてはならないのである」と在るのは括目に値する。

 学問とは本来自分自身の向上の為のもので、仲間にしか通用しない夥しいコピペをSNSに貼り付けたり無言リツイートしたり、付け焼き刃の知識をひけらかし、自分自身に酔っているネット右翼や営業右翼はある意味で反面教師とも言える。

 実践の伴い薄っぺらな主張では世の中どころか他人さえも、否、身内や友人さえも看過することも感化させ賛同させることも出来ないだろう。

 愚生の場合、倫理哲学者である西晋一郎が好きで彼是と参考にしブログのタイトルにも載せている。自分自身に酔っている訳でもないが、西先生の「教えるとは実に教えられることである」を肝に銘じ、今日もまたこうして書き綴っている。呵呵。

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2020年11月20日

夫婦別姓推進派の狙いは「戸籍法」廃止と国體破壊と皇統断絶である

 タレントのビーバーが、雑誌か何かの取材に「夫婦別姓が実現するまで結婚はしない」と語ったという記事を読んだ。「氏(苗字)は個人の名前」と誤解し勘違いしているアホの典型。「氏」は個人の名前ではなく家族を表す名称である。

「私は、現行の婚姻制度には思うところがありまして、というより不満があります。(中略)結婚をしたら、姓を変えるのが当たり前という前提で、パートナーの従属物になるような、社会の中での扱われ方が私には納得できないんです。(中略)個と個が対等な関係で法的に何らかのメリットがあるという状況で結ぶ婚姻関係であれば、したいと思いますけど、今のままの制度ではしたくありません」

 こういうバカタレが選択的夫婦別姓に騙され戸籍法廃止を謀る左翼勢力に利用される。だったら一生、結婚しないでとっかえひっかえ男と遊んでりゃ好い(笑)

 早大などが行った「選択的夫婦別姓」のインターネット調査で、70.6%が理解を示しているという結果が新聞記事に出ていた。これは選択的夫婦別姓の中身や真相を理解してるのではなく、夫婦が互いに旧姓で呼び合うのに理解を示しているだけ。

 洩れ伺った処に拠ると、このアンケートは早大の棚村研究室の調査ではなく、早大に併設された棚村政行弁護士の調査で、統計的処理の和集合と部分集合とを誤解するように誘導した数値であり、実際に夫婦別姓を支持してるのは15.5%だという。

 夫婦別姓推進派は「選択的夫婦別姓」について、「反対する理由が分からない。選択的なんですから、同姓にしたいなら同姓にすればいい、別姓にしたいんだったら別姓にすればいい」と語り、その真意も分からず「そりゃそうだ」と同意する。

「戸籍」は、明治維新以前には武士や大店の商人以外の民には氏などなかったが、明治新政府が戸籍を整える為に全ての国民に「氏(姓)」を与えたのが始まり。

  戸籍には筆頭者のみが氏と名で書かれてある。その他の家族は続柄と名しか書かれていない。氏は個人の名前ではなく家族を表す名称というのを知らなさ過ぎる。

 夫婦別姓が成立されれば戸籍は混乱を来たすだろう。嫡子の戸籍はどうするのか。夫婦別姓で「個」を語るということは、先祖との繋がりを絶つと言うこと。こうしたことでも、夫婦別姓の狙いが戸籍法の混乱と廃止に在るのは言わずもがな。

「選択的夫婦別姓制度」を導入したイタリア、オーストリア、ドイツ、デンマーク、スウェーデン、ハンガリー、フランス、スペインなど欧州の国々では婚姻率が4割以上も減り、離婚率が2倍となり、婚外子の割合が5割も増加した。

 北欧、フランスでも婚外子が5割を超え、従来の家族制度が崩壊している。何故にこうなったのかは「選択的夫婦別姓制度」の導入が最大の理由である。

 我が国は「一夫一婦制」だが、夫婦別姓になれば「一夫多妻(一婦多夫)制」が可能となる。今や婚外子が実子と同じ相続権を得られるし、成金のオッサンらは別姓という名の妾や愛人を合法的に囲えるし願ったり叶ったりかもな(笑)

 別姓が罷り通り「個」が優先されることに由って、不倫や不貞行為は当たり前の不道徳な世の中になるだろう。タレントの不倫や不貞行為には過剰に反応しながら、選択的夫婦別姓の実現を願うというのも可笑しな話だと思わないのだろうか。

 夫婦別姓に限らず女性宮家や女性天皇論など、突き詰めた議論も無い中で安っぽいムードだけで、グローバル時代の到来だとか、人権だとか男女平等だとか、左翼に牛耳られたマスコミの創り上げる風潮と曖昧な次元でもって賛同者が広がってる。

 夫婦別姓推進派は、現在の戸籍制度が家族単位である点を「戦前の家父長制度の残滓」と捉え、戸籍を個人単位の「個籍」や「個人登録制」に改めることを求めている。こうした考えは家族制度の解体を意図していることは明白だろう。

 夫婦別姓を推進する勢力の真の狙いは「戸籍法」の廃止であり、我が国の家族制度を始めとした伝統文化の破壊を目指している。最終的には国體の破壊と皇統断絶であり、その一里塚として「選択的夫婦別姓」で世論を誑かしているに過ぎない。

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2020年11月19日

政治の世界こそ実力の世界に戻さなければならないと感じる

 人生とは実力社会と言われる。実力社会というのは相撲の世界と同じで、実力がある者が番付が上がり、その中でも心技体が備わっている者が横綱となる。

 この横綱の子供が必ずしも横綱になれる保証はなく、血縁も、家柄も、門閥も、また学歴も一切関係ない。正しく実力だけがものをいう世界である。

 これに反して政界や役人、話題となっている日本学術会議などでは学歴と経歴がものをいう。幾ら実務能力が優れていても高卒じゃ事務次官にはなれない。

 政治家の世界も今や実力社会ではなくなって久しい。政治家になるには選挙が重要となり、そこで「ジバン・カンバン・カバン」がものいうから世襲が有利となる。

 歌舞伎の世界も同じで世襲が当たり前。団十郎や菊五郎、吉右衛門など襲名出来る者は限られていて、家柄、門閥がないと実力があっても襲名は容易ではない。

 菅義偉総理は世襲ではないが、こうしたのは稀で政治の世界でも世襲議員が幅を利かせている。政治の世界こそ実力の世界に戻さなければならないと感じる。

 政治の世界での勝負は選挙だが選挙に負けたらタダの人。昨今では引退した筈の議員らが、あ~だこ~だと現政権にイチャモンを吐けてるが実に見苦しい。

 河井夫婦の公職選挙法違反事件というのは、安倍の期待に応えて何が何でも勝たねばという意識が強かった故の行為だったのだろうが、勝負事というのは何でもかんでも勝ちさえすりゃ好いかといえばそうでもない。この加減が実に難しい。

「凡そ軍勝五分を以て上となし、七分を以て中となし、十分を以て下と為す。その故は五分は励を生じ七分は怠を生じ十分は驕を生じるが故。喩へ戦に十分の勝ちを得るとも、驕を生じれば次には必ず敗るるものなり。全て戦に限らず世の中の事この心掛け肝要なり」とは武田信玄。十分の勝ちを得る事は驕りを生じると戒めている。

 言い換えれば、負けを知らずに勝ってばかりいては敵ばかりが増えることにもなり、勝つにしても相手を慮って程々の勝ちを心掛けるのが好いと訓える。

「雀聖」色川武大(阿佐田哲也)は、ギャンブルから学んだ人生観を相撲の勝敗に例え「9勝6敗を狙え。8勝7敗では寂しい。10勝を狙うと無理がでる」と教えた。

 賭博を目の敵にしてるネット民などから「人生をギャンブルに喩えるとは怪しからん」と批判されそうだが、競馬も競輪も競艇もオートレースも、投資だって賭博性の高いギャンブルの様なもの。結婚もギャンブルに近い(笑)

 分不相応なギャンブルは以ての外だが、そうなるのも己の実力を知らないから。要は「場数」が少ないのだ。場数とは失敗した数であり、バカな経験数が後々自分の為にもなってくるし、男としての重みも備わって来るというもの。

 勉学も好いがギャンブルなどの悪事(勝負)事も好い経験で、そうした経験も無いヤツというのはハンドルの遊びと同じで大きな過ちを起こすものだ。

 阿佐田は「幸運が続き過ぎると危ない」という考えから、ギャンブルに大負けすると「ここで不運を消化しておけば安心だ」とよく語っていたという。負け惜しみもあるが、勝負師としては信玄よりずっと分かり易いと思うのは愚生だけか(笑)

 美空ひばりの「柔」に「勝つと思うな思えば負けよ~♪」という歌詞がある、「勝とう勝とう」と思うと、気負いから実力を発揮出来ずに終わるということが多い。だが、そこを「引き分けでいいのだ」と思うと気負わずに出来るもの。

「ケンカ」も同じで「相打ちで好い」という気構えで相手と対峙すると、そんな精神的余裕が勝ちに結びついたりするもの。ということは、小倉競輪場で開催されてるG1競輪祭も大穴勝負じゃなく程程の配当狙いが好いかもな。呵呵。

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2020年11月16日

死刑の是非を多数決で無理やり決議するのは個人の思想弾圧だ(南出喜久治)

「死刑制度の廃止を目指す」とした日本弁護士連合会(日弁連)の宣言が会の目的を逸脱しているとして、京都弁護士会の南出喜久治弁護士が、日弁連などを相手に宣言の無効確認を求め、京都地裁に提訴するという記事が目に留まった。

 南出弁護士は「日弁連は政治や思想に関して中立であるべきで、目的外の行為だ」と訴えているのに対して、日弁連は「死刑制度は政治的な問題ではなく、国家による最大の人権侵害。決議や宣言は、基本的人権の擁護などを掲げる会の目的から逸脱していない」という認識を示しているが、詭弁以外の何ものでもない。

「人権侵害」を掲げる団体の胡散臭さは日弁連を筆頭に左翼団体の専売特許。日本学術会議が奇しくも日本共産党機関紙「赤旗」でその正体がバレることとなったが、共産党の第五列でもある日弁連の実態と売国性を国民に曝すべきだろう。

 刑事訴訟法では、「死刑確定から6ヵ月以内の執行」を定めており、何れも場合も6ヶ月以内に検察庁が法務大臣に「死刑執行上申書」を提出し、規定通り押印し、「法相の命令から5日以内に執行されなければならない」と定められている。

 我が国の死刑制度は「仇討ち禁止令」や「決闘禁止」に代わるものとして成立したものでもある。国民の間で死刑に対する理解が多いのは「国が被害者に替わって恨みを晴らしてくれる」という期待感からで、殺された側の気持ちを汲めば死刑は当然の結露だろう。殺された者より、殺した側の人権とは本末転倒である。

 明治6年2月、司法卿であった江藤新平が「復讐禁止令(仇討ち禁止令。太政官布告第37号)」を発令した。幕末から維新期の派閥、政論の対立による暗殺とその報復という面があったところから、この種の紛争を断ち切る為のが目的だった。明治22年には「決闘罪ニ関スル法令」も発布され、敵討ちや復讐は禁じられた。

 主君や親兄弟などを殺した者を討ち取って恨みを晴らすことは、日本人の美意識の顕れともいえる。江戸時代には武士階級の慣習として公認され「敵討ち」と認められれば罪に問われなかったばかりか、それは美化され大衆の支持を得た。

 死刑廃止論者は、「国際人権基準」がどうのだとか「非人道的」だとか「生きる権利の侵害」「死刑囚の資料を精査する十分な時間があったとは思えない」とか愚にも付かない意見ばかりで、被害者側に立った意見は殆ど聞くことはない。

 死刑廃止の理由として挙げられる理由は「冤罪の疑い」や「法により国が人を殺す事は罪悪で人道に反する」「死刑には期待する程犯罪防止効果は無い」「人間は善を行うべき道徳的本性を先天的に具有しているのだ」など様々だ。

「冤罪」というのは、袴田事件などを見るまでもなく確かに有り得なくはないが、それは警察捜査の傲慢さと科学捜査の正確さが乏しい時代のものが殆どで、そういう疑いのある事件は再審対象にすれば好いだけの話しだろう。

「人道に反する」とは、「人を裁けるのは神のみだ」というキリスト教的欧州思考に冒されているもので、そんなものに与する方が大きな間違い。「死刑廃止は今や世界の大勢で日本もそうすべき」という意見は単なる外人コンプレックスに過ぎない。

 左翼人士や日弁連を仕切る人権派弁護士などにこうした主張をする人を見かけるが、日頃、反米を唱えながら、また共産主義者であり無神論者でありながら、都合の好い部分は米国でもキリスト教でも利用しようというのはホント逞しい(苦笑)

 残虐な犯行をした者が、死刑廃止で国法により生命を保証されるというのも如何なものか。況してや今どきの再審請求を利用して執行停止を謀るなど姑息過ぎる。「生」に拘るより、「死」を以て償うべきだと思うのは愚生だけではあるまい。

 抑抑、前述した通り、我が国の死刑制度は被害者遺族に代わり国が仇討ちする意味合いがある。仇討ちを合法化するなら愚生も納得もするが、死刑を廃止し終身刑を導入したところで被害者の感情は薄れることは無いし犯罪が減るとも思えない。

「社会は肉体の安全を保障するが魂の安全は保証しない」と言ったのは三島由紀夫。正しく人として大事にしなければならないものは肉体より魂や精神性である。

 死生観の違いといえばそれまでだが、残虐な犯行をした者が、死刑廃止で生命を保証され、のうのうと生きてるという事実こそ不正義と不条理の最たるものだ。

「死刑」は、日弁連幹部が言う様な「国家による最大の人権侵害」ではない。他人を犠牲にした犯罪への相当の審判であり、無駄に生き長らえて来た人生にピリオドを打つ為の優しさでもあり、正しく死刑制度とは鬼畜の死刑囚への大慈悲なのである。

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2020年11月15日

「わしゃ脳をやられちゅうきダメじゃ」(坂本龍馬)

 11月15日は坂本龍馬の生誕日でもあり命日。龍馬は天保6年11月15日生まれ。龍馬が京都の醤油商・近江屋で暗殺された日は慶応3年11月15日。11月15日は、坂本龍馬にとっても龍馬ファンにとっても思い出深い日でもある。

 龍馬暗殺の謎について「北辰一刀流免許皆伝の龍馬を一刀両断するとは」とか「龍馬はピストルを持っていたのに一発も発砲されていないのは何故か」「中岡の暗殺に、龍馬が巻き込まれたのではないか」など謎は多い。

 こうした暗殺の謎が謎を生み、そして歪曲され、またドラ小説やドラマなどで想像され、龍馬のカリスマ性と偶像が誇張されていったのではなかろうか。

 坂本龍馬は、幕末にはそれほど有名な人物ではなかったという。維新後数十年が経ち、四国の新聞に「坂本龍馬特集」が連載されてから、その生き様が日本人の嗜好に合致し、人気に火を点け全国に拡がったというのが真相と言われている。

 坂本龍馬暗殺の実行犯説というのも歴史家によって意見も様々だが、大凡「京都見廻組」と「新撰組」説に分かれ、「京都見廻組説」では、元隊士だった今井信郎と渡辺篤が、佐々木只三郎らと実行したとの証言を理由に挙げる。

「新撰組説」では、刺客が「こなくそ」と伊予弁を話していたとされ、伊予出身の原田左之助刀の鞘や隊士の下駄が近江屋に残されていたとの説を挙げる。この「こなくそ」説は、西軍の谷干城(たに たてき / かんじょう)の独り言に過ぎない。

 龍馬は近江屋に脱出することが出来る隠れ家を土蔵に造っていた。暗殺された日は、風邪で龍馬は土蔵ではなく、来訪した中岡慎太郎と近江屋のニ階で、好物の京都「鳥彌三」の鶏の水炊きを食らいながら歓談していた。

 部屋には二人の他に、龍馬の護衛でもある元・力士の山田藤吉。そこに南大和の「十津川郷土」と名乗る男らが訪ねて来る。山田がその客人らを疑わずに通した。

 部屋へ向かう途中に山田は後ろから斬られ、龍馬はドラマなどで仄聞されている様な「わしゃ脳をやられちゅうきダメじゃ」という台詞を吐く間もなかった即死に近く、中岡はこの襲撃からニ日後に亡くなっている

 龍馬は北辰一刀流の免許皆伝というのが歴史的に語られているが、事実は北辰一刀流の「長刀」、つまりは「薙刀」の名手で剣術ではない。西洋流砲術も学びはしたが、実際には剣の腕前はそれほどではなかったというのが真実だろう。

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 有名な龍馬の画像。拳銃を懐に仕舞っているという立つ姿は、刀がだらしなく下げられて如何にも弱そう。どう見ても剣術の達人には見えない。

「寺田屋事件」でも龍馬は短銃で応戦はしたが、弾丸が切れたにも拘らず刀で応戦せず、不様に短銃を振り回して、両手に数か所の深手を負った。こうしたことをしても北辰一刀流剣術免許皆伝の応対とは思えはない。

 寺田屋事件での傷を癒す為に妻のお龍さんと共に薩摩の温泉に行くのだが、歴史的にはこれが新婚旅行の最初とされている。だが、これもまた根拠の無いもので、薩摩の家老・小松帯刀がそれより十年早く、霧島へ新婚旅行へ行ってるそうだ。

 歴史が物語として語られる時、必ずしもその人物の真実を伝えているとは限らない。書き手の主観が入ったり読み方一つでその生き様も変わってしまうものだ。坂本龍馬が歴史教科書から消えるというが何となく分かる気がする。

 暗殺の謎が謎を生み、て薩長連合の立役者と持て囃され、そして歪曲され、また想像されて龍馬のカリスマ性と偶像が誇張されていった。

 そんな龍馬とは何者なのかといえば単に武器商人に他ならない。龍馬から学ぶものがあるとすれば、幕閣とも勤王の志士とも通じ、薩長連合の仕掛け人足り得たのは説得の技術、つまりは話す言葉がズバ抜けていたことだろう。

 大衆の心を引き付けるのは「言葉」を以て他に無い。龍馬は正に「言葉の達人」だったのではあるまいか。更にもう一つは、彼が「歩く人」だったことだ。交通の不便だった時代に、龍馬は実に驚くほどの距離を行き来している。

 多くの人と顔を突き合わせ話し合う。こうした出会いと邂逅こそが自己確立に繋がり、延いては混濁した時代をも変える原動力ともなる。

「袖する合うも他生の縁」というし、思想信条が違えども遠慮することはない。どんな相手でも必ず共通の話題があるもの。共通の話題がないということは、人生経験が少なく視野が狭い証でもある。雑駁でも色々な知識を身に付けるべきだ。

 別に難しいことなんぞ話題にせずとも、スケベなことや趣味などあり触れた日常から感化しオルグすることだ。そこで、場数という人生経験がものを言う(笑)

 オルグとは左翼の専売特許だが、右翼や保守派に足りないものは、こうしたオルグ(大衆運動)である。今どきの右翼は仲良しクラブの様なもので仲間と盛り上がるが、仲間の拙い点を見ても見て見ぬ振りをするのは如何なものか。

 誰かの請け売りの下手くそな演説なんぞオナニーの様なもので、身内さえも感化されることはないだろう。それより、近所の焼き鳥屋などで隣り合わせた人と語ってみることだ。そうした対話が思想形成に役に立つ。横議横行するべし。呵呵。

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2020年11月13日

時代が運命を見放した戦国武将・伊達政宗の処世術に学ぶ

「運命」「宿命」「使命」「懸命」などは夫夫「命」という言葉が使われている。例えば「運命」とは生命を運ぶと書く。この世に生まれたという宿命を、懸命の努力によって使命を果たして好い方向へ運ぶことの出来るものが運命でもある。

 愚生の場合、この懸命の努力に乏しく投げやり的他力本願だろうか。右翼人として、一維新者を自任しながらもその使命を死命とせずに、うだうだと怠惰な生き方を続けている。これが己の運命や宿命と気取るのも厚顔の至り。

 歴史を見れば、戦国時代の織田信長や豊臣秀吉、徳川家康の様に天下統一を果した者もいれば、この三名以上の器量や見識、才智に長けながらも生きた時代が悪かったのか、時代がそれを見放して地方の武将に甘んじた者も少なくない。

 そんな武将の中でも奥州の伊達政宗はそういう悲運の武将でもあろう。唯、惜しむらくは天の時、地の利を得なかったし、何より生まれたのが遅過ぎた。

 梵天丸と称した少年時代、隻眼で醜怪な顔立ちが忌み嫌われて、弟の竺丸を偏愛した産みの母に危うく毒殺されそうな一幕もあった。

 十一歳で元服し「政宗」を名乗り、十三歳で三春から愛姫を娶る。十九歳の時には降伏した二本松城主・畠山(二本松)義継が、和議を仲介した政宗の父・輝宗を宮森城から拉致。政宗は粟ノ須(あわのす)で輝宗もろとも畠山を撃殺した。

 この逸話には諸説あり、最期を悟った畠山義継が伊達輝宗を殺害した後に自刃したという説や、政宗の父殺しの陰謀であるとか、輝宗が「我が身諸共義継を撃て」と政宗に命じたという説がある。ドラマでは輝宗が命じたという説が多い。

 畠山家と伊達家の因縁は奥州探題に遡る。奥州四管領の一人として奥州の地を取り締まって来た畠山家にとって伊達家は新参者である。畠山義継・伊達輝宗の時代までは和平を保ってたが、政宗が家督を継ぐとその勢力図は崩れて行く。

 米沢を拠点にしていた伊達氏は周囲の大名を取り込み奥州一の勢力となる。二本松にも攻め入り、大名舘を攻め落とし次々と奪い取って行った。 中には伊達家に通じる二本松の大名などもおり、畠山は危機感を募らせていく。

 そこで畠山は、輝宗に「降伏をするので息子(政宗)の暴挙を止めてくれないか」と宮森城を訪れる。 ところが輝宗は「自分は家督を退いた身であり、政宗に任せてある」と、和議の申し入れを聞かなかった。そして前述した拉致に続く。

 この政宗が住んでた城が愚生の故郷の「小浜城」。小浜城より2キロほど下った処に在った「宮森城」に輝宗が居城していた。ここの宮森家の末裔が、現在は「花春」や「栄川(えいせん)」「宮泉」などの会津の銘醸を創り上げた。

 畠山を成敗した政宗は、二本松救援の名目で駆け付けた佐竹及び蘆名ら南奥諸大名連合軍と激突し、会津四軍を攻め落とし黒川城(鶴ヶ城)に入城する。この時、政宗は二十歳。一方では秀吉が小田原城を攻め全国平定が成し遂げられつつあった。

 歴史に「若し」は無いが、若し、政宗が奥州の片田舎でなかったら天下統一も夢ではなかっただろう。これ即ち「運命」に非ず、「宿命」というものだろう。

 斯くいう愚生も東北の片田舎で蟄居状態ではあるが、決して中央で活躍してる右翼らより活動家や右翼人として劣っているとは思わない。然し乍ら、やはり団体を除籍になった影響は大きく、これも宿命だったのかと自問自答する今日この頃。

 東北人だからということではないが、政宗に学ぶことは多い。中でも豪胆な外交力は刮目に値する。政宗は秀吉の度々の上洛の督促にも中々腰を上げ様とはしなかった。小田原参陣の最後通牒を受けても正月を悠々と会津で過ごした。

 政宗は数年前から秀吉を取り巻く煩型(うるさがた)の家康、利家、秀次、浅野長政、千利休などの実力者と親交を結び、かなりの付け届けを怠らなかったという。これは秀吉の動向を探る為のもので、その外交力の高さが窺える。

 小田原で秀吉に謁見する際には、髻(もとどり)を水引で結び、甲冑を被り、素衣を着て、凶服の装束で出掛けたという。流石の秀吉もこれには唖然。

 諸国大名居並ぶ中で命拾いの御礼言上。そして献上品として大量の砂金を差し出す。その砂金が零れると、事も無げに懐紙で拭いてしまった。政宗の豪気と肝の据わり方はやはり天性のものであろう。この時、政宗、弱冠二十一歳。

 天下分け目の「関ヶ原の戦い」も終わり、天下の大勢が家康に決すと察すると、政宗は国内統一は諦め、外国との貿易を夢見て支倉六右衛門ら伊達政宗遣欧使節団十名を独力で派遣する。こんな気宇壮大な武将が他にはいない。

 政治家にしろ、組織のトップにしろ器量や見識、才智に長け、或いは能力があるから成功するものでもなし、人の運命とは実に気紛れで不可思議なものでもある。

 まぁ、愚生の慢性的不如意は自業自得の様なものだが、そのうちなんとかなるだろうし、正統右翼浪人から抜け出して一維新者として活躍の場が来るだろうと勝手に思っている。何故ならそれが愚生の右翼人としての運命なのだから。呵呵大笑。

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2020年11月12日

政治というのは立派に動いていれば存在を意識されるものではない

 トランプが日米のマスコミから批判に曝されていた前回の選挙では、日米同盟や安保条約解消に向けてトランプが大統領に就いた方が我が国には都合が好いと応援していただけに、今回も不正選挙が暴かれて再選されれば酒も美味しいだろう(笑)

 前回の大統領選挙では、日米のマスコミは反トランプキャンペーンを行っていた。そんな中で、民衆の中でトランプ人気が徐々に盛り上がって行った。

 保守派らが愛読する産経新聞でさえ前回の選挙ではクリントンを支持しトランプ候補を腐した。社説でもある「主張」の中で、トランプ人気をこう解説する。

「政治経験のないトランプ氏の人気は既成の政治への不満であり、大衆の本音をずばり口にするポピュリズムである」とポピュリズム的トランプ人気に釘を刺していたが、ポピュリズムは別にトランプに限ったことではない。

 政治経験の無い人物が政治家になるというのは別によくあることで、我が国でも「無用の長物」である参議院議員なんぞにはそんな素人議員がうじゃうじゃいる。大統領選を批判する前に国内に蔓延するポピュリズムを糺すべきだろう。

 我が国の政治家どもは選挙目当てで大衆に媚び諂い、選挙中には「国民の目線に立った政治を行う」との台詞を吐く。だが、民主主義の本質は国民目線に立つことではないし、平均的な国民を創ることが政治家の務めではない。

「国民の目線」とはワイドショーに煽られた平均的意見である。マスコミは国民の安直な正義感に迎合し、自分達の主張こそが「正義」であり、「真の民主主義」であるかの主張を居丈高に振り翳し、国民を煽動し続けているのが現状だ。

 政治とは、国家観を重んじながら、国民目線とかけ離れた歴史観、人間観、世界観、時には高度な権謀術数を必要とするものなのだ。経済もまた然り。

 前回の大統領選はマスコミや評論家らの下馬評を覆してドナルド・トランプが当選。その選挙結果を不服だとして民主党支持派やそれに便乗する反米勢力によるデモや騒乱が起きたことは記憶に新しい。今回の反バイデンデモも恒例行事。

 こうしたデモやネガティブキャンペーンなどを見てると、民主主義というのは正に衆愚政治でもあるというのを実感する。バイデンが当選確実となるや民主党支持者のレデイ・ガガら多くの芸能人が狂喜し、負けを認めないトランプを批判。

 米国の芸能人というのは政治に参加することを当然の権利であると信じて止まない。ハリウッド俳優の渡辺謙らが安倍政治を批判してたのもハリウッド俳優の真似事。尤も彼の場合は、共産党員の吉永小百合の洗脳というのが正しい(笑)

「大衆の多くは無知で愚かである」「熱狂する大衆のみが操縦可能である」と言ったのはアドルフ・ヒトラー。有権者というのは実に利用し易いものだ。中でもマスコミや左翼らに洗脳されたタレントや有名人は都合好く利用される。

 ヒトラーはこうも言う。「私は間違っているが世間はもっと間違っている」。こういう幼稚で始末の悪い大衆が現在の有権者であり、そんな大衆の一票一票を集めて当選してるのだから大衆に諂ったマヌケなヤツしか当選しない。

 現在の選挙制度やマスコミに誘導された世論で当選した政治家にバカが多いのは当然の結果であり、そんなアホな政治家に期待する方がバカだ。

 ネットでは自分の仕事そっちのけで日本の将来を熱く語り、意にそぐわない意見には反論し批判するが、そういう人もまた扱い易いというもの。本来、政治というものがきちんと機能していれば、大衆が政治に係わることなどないものだ。

「胃痛の時に初めて胃の存在が意識されると同様に、政治なんてものは、立派に動いていれば、存在を意識される筈のものではなく、況して食卓の話題なんかになるべきものではない。政治家がちゃんと政治をしていれば、鍛冶屋はちゃんと鍛冶屋の仕事に専念していられるのである」との三島由紀夫の言葉は実に正鵠を射てる。

 そういう意味では、自分が然も政治家になったつもりで一喜一憂し、あ~だこ~だと嘆いてる米国も日本も、政治がまともに機能していない証左とも言える(笑)

 我が民族の将来と国家の前途を思い、政治を糺すのは大いに結構な心掛けだが、政治や選挙の仕組み、マスコミの報道姿勢が旧態依然なのだから変わり様がない。

 斯くいう愚生も、正統右翼浪人を自任し日本人としての正論を語ってきたつもりでいるが、訴える相手側に「敬」も無いのに聞き入れる訳もなく、右翼が毛嫌いされてるのに、熱く正論を吐いたところで聞き入れられる訳もない(笑)

 国民不在の国会を見るまでもなく、衆愚政治はこれからも続くだろう。そして行き着く処まで行かなけりゃ国民が目覚めることも無い。そしてその時に「維新」という革命が起こるのだ。そう、歴史は常に繰り返されるものであるのだから。

 バイデンが米国大統領に就くことでアジアや世界の相関図が変り混乱期を迎えるだろう。愛国者並びに全維新者は皇運を扶翼すべく一旦緩急に備えよ!

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2020年11月09日

米国大統領にバイデンが就くことは「米国のポチ」から脱却する好機でもある

 米国という国は何事も自分の利益だけを考える国であり、今日の夕刻までは友人であっても明日の朝にはもう敵となって、それを少しも不条理とも不道徳とも思わぬ国である。そう考えればトランプよりバイデンの方が米国人らしい(笑)

 米国が友人であるということは、それが米国の為に有利であるからであり、その他の如何なる理由も大義名分もつけたりに過ぎない。一旦その利益が失われたならば、何ら躊躇することなく180度転換して敵側に立つことを少しも不思議と思わない。

 トランプは愛嬌があったし、拉致家族に面会し金正恩に拉致問題解決を迫り、国連で問題提起したアメリカ大統領は彼一人。バイデンは対北朝鮮強硬派だというが、拉致被害者家族に寄り添うことはないし、拉致問題解決に動くことはないだろう。

 対中関係を重視し、拉致問題に冷淡だったオバマと同じ民主党の大統領はどことなく胡散臭い。健忘症の症状も見受けられるし、党内の親中派に好い様に利用される気がしてならない。違法選挙がバレて連座制に問われての失脚を願うばかり(笑)
 
 日本国憲法を創ったのは米国であり、米国に感謝しろと言わんばかりの対応や、容共派であるバイデンは、靖國問題でも我が国にいちゃもんを吐けている反日派。

 所謂「従軍慰安婦問題」や「南京事件」がそうだが、こうした問題の背後にいるのは米国であり、バイデンが日中関係の厄介な問題に介入してくることは明らか。

 所謂「南京大虐殺」にしても東京大空襲や広島・長崎への原爆投下を敢行した米国の論理の摩替えであり、日本も30万人の大量虐殺をしていたぞとでっち上げ。

「捕鯨問題」騒がれる様になったのも、ベトナム戦争で米国の使用した枯葉剤エージェント・オレンジが、環境に及ぼす影響が国連人間環境会議で討議されることになってからだ。捕鯨王国だった米国が反捕鯨とは嗤う他はない。

 当時のキッシンジャー国務長官等が、米国の国益を守る為、環境保護団体を利用し無理矢理「捕鯨問題」をこの会議に持ち出したというのが真相で、その後、非環境保護団体の増殖と理不尽な行為が続いているのは言うまでも無い。

 無理無体、理不尽なことでさえ平気でやる米国との外交交渉や同盟強化は慎重且つ警戒は対中外交同様に疎かにしてはいけない。バイデンなら尚更だ。

 米中両国に共通するものは互いの国益のみ。米中両国の国益と思惑が一致することになれば、それはアジアの動乱の濫觴と言っても過言ではないだろう。

 アジアの動乱の原因は昔から米国と共産主義だったということは歴史が証明している。19世紀末から20世紀前半にかけ、アジアの動乱に米国人宣教師の果たした役割は大きく、日露戦争後の動乱全てにキリスト教徒と天道教徒が係っている。

 ハーグの国際会議後の動乱は、安重根に代表される様にキリスト教徒が主体だった。明治43(1910)年8月に発覚した「寺内総督暗殺未遂事件」では122人が逮捕されているが、驚くべきことにその殆どがキリスト教徒だ。

 米国が本部の朝鮮独立の秘密結社「新民会」が「五賊」「七賊」所謂「親日派」の大臣暗殺計画。3.1独立運動や5.4運動。反日テロを繰り返し、支那事変から大東亜戦争へ進んで行くのも、米国と共産主義の巧妙な活動が最大の原因だった。

 20世紀は自由と平等の名の下にプロレタリア独裁を標榜する共産主義が猛威を振るい、キリスト教徒の望んだ中国共産党が世界の脅威となっているではないか。

 売国は過去にアジアで起こした米国の失政を猛省した上で中国共産党と対峙すべきで、そういう意味でもトランプ政権の対中強硬外交は間違ってはいない。バイデンが対中外交を難化させれば再びアジアに不幸と混乱を齎すことは必至である。

 米中は共に圧倒的な軍事力を背景に政治、経済、外交とあらゆる面で強圧的な対外政策を執って来た。だが、新型武漢ウイルスでそのバランスが崩れ去った。

 バイデンはコロナ禍を利用したが、怒りをぶつける相手はトランプではなく中国共産党であり習近平であるべきなのに我田引水的にコロナを利用した。更には勝利の為には不正も厭わない対応は米国人の倫理と道徳の欠落を露わにした。

 バイデンはこれらの不正行為を咎め、事実解明しようともせずに、当選を受け容れる神経は恐れ入る。投票を不正に操作することは国家への反逆行為であり、中国共産党関係者からの献金や政治工作は主権侵害の大問題という認識もない。

 米国大統領にバイデンが就くことで、中共の圧政に苦しんでる国々の落胆は大きい。バイデン就任後、世界は混乱し国際情勢は大きく変わって行くだろう。我が国も「米国のポチ」から脱却する好機到来と捉え、「自立」を目指さねばならない。

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2020年11月08日

尖閣で日中衝突となった場合にバイデンはどう動くか

 米国大統領に容共派のバイデンが就くことが現実味を帯びて来た。バイデンは靖國神社問題では中韓側の意向を汲んで閣僚の参拝に懸念を表明している反日派であり、尖閣問題でも中共寄りの立場から日本側に譲歩を求める可能性も考えられる。

 尖閣問題は、我が国の主張の正しさを国際社会に訴え、国連の「敵国条項」を排し、常任理事国入りを目指すことも大事。中共を脅威と思わないバイデンが大統領に就くということは、尖閣で日中衝突となった場合に米国を頼るのは心許無い。

 尖閣諸島に自衛隊の駐留や住民への上陸を許可し、オスプレイなどの島嶼防衛設備を充実させ想定される様々な安全保障上の対策を講じるべきだが、敵国条項が存在する限り、常任理事国である中共が「侵略」と看做せば状況が一変する。

 中共が国連総会に於いて「敗戦国(日本)が戦勝国の領土(沖縄・尖閣列島)を占領しようとしている」と発言したのを覚えているだろうか。

 この主張は、国連憲章第53条並びに第107条の「旧敵国条項」を念頭にした発言だが、未だ我が国は国連(戦勝国)からすれば「敵国」の儘なのだ。

 国連憲章の敵国条項とは「連合国の敵国であった日本などが再び侵略行為を行った場合、他の国は安保理の承認なしに武力行使出来る」と規定されている。

 つまりは国連憲章に基付けば中共は戦勝国として我が国を監視し、我が国の如何なる理由に因る防衛も、中共が「侵略行為」と断定すれば武力行使は可能となる。

 そうした中で若し尖閣での戦闘行為となった場合、米国が同盟国として参戦するか否かだが、容共派のバイデンは拱手傍観を極め込む可能性は少なくなく、そうなった場合、日米同盟も日米安保条約の在り方を根底から考え直す必要があろう。

 日本が一時的にでも中共軍を追い払うことが出来なかったとしても、平和ボケしてる国民が領土主権の重要性に目覚め、憲法論や国防力を見直す契機にもなるだろうし、我が国がまとまな国家となる好機であり、願ったり叶ったり。

 中共の場合はそうはいかない。紛争での失態は、習近平体制の威厳を失墜させ、周辺国への恫喝も通じず、巨大な軍事力を背景に弾圧されてる国々は独立に向けて自信を深める結果になり、共産主義一党独裁体制を崩壊する危険を孕んでいる。

 そう考えれば、習近平が国連憲章第53条並びに第107条をチラつかせ「日本の侵略行為」を主張し、海警法を改正しても直ちに行動に移すとは考えられない。そんな杞憂より、中共の世論操作や工作を如何に食い止めるかが重要となる。

 米国大統領の最中に海警法の改正を謀り、尖閣を虎視眈々と狙っているが、中共が狙うのはトランプ敗退後のバイデンの台湾切り捨てに伴うアジアの混乱だろう。

 昔から、アジアの動乱の原因は米国と共産主義だった。20世紀は正にキリスト教徒の望んだプロレタリア独裁を標榜する中国共産党と米国が世界の脅威となった。歴史は繰り返されるというが、習近平とバイデンが災いとなる可能性は高い。

 東シナ海の浙江省・南麂列島(南キ列島)は、尖閣諸島奪還を狙い軍事基地が整えられいる。習近平はこの島を「宝島」と評してる意味はどういうことか。

 この島から尖閣諸島まで約300キロ。「釣魚島奪還」を狙う中共にとって格好の立地。因みにこの南麂島は先の大戦では日本軍が上陸した島であり、支那大陸での国共戦争に於いては、劣勢になった国民党軍が「反共」の拠点を構えた島だ。

 南麂列島は碧く澄んだ海に囲まれ、海の幸のも恵まれたこの島はユネスコのエコパークに登録されている。この島の観光開発を奨め指示したのは習近平だった。

 習近平が主席に上り詰めると新たな野望を果すべく、この島を領土防衛の最前線として要塞化を進めた。こうした軍事行為を看過してるユネスコもユネスコだが、エコパークさえも利用する精神性の異常さは共産主義者ならではのものだろう。

 支那には古より「声東撃西(せいとうげきせい)」という兵法の戦略がある。東の方を撃つぞと見せかけて、実は西を撃つというのが支那戦史の鉄則。

 斉の威王が軍師・孫臏の献策により、魏が趙を攻撃している最中に魏の都を急襲して趙を救ったという故事「囲魏救趙(いぎきゅうちょう)」という戦略もある。

 こうした故事からも、尖閣問題を始めとする東シナ海のトラブルは、見方によっては中共の真の狙いは尖閣ではなくて、台湾や南シナ海なのではなかろうか。

 南シナ海のスカボロー礁はフィリピン・ルソン島に近くある島で、中共が竣設船とみられる大型船を展開し、軍事基地建設活動を強行したことは記憶に新しい。この島はフィリピンと台湾が主権を主張してるが2012年に中共が実効支配した。

 中共のこうした行為を容認したのはオバマ大統領の時代。民主党であるオバマは習近平の微笑外交と噓八百にまんまと騙された。バイデンも同じく、トランプの中共の脅威論に「そんなことはあり得ない」との認識を披歴してる。

 中共が尖閣諸島の実効支配を謀るとしたら、南シナ海で実行した漁民に扮した工作員が何らかの理由をこじつけて島に上陸し、その後に「漁民保護」を名目に中共軍が御出座しになるといった、セコ~いやり方くらいしか出来まい。

 中共なんぞ恐れるに足らないチンピラ国家であり、恫喝に屈することがあってはならない。いっそ尖閣列島で紛争が勃発すれば、一気に習近平体制と共産主義を崩壊させる一因となり、我が国は世界から称賛されることだろう。

 尖閣での日中衝突は、西沙諸島、南沙諸島、或いはインドやカシミール地方で中共の無法、虐政に呻吟している国々にとって希望の灯りとなるだろう。

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2020年11月06日

連日米国大統領選がトップで報道される不思議

 連日トップで報じられる米大統領選。拉致問題や対中外交を思えばトランプの方が好いかなくらいで、バイデンが当選しようが、日米関係は大して変わらない。こうした報道を見てるとやはり日本は米国の51番目の州なんだと痛感する。

 米国製の憲法を有難がってるのも正しく属国らしい。そういやバイデンは過去に「日本の憲法は米国が作ってあげた」と発言したことがあったな。

 当時、民主党代表だった岡田克也はこの発言に異を唱え、「(GHQが)草案を書いたかどうかというよりは70年間、日本国憲法を国民が育んできた事実の方がずっと重要なことだ」と、如何にもノー天気な護憲派らしい認識を示した。

「国民が育んできた事実」というのはキレイゴトに過ぎず、要は世界の国々が時勢に合わせ改憲していく中で、我が国の政治家は拱手傍観を極め込み、現憲法の矛盾や問題を先送りし、国家の大本を米国に委ね続けただけのことではないか。

 現憲法で得たものは、成否は別として「自由主義」「民主主義」「人権尊重」「平和主義」であり、まぁ今日の基を築いたと言っても好いだろう。

 だが、逆に失ったものは遙かに多い。「礼節」「長幼の序」「忍耐・我慢」「滅私奉公」「信義」「忠義」「愛国心」・・・数え挙げたら限がない。

 こうしたもの全てが現憲法の所為かどうかは分からないが、日本人はいつの間にか利己的なことを恥じない人間ばかりが殖え、自己犠牲の精神など皆無に等しい。 

 自分を犠牲にして他人に尽くすことこそ日本人たる所以であり美徳美風であるのだが、今や心の中の高貴さを失い、高邁な知性の磨きを様を忘れてしまった。

 想えば、日本は戦前と戦後では全く別な国になってしまった。無条件降伏した日本が米国の51番目の州から免れたのは戦後の帝国主義の崩壊が理由だ。

 その代わり米国は徹底した教育改革を行った。その徹底した「戦後民主主義教育」は、意図した以上の効果を上げ、現在も我が国に様々な影響を及ぼしている。「戦後民主主義」とは、自国を汚辱に塗れた過去と捉える自虐史観である。

 米国の指導の下で育った者は、国家から恩恵を受けながら個人と国家を常に対立させ、恰も国家は「人間を抑圧する組織」と見做して、反国家反体制的なポーズをとることが「進歩的」で「文化的」だと錯覚している。

 占領下、教育改革と並行して徹底したのが言論統制であり、情報発信の中枢であったNHKや朝日新聞、岩波書店がGHQの監視下に置かれ徹底して洗脳された。

 未だにこの三バカ組織は、米国の洗脳状態から脱却出来ずにいるどころか「反米」を気取り、日本を貶めているのは売れない吉本芸人より笑えない。 

「政治は三流、経済一流、官僚機構は超一流」と揶揄されたのも今や昔の話。その経済も崩壊し、商業道徳そっちのけで営利至上主義に狂奔したツケが出た。

 江戸時代、商人は「士農工商」の下位に置かれたのは、日本人からすると「金儲け」とは「賤しい」と捉えられ、軽蔑の対象だったからで今もその精神は変わらない。商人こそ襟を正し質素倹約を心掛けなければならない立場なのだ。

 江戸時代の思想家・石田梅岩は、商人の役割について「余ったものを足りない所に送り社会全体を過不足なくすることだ」と倹約の公共的な経済効果を唱えた。

「倹約」は「ケチ」とは違う。「倹約」とは社会の為に我慢することで、「ケチ」とは倹約の意味を穿違えて出し惜しみをしてる現在の経営者の喩えでもある。

 三度のメシを二度に減らしてはいるが、その余った分を頑張っている仲間らに分けてやれば好いものを、後で自分で食べたり、バカ息子に譲ったりでは経済が停滞するのも当り前。景気低迷の一因は、こうした経営陣の心の乏しさが要因である。  
 
 政治は三流どころか益々悪くなる一方だ。過去には、政治が如何に混迷しても、超一流の官僚機構が「日本丸」の舵取りを巧くやってくれるという「神話」があったのも事実だったが、今やその官僚が国を滅ぼす一大勢力になってしまった。

 果たして日本丸は何処へ向かってしまうのだろう。嘗ての日本は「恥を知る」国民だった。こんな国になったのは米国製の日本国憲法を始めとした御粗末な法律や愚策が元凶であり、それらに異を唱えない政治家や官僚、マスコミも第五列。

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2020年11月04日

右翼活動家が演説を上手くなろうと思ったら落語を聞きなさい(笑)

「読書の秋」とか「燈火(とうか)親しむべし」という。秋になると涼しさが気持ち良く感じられ、灯り(燈火)に馴染む様になるという。秋は読書に一番適した季節だという、唐代の文人である韓愈(かんゆ)の詩からの由来である。

 読書は読まないよりは読んだ方が好いというくらいなもので、「読書は楽しいし勉強になる」というなら別に読書じゃなくても映画でも落語でも愉しいし勉強になる。本を読むなら感銘した部分や言葉を書き出してみるのが好い。

 最近はとんと読書の量が減った。というのも、最近の政治の本は営業保守らの似た様な内容ばかりでつまらない。それなら映画や落語を聴いてた方が為になる(笑)

 昔の日本映画には今では使われない言葉に溢れている。盲(めくら)、唖(おし)、吃(ども)り、跛(びっこ)、聾(つんぼ)などの放送禁止用語がバンバン飛び交ってて実に面白く、台詞そのものが実に興味深いものばかり。

 古典落語も同じく、差別用語だけではなく、懐かしくも美しい日本語が処処に溢れていて、こうしたことを気にしながら観たり聴いたりすることこそが生きた「耳学問」であり、実践した教育でもあると思っている。

「憚(はばか)り様でした」(ご苦労様です。恐れ入ります)
「傍杖(そばづえ)を食う」(思わぬ災難に遭う)
「荷が勝つ」(責任・負担が重過ぎる)
「武士は相身互い」(同じ立場の者は助け合うべし)
「罪業の深さ」(罪の原因となる行為)
「浮世に拗(す)ねる」(世の中に逆らう)
「卒爾(そつじ)ながら」(人に声をかける時に言う語)
「阿漕(あこぎ)な奴」(あつかましいヤツ)
「お為倒し(おためごかし)」(上辺を取り繕ってるが実は自分の為)
「朝未(ま)だき」(夜の明けきらない頃)
「足元から鳥が立つ」(身近な処で意外なことが起こること)

 上はホンの一部だが、現代では余り馴染みのない言葉や台詞のオンパレード。映画や落語は娯楽や趣味だから、こうした難解な言葉を四六時中考え、気にして観聞きしている訳ではないが、気になった言葉を書き留めて調べてみるのも楽しい。

 この「四六時中」という言葉も、昔は「二六時中」と言ってたそうだ。旧暦だった時代には一日を十二刻で数えていたから「二六時中」と言ったらしいが、二十四時間制になって「四六時中」に変わったというから面白い。

 言葉は時代と共に移ろうものだが、時代時代でどういう人がどういう風に使っているのかを知れば、また違った世界観を知ることが出来るというもの。外国語に比べ、語彙に富んだ日本語というのは実に素晴らしい文化そのものだ。

 好きな落語家は三代目・三遊亭金馬で、歯切れの良い江戸弁は聞いていて実に心地好い。現役の噺家では昔昔亭桃太郎(せきせきていももたろう)」が笑える。

 実にとぼけた芸風で、高座に上がった時から面白い。そのネタの中でも金持ちを揶揄した「金満家族」という現代落語は馬鹿馬鹿しくてホント笑えます。

 桃太郎師匠の「金満家族」の元ネタになったであろうこんな笑い話がある。難破した船員二人が某国に上陸するという筋書き。腹ペコで食堂に入り、食べ終わって勘定を払おうとすると、食堂の主人が二人にこういう。

「君らはこの国が初めての様だが、この国は他の国と違って品物を買った方が金を貰う仕組みになっているんです。食堂で食べた分は、その分を金を持てって貰わないといけません。さあ、これを」と金を頂いた。

 二人はビックリし、次に洋服屋に入り洋服を買ってみた。そこでも同じ様に金をくれた。というので、靴も帽子も、時計もと欲しいものをどんどん買いだした。そして金も持切れなくなって、大きなカバンを買うもまた金が入った。

 初めは面白く、慾も手伝って沢山金を集めてみたものの、最後はげんなりして金を見るのももう懲り懲り。カバンも重いし、二人で相談して金を捨てることにした。

 ところが金を捨て始めると巡査に見つかってしまう。「コラコラ、ゴミ箱に金を捨てるとは何事だ。現行犯として、即刻この場で罰金刑を言い渡す」となる。

 二人はヤレヤレ、これで少しはカバンも軽くなるとほくそ笑む。巡査は「この国の法律では、罰金として相応の金を渡すのだ。署まで付いて来い」という。二人はビックリし、「金はもう沢山だ」と辿り着いた海岸に脱兎の如く逃げ出した。

 それを巡査が追いかけてこう叫ぶ。「逃げるとまた罰金の金が多くなるぞ!」というのがオチ。「金満家族」では桃太郎師匠が更にアレンジしてます。

 金を追いかけてる時というのは金が逃げて行く。「もう金は要らない」と思うと、金の方からやって来て、自然に金が貯まって行くもの。金の無い時というのは金が欲しくて苦労し、金が貯まって来ればまたそれなりに苦労が増える。

 金というのは絶対なものではないが、無いよりはあった方が何かと便利で、金が無いと人間的にも卑屈になりがち。まぁ、愚生的には金が無くても卑屈だとは思っていないが、金のネタで笑わせてくれる落語というのは実に素晴らしい。

「金満家族」はネットでも視聴出来ますので検索してみては如何でしょう。そこの活動家を自任してる君、ネット右翼より御粗末な理論をひけらかし下手クソな街頭演説をするよりも、寄席に通ってプロの話しっぷりを身に付けなさい。呵呵。

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2020年11月03日

「文化の日」は明治天皇の御遺徳を偲ぶ日ではなく第二の憲法記念日

 本日11月3日は「文化の日」。明治時代の天長節であり、我が国教育の指導原理である教育勅語を下賜され、教育・文化を重んじた明治天皇を偲び、日本文化を奨めるならいざ知らず、「自由と平和を愛し、文化をすすめる」とはどういうことか。

 この「自由と平和」の趣旨は、現憲法の平和主義であり、日本国憲法が公布された記念日として祝う為のもので第二の「憲法記念日」と言うのが正しい。

 現在の日本国憲法は、国法である憲法を占領軍が制定することは不適当であるとして表面上は新憲法(日本国憲法)の制定とはなってはいるが、建前上は大日本帝国憲法(欽定憲法)第七十三条の改正で日本人自身が制定したことになっている。

 第七十三条の条文は「将来此ノ憲法ノ条項ヲ改正スル必要アルトキハ 勅命ヲ以テ議案ヲ帝国議会ノ議ニ付スヘシ 此ノ場合ニ於テ両議院ハ 各々其ノ総員三分ノ二以上出席スルニ非サレハ議事ヲ開クコトヲ得ス 出席議員三分ノ二以上ノ多数ヲ得ルニ非サレハ 改正ノ議決ヲ為スコトヲ得ス」と規定されている

 昭和21年11月3日、帝国議会に於いて昭和天皇が「朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第七十三条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。御名御璽」と下賜されている通りである。

 当時、我が国は連合国の占領下に在り、当時の政府にしてみれば不本意ではあるが、米国の高圧的な対応や如何なる不条理を呑まざるを得なかったというのが真相であり、現憲法が米国の押し付け憲法であると断じられるのはこういうことだ。

 ポツダム宣言受諾から1年余りで日本国憲法が制定されるのだが、国民主権に関わる基本法である憲法を米国主導で強圧的に行われたことは国際法に問われて然りの大問題である。改憲議論と並行し現憲法の制定過程を検証するべきだろう。

 戦前の「明治節」であり、国民挙って奉祝した日である11月3日に日本国憲法を公布させたということに米国側の「有り難く思え」との如何わしい意図が窺える。

 占領統治時代には多くの策謀が実行されている。例えば「東京裁判」でも、所謂「A級戦犯」28名が起訴されたのは昭和天皇の「天長節」で、当時の皇太子殿下(上皇陛下)の誕生日である12月23日に東条英機閣下以下7名の絞首刑が執行された。

 現憲法の発布日を明治節にしたという事実は、国民と天皇の繋がりを否定し贖罪意識を植え付ける為のものである。こうした事実を知るだけでも、米英を始めとした連合国が如何に非情で無慈悲な、日本人矯正を実行したかが理解出来よう。

 本日の文化の日の趣旨である「自由と平和を愛し、文化をすすめる日」とは現憲法を絶対不可侵なものとしての強要である。祝日法改正を断行すべし。

 現憲法前文には「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼し・・・」という記述がある。だが、「平和を愛する」という感情と、現実的に平和を守るというのは違う次元というのはバカでも分かる。現憲法を有難く思っているのは誤憲派ばかり。

 今こそ戦後のあらゆる不条理を検証せねばならないが、不条理の最たるものが現憲法である。諸悪の根源である現憲法の改正は現憲法を認めることに他ならず、制定過程に遡り無効宣言をすることこそが最良であり、主権回復への近道でもある。

 保守派や愛国団体の中には本日を「明治節」として、明治神宮を参拝し、明治天皇の御遺徳を啓蒙するという行動も見受けられる。「明治節復活」は異論はないが、果して明治神宮がそれに相応しいかといえばそれもまた疑問である。

 明治神宮は国民の総意により、明治天皇と憲昭皇太后の御遺徳を偲び創建された神社である。だが、平成16年、明治神宮は突如として神社本庁から離脱した。

 神社庁からの離脱し一宗教法人になる理由として、平成16年4月の陛下御親拝の案内状に「陛下」を「殿下」と誤記してしまった責任を取っての離脱としている。如何にも尤もらしいが、ならば宮司が腹を召して詫びれば好いだろう。

 誤記は単なる言い訳であり、真相は神社本庁での主導権争いや確執の末の離脱というのが真相であり、一宗教法人になったのも卑しい営利至上主義からである。

 明治天皇と憲昭皇太后の御遺徳を偲ぶという本分を忘れ、神社を私物化し、営利至上主義に奔っているこうした現状は、神道の教えからも憂慮すべき事態である。保守派並びに愛国団体は明治神宮のこうした姿勢も糺さねばならない。

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2020年11月02日

「早く死んでは夢も叶うまい」北条早雲の処世術に学ぶ

 愚生は主君(会社)に仕えることなく俸禄(給料)も無いので、素浪人(正統右翼浪人)を自任している。侍(サムライ)は主君に仕え、侍(さぶら)うこと。つまり俸禄を頂くことで、浪人とは侍(さぶら)うことではない。

 昔の右翼の世界にはそうした素浪人が多かったが、今は働きながら活動してる右翼人ばかり。破天荒さはこじんまりと治まってしまった。野武士から身を起こして、伊豆、相模両国の大守となった武将の北条早雲の生き様は見倣うことが多い。

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 早雲は若い頃には「新九郎」と呼ばれて伊勢地方で育った。四十近くまで裸馬の生活をしながら一国一城の主を夢見ていたという変わり者だった。そんな伊勢時代、早雲は仲間六人と神水を飲み交しこんな誓いをしたという。

「我ら七人、如何なることがあっても仲違いなどすまい。互いに力になり合って武功を立てて立身しよう。もし、この中の一人が大守になったら、残る六人はその家人となって助けようぞ」

 三国志の「桃園の誓い」に「我ら三人、生まれし日、時は違えども兄弟の契りを結びしからは、心を同じくして助け合い、困窮する者たちを救わん。上は国家に報い、下は民を安んずることを誓う。同年同月同日に生まれることを得ずとも、同年同月同日に死せん事を願わん」というのがあるが、アレは創作でしかない。

 早雲の契りは実話だから面白い。新九郎(早雲)らが契りを交わしてから十五年、新九郎が五十五、六歳になって、小さいながらも一国一城の主となった。

 新九郎が一国一城の主になると、他の六人は約束を守って家臣となり、やがて新九郎が北条早雲と名を改め、伊豆、相模両国を支配する戦国大名にのし上がった時には、六人は家老として仕え、その関係は終生変わらなかった。

 好い時も悪い時も同じ様に付合い、幼き頃の高が知れてる約束事を忘れることなく実行したというのは素晴らしい。男の約束、男の友情とは斯く在りたいものだ。

 早雲の立派なことは、民心を安定させ、領民の全てを心服させていたことだ。当時、戦国の世の中は戦争に明け暮れていた関係で、どこの国でも農民を苛め、分けても関東地方一帯は、租税の厳しさでは群を抜いていた。

 当時の租税を「七公三民」といって七割を領主が召し上げる制度で、現在の税制と同じ様なもの。早雲はこれを「六公四民」に改め、百姓を苛める役人を処罰し、病弱者の為に今でいう診療所を開いた。領民の喜びの大きさは計り知れない。

 政というのは斯く在るべきだろう。北条家が後に五代続いたのも早雲のこうした善政の賜物。五十半ばから芽が出た早雲は、大器晩成の模範の様な男である。

 早雲が伊豆、相模を平定し、関東を制圧したのが実に八十七の時だ。その翌年、八十八で亡くなる。長生きは流石に真似出来ないが、還暦を迎えた愚生ではあるが、右翼人として活躍の場は未だ在ると思えば活力が漲るというもの(笑)

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 愚生も大器晩成だと自分自身に言い聞かせてはいるが、愚妻曰く「大器晩成の早死にタイプ」ということらしい。まぁ活動家にしては長生きし過ぎたが、憎まれっ子世に憚るというし、大いに憎まれ口、耳の痛い話を垂れ流してやろう。呵呵。

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