2019年11月

2019年11月29日

「人生会議」は家族や身内は勿論、身近な人にも話しとくべし!

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 厚生労働省が吉本興業のタレント・小籔千豊を起用して作成した「人生会議しとこ」のポスターを巡り、批判が相次いでいるという。こうした批判はいつものことだが、愚生的には言いたいことや大事なことが十分に伝わって来る。

 人間というのは、誰しも健康であれば明日があると思って生きている。自分だけは直ぐには死ぬことはないと思っている人が殆どだろう。

 啓蒙が趣旨のポスターに「患者にも家族にも配慮がない」などと抗議した団体もいるというが、多くの人には「死」というのは他人事なのだ。

 イエス・キリストは「一日のことは一日にて足れり」と訓える。カッコイイ言葉でいうと「一日一生」。右翼人の中にもこの「一日一生」という言葉が好きなと人が多いが、終身保険に入ってながら「一日一生」って、何だかなぁ(笑)

「今、この場で頑張らずにいつ頑張る」というが、今日のことは今日中に全力を挙げてやり通す。明日なんて来ないかも知れないし、通勤中に事故に遭うかも知れないのだからその日に済ませれることは済ませておくべきだ。

 病気になっても意識が鮮明なら伝えることは出来るが、突然に意識が無くなり、また言語が不自由になってからでは言残すのは困難。まさかの時の為に家族や気の置けない友人などに死後の事を話しておくのは大事なことだと思う。

 愚生も愚妻には「葬式はやるな」「仏教徒でもないので戒名不要」「死に顔は誰にも見せないで棺桶を閉じて早々に焼いてくれ」「散骨して欲しいが、それも面倒なら市の管理する無縁仏の納骨堂に納めてくれ」と幾度となく話している。

 借金返済の対応や「脳梗塞で半身不随なら面会拒絶」「延命治療はするな」「身内には死んでから一週間ほど経ってから報告だけすれば好い」「香典や花は辞退しろ」「若し死ぬのが俺が後だったらどうしたい?」と細かく指示してる。

 愚妻や倅だけに言ってたところで、日頃付き合いもない親族や知人から「何でやらないんだ」と文句を言われるだろうから、兄弟や親戚や知人にも予め言い含めているが、追追、最期についての文書を綴り配布しておこうと思っている。

「死」というものは貧乏だろうが金持ちだろうが、誰にでも平等に与えられた道でもある。人間というのは死に向かっているのに必死に生きる。死と生、この二つは矛盾してるが生き続けるというのは死に近付いているということでもある。

 極楽浄土や天国なんてのは釈迦牟尼やキリストが死への恐怖を取り除く為の優しい嘘だと思っている。人間死んだら終わり、全てが「無」となる。

 釈迦牟尼は「長生きは無間地獄」と教える。立派な生き方とは長い時間ではなく、生き方の中身が大事。だが、多くは長生きしたいと願っている。

 愚生は極楽浄土や天国とは今を生きてる現生に有ると思っている。自分より劣る者や難渋している人に手を差し向けることこそが極楽浄土や天国というカタチなのだと思っている。助けてやるとどことなく気持ちが好くなるが極楽気分(笑)

 仏教徒の多くは、自分の家の宗派も分からずに死んだ時だけ坊主を有り難がっているが、仏教徒が死後に戒名を頂くのは、死んで釈迦牟尼の弟子となり、修行を続けるという意味すら分かっていない。要は、信者も坊主も葬式仏教なのだ。

 病気になる前や倒れる前に、自分の葬式や墓のことなども話し合っておくべきで、小藪のポスターはそうした大事な事を教えているのに、くだらない抗議してる利権団体というのは「死」の在り方というのを理解しているとは思えない。

 臨死体験という話は聞くが、実際に死の世界から戻った者はいない。それだけ死後の世界というのは居心地が好い素晴らしい処なんだろうな勝手に思っている。ということで、皆さんも、突然ポックリ逝くかも知れませんよ。呵々。

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2019年11月27日

ローマ教皇ってのは政治パフォーマンスが大好物らしい(笑)

 ローマ教皇(法王)フランシスコが来日し、広島・長崎を訪問し核廃絶を訴え、官邸で「経済力より貧困対策」と宣い、皇居では「次の戦争は水を巡る戦争」との持論を垂れ、陛下に「施政者も共に行動する必要がある」と説いた。

 陛下は施政者(政治家)ではない。陛下へのこうした上から目線の進言や政治的なメッセージに違和感を覚えると同時にカトリックの偏狭さが窺える。

 教皇は福島原発事故の被災者集会を訪れ、災害の甚大さに触れてキレイゴトを並べていたが、結局は反原発派を喜ばせただけ。宗教と科学は相反するとはいえ、技術の進歩を留めることが共通の未来の姿だというのは偽善的過ぎる。

 集会でスピーチし、教皇とハグした高校生は非難区域外のいわき市からの自主避難者。避難先ではイジメに遭い、今でも出自を伏せなければならないという。そういうことなら、故郷に戻れば好いだろうに未だ自主避難を続ける不思議。

 兎にも角にも、ローマ教皇というのは政治的な発信が大好物らしい。集まったのはカトリック信者だから致し方ないが、安っぽい訴えを有難がる信者を見てると、未だに世界から戦争が無くならないのが何となく分かりそうな気がする。

 そんなに核が嫌いで経済格差や貧困を解消したいなら、日本ではなく米国や中共、或いは北朝鮮に出向いてその立派な教えを布教したら如何か。トランプはどうでも、習近平や金正恩の前ではキレイゴトも言えず沈黙するのが関の山だろう。

 教皇は、都内の教会で難民留学生らと対話するイベントに出席し、「特にお願いしたいのは、友情の手を広げて酷く辛い目に遭って、皆さんの国に避難して来た人々を受け入れることです」と訴えたが、上から目線の宗教家らしい。

 更に、日本政府が難民や在留資格の無い外国人などに対して厳しい対応を取っていると指摘し、より寛容な政策で難民らを受け入れるよう訴えた。

「寛容な政策」というが、不法入国者を無条件で受け入れる危険性を敢えて分かった上で訴えてるのか、それとも我が国を混乱に堕とすのが目的なのか。

 アジアの動乱の多くにカトリック教徒が係ったことは歴史が証明している。20世紀は正にキリスト教徒の望んだプロレタリア独裁を標榜する共産主義とキリスト教が世界の脅威となったのだが、教皇は21世紀のアジアの動乱が御望みか。

 その先兵となってるのが「日本カトリック司教団」。活動内容は「反原発」「憲法改正反対」「靖国神社参拝反対」「特定秘密保護法反対」「オスプレイ反対」「辺野古への基地移設反対」等々、宗教団体というより左翼団体そのもの。

 カトリックは世界13億人の信者がいるという。国内にもカトリック系の学校も在り、多くが憲法違反の私学助成金で成り立ってるが、「日の丸は侵略のシンボル」「君が代は天皇賛美」だと教えていることを教皇はどう思ってるのか。

 日の丸が侵略の旗なら米英や中共の旗は平和の旗か?抑々、カトリックとは、アフリカ、アジア、アメリカ大陸への殺戮と掠奪の先兵だったではないか?

 残虐の全てはキリスト教の教義の下、初めはスペイン・ポルトガル王、後にはイギリス・オランダ王の命令で行われたのではなかったのか。教義の下であれば、その殺戮と掠奪さえ赦されるという教えこそ一神教を信じる不幸でもある。

 最近、女性天皇の話題がマスコミを賑わせているが、2679年続く皇統の歴史には十代八人の女性天皇が存在している。ローマ教皇の歴史を見れば女性の教皇は存在していない。それどころか教皇を選ぶ枢機卿にさえ女性は一人もいない。

 他国に「寛容さ」を求めるなら、先ずは女性の枢機卿くらい誕生させる寛容さが求められる。だが、それは日本の難民受け入れより困難を極める。

 ローマ教皇フランシスコの日本訪問でのパフォーマンスを見ながら、八百万の神々が棲む神道の国に生まれた喜びを再確認した次第です。呵々。

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2019年11月25日

日本を骨無しにした憲法に…俺と一緒に立つ奴はいないのか!(三島由紀夫)

 昭和45(1970)年11月25日午後0時15分、三島由紀夫は楯の会メンバーの森田必勝、古賀浩靖、小川正洋、小賀正義と共に陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地東部方面総監室を占拠し、憲法改正の必要性を訴え、同行した森田と割腹自殺を遂げた。当時、小学生だった愚生だが、この衝撃的な事件は鮮明に記憶している。

 携行した檄の中で、三島は「もっとも名誉を重んずるべき軍が、もっとも悪質な欺瞞の中に放置され・・・自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与えられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与えられず・・・」と喝破した。

 戦後、我が国を占領下に置いたGHQは徹底した非軍事化を進めた。悲しい哉、現憲法下では「陸海空の戦力は保持しない。交戦権も認めない」となっており、自衛隊の存在自体が憲法上認められていないのが現実である。

 占領下の昭和25(1950)年6月、朝鮮戦争が勃発すると、マッカーサーは吉田茂首相に国内警察力と海上警備力の強化を促す書簡を送った。所謂「マッカーサー書簡(文書)」である。これは実質、日本国憲法の破棄を促したものだった。

 このマッカーサー書簡から1ヶ月後の8月9日には「警察予備隊令」が決定、翌日公布、即日施行という異例のスピードで準備が整えられ、政府は苦肉の策として現在の自衛隊の前身たる「警察予備隊」を設置した。

 当時は憲法上の「戦力不保持」の問題もあり、「警察予備隊は軍隊ではない」とする為に、「師団」を「管区」と呼び、「歩兵」を「普通科」、「砲兵」を「特科」、「兵器」は「武器」と呼称することとした。

「戦車」に至っては「特車」という始末で、当時の混乱ぶりと右往左往ぶりが分かるというもの。中学時代の社会の先生は、授業中「戦車じゃなくタンクと呼ばなくてはならない」と笑いながら教えていたことを思い出す(笑)

 その後、警察予備隊は「保安隊」となる。主権回復した昭和27年8月1日、警察予備隊と海上警備隊を統合し「保安庁」が設置される。政府は「保安庁法」を提出するも、野党は、憲法9条の条項を楯に政府を攻撃した。

 吉田茂はその答弁で、「戦力とは近代戦を実行する力であり、保安隊、警備隊にその力はない」と詭弁を弄した。その結果、自衛隊は永い間「戦力なき軍隊」と言われたまま憲法上から忘れ去られ、今もその呪縛に囚われて続けている。

 政府は今も自衛隊を憲法上認められる存在だと主張し続けているが、戦後最大の虚構こそが現在の自衛隊の存在なのである。

 自衛隊は現行憲法下では明らかに憲法違反の存在であり、未だ「警察予備隊」時代のまま「集団的自衛権の憲法解釈」などという目先の誤魔化しによってかろうじて存在し、あやふやな中途半端な存在のまま放置され続けている。

 安倍政権下で、健軍の本義も無き物理的な巨大な警察機構としての地位を取り払うことなく、憲法九条に附帯するという形で自衛隊を明記し、合憲化しようとしているが、これつまり現憲法の容認であり現憲法の絶対化でもある。

 自らの国家の防衛をも否定する矛盾だらけの現憲法を破棄し、違憲状態の自衛隊を「国軍」とすることに何を躊躇し、誰に憚るというのか。

 日夜、国の防衛の為に努力する自衛官の姿は心強いし、災害に立向かう自衛隊の存在は実に頼もしい。自衛官は我が国の誇りである。

 国防を論ずることなく、自衛隊の存在を憲法に明記することは自衛隊員への冒涜であり、平和主義を謳う現憲法との更なる矛盾を生むだろう。

 三島由紀夫と森田必勝は、現憲法の矛盾と戦後の不条理と欺瞞を訴えて壮絶な割腹自決を遂げた。常軌を逸した行動は、旧来の思想や社会構造を打破しようとする命懸けの行動であり、これ正しく憂国の至情である。

 こうした行動こそが正気の狂気であり、この狂気こそが我が国に圧し掛かる重苦しい閉塞感を打破する力に成り得るのだ。

【益荒男がたばさむ太刀の鞘鳴りに 幾とせ耐へて 今日の初霜】(三島由紀夫)

【今日にかけてかねて誓ひし我が胸の 思ひを知るは野分のみかは】(森田必勝)

 三島が訴えたかったのは、国軍であり皇軍であるべき自衛隊の存在を否定する憲法改正の訴えは単なる手段に過ぎず、真に訴えたかったのは「日本人を骨抜きにしてしまった現憲法」に対峙し、破毀することこそが主眼であったと確信する。

「あらゆる困難に耐え、忍び難きを忍び、決して挫けることなく、初一念を貫いて、皇国日本の再建に邁進せよ」とは三島由紀夫。今こそ三島・森田の精神を想起し、祖国日本の恢復を図らねばならない。合掌。

※檄文(全文)https://www.culturebeanz.com/entry/2019/08/18/210139

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2019年11月15日

「大嘗祭反対」「税金返せ」とシュプレヒコールを上げるキチガイども

 日没後、篝火と灯籠の薄明かりが灯される中で、陛下は廻立殿で身を清め、御祭服に着替え、悠紀殿へと向かう。宮内庁官長の先導で、侍従らが敷く葉薦の上を静々と進まれる陛下の頭上には、菅蓋が差し掛けられていた。

 弥弥、陛下が悠紀殿の中へ進まれると帳が閉じられる。中を窺い知ることは事は出来ないが、奈良・吉野に古くから伝わる歌「国栖(くず)の古風(いにしえぶり)」の後、悠紀地方の栃木の風俗歌が楽師らにより奏でられたという。

 大嘗祭に我が国の悠久の歴史を感じ、随神の道こそが日本人の教えであることを痛感する。それを示し導いてくれる存在こそが天皇である。

 神様とは何か、神道とは何か、元号とは何か。神道の祭祀を斎行する天皇とは何か。現神(あきつかみ)としての天皇の存在とは何か。現代に於いては、天皇の存在や祭祀は如何に重要かということを教わることはない。

 神社というのは近所に当り前に在って、祭りも愉しもうというだけで神への感謝はない。天皇の存在も同じで当たり前に在るものと考えている。

 神道とは新羅万象の全てが「神」の姿であるという考え方だ。山の神、海の神、森、川、泉、石ころや水、全てのカタチある物やそして人までも、その神の在る景色の一部に過ぎず、これこそが八百万(やおよろず)の神である。

 日本固有の信仰である神道は、こうした世界観の中から生まれた道である。神と共にあるから「惟神(かんながら)」といい、神の命を与えられているから人は「神の子」、生命は神の「分霊(わけみたま)」と考えられた。

 人は、彼等の暮らす土地の神である「産土神」の御陰を被って誕生し、産土神やその他諸々の神々と正しく付き合っていくことで四季の恵みを享受し、そして最後には産土神に導かれて祖霊の世界に帰って行ったという教えである。

 古の人々は神々の世界に対し、この様な確かな意味付けを必要としないまでも、それらを自然に体現し「神」を感じとっていたのだろうと推測する。

 我が国は天皇即日本であり、天皇の厳(いつ)を願うのは日本国民として当然のこと。我が国はいつの世も、時の陛下の御代である。いつの世にもそこには「君が代」の世界が存在し、それは存在し続けなければならないものなのだ。

 大嘗祭の反対集会があったという。我が国には共産党を始め反天皇勢力が存在する。その多くは天皇の存在を「天皇制」と断じる。だが、天皇という存在は天皇であって天皇制という制度ではない。天皇制とは共産党の造語である。

 反対集会の参加者らは「大嘗祭反対」「税金返せ」とシュプレヒコールを上げ、「たった一晩の儀式のために27億円もの税金を使い巨大な神殿が建てられた」と訴え、性悪にも「台風での被害者に充てろ」と災害や被災者をも利用する。

 現憲法下では、その是非は別として宗教色の濃い祭祀や祭事に公金を投入することは認められてはいない。大嘗祭の規定は現憲法や現皇室典範に明記されてはおらず、儀式の簡素化や憲法解釈で誤魔化しても違憲の誹りは免れない。

 左翼勢力が天皇を批判する論拠は現憲法だが、皇室予算は限られており、況してや天皇の祭祀が「私事」とされてしまった現在、その費用の捻出を皇族に賄わせるとでも言うのか。ならば憲法第八条の改正か撤廃しか方法は無い。

 憲法で定められている国事行為だけを行うのが天皇の務めではない。天皇が重んじるのは悠久の歴史の中で行われてきた祭事である。

 創価学会を始めとしたインチキ宗教団体が何千億、何兆円の非課税の布施を集めてる中で、天皇が祭祀予算の困窮を呼び掛けたらどれほどの寄付金が集まることか。左翼勢力が皇室への税金投入に反対するなら護憲では辻褄が合わない。

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2019年11月14日

五穀豊穣と国家安寧を祈る大嘗祭を寿ぎ奉る

 皇位継承に伴う重要祭祀である「大嘗祭」が、本日夜半から翌日未明にかけて執り行われる。中心の大嘗宮の儀は「悠紀殿供撰の儀」並びに「主基殿供撰の儀」。一子相伝の秘儀とされ、即位後最初の新嘗祭を大嘗祭という。

 新嘗祭は、日本書紀に「皇極天皇が皇極元年(642年)11月に執り行った」という記述があり、天皇にとって重要な祭事の一つである。旧くは霜月下旬の卯の日に斎行されたが、明治6年以降は11月23日に執り行われることとなった。

「勤労感謝の日」がその日だが、勤労感謝という言葉に因って天皇と国民の繋がりを薄れさせ、我が国の道である神道という教えを奪い取った。

 勤労というと何か労働していることに感謝する日の様に思ってしまうが、本当の意味は「人々の勤労によって生み出される万物の生産を祝う」というものだ。

 神の加護による農作物を始めとした恵に我々国民が互いに感謝し合う日なのだが、悲しい哉、その意味を取り違えている国民が殆ど。天皇の神事を見れば「勤労感謝の日」というより、収穫を祝う「新嘗祭」というのが相応しい。

 本日斎行される大嘗祭では、全国の都道府県から寄せられた米や野菜などの神饌が供えられる。正しく大嘗祭は、豊穣の実りに感謝する「祭り」でもある。

 陛下は「大嘗宮の儀」に臨むに当たり身を清める「廻立殿」に向かう。その際には白い束帯の「帛御袍(はくのごほう)」を身に着けられる。

 陛下は廻立殿に入ると身を清める潔斎をし、最も神聖な白い「御祭服」に着替えられる。この御祭服は精練されていない絹「生絹(すずし)」で仕立てた装束で、陛下が自ら神饌を捧げ拝礼し、神々に御告文を奏上した後、御自ら口にされる。

 悠紀殿並びに主基殿へは天皇陛下のみ。皇后陛下は「帳殿」、男性皇族は「小忌幄舎(おみあくしゃ)」、女性皇族は「殿外小忌幄舎」で拝礼される。

 こうした神事を男女平等で語り、「天皇と皇后を分けるのは差別ではないか」という声が、いつもの左翼勢力や性的変質者のジェンダーから上がる。

 天皇にとって最も大事なものは「祭事」である。祭事では生理は「穢れ」と捉えられ、精神統一が求められる皇霊祭では生理中は参加出来ない。生理中に情緒不安定になる女性への配慮と身体を気遣ってのことでもある。

 こうしたことも理解せずに、感情的に「生理は汚らわしいものではなく女性蔑視だ」との反論もよく聞く。だが、こうしたことは何も皇室だけの例外ではない。

 イスラム教では生理中にはモスクには入れない。ユダヤ教でも生理中の女性との握手を禁じている。これは女性差別ではなく伝統の中で培った教えである。

「女系天皇論」も「女性天皇論」も、こうした女性差別を理由に論じられているのだが、左翼や反天皇勢力というのは考えや物事の見方が実に薄っぺらい。

 それでは聞くが、歴代ローマ法王に女性はいない。我が国の歴史には八名の女性天皇が存在しているが、ローマ法王どころか選ぶ枢機卿にさえ女性はいない。左翼陣営の理論なら、それこそローマ法王は女性差別の権化ではないか。

 国連女子差別撤廃委員会が皇位継承に関して異を唱えたのは新しい。女性天皇や女系天皇の意味も知らずに、その実行を謀る。左翼らも、女性差別と断じるならば、ローマ法王の制度こそ女性差別であり、バチカンにも抗議したら如何か。

 日頃「レディーファースト」と自慢してる国でもそういうもので、伝統を継承するというのはそういうことで、現代の幼稚な価値観や倫理観で語るべからず。

 新聞報道では作為的に「大嘗祭関連費二十四億四千万円」という数字を載せる。それに左翼勢力が税金の無駄と叫び、「そんな金があるなら被災者に充てろ」「憲法違反の施設にそんな巨費を投じるな」と世論を誑かす。

 現憲法には大嘗祭の規定が無い。GHQの謀で消されてしまったのだ。現憲法では天皇に祭祀は私事となり、国事行為が優先されてしまっていることを憂う。

 憲法改正は第九条だけではないし、現憲法は皇統を護る機能を有していない。歴史的な国家としての継続された「祭祀」に関する天皇の役割を現憲法を理由に否定し続けることは、未だ神道指令の呪縛から抜け出せずにいる証左である。

 擱筆するに当たり、本日からの大嘗祭が滞りなく斎行されますことを心より御祈り申し上げ奉ります。すめらぎいやさか すめらみこといやさか。

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2019年11月13日

左翼活動家でもある落合恵子の地元紙への特別寄稿に違和感

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 地元紙の福島民報に、祝賀御列の儀での両陛下の御真影の下に、左翼活動家で反原発派でもある落合恵子の特別寄稿が載っている。こういう記事は違和感を禁じ得ない。何故にこのタイミングで祝意でもない論説を載せる必要があるのか。

「平和希求の象徴に」とする文には、国民として祝いの言葉はなく、嫌味たっぷりに「天皇皇后両陛下は、さぞお疲れでしょう」から始まる文章は、左翼人士独特の言い回しで私感に満ち溢れ、読者の投稿などを巧妙に利用して扇動を謀る。

「私たち一般市民には社会生活である『公』と『私』を分けることができます。お二人にはそれがどこまで可能なのでしょう」と問い掛ける。公私を分けるなど可能な訳がないだろう。私事でさえ私見は控えなければならない御立場である。

 天皇皇后両陛下を「お二人」と呼ぶことに強烈な違和感を覚える。唐突に「女性天皇に賛成81%」とのお仲間でもある共同通信社の世論調査を持ち出し、「これは政治的マターであり(お二人の)、さぞご心労のことと思います」と当て擦る。

「激戦地への慰霊の旅に熱心であった上皇ご夫妻の意から、沖縄の人々の思いが気になって琉球新報、沖縄タイムスを読みました」という。上皇上皇后両陛下を「ご夫妻」と呼び、思想が同じ沖縄の二紙の記事を取り上げ私感を垂れる。

「代替わり費用に約百六十億円」と、恰も高額だと言わんばかりに世論に訴える。歴史と伝統という重みを金で比べる不寛容さと無知。「代替わり」というと言葉は共産党が常用してる単語だが、落合も共産党と同類だということが理解出来よう。

 水問題に御詳しい陛下だが、皇太子殿下時代に述べられた「世の中で社会的に弱い立場にいる人が犠牲になっていることは、とても残念に思います」との言辞を引用して、台風19号被害に重ね合わせる。福島原発の処理水問題も言いたげだ。

 落合は、絵本などを扱う「クレヨンハウス」を主宰していることもあり、バーバラ・クーニーの「ルピナスさん」という絵本の内容を綴っている。

 何やら、主人公の女性が大好きだった祖父の世代になり、祖父が言った「世の中をもっとよくするために、なにかしなくては」という約束を実行するという。

 彼女はその約束を果たす為に、、マメ科の植物で青や紫、薄紅などの花を咲かせるルピナスの種を撒き続け、やがて村はルピナスの花に溢れ、彼女も村人に敬愛されるようになったという、正に左翼の頭の中に咲き乱れる御花畑の物語だ。

 落合は「慣例を超えて今までと違った取り組む人というのは最初は奇異にみられていても実に立派だ」と訴えたいのだろうが、要は陛下に2679年の歴史と長い伝統の中で培ってきた慣例を打ち破り、新しい天皇の道を歩めと言わんばかり。

 そして最後に、天皇皇后両陛下に向かって「お二人に願うことは、お言葉で繰り返された平和を、ずっと希求される『象徴』であって頂きたい」と願い、「そして『私』の部分をどうか大事にされますように」と結んでいる。

 天皇にとっての「私」は無い。精精、那須御用邸でのプライベートな余暇や趣味に講じられている時間くらいなもの。天皇というのは祈る立場であり、それは「平和」であり、痛みの無い世界の実現である。その為に只管祈る。

 天皇にとって大事なものは「祭事」であり、国事行為や私事より優先されるべきものだ。天皇=祭事というのを知らない故に女性宮家や女性天皇を語り、男女平等という現在の安っぽい価値観で女系天皇論までも持ち出す。

 歴代天皇が古来より司って来た祭事は、現憲法に因って天皇家の私事になり、天皇の最重要儀式である「大嘗祭」の規定は存在しない。日本国憲法が我が国の正統に於いて悉く異質で国益を損しているか考えたことがあるのか。

 天皇は憲法第一章の制約から、第六条及び第七条の国事行為に因り「国会の開会式」「首相や最高裁長官の親任式」「大臣の認証式」など年間約六十回、国賓・公賓への接遇や会見、会食などの御公務が約百七十回という激務を熟している。

 こうした天皇の激務を理解していない故に、軽々しく「『私』の部分を大切に」などと言えるのだ。ならば、堂々と第一条から第八条の現憲法第一章を論じ、国事行為の軽減を図るべきだが、護(誤)憲派のくせに天皇条項を蹂躙(苦笑)

 第一条には「天皇の地位は主権の存する日本国民の総意に基く」と在る。反天皇を叫ぶ共産党などが存在する限り「国民の総意」ではないということになる。

 つまり、天皇の地位は共産党が指摘してる通り違憲の存在でもあるのだ。その共産党や左翼らが「女性宮家」や「女系天皇」を容認している意味を知るべし。

 いつの間にやら我が国はカタチを変えた共産主義が蔓延り、その「カタチ」は実に陰湿になった。最近の反天皇運動は昔の様に赤旗を振り翳したあからさまな反対運動は行わない。如何にも陛下や皇后陛下を慮ったフリをして世論を誑かす。

 今回の落合恵子の投稿も正しくソレ。こうした新聞社の現状を見ると我々が想像している以上に左翼が権力側に入り込み、行政権と連結せしめ、それに呼応して在野の左翼どもが反天皇運動と皇統断絶を謀り、無知な国民がそれら呼応する。

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2019年11月11日

国民祭典の祝賀式典と祝賀御列の儀を滞りなく終える

 天皇陛下の御即位を祝う国民祭典の祝賀式典が、土曜日九日夜に皇居前広場で催された。天皇皇后両陛下は二重橋に御出座し遊ばされ、国民の祝意に感謝し御言葉を賜られた。十日午後には御即位を国民に披露する祝賀御列の儀が行われた。

 国民祭典の祝賀式典での挨拶では台風19号などの被害に心を痛め、被災者へ寄り添う言葉を述べられた。東日本大震災後、上皇皇后両陛下は原発事故の風評が収まらない中で、御身は二の次にと被災地を行幸遊ばされた御姿と重なる。

 終戦後、昭和天皇が全国を行幸遊ばされ、国民の大きな励みになったのは誰もが知るところ。先帝陛下の御姿と両陛下の御姿が重なり、正に、国民と共に在りたいとの大御心に、改めて祖国日本に生まれたことに感謝せずにはいられない。

 台風被害が収まらない中でのパレードに違和感を唱える勢力が存在しているが、こういう時だからこそ陛下や皇族方の心の支えが必要なのだ。

 我が国の歴史を繙けば、仁徳天皇は高みから民の竈の煙をご覧になられ、明治天皇は日露戦争の最中、前線の兵と同じ食事を所望された。昭和天皇もまた東京大空襲で皇居へ被害が及ぶ中、御所に止まり、国民とその苦難を分かち合った。

 皇室は常に国民と共に在り。この「君民一体」こそが我が国體の精華である。我ら日本人が護るべきものは、平和・独立という主権、国益、国民の生命・財産だけではなく、日本という国柄や国體であり、畢竟、皇統であると痛感する。

 我が国は永い歴史の中から数々の伝統及び制度が生み出されてきた国家である。そんな中で永遠に無くなってはならぬものが天皇を戴く国家の在り方である。これこそが我が国のあらゆる制度の基盤であり核心であるのだ。

 我が国は日本即天皇、天皇即日本の天皇国家であることは言うを俟たない。2679年の永きに亙り「万世一系」の天皇を戴き、常に国民や世界の平和を祈り続けておられる天皇を、善き至高の存在として暮らして来た。

 天皇の御代が栄えることは、即国民の代が栄えることでもあり、この国體の精華は万邦類を見ないところである。正に、世界に冠絶した「君が代」そのものの世界が厳然と存在する国こそが、我が祖国日本なのだ。

 悲しい哉、日本という国に生を享けながらこうした国柄を否定し、天皇や皇室を批判する誠に以て不遜不敬、不届至極の不逞の輩がいるのも確か。

 祝賀御列の儀が生中継される中で、アナウンサーらは天皇皇后両陛下ではなく「雅子さま」だとか「秋篠宮さま」「ご一家」だとかの大合唱。ワイドショー並みの放映に終始し、国民も両陛下への親しみ易さを口にする。

 マスコミは陛下や皇室に対しては敬語を絶対に使わない。こうしたマスコミの「敬称・敬語不使用」や「開かれた皇室論」の姿勢は、今や国内外に蔓延し、天皇陛下や皇室に対する敬愛の念を薄れさせ続けている。

「開かれた皇室論」とは共産主義者に拠る反天皇運動である。戦後、マスコミは週刊誌などで陛下や皇族方を登場させ、不敬なスキャンダラスな記事で尊崇の念を薄れさせることに成功した。これこそが「開かれた皇室論」の狙いである。

「敬称・敬語不使用運動」も同じで、「雅子さま」「美智子さま」「秋篠宮さま」「紀子さま」「悠仁さま」という呼称は、本人は反天皇運動などと知らずにいても、共産党からの命令書を忠実に遂行している様なものなのだ。

 戦前の様に「畏れ多くも畏くも」とは言わないまでも、日本国民ならば「皇后陛下」「上皇(后)陛下」「秋篠宮(妃)殿下」「悠仁親王殿下」「(佳子・眞子)内親王殿下」との呼称使用し、節度ある敬意を表するべきである。

「開かれた皇室論」や「敬称・敬語不使用運動」、そして「女性宮家」から我が国の伝統文化や美徳が喪失して行くということを自覚しなければならない。

 今月には即位の最大の行事である大嘗祭が執り行われる。左翼勢力は大嘗祭を違憲と断じ、更には皇族減少を理由に女性宮家や女性天皇論を持ち出すだろう。

 祖国日本に巣食う奸賊共を排し迫る来る祖国の危機に対処し、天皇国日本を盤石の安きに置く使命を有する民族派陣営や真の保守派の覚悟は如何に。

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2019年11月02日

琉球王国の象徴でもあり世界文化遺産の首里城が全焼

 琉球王国の象徴でもある首里城が全焼した。玉城デニー沖縄県知事は「必ず復元する」と語ってるが、国の管轄から県に移行させたのだから当たり前。政府や文化庁も支援するだろうが、国を都合好く利用するのは止めて貰いたいものだ。

 デニーは沖縄の将来像として「自治州的な一国二制度」がベストとの認識を示し「独特な歴史、文化、地理的特性を持つ沖縄だからこそ、一国二制度に移行すれば日本にとっても沖縄にとっても将来展望がより広がる」との考えの持ち主。

「政府から『これだけの財源と権限で沖縄の行政をしっかりやって下さい』と任される一国二制度です」というが、沖縄の歴史的な背景を利用して過分な財源を貰いながら国の政策には真っ向から反対。政府は沖縄の単なるATMではない。

 抑々「一国二制度」という言葉は、中国共産党が台湾問題に関して使われた言葉で、デニーのいう一国二制度とは、日本政府を利用し、中共と習近平の御機嫌を伺う、沖縄の伝統でもある「二股主義」が根源にあると感じる。

 沖縄の住民は、日本本土から南下した日本人とポリネシア系、台湾系、支那華南系で、「明」の時代に支那に入貢して琉球国・中山王として冊封を受け、奄美大島から先の宮古・八重山までの領域を支配する中央集権国家を築いた。

 琉球から日本へ使者が派遣されたのは室町時代になってからで、徳川時代に幕府の命令で島津藩が琉球に出兵し奄美大島を直轄化したが、琉球はその後に支那に誕生した清朝の冊封も受け両属の立場を採った。

 首里城は、戦前には沖縄神社としての正殿などが旧国宝に指定されていたが、戦後に再建された城を見ると漆で朱塗りされていたり、装飾に国王の象徴である龍が多用されていたりと琉球文化というより大陸文化の影響を強く感じる。

 二千円の図柄である「守礼の門」は、支那からの冊封使を迎えて行う琉球王の即位式の会場だが、これをしても沖縄が日本と支那との両属だったかが解る。

 冊封使とは、中国王朝の皇帝が付庸国の国王に爵号を授けるために派遣する使節。付庸国とは属国。清国から冊封使の品位は、朝鮮に対しては正三品以上であったが、琉球に対しては正五品以下従七品以上で朝鮮より下位とされた。

 琉球は日本文化が拒絶した「宦官制度」を導入していたことでも支那の朝貢国だった一面を否定出来ない。また、日清戦争の際には日本派(開化党)と清国派(頑固党)が乱闘を演じた。日清戦争で日本が勝利すると清国派は支那に逃避した。

 明治三十九年に沖縄の歴史・言語・民俗を研究し、沖縄で初めて文学士となった「沖縄学の父」といわれる伊波普猷(いはふゆう)の著書「古琉球」に拠れば、沖縄人にとっては沖縄で何人が君臨しても構わなかったという。

「明」や「清」の変わり目に当たっては「清帝」と「明帝」とに捧げる二通りの上表文を持参して行ったとのことでも、琉球人の二股主義の心情が現れている。

 伊波普猷の指摘する沖縄人の意識がどう変わったのか判らないが、最近の沖縄を見ていると日清戦争前の「頑固党」と見間違うばかりの連中が「日本からの独立」と「中共への隷属」を本気で考えているとしか感じない。

 今や沖縄は左翼勢力の尋常じゃない行動が目に付くが、デニーの一国二制度も同じで、中共への朝貢国としての琉球国王に即位したいが為のものだろう(笑)

 普天間問題で殊の外日米感情を煽り、米軍を撤退させ、中共の謀略通りに「沖縄ビジョン」の遂行を謀る。米軍を追い出し、代わりに支那から移民を受け容れようなどとは言語道断だが、二股膏薬主義の沖縄人ならやりかねない。

 火事の出火場所は本殿の真ん中だったというが、何か不信感は否めない。首里城の全焼を受けて、デニーの本音は政府より中共からの支援。日本からの独立を約束し朝貢国を演じれば、習近平は喜んで莫大な援助してくれると思うよ。呵々。

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