2018年09月

2018年09月29日

本日は「反中共デー」。対中外交を改め、台湾との国交を恢復せよ!

 昭和47(1972)年9月29日、田中角栄は「日中共同声明」に調印。中国共産党を唯一の政府であると認め、主権回復した昭和28(1953)年4月28日に締結した国際法規である「日華国交条約」を一方的に破棄した。

 これを受け中華民国は直ちに我が国との国交を断絶。我が国が台湾を国家として認めていないのは我が国の国際条約の蹂躙が原因であり、主権国家として実に恥ずべきことで、断じて赦されるものではない。

「日華国交条約」を破棄は終戦間際に「日ソ中立条約」を一方的に蹂躙したロシアの蛮行と同じであり、道義国家日本が失墜した象徴でもある。

「日華国交条約」の破棄は明らかな日本国憲法98条違反だが、公然の憲法蹂躙に対して護憲派からもマスコミからも糾弾されたことは一度もない。

 田中は更に「先の大戦で中国国民に重大な損害を与えたことに、責任を痛感し、深く反省する」と詭弁を弄した。だが、我が国が先の大戦で戦ったのは「中華民国」であり、戦後4年も経って建国した「中華人民共和国」ではない。

 田中が幾ら詭弁を弄そうとも、先の大戦での賠償は「日華国交条約」締結を以て終わっているのだ。田中のこうした誤ちと歴史認識が、今でも悪しき前例となり現在も受け継がれ、中共への優遇措置が講じられている。

「河野談話」や「村山談話」を糾弾する声はあるが、抑々、我が国の土下座外交と自虐的歴史認識は田中角栄の「日中共同宣言」が元凶なのである。

 多くの国民は「我が国と支那の関係を「一衣帯水」だとか「古くからの隣人」などと心得違いをしている人が多いが、日中間に国交関係が樹立されたのは20世紀に入ってからで未だ100年も経っていない関係である。

 況してや、中華人民共和国(中共)との国交は44年しかなく、我が国と戦争もしていない中共が戦勝国として国連の常任理事国に就いていることが摩訶不思議なことで、本来、戦勝国は中華民国であり台湾だろう。

 親中派は常々「日中は同文同種、一衣帯水の関係」との認識を示すが、これは全くの誤りであり、無知以外の何ものでもないが、こうした認識こそ中国共産党の策謀に嵌っている証左の一つでもある。

 607年、聖徳太子は小野妹子を隋に派遣し対等外交に踏み切り、後に蘇我氏を滅ぼした中大兄皇子らが645年「大化の改新」を実現する。

 天智2(663)年、唐・新羅連合軍に攻撃された百済は日本に救援を求めると、我が国はこれに応じ出兵した。これが世にいう「白村江の戦い」である。

 応援に出た日本軍はこの海戦で大敗を喫し、この敗戦を機に我が国は中華圏との正式な外交を絶つこととなった。

 白村江の海戦で大敗を喫し、生き残った者は捕虜となった。その中の一人、大伴部博麻は「唐が日本を攻める」という情報を得るも日本に知らせる術もなく、自らを奴隷に売って金を作り仲間を帰国させこの危機を知らせた。

 これが持統4(689)年の事であり、その後、博麻が帰国したのは白村江の戦いから何と30年後のことだった。帰国後、持統天皇が博麻の功を顕彰する。

【朕 その朝を尊び国を愛ひて 己を売りて忠を顕すことを嘉ぶ】(日本書紀)

 これが「愛国」という言葉の由来であり、軽々しく日の丸を掲げて勇ましい行動を採ることが愛国というものではない。

 我が国が国書を携えて派遣したのは「倭国」としてであり、「日本」と名乗ってからは一度足りとも正式な国書を携えた外交はなく、親中派の「一衣帯水」「同文同種」という認識は実に軽々しいものと言わざるを得ない。

 明治4(1871)年に「日清修好条規」を結んだ相手は満州人の清朝であり、支那を支配していたが漢民族の国ではなかった為に、支那との正式な外交は、明治45(1915)年の「中華民国」誕生まで待たなければならなかったのだ。

 毎年9月29日は、右翼民族派陣営が中心となり「反中共デー」の運動が全国で行われている。だが、数十人、或いは数人の左翼集会を取り上げるマスコミはこの運動を一切無視し報道されることはない。

「反中共デー」運動の輪が広がることで日中の歴史的経緯が明らかになり、台湾との国交恢復が成されることを願って止まない。

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2018年09月26日

「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は始末に困る者なり」と言うが

 一昨日は会津に墓参りに行ったので白虎隊士が眠る飯盛山に詣で様かとして向かうも、白虎隊の慰霊祭と重なり激混みで断念。

 会津藩が降伏したのは明治元年9月22日、その10年後の9月24日、西郷隆盛が西南戦争で敗れ城山で自刃する。歴史とは実に異なものだ。

 会津戦争は西軍が若松城内に侵入してから降伏するまで約1ヶ月を要した。これを思えば無血開城せず江戸城で徹底抗戦していれば、その後の日本の歴史も大きく変わっていたのではないだろうかと思ったりもする。

 勝海舟と西郷隆盛の江戸城での談判と無血開城は侍としての士風を損なったばかりか、会津の悲運を生みこととなった。そういう意味でも勝海舟にしろ西郷隆盛にしろ言われてる様な傑物では無かった様に思えてならない。

 ロマン派を気取り、西郷隆盛を愛し「敬天愛人」を掲げ自己陶酔型の右翼や自称・愛国者らが好きな言葉にこんなセリフがある。

「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は始末に困る者なり。この始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり」

「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」

「西郷南洲翁遺訓」第三十条や山岡鉄舟語録からの引用。自分が然も幕末の志士になったかの如くこの言葉に陶酔する。だが「国家の大業」や「天下の偉業」は政治家がやることで右翼がやることでもない(笑)

「命もいらず」というが終身保険に入って積み立てていたり、高目ばかりを夢見て「有名になりたい」「カネを儲けたい」という右翼人ばかりなのに(笑)

 また右翼でもないのに右翼の有名な人と知り合いになっただけで然も自分も右翼になったと勘違いしてる輩が多く、とても「艱難を共にする」奇特な人物などいやしないし、艱難などに遭遇してもきっと避けるに違いない(笑)

 第三十条は、この台詞の後に「然れども斯くの如き人は、凡俗の眼には見るべからず」と続く。凡俗の右翼人の眼にホンモノが映るとは思えない(笑)

「西郷南洲翁遺訓」では、第二十七ケ条が好い。

「過ちを改めるに自ら過ったとさへ思ひ付かば夫れにて善し。其事をば棄てて顧みず直に一歩踏出す可し。過を悔しく思い取繕はんと心配するは譬へば茶碗を割り其の欠けらを集め合せ見るも同じにて詮もなきこと也」

 まぁ、斯くいう愚生と言えばその昔は西郷隆盛に疑いもなく傾倒していたのも事実。でも、根が捻くれ者なので最近はチョッと穿った見方をしている。

 西郷隆盛の正式な名前は「西郷隆永」で「隆盛」というのは実は父親の諱(名前)。何故に「隆永」ではなく「隆盛」になってしまったのか。

 明治2年、戊辰戦争の奥羽戦線から帰京する西郷に宮内庁から御召状が出されることになった。この時、知人の吉井友実に西郷の諱を尋ねたところ「確か、隆盛じゃった」と答えことで、以後「隆盛」と称されることとなったという。

 帰京し、吉井に会った西郷は「あれは父の名でごわんか。わしの名は隆永じゃと、おはんも知っちょるじゃろう」というと、吉井も頭を掻きながら「ほんにそうじゃった」と詫び、二人は顔を合わせて大笑いしたという。

 その後、西郷は「隆盛」という名を否定も訂正もしなかったのは、吉井への気遣いと、西郷自身の大らかさだろう。こうしたことこそ「西郷(せご)どん」と誰からも愛される人柄だったことを偲ばせる逸話だろう。

 金言や格言の多くは経験から学んだものであり、自戒を込めた言葉故に相手に響く。西郷の言葉というのは余りにも綺麗過ぎて、桜田門外の変に参画した水戸藩士らを落胆させ女性遍歴多き西郷を美談にし過ぎている気がしてならない。

 まぁ、西郷隆盛の命日の一昨日夜、ほろ酔い気分の中で中秋の名月が輝く夜空を見上げながらそんなことを徒然と考えてみた。呵呵。

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2018年09月23日

彼岸会法要は日本独自のもので、天皇の詔して始められた行事だった

 本日は「彼岸の中日」、墓参りに行く人も多いだろう。「彼岸」とは雑節(ざっせつ)の一つで、雑節とは二十四節気、五節句などの暦日の他に四季折々の季節の移り変りを日本的に表した特別な暦日のこと。

 雑節には「節分」「八十八夜」「土用」「入梅」「半夏生」などがある。こうした歴日が日本の四季折々の麗しい情景を深める。

「春分」と「秋分」は、太陽が真東から昇り、真西に沈むので、西方に沈む太陽を礼拝し、遙か彼方の極楽浄土に思いを馳せたのが彼岸の始まり。

 現在では彼岸の仏事は浄土思想に結びつけて説明される場合が多く、浄土思想での極楽浄土(天国)は西方の遙か彼方にあると考えられている。

 春分・秋分の日を中日とし、前後各3日を合わせた各7日間(1年で計14日間)で、最初の日を「彼岸の入り」、最後の日を「彼岸明け」と呼び、この期間に行う仏事を彼岸会(ひがんえ)と呼ぶ。

 俗に、中日に先祖に感謝し、残る6日は、悟りの境地に達するのに必要な6つの徳目「六波羅蜜」を1日に1つずつ修める日とされている。

「六波羅蜜(ろくはらみつ、ろっぱらみつ)」とは大乗仏教における六種の修行で、菩薩が涅槃に至るための六つの徳目のこと。

 六つの徳目とは、施しという完全な徳「布施波羅蜜」、戒律を守るという完全な徳「持戒波羅蜜」、忍耐という完全な徳「忍辱波羅蜜」、努力を行うという完全な徳「精進波羅蜜」、精神統一という完全な徳「禅定波羅蜜」、そして仏教の究極目的である悟りの智慧という完全な徳「般若波羅蜜」。六度ともいう。

 それにしても、六つの徳目の中で持戒、忍辱、精進、禅定、智慧というのは言葉では理解すれど、これらを修めるとなれば容易ではない。

 その点、布施という施しは目に見えて分かるので、仏教の世界、特に昨今の葬式仏教や新興宗教の世界では「布施」ばかりが信心の裏返しであるかの様な、我田引水的な都合の好い解釈が罷り通っているのではあるまいか。

 施しという完全な徳とは、別に戒名を貰うのに坊主にやる御布施のことではない。自分より能力的に肉体的に劣る者、難渋している者、壁にぶち当たっている者に対し金銭的なものを含めて支えてあげることこそが施しというものだろう。

 波羅蜜とは「魔訶般若波羅密多(まかはんにゃはらみた~)心経」で始まる般若心経にも頻繁に出てくる言葉だから馴染みがあるだろう。

 般若波羅密多は「魔訶」、つまり尊いものであると、釈迦が弟子の舎利弗(シャーリーシ)に語った悟りであり、それを三蔵法師が訳した。

 文字数は題字を含め276文字しかない。内「空」が7回、「無」が21回、「不」が9回で、般若心経の教えとは「空」であり、その「空」「無」「不」を知り「空」に生きることに在る。因みに教育勅語は315文字。

 愚生的には、般若心経の「羯諦(ギャーテー)羯諦(ギャーテー)波羅羯諦(ハラギャーテー)波羅僧羯諦(ハラソーギャーテー)菩提薩婆訶(ボージーソワカ)般若心経」という、最後のどことなくラップ調のあの心地好い響きが好きだ(笑)

 意味は「さぁ皆一緒に、真の幸せの世界に行こうではないか!」という呼びかけだが、仏教徒というのは戒名さえ貰えば極楽浄土に往けると思ってる人ばっか。戒名とは御釈迦様の弟子になるということで、死んでからも修行なのだ(笑)

 彼岸会法要は日本独自のもので、天皇の詔(みことのり)として始められた行事であったが、祖先を供養する行事として定着するに至った。

 こうしたことも天皇と国民の繋がりを示す一つであるが、正に我が国は天皇の国であるということが窺い知れる。皇室は常に国民と共に在り、この「君民一体」こそが我が国體の精華なのである。

 因みに、彼岸会の「彼岸」は「日願(ひがん)」に喩えられ、仏教語としての彼岸は後から結びついたものであるという説もある。

 まあ、極楽浄土とは現世に在る。難渋する人に施し、持戒、忍辱、精進、禅定を積み、智慧を修めることこそ極楽浄土であり、死後の世界の極楽浄土や天国というのは釈迦やキリストが人の悩みや恐れを和らげる為に創った嘘だろうな(笑)

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2018年09月21日

相変わらずマスコミは安倍3選より「石破善戦」でアゲアゲだな(苦笑)

 安倍がダブルスコアで3選を果たした。石破が善戦したという論調で「地方票4割強」「参院選控え存在感」「劣勢予想覆す」などアゲアゲな論調が目立ち、一方の安倍はというと「完勝逃し揺らぐ求心力」と恰も惨敗したかの様だ(笑)

 地元紙の社説では馬鹿の一つ覚え宜しく「森友、加計学園問題など国民が知りたい件に関して説明責任を果たしたとは言い難い」と論じ、改憲でも「賛否が分かれ、議論が生煮えのまま国民投票になれば国論分裂の禍根を残す」と妄想する。

 それにしても驚くのは自民党員の4割強が石破支持とは驚く。投じた多くが安倍批判ということであれば、見方に拠ってはバランス感覚の好さとも思えなくもないが、こうした結果に旧態依然の自民党の姿を垣間見る(笑)

 石破は大東亜戦争のみならず第二次世界大戦をも「日本の侵略戦争」だと断じて憚らない。石破の歴史認識は戦後教育に毒された自虐史観の持ち主であり、こういう国家観御粗末な人物を支持する自民党員というのは歴史の大事を知らない。

「侵略戦争は怪しからんし侵略戦争の責任はA級戦犯に在り、その戦犯が祀られている靖國神社に参拝なんぞしない」「侵略国家として未来永劫、相手国が納得するまで謝罪しなければならない」という石破を支援出来る意味を知りたい。

 優柔不断な有権者の顔色ばかりを窺っている小泉新次郎は石破へ一票を投じた。「違う声を抑え付けるのではなく、党内の様々な声を強みに変えて欲しい」とその行動理由を語る。安倍への牽制とその詭弁は天性のものだろう(笑)

 また改憲推進本部長代理の船田元は白票を投じている。「改憲にギアを上げる首相に同調出来ない」との説明は全く以て意味不明と言う他はない。

 改憲は国民投票に拠って国民が判断を下せば好いだけで、改憲の世論が醸成されていなければ否決されるだけのことで。「国論分裂の禍根を残す」という地元紙の仰々しい論説もそうだが、国民の良識をそんなに信用出来ないのか。

 反対する勢力というのは改憲に限らず今回の総裁選挙でも明らかの様に一定数は存在する。改憲推進本部の本部長代理がこうした認識では、自民党というのは端から改憲や況してや新憲法の制定なんぞヤル気ないと謗られても致し方ない。

 自民党綱領には先ず「新憲法の制定」を謳い、そして「高い志をもった日本人を」として次の様に明記されている。

【私たちは、国民一人ひとりが、人間としての普遍的規範を身につけ、社会の基本となる家族の絆を大切に、国を愛し地域を愛し、共に支え合うという強い自覚が共有できるよう努めます。そのために教育基本法を改正するとともに、教育に対して惜しみなく資源を配分し、日本人に生まれたことに誇りがもてる、国際感覚豊かな志高い日本人を育む教育をめざします】

 本来であれば改憲ではなく新憲法の制定が道理。安倍の改憲論然り、それに難色を示す石破もまた自民党綱領の趣旨から逸脱してるとしか思えない。

 総裁選挙では互いに経済や社会保障に重点を置き政策を論じていたが、綱領に在る様な国際感覚豊かな日本人を育む教育論を語ることはなかった。

 自民党総裁としてやるべきものは「日本人に生まれたことに誇りがもてる、国際感覚豊かな志高い日本人を育む教育を目指す」ことであり、「世界一安心・安全な社会を創る」という綱領の実行である。

「積極的平和主義」を唱え「軍事力」の充実を図る為の改憲も大事だが、軍事力より歴史・伝統・文化、そして国柄と皇統を如何に護り抜くかが大事。

 領土主権を守ることは大事だが、軍事力イコール国防ではない。「国防」とは三島由紀夫が訓えた様に、領土主権の防衛だけではなく「それを亡くしてしまったら日本ではなくなってしまうものを守り抜くこと」に在る。

「国防」、つまり、国を護るということは国柄である民族、宗教、言語、​歴史、価値観、習慣、制度を護り、世界の中で最も優れた精神文化​や未来の子供達、そして何より「皇統」を死守し、未来に継承することである。

 つまり改憲し、自衛隊の存在を明記するということも大事だが、領土の防衛と同じ様に、否、それ以上に大事なことは将来を担う子供達への教育であり、教育論を無償化などの経済論で論じるとは本末転倒と断じる他はない。

 新自由主義を盲信し経済至上主義に奔る自民党を見ていると、所詮は「でもしか政党」の域から脱し切れておらず、「野党よりはマシ」程度で支持されているに過ぎない。陋習を排し、自民党粛正を急がねばならない。

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2018年09月19日

自民党総裁候補者・石破茂の大衆迎合主義と歴史認識を嗤う

 その昔は、政治倫理の確立や憲法論や防衛問題を理路整然と語る新進気鋭の政治家だった石破茂を買っていた。それだけに自民党を離党して各党を渡り歩き自民党に復党した石破を「可愛さ余って憎さ百倍」ではないが、言うこと成すこと、その立ち居振る舞い、人となり、人相まで嫌いになってきた(笑)

 そんな石破が祭日で混む銀座で街頭演説した。相変わらず諄く尤もらしい言いっぷりに思わず「そうなのか」と頷いてしまうが、具体的には何も語らない。如何にも今の安倍政権ではダメだという言い回しで大衆を誑かす。

「今、年収が180万円に満たない世帯が930万ある」と、ここまでは好い。だが『年収930万でどうして結婚ができる?どうして子どもが作れる?』」と畳み掛ける。自己満足してる故に自分の言い間違いにも気付いていない。こをネットで「そんなにあったら十分可能」だろと突っ込まれる。

 更に、先日亡くなった女優の樹木希林を利用しようと、低所得者を映画「万引き家族」に準えて「万引きしないと暮らしていけない。その人たちが働ける環境を作っていかないといけない」とアピールし、悦に入る。

 万引きで暮らしてるのは窃盗の常習犯くらいなもので、そんな家族は刑務所に行けばわんさといる。「働きたくても働けない」というのは単なる言い訳であり、そんな世帯を保護してくれるなら愚生も適用対象だろう(爆笑)

 働けるのに働かず万引で暮らそうという考え方が悪い。「万引しないと暮らせない家族」とはどういうことか。暮らせないのは自業自得、因果応報だが、そんな生活も「乞食の朝謡」とも言う様に気楽な生き方とも言えなくもない。

 被害者は万引き家族ではなく、窃盗に遭った被害者であり、正に石破の演説は、死んだ女優の映画さえをも政治に利用しようという大衆迎合主義そのもの。

 政治が国民目線に立った時というの、必ず国が滅ぶというのは世の常である。何故なら、国民の判断力は古今東西常に低く、その意見というのもその時代の風潮に流され、大衆に流され、実に幼稚で気紛れなものだからだ。

 政治とは国家観を重んじながら、国民目線とかけ離れた歴史観、人間観、世界観、時には高度な権謀術数を必要とするものなのだ。然し乍ら、石破には国家観や歴史観に乏しく、在るのは小沢に倣った権謀術数くらいなもの。

 いつの世も大衆の多くは無知で愚かであり、実に操縦し易く、そういう認識故に世論に媚びた言い回しで国民を取り込もうとする石破というのは旧態依然の政治家であり、その政治姿勢と戦後民主主義を多くの国民が胡散臭く感じている。

 77年前の昭和6(1931)年9月18日、柳条湖事変が勃発。「これが引き金となり日本は大陸への侵略を拡大させ、無謀な戦争に因ってアジアを中心とする諸国に多くの被害と損害を与えた」というのが我が国の歴史的認識である。

 だが、柳条湖事変に至るまでの中村大尉殺害、万宝山事件と呼ばれる朝鮮人農民と支那人農民の衝突事件の他、日本人に対する無数のテロ事件があったことを無視してはならない。正に第二次世界大戦前の我が国はテロとの戦いだった。

 昭和12(1937)年7月7日、盧溝橋事件から始まった「支那事変」も、盧溝橋で日本軍を攻撃してきたのは中国共産党の方だったというのは今や歴史的事実であり、我が国は「北京議定書」に基き在留邦人保護の為に軍隊を支那本土に駐屯させていただけであって、こうしたことは「侵略」とは言わない。

 盧溝橋での一発の発砲が、何故に大事件に繋がったのか。それには、それまでの無数のテロ事件と通州事件、大山中尉殺害事件を知らずしては語れまい。

 中でも、盧溝橋事件の約3週間後の7月29日未明に起こった通州事件では日本人が極めて残虐な方法で殺されており、日本が憤激するのは当然のことだった。

 石破は、第二次世界大戦を侵略戦争だと断じ「西欧列強も侵略国家ではありましたが、日本も『遅れて来た侵略国家』である」という認識を持っている。

 第二次世界大戦について、歴史家の多くは1939年9月1日のドイツのポーランド侵攻が始まりだとしている。また、1939年8月13日の上海での中国軍の因る日本海軍への全面戦争こそが第二次世界大戦の始まりだとする歴史家もいる。

 この中国軍と日本海軍との戦争と「満州事変」や「支那事変(日中戦争)」は明確に別な戦争であり、所謂「十五年戦争」と一線を画して論ずるべきであるが、何故か石破にしろ日本の歴史家共は上海での戦争を語らない。

 1936年以来、中国側は「抗日全面戦争」への意思が明確だった。他方、日本側は一貫して「不拡大方針」を堅持していたのはよく知られている。

 国際条約上の権利の下に上海に駐留していた僅か2500人の日本軍の海軍特別陸戦隊に対し、約10万人(12万人という説もある)以上の中国軍に因る攻撃に因って戦争が開始された日が「第二次世界大戦の始まり」とする主張の方が、歴史的に見ても正鵠を射ている様に思う。

 石破は中国軍の策謀には目を瞑り「侵略戦争は怪しからんけし、この侵略戦争の責任はA級戦犯に在り、その戦犯が祀られている靖國神社に参拝なんぞしない」という悍ましい歴史認識の持ち主で在り、侵略国家として未来永劫、相手国(中朝韓)が納得するまで謝罪していろという政治スタンスを採っている。

 石破は戦後の歴史教育を疑いもなく信じ、それを政治信条の主体としている故に国家観が乏しいのだ。こういう政治家が保守を自任すべき自民党に存在していることが戦後政治の象徴でもあるのだ。

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2018年09月18日

歴史というのは往往にして国家や時の政府の都合の好い様に改竄される

 我が国は1933(昭和8)年、国際連盟を脱退する。これは「満州事変により、中国に侵略した」という理由で、国際連盟規約違反とこじつけられて制裁決議が下される訳だが、これを不服として我が国は国際連盟を離脱する。

 戦後の歴史教育では「昭和6(1931)年9月18日、柳条湖に於いて南満州鉄道の線路を関東軍が爆破し、これを張学良軍の仕業として戦闘を開始、満州全域を占領して傀儡国家・満州国を建国した」と教わった。自民党総裁選挙に出馬してる石破茂もそんな戦後の米国主導の歴史教育を疑いもなく信奉してる一人。

 大東亜戦争のみならず、第二次世界大戦をも「日本の侵略戦争」だと断じて憚らない石破の歴史認識は明らかな戦後教育に毒された自虐史観の持ち主であり、こういう国家観御粗末な人物が自民党総裁候補とは自民党の人材不足の現れ。

 過去にも石破の主張に疑問を持った保守論壇界からも疑問が呈されているが、石破は全く聞く耳を持たないばかりか軽薄な歴史認識を披歴する。

 例えば、大手ホテルチェーン・アパホテルの懸賞論文で入選し航空幕僚長を解任された、所謂「田母神論文」への反論でも次の様に述べている。

「民族派の主張は歯切れがよくて威勢が好いものだから、閉塞感のある時代に於いてはブームになる危険性を持ち、それに迎合する政治家が現れるのが恐いところです。加えて、主張はそれなりに明快なのですが、それを実現させる為の具体的・現実的な論考が全く無いのも特徴です」

「東京裁判は誤りだ。国際法でもそう認められている。確かに事後法で裁くことは誤りですが、では今から遣り直しが出来るのか。賠償も一から遣り直すのか。『日本は侵略国家ではない』それは違うでしょう。西欧列強も侵略国家ではありましたが、だからといって日本は違う、との論拠にはなりません。『遅れて来た侵略国家』というべきでしょう」
 
「戦うも亡国、戦わざるも亡国、戦わずして滅びるは日本人の魂まで滅ぼす真の亡国」などと言って開戦し、日本を滅亡の淵まで追いやった責任は一体どうなるのか。ここらが徹底的に検証されないまま、歴史教育を行ってきたツケは大きく、靖國問題の混乱も、根本はここにあるように思われます」

 要は、石破の歴史認識は「侵略戦争は怪しからんし、この侵略戦争の責任はA級戦犯に在り、その戦犯が祀られている靖國神社に参拝なんぞしない」ということだが、それこそ石破の主張にこそ「それを実現させる為の具体的・現実的な論考が全く無い」ばかりか、侵略国家として未来永劫、相手国が納得するまで謝罪していろということなのだろう。

 石破は戦後の歴史教育を疑いもなく信じ、それを政治信条の主体としている故に国家観が乏しいのだ。だが、歴史というのは往往にして国家や時の政府の都合の好い様に改竄されるもので、中でも「満州事変」はその最たるものだろう。

「柳条湖事件」の翌年、国際連盟は事件解明の為に「リットン調査団」を派遣する。その「リットン報告書」では各国の思惑通り、関東軍の行動を正当な自衛行動と認めなかったが、翻って「この事変の誘因を、満州と中華民国の混乱と内乱に在る」との認識を示したことでも、一方的に我が国が断じられる理由はない。

 その上で、調査団は「満州に於ける諸問題は極度に複雑だから、この事変は単に一方的に侵略したという簡単な事件ではない。何故なら満州は、世界の他の地域に類例を見ない様な多くの特殊事情が在るからだ」と結論付けている。

 こうした認識の背景には、日露戦争後の正当な権益である租借地と、満鉄経営に対する不当な鉄道妨害や抗日活動、或いは日本人迫害が長期に亙って続いていた事実を、リットン調査団が十分に把握していたからであろう。

 更に調査団は、日本の権益については「日本人にとって対露戦争とは、ロシアの侵略の脅威に対する自衛戦争、生死を賭けた戦いとして永久に記憶され、この一戦で10万人の将兵を失い、20億円の国費を費やしたという事実を決して無駄にしてはならないという決意をさせた」とも言及している。

 日本本土も含めた自存自衛と膨大な投資を行った満州国の権益保持、そして在留邦人の生命を守る為には、「満州を紛乱した中華民国から切り離して安定させるしかなかった」と、事変に至る日本の偽らざる動機の一端を正確に伝えている。

 米国の元中華民国公使・ジョン・マクマリーも、「日本の安全保障の為には朝鮮半島と満州の安定が必要不可欠であった」といった要旨の言説に見られる様に、欧米の識者の中には事変直後から、日本の立場を擁護する意見があったのも事実。

 歴史を検証する上で大切なのは世界に蔓延る覇権主義の克服を主張すべきであって、他国の覇権主義に目を瞑り、一方的に自虐の淵に止め処なく漬かり込むことではない。戦後、新たな資料によって史実の全貌が明らかになって来ている今、何故に新旧資料を精査して公正な歴史認識を検証しないのか不思議でならない。

 満州事変の起因となった柳条湖事変が勃発した9月18日に合わせ、支那本土での「反日デモ」が行われるが、そこに歴史的公正さや正義は無く、単に中共政府の言いなりで騒いでるだけ。悲しい哉、日本人もまた、未だに国連(戦勝国)や米国の創り上げた歴史を鵜呑みにして目覚めようともしない。

 国連にしても米国にしても未だ戦勝国の論理で歪な正義感を振り翳し、石破の様な戦後民主主義者らがそれに追随する。だが、過去を振り返ってみてもアジアの動乱の原因はいつも時代も米国と共産主義だったことは歴史が証明するところ。

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2018年09月16日

それにしても石破茂の顔の劣化は酷いな

 自民党総裁選の論戦が本格派してきた。昨日、直接対決に臨んだ三選確実の安倍は「戦後71年、憲法改正に挑戦し新しい時代を切り拓く」と強調し「自衛隊違憲論に終止符を打つ」と、その意欲を語った。

 一方の石破は「国民に理解して貰うことが必要」「国民に誠実な説明なくして憲法を改正してはならない」と実質的な憲法改正棚上げを主張した。

 自衛隊の憲法明記も結構だが、第1条~8条の天皇の条項の見直し無くしての憲法改正は実質的な日本国憲法の固定化を意味する。

 そういう意味では安倍の安易な改憲論には疑問を感じており、やはり現憲法の無効を宣言し帝国憲法を復元改正することこそ好ましい。

 だが、石破の如何にも国民の合意が得られていないかの様な言い分は話の他。改憲に難色を示す公明党への秋波だろうが、国会は憲法改正の発議をするだけであって、実際に改正するか否かは国民投票を以て判断を下すのだ。

 国民が改憲の重要性を理解せず、必要性を感じなければ改憲が出来ないだけのこと。「国民に理解して貰うことが必要」というが、国民投票前の意思行動を「改憲」で統一するという意味であればそれは現憲法の否定だろう。

 初代の地方創生担当大臣であり、総裁選でも地方創生を訴え、国民に寄り添ってるかの様に振る舞うが、国民の良識を否定してるのは石破自身だ。また「誠実な説明」とは具体的にどの様にすれば好いのか理解し難い。

 石破というのは抽象的な言葉を羅列して如何にも正論の様に語ってはいるが中身が空っぽ。そんなところに苛立った安倍は「問題点を指摘するよりも具体的に政策を進めることが大事」と皮肉ったのには笑えた。

 安倍との違いを頻りに訴えてはいるが、自民党そのものを批判しているとしか思えない。選挙後は石破派の仲間と共に自民党を離党し、その立派な政策実現の為に反安倍勢力との連立を模索した方が有権者も分かり易い。

 どう見ても安倍圧勝にしか思えないが、新聞の自民党員や党友の支持動向調査では石破の支持が34.9%もあるのには驚くというより呆れてしまう。

 自民党の「立党宣言」には【社会的欠陥を是正することに勇敢であらねばならない。われらは暴力と破壊、革命と独裁を政治手段とするすべての勢力又は思想をあくまで排撃し祖国再建の大業に邁進せんとするものである】と記されている。

 自民党が立党精神に照らし合わせてみても、共産主義を行政権と連結せしめようとするあらゆる企画、あらゆる行動とすべからく対峙してきたとは思えない。

 男女共同参画社会、ジェンダーフリー、人権擁護法案、協働・共生社会、外国人参政権、外国人住民基本法案、極め付けは天皇退位法案、女性天皇容認論と女性宮家の創設など次から次へと策謀を重ねている。

 こうした行政側への共産主義の介入を奨めたのは悲しい哉、保守を自任する自民党だったというのは実に御粗末という他はない。 所詮、自民党とは野党の低支持率に肖った「でもしか政党」に過ぎない。 

 それにしても石破の人相の劣化が酷い。若手の頃はロンパリ(斜視しゃし)も野武士の様に見えたし、理路整然と語る姿を頼もしく感じたものだが、最近は歳のせいだけではなく、嫌みな厳しい怒りを含んだ顔になってしまった。

 あの顔で満面の笑みを浮かべられるとキモイ。小沢一郎や共産党の連中が有権者に振り撒くあの作った笑顔と同じで、何とも不気味としか言い様がない。人間の顔というのはある年齢以上になると不思議と心が顔に現れるものだ。

 石破茂は周知の通り小沢一郎を師として自民党を離党~改革の会に参加~新党みらい~自由党~自由改革連合を経て新進党に参画するも、その後に小沢との確執が露呈して自民党に復党した負の経歴を持つ。

 A級戦犯分祀論者で「靖國神社には何も知らなかった頃に参拝しただけで、靖國神社の事実を知って以降は参拝したこともないしこれからも参拝するつもりはない」と公言していることでも分かる様に保守を騙る戦後民主主義者。

 防衛大臣や拉致議連会長を歴任した石破だが、訪朝の際に喜び組を宛がわれ盗撮されたという。こういう醜男が日本の顔になることは有り得ない。

 米国16代大統領のリンカーンは「男は40歳になったら自分の顔に責任を持たなくてはならない」と訓えた。評論家の故大宅荘一は「男の顔は履歴書・女の顔は請求書」という言い得て妙な名言を遺した。

 自民党が下野し苦難した時代に党再建を牽引した安倍と比べるのも何だが、石破の顔には自民党を裏切り各党を渡り歩いた卑しさが滲み出ている。

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2018年09月15日

我が国もノルウェーやアイスランドに倣いIWCから脱退し商業捕鯨を再開すべき

 新聞に「商業捕鯨再開困難に」というタイトルが躍っている。読めばブラジルで開かれてる国際捕鯨委員会(IWC)総会で、日本が求めてる商業捕鯨が反対国の理解が得られず再開は困難になったというだけのこと。

 捕鯨に関してはIWCで、我が国の地道な調査と科学的データを明らかにしたことで孤立無援だった我が国への賛同国も徐々に増えていた。捕鯨問題は我が国外交史上、貴重な勝利事例になる可能性が見えていた。

 だが2年前、オランダ・ハーグの国際司法裁判所が「日本の現在の調査捕鯨は商業捕鯨であり条約に違反する」として調査捕鯨すら認められず、捕鯨停止を命令したことで調査捕鯨による科学データの開示という地道な活動が水泡に帰した。

 感情的に反捕鯨を叫び、己らの倫理観と偏狭な正義感を強要する反捕鯨国家と妥協点を見出すことは不可能なことで、調査捕鯨すら容認されないならばIWCから脱退し、ノルウェーやアイスランドを見倣って捕鯨を再開すべきだ。

 仮にIWCを脱退した場合「国際ルールを軽視したとの批判が避けられない」というが、日本が脱退すればIWCの存在価値も無くなるだろうし、南極海域での調査捕鯨が出来なくなるというが沿岸での捕鯨再開で調査捕鯨をする意味もなくなる。

「クジラは絶滅危惧種」というが実際にはクジラは品種にも拠るが、絶滅どころか殖えており、調査捕鯨でのデータをも無視して「クジラやイルカは人間に近く可哀そう」などと安っぽい感情論に訴える。

 映画「ザ・コーブ」では、和歌山県太地町でのイルカ漁を如何にも残虐な行為として描いた。デンマークの首都コペンハーゲンから北へ飛行機で2時間程のバイキングの末裔達が住む島フェロー諸島では鯨やイルカを追い込み漁で捕獲する。

 大半はゴンドウ鯨で、イルカは1~2割程度。年間850頭程捕獲されるが、捕鯨のシーズンは仕事を中断し、住民総出で行われる。獲れた鯨やイルカはその場で処理され、海は血で真っ赤に染まる。

 入り江の海が真っ赤に染まるシーンはショッキングではあるが、牛や豚の屠殺シーンを見たらショックのあまり卒倒するのではあるまいか。

「ザ・コーブ」が話題になった後、日本人女性監督が「ビハインド・ザ・コーヴ」を製作し、日本にとっての捕鯨やイルカ漁への重要さを訴えた。

 調査捕鯨によってクジラが殖え、資源回復が明らかになっているにも拘らず、こうした逆行する判決をすることこそが大きく環境を損ねることとなろう。

 地球上の鯨類が年間に捕食する魚類の総量は2億5000万トン~4億トンと言われる一方、世界の漁師の漁獲量はその半分以下の約1億トンに及ばない。

「鯨飲馬食」と言われるほどに食欲旺盛な鯨類が増え過ぎれば、人間が食料にしている水産資源も脅かされることとなるのは明らかで、食料自給率の乏しい我が国にとって捕鯨こそ推進すべき国策でもある。

 我が国が商業捕鯨を停止して四半世紀になるがそれほど昔のことではない。何よりクジラは我が国の文化でもあるのだ。

 日本で商業捕鯨が本格的に始まったのは江戸時代初期の1606年に遡る。紀州(和歌山)の太地で開始された商業捕鯨はやがて全国に広まり、それと共に鯨を食する習慣も全国に広まった。

 松尾芭蕉の句にも「水無月や鯛はあれども塩鯨」と詠まれている。塩付けされた鯨の肉は江戸庶民の大切なタンパク源で、大衆食として愛された。

 19世紀初頭には「鯨肉調理方」という本が出版されているが、鯨食というのはそれだけ普及していた食文化だったのだ。

 北海道や東北では正月に「鯨汁」を食し「ハリハリ鍋」にしている地域もあるし、大阪のおでんにはコロ、サエズリ、オノミといった具が入る。

 反捕鯨の連中は鯨食を「ゲテモノ」扱いしたり「戦中戦後の食糧難時代に止むを得ず広まったもの」だとか、遠洋漁業は「鯨油を採る目的だ」などと愚にも付かない反論をしている者までいる。

 だが、それは欧米の捕鯨は皮だけ剥いで鯨油のみを採るやり方だから、それと錯覚し勘違いしているものばかり。

 日本人はクジラを食するだけではなく髭は文楽の人形に使い、骨は櫛などの工芸品となり、漁師達は鯨塚を立て供養する、正に日本文化そのものなのだ。

 捕鯨問題の背景にはこういった日本の伝統的鯨文化の問題もある訳で「反捕鯨」や「反イルカ漁」は日本文化の否定でもあり、日本人への憎悪剥き出しの国が蠢くIWCで合意を得るのは不可能。商業捕鯨を強行すべし!

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2018年09月13日

サンデー毎日の記事「戦後の右翼はこう変わった」を読んでの雑感

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 サンデー毎日(9.23.2018号)に所属していた防共挺身隊(防挺)のことなどが載っているというコメントが寄せられたので暇潰しに読んでみた。

 安田浩一というジャーナリストが書いたもので、タイトルは「戦後の右翼はこう変わった」。どうってことない内容で、山口なんちゃらというシバキ隊と活動を共にする右翼がヘイト発言(ヘイトかどうかは定かではないが)を支持する某右翼から暴力を振るわれたとして愛宕署に被害届を提出。この行為を取っ掛かりに戦前戦後の右翼と現在の右翼の違いや右翼の在り方を問う内容となっている。

 基本的に右翼そのものを好意的な存在だという意識が働いてる様で直接的な批判は控えている。現在の右翼団体の活動を見れば、愛国(保守)ブーム便乗したポピュリズムが主と言えなくもないが、最近の右翼の活動に対する混迷や不作為、為体は右翼団体幹部や指導者の無能と比例する。記事ではそうした指摘は無い。

 況してやこの山口なんちゃら、苗字から山口二矢の親族を騙っていたことがあるという。疑問を持った山口二矢の親族の女性から問い合わせがあった。というのも山口なんちゃらにネット右翼と断定され、執拗に恫喝・暴言を繰り返され女性は怖さからSNSを止めた。この時、女性は被害届は出さなかったが、自分が突き飛ばされて早々に被害届を出すとは姑息過ぎる(笑)

 昨今は「街宣右翼は朝鮮右翼」などと批判される。批判してるのは記事にも出ている所謂ネット右翼や自称・愛国者だ。愚生が所属していた防挺は街宣右翼のパイオニア的存在で、設立当初は半分以上が在日朝鮮人が占めていたのは確か。幹部だった石川某や西原某の国籍は北朝鮮だ(笑)

 当時は「反共」が運動の主体であり、反共ならば朝鮮人だろうが関係なかった。抑々「街宣右翼」自体にそれほどの歴史はなく、日本を貶めてると言われるほど影響力も無いし、そんな右翼に貶められたとしても滅びる様な日本でもない。

 昭和30年代から50年代の左翼全盛時代、日本を貶めようとしていたのは左翼団体であり、それらを殲滅せんと対峙していた右翼陣営を、また高度成長期に企業防衛を果たしていた右翼を、現在の風潮や価値観で「朝鮮右翼」などと揶揄するのは簡単だが、街宣右翼の行動全てを断じられる謂れもない。

 戦前の右翼と戦後の右翼は全く違う存在だ。戦前の右翼というのは「国粋主義」的要素が強く、外国思想は全て悪と捉えるという考えであり、それは共産主義であろうが、資本主義であろうが、民主主義であろうが批判されるべき対象だった。

 戦後の右翼が国粋主義から「反共」のみに奔り、愚連隊の様な組織になってしまったのは右翼の巨頭と称された児玉誉志夫の影響が大きい。

「政財界の黒幕」と言われた児玉誉志夫だが、出身は福島県本宮町(現本宮市)。戦前は海軍航空部門の物資調達を任された「児玉機関」の親玉でもあり、戦後は「A級戦犯」としてGHQに逮捕された経歴もある大物右翼である。

 GHQは占領下に於いて、戦争を引き起こしたのは日本国内の右翼勢力だとして、右翼団体や危険人物を公職追放し潰そうとするが、大東亜戦争が終結するとアジアや世界各地で共産党による革命や暴動が起こった。

 日本国内でも同様で、共産主義に被れた連中が大手を振って延し歩く様になる。これを危惧したGHQは右翼解体の方針を転換し、右翼を「反共」に利用することにする。児玉と同じくA級戦犯だった笹川良一もこれに与した。

 児玉も笹川も、米国の意のままに戦前の右翼で在りながら戦後の「民主主義」や「資本主義」に与し、「共産主義」を悪として反共運動を忠実に実行した。児玉や笹川が米国のスパイと言われるのはその所為でもある。

 児玉は「児玉機関」で貯め込んだ潤沢な資金を基に全国の博徒や香具師を纏め上げ、右翼団体を次々と立ち上げ「日教組撲滅」などの反共運動を展開する。

 右翼の掲げる「憲法改正」や「北方領土奪還」「靖國神社国家護持」「自衛軍備強化」などのスローガンにしても、自民党を始めとする保守派のものと同一なのは戦後の右翼が自民党の「院外団」的存在として設立された名残でもある。

「戦後の右翼はこう変わった」の記事で気になったのは、防挺を設立したのは福田素顕となってたが、防挺に30年所属してて初めて聞いた。

 福田素顕(本名・福田狂二)は、元社会主義者で弾圧を受け支那に亡命し、国共戦で敗れると蒋介石と共に台湾へ。後に日本へ戻り、国家社会主義者へ転向し「日本労農党」「進め社」などを設立した人物。初代防共新聞社社主。

 素顕が防共新聞の宣伝部隊として行動部隊の設立に関わったことは間違いないが、防挺は大日本愛国党の城南支部も兼任しており、素顕が設立したというより長男の福田進が設立し初代総隊長に就いた。因みに福田進は赤尾敏と袂を分かつ。その際の理由は「赤尾は完全な資本主義者だ」と断じている。

 記事には街宣で音楽を鳴らしたのは防挺が「ちゃんちきおけさ」を流したのが最初と書かれている。詳しく言えば、福田総隊長が都知事選に出た際に目立つ方法はないかと蓄音機を宣伝車に載せて流したのが始まり。

 今の様にカセットやCDなんて無いから走ると針が好く飛んだという。でも、この話を知ってるのは当時一緒に行動してた元幹部から直接聞いた愚生くらいなもので、あの記事のあの「ちゃんちきおけさ」の件は愚生のブログ(http://cordial8317.livedoor.blog/archives/51904013.html)などからのパクリだろう(笑)

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2018年09月07日

「北海道胆振東部地震」で火力発電のもろさが露呈した!

 北海道胆振地方を中心とする地震での被害は時間を増すごとに拡大の一途を辿っている。一人でも多くの命が助かることを祈らずにはいられない。

 今回の地震を受けて一面や社会面では、泊原発の1~3号機の使用済み核燃料などを貯蔵中のプールの冷却に必要な外部電源が喪失したと報じている。

 反原発のマスコミは「原発の思わぬもろさが露呈した」と問題視し、また人災といわれる福島原発事故の張本人である菅直人も「福島原発事故の教訓を生かし切れていない」と批判していが、菅に原発云々を語る資格はない。

 テレビ朝日は「泊原発が再稼働していたら非常用発電機で原子炉の冷却をしなければならなかった」と、然も再稼働をしていなかったことが幸いの如くに報じているが、原発が再稼働していれば今回の様な停電は防げただろう。

 今回の地震では震源地から100キロ離れた火力発電が停止した。この火力発電の停止によって道内全域の停電が起きた訳だが、それこそ「火力発電のもろさが露呈した」というのが正しく、火力発電はあくまでも原発再稼働までの繋ぎなのだ。

 我が国は正に電力によって生活や経済が成り立っており、電力の喪失イコール混乱を意味する。基幹エネルギーとなるべき原発が、くだらん感情論で停止していることは危機管理上からも大問題と断じる他はない。

 反原発派の坂本龍一が「高が電気の為に命を危険に晒してはいけない」と叫んだのは記憶に新しいが、命を危険に曝すのは停電に因るところが方が大きい。

 枝野幸男は過去に、衆議院予算委員会で「ホルムズ海峡が封鎖され石油が入らなくなっても快適な生活が送れない程度」と語り、国民の失笑を買った。

 更に「油が8割止まると今と同じ様な快適な生活が出来ないけど、武力攻撃を受けた場合と同様ではない。直接人命が失われる様な事態ではない」とも語っているが、地震に因る電力喪失で命の危険に直面していることをどう思ってるのか。

 原発事故後、国内の原発が停止し再生エネルギーの名の下に森林が破壊され太陽光パネルが乱立するも基幹エネルギーには成り得ない。

 原発に代わり火力発電を中心とする化石燃料による電力に移行したが、経済の低迷は明らかに原発停止による影響は大きく、原発停止による弊害は大きい。

 原油輸入に言及するならば、ホルムズ海峡の封鎖は我が国の死活問題であり、火力発電に依存せず原発再稼働を検討するべき時期に来てるのではあるまいか。

 枝野は「我が国には備蓄があるではないか」と指摘していたが、万が一、シーレーンを封鎖された場合、我が国の電力供給は数か月程度しか持たない。

 シーレーンの封鎖どころか原発再稼働が躊躇される中で、火力発電所がテロの標的になれば福島原発事故以上のパニックが起きるのは必至で、これ即ち「間接的に人命が失われる」危機でもあるのだ。

 所詮、反原発派や極左等の狙いは革命にある。福島原発事故を論い、放射線の恐怖を煽り、社会の不安と混乱、秩序の破壊、そして大衆を洗脳し暴徒化させるのが目的である。革命分子を鎮静化させる為にも原発再稼働を急ぐべし。

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2018年09月04日

西軍に因る東軍への仕打ちと不条理は150年経った今も遺恨として癒えることはない

 地元紙では「戊辰150年」特集が組まれている。第三章~信義を貫いて~では、岐阜県郡上藩の「凌霜隊」に関する特集記事が載っていた。

 会津藩と共に義に殉じた藩というと三重の桑名藩や越後の長岡藩は知ってるが、岐阜の郡上藩のことは知らなかった。

 戊辰戦争が起きる1年前、郡上藩主・青山幸宜は幕府から徳川慶喜の警護を命じられる。藩主は代わり筆頭家老を差し向ける。

 将軍の警護を命じられた翌年、戊辰の役の前触れとなる「鳥羽・伏見の変(戦い)」で幕府軍が敗れると、地元では西軍への恭順を示す。だが、江戸にいた藩士らは東軍支援に向けて藩士有志らで「凌霜隊」を結成する。

「凌霜(りょうそう)」とは「霜を凌ぎ、花を咲かせる野菊の様な不撓不屈の精神」という意味で、藩主の家紋「葉菊紋」に由来する。

 隊長は朝比奈茂吉。江戸家老の長男で弱冠17歳。慶応4(1868)年4月、朝比奈らは江戸を出立し、千葉県行徳、栃木県宇都宮を経て会津藩の領地に入る。

 会津下郷での「大内宿の戦い」、会津美里の「関山の戦い」を経て会津城内西出丸の守備に就き、会津藩が上洛した9月21日翌日まで抗戦したという。

 凌霜隊の武勲を顕彰した碑が会津若松市内の飯盛山に建っている。白虎隊の墓には今も線香の煙は絶えることはないが、ほど近くに在る「郡上藩・凌霜隊之碑」碑に足を止める人はまばらだという。

 岐阜というと西軍の大垣藩しか知らなかったが、こうした義を重んじ殉じた藩がいたことに感服。近々飯盛山に参じ感謝の誠を捧げたい。

 因みに、東京都港区青山という地名があるが、これは郡上藩主の江戸屋敷が在ったことから付けられたという。

 150年前「鳥羽・伏見の変」に始まった戊辰の役(戊辰戦争)と呼ばれる国内戦争はその後、激化を極める。慶応4年8月21日(旧暦)、母成峠が戦場となり、東軍と西軍との間で烈しい攻防戦を繰り広げた。

 白河口の戦いを制し、二本松領を占領した新政府軍内では、次の攻撃目標に関して意見が分かれたという。

 大村益次郎は仙台・米沢の攻撃を主張し、板垣退助と伊地知正治は会津への攻撃を主張。板垣・伊地知の意見が通り会津を攻撃することとなった。

 本宮・玉ノ井村(現大玉村)に集結した兵を三分し、谷干城(土佐)率いる約1000名は勝岩(猿岩)口へ。板垣退助・伊地知正治率いる約1300名は石筵本道口へ。川村純義(薩摩)率いる約300名は山葵沢より達沢口へ一斉に進発した。

 これを迎え撃つ東軍の兵は僅か800名。勝岩口の勝岩上には大鳥圭介率いる伝習第二大隊及び二本松藩の約300名が守備に当り、勝岩下には新選組ら凡そ70名が配置し、土方歳三と山口次郎(斎藤一)がこれを指揮した。

 石筵本道口の第一台場(萩岡)、第二台場(中軍山)、第三台場(母成峠)には、会津藩主将の田中源之進と二本松藩家老の丹羽丹波と伝習第一大隊長の秋月登之助らの指揮する約400余りの兵が守備に当った。

 戦いは、萩岡の号砲を合図に、勝岩口と本道口に分かれ、午前9時頃からの始まった戦いは約7時間に及ぶも、圧倒的な兵力と火力の差は如何ともし難く、東軍は北方高森方面や西方猪苗代方面に敗退。

 西軍は十六橋を突破し、戸ノ口原を経て、怒涛の様に会津鶴ヶ城に殺到した。母成峠の戦いでの東軍戦死者88名、西軍戦死者25名。母成峠には、会津藩が構築した防塁、塹壕、砲台跡が今も整然と残っている。

 近くには東軍殉難者の慰霊碑があるが、この地で東軍の夥しい死体が発見されたのは近年であり、如何に薩長の西軍が非情だったかが伺える。

 8月23日、母成峠から会津領内に攻め込んだ西軍は会津藩との熾烈な戦いに及ぶ。 西軍が会津城内に攻め入ると、上席家老・西郷頼母邸では篭城戦の足手まといとなるのを苦にした母や妻子など一族21人が自刃した。

 徳川幕府への恨みの象徴でもあった会津藩が9月21日に降伏。この敗戦により西郷頼母・田中玄清・神保内蔵助が切腹し責任を負うところするところ、当初から恭順を示していた西郷は行方知れず。長男らと共に敵前逃亡した。

 神保と田中は城下での戦闘に於いて既に自刃していた為に、次席の萱野長修が戦争責任を一身に負って切腹している。それでも西軍は満足することなく、戦いは東北地方を北上し函館にまで及ぶこととなった。

 戦いは年を超えるも翌年3月、函館五稜郭で奮闘した榎本武揚軍が降伏し、日本人同士で戦った戊辰の役が事実上終結した。

 因みに西郷は長男と共に生き残り、維新後「同姓の誼で」と西郷隆盛に長男の職などを嘆願してるが、義に殉ずるべき上席家老としての誇りは無かったのか。死を以て武士の本分を示した白虎隊の行動と照らしてみても恥ずべきことだ。

 会津藩士の中で西郷頼母の生き様に倣うものは無い。 維新後、野に下らず立身出世を目指した榎本武揚然り、武士というより政治家というべきか。

「負けは必定なれど三春に倣うべからず」と義に殉じた二本松藩士や、「侍の時代は終わる」と知りながらも家老としての宿命を諒として藩命を重んじた河井継之助ら長岡藩士らこそ侍の鏡であろう。

 西軍に因る東軍への仕打ちと不条理は150年経った今も遺恨として癒えることはなく、我が国の戦後体制の諸矛盾や不条理は、尊皇攘夷とは程遠い明治維新を謀った長州閥中心の専制政治が元凶でもある。

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2018年09月02日

昭和20年9月2日、戦艦ミズーリの甲板上で降伏文書に調印

 昭和20(1945)年8月14日、我が国はポツダム宣言を受諾。そして9月2日、降伏文書に調印した。米国を始めとした連合国ではこの翌日を「対日戦争終結記念日」や「第二次世界大戦(太平洋戦争)終戦の日」としている。

 9月2日、東京湾上に停泊してた戦艦ミズーリの甲板上での調印の為に、梅津美次郎参謀総長らと共に、右足が不自由な重光葵外相は義足を引き摺りながら、ステッキを頼りに細い階段を喘ぎ喘ぎ上る。

 重光外相の右足は「上海天長節爆弾事件」により失った。漸く甲板に辿り着いた重光外相は、調印を前に一杯の水を所望するも卑怯者の「ジャップ」にやる水などないと冷たく拒否される。日本人への憎悪と蔑視がここにも顕れている。

「上海天長節爆弾事件」とは、昭和7年4月29日に起きた爆弾テロ。重光は上海に於いて、駐中華民国公使として天長節奉祝式典に参列し、国歌を斉唱する正にその時、朝鮮独立運動家・尹奉吉が爆弾を投擲した。

 重光はその場から逃げることなく「君が代」を歌い続け、結果、片足を失うこととなった。重光はこの時を振り返りこう述べた。

「爆弾が投げられたのは分かっていたけれど、国歌斉唱中なので動かなかった。動くのは不敬であると考えた」

 重光の隣で遭難し、片目を失った海軍大将・野村吉三郎も「国歌斉唱中だったから逃げなかった」との理由を語っている。

 その後に外相や駐米大使となる野村や重光の様な、こうした決死の覚悟と肝の据わった官僚や政治家がいないのは我が国の不幸とも言えよう。

「君が代」「日の丸」に反対する勢力も自称・保守派や右翼人にしても、重光や野村の様な決死の覚悟が伴っているかといえば疑問でもある。

 昭和20年9月2日、降伏文書の署名に因って我が国は「負け」を認めたが、先の戦争の大義は決して間違いではない。

 抑抑、何故に我が国が開戦を決意し真珠湾攻撃に至ったかが問題であり、それにはペリー来航時代にまで遡らなければ到底理解は出来まい。

 我が国は西欧列強に倣い、強力な中央集権国家を形成しようと明治維新という大業を短期間で成し遂げた。

 15世紀の大航海時代以来、白人による世界制覇の波がアジアにも押し寄せ、アジアは次々と列強に蚕食され植民地となった。その間に勃発した「日清・日露戦争」や「日韓併合」なども避けては通れない宿命的な歴史だったのだ。

「日清・日露戦争」での日本大勝利の報は、固唾を呑んで見守っていた世界の人々を驚嘆させ、特に有色人種に与えた影響は強烈だった。

 日露戦争勝利から15年後、パリ講和会議で日本は「人種平等の原則」を国際連盟規約に載せることを提案するも、議長を務める米国大統領ウイルソンは「有色人種に人権など必要無い」との差別や蔑視から否決される。

 その後、世界は第二次世界大戦に突入し、我が国はABCD包囲網に因って四面楚歌に陥り、最後通牒である「ハルノート」を突き付けられると「最早生き残る道は連合国との戦争しかない」との決断に至るのだ。

 今も尚、糾弾して止まない「リメンバーパールハーバー」は、日本人への偏見と差別と歴史への冒涜であり、先の大戦の過ちを猛省すべきは米国である。

 歴史は国家の大本である。歴史を語る上で大切なのは、古今東西、世界に蔓延る覇権主義の克服を主張すべきであって、他国の覇権主義に目を瞑り、一方的に自虐の淵に止め処なく漬かり込むことではない。

 日本に生まれ育った者として、大東亜戦争の真の歴史と意義を知ることは国民としての義務でもある。9月2日は日本人として決して忘れてはならない屈辱の日でもある。先人の偉業に感謝の誠と敬意を表したい。

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cordial8317 at 06:19|PermalinkComments(0)