2017年12月

2017年12月30日

「今日は無礼講だから遠慮しないでどんどん呑め!」とか言われて杯盤狼籍(笑)

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 忘新年会のシーズン、「今日は無礼講だから遠慮しないでどんどん呑め!」とか言われ、その気になって泥酔して杯盤狼籍。調子に乗って飲み過ぎて、翌日には記憶もカネも無いなんてのはよくあるだろう。

 先輩や上司から「無礼講だ」と言われてもやはり酒席では礼節は失ってはいけません。大体、会社や先輩での酒席は修行の一環。気を遣って飲む酒なんぞ旨くもないし楽しくもない。やはり酒は身銭を切って飲むのが旨いし愉しい。

 毘沙門天を信仰し、生涯質素な生活を送った質実剛健の戦国武将・上杉謙信は酒には目が無くて、酒の飲み過ぎで脳卒中で死んだというから何か親近感が沸くというものだが、愚生も他人事ではない。

 謙信は、お気に入りの大ぶりの盃を持って部下と一献。大いに酒を勧めながら部下の酔いの姿を観察し、酒に呑まれて我を忘れる部下を酷く嫌ったという。また、酔った勢いでここぞとばかりに進言したりする部下も信用しなかった。普段も酒席も同じ態度の者を重用した。

 愚生の場合、鼻に付く先輩などには酒席で苦言を呈す時もある。ただ、翌日には「昨日は酔っぱらってついつい言い過ぎました」と謝ることにしているが、酒の所為にすれば大概赦される。でも、言ったことは本音です(笑)

 吉田松陰は「常に直諫なくば」と訓えているが、先輩や上司への諫言とはシラフの時に言った方が好い。ただ、それを赦してくれる様な度量の大きな先輩や上司は少ないので御注意を(笑)

「今日は無礼講だ」と勧める一方で、酒席の様子や酔っ払いぶりを謙信の様に冷静に観察している上司や先輩方がいることを忘れてはいけません(笑)

 酒ってのは失敗も多いが、失敗で得る方が断然多いから酒での失敗も大事な経験。「酒が人間をダメにするんじゃなく、酒は如何に人間がダメなものかを教えてくれる」とは立川談志だが、蓋し正論。

「酒は飲むべし 酒は飲むべし 人生唯酒ありて肝を開く 酔中の快楽人知るなし」とは坂本龍馬。酒は男を磨く道具の一つ。肴は特に拘らなくても好いが、飲む酒には拘りたいものだ。但し呑み過ぎには御注意を。呵呵大笑。

 これを以て今年最後のブログと致します。今年も「爆ちゃん吼える」に御付き合い頂き感謝申し上げると共に、謹んで陛下と皇室の弥栄を寿ぎ奉り、併而、来年が皆様にとって実りある年と成ります様に御祈念申し上げます。

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2017年12月29日

「喪中につき年末年始の挨拶はご辞退させて頂きます」という陋習

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「喪中につき年末年始の挨拶はご辞退させて頂きます」だとか、「喪中なので初詣には行かない」いう様な声を聞く。信心深いのだろうが、こうしたことも古くからの習慣であり、大した意味はなくやっている様だ。

「初詣」も神道なら50日を過ぎていれば問題はない。仏教でも浄土真宗などは「死」は「穢(ケガ)れ」ではなく、故人を阿弥陀如来の智慧の光明に縁り極楽浄土へと導くという真理であるという教なのだから問題はない。

 尤も、日本人というのは天皇陛下の御生誕を祝わずキリスト誕生を祝い、大晦日には除夜の鐘を撞き、初詣には神社に参拝する。結婚式を教会や神社で挙げ、葬式は仏教と実にいい加減な民族ともいえるが、何故か喪中にだけは拘る(笑)

 先祖の宗派も分からず、日頃、神仏などを軽んじていながら、自分の都合の好い時だけ信心深くなるのはどういう訳だろう(笑)

 近親者が亡くなった場合に、一定の期間、その死を悼み、身を慎むことを「忌服」、或いは「服喪」という。

 古くは、門戸を閉じ、酒肉を断ち、弔せず、賀せず、音曲をなさず、嫁取りをせず、財を分かたずという様な仕来たりがあった様だが、今日ではそれらの一部分が慣例として受け継がれているだけなのだ。

 現在はここまで喪に服することはないし、そこまでした人を見たことも聞いたこともない。一等親の身内が亡くなられた場合でも、一週間も仕事を休めば「もう、君は来なくていい」と上司から誹られるだろう。

 日本での喪中の規定に関する法律は、奈良時代の「養老律令」には既に見られ、江戸時代になると「服忌令」という法律によって喪中の規定が記され、これらによると父母の喪は12ヶ月~13ヶ月であると制定されている。

 明治7年に出された太政官布告(「忌服令」昭和22年に廃止)では、「父母、夫、50日、13ヶ月。妻、兄弟姉妹、20日、90日」などと「忌(忌中)」と「服(喪中)」の期間をこと細かく定めている。

 明治42年に制定された「皇室服喪令」では「12か月」と、こちらも「忌服令」などと粗同様の期間が決められている。

「忌」と「服」は、謹慎度の深さによって分けられるが、大まかには「忌」は自宅に謹慎する期間、法要(四十九日)が終わる期間。「服」は喪服を着用する期間、死者を偲ぶ期間と考えていいだろう。

「忌中」とは、神道の「穢れである死を忌む期間」という考え方から、忌中時(五十日)は「出仕(仕事)を控え、殺生をせず、髭や髪を剃らず、神社に参拝しない」としている。

 現在ではこうした法令は全て撤廃され、仏事の慣例としては今もこの太政官布告が一つの目安にされていて、喩えば父母の死亡に際しては七七忌(四十九日)までが忌中、一周忌(一年間)までが喪中とされることが多い様だ。

「喪」は抑々儒教から生じているもので、父母の死については13ヶ月間喪に服するということになっている。

 この13ヶ月の数え方だが、昔は「0」という観念がないので、父母が亡くなった月が1ヶ月目となり、丸1ヶ月なくてもその月が終われば1ヶ月と数え、翌月は2ヶ月目になる。亡くなって二年目の法要が三回忌となるのと同じ。

「年賀状」は明治6年、日本で「ハガキ郵便配達」が始まったのを機に、遠方以外の人にも挨拶状を送る習慣が広まって行った。

「年賀郵便」の制度は明治39年に始まり、昭和24年には「お年玉付き年賀はがき」が発売されると、年賀状が次第に普及し慣例となった。

 年賀状というのは正月の愉しみではあるが、通信手段が無い時代に遠くの友人に年に一度の挨拶する為に生まれたのが年賀状であり、ネットや通信網が普及された現代に於いては面倒な習慣でもある。

 服喪期間という個人の故人への思いはそれはそれで好い。喪中の相手を気遣うという意味では年賀状を送るというのは思慮不足なのかも知れないが、悪気が在って送る訳でもないだろうし、陋習ともいえる年賀状如きに、亡くなった人まで巻き込んで一喜一憂などする必要はない。

 尤も「喪中だから」と門戸を閉じ、酒肉を断ち、弔せず、賀せず、音曲を成さず、嫁取りをせず、財を分かたず、出仕(仕事)を控え、殺生をせず、髭や髪を剃らず、自らを厳しく律している方なら別だが、そんな人はいないだろう(笑)

 愚生の場合、年賀状は殆ど書かない。頂いた方には寒中見舞いを出すことにしている。「葬儀・告別式」も「年忌法要」も「偲ぶ会」も身内や友人には「やる必要なし」と断ってるので、当然、喪に服する必要もない。

「死んだらそれまで、忘れて結構!」と念を押している。若しこの遺言とも言える申し入れを無視する様なら化けて出るつもりでいる。呵呵大笑。

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2017年12月28日

フィクサーを気取ったゴロツキ右翼や金権右翼も歌心のない乞食右翼も皆右翼

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 右翼が、国家社会主義、農本主義、純正日本主義などの思想を基に活動したのは遠い昔の話で、今はそうした思想も無ければ、政治に対しての認識や危機感も「ネット右翼」と揶揄されている連中の方が長けている。

 だが、そんな右翼にも悲観はしていない。人生、好い時もあれば悪い時もあるもので、女に本気になったり、金儲けに奔ったりする時期もあるだろう。その方が人間味があって右翼らしい。どんな生き様をしてようが本物は残る。

 街宣車のある者は、それを大いに利用して街頭演説で啓蒙したり、営利を貪る悪徳資本家共を糾弾するのも好い。宣伝車が無い者は徒歩で集団示威行為をしたり、ハンドマイクを使った街頭演説や抗議も好いだろう。

 文章が上手なら、政争ばかりの政治家や営利に狂奔する企業への抗議文の送付したり、アジビラを撒くも良し。或いはボランティアなどで社会貢献するのも良し。救国運動とは夫夫が出来ることをコツコツとやれば好い。

 真面目な右翼もパクられてばかりいる右翼も、ヤクザブルな軟弱右翼も、金儲けの下手な右翼も、ヤクザ系右翼やフィクサーを気取ったゴロツキ右翼も、歌心のない乞食右翼と揶揄される者も皆右翼。色んな右翼がいて右翼なのだ。

 右翼は愛国者ではない。愛国者とは社稷を重んじて懸命に働き納税してる資本家であり、国に頼らず国を支えている勤労者だと思う。

 日々を怠惰に生きながらも、日々の生活に流されながらも、一維新者としての志しさえ忘れなければいつかはその熱意は届くだろう。

「日本は滅びる!」「日本が危ない!」と徒に危機を煽り、日本が滅亡するかの様に叫ぶ保守派や、我が国に係る危機を売り物にして売文し、講演を生業にしてる営業保守がいる。

 日本会議を始めとしたそんな営業保守、営業右翼の言葉を真に受けて、その御先棒を担ぎ、前衛となってネットで街頭で騒ぎ立てているのが、自称・愛国者を気取ったネット右翼と言われる連中だろう。

 右翼の何たるかも知らないで「右翼」とは右翼もナメられたものだ。愛国運動が軽々しくなったのは右翼指導者の無能は然ることながら、「愛国」や「保守」を利用し、それで蓄財し、右翼の大物ぶってる輩が元凶ではなかろうか。

 正統の保守主義者に於いて時間を体験する仕方は、過去の意味を直視し、その中に価値を見出す発見によって未来を創造して行くものである。

 高邁な心を忘却し、高い精神の伴わない現在の我が国の様な繁栄はやがて衰退する。我ら大和民族は目先の繁栄ではなく、神武肇国の精神の高揚と国民国家の繁栄をこそ目指さねばならないのだ。

 国を愛する心を涵養するとは如何なることか。街頭に立ち、日の丸や旭日旗を掲げ、街中を闊歩すれば愛国者なのか。やらないよりはやった方が好いだとか、そんなものはオナニーと同じで贔屓の引き倒しそのものだ。

 愛国心とか大和心とはそんなものではない。愛国とは日本に生を享けた者が、八紘を掩(おお)ひて宇(いえ)にせむこと。つまりは神武肇国の大理想「八紘一宇」を掲げ、天皇國日本の真姿開顕へ奮闘前進すること以外に無い。

 愚生は、防挺(防共挺身隊)に愛着はあったが、前任者やそれを取り巻く体制に付いて行けず袂を分かつ結果となてしまったのは返す返すも残念無念。今やその行動右翼のパイオニアを自任した防挺も風前の灯というのも寂しい限り。

 そうした現状に隔靴掻痒の感は拭えないが、愚生を含め、防挺を去った後輩らも、防挺に所属していたという誇りを胸に精進して欲しいものだ。

 ということで、怠惰に日々を過ごしてしまっている愚生への自戒と純粋に右翼活動に打ち込んでいる若手活動家にエールを送ってみた。

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2017年12月27日

文科省も教育委員会も日教組も全教も教育荒廃の腐った肥溜め

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 今年1月、須賀川市の中学1年の男子生徒が自殺した問題で、市の第三者委員会は「いじめが大きな一因となって自死を選択した」との調査結果を公表した。

 関係者は「二度とこの様な悲しいことが起きない様に学校と教育委員会が一丸となって再発防止に務める」と御決まりの決意を述べる。

 男子生徒は同じクラスの男子9人から「菌がうつる」だとか揶揄われ、部活動でも人格を否定する様な名前を付けられ呼ばれていたことで、精神が滅入り、ストレスが溜まり自殺したという。

 学校の対応の甘さを指摘しているが、子供の気持ちに寄り添えなかった親にも責任はあるし、何より自殺する勇気があるなら、いじめた同級生に負けても良いから反撃や報復すれば好かったと思っている。

 今は暴力は絶対悪として受け入れられることはない。況してや反撃や報復となれば逆に批判されかねない。市側は学校の対応の甘さを指摘するが、いじめを糺そうといじめてた生徒にビンタでも食らわせたら、それこそ体罰だと騒がれて正義感溢れる教師が吊し上げられる。

 こうした社会の風潮、被害者よりも加害者側の人権を重んじるかの様な不正義が、いじめや犯罪が無くならない最大要因となっているのも確かだろう。

 いじめというのは幾ら防止しても無くならないだろう。人間というのは強い者には巻かれるが、自分より弱い者と見るや虐めたくなるのは本能でもある。

 教育の荒廃の元凶は日教組や全教というだけではなく、文科省や教育委員会の不作為と政治家の教育改革への無関心、そして戦後の幼稚な人権主義や暴力否定の安っぽい平和主義が少なからず影響を齎したのだ。

 教育委員会は戦後、日本の教育制度を米国の意のままに置こうというのがその狙いだった。その戦後民主主義教育は米国の思惑以上に大きな成果を齎し続けているが、その教育委員会制度に頼ったところで余計に混乱を招くだけ。

 文科省も教育委員会も日教組も全教も教育荒廃の腐った肥溜め、中でも占領下に謀られた教育委員会は早々に廃止すべき組織であり、教育委員会制度の廃止が教育改革に繋がり、延いてはいじめ問題解決にも繋がるだろう。

 会津の「什(じゅう)の掟」には「卑怯な振舞いをしてはなりませぬ」「弱い者を苛めてはなりませぬ」ということを訓えている。

「什」とは数人の子供が集まり、色々なことを話し合った集団で、決まり事は子供自ら考えて実践した。

 いじめというのは、いじめが卑怯なことや恥ずかしいものだという認識の欠落から行われているのが殆どで、大人が介入したところで解決は見ない。生徒自らが問題意識を以て話し合い、解決することが好い。

 子供達がこうしたいじめという卑しい行為に奔るのは、日本文化の喪失に起因してると言っても過言ではない。

 それは政治家の怠慢でもあるが、我々大人の責任でもある。いじめで自殺した生徒も、意味も分からずいじめた側も戦後教育の被害者でもあるのだ。

 いじめられて自殺するくらいなら報復しなさい。反撃もやらないなら学校なんぞ行くな。勉強なんてやる気があれば何処でも出来る。

 その昔、右翼現役時代「日教組撲滅」のビラを都内中に貼った。そのビラの一つに「どんな子も みんな日本の 大事な子!」というのがあった。

 子供達は日本の宝だ。どんな出来の悪い子供であっても、大人達が優しい目で、そして時には厳しく、慈愛を持って見守ってやらねばならない。

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2017年12月26日

我が国は正に「天皇国日本」。これこそが万古不磨の大原理大原則である

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 現憲法下で明記されている国事行為を全うすることが難しくなったと御発露遊ばされ、安倍は「国事行為を軽減する有識者会議」を発足するも、「生前退位」という意味不明の言葉が躍り、天皇譲位は避けられない状況を作り上げられた。

 畏くも天皇陛下は歴史が証明している通り、憲法以前の御存在であらせられ、憲法が在って天皇が存在せられるものではない。

 国事行為が困難ならば、皇太子殿下や秋篠宮殿下が輔佐する環境を作れば好かっただけで、また憲法に明記されてる国事行為を改めれば好かっただけのこと。

 然し乍ら、安倍亡国政府はあろうことに皇室典範に手を付け、陛下の譲位を附帯し、皇太子の即位に当たっての大嘗祭も、現憲法に明記していないことで行わない。その他の皇室に関わる行事も特例法という姑息な手段で乗り切るつもりだ。

 我が国は天皇即日本であり日本即天皇である。これ即ち、明治天皇が教育勅語の中に於いて「世々その美を済せる国體の精華」と御諭しになったところであり、万邦類い無き「天皇国日本」の真姿である。

 欽定明治憲法(大日本帝国憲法)の第1条に「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と在ることは、万世一系という歴史的事実と、我が国の本来在るべき姿を明示されたものと謹解する。

 安倍政治を盲信し、自民党を支持した多くの自称保守派や自称愛国者らは、安倍政権下で憲法改正が恰も成立するかの様なはしゃぎぶりだったが、安倍の目論む憲法改正は現憲法を認め、帝国憲法への復元改正を不可能にするものだ。

 絶対安定多数を占めた第三次安倍政権が発足すると、憲法改正への国民の理解を得る為の取り組みを強める意向を示し、先ずは憲法96条の改正を目論んだ。

 第96条の改憲発議要件を「国会議員の3分の2以上」から「2分の1」に緩和するらしいが、安易な発議条項緩和は、万が一、革命政権が樹立されれば天皇条項をも廃止され国體の破壊に繋がる危険を孕んでいる。

 憲法改正というと9条が問題にされるが、9条こそが重要だと位置付けしている点では、自民党議員や保守派や日本会議に洗脳された自称・愛国者というのは、「9条の会」を始めとした誤(護)憲派らのバカらと大して変わらない。

 尤も、安倍の憲法改正論は保守票を取り込むリップサービスでしかないが、こうした国體を破壊しかねない「とりあえず憲法改正派」というのはインチキ保守、インチキ右翼というのが正しい。

 その証拠に、対北朝鮮や尖閣問題といった領土主権ではあれだけ騒いでいながら、国體や皇統断絶に関わる「生前退位」に沈黙し、そして同調した。

 更には、豊葦原瑞穂の国・日本を崩壊に導く「種子法廃止法案」や「農業競争力強化支援法」、また残留農薬基準の大幅緩和という、正に我が国農業の危機に対しては何ら抗議の声を上げることは無かった。保守派や右翼は何を死守するのか。

 我が国は正に「天皇国日本」。これこそが日本国民として肝に銘じ、忘れてはならない万古不磨の大原理大原則である。

 現憲法は帝国憲法の改正であり、現憲法を改正するというのなら第96条の改正などという姑息な手段ではなく、現憲法が帝国憲法七十三条に基付いて改正された事実に刮目し、現憲法を破棄し帝国憲法の復元・改正こそ目指し、天皇国日本を盤石の安きに置かなければならない。

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2017年12月25日

日本中央競馬会のJRAって日本赤軍(ジャパン・レッド・アーミー)と同じだね(笑)

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 日本中央競馬会(JRA)は、政府が導入することを決めたカジノ法案(統合型リゾート施設)を踏まえ、ギャンブル依存症対策として、今月28日より依存症の疑いのある人の家族の依頼で投票権購入を拒否出来る制度を導入するという。

 競輪・競馬やボート、オートレースなどをギャンブルと非難するが、カジノ法案に反対する連中が「負けた人のカネが収益になるというのが問題」だと言うであれば、国内最大のギャンブルはそれこそパチンコだろう。

 だが何故か、カジノ法案に反対する連中は「パチンコはギャンブルではない」という。コレ正しくダブルスタンダードの典型でもある。

 ギャンブルとは博打や賭け事だけではなく、株などの投機もギャンブルだし、結婚もある種のギャンブルだろう(笑)

 毎日の様に新聞折込に入ってくるパチンコ屋のチラシには「パチンコ・パチスロは適度に楽しむ遊びです」という白々しい広告を目にするが、パチンコに限らず公営ギャンブルも己の器量以上にのめり込んではダメだということに尽きる。

 競馬や競輪などの公営ギャンブルより、民間企業のパチンコで家庭崩壊に陥った人の方が断然に多い。競馬は週末だけだが、パチンコは毎日なので猛省する機会がない、だからダラダラと続けてしまうのだ。

 依存症になる人というのは金銭欲が逞しく、根がだらしないのに自分に甘い人が多い。大体、賭け事は負けるということを理解していないのでは(笑)

 別に競馬や競輪などだけではなく、株などの投資や投資にしても同じで「もっと儲けたい」「負けを取り返したい」と、のめり込んでしまう。

 逆にギャンブルに嫌悪感を抱き、或いは受動喫煙がどうたらこうたらとタバコに対して敵意を剥き出しにする人というのは、往々にして鷹揚さが足らない人が多い。気持ちに余裕が無いから相手に厳しく当たる。

 人間、自分を律し、厳しくするのは好いが、相手にも厳しく当たると窮屈でイケません。ハンドルに遊びがないと危険な様に、やはり「遊び」という余裕は大事なことだ。テレビに登場する貴乃花親方を見てると余計にそう思う(笑)

 かといって、こういうギャンブルもタバコもやらない人というのは立派な人かというとそうでもない。下半身にだらしなく女好きが多い。保守派として持て囃されてる荒川区議の小坂某などを見てると熟熟そう思ってしまう(笑)

 何事も自分でやらないことには分からない。昨日は有馬記念だったが、10万人もの人が競馬場を訪れ、何千万人という人がキタサンブラックの勝利に感動した。この多くの喜びを否定して依存症ばかりを取り上げるのは本末転倒。

 斯くいう愚生も週末になれば競馬のメーンレースには参戦するし、競輪も月に数回あるG3以上のレースの最終3レースに参戦している。

 懐具合が芳しくないのでネット口座の残高を気にしながら細々と楽しんでいるが、ストレス解消や小さな喜びを得るには持って来い。

 掛け金が多いと負ける時も損害が大きくなって、ストレスが溜まり、負けを挽回しようと依存症に陥る。何事も過ぎたるは猶及ばざるが如し。

 要は、己の器量以上なことをやって身を滅ぼしているのだ。そういう意味では、馬券や車券の買い方一つでも、その人の性格や人となりを知ることが出来ます。今度、競馬場に同道しませんか。ってか、中央競馬会のJRAって、日本赤軍(ジャパン・レッド・アーミー)のJRAと同じだね。呵呵大笑。

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2017年12月24日

仏教にしてもキリスト教や新興宗教にしても「宗教」とは正に流行という病気でもある

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 日本人というのは戦後、米国の価値観を植え付けられ、それが当たり前だと思って来た。建国記念日を否定し、天皇誕生日よりキリスト生誕を祝い、新嘗祭よりハロウィンといった具合。

 我が国に古より伝わって来た「神道」は、こうした世界の中から生まれた。神と共にあるから「惟神(かんながら)」という。

 新羅万象の全てが、山の神、海の神、森、川、泉、石ころや水・・・全てのカタチある物やそして人も、その神の在る景色の一部に過ぎず、これこそが八百万の神である。

 その後、仏教が伝来する。仏教も当時は新興宗教であり、昔から人々は流行に敏感で瞬く間に普及していった。

 日本人の心の奥底には随神の教えがあるが、一方で仏教的価値観が事の善悪や行動の指針にもなっているのも確かだろう。

「宿命」という認識は仏教の教えからのものでもあり、それを仏教では「宿業(しゅくごう)」とか「宿世(すくせ、しゅくせ)」という言葉で表される。

 これは「生きる上で、自分の力ではどうにも出来ない過去に制約を受けているからどうしようもない」という発想である。

 仏教には「目の前にある状況は何らかの原因で起こっていることであり、この状況も何らかの原因となって別の結果を生み出す」という思想が根本にあり、それを「縁起(えんぎ)」という。

「因果応報」「悪因悪果」というが、今生きている自分は、自分が知らぬ過去によって決められているので自分ではどうしようもない。

 自分の死後も自分でもどうなるかは分からない、死後は「仏の世界」に導かれる、という一種の洗脳から、日本人は自分一代の生涯ではなく、過去と未来にも想いを巡らせる様になった。

 これは仏教の教えにより「永遠という観念」を手に入れたとも言える。仏教とは現世利益を与えてくれる恩恵の神という捉え方である。

「源氏物語」は、主人公である光源氏を中心に様々な恋が「宿世」として捉えられている。男女が出会うのも「宿世」なら、求愛も「宿世」。要は、不倫なんかも過去の導きから生まれた「宿世」ということになる(笑)

 この仏教的「宿業」「宿世」の考えは「自分の力ではどうしようもない」という一種の開き直りに繋がったのも事実。

 平安時代末期「仏の道が衰え、悪が横行する世になる」という「末法思想」が流行する。これをしても宗教とは正に流行という病気でもある。

 天皇誕生日よりキリスト生誕を祝う現在の風潮も、戦後の米国による洗脳の現れなら、そんな流行も廃れるのは時間の問題か、否否未だ未だ続くのか。惜しむらくは後者の方だろう。呵呵大笑。

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2017年12月23日

明治天皇と憲昭皇太后の御遺徳を偲び創建された神社の参道のイルミネーションに違和感

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 本日は天皇誕生日。皇国臣民としての喜びこれに優るものなし。謹んで陛下の弥栄と長久を祈念する。日本国民にとって天皇誕生日より盛り上がるのは何故かキリスト生誕を祝うクリスマスイブ。

 ということで街はクリスマス商戦一色。明治天皇と憲昭皇太后の御遺徳を偲び創建された神社の参道もイルミネーションで飾られる。天皇を戴く我が国にはそぐわない景色だが、まぁイベント好きな日本人らしい(笑) 

 敬虔なカトリック教徒でもないのにキリスト生誕を祝い、大晦日には寺で除夜の鐘を撞き、元旦には神社に初詣に行き、年賀状には元号を記す。ホント日本人とは実にいい加減というか、実に大らかな民族だ(笑)

 キリスト生誕を祝うのは結構だが、日本には日本の神が存在する。それを知るには「古事記」が好い。最近はマンガ本や現代語訳の本も多く出ているので、クリスマスケーキを買う気分で気軽に購入して頂きたいものだ。

「古事記」の書き出しは「天地創めて發けしとき高天原(たかまのはら)に成りし神の名は天御中主神(アメノミナカヌシノカミ)、次に高御産巣日神(タカミムスビノカミ)、次に神産巣日神(カミムスビノカミ)、この三柱の神は皆獨神と成りまして身を隠したまいき」と在る。

「造化三神」「神代七代」や「伊邪那岐(イザナギ)」と「伊邪那美(イザナミ)」が生んだとされる神は三十五柱に及ぶが、キリストやマホメット、孔子などと同様にこういう神々も日本人なら知っておくべきだろう。

「古事記」にはこうした神々が登場する。筆録した人物は太安麻呂(おおのやすまろ)。日本で最初に書かれたとされる書籍で、語り部の稗田阿礼(ひえだのあれ)が暗誦していた「帝紀」「旧辞」を基に編纂されたものとされている。

「古事記」は読む人によって感じ方も違うし、古代人が何を言わんとしたのかは捉え方も夫夫で、愉しい古典だと思う。

 西洋の神が天地創造の神で唯一絶対の不変の存在と描かれているが、我が国の神々は宇宙の後に生まれたと「古事記」では描かれいる。

 何気ないことだが、我々の祖先は唯一絶対の神が世界を意のままに創造したのではなく、それ以前の「無」の時間、つまり「ビックバン」以前の世界を想定していたというこの教えは驚くほど科学的でもある。

「高天原」とは「三次元世界」を表しており、「高」は高低の差を示す縦軸。「天」は空間であり時間。「原」は無限に水平に広がり行く横軸。

「古事記」には我々日本人の先祖の歩んできた歴史が比喩を駆使して活き活きと描かれ、同時に日本語本来の美しさも感じられる。

 一見難しそう漢字が使われてはいるが、日本語が未だ完成していない時代に作られたものなので漢字自体にはそれほど意味はない。

「音」を頼りに読み解いていくことが大切で、日本語の「言葉」とは「言ハ」であり、「コト」を表現する言語である。

 これは他国の言語には見られない特徴で、一つの言葉に多くの事柄を含めて伝え合う日本独特の文化であり、「古事記」の文章の中に在る「こと」を探って読み解くことが大事で、夫夫その感じ方が違ってもそれはそれで好いのだ。

 日本神話の特徴は、神でも失敗や過ちを起こすということ。外国では神が失敗や過ちを起こすことなど考えられないことだが、これだけでも日本の神々というのは愉快で、親しみを感じてしまう。

 クリスマスが終わると年末年始に向けて街の様相も変わり、正月に向けまっしぐら。年末を控え夫夫悩みも尽きないが、神様でも失敗はするのだから、人生もっと気軽に行こうじゃありませんか。呵呵大笑。

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2017年12月22日

天皇陛下の御地位および陛下の御存在は動かすべからざるものである(東条英機の遺言書より)

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 昭和23年12月22日夜、死刑執行の数時間前に、東京巣鴨において、教誨師の花山信勝師の前で東条英機が遺言書を朗読した。以下転載。(一部校正してます)

 開戦の時のことを思い起こすと実に断腸の思いがある。今回の処刑は個人的には慰められるところがあるけれども、国内的の自分の責任は、死をもって償えるものではない。

 しかし国際的な犯罪としては、どこまでも無罪を主張する。力の前に屈した。自分としては、国内的な責任を負うて、満足して刑場に行く。ただ同僚に責任を及ぼしたこと、下級者にまで刑の及びたることは、実に残念である。

 天皇陛下および国民に対しては、深くおわびする。

 元来、日本の軍隊は、陛下の仁慈の御志により行動すべきものであったが、一部あやまちを生じ、世界の誤解を受けたるは遺憾である。日本の軍に従事し、倒れた人および遺家族に対しては、実に相済まぬと思っている。

 今回の判決の是非に関しては、もとより歴史の批判に待つ、もしこれが永久の平和のためということであったら、もう少し大きな態度で事に臨まなければならぬのではないか。この裁判は、結局は政治裁判に終わった。勝者の裁判たる性質を脱却せね。

 天皇陛下の御地位および陛下の御存在は、動かすべからざるものである。天皇陛下の形式については、あえて言わぬ。存在そのものが必要なのである。

 それにつきかれこれ言葉をさしはさむ者があるが、これらは空気や地面のありがたさを知らねと同様のものである。東亜の諸民族は、今回のことを忘れて将来相協力すべきものである。

 東亜民族もまた他の民族と同様の権利をもつべきであって、その有色人種たることをむしろ誇りとすべきである。インドの判事には、尊敬の念を禁じ得ない。これをもって東亜民族の誇りと感じた。

 今回の戦争にて、東亜民族の生存の権利が了解せられはじめたのであったら、しあわせである。列国も排他的な考えを廃して、共栄の心持ちをもって進むべきである。

 現在の日本を事実上統治する米国人に一言するが、どうか日本の米国に対する心持ちを離れしめざるように願いたい。

 また、日本人が赤化しないように頼む。東亜民族の誠意を認識して、これと協力して行くようにしなければならぬ。実は、東亜の多民族の協力を得ることができなかったことが、今回の敗戦の原因であると考えている。

 今後日本は米国の保護の下に生活していくのであるが、極東の大勢はどうであろうか。終戦後わずかに三年にして、アジア大陸赤化の形勢はかくのごとくである。今後のことを考えれば、実に憂なきを得ぬ。もし日本が赤化の温床ともならば、危険この上ないではないか。

 日本は米国よりの食糧その他の援助を感謝している。しかし、もしも一般人が自己の生活の困難や、インフレや、食糧の不足などを米軍の日本にあるがためなりというような感想をもつようになったならば、それは危険である。

 実際にかかる宣伝をなしつつある者もあるのである。よって、米軍は日本人の心を失わぬように注意すべきことを希望する。

 米国の指導者は、大きな失敗を犯した。日本という赤化の防壁を破壊し去ったことである。いまや満州は赤化の根拠地である。朝鮮を二分したことは東亜の禍根である。

 米英はこれを救済する責任を負っている。従って、その意味においてトルーマン大統領が再任せられたことはよかったと思う。

 日本は米国の指導にもとづき武力を全面的に放棄した。それは一応は賢明であるというべきである。しかし、世界が全面的に武装を排除していないのに、一方的に武装をやめることは、泥棒がまだいるのに警察をやめるようなものである。

 私は、戦争を根絶するには、欲心を取り払わねばならぬと思う。現に世界各国はいずれも自国の存立や、自衛権の確保を説いている。これはお互いに欲心を放棄していない証拠である。

 国家から欲心を除くということは、不可能のことである。されば世界より戦争を除くということは不可能である。結局、自滅に陥るのであるかもわからぬが、事実はこの通りである。

 それゆえ、第三次世界大戦は避けることができない。第三次世界大戦において、おもなる立場に立つものは米国およびソ連である。

 第二次の世界大戦において、日本とドイツが取り去られてしまった。それゆえ、米国とソ連が直接に接触することになった。

 米ソ二国の思想上の相違はやむを得ぬ。この見地からいうも、第三次世界大戦は避けることはできぬ。第三次世界大戦においては、極東がその戦場となる。この時にあたって、米国は武力なき日本をいかにするのであろうか。

 米国はこの武力なき日本を守るの策をたてなければ、また何をかいわんや。そうでなしとすれば、米国に何らかの考えがなければならぬ。米国は、日本八千万国民の生きてゆける道を考えてくれねばならない。

 およそ生物としては、生きんことを欲するのは当然である。産児制限のごときは神意に反するもので、行うべきではない。なお言いたきことは、最近に至るまで戦犯容疑者の逮捕をなしつつある。

 今や戦後三年を経ておるのではないか。新たに戦犯を逮捕するというごときは、即時にやめるべきである。

 米国としては、日本国民が正業につくことを願い、その気持ちでやって行かなければならぬ。戦犯の逮捕は、我々の処刑をもって、一段落として放棄すべきである。

 戦死傷者、抑留者、戦災者の霊は、遺族の申し出があらば、これを靖国神社に合祀せられたし。出征地にある戦死者の墓には、保護を与えられたし。従って遺族の申し出あらば、これを内地に返還せられたし。

 戦犯者の家族には、保護を十分に与えられたし。青少年の保護ということは、大事なことである。近時いかがわしき風潮は、占領軍の影響からきているものが少なくない。この点については、わが国古来の美風をも十分考慮にいれられたし。

 今回の処刑を機として敵、味方、中立国の罹災者の一大追悼会を発起せられたし。もちろん、日本軍人の間に間違いを犯した者はあろう。これらについては衷心、謝罪する。

 これと同時に、無差別爆撃や原子爆弾の投下をなしたことについて、米国側も大いに考えなければならぬ。従って、さようなことをしたことについては、米国側も大いに悔悟すべきである。

 最後に軍事的問題について一言するが、我が国従来の統帥権独立の思想は確かに間違っている。あれでは陸海軍一本の行動はとれない。

 兵役については、徴兵制によるか、傭兵制によるか考えなければならぬ。我が国民性を考えて、再建の際に考慮すべし。

 教育は精神教育を大いにとらなければならぬ。忠君愛国を基礎としなければならぬが、責任感をゆるがせにしてはならぬ。この点については、大いに米国に学ぶべきである。

 学校教育は、人としての完成を図る教育である。従前の醇朴剛健のみでは足らぬ。宗教の観念を教えなければならぬ。

 欧米の風俗を知らせる必要もある。俘虜のことについても研究して、国際間の俘虜の観念を徹底せしめる必要がある。

 以上が、死刑執行の前日に朗読した遺言書の摘要である。

 今を生きる我々は、改めて、先人が国家の命運を賭けて戦った大東亜戦争の真実と意義を考えねばならない。合掌。

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2017年12月20日

社会は肉体の安全を保障するが、魂の安全は保証しない(三島由紀夫)

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 法務省は19日、死刑囚二人の死刑を執行した。その一人は事件当時少年だった関光彦。その残虐さに戦慄を覚え、何故に今迄、刑の執行を躊躇していたのか不思議でしょうがない。正に政治家の怠慢以外にない。

 刑事訴訟法では、死刑確定から六ヵ月以内の執行を定めており、何れも六ヶ月以内に検察庁が法務大臣に「死刑執行上申書」を提出し、規定通り押印し、法相の命令から5日以内に執行されなければならない。と定められている。

 法務大臣の死刑制度への心情なんぞ関係ない、法務大臣の任を享けたのならば覚悟を以て大臣としての職務を遂行するべきで、それも出来ないのなら法務大臣の就任は拒否するべきだろう。

「死刑制度」を容認する国民が80%以上もいるのは、国が遺族に代わって遺恨を晴らして欲しいという気持ちの顕れに他ならない。政治家は感情的死刑廃止論に与することなく、刑事訴訟法に則り粛々と刑の執行をすれば好いだけのこと。

 冤罪の疑いがある受刑者が再審請求するのは分かるが、唯「死にたくない」という理由で再審請求していることは異常事態としか言いようがない。

「社会は肉体の安全を保障するが、魂の安全は保証しない」と言ったのは三島由紀夫。大事にしなければならないものは肉体より魂、精神性である。

 人権派を自任する弁護士や死刑廃止を訴える人は、これと同じ様に「生命は地球より重い」と言わんばかりに肉体だけを守ろうとする。

 無神論の共産主義に被れながらも「人を裁けるのは神のみだ」というキリスト教的欧州思考に嵌ってるのも御粗末だが、安っぽい感傷に浸って悦に入ってるとしか思えないし、滑稽にも見える。

 まぁこれは、死生観の違いだろうが、残虐な犯行をした者が、死刑廃止で国法により生命を保証されるというのも如何なものか。

「死刑制度」とは、死刑囚への大慈悲である。「死刑制度」は、他人を犠牲にした犯罪への相当の審判であり、それは無駄に生きて来た人生にピリオドを打つ為の優しさでもある。「生」に拘るより「死」を以て償うべきだ。

 日本人とは何事も潔さが肝要で、死刑囚らの多くは「殺したい」という衝動に駆られて実行した訳で、今更「死にたくない」と命乞いとは情けなや。

「心の死ぬことを恐れず、肉体の死ぬことばかり恐れている人で日本中が占められているならば、無事安泰であり平和である」とはこれも三島由紀夫の言葉。

「死刑論」ひとつでも喧々諤々の論争が繰り広げられる。だが、こうした論争を見てても日本というのは「平和なんだなぁ」と熟熟実感する。

 まぁこれも平和ボケの一つには違いない。「平和ボケ」とは段階の世代への揶揄だが、高度成長からバブル時代にかけて金儲けや飽食に狂奔してきた世相や、空想的平和論を弄ぶ連中を冷やかした言葉でもある。

 こうした風潮は戦後民主主義者や無自覚左翼に蠢蠢しているが、これは「平和」や「人権」「死刑廃止」「反原発」を訴える連中共通のものでもある。

 週末の23日は天長節であると同時に、東条英機を始めとした所謂・A級戦犯とされた7名の方々が死刑執行された日である。東京裁判の不当性は扨て置き、彼らはその死を諒とし、死を以て敗戦の罪を償ってくれたのである。

「死刑制度廃止」を訴える左翼陣営からは、この「戦犯」の汚名を着せられて死刑に処せられた英霊に対する不当性を語られたことはない。

 これはA級戦犯に留まらず、海外の地で正式な裁判を受けることなく処刑されたB・C級の戦犯と言われる方々も同じで、この処刑こそ人道に反するものであり、人権無視の暴挙の最たるものではないのか。

 死刑執行前日の昭和23年12月22日夜、東京巣鴨に於いて、教誨師の花山信勝師の前で東条英機閣下は遺書を朗読した。参照(東条英機の遺言書)http://blog.livedoor.jp/cordial8317/archives/52044601.html

 今こそ極東軍事裁判の不当性を明らかにし、「戦犯」との汚名を着せられ続けている英霊の方々の名誉恢復を急ぐと共に、先の大戦で犠牲になられた方々の精神性、そして魂から発せられた思いを、後世に伝えて行かねばならない。

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2017年12月19日

「種子法廃止法案」の成立と「農業競争力強化支援法」や「残留農薬基準の大幅緩和」は正に農業の危機

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 現在の我が国は、豊葦原瑞穂の国の誇りも無く、農耕民族としての自覚を喪失し、「農」をも新自由主義の営利至上主義で勘定し、農業を以て立国の基本とするという「農本主義」は国民の殆どが理解していない。

 我が国は戦後GHQの策謀によって農本主義的国家観は排除され、大輸出国の米国の戦略に嵌ったまま米国の価値観が我が国の価値感だと錯覚してしまった。

 その典型といえるものが「主要農産物種子法廃止法案(種子法廃止法案)」である。種子法は米、麦、大豆など主要農産物の品種改良を国や都道府県の公的研究が行い、良質で安価な種子を農家に安定的に供給してきた法制度である。

 種子法の廃止は日本古来の種子の廃止であり、これつまり食の安全と食料安全保障を廃止すると同じであり、畢竟、豊葦原瑞穂国という国柄の崩壊の序章であるといえるものだったが、何故か保守派や自称愛国者らは沈黙した。

 種子法廃止法案は、別名「モンサント法案」とも言われている。モンサント社はベトナム戦争で悪名高い枯葉剤「エージェント・オレンジ」を開発し「ダイオキシン」を撒き散らした世界最大のバイオ化学会社である。

 種子法廃止法案成立により、我が国は米国モンサントに食料を依存することになる。つまり、種子を輸入する国(米国)が不作になった場合や政治的な問題が重なり、種子の売り控えということになれば我が国の農業そのものが崩壊するという危険を孕んでいるということでもある。

 簡単に言えば、我が国の農業はモンサントに握られてしまったということで、モンサントと提携する前経団連会長で住友化学工業の米倉弘昌は正に売国奴であり、こうした営利至上主義の経済界に与した安倍もまた然り。

 種子法廃止法案の追加措置として「農業競争力強化支援法」という法案が国会を通った。驚くことに外資等の規制はしておらず、これも種苗メーカーであるアグリバイオビジネス企業が農業に参画する出来る為のものであることは明らか。

 つまり、我が国の公的研究機関や各県や自治体に在るハイテクプラザなどで培った研究資料やデータが外国資本に無償で提供され、それを盗用され、一部を変更することで特許などが容易に取得される危険を伴うということでもある。

 住友化学工業の米倉弘昌はモンサントの系列企業であるベーラントUSA社との長期契約を結んでいるが、モンサントが生産する強力な除草剤「Roundup(ラウンドアップ)」に、耐性を持つ遺伝子組み換え種子をセットで販売している。

 ラウンドアップの有効成分名はグリホサートイソプロピルアミン塩。グリシンの窒素原子上にホスホノメチル基が置換した構造を持つ。接触した植物の全体を枯らす(茎葉)吸収移行型で、殆どの植物にダメージを与えるという。

「グリホサート」という成分は除草剤の殆どに含まれているという。粗全ての植物を枯れさせる高い効果があり、安価なのでホームセンターなどで手軽に入手出来て、あらゆる場所で使用されているという。

 日本では栽培中の植物に散布することは出来ないというが、小麦の様な遺伝子組み換えではないない作物には、自然に枯れて実が乾燥するのを待たなくても、このグリホサート入りの枯葉剤を散布して強制的に枯らしてから収穫するという。

 ここで問題になるのはグリホサートの残留農薬の数値だが、なんと政府はこの農薬残留基準を緩和させる動きがあるというから驚く。

 厚生労働省の「食品中の農薬の残留基準」の改正案では、安倍が妄信する環太平洋連携協定(TPP)や自由貿易協定(FTA)の流れで、外国の基準に合わせて残留農薬基準を大幅に緩和することは既定路線となっている。

 安全安心と言われた我が国の農作物が「種子法廃止法案」の成立と「農業競争力強化支援法」や「残留農薬基準の大幅緩和」は正に農業の危機であると同時に葦原瑞穂国という国柄の崩壊である。

 我が国の保守派や自称・愛国者らを見ていると対北朝鮮や中韓に対しての領土の防衛ばかりで、農耕民族としての自覚を喪失し、豊葦原瑞穂の国に生まれた者として農業を以て立国の基本とするという考えは持ち合わせてはいない。

 こうした愚策に加え、皇統断絶を謀る勢力に阿り、只管亡国に奔る安倍を糾弾する声は全く聞こえない。安倍の放題は、安倍信者や安倍ヨイショの営業保守と、なんちゃって愛国者らの賜物でもある(苦笑)

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2017年12月18日

「南京大虐殺犠牲者30万人」と「大韓民国臨時政府の対日宣戦布告」という大ウソで反日の連携(苦笑)

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 文在寅大統領は追従外交中の重慶で、第2次大戦中に設置された「大韓民国臨時政府」の庁舎跡を視察し、習近平国家主席に「抗日運動」関係施設の復元に協力するよう要請したという。まあ、哀願したというのが真相か。

「南京事件」をでっち上げる中国共産党と、国際的に認められていない「大韓民国臨時政府」で連携しようとは実に御粗末な反日活動と嗤う他はない。

 韓国の国是は「反共」と「反日」だったが、共産主義者でもある文在寅は「反共」は放り出して「反日」のみに躍起になっている。

「反日」も「反共」も竹島の不法占拠も「大韓民国臨時政府」を標榜した初代大統領・李承晩が実行したものだ。その李承晩といえば後に不正が発覚し、学生デモにより失脚。ハワイに亡命した犯罪者の愚策をいつまで信じるのか。

 韓国の愛国心は安っぽい「反日」のみで​、未だに李承晩に因る洗脳から未だに抜け出せない状態。これは米国の占領政策によって自虐史観を植え付けられた我が国左翼や自称・文化人と同じで気の毒とも言えなくもない(笑)

 李承晩は日本統治時代より「大韓民国臨時政府」を標榜し、米国内や海​外で反日活動を行ってた人物で、戦後、米国の威光で初代大統​領に就任した。李承晩が米国の傀儡と言われる所以でもある。

 韓国人は李承晩らが創り上げたウソの歴史を鵜呑みにし、愛国者​気取りで憎悪を剥き出しにするが、我が国へ歴史認識を云々言​う前に韓国こそ冷静に公正な歴史を学ぶべき時に来ている。

 韓国のウソの原点は李承晩の「大韓民国臨時政府」のウソに在る。​国定教科書でも「対日宣戦布告」等を過度に強調する余り、ウソに​ウソを重ねるしかなくなっているのが現状で、正に「屋上屋を架す」典型的な例でもある。

 今更、間違いを認める訳にはいかなくなってしまっているというのが真相なのだが、日清戦争も朝鮮を巡る戦いだったということも理解していない。

 日露戦争後、日韓関係の悲劇の現実が「日韓併合」であり、大東亜戦争​も「日本人として共にアジア解放の聖戦に立ち上がった」というのが歴史的真実である。

 そうした歴史的事実を無視して「大韓民国臨時政府として対日宣戦布告し抗日戦争に​参加した」などというウソを教えるからややこしくなるのだ。

 韓国は憲法前文で「大韓民国は3.1運動により建てられた大韓民​国臨時政府の法統を受け継ぐ」と規定している。だが「大韓民国臨時政​府」は国際的にも認められておらず、サンフランシスコ講和条約への​署名も認められなかった。

 こうした国際的な常識を無視し「我々の手で独立を勝ち取った」と​いう神話を捏造してしまったところに韓国の悲劇が在る。

「南京大虐殺犠牲者30万人」と「大韓民国臨時政府の対日宣戦布告」という大ウソで反日の足並みを揃える中国共産党や韓国と友好なんぞクソ食らえ。

 性悪な韓国も貧坊ちゃまの北朝鮮も、いっそのこと中共に併呑されてしまった方が外交的に楽だと思っているのは愚生だけではあるまい(大笑)

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2017年12月17日

「日本会議」に見る我が国の保守派の認識不足と軽佻浮華

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 先日、実家に顔を出したら店のテーブルに、実兄も会員でもあり定期購読してる日本会議の冊子「日本の息吹」が置いてあり目を通してみた。

 日本会議は周知の通り保守団体であり、憲法改正や内閣総理大臣の靖国神社参拝や自衛隊を国防軍になどを主張しており、自民党の重要な支援団体の一つでもあり、自民党のシンクタンク的な存在でもある。

 歴史認識や教育改革、行政に入り込んだ男女共同参画社会などの愚策への疑問など共鳴する部分は大いにあるが、本丸ともいえる憲法改正や皇室問題への取り組みは根本的に間違っていると言わざるを得ない。

 今月号は「女性宮家」創設に反対する論文が掲載されている。女性宮家に反対までは別に問題はないが、女性皇族(内親王)が婚姻する場合、旧皇族の男系男子からの婿入り(養子)を容認している。

 論文は格式高く書かれていて一見問題は無さそうに見えるが、要は女性宮家を間接的に容認している様なもので、GHQに臣籍降下させられた旧皇族の皇籍復帰もせずに男系皇族を婿入りさせようとは本末転倒である。

 櫻井よし子や八木秀次などの評論家や学者らの多くが、これと同じ婿入りを主張しているが、男系男子が拒否した場合、或いは一般人が皇室に入る様なことになる可能性もあり、こうした認識不足が反天皇勢力に付け入られるのだ。

「臣下降下された皇籍離脱した旧皇族の皇籍復帰」の実現を図ることこそが皇統を盤石の安きに置く最善最良の策である。

「女性宮家」では祭祀が叶わない。旧皇族の復帰を図り、廃絶になった宮家(秩父宮・高松宮、女性皇族しかいない常陸宮と三笠宮)の祭祀を継承するには、女性宮家ではなく旧宮家を再興する以外にないのだ。

 大体「宮家」とは男系だからこそ宮家なのであって、「女性宮家」とはなんぞや。「女性宮家」とは正に近年の反天皇運動に見られた「生前退位」や、皇太子即位後に創設される「皇嗣殿下」という皇統の歴史にも存在しない意味不明の言葉もまた共産主義者による造語である。

 そうした共産主義者の造語を愛国者を気取る保守系団体が軽々しく使っていることに、我が国保守派の無知と限界を感じる。

「生前退位」という言葉が躍ったのも、高齢もあり憲法で明記されている国事行為が思う様に出来なくなったと吐露したことで、「生前退位」は避けられないという様な世論を形成して行ったことに始まる。

 陛下の御発露を受けて、安倍首相は「国事行為を軽減する有識者会議」を招集するもマスコミは「生前退位を実現する有識者会議」などと作為的に報道し、退位は既定路線であると国民を扇動し同意を得ることに成功した。

 保守派もまた「高齢であるし致し方ない」という様に譲位に与したが、天皇の存在は個人的な意思や政治が介入するべきではなく、国事行為の軽減を図る為に皇太子殿下や秋篠宮殿下が補佐出来る環境を整えれば好かっただけのこと。

 何れにしても譲位は避けられない。残すは皇統を盤石の安きに置くことが保守派としての務めであり、それには昭和天皇が最後まで反対された臣籍降下させられた旧皇族の皇籍復帰を成すこと以外にはない。

 我が国を崩壊に導くのは左翼勢力に非ず、安易な憲法改正を叫び、皇室典範に附帯し、瑞穂の國の崩壊を齎す種子法廃止法案を成立させ、新自由主義を盲信する安倍自民党や日本会議に見られる似非保守が国を亡ぼす最大勢力となる。

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2017年12月16日

尊敬はあくまでも醇乎たるべきものであり

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 幕末の英雄というと坂本龍馬や吉田松陰などを挙げる人は多いが、愚生的には長岡藩家老の河井継之助を置いて他にない。

 継之助を一躍有名にした司馬遼太郎の小説「峠」で、司馬は継之助を武士道倫理に生きた「最後の侍」だとして、その生き様を活き活きと描いている。茶屋遊びの場面を想像しても、人間味に溢れた武士だったと思っている。

 多くの歴史家も、継之助を東西の優れた軍事指揮者の一人に挙げているが、一方で長岡藩を要らぬ戦争へ巻き込んだとの批判があるのも確か。

 河井継之助、名は秋義、号は蒼竜窟。越後長岡藩士。「越(ほくえつ)の蒼竜」と称された継之助は長岡藩の近代化に努力した英雄である。

 継之助は、長岡藩士120石取りの代右衛門秋紀の子として生まれる。幼少の頃から腕白で、人の忠告を素直に聞かない強情張りで、それは大人になってからもその偏屈ぶりは変わらなかった。

 少年時代は、藩校で古義学(こぎがく)を学び、成長するとともに実践重視の「陽明学」へと傾倒。17歳の時に継之助は、鶏を裁いて、王陽明を祭る祭壇に鶏肉を供え、人民と藩是の為に立志し、誓明したという。

 青年期には読書に没頭し、良書を見つけると、その書だけを何度も読み返し、一字一句を書き留め暗記し、我が身の行動の規範と成したという。

 嘉永5(1852)年、継之助は江戸に遊学し、佐久間象山、古賀謹一郎に師事する。だが、象山の尊大さと勿体付けて理屈を捏ねる腹の曲がり具合が気に食わず象山から遠ざかったというが、何となく分かりそうだ(笑)

 継之助が生涯を通じて敬服した人物は、備中松山藩の儒者・山田方谷(ほうこく)。安政6(1859)年には、自ら松山藩まで足を運び、直接、方谷から陽明学を学び、藩政改革の方法を習得している。

 彼は、方谷を唯一「先生」と呼び、「希代の英雄」と讃え、方谷が唱える思想を熱心に学んだ。方谷に入門を乞うも中々承諾されなかった。漸く入門を許可されると「学問の講義は要りませぬ」と断ったという。

 師に学問を教わるより、起居を共にすることだけでも学ぶものが多いのことを継之助は知っていた。師と雑談し、その一挙手一投足を目に焼き付けた。

 書物を読み、暗記したところで意味はない。理論なんぞより、尊敬する人との雑談や所作、何気ないことから学ぶことこそ貴重であり得るものが多い。

 継之助に内弟子らは「何故に貴公は方谷先生と一緒に鍬を持たないのか」と詰られるも、継之助は「嫌いだからだ。今更、百姓の真似が出来るか」と応じた。

 内弟子らが「方谷先生を尊敬していないのか」と詰るも、継之助は「尊敬はあくまでも醇乎(じゅんこ)たるべきものであり、百姓を手伝うというのはおべっかに過ぎない」と開き直ったというから、かなりの削げ者だったのだろう。

「尊敬はあくまでも醇乎たるべきものであり」とは実に好い。愚生の周りを見渡しても、チョッと有名な人と見るや「おべっか」ばかりで、その心情や行動に「醇乎」さは乏しく、単に「ヨイショ」ばかり(苦笑)

 方谷は後に「河井は豪すぎる。豪すぎることが幸福な結果になるか、不幸を呼ぶか」と語ったという。だが、結果は残念ながら後者の方であった。

 1ヶ月半ほどの遊学であったが、別れの朝、継之助は対岸の街道の路上に土下座し、師匠の小さな姿を伏し拝んだ。人を容易に尊敬することのない不器用な男が土下座したのは生涯これが最初で最後だったという。 

 長崎などへも西国遊学を果たし見聞を広めると共に、会津藩の秋月悌次郎などとも交友を深め人脈を広げている。

 愚生も最近は慢性的不如意で放浪の旅に出ていないが、どんな「旅」でも人を大きくしてくれるものだと思っている。人との出会いに感動し、酒を酌み交わせば言葉は要らない。正に功名なんぞに意味はない。

「刮目して相対す」とか「人生意気に感じる」とはそういうことだ。

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2017年12月15日

赤穂浪士の仇討ちも、泉岳寺で腹を切らなかったのが落度と言うべきだ

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 赤穂浪士が吉良邸に討ち入りしたのは元禄15年12月14日とされているが、実際は旧暦の元禄16年1月30日だった。

 討ち入りの日は満月とされ、雪もあり明るい夜だったとさているが、元禄15年12月14日だと新月に近かったので暗かったのではと推測する。翌年1月30日だと粗満月で、映画などで語られてる情景に近い。

 赤穂浪士の精神的支柱となったのが、陸奥国会津若松城下生まれの山鹿素行(やまがそこう)と言われている。

「山鹿流軍学の祖」として知られているが、実は江戸時代に於ける武士道の理論を確立した人であり、山鹿の門人達が素行の談話を筆記した「山鹿語類」は日本人必読の著でもある。

 また、尊皇愛国の書として有名な「中朝事実」で山鹿は、世の学者の外国(主として漢土)崇拝を批判し、皇統の一貫を根拠に、「日本こそ万国に卓越した中華・中国と呼ぶに相応しい国である」と主張した儒学者でもある。

 これは「日本主義」と言われるもので、易姓革命で度々王朝が変わった漢土に対し「我が国は、天子の地位を侵す様な不義不道の者がいなかった為に皇統が一貫している」と、我が国の卓越性を強調した思想である。

 江戸時代267年の歴史の中で赤穂藩の様な理不尽な御家断絶や御家騒動は他にもあったが、唯一、赤穂藩の四十七士だけが「義士」と呼ばれ「武士道の華」と評価されたのは、山鹿素行の「正義の遂行」の本義に基づく教えが在ったからだろう。

 だが一方で、忠臣蔵の討ち入りに「大義」などではなく、単なる「打算」だと断じる批評家もいるのも事実。

 大石内蔵助は討ち入りで忠義心を示さなければ山科で帰農しそのまま埋もれただろうが、吉良を討ち取った結果、子孫は本家の浅野家に千五百石の高録で召し抱えられている。

 この事実をして「忠義ばかりでなく、子孫の将来まで考えて討ち入った」と断じているが、これもまた一理あり。「葉隠」でも、赤穂浪士の討ち入りに触れた部分があり、やはり批判的に書かれてある。

「赤穂浪士の仇討ちも、泉岳寺で腹を切らなかったのが落度と言うべきだ。それに主君が死んで、敵を討つまでの間が長過ぎる。もしもその間に、吉良殿が病死でもなされた時にはどうにもならないではないか」

 仇討ちというのは緻密な計画でやるものではなく、武士とは「即刻やられたらやり返す」というのが本道で、事の「成否」は問題ではない。成否よりも行為自体に意味が在るという。

 その上で赤穂の武士を「上方の人間は小利口だから世間から褒められる様にするのは上手である」と嘲笑している。

 赤穂浪士の討ち入りを打算的と見るか否かは夫々だろうが、「仮名手本忠臣蔵」が日本人の美学を現し、多くの国民から愛されているのは確かだろう。

 幕末から維新期の派閥、政論の対立による暗殺とその報復という面があったところから、この種の紛争を断ち切るのを目的に、明治6年(1873)2月、司法卿・江藤新平が「復讐禁止令(仇討ち禁止令。太政官布告第37号)」を発令。明治22年には「決闘罪ニ関スル法令」も発布され、敵討ちや復讐は禁じられた。

 仇討ちや報復を否定する風潮が浸透した結果、相手と刺し違えるくらいの仕返しをすれば好いものを、泣き寝入りした挙句に被害者側が自殺なんてことも日常茶飯事。学校でのいじめがその最たるものだ。

 自殺するくらいなら相手と刺し違えて遺恨を晴らすべし。呵々大笑。

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2017年12月14日

大和国は丈夫の国にて、古は、おみなもますらおに、習えり。故、万葉集の歌は、凡丈夫のてぶり也

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「万葉集の歌は、外国の思想的な影響を受ける前の純粋な日本の心で詠まれた歌である。だから万葉集こそが純粋な国意を伝える日本の聖典である」と説いたのは昨日も登場した賀茂真淵。

 真淵が、国学・歌論について記した書「にひまなび(新学とも表記される)」には「大和国は丈夫(ますらお)の国にて、古は、おみなもますらおに、習えり。故、万葉集の歌は、凡丈夫のてぶり也」と在る。

 多くの日本人は「万葉集」も「古今和歌集」も同じ文学的価値のものだと思っているが、真淵は「両者は大きく違う」という。

 前出の「にひまなび」の続きは「山背国はたをやめの国にして、丈夫もたをやめを習いぬ。かれ、古今和歌集の歌は、専ら手弱女(たおやめ)のすがた也」

 真淵は「古今和歌集」の歌は、儒教や仏教に毒され、技巧を弄した作品であり、「万葉集」の単純な写実から、素直ではない形式的な技巧と断じる。

「万葉集」の素直でな風景描写や率直な感情表現を「高く直き心」と説き、これこそが素朴で雄渾な日本人の魂であると評し、これを「ますらおぶり」と現した。

 対して平安時代(山背国)に成立した「古今和歌集」は、外国(とつくに)の影響を受けた歌風であると評し、これを「たをやめぶり」と呼んだ。

「手弱女(たおやめ)」とは、優しいとか、淑やかな、という意味もあるが、浮かれ女、遊び女、という意味もあり、要は大和国の「丈夫(ますらお)」ぶりを詠った万葉集に比べて、古今和歌集は女々しいと感じたのだろう。

 現代風に言えば万葉集は男性的であり、古今和歌集は女性的。つまり真淵の思想は男性優位であり、男女共同参画社会の現代に於ては、ジェンダーフリーを叫ぶ性的変質者らからは非難の対象だろう(笑)

 況してや古今和歌集に集録されている約1100首の歌は天皇の勅撰和歌集でもあり、今なら自称愛国者らからも糾弾されるに違いない(笑)

 真淵は「和歌は政治の根本であり、経世・経国に役立つもの」と教える。何故なら歌には人心を和らげ、世の中を和やかにする力があるからだという。

 真淵が「万葉集」研究に打ち込んだのは、趣味や文化研究でもなく、日本を佳い方向へ導く為の教えを模索していたのだろう。

 では、万葉集から何を学ぶか。それは万葉集で使われている古語を習得することだという。これが凡人の愚生には容易なことではない。ならばどうするか、要は万葉集を見様見真似で詠んでみることに尽きる。

「今、右翼にとっての真なる敵は右翼自身である。フィクサーを気取ったただの金権右翼、思想も信念も持たないゴロツキ右翼、詩心を持たない乞食右翼等等、我が内なる敵は多岐にわたる」と喝破したのは野村秋介。

 愚生は金権右翼団体に所属はしていたがカネに縁が無いゴロツキ右翼か、詩を詠もうにもどうも語彙に乏しく上手く詠めないから乞食右翼の両方か(笑)

「人真似上手は個性を想像する」という様に、何事も真似てみるというのはその道を極める上では重要なことでもある。尊敬する人の考えや所作などを真似することは悪いことではないし、後々己の個性にもなる。

「稽古」とは、技芸などを師から習い身に付けることをいうが学問も同じこと。稽古とは「古(いにしえ)の道を考える」ということであり、師や先達に学ぶこともなく、また古の教えも知らないで修業は出来ない。

 稽古の「稽」とは「考える」という意味があり、「古書を紐解いて古人の教えを学ぶ」というのが「稽古」の本来の意味だ。

 真淵は、古代の純粋な日本人の心を会得し復元する為に、万葉集で使われていた言葉を紐解いて蘇らせる。これは「心と言葉は直結した存在である」との考えで、古の人の心や思想、人倫が言葉に現れていると確信したからだろう。

 そのことによって「国意」を形成しようとしたのだ。この発想こそが国学の基本であり日本こそが世界で唯一正しい国であるとの確信に行き着くのだ。

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2017年12月13日

儒教などの外国の思想が輸入され「国意」に悪影響を及ぼしたからだ(賀茂真淵)

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「万葉集」の研究家でもあり、江戸中期、国学の基礎を確立した賀茂真淵は、支那の歴史と日本の歴史を比較した。

 易姓革命を見るまでもなく様々な王朝が権力抗争を繰り返して来た支那に対し、我が国の古の時代には大きな諍いもなく、大らかで自然な皇位の継承が成されて来たことに着目し、それを真淵は高く評価した。

 何故に古代の日本はそれ程までに平和であったのか。それは元々、日本人が道徳的に立派な人種であったからで、支那の思想は「中華思想」であり、「中国こそが世界の中心で、周りの国や人種というのは野蛮人である」と考える。

 支那人は自己主張が烈しく、本性は劣悪。他人への思い遣りに乏しく、規則を厳しくしないと統制出来ない。現在の中華人民共和国も共産主義を最高原理として崇め、人民に信仰の自由や言論、結社、出版等々の自由を認めないのはその為だ。

 方や日本人はどうだろう。謙遜や謙譲を知り、それが身に付いていたから細かい規則など無くても人倫の道が行なわれていた。

 真淵は古代の日本に理想郷を見る。そして古の日本人の美しい心を「国意」と表した。つまり国意とは儒教や仏教伝来以前の、日本の中だけで育まれた日本独自の倫理であると考えたのだ。

 政治にしても人為的で論理的な規則は必要なく、人々の心の中で国意が自然に働けば、それで平和になると訓えた。然し、実際の日本の歴史というのは平安時代後半からの権力抗争、鎌倉期以降の戦乱の時代と幾つのも乱が起きている。

 この歴史的事実を真淵は、「儒教などの外国の思想が輸入され、国意に悪影響を及ぼしたからだ」と説明する。つまり、日本人本来の心の美しさが歪んだのではなく、外からの邪悪な思想に染まってしまったから日本が悪くなったというのだ。

 真淵は、仏教や儒教を安易に享け入れた過去を反省し、国意を取り戻すべきだと訴えた。その具体的な方法とは「万葉集を知ること」だと説いた。

 現在の我が国を顧みれば、仏の教えもなく、儒教の教えもなく、単に米国の新自由主義を妄信し、頭にあるのは私利私欲。迷えるものはつまらぬ宗教に奔り、日本人は心の中の高貴さを失い、高邁な知性の磨きを忘れてしまった。

 右翼陣営を見渡せば、戦前の右翼と戦後の右翼は全く違う存在となってしまった。戦前の右翼というのは「国粋主義」的要素が強く、外国思想は全て悪と捉えるという考えであり、それは共産主義であろうが、資本主義であろうが、民主主義であろうが批判されるべき対象だった。

 右翼もそうした「大義」を忘れ、資本主義に溺れて金儲けなどに興じていれば、ヤクザが「仁侠道」を忘却し暴力団化した様に、国民からの信頼は失せ、必要価値のないものに成り下がって行くのは必然であろう。

 右翼の使命とは、日本の純粋性を曇らすもの、つまりは「共産主義」であろうが、「資本主義」であろうが、「民主主義」であろうが、我が国の国柄や国體を損ねる主義、思想に断固として対峙して行かねばならない。

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2017年12月12日

「この世は、あるがままで悟りの世界」と教えた「本覚思想」

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 愚生の場合、極楽浄土とは現世に在ると思っている。自分より劣る者に惜しみなく教え与え、難渋している者の相談に乗り、自分なりに如何にして助けてあげるか、少しでも安堵させるか、極楽浄土とは単にそういうものだと考えている。

「死後に極楽浄土(天国)がある」というのは、釈迦牟尼やキリストが、人の抱く死への恐怖を取り除く為に吐いた優しい嘘だと思っているし、死んだら「無」、地獄も天国も救いの為の教えでしかない。

「この世は、あるがままで悟りの世界」と教えたのが「本覚思想」。平安時代から鎌倉~室町時代にかけて仏教信者に人気のあった思想でもある。

「本覚」とは、悟りに至る為の清らかな知恵といった意味で、仏教では「その清らかな知恵は全ての者に備わっており、誰でも悟れる可能性がある」と教える。だが、可能性は可能性に過ぎず、現実に悟れるかどうかは分からない。

 これを「本覚思想」では、可能性ではなく、抑々人間の心に100%備わっていて、目の前の現実が「悟り」であり、仏の道だと教えている。

 元々、仏教は「全てのものは互いに関係があって、何かが別の何かの原因であり、結果である」という教えであり、所謂「縁起」という思想であり、「悪因悪果」や「因果応報」などというのがその一つ。

「悟り」とは本来、こうした縁起を理解することで、つまり「現実の意味を知る」とは「現実を受け入れる」ということでもある訳で、現実を見た儘で納得することそのものが「悟り」でもあるのだ。

 我が国は古来より随神(かんながら)の道、即ち神道という教えが根付いており、自然崇拝は当然のことで、我が身を包む自然の営みを「悟り」と認めた本覚思想は実に魅力的な仏教思想だったのだと思う。

 本覚思想には「死後に極楽浄土がある」という浄土思想とは相容れない。現実が浄土であり、愚生の極楽浄土への感覚に近い。

 この本覚思想の現実の肯定は「修行の軽視と否定」という問題もあり、どうしても堕落的になる。江戸時代になるとこの点が批判されて本覚思想は廃れて行ったのは、修行に重きを置く仏教が広まったからだろう。

 正に宗教とは流行(ブーム)に流されて来た歴史でもあるが、当世の新興宗教も仏や神の道というより単なる流行でしかない。本来「流行」という意味は「病気」の意味で使われた言葉で、信者はその熱に冒されているだけ。

 斯くいう愚生も、別に本覚思想の代表的な文献である「三十四箇事書」を読んだ訳でもないのだが、極楽浄土感や堕落的生活ぶりを肯定してしまってる生き方は、正に本覚思想からのものでは?と最近何となく気付いた(笑)

 ということで、皆さんも、葬式坊主から戒名さえ貰えば都合好く極楽浄土の世界に行けるなんてことは無いと思いますよ。呵呵大笑。

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2017年12月11日

爾俸爾禄 民膏民脂 下民易虐 上天難欺(戒石銘)

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 愚生の故郷・二本松市の霞ヶ城址に「戒石銘」という碑が在る。

 爾俸爾禄(なんじのほう なんじのろくは)
 民膏民脂(たみのこう たみのしなり)
 下民易虐(かみんはしいたげやすきも)
 上天難欺(じょうてんはあざむきがたし)

 その意味を要約すれば「貴達の俸給というのは人々の汗と脂の結晶である。だから人々を労わらなければならない。もし、人々を苦しめたりする様なことがあれば、必ず天の怒りに触れるであろう」

 これは二本松藩第七代藩主・丹羽高寛が、藩の学者・岩井田昨非の献策によって藩庁前の自然石に藩政改革と綱紀粛正の指針として建てたものだ。

 右翼現役の頃、団体(防共挺身隊)のビラにこの「戒石銘」を記し「政財官界粛正」を訴えたこともあった。

 中々いいビラだったと我ながら思ったが、最後の「難欺」が「欺難」になってると公安から指摘されるも、どうせ見る奴も少ないし読んでる奴は分からないだろうからそのままにしといた(笑)

「戒石銘」は、先日の市長選挙で返り咲いた三保が好きで、以前の現職時代にはこの碑を拓本したものを恵贈しており、愚生も貰ったことがある。

 三保というのは言葉が上手く、先日も市長としての心構えを問われると、上杉鷹山公の「受け継ぎて国の司の身となれば忘れまじきは民の父母」と応えた。だが、言ってることとやってることは程遠い。まあ自戒だろう(笑)

 三保もそうだが口々に「市民目線の政治を行う」などという。国会議員も同じく「国民目線」などと頻りに語るが、政治で大事なのは国民目線の平均的政治ではないし、国民目線が必要なのは政治家自身と官僚(役人)共の方だろう。

 我が国は官僚(役人)亡国というか官僚暴国。官僚や役人のやりたい放題。そういう意味でも官僚や役人を上手に操れる政治家が出なければならないのだが、政治家はそんなことより次の選挙のことばかり。

 その昔、「政治は三流、経済一流、官僚機構は超一流」と揶揄された。政治が三流なのは今も変りはない。それどころか益々悪くなる一方。

 一流だった経済も崩壊した。国益なんぞお構いなしで金さえ儲かりゃ御の字。商業道徳そっちのけで営利至上主義に狂奔したツケが出た。

 昔は政治が如何に混迷しても、超一流の官僚機構が「日本丸」の舵取りを巧くやってくれるという「神話」があったのも事実だが、今やその官僚が国を滅ぼす一大勢力になってしまっている。

 今は山賊はいないが「三賊」というのが蔓延って人々を苦しめる。「三賊」とは「官賊」「政賊」「労働賊」のことだ。

 昔でいうところの悪代官やそれに阿る輩のことをいう。「士農工商」の階級の名残りで「農工商」の上に胡坐をかいている士階級、特権階級といわれる連中だ。

 強大な国家権力を背景にした高級官僚共の堕落と腐敗は目に余る。モリカケ問題にしろ、安倍首相の責任というより、官僚の立場を勘違いした事勿れ主義と既得権益を巡る悪しき姿が露呈しただけだろう。

 高級官僚らは特定の政治家の手下になって諂屈したフリをしてアホ政治家を操縦し、定年後の安定を求めて特殊法人を手中に収め、天下り先の大企業とべったりくっ付いて私腹を肥やし、目線は国民を向いてはいない。

 正に「下民易虐 上天難欺」、国民を蔑にする政財官界を糺さねばならない。

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2017年12月10日

日本国憲法も教育委員会も労働三法(労働組合法、労働基準法、労働調整法)も米国製

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 米国は「戦前の日本の軍国主義が日本の中央集権的教育制度を齎し、それが結果戦争に繋がった」と結論付け、教育改革を実行する。

 それまでの我が国の学校教育を内務省の中央集権的統制から解き放ち、その管理を地域住民の代表により構成される合議制の委員会の下に置こうと画策し、それを実行したのが「教育委員会制度」である。

 教育委員会のモデルは米国の教育委員会制度。これは、米国の開拓時代の占領統治の思惑から生まれたもので、日本の統治もこれと同様に、占領によって米国の意のままに置こうというのが狙いだった。

 米国の実行した「戦後民主主義教育」と日本国憲法を始めとした様々な法律や制度の押し付けは、米国の思惑以上に大きな成果を齎し続けている。

 米国の押し付けというと現憲法ばかりが論われるが、教育委員会制度も、労働三法(労働組合法、労働基準法、労働調整法)も米国製。

 これらの悉く失敗した米国の策謀を当たり前だと錯覚し、それを変えることすら躊躇しているとは政治の怠慢以外の何物でもない。

「労働三法」は、憲法 28条の労働基本権の理念に基き制定されたもので、企業などの労使関係を規定し、対等的労使関係の基礎となっているが、これも米国の学者らが日本を実験台に謀られたものだ。

「理想的な労働関係の法律を作る」「労働者の保護」という目的で作られたのだが、真意は労働者によるストライキによって勤労意欲を削ぎ、日本企業の生産力低下を狙ったものだった。

 結果は米国の大失策。労働組合が乱立し労働人を蔓延らせ、嗤えることに反米闘争の闘士を育ててしまうという皮肉な結果となった。

 米国のそうした日本弱体化の意図は失敗に終わり、揚句に米国が作った法律で守られた労働者が、あろうことか「反米」を唱える始末で、正に「飼い犬に手を咬まれる」とはこのことだろう(笑)

 我が国は相も変わらず労働者天国というか労働貴族が、労働者らから掠めた組合費でこの世の春を謳歌している。

 労働者にとって中共や北朝鮮の様な社会主義国や共産主義国が理想の国とされたりもするが、どっこい、資本主義であり民主主義の我が国ほど労働貴族といわれるプロ組合員共が優遇されてる国はない。

 米国は「日本国憲法」で国民を骨抜きにし、「労働三法」で労働者を優遇し、「教育委員会」制度の導入によって教育を荒廃させたという事実を冷静に見れば、憲法を見直し、改革を図るのは当然だと考える。

 米国製のクソ憲法を護り、米国製の労働三法に守られ、米国製の教育委員会を信奉しているのは「反米」を叫んでいる珍左翼ばかりか、保守を標榜する自民党にも多く存在しているマヌケさである。

 政治の混乱と矛盾、経済の停滞と低迷、社会の沈滞と退廃、戦後体制の諸矛盾は、大日本帝国憲法の改悪を始めとした米国の断行した戦後占領政策が元凶である。戦後ヤルタポツダム体制の検証は待ったなし。

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2017年12月09日

「ともさん(三笠宮寛仁親王殿下)のひとり言」

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 世論というのは国民の声ではなくマスコミの作為的な報道で形成されていく。キチンと突き詰めた議論が成されない儘、安っぽいムードだけで、実に曖昧な次元で賛同者が殖えて行く。最近の「女性宮家」論はその最たるものだ。

「女性宮家」論は「天皇制廃止運動」の枢要な柱として、昭和40年(1970年)代半ば頃に純然たる共産主義者が発案したもので、1932年にソ連共産党から日本共産党へ出された「命令書(コミュンテルンテーゼ)」の命令遂行である。

 あろうことか安倍政権下で「天皇退位」が謀られ「女性宮家」も既定路線となった。皇室会議には沖縄訪問時に両陛下(当時・皇太子両殿下)に火炎瓶を投擲した社会党の同士であった赤松広隆が入り、予備議員には菅直人が名を連ねる。

 天皇制廃止論者の辻本清美や極左の枝野幸男らが、天皇退位を歓迎していることでも如何にも胡散臭げ。岡田克也に至っては「女性宮家創設は急ぐべきテーマだ」と安定的継承策に反発する。正に皇統の危機であるにも拘らず国民レベルでは支持者が多いことに驚く他はない。

「女系天皇問題」が活発に論議されていた平成17年、女系天皇容認論に対して、故三笠宮寛仁親王殿下が会長を勤める福祉団体「柏朋会」の会報「ざ・とど」で、公なものではない私的な見解と前置きした上で、女系天皇に明確に反対し、旧皇族の皇籍復帰などを求めている。

「世間では『女帝問題』がかまびすしいので私の意見を『ともさんのひとり言』として聞いて頂きます」から始まる論文の論点は二つ。

 一つは「2665年(当時)年間の世界に類の見ない我が国固有の歴史と伝統を平成の御世でいとも簡単に変更して良いのか」と疑問を呈す。

「万世一系、125代の天子様の皇統が貴重な理由は、神話の時代の初代神武天皇から連綿として一度の例外も無く、『男系』で続いて来ているという厳然たる事実です」と、歴史的な正統性を重んじる。

 二つ目は、男系継承を維持する為の方法として、皇室典範を改正して、歴史上の幾つかの方法論を提起している。

1.臣下降下された皇籍離脱した旧皇族の皇籍復帰。

2.現在の女性皇族(内親王)に旧皇族(男系)から養子を取れる様にし、その方に皇位継承権を与える。(差当たり内廷皇族と直宮のみに留める)

3.元皇族に廃絶になった宮家(秩父宮・高松宮)の祭祀を継承して戴き、宮家を再興する。(将来の常陸宮家・三笠宮家もこの範疇に入る)

4・として、嘗ての様に「側室」を置くという手も有りますが、国内外共に今の世相からは少々難しいかと思うと述べられ、余談として明治・大正両天皇共に側室との間に出来た子供であることも記している。

 最後に寛仁親王殿下は「陛下や皇太子様は、御自分達の家系の事ですから御自身で、発言される事はお出来になりませんから、民主主義の世であるならば、国民一人一人が、我が国を形成する『民草』の一員として、2665年(当時)歴史と伝統に対しきちんと意見を持ち発言をして戴かなければ、いつの日か、『天皇』はいらないという議論にまで発展するでしょう」と結んでいる。

 正に殿下の意見は隻眼を有するもので、「臣下降下された皇籍離脱した旧皇族の皇籍復帰」の実現を図るべきで、「女性皇族(内親王)に旧皇族(男系)から養子」は好いが、それには旧皇族の皇籍復帰を成すことが求められる。

「女性宮家」では祭祀が叶わない。旧皇族の復帰を図り、廃絶になった宮家(秩父宮・高松宮、女性皇族しかいない常陸宮と三笠宮)の祭祀を継承して戴き、宮家を再興することこそ皇統を盤石の安きに置く最善最良の策である。

 何れにしても「女性宮家」論は反天皇運動の一環であり、国民はマスコミ主導の実に怪しげな世論誘導に騙されてはならない。

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2017年12月08日

東亞永遠ノ平和ヲ確立シ以テ帝國ノ光榮ヲ保全セムコトヲ期ス

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 昭和16(1941)年12月8日、「宣戦の詔書」が渙発せられ、大日本帝国海軍はハワイの真珠湾を攻撃、東アジアに永遠の平和を確立し、我が国の光栄の保全を期す戦いの火蓋が切られた。

 米国では12月7日(現地時間)を「汚名の日・リメンバー・パールハーバー」とし、戦没者追悼式が行われている。我が国を「騙し討ち」をした卑怯な国として糾弾し、日本蔑視は止むことはない。

 未だに我が国がこうした汚名を着せられ続けるのは、あろうことか前の晩に酒を飲み過ぎて「宣戦布告の覚書」を指定時間に渡せず、真珠湾攻撃から1時間後に持参した駐米大使の大失態に他ならない。

 我が国の外交史上歴史に残る大失態なのに誰一人として咎められず、責任も取っていない。然も、彼らは外務次官や駐英大使、その他第一級ポストに昇進し、叙勲までされている事実には驚く他はない。

 彼らが、職務を遂行していれば我が国も日本国民も「嘘吐き」「卑怯者」といった汚名を着せられずに済んだろう。だが、抑々、大東亜戦争に至ったのは「騙し討ち」と言われる真珠湾攻撃そのものが原因ではない。

 我が国が何故に米英との開戦を決意し、何故に真珠湾攻撃に至ったかは1953年のペリーの黒船来航時代まで遡り、アジアの近代史と世界史を学ばなければ到底理解することは出来まい。

 我が国は西洋列強に追い着くべく、強力な中央集権国家を形成しようと明治維新という大業をたった数年で成し遂げた。

 15世紀の大航海時代以来、白人による世界制覇の波がアジアにも押し寄せ、当時、アジアは次々と列強に蚕食され植民地となった。

 その間に勃発した日清・日露戦争に至ったのも、或いは日韓併合も歴史の必然であり、大東亜戦争もまた支那事変に端を発した日本軍の一方的な侵略戦争ではない、避けては通ることの出来ない歴史の一齣だったのだ。

 その日清戦争に勝利し、その後の日露戦争での「日本大勝利」の報は、固唾を呑んで見守っていた世界の人々を驚嘆させ、特に植民地国や有色人種に与えた影響は強烈なものだった。

 日露戦争勝利から15年後、パリ講和会議で我が国は「人種平等の原則」を国際連盟規約に載せることを提案するも、議長を務める米国大統領・ウイルソンは「有色人種に人権など必要無い」と拒絶し否決した。米国人ら白人による人種差別が横溢していたのは明らかだった。

 その後世界は第二次世界大戦に突入し、米国、英国、中華民国、和蘭から我が国へ所謂「ABCD包囲網」が敷かれ、そして無理難題を強いる最後通牒「ハルノート」が突き付けられることとなった。

 降伏は即ち植民地の道しかなく、最早、我が国の生き残る道は連合国との戦争しかないとの決断、開戦の詔勅を賜り、「宣戦布告」をした上でハワイの米艦隊が停泊する真珠湾攻撃へと至ったのだ。

 今も糾弾して止まない「リメンバー・パールハーバー」も、我が国と日本人への偏見と差別であり、先の大戦を猛省すべきは我が国に非ず、米国自身である。

 抑抑、何故に我が国が大東亜戦争の開戦を決意し、真珠湾攻撃に至ったかが問題であって、現代の幼稚な倫理観や道徳観で一部分の歴史を見て断じることに何の意味が在るというのか。

 歴史の検証をする際には、自国の罪を論うことは大事なことであるが、日本という国に生を享けた者として、先人の苦難を知り、大東亜戦争の真の歴史と意義を知ることは国民としての義務でもある。

 歴史の検証をする上で大切なのは古今東西、世界に蔓延る覇権主義の克服を主張すべきであって、他国の覇権主義には目を瞑り、一方的に我が国だけが自虐の淵に止め処なく漬かり込むことではないのだ。

 我が国にとって先の大戦は結果的に敗れはしたが、日露戦争以降の懸案だったアジア諸民族の独立と復権を齎し、「開戦の詔勅」で示された大義と、アジアの「希望の星」としての役割は見事に果たしたと言えよう。

 大東亜戦争の開戦日に当たり、先の大戦で戦陣に散った英霊に対し感謝の誠を捧げると共に、畏くも陛下の弥栄を祈念する。すめらぎいやさか。

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2017年12月07日

歪曲、偽造、捏造、虚構のでっち上げ、我が国を貶め続けるNHK

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「受信設備を設置した者はNHKと受信契約を結ばなければならない」と定められた放送法64条1項のNHKの強制的受信料制度が憲法に違反するかどうかが争われた上告審判決で、最高裁は「合憲」と結論付けた。

 大法廷は「NHKに国家機関等からの影響が及ばない様にし、広く公平に負担を求める仕組み」だと判断している。

 だが、NHKは国民から強制的に受信料を貰っている特殊法人でありながら、幾多の株式会社の持ち株会社となり、その収益を視聴者(受信契約者)へ還元しないのは公共性とは大きくかけ離れるものだろう。

 この訴えられた男性は、愚生の考えと同じく「放送内容が偏っている」ということで支払いを拒否しているが、こうした認識を共有する国民は多い。偏向内容が正されずに受信料のみを合憲とする事に違和感は更に募る。

 偏向報道で有名なのは、日本の台湾統治を描いた「アジアの一等国」だろう。これは田辺雅泰というNHK幹部が作成した番組だった。

 冒頭から「台湾は漢民族のもの」と如何にも台湾は中華人民共和国の一部であるとの認識を示して、「差別された。だから名前を日本名に変えた」と台湾一中卒の老人にインタビューを流す。

 更にこの老人は「台湾は実は親日的ではない。今迄口に出せなかっただけで、今やっとNHKにホンネを吐露出来た」と語るシーンが流された。

 この番組を見た台湾一中の同窓生らが驚き、この老人に問い質したところ「そんなことは言っていない」と相成った。 何のことはない、NHKお得意の意図的な切り貼り行為だったことがその後に明らかになった。

 朝鮮人の届出制とは違い台湾人の創始改名は許可制であり、その殆んどは「不可」。冒頭での「差別され日本名に変えた」というのが嘘だと分かる。

 番組制作者の田辺雅泰はそうした事実を捻じ曲げ、老人に語らせた言葉を切り貼りし、虚構をでっち上げた。

 NHKのETV特集シリーズ「戦争をどう裁くか」第2夜「問われる戦時性暴力」では、「第二次世界大戦中において旧日本軍が組織的に行った強姦、性奴隷制、人身売買、拷問、その他性暴力等の戦争犯罪を、裕仁(昭和天皇)を初めとする9名の者を被告人として市民の手で裁く民衆法廷」が放映された。

 この「女性国際戦犯法廷」では、天皇を呼び捨てにし「裕仁は有罪、日本政府には国家責任がある」との判決を下しているが、余りにも侮蔑に満ちた偏った内容は公共放送局が取り上げるべきものではなかった。

 この「法廷」では慰安婦問題を扱っており、現在の慰安婦問題を焚き付けた責任は重い。こうした番組を垂れ流しながら謝罪もしていない。

 国家機関からの影響というより、戦後民主主義に拘泥してるNHK幹部やNHK御用達の制作会社の政治思想や価値観の押し付けが目立ち、根拠のない偏向番組が垂れ流され、それが大きく国益を損ねているのも事実だろう。

 公共放送の役割は事実を淡々と報じることに他ならず、多数の視聴者の常識から逸脱してはならない。だが、NHKは公共放送局として存続に値しない特殊法人で、民営圧迫の最たるもの。早急に解散させるべき団体である。

 歪曲、偽造、捏造、の常習犯。虚構をでっち上げ、我が国を貶め続けるNHKは受信料を払ってまで見る様な類のものではなく、視聴者が「受信料拒否」で抗議することはそれこそ憲法で認められるべき国民の表現の自由であり手段でもある。

 国民の多くは最高裁判所とは「最高の判決を下す裁判所」だと思っているが、最高裁は現憲法との整合性を判断しているだけに過ぎず、最高裁で「違憲」判決が下されたならば現憲法を見直せば好いだけのこと。

 放送法第1条第2項は「放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによって、放送による表現の自由を確保すること」と謳われ、第4条第2項には「政治的に公平であること」と、同条第4項には「意見が対立している問題についてはできるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」と記されている。

 だが、公共放送である筈のNHKの報道はどう見ても真実及び自律を保障を遵守しているとは思えない。なのに最高裁は「表現の自由を確保するという放送法の目的を達成する為に必要で合憲」との判断を示した。

 我が国の品格を貶め、国民の倫理意識を低下させ続けている元凶でもあるが、最高裁はそれらを正さずNHKの我田引水的認識に与した。

 マスコミは口々に「知る権利」を振り翳すが、それはマスコミの知る「権利」ではなく、国民が真実を知る「権利」でなくてはならず、マスコミは知り得た情報を公平公正に国民に伝える役目を担っているに過ぎない。

 そう考えると、NHKが知り得た情報を公平公正に報道しているとは到底思えない。NHKも最高裁も何か勘違いしているが、親方日の丸に胡坐をかいてやりたい放題のNHKのこうした諸問題を放置し続けた政治家の不作為は赦し難い。

 護憲派の集まりとも言うべき最高裁は正義は二の次。国の基本法として機能してはいない日本国憲法下では「違憲」判決は次々と下されるだろう。だが、「違憲」判決が下されたならば時代や世情に鑑みて現憲法を見直せば好いだけのこと。

 安倍も憲法9条への附加とか解釈とかまどろっこしいことをやってないで、とっととクソ憲法を放棄しろっての。序に民営圧迫のNHKを解体すれば、アベノミクスにも博が付くというものだろう。呵呵大笑。

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2017年12月06日

今、孝行を尽くさなければ後悔しても間に合わない(中江藤樹)

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 徳川幕府は儒教の「朱子学」を盛んにしたが、朱子学が形式や礼儀を重んじたのに対し、明の学者・王陽明が唱えた「陽明学」は心の持ち方を大切にする教えであり、日本最初の陽明学者は画像の中江藤樹である。

 陽明学は主体的実践を重視した新儒教と言われるもので、「心即理」「致良知」「知行合一」「無善無悪」などを主要な学説としている。

 王陽明は若い頃は生活もだらしなく、無頼の徒で、仁侠道にも溺れたり、武道に凝り過ぎたり、詩や仏法に惑溺したりしたという。終いに儒教に辿り着き、独自の学派を拓く。

「知識」は「行動」と一つであるという心理は、人を狂人にし、常に人を行動へと駆り立てる。この陽明学でいう「狂」とは、単に「狂った」という意味ではなく、陽明学の教える「理想を高く持ち、何の虚飾も隠し立てもなく、心のままに率直に行動すること」である。

 幕末の英雄・河井継之助にしろ、三島由紀夫にしろ、陽明学を重んじている人物というのは生き様は共通してどことなく破天荒でもある。

 河井継之助が、当時流行していた衒学臭げな尊皇の徒輩とどこか違うのは、陽明学の「実践的理想主義」故のものだったからではなかろうか。

 行動する上で大事なのは、時代を見つめる「冷静な目」であり、この時代を見抜く俯瞰した目と「狂」の精神こそが、明治維新への道と切り開く転換点となったと言っても過言ではない。

 中江藤樹は母親を養う為に「今、孝行を尽くさなければ後悔しても間に合わない」と武士を辞め故郷へ帰る。

 武士の魂と言われた刀を売り、生活資金を作り、貧しいながら老母に仕え、そして村人に学問を教えた。噂を聞いて遠近から藤樹の人柄を慕って来る者は絶えなかったという。

 講義を受けていた中の一人の馬方が、客が馬の鞍に結びつけたまま忘れた二百両入りの財布を、藤樹は八里も離れた宿場まで届けるも礼金を享けなかったという。偶々この評判を聞いたのが、熊沢蕃山だった。

「貴男の様な立派な御武家にお教えする様な学も徳もない」と、藤樹は師となることを固く断るも、蕃山は門前に二日間座り込み、漸く入門が叶った。

 後に蕃山は岡山藩主・池田光政に仕えることとなり、藤樹から教わった学問を政治の上に大きく活かした。「大学惑問(だいがくわくもん)」で政治を批判、幕府に咎められ禁錮中に病死した。

 41歳の若さで没した藤樹だったが、多くの門人に熱心に、真面目に、丁寧に教えた故に、今なお「近江聖人」と讃えられ尊敬され続けている。

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2017年12月05日

陛下の御公務の御負担を「女性宮家創設で軽減する」というウソ

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 共同通信社の世論調査に拠れば「女性宮家」創設に賛成する意見が61.3%に上り、皇統断絶を謀る左翼政党よりも自民党支持層が熱心だということが分かる。流石に退位特例法案に女性宮家創設を明記した自民党だけのことはある。

 自民党は表立っては女性宮家創設に難色を示していたのは、単なる保守層を意識してのパフォーマンスに過ぎず、皇統断絶への序章に繋がる「女性宮家」創設に与する自民党は保守を騙った売国政党である。

 皇位継承順位は今上天皇→皇太子殿下→秋篠宮殿下→悠仁親王殿下までは事実上決まっている。「女性宮家」創設を急ぐのはこの流れを阻止し、今上陛下→皇太子殿下→愛子内親王、つまり女系天皇への布石である。

 今上陛下の譲位遊ばされ、皇太子殿下が即位なされるが、秋篠宮殿下は皇太子となるべきものを、皇統の歴史に無い「皇嗣(こうし)殿下」などと称されるのも、自民党主導に因る策謀の一環と見るべきであろう。

 女性宮家の創設となれば対象は愛子内親王と秋篠宮真子内親王と佳子内親王だが、何れも祭祀を重んずる皇位継承者には成り得ない。

 真子内親王の御相手の方は大学時代の同級生であり一般人。女性宮家の創設により一般人男性が皇族になることに違和感を覚える国民は少なくない。御成婚は事実上の女性宮家創設反対の意思表示でもある。

「皇族数の減少」というなら何故に旧皇族方の皇籍復帰を成さないのか。皇統断絶を目論む反天皇勢力は「旧皇族の皇籍復帰は現代にはそぐわない」とか「男系男子を増やす目的だけで」だと反対している。

 然し乍ら、皇籍離脱をされた旧宮家は、北朝第3代崇光天皇の皇子、栄仁親王から始まる伏見宮の系統に属し、今上天皇との関係は、室町時代の伏見宮貞成親王を共通の祖先とされる正当な皇統に属する方々である。

 多くの国民は陛下の御公務の御負担を「女性宮家創設で軽減する」と思っているが、天皇が重んずべき「祭祀」の代行は名代として掌典長のみが許され、「国事行為」の代行は憲法第4条の第2項よる委任か摂政のみ可能であり、つまりは「公務」の代行は皇太子殿下しか成し得ない。

 要は、女性皇族は国事行為も公務も代行出来ることはなく、公務の御負担を「女性宮家創設で軽減する」というのは国民を誑かす詭弁である。胡散臭げな世論調査によって「女性宮家創設」という実に怪しげな世論が醸成されて行く。

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2017年12月04日

畏れ多くも天皇とは憲法以前の御存在であらされる

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 地元紙の一面トップに「即位の礼 2019年秋に」との見出しが躍っている。相変わらずの西暦表示、一見不思議ではないと思われるが、即位の礼とは「大嘗祭」のことであり、大嘗祭とは陛下として初めて行う新嘗祭のことである。

 悲しい哉、日本国憲法にはこの「大嘗祭」の規定がない。占領下、現憲法を押しつけたGHQは、日本弱体化政策の一つとして、神社と国民を離そうと「神道指令」を謀った。以降、皇室行事は天皇の私事となってしまった。

 然しながら、昭和天皇が崩御なされ、今上陛下が即位遊ばされる際は、世界から国賓を招き即位の礼である「大嘗祭」が斯くも盛大に執り行われ、我が国の悠久の歴史を内外に示したことは記憶に新しい。

 現憲法下での前例を無視し、「生前退位」だからとの言い分で、天皇の政治的利用などという付けたりに過ぎない理由を振り翳して、歴代の譲位式で行われている「宣命」を取り止め、然も「退位の礼」とは不敬過ぎるだろう。

 宮内庁幹部は「政府内では過去の例は採用出来ない」との見解が広がっているというが、確かに全会一致で退位法案成立を謀った安倍政権下でこうした認識が広まってても不思議なことではないが、宮内庁が強く申し立てれば好いだけのこと。

 要は、陛下を御守りするべき立場の宮内庁ではるが、平成24年から陛下の負担軽減の一環という尤もらしい理由で「暁の儀」の拝礼を取り止め、次々と祭祀の簡略化を謀った宮内庁主導の策謀だろう。

「日本書紀」の中で、皇極天皇が皇極元年(642年)11月に初めて「新嘗祭」を執り行ったと記されている。永永と受け継がれてきた重要な祭事が脈々と続いていることに、改めて伝統を受け継ぐ大切さを自覚する。

 歴代天皇が採り行ってきた「暁の儀」の取り止めは、今後、歴史の中での祭事に様々な影響を及ぼすだろうとは思っていたが、早速、「宣命」の取り止めや、簡素化した「退位の礼」と「即位の礼」というカタチで現れた。

 いきなり出だした「生前退位」の報も、共産主義者らによる反天皇運動の謀だったが、その共産主義者は内閣府を始め宮内庁をも蚕食している。

 現憲法第4条には天皇の政治的な関与を禁じた項目があるが、儀式の簡略化は違反に問われかねない為だと説明しているが詭弁である。大嘗祭も現憲法違反を免れる為に簡素化し「即位の礼」としているだけだ。それ程までに憲法が大事か。

「天皇の政治的関与」とはどういうことか。国会の開会式への御臨席、国会の解散と国会の召集、大臣への認証、その他、の御公務や各種式典、民間行事等への御臨席など全てが政治的関与でははないか。

 現憲法は歴史的な国家としての継続された「祭祀」に関する天皇の役割を否定し、天皇の「国事行為」のみで「公的行為」は明文化されていない。

 皇太子殿下の即位の礼を「大嘗祭」とすれば、天皇は憲法違反の存在だとする反天皇運動を謀る共産主義者らは、現憲法を無視した違法行為として騒ぎ立てるだろう。何故にクソ共の顔色を窺う必要があるのか。

 畏れ多くも、天皇は憲法以前の御存在であらされるのだ。クソ憲法を護って歴史や伝統文化を否定するとは本末転倒。堂々と伝統に則った祭典を採り行い、我が国の悠久の歴史と文化を世界に発信せよ。

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2017年12月02日

「退位 2019年4月30日」という見出しに見る反天皇運動

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 地元紙の一面は「退位 2019年4月30日」との見出しが付けられ、恰も女性皇族ばかりだと言わんばかりに「皇室の構成」が敬称略で載せられている。隣には御丁寧に「安定的な皇位継承課題」との論説まで添えられている。

 先月30日の誕生日に際し、記者会見に臨んだ秋篠宮殿下は、記者からの「退位を実現する特例法が成立、公布され、陛下が退位することが決まったが」という不敬な質問に対して、「譲位」という言葉で返答されている。

 諸外国でも皇帝や国王が退位させられ処刑されているが、抑々「退位」という言葉は「共産党用語」だった事を知っているだろうか。

 戦後、昭和天皇の「戦争責任論」を叫び強制的に退位させて、A級戦犯として絞首刑に処すという願望から使用されていた言葉でもある。

 今やその中身も分からずに「敬称・敬語不使用」や「開かれた皇室論」の姿勢は国内に蔓延し、それと比例するかの様に天皇陛下への尊崇や皇室に対する敬愛の念を薄れさせてしまった。

 1932年、ソ連共産党から日本共産党へ「コミュンテルンテーゼ(命令書)」という指令が出されたのは歴史的事実である。

 その中で、天皇を制度として捉える共産党は「天皇制廃止運動」として、昭和天皇への「戦争責任・退位論」に始まり「開かれた皇室論」と「敬称・敬語不使用運動」の実行を謀った。女性週刊誌やテレビに登場はその最たるものだ。

 そして平成に入り「生前退位」や「女性宮家創設論」「女性天皇論」として、反天皇運動は巧妙に継続されている。

 敬称ではなく「さま」付けの呼称は、親しみ易さと言うよりも、国民が気付かない儘に共産党の命令書を忠実に遂行していることと同じ言っても過言ではなく、国民自身が皇室の尊厳と敬愛を棄損し続ける。

「譲位」ではなく「退位」を使い、敬称を略して、元号ではなく西暦表示。更には女性宮家の創設は皇位安定への重要課題だとは、正に今日の新聞は、戦後のマスコミや共産主義者による反皇室運動の全てが満載されている。

 何故にデカデカと西暦で明記するのか。皇室に関する行事は「皇紀」を使用すべきとは言わないまでも「元号」で表記すべきだ。

「元号」は、節季の習俗を時代の流れに応用する先人の智慧であり、これこそが我が国文化を象徴する代表的なものである。

 645年の「大化の改新」を果たした聖徳太子の時代より、歴代の天皇は数年から十年を目途に改元して巧みに時代転換をして来た。

 我が国はいつの世も、その時の陛下の御代である。いつの世にもそこには「君が代」の世界が存在し、その御代を端的に表現するものが「元号」であり、これ正に我が国體の精華であり、世界に誇る美風である。

 江戸幕末の混乱期に御即位遊ばされた孝明天皇は、御在位21年の間に「嘉永」「安政」「万延」「文久」「元治」「慶応」と実に6回も改元為されたが、これは幕末という混乱の時代を如何に転換させるかの苦衷の表れでもあった。

 我が国には「元号法」が存在してる訳だが、日頃、法治国家を叫ぶ連中は何故か元号法や国旗国歌法は無視し続ける。

 今回の報に接しても尚、憲法に明記されている国事行為を全うすることが困難になったとの御発露を御汲みするなら、現憲法を改めるなり、皇太子殿下と秋篠宮殿下が輔佐出来る環境を整えれば好かっただけのこと。

 何故に「退位法案」だったのか。保守を気取りながら次々と国體に係わる施策の実行を謀った安倍は正に国賊の誹りを受けても致し方あるまい。

 こうした国體破壊行為は左翼の策謀も然ることながら、歴代自民党政府の無能と政治家自身が我が国の成り立ちと国柄を理解していないことに他ならない。

 皇太子殿下が即位すれば皇太子の名称は消え、長い皇室の歴史の中でも使われていない「皇嗣殿下」という言葉が使われ、秋篠宮殿下がその位に就く。

 皇太子が消えることで「東宮」職も解任となるのだろうが、陛下の祭祀の軽減など、国體破壊を謀る宮内庁は正に獅子身中の虫と断じる他はない。

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2017年12月01日

連日、相撲ネタばかりですみません(笑)

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 今日は師走朔日ということで、朝まだきから身を清め、神饌を替え、畏くも陛下の弥栄を奉り、併せて心願成就を祈念した。

 米朝戦争が勃発し、我が国が巻き込まれなければ政治家も国民も眼前の危機に気付くことはない。ということで、今日も相撲ネタ(笑)

 新聞に日本相撲協会危機管理委員会による今回の問題の経緯が載っている。これを読めば、事の始まりは白鵬の貴ノ岩への説教だということが分かる。

 鳥取城北高校の関係者が主催した食事会で、白鵬は先場所後に発言した言動を問い質す。これは恐らく「もうあの人らの時代ではない」という内容だろう。

 白鵬の説教に対し、日馬富士が間に入り事を収めた。白鵬も説教するなら貴ノ岩個人を別室に呼ぶなりして諫めれば好いものを、周りに人がいる中での説教となれば単なる見せしめであり、貴ノ岩のメンツも潰す。

 その後、棚を変え二次会へ。酒も入り、盛り上がっている中で白鵬は同校を卒業してる照ノ富士と貴ノ岩に「高校の恩を忘れるなよ!」と説諭する。

 その時、貴ノ岩のスマートフォンが鳴り、白鵬の話の途中でスマートフォンを弄った。メールなんぞほったらかしにするなり、メールの着信音なんぞ消しておくべきだが、白鵬の説諭より彼女からのメールを優先した(笑)

 これに反応したのが日馬富士、「さっき庇ってやったのにまたかよ」ってな感じで、白鵬に変わり貴ノ岩をビンタを食らわす。

 貴ノ岩は謝るどころか睨み返し、日馬富士は言っても分からないならと身体に教え込む。白鵬が止めに入り、日馬富士も暴行を止めたが、本来は白鵬が叱るべきものを日馬富士が身代わりになることで貴ノ岩への責めを躱そうとしたのだろう。

 抑々、白鵬が貴ノ岩への説教こそが問題で、「人に意見してその人の欠点を直す」ということは大切なことであり慈悲の心とも言える。ただ、意見の仕方は難しく、骨を折る必要があると「葉隠」でも教えている。

「大方の人は、人に好まれない言い難い事を言ってやるのが親切の様に思い、それが受け入れられなければ、自分の力が足りなかったとしている様だが、こうしたやり方は何ら役に立たない。ただ悪戯に人に恥をかかせ、悪口を言うだけの事と同じ結果になってしまう」というのだ。その上でこう説く。

「意見というものは先ず、その人がそれを受け入れられるかどうかを見極め、相手と親しくなり、何時も信用する様な状態で仕向ける処から始めなければならない。言い方なども工夫し、自分の失敗談等を話しながら、余計な事を言わなくても思い当たる様に仕向けるのが良い。先ずは良い処を褒めて気分を引き立てる様に心を砕き、そうした上で欠点を直していくというのが意見というものである」

 白鵬にはこういう気遣いや後輩への思いやりに欠けていたのだ。やはりそこには己自身が大横綱だという慢心はなかったか。

 相撲は国技の前に武士道だろう。「葉隠」には赤穂浪士の討ち入りに触れた部分があるが、そこでは打算的討ち入りを否定している。

 武士とは即刻「やられたらやり返す」というのが本道で、主君の仇討ちは地道に計画を立てて行うものではなく、事の「成否」は問題ではなく「成否」よりも、行為自体に意味が在ると訓えている。

 つまり、日馬富士の後先を考えずに身体が反応したことは武士道そのもの。やられた貴ノ岩も中途半端に不貞腐れるなら、喩え格上とはいえ酒席だった訳で、徹底して反抗し反撃に転じれば好かったのだ(笑)

 白鵬には事の起こりが何だったか理解しておらず、横綱という立場を勘違いした自身の軽挙妄動こそ猛省すべきで、万歳三唱をやってる場合ではないし、日馬富士が引退する前に「私の不徳の致すところ」と申し出るべきだったと思う。

 それにしても貴ノ岩の礼節の無さは親方の貴乃花譲りだろう。八角理事長や先輩親方に対する接し方を見てると礼節も長幼の序の欠片もない。

 他人の意見や声には耳を貸さず、己の意見や考えこそ正義であるかの様な対応は見ていて醜いし、厳しさは分かるが、人間的に余裕が無くて息苦しい。

 現役時代には爽やかなイメージだったが、人相風体も激変し、身内や関係者だけに見せる笑顔は実に胡散臭げ。相撲界の革新に熱心だが、今回の問題の対応を見る限りやってることは「角を矯めて牛を殺す」そのもの。

 少々の欠点を直そうとして、反ってそのもの自体を駄目にすることも無きにしも非ず。こんな騒ぎは相撲ファンを落胆させ、大相撲も廃れてしまうだろう。

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