2016年10月

2016年10月31日

朴槿恵も辞任を覚悟したのなら「親日分子取締法」を破棄したら如何か

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 韓国・朴槿恵大統領が機密資料を友人へ漏洩したことで支持率が更に降下し、辞任必至の状況に追い遣られている。

 韓国の歴代大統領の末路は実に不幸なものばかり。朴槿恵の状況は過去のものとは違うものだが、絶対的権力が集中する大統領制が、卑しい民族性から異常な金銭欲、権力欲が不正や独善に奔らせるのだろう。

 初代大統領・李承晩は絶大な権力を握りながらも独裁色が度を越して反感を買い、大統領選の不正で学生らのデモによって退陣に追い込まれ、ハワイに亡命した後で病死した。

 然し乍ら、韓国は亡命し失脚した李承晩の「大韓民国臨時政府」という嘘を改めることなく、​国定教科書で「対日宣戦布告」等を過度に強調する余り、ウソに​ウソを重ねるしかなくなり、「反日」こそ「愛国心」とばかりに反日政策に依存するしかなくなってしまった。

 「日清戦争」も大韓民国の清からの独立を促した戦争であり、その後に勃発した日露戦争も朝鮮半島に視野を向けるロシアとの戦いだった。

 そんな中で、我が国ではなくロシアに頼った大韓民国が日露戦争後に独立することは到底無理で、当時の国連に当たる万国平和会議に於いて「日韓併合」は可決されたのだ。これこそが日韓関係の悲劇の現実である。

 大東亜戦争​にしても「日本人として共にアジア解放の聖戦に立ち上がった」というのが真実であり、そうした事実を伝えないで、李承晩の「大韓民国臨時政府として対日宣戦に​参加した」などというウソを教えるからややこしくなるのだ。

 李承晩の後に大統領に就いた朴槿恵の父である朴正煕も、在日韓国人の文世光らの暗殺計画によって夫人を失い、その後自らも暗殺され、今では第1回「親日人名辞典」リストに載り、「親日派」として断罪されている。

 全斗換大統領は「反乱首謀容疑」で死刑判決を受け、盧泰愚大統領も収賄容疑で有罪判決を受けた。

 金永三大統領も、不正融資事件で近親者などが逮捕され退陣。波乱の人生を送りながら大統領にまで昇りつめた韓国初のノーベル賞受賞者の金大中も不正資金事件で息子が逮捕され退陣を余儀なくされた。

 「親日分子取締法」を創り、韓国に悪しき歴史を印した第16代大統領の盧武鉉も、過去の大統領と同じく、妻ら親族が受け取ったとされた巨額不正資金疑惑の追及に耐えられず自裁した。

 こうなると、大統領に権限が集中し過ぎることの反作用というより、道徳的価値観の無い民族性の問題と言う他はない。

 朴槿恵が退陣を覚悟したのであれば、廬武鉉政権下で作られた「過去史整理基本法」と、日本統治時代の親日派の子孫を排斥する為の世界に恥ずべき天下の悪法である「親日分子取締法」を破棄することだ。

 事後法は文明の原則である、法の「不遡及の原則」に反しており、まともな国際社会では許されるものではなし、「親日派・反民族分子」と断罪されている方々こそ韓国の真の愛国者だったのだ。

 朴槿恵も、父親の名誉と偉業を冒涜する「反民族分子」という汚名を灌げば、韓国の歴史にその名を遺すことが出来ただろうに、反日の世論に抗し切れず、支持率を気にして反日に迎合し、父親の名誉回復を図ることはなかった。

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2016年10月29日

共産主義者が謀る反天皇(反皇室)運動を糺さねばならない

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 三笠宮崇仁親王殿下薨去の報に接し、謹んで哀悼の意を表します。

 三笠宮殿下は大東亜戦争の大義に疑義を呈したり、戦前の皇室の在り方を否定したり、「紀元節祭復活は科学的根拠に欠ける」と建国記念日(紀元節)の皇居皇霊殿での祭祀に反対したことでも有名で、これこそが「赤い宮様」と言われる所以でもある。

 左翼勢力は挙ってこうした三笠宮殿下の歴史的認識と発言を利用し、国民世論や大衆の煽動を謀ったが、発言の趣旨が曲解されこうした左翼勢力に利用されてしまったのは至極残念なことでもある。

 閑話休題。マスコミは陛下や皇室に対しては敬語を使わない。三笠宮親王殿下の「薨去」を報じているのは産経新聞くらいなもので、他は何れも「三笠宮さまご逝去」と、態々「様」までもひらがなで統一し報道している。

 その理由は「親しみを込めて」報道することを優先しているというが、「薨去」より「逝去」と報じる方が親しみがあるというのは屁理屈に過ぎず、皇室に対しての「尊敬」を失わせるものでしかない。

 マスコミの「敬称・敬語不使用」や「開かれた皇室論」の下、週刊誌などで陛下や皇族方を登場させ、不敬なスキャンダラスな記事で尊崇の念を薄れさせることに成功した。

 「開かれた皇室論」は、我が国の国柄の破壊を目指す共産主義者の策謀であり、1932年にソ連共産党から日本共産党へ出された「コミュンテルンテーゼ(命令書)」の反天皇運動の遂行である。

 所謂「天皇制廃止運動」とは、昭和時代にあっては「戦争責任・退位論」に始まり、「開かれた皇室論」と「敬称・敬語不使用運動」を展開した。

 平成以降も「女性天皇論」や「女性宮家論」として、その「天皇制廃止運動」は国民が自覚の無い儘に巧妙に継承され浸透してしまっているのだ。

 この「天皇制」というのは共産党の造語であるが、最近使われ出した「生前退位」という言葉またも反天皇を標榜する共産主義者による造語である。

 産経新聞は、先般の皇后陛下の御発言もあり、本日より「生前退位」という言葉を改め、「譲位」という言葉を使用すると報じているが、その変更理由は実に言い訳がましく嗤うしかないが、ならば敬称不使用も改めるべきだろう。

 この度の「三笠宮さまご逝去」の報道にしろ、日常的に報道されている「美智子さま」「皇太子さま」「雅子さま」「紀子さま」「悠仁さま」という敬称不使用は、コミュンテルンの命令書の忠実なる遂行と言っても過言ではない。

 日本国民であるならば、「三笠宮崇仁親王殿下薨去」と報じるべきであり、日頃から「皇后陛下」「皇太子殿下」「皇太子妃殿下」「秋篠宮妃殿下」「悠仁親王殿下」と呼称しなければならない。

 「開かれた皇室論」を推進するマスコミを通じ、国民が知らぬ間に我が国の伝統文化や美徳を喪失させてしまっているということに気付くべきだ。

 我が国は天皇陛下を族長と仰ぐ家族国家であり、この国體は万邦無比である。戦前の様に「畏れ多くも畏くも」とは言わないまでも、節度ある敬意を表するのは当たり前のことだろう。

 自称愛国者や保守派などもSNSなどで軽々しく御真影の貼り付けをしているが、これも「開かれた皇室論」の弊害であり、尊皇精神と親しみ易さを穿違え、天皇の本質というものを理解していない証左でもある。

 共産主義者が謀る反天皇(反皇室)運動を糺さねばならない。

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2016年10月28日

ドゥテルテ大統領の発言は実に快哉

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 来日してるフィリピンのドゥテルテ大統領というのは、中共から約240億ドルの経済支援を引き出したかと思えば、親日ぶりをアピールしたり中々の戦略家。その発言は危なっかしいものではあるが実に快哉でもある。

 麻薬撲滅を訴え犯罪者を処刑してることに苦言を呈したオバマ大統領を「このくそったれが」と罵り、人権問題で批判声明を出した国連の潘基文事務総長を「こいつもバカ野郎だ」と罵倒したが、正しくその通り。

 今や中韓米に侵された国連に正義は存在せず、また米国の自己中心的不正や非道に苦しむ非西欧諸国は、「世界の警察」を気取って偏狭な正義を振り翳す米国を唯一最大の外敵であり脅威と考えている。

 諸文明が鎬を削り合う時代、我が国が為さねばならぬことは米国からの自立であり、ドゥテルテ大統領を見倣って米軍の撤退を図るべきで、いつまでも「米国のポチ」として従属させられている場合ではない。 

 戦後、我が国は米国の51番目の州にならずに済んだのは帝国主義が崩壊していたからで、代わりに主権回復した昭和27年4月28日に「日米平和(後の日米安保)条約)を締結させられその歪な体制は現在も続いている。

 冷戦時代にも極端に少ないGNP1%以内の国防費で済んだのも米国の御蔭であり、その結果、日本の奇跡といわれる経済的繁栄を遂げたが、それに反比例するかの様に人心は荒廃し、様々な弊害が生まれたのも事実だろう。

 だが、昔からアジアの動乱の原因は米国と共産主義だったという事実を考えれば、我が国が米中の覇権争いに巻き込まれ、更には再び極東アジアとアジア全体に不幸を齎すことは火を見るより明らか。

 そう考えた時、ドゥテルテ大統領が安倍首相との会談で披歴した「米中衝突は在り得る」との認識や、米国次期大統領候補・トランプの「第三次世界大戦勃発」発言は決して空想や妄想の類ではない。

 世界の二大元凶は米国と中共であり、何故に我が国はその二大元凶に阿なければならないのか。歴史を振り返れば、「日露戦争」後、動乱の全てにキリスト教徒と天道教徒が係わっている。

 「ハーグ国際会議」後の騒乱にもキリスト教徒が係わり、「寺内総督暗殺未遂事件」でも逮捕された122人の殆どがキリスト教徒だった。

 韓国でも、日本人に反感を持つ宣教師達が朝鮮の信者を焚き付け反日行動を煽っており、伊藤博文暗殺犯とされている安重根もカトリックの信者だった。

 米国内の秘密結社「新民会」による「五賊」「七賊」、所謂「親日派」の大臣暗殺計画も、「3.1独立運動」も、支那での「5.4運動」や「支那事変」、そして「大東亜戦争」然り、米国と共産主義者らの巧妙な活動が最大原因だったのだ。

 こうした事実をしても、アジアの動乱の多くに米国人が係ったことは歴史が証明している。20世紀は正に、キリスト教徒の望んだプロレタリア独裁を標榜する中国共産党と米国が世界の脅威となったことは言うまでもない。

 歴史は繰り返されるというが、今その米中が災いとなっている。平和世界の構築には共産主義の壊滅こそが必要不可欠であり、憲法の見直しと米国からの真の独立こそアジアの盟主としての我が国の採るべき道である。

 その昔、親米右翼の大日本愛国党総裁の赤尾敏は数寄屋橋の街宣で「アメリカは日本の番犬だ。番犬にはエサは必要で、いい番犬ほど金はかかるものだ」とアジっていたのを思い出すが、今やその番犬も高齢となり餌ばかりを欲しがり、自ら歩くことも儘ならずボケ始めた(笑)

 飼い犬に噛まれてからでは遅いのだ。国民もそろそろ、自らの生命と安全は自ら創り出さなくてはならないという現実に気付かなければならない。

 末尾に当たり、三笠宮崇仁親王殿下薨去の報に接し、衷心より哀悼の意を表します。

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2016年10月27日

憂きことの なほこの上に積もれかし 限りある身の力為さん

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 「憂きことの なほこの上に積もれかし 限りある身の力為さん」とは豪傑・山中鹿之助。斯くいう愚生といえば、右翼浪人を気取ってはいるが単なる無職のオッサンな訳で、日々の生活すら儘ならなくなってきた(自嘲)

 人生というのは、なるようにしかならないものだが、結果がどうであれ、それまでの努力は決して無駄なことではない。

 「人事を尽くして天命を待つ」というが、その結果が悪くても諒とすべし。

 だが愚生にはその人事、強烈な努力が乏しいのは承知している(笑)

 逆境やピンチになると、人というのは潜在能力を発揮するものなのだが、その逆境やピンチはなるべき避けようとする人が殆どだろう。

 それだけ人間というのは弱いというか、危険(ピンチ)を察知する能力が優れているとも言えなくもないが、その危険を回避しようとして悪果を招いたりすることの方が多い。

 「災難に遭う時節には災難に遭うが好く候」とは良寛和尚。「これ災難を逃れる妙法にて候」というのは蓋し金言であろう。

 どうにもならない運命などない。「一休さん」で有名な一休宗純は、死ぬ間際、弟子達に「自分が死んだ後、どうにもならないことがあったら、これを開けなさい」と遺言状を託す。

 やがて、彼の死後、弟子の中で大変困ったことが起こり、弟子達は師に救いを求めようとその遺言状を開けてみることにした。

 その遺言状には一言、こう認(したた)めてあった。

 「大丈夫 心配するな 何とかなる」

 どうにもならない様なことは、「どうにもならない」と自分自身でそう思ってしまっているだけで、自己暗示の様なもの。

 本人は悩みや苦難と思っているが、実はそれほど大した悩みではなく、喩えそれがどんな悩みや苦難であっても何とかなるものなのだ。

 昔から「案ずるより産むが易し」と言うではないか(笑)

 余人の想像を絶する悲しみや苦しみを抱えて散華した特攻隊員や英霊の渾身の悩みに比べれば、我々の悩みや苦難などちっぽけなものなのだ。

 苦難とは危険を教える慈悲の鞭でもある。幸福と苦難は表裏一体であり苦難の本質を弁えれば、人生の苦難や悩みとはやはり天の与えた試練である。

 未だ起きてもいないことに、また将来のことを気に病んでいるよりも、今日を本気で真剣に生きるべきで、「一日一生」とはそういうこと。

 西郷隆盛は「艱難は楽しむものなり」と曰く。真っ黒な目の巨漢というイメージとは裏腹に、その生涯は常に死の影が付き纏っていた。

 それでも「死んだっていい。人事を尽くして天命を待つだけだ」という処生観を持ち、開き直って生きている様なところがあった。

 私利私欲や保身とは無縁で、清濁併せ呑む器用さもなく、その大人格故に多くの信望を集め、また自分の死に際でさえ実に潔い人物だった。

 悩みや苦難には意味があるということを理解すると共に、「何とかなる」という開き直りの処世観もまた大事なのである。まぁ、自戒を含めて綴ってはみたが、愚生の場合はチョッと開き直り過ぎてる感も否めない。呵々。

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2016年10月26日

人間死んだら終わり。極楽浄土は現世に在り。

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 一昨日の夜、故郷二本松市小浜の同級生から「葉在住の同級生がバイク事故で亡くなった」とメールが届いた。

 亡くなった友人とは小学校時代にクラスが一緒だったことがあるくらいいだっが、初老の同級会が岳温泉であり、仲間が盛り上がってる中、写真を撮る役を引き受けてしっかりやっていたことが思い出される。

 葬儀は千葉の葬祭場で営まれるらしいが、出席は叶わないので心参し、哀悼の意を表したいと思う。

 今はどの家庭も手狭になり、便利さもあって葬祭場を利用する家庭が多くなった。葬祭場の従業員は、連日繰り返される葬儀に慣れっこになり過ぎて、過剰な演出が目立ち辟易することも無きにしに非ず。

 参列者は、しめやかに故人を見送ろうとしているのであって、こうしたイベント的葬式に辟易している参列者も少なくなく、過剰に演出された葬式は故人を冒涜している様にも感じる。

 愚生の場合、「葬式」はやらず、死に顔は誰にも見せないで棺桶を閉じて早々に焼いてくれと言ってある。「年忌法要」や「偲ぶ会」などもやって欲しくないので身内や友人らにも申し入れしている。

 愚妻や倅だけに言ってたところで、残された身内が「何でやらないんだ」と文句を言われるだろうから、親戚や知人にも予め言っているが、追追、文書(最後について)で伝えておこうと思っている。

 人間死んだら終わり。全てが「無」だと思っている。極楽浄土は現世に在り。だからこそ自分の持っているものを惜しみなく与え、悩んでいる者や、自分より劣る者を如何に助けてあげるかが大事な事だと思う。

 葬儀屋の同級生や、石屋の後輩には悪いが、さっさと火葬して渓流釣りに行った山や川にぶっ散らかして欲しいものだ(笑)

 死というものは人に平等に与えられたもので悲しいものではない。別れも宿命であり、運命なのだから現実を諒として受け入れれば好い。

 宮本武蔵が晩年に書き上げた「独行道」に、「いづれの道にもわかれ(別れ)をかなし(悲し)まず」という一条が記されてある。

 では、武蔵という人物は血も涙も無い冷血漢だったのだろうか。

 酒を嫌いな人が「我、酒を絶つ」とか、タバコを吸わない者が「タバコを絶つ」などとは書かないだろう。

 「飲みたい」「吸いたい」と思うが、これを止めようと自分に誓願した者だけが「絶つ」と言ってこそ他人に訴え、響くものがあるのではないか。

 そう思う時、武蔵は寧ろ人一倍感情豊かな熱血漢であり、別離に人並み以上の涙を流しながら涙を見せまいと努力したに違いない。

 また武蔵の兵法書である「五輪書」には、「山水三千世界を万里一空に入れ、満天地とも攬(と)る」という一節が記されている。

 「万里一空(ばんりいっくう)」とは「世界はどこまでいっても空は一つ」「全てのものは一つの世界に留まっている」という考え方で、武蔵が修業の中で確立された思想の根本でもある。

 この解釈としては「動揺せず、常に冷静な気持ちで事に当たる」「一つの目標に向かって精進する」との意味だが、これが実に難しい。

 何か事が起これば冷静さなど忘れ右往左往。愚生も右翼浪人を気取り、時局に一喜一憂し、私感を尤もらしく披歴しているが、目先のことを語ることや、喧々諤々の議論なんぞに何の意味もない。

 天地自然や人間の大道を心得え、時の動きに従いつつも正義を踏み外さず、危機に際しても平時と同様に対処出来る心構えを涵養することこそ大事で、男の修業とは斯く在りたいものだ。合掌

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2016年10月25日

自衛隊を「国軍」として、その存在と必要性を明確にせよ!

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 安倍首相は23日、自衛隊観閲式に於いて「この(安保関連法案)法制で諸君達に新しい任務が与えられることになる。尊い平和を守り抜き、次の世代へと引き渡して行く為の任務だ」と訓示した。

 安保関連法案下での新たな任務に於いて自衛官の尊い命が失われた場合はどうするのか、幾ら詭弁を弄そうとも自衛隊は違憲の存在であり、政治家がやるべきは自衛隊の存在を憲法に明確にすること以外にない。

 戦後、GHQは徹底した日本の非軍事化を進めた。悲しい哉、現憲法下では「陸海空の戦力は保持しない。交戦権も認めない」となっており、自衛隊の存在自体が憲法上認められていないのが現実。

 占領下の昭和25(1950)年6月、朝鮮戦争が勃発すると、マッカーサーは吉田茂首相に国内警察力と海上警備力の強化を促す書簡を送った。

 所謂「マッカーサー書簡(文書)」である。これはマッカーサーが実質、日本国憲法の破棄を促したものだったが、吉田は改憲をせず目先の法制化で事を濁した。

 このマッカーサー書簡から1ヶ月後の8月9日には「警察予備隊令」が決定、翌日公布、即日施行という異例のスピードで準備が整えられ、政府は苦肉の策として自衛隊の前身たる「警察予備隊」を設置した。

 当時は憲法上の問題から、警察予備隊は「軍隊」ではないとする為に、「師団」を「管区」。「歩兵」を「普通科」。「砲兵」を「特科」。「兵器」は「武器」と呼称した。

 「戦車」に至っては「特車」という始末で、当時の混乱ぶりと右往左往ぶりが分かるというもの。中学時代の社会の先生は「戦車じゃなくタンクと呼ばなくてはならない」と笑いながら教えていたことを思い出す(笑)

 その後、「警察予備隊」は「保安隊」となるが、主権回復後の昭和27年8月1日、警察予備隊と海上警備隊を統合し「保安庁」が設置される。政府は「保安庁法」を提出するも、野党は「憲法9条」を楯に政府を攻撃した。

 吉田茂はその答弁で、「戦力とは近代戦を実行する力であり、保安隊、警備隊にその力はない」と詭弁を弄した。その結果、自衛隊は永い間「戦力なき軍隊」と言われたまま憲法上から忘れ去られ、今もその呪縛に囚われて続けている。

 政府は今も自衛隊を憲法上認められる存在だと主張し続けているが、戦後最大の虚構こそが現在の自衛隊の存在なのである。

 今や自衛隊は海外にも派遣され、国際貢献と平和安定に大きく寄与し、安保関連法案の制定によりその任務は多岐に及ぶこことなった。

 だが、国家の命令で派遣された自衛隊員が若し犠牲になった場合、本来、英霊として靖國神社へ祀るべき存在にも係わらず、そうした議論もせずに自衛隊員へにその職務の遂行のみを強いるのは如何なものか。

 自衛隊員の死が無駄死となってしまうことを危惧せざるを得ない。朝鮮戦争当時、極秘裏に派遣された海上保安庁の掃海艇一隻が触雷、沈没し一名が犠牲となったが、事実上の戦死にも拘らず未だに戦死と認められていない。

 殉職自衛隊員の追悼式が自衛隊の敷地内のみで行われていることは、自衛隊の活動を心強く思い感謝する国民意識と乖離するものである。

 訓練中や今回の震災での救援活動で犠牲となった隊員を国家として手厚く慰藉し、国民が慰霊と顕彰を行える様にすべきだし、過去に犠牲となった方々を含め靖國神社に合祀すべきものだと考える。

 軍隊とは任務の為なら死をも厭わぬ集団である。国家・国民の為に犠牲となれば国民挙って感謝の誠を捧げるのは当然である。

 軍人へ敬意を払うことは世界の常識なのだが、日本は未だ「平和ボケ」の真っ只中。感謝や敬意どころか罵詈雑言を浴びせる始末で、これこそが日本人の精神的貧困さを示す最たるものだろう。

 今こそ、国防をも否定する亡国憲法を破棄し、国民の生命財産と安全な生活を守る為に日夜活躍している自衛隊を国軍として、その存在と必要性を明確にせよ。

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2016年10月24日

殉職自衛官追悼式に思う。誤謬に満ちたこの国の陋習を糺さなくてはならない。

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 22日、防衛省市ヶ谷駐屯地内で「自衛隊殉職隊員追悼式」が行われた。追悼式は昭和32年より、任務遂行中に不幸にして職に殉じた隊員の追悼する目的で防衛大臣主催により毎年実施されている。

 参列した安倍首相は、「御遺志を受け継ぎ、国民の命と平和な暮らしは断固として守り抜いていく。世界の平和と安定に貢献する為、全力を尽くすことをここに固く御誓い致します」と追悼の言葉を述べた。

 平成10年、防衛省の六本木から市ヶ谷への移転に伴い、敷地内に自衛隊殉職者慰霊碑が建立され、毎年、御遺族、内閣総理大臣、防衛大臣以下高級幹部などが参列し追悼式が行われている。

 だが、防衛省はその性格上、一般国民が足を踏み入れることは出来ない為に、広く国民が慰霊や顕彰をすることは困難なのである。

 昭和25年8月9日の警察予備隊発足以来、自衛隊では実に1840名以上の自衛官が「殉職」されており、今年も31柱が合祀された。

 東日本大震災を始め、災害派遣や我が国の平和と独立、国民の生命財産を守る為に日夜行われている訓練などで、1870名以上の自衛官が殉職されていることを果たして国民の何人が知っているのだろうか。

 国民がこうした殉職自衛隊員に感謝し、如何に慰霊と顕彰をすべきなのか。

 仮に自衛隊殉職者慰霊碑を千鳥ヶ淵墓苑に移そうものなら、そこが新たな国立の追悼施設にされる危険性を孕んでおり、千鳥ヶ淵墓苑に祀ることは断じて許すことがあってはならない。

 中共の覇権的海洋進出を始め、朝鮮半島の緊張と日米安保の形骸化など、我が国周辺の安全保障環境は益々厳しいものとなりつつある今、一旦緩急を想定して万全の準備をすることが政治の務めである。

 近い将来、自衛官の「戦死」が生じた場合には、彼らを慰霊し顕彰するのはやはり靖國神社を於いて他になく、1870名にも及ぶ殉職自衛官も同じく靖國神社に祀り、顕彰することは当然の行為であり、彼らの犠牲の上で平和を謳歌する我々国民の義務でもある。

 国家の危機の要請に応じ、敢然と戦場に赴いて戦い散って逝った英霊に対し感謝の誠を捧げ、慰霊し顕彰することは世界の何処の国でも当然のことで、今を生きる国民の義務でもあり、殉職自衛官への思いもまた同じである。

 ところが残念なことに我が国では国の礎となった方々は国家から顧みられることが少ない。このことがどれだけ国民精神の頽廃を招いているのか、日本の政治指導者は考えたことがあるのだろうか。

 安倍は、「御遺志を受け継ぎ、国民の命と平和な暮らしは断固として守り抜いていく。世界の平和と安定に貢献する為、全力を尽くすことをここに固く御誓い致します」という。

 だが、殉職した自衛官のどういう遺志を継いで、どの様に世界の平和と安定に貢献するのか。 殉職自衛官に対し、憲法上の理由から国民が感謝の誠を捧げられないという誤謬に満ちたこの国の陋習を糺さなくてはならない。

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2016年10月23日

中共は覚醒剤密売の日本人男性を死刑執行

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 中共広東省で、覚醒剤の密売に関わった罪で死刑判決が確定していた40代の日本人の死刑が20日に執行された。

 犯罪者とはいえ日本人同朋を救出しようと努力するのは独立国として当然の行為だと思うが、情けないことに日本政府は傍観者を決込んだ。

 支那が麻薬に敏感なのは、過去の「阿片戦争」の苦い経験から来るものだろうが、当時国の法律に触れ、その国に「死刑制度」があるのならば粛々と死刑の執行をするのは当然の行為でもある。

 6年程前には英国籍の男が新疆ヘロイン4㎏を持ち込み逮捕され、法律に則り「死刑」判決を受け、その年末に処刑された様に、死刑執行は日本人だけに限定されたものではない。

 中共では「チャイナホワイト」という麻薬が生産されており、欧州系のヘロインをも凌ぐ純度の高さだという。

 麻薬の密売人にとって、中共に麻薬を買いに行くのは、「千葉県の銚子に干物を買いに行く様なもの」だそうだ(笑)

 恥ずかしいことに愚生の所属していた団体の元本部長ことポンプ長が海外から覚醒剤を大量に持ち込んで逮捕され懲役18年の実刑判決を受けたが、国内に持ち込まれる覚醒剤は年々殖え、一般社会へ蔓延している。

 我が国も、麻薬や覚醒剤の犯罪には極刑を以て対処しなければならないほど深刻な問題でもあるが、芸能人の犯罪を見ても量刑が軽過ぎるし、そうしたことも安易に手を出してしまう要因でもある。

 「死刑」制度に反対する人権派は、今回の死刑執行には何故か沈黙しているが、それこそ瀬戸内寂聴らと「殺したがるバカども」と抗議すりゃ大したものだが、そんな行動をする立派な人権派はいない。

 如何にも連中らしい安っぽい正義感だが、死刑制度廃止を欧米に倣うなら、迅速な死刑執行をしてる中共に見倣ったら如何だろう(笑)

 日本では大騒ぎになる問題でも、中共絡みの問題は、何故か人権派や自称・平和団体はダンマリを決め込む。

 こうした対応を見ても、我が国の「人権団体」や「平和団体」というのは中共の第五列というのがよく分かる。
 まぁ、麻薬に関しては犯罪者への人権なんぞお構いなしと、処刑を実行するフィリピンンのドゥテルテ大統領ってのは面白い。

 訪中した大統領が中共へのリップサービスもあって米国との決別を宣言したが、我が国も「軍事的にも経済的にも米国と決別する」というドゥテルテ大統領を見倣ってみては如何だろう。呵々。

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2016年10月22日

近代国家の中共如きを「支那」と呼ぶのも分不相応な気もする

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 中華人民共和国(中共)は、未だ共産主義を最高原理として崇め、神や仏という共産主義を超える最高の存在を許さず、人民には信仰の自由は認めない歪な体制であるのは誰もが知るところ。

 集会、結社、出版、言論等々の自由も基本的人権も無く、満州、内蒙古、チベット、新疆の異民族を虐殺・凌辱し、土地を奪い、共産主義と民族浄化と漢民族化を強制し、清朝時代の最大版図を「歴史的領土である」と主張する中共こそ、現代に於いての最大の帝国主義国である。

 多くの日本人は日中関係は「同文同種」とか「一衣帯水」という認識を持ち、「四書五経」のイメージで支那への憧れを膨らませ、忠誠を誓うかの様に「中国」と呼称するが、日中関係が樹立されたのは20世紀に入ってからであり、未だその関係は100年ほどしか経っていない。

 中共は戦後、日本を属国、朝貢国と見做しており、日本にだけは自分達を世界の真ん中にある「中国」と呼ばせる。「中国」と呼ばせることで「北京が世界の中心だ」ということを暗に認めさせている。

 尊皇愛国の書として有名な山鹿素行の「中朝事実」では、世の学者の外国(主として漢土)崇拝を批判し、皇統の一貫を根拠に「日本こそ万国に卓越した中華・中国と呼ぶに相応しい国である」との日本主義を主張している。

 「中国」という言葉の一番古い意味は「首都」という意味で、「国民国家」を意味するものではない。日本でいう処の「中国地方」がその好い喩えだろう。

 中共から理不尽な言い掛かりが始まったのは、戦後の混乱期の昭和21年6月に遡る。形式上、連合国の一員で戦勝国であった中国共産党は、その力関係を盾に我が国に「中国」という名を強要した。

 外務省はそれに何ら反論も出来ず、従順に受け容れた挙句、「外務省次官・局長通達」として、「理屈抜きにして先方の嫌がる文字を使わぬこと」と言論機関などにこれを強制し、国民に浸透させ現在に至っている。

 愚生は常々「中華人民共和国」を「中国」と呼ぶのは国際的にも間違いで、「支那」と呼ぶことが正しいと考えていたが、どうやらそれもチョッと違う気がする。

 「支那」は最初の統一王朝「秦」に由来している名称で差別でも何でもない。「支那」を漢字にしたのは新井白石でイタリア語の「チーナ」を翻訳したもので、岡倉天心の説では「新」に由来している、歴史を有する名称なのだ。

 「支那」とは二千年の歴史のある言葉であり、浪漫や憧憬を感じる言葉だ。政権・王朝が代わっても、その基底にある自然・民族・文化を意味する名称として使われてきた国名であり、共産党一党独裁の近代国家の中共如きを「支那」と呼ぶのはチョッと賛美し過ぎてるし分不相応に感じてならない。

 「支那」とは広大な浪漫がそこに無くてはならず、現在の「中華人民共和国」や「中国共産党」はやはり「中共」と呼ぶのが相応しい。

 余談だが、世界では日本を「ジャパン」と呼ぶ。そこから「ジャップ」などど嗤笑されたりもするのだが、本来は「ニッポン」と言うのが正しい。国際会議やオリンピックなどの国際大会などで「JAPAN」と表示されるが、そろそろ「NIPPON」と表記させるべきではなかろうか。

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2016年10月21日

負けるな機動隊。これからも治安維持に邁進し左翼活動家らを一掃せよ!

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 沖縄の米軍北部訓練場を警備する大阪府警の警察官が、基地反対派に対し「どこ掴んでんじゃ、この土人が!」」と詰ったことが不適切だとして沖縄県警が謝罪したが、連中が幾ら差別を理由に騒ごうが謝罪する必要はない。

 活動家への「土人」という揶揄は確かに不適切に思える。何故なら「土人」とは元からその土地に住んでる人や原住民を軽蔑した言葉ではあるが、奴らの多くは本土から来た左翼活動家だから原住民ではないから、そういう意味では「土人」は間違い。「この蛆虫、クソ共が!」くらいにしとけば好かった(笑)

 機動隊員は命がけで治安や国益を護ってるのだ。連日、妨害や暴力、罵声を浴びせられ、写真やビデオで撮られ、そのストレスは尋常じゃない。

 この「土人」の発言の前に左翼活動家から機動隊員への暴言や揶揄(からか)いは無かったのか。反対派からの罵声や暴力には目を瞑り、一部分だけを論って機動隊員を責め立てるのは筋違いだろう。

 活動家を偽装する極左らは、過去に警察を襲撃している。「伊藤巡査殺害事件」や札幌警察署警備課長白鳥一雄警部が狙撃され死亡した「白鳥事件」や「成田闘争」などで多くの警察が犠牲となっている。

 皇居前広場でのデモ「血のメーデー事件」「曙事件」「あさま山荘事件」「三菱重工ビル爆破事件」「テルアビブ空港乱射事件」等等、左翼活動家らのその暴力性は挙げたら限が無い。

 成田空港が開港したのは昭和53(1978)年5月20日。この空港が計画されたのは昭和37年で、計画に11年、着工して5年有余、実に16年もの年月が費やされて漸く完成した。

 この計画が持ち上がると、日本社会党と日本共産党を中心とした左翼らお決まりの「反対屋」が、「新空港は軍事目的に使用される恐れがある」と国民を誑かし、その正当性を振り翳した。

 一方で「一坪地主運動」の戦術を使い、地下壕を掘ってのモグラ作戦。見張り塔を造っての空中籠城作戦など、あらゆる嫌がらせ手段を駆使し、終には警官3名を撲殺。その他多数の負傷者を出すという事件まで惹起して建設阻止に狂奔した。

 この事件の直後、グループの最高責任者が英雄気取りで記者会見し、「警察官が殺されたのは当然の報いである」と言い放った。

 今回の治安当局である沖縄県警の対応を見ても、事の経緯を知ることも無く、共産、社民民或いは民進党に必要以上に気を遣い、事勿れ主義的に安易に謝罪したことで、連中を益々付け上がらせる要因を招くだろう。

 マスコミもまたこれら活動家に共鳴し、左翼の活動は「平和運動」と詭弁を弄し、「差別発言は断じて赦せない」とほざいているが、ならば沖縄集団自決軍命令の証拠とされた大江健三郎の「沖縄ノート」の差別表記はどうなのだ。

 都合の好い部分は傍観を極め込みながら、一方で、機動隊員の怒りから出でた言葉を詰り、それを然も正義であるかの様に報じるのは正にダブルスタンダードであり、公平さを失する行為と断じざるを得ない。

 一連の報道を見て思うことは、左翼活動家らに怯むことなく対峙するこうした正義感あふれる若い警察官がいることが実に頼もしい。負けるな機動隊。国民の多くは君の味方だ。これからも治安維持に邁進し、左翼活動家らを一掃せよ!

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2016年10月20日

「言ってることは分かるが、チョッと訛ってるよね!」

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 今では「いなかっぺ」という意味は「田舎の人」の様に思われてしまっているが、本来は「井の中の蛙大海を知らず」という様に、井戸の中からは塀が高くて外は見えないから、世間知らずの人を揶揄した言葉だった。

 田舎や山里で育った人は「田舎っぺ」ではなく「山家(やまが)育ち」という。尤も、今じゃ落語や時代劇でしか聞かないが(笑)

 東京や横浜などの都会で育った人というのは、如何にも自分達は都会人なんだという気取っているが、こういう連中にこそ「いなかっぺ」や「半可通(はんかつう)」が多く、己の無知などお構いなしに地方出身者を貶す。

 因みに、「半可通」とは生半可な知識をひけらかすことをいう。

 その昔、所属していた団体にもいたが、如何にも江戸っ子ぶって、べらんめえ調で話すのものでついからかってみた。

「お前、大田区の部落(目蒲線沿い)だろ。江戸ってのは品川までで、大田区なんてのは江戸じゃないよ(笑)」

「えッ、そうなんすか」

 大田区大森出身の池田大作が江戸っ子ぶってるのを見て、池波正太郎が「ピンと外れ」だと嗤ったのと同じで、ホント勘違い野郎が多い。

 「お前の様なのを、いなかっぺって言うんだよ!」と言ったところで、本人は「田舎っぺ」だと思ってるから、本人にはちっとも「井の中の塀」「世間知らず」という自覚はない(笑)

 要は、都会にかぶれているだけで、都会に住んでるということだけが自慢の、世間知らずでしかない。所詮、こういう輩はイントネーションや訛りを面白可笑しく真似して笑ってるのがオチ。自分達が使ってる言葉は矯正させられた「標準語」であり、「均一化」された言葉という自覚も無い。

 以前、横浜の友人らと飲んでたら、その友人の先輩というのが何人か同席。政治談議や世間話をしたが、この連中、礼節も無く、揚げ句にこんな一言。

「言ってることは分かるが、チョッと訛ってるよね!」

 こんな奴らと飲んだ時間が無駄。ああいう連中とは絶対仲間にはなれないし、人生意気に感ずることもなく、行動を共にすることもない。

 江戸時代末期には全国から江戸に出て遊学したり、諸国を遊歴した。その際に言葉がどうのなどと詰ったなどと聞いたことも無い。

 薩長同盟にしろ、京都守護職に就いた会津にしろ、故郷の言葉で接し、そうだからこそ互いの心意気を感じ取ったのだと思うし、明治維新もまたそういう草莽の民の結集でもあったのだと思う。

 ブロイラーの如く、均一化された連中が大好きな東京が在るのは会津藩主・保科正之公に因る処が大きい。

 遡ること明暦3(1657)年1月、江戸は「明暦の大火」で大半が焦土と化した。幕閣らからは江戸城天守閣の再建を望む声が多い中、保科公は一貫して先送りを主張した。

 というのは、江戸城再建を優先することで木材価格が上がり、庶民の暮らしが滞り、幕府も財政難に陥ることが目に見えており、再建を実行すれば江戸が懐崩することにもなっただろう。

 都会に居ると目先のことばかりで先が見えないということもよくあること。大局を知るには地方に住むのも悪くはない(笑)

 標準語というのは北海道開拓で創られた言葉であり、それと並行して個性の無い同一化された日本人が多くなった様にも思う。

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2016年10月19日

「2島先行返還」に釘を刺し全千島列島の主権を訴える日本共産党

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 日本共産党の志位が最近の政府が企てる「2島先行返還」に釘を刺し、「全千島列島の主権」を訴え、サンフランシスコ平和条約での千島関連条項の無効化を要請したがこの認識は正しい。更に言えば「南樺太」も我が国が主権を有している。

 共産党でも分かることが、自民党を始めとした保守を自任する政党や政治家が理解していないのは実に情けない。

 過去に国会に於いても共産党は「四島返還決議」の採択に反対しているが、この四島返還要求こそが、事勿れ主義と軟弱土下座外交の象徴であり、未だに領土問題が解決しない元凶と断じても好かろう。

 己の土地を他人に奪われて黙っている者はいないだろう。況してや、父祖伝来の国土が強奪されて泣き寝入りする民族が何処にあろうか。

 「北方領土奪還」、これは正に日本民族の悲願である。

 ところが、戦後70年以上も経った今日、北方領土問題は未だ解決の糸口すら見えて来ないのは一体何故なのか。思うに、領土そのものの重要性に対する認識不足と、如何に不法に占拠されたかの真相把握が欠如していること。更には、ロシアへの認識の甘さと対応の甘さ等が綯い交ぜとなった結果が未解決根源である。

 北方領土は、「日露和親条約」並び「樺太・千島交換条約」により、歯舞、色丹、国後、択捉の四島を含む北は占守(シュムシュ)島から得撫(ウルップ)島の全千島列島と南樺太が我が国固有の領土となった。

 先人達の外交努力を無視し、全千島と南樺太の主権が在るにも拘らず四島のみの主張を明記し、見す見す権利を放棄するとは理解に苦しむ。

 「北方領土の日」は、ペリーが浦賀に来航した安政元年(1855)2月7日、江戸幕府は伊豆下田でロシアと交渉し、「日露和親条約」を締結し、歯舞、色丹、国後、択捉の四島と千島列島の間に境界線が引かれ、樺太を混住の地と決めたという認識が根拠となっているのだが、締結したのは江戸幕府で、日本国ではない。

 歴史には続きがある。明治維新を成し遂げた日本政府は、榎本武揚を全権特命大使として派遣して外交交渉を重ねた結果、明治8年(1875)5月7日、ロシアとの間で「樺太・千島交換条約(サンクトペテルブルク条約)」が締結されるに至り、その結果、混住の地だった樺太の北側と千島列島を交換し、南樺太と占守島までの全千島列島が我が国に帰属したのである。

 それから70年後の1945年(昭和20年)2月4日から11日にかけて、米国のルーズベルト、ソ連スターリン、英国のチャーチルらがクリミア諸島のヤルタに集い密談が行われた。この時、ルーズベルトは千島列島をソ連に引き渡すことを条件に、日ソ中立条約の破棄を進言し、ソ連の対日参戦を促した。

 「ヤルタ協定」では、「ソ連が日本との戦争に参戦すること」、「南樺太をソ連に返還すること」、「千島列島をソ連に引き渡すこと」などが決められ、この約束に従ってドイツが無条件降伏した約三ヵ月後の昭和20年8月9日、ソ連は「日ソ不可侵条約」を一方的に破棄し参戦した。

 ロシアはその「ヤルタ秘密協定」を楯に北方領土の主権を主張しているが、ヤルタ秘密協定こそが国際法的にも意味を成さない協定であり、サンフランシスコ平和条約の千島関連の条項もまた然り。

 我が国は、ヤルタ秘密協定の無効と、「樺太・千島交換条約」並びに「日露和親条約」という国際条約を論拠に、領土主権の正当性と即時返還、更には終戦間際のソ連蛮行とシベリア抑留への謝罪を要求すべきで、「2島返還」に騙され友好条約が交わされる様なことがあってはならない。

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2016年10月18日

徒然なるまゝにその日ぐらしシリーズ

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 ネガティブだとかマイナス思考だとか、ポジティブだとかプラス思考だのというが、世の中、どんな状況下でも自分の都合の好い様に見方をプラス思考に変えればポジティブになれる。

 だが、物の見方や考え方というのは経験が無いと薄っぺらいものになってしまいがち。要は、その経験とは「失敗」であり、失敗から学ぶものは多い。

 よく「場数を踏む」というが、その場数とは「バカな数」であり失敗である。その失敗を如何に自分のものにしたかでその人の重みも変わってくもの。

 最近は右翼人の中にも失敗を恐れ、小さく纏まってる者が少なくなく、右翼という以前に魅力が無い。やはり右翼は削げ者でなくてはならない。

 また、世の中、役に立たぬ無駄はひつつも無く、例えば乞食だって泥棒だって、振り込め詐欺の奴らだって役に立っている。

 現憲法には「諸国民の公正と信義を重んじ」と書いてあるが、公正と信義に乏しい諸国民のお蔭で仕事に就けている職種もあろう。

 例えば、親や先生が、そんな悪党を例に「あれを見ろ、勉強しないとあんな人間になるぞ!」と子供に教えることも出来れば、悪党や犯罪者がこの世に絶えない限り、警察や刑務所の看守らが食うに困ることはない。

 現憲法では自衛隊が違憲と騒ぐ連中はいるが、警察を違憲という人いないし、公正と信義に乏しい犯罪者を憲法違反と詰る人もいない。

 だが、憲法前文の「公正と信義」を重んじていれば悪党や犯罪者というのは存在せず、因って警察も要らないのだが、現実は警察が居て治安や公共の福祉が守られる。要は自衛隊も同じで、理想と現実は違うということだ。

 特殊詐欺にしても、年寄りがタンス預金をしてたところで景気は好くならないが、「オレオレ」と騙って手に入れたカネは恐らくは豪勢に使われているだろうし、結果的には経済的波及効果で誰かに還元されて行くだろう。

 キャバクラや高級クラブのねえちゃんに入れ込んで、結局はフラれたとしても、「フラれたお蔭で無駄なカネを使わずに済む」とか「フラれたお蔭でもっといい女に逢えるかも」などと考え、その現実に感謝すれば世の中の見え方が違ってくるし、人間の幅もまた違ってくるというもの。

 愚生の住む郡山の偉人・安積艮斎(ごんさい)は、二本松藩の儒者・今泉徳輔に学んだ後、文化3(1808)年、その向学心止み難く、17歳で出奔。江戸に上り、佐藤一斎の門に入る。その後、大学頭・林述斎の門人となり研鑽を積んだ。

 17歳で学問を志し江戸へ出奔したというと聞こえはいいが、女房にフラれたというのが真相。というのも、16歳で隣村の「横塚」に婿入りするも、その女房が評判の美人。方や艮斎といえば画像の通りで醜男。その上良斎は学問が好きで、仕事もせずに本ばかりを読んでいる様な男だった。

 そして終には三下り半、養子先から追い出される羽目となった訳だが、これを機に江戸に遊学し、そして成功を収める。

 幕末の激動期、艮斎を師と仰いだ門人は小栗上野介を始め、秋月悌次郎、岩崎弥太郎、清河八郎、栗本鋤雲、権田直助、高杉晋作、谷干城、中村正直、そして吉田松陰など実に2282人にも上る。

 23歳で江戸神田駿河台に私塾を開き、天保2年の41歳で「艮斎文略」を出版し、その後も「艮斎間話」を著し、艮斎の名は天下に知れ渡る様になる。当時、文壇では「東の安積艮斎、西の斉藤拙堂」と並び称された学聖である。

 艮斎は朱子学のみならず、陽明学など他の思想や宗教の善い所を摂取しようと自由な学風を貫いた。洋学にも造詣が深く、渡辺華山が主宰し高野長英ら学者や幕臣が会した尚歯会にも参加した。

 天保7年(1836年)二本松藩儒となり、嘉永元年(1848年)58歳の時に海外事情研究の集大成「洋外紀略」を著し、世界史を啓蒙、海防論を説いた。

 同3年には幕府の昌平坂学問所教授に就任し、同5年十二代将軍徳川家慶に御進講。同6年、米国、露国の国書を翻訳し、ペリー来航時にも翻訳を行った。

 近代日本の源流とも言える江戸時代の偉大な思想家のひとりであった艮斎は、万延元年(1860年)11月21日、昌平坂学問所にて多くの門人に看取られて、70年のその波乱に満ちた生涯を閉じた。

 艮斎の床の間には一幅の美人画が飾られていたという。それは別れた女房を偲ぶ為に書いて貰った掛け軸で、「この女房に追い出されたことで今の自分がある。この絵を見て自分自身を戒めているのだ」と弟子に語っている。

 困ったことや、厭なことがあったとしても、こうした考え方に立つならば常に平気で世に処せるし、自然体でいればこそ無限に好い知恵も沸いてくるというもので、その自然体とは自分流というものではなく、自然の流れ、相手の間合いに合わせることだ。

 昔の人は「恋と願いはよくしろ!」といった。恋でも、願い事でも、必ず好くなると信じ、喩え、途中で色々な事が起こっても最後は好くなるんだというポジティブな思い込みも大事なことだと教えている。

 兎に角、物は考えようで、常に前向きに「災い転じて福となす」という物の考え方を持つことが大事。マイナス思考の人間というのは余りにも陰気でこっちまで暗くなる。斯くいう愚生も危機的状況から未だ脱してはいないが、まぁ、大丈夫、なんとかなるだろう。呵呵。

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2016年10月17日

平成30年11月に大嘗祭を執り行うことで検討に入ったという

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 昨日(16日付)の産経新聞の一面を見てぶったまげた。平成30年11月に大嘗祭(だいじょうさい)を執り行うことで検討に入ったという。「生前退位」という不敬極まる流れはもう誰も止められそうもないのだろうか。

 何故にこんなことになってしまったのか。一体誰がこうした策謀を働いているのかといえば、反天皇運動を標榜する共産主義者に与する宮内庁を始めとした官僚であり、風岡や羽毛田ら歴代長官らが元凶である。

 陛下が重んじられている「祭祀」の簡略化を謀り、反天皇運動に与してる獅子身中の売国奴共を剔抉粛清しなければならない。

 今日の天皇廃止を目指す革命勢力らは、世論を敵に回す様な直接的で過激な所謂「天皇制打倒」運動は行わない。

 極左が得意とする虚偽情報を垂れ流し国民を洗脳し、然も「陛下の御気持ち」だとか「皇體護持」や「国益」の為であると偽装しながら、段階的に「皇統断絶」へ導くという実に巧妙な戦略を採っている。

 今回の「生前退位」にしろ「女性天皇」や「女性宮家」もその戦略の一つであるのは疑いない事実であり、皇統断絶への一里塚である。

 御高齢を理由に公務を減らすのであれば、首相や最高裁長官の「親任式」「大臣の認証式」「親授式」などの国事行為を減らすなり、皇太子殿下に輔佐して頂く環境を整えれば好いことだ。

 それをこともあろうに「2年後には平成30年を迎えます」と語ったことで、何故に平成30年に大嘗祭を執り行うことに繋がるのか。

 畏くも陛下が「譲位」を示唆したのであれば譲位に向けての道筋を作るべきであり、「生前退位」というのは余りにも不敬だろう。

 陛下を始め皇太子殿下、秋篠宮殿下というのは、御自分達の家系の事であるから御自身で発言される事は叶わない。

 本来、退位や譲位問題並びに皇室典範については「皇族会議」で議論されるのが当然なのだが、現在は「皇室会議」として皇族は2名、非皇族が8名という構成下で論じられているのは異常という他はない。

 臣民たる政治家や胡散臭げな有識者らが国體や皇統を論じ、結論付けるなど言語道断であり、政府がやるべきは降下させられた元皇族の皇籍を復帰させ、皇統を盤石の安きに置くと共に、現在の「皇室会議」を本来の「皇族会議」に戻すことに心血を注ぐべきだ。

 産経新聞には陛下と宮内庁長官との遣り取りなどが記され、如何に陛下の気持ちであるかの様に報じているが、陛下の御意向により天皇位を退位が可能なら、同時に、皇位継承者(皇太子殿下)の御意向により、即位を辞退出来ることも可能になるということも知らねばならない。

 天皇陛下が若し譲位遊ばされ、皇太子殿下は即位に当たり、妃殿下へネガティブキャンペーンはその激しさを増し、皇太子殿下が御即位され難くなるだろうことは想像するに余りある。実に共産主義者による反天皇運動は巧妙且つ陰湿なのだ。

 天皇にとって最も大事なものは「祭事」である。歴代天皇が古来より司って来た祭事は、現憲法によって天皇家の「私事」になってしまい、皇室典範には「大嘗祭」の規定は存在しない。

 現憲法は、歴史的な国家としての継続された「祭祀」に関する天皇の役割を否定しており、天皇の「国事行為」は定めているが「公的行為」は明文化されていない。これ即ち、未だGHQの謀った占領政策の「神道指令」の呪縛が解除されずにいる一例である。

 現憲法違反に問われかねない「大嘗祭」を執り行うという理由で、皇室典範を改正しようというのなら本末転倒、言語道断と言わざるを得ない。

 安倍政権が実行すべきは、明治政権下に創られた「大日本帝国憲法」と、皇家の成典である「皇室典範」の二つの成文憲法に括目し、憲法議論は扨置くとしても、皇室典範は直ちに陛下に奉還しなければならない。

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2016年10月16日

高が知れてる目先のカネに目が眩み国益や国柄を損うことがあってはならない

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 TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)の承認案と関連法案が衆院特別委員会で審議入りした。愚生はTPP参加には否定的で、クリントンは再交渉を示唆し、トランプが棚上げを訴える中で、何故に引退するオバマの置き土産に固執するのか不思議でならない。

 推進派は、世界のGDPの約40%を占める巨大な経済圏が誕生することになると夢を語るが、加盟国・交渉国に日本を加えた12ヶ国のGDPを比較すると、米国が67%、日本が24%。日本とアメリカで9割を占め、オーストラリアが5%、その他の国で僅か4%に過ぎない。

 中共がTPPに参加しないことを以て、「中共包囲網」だとか「アジア市場攻略に繋がる」と訴えてはいるが、その実はどうなのだろう。

 TPP加盟国間の貿易において、工業品、農業品、知的財産権、労働規制、金融、公共事業、医療サービスなどを始め、全品目の関税を10年以内に原則全面撤廃を目標としているが、実質的に関税自主権の放棄であり、結果、米国の傲慢に日本市場は踏み荒らされることになるのは必至。

 この他にも、これまでの様な外国企業の日本への進出・投資の規制や、外国人労働者の受け入れ制限が難しくなるといった指摘もされているが、今後、「労働者不足」を理由に、外国人労働者という移民が続々と訪日することだろう。

 つまり、オバマが謀ったTPPは、現代の「ハル・ノート」「黒船襲来」とも言える実に難しく厄介な問題でもある。

 安倍が公言しているが、TPPでの経済効果を見てもGDP換算で1%も満たない3.2兆円ほどでしかない。これは「観光立国」での収益とどっこいどっこい。高高3.2兆円に何故にここまで固執し、何故にこうした愚策が次々と謀られてしまったのか全く以て理解不能。

 「観光立国」やTPPがアベノミクスの起爆剤だというのだから嗤うしかないが、TPP推進派というのは親米保守派が多く、頻りにTPPのメリットを主張するが、実は米国の国益を優先し、我が国の国益を毀損していることが少なくないということに気付くべきだ。

 確かに米国のポチである我が国が、飼い主の顔色を窺うのは理解出来なくもないが、米国はそれほど日本のことなど重んじていない。

 米国が「日本は友人」だと持ち上げるのは、それが米国の為に有利だからで、その他の如何なる理由も大義名分も付けたりに過ぎない。

 米国という国は何事も自分の利益だけを考える国であり、今日の夕刻までは友人であっても明朝には敵となっても、それを少しも不条理とも不道徳とも思わぬ国だ。一旦その利益が失われたならば、何ら躊躇することなく180度転換し、敵側に立つことを少しも不思議と思わぬ国なのだ。

 我が国もそろそろ米国依存体制からの脱却を図らねばならないが、何より、高が知れてる目先のカネに目が眩み、国益や国柄を損うことがあってはならない。

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2016年10月14日

民主主義こそ我が国を崩壊に導いた元凶でもある

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 「民主主義」というのは今では当たり前だと思ってるが、愚生は余り好きではない。別に右翼だからという訳ではなく、民主主義の誤った人間平等主義や基本的人権の乱用に腹が立つ。

 確かに、右翼の使命とは日本の純粋性を曇らすもの、つまりは「共産主義」であろうが、「資本主義」であろうが、「民主主義」であろうが、我が国の国柄や国體を損ねる主義・思想に断固として対峙することである。

 戦前の右翼というのは「国士」と呼ばれ、国粋主義的要素が強く、外国思想は全て悪と捉えるという考えだったが、今や右翼も御多分に洩れず資本主義や民主主義に溺れてる現状は、「右翼」などと蔑視されて当然と言えなくもない。まぁ愚生は右翼で結構だが(笑)

 民主主義では何事も民主的な手法で解決しようとするが、多数決で決めたことにも「少数派にも配慮しろ」と騒ぎ立てる。こうした御都合主義の民主主義こそ、我が国を崩壊に導いた元凶と思っている一人でもある。

 何故なら人というのは平等ではないし、平均的意見とはマスコミが創り上げた価値観に過ぎないからだ。言い方を変えれば、民主主義とは皆が平等にバカになること。違う意見は抹殺し、同じ価値観になれということであるなら共産主義と大して変わらない。

 そのくせ、口を開けばキレイゴトを並べ「人材育成」などを訴える。民主主義的平等のバカを創り上げるのに人材育成とはもう嗤うしかない。

 昔から、こういう諺がある。

「一年で育てようと思うなら花を育てるべし。十年で育てようと思うなら木を育てるべし。百年かけて育てようと思うなら人を育てるべし」

「人材育成」というのはインスタントに出来るものではない。その為には普段から、学校は勿論、家庭でも地域でも若者を育もうという意識がなければダメ。

 国士舘の指導理念に「読書」「体験」「反省」「思索」というのがある。

 本というのは実践してみること、読書によって得たもの、覚えたものをひけらかさずに惜しみなく与えることが大事で、教えることで自分の確固たるものとして身に付いてくるものでもある。

 先生が生徒から教えられる、若い夫婦が子供と共に成長していくことと同じこと。「教えるとは実に教えられることである」とは蓋し正論である。

 花を育てたり、木を育てるにしても、温室で育った野菜や果物というのは、見かけだけで味に深みはない。育てる段階で肥料を与えたり、自然の風雪に耐えてこそ味に深みが出るというものだろう。

 人間だって同じ。甘やかすだけでは立派には育たない。たまには鉄拳も、厳しく突き放すことも必要であり、個性を磨くというのは本来そういうものなのだ。

 民主主義を穿き違え、人間平等観が蔓延っているのは何か物足りない。こんな世の中が続けば、同じ様な個性の無いハウス栽培の打たれ弱い日本人ばかりになってしまうのではなかろうか。

 教育は国家の大本。百年後を見据えて人材育成に取り組むべし。

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2016年10月13日

亀井静香、石原慎太郎らが「賊軍」合祀を申し入れ

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 石原慎太郎元東京都知事と亀井静香、平沢勝栄ら超党派の有志衆院議員が、「賊軍と称された方々も、近代日本の為に志を持って行動した」として靖國神社の徳川康久宮司へ、合祀するよう申し入れた。

 愚生は常々、死者の選別も見直すべきだと思っている一人でもある。我が故郷の二本松藩や会津藩は未だ「朝敵」と断じられ続けているが、抑々「朝敵」という言葉はなく、「賊軍」とは、明治新政府の長州閥らによって作られた造語である。

 戊辰の役(戦争)では「西軍」と「東軍」は干戈を交えた。我が二本松藩は「東軍」であり、「皇軍」という名の「官軍」と「朝敵」とされた「賊軍」が戦った訳ではない。

 靖國神社は明治2年、明治天皇の思し召しにより、「東京招魂社」として建立された神社であることは誰もが知るところ。その合祀対象は、三条実美の祭文に明示されている様に「皇軍に役立ちして、賊徒等を討たん其の義に・・・命果てぬる輩」に限られている。

 この三条公の祭文の原則がある限り、そしてそれを見直さない限り、会津藩や我が二本松藩、或いは「西南の役」で敗れた西郷軍関係者が祀られることはなく、未来永劫 「賊軍」の汚名が灌がれることはない。

 「朝敵」と差別され続けている方々は本殿脇に鎮座する「鎮霊社」に祀られているが、「朝敵」とされた方々を本殿に祀ることと、別なカタチで祀ることのどちらが現代という時代に即して天皇(すめろぎ、すめらぎ)が顕現される道なのか。何より死者の選別を続けることは日本人の死生観にもそぐわない。

 「朝敵」や「賊軍」と蔑視され続ける方々もまた近代日本の為に志を持って行動したことは明らかであり、本殿に合祀し、名誉の恢復を図ることこそ大事なのではあるまいか。

 そういう意味では今回の超党派議員の申し入れというのは理解出来るが、これもまた所謂「A級戦犯分祀論」と同じく一宗教法人たる靖國神社への圧迫行為であり、現憲法違反に問われかねない行動でもあるのだ。

 戊辰の役(戊辰戦争)で敗れた会津藩は「朝敵」「逆賊」に仕立てられ、不毛の領地「斗南藩」に移されることで終結するが、酷寒の地であり、荒れた土地の開拓は艱難辛苦を極めた。だが、その開拓がその後の津軽(後の青森)の発展に寄与したことは言うまでもない。  

 会津藩に限らず戊辰戦争で幕府に恩義を感じ、抗戦し、敗れた多くの東日本の雄藩は、新政府に参政することなく辛苦の日々を送っていた。

 「賊軍」の汚名を着せられた多くの人々は、新政府に対して言いたいことは山ほどあっただろう。だが彼らは臥薪嘗胆、耐えることで國全体が保たれるのならばと己の悲運を甘受し、その抗し難い天命を潔しとした。

 明治9年、畏くも明治天皇は、東北・北海道へ約50日間に及ぶ巡幸に臨まれた。この巡幸の目的が戊辰戦争に敗れて以降、不慣れな土地で艱難辛苦の日々を送っていた人々を慰撫し、激励する為のものに他ならない。

 この東北・北海道の巡幸を以て、戊辰の役での瞋恚(しんい)は慰撫され逆賊も朝敵もなく、一切の蟠りも無くなったのだ。本来であればこの巡行を機に、靖國神社在り方、英霊の祀り方を見直すべきだったが、新政府の長州閥がそれを赦さなかったのは想像するに余りある。

 因みに、巡行は「明治丸」で横浜に帰港され終わるが、その帰還された日が7月20日であり、「海の日」の謂れであるのだ。 これをしても天皇と国民は正に君民一体であることを改めて痛感する。

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2016年10月12日

一片の瘠せ我慢こそ百千年後に至るまで国の独立を維持する上で大切である

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 福沢諭吉は、西南の役が鎮定して間もない明治10(1877)年、「瘠(やせ)我慢の説(記)」を執筆。その後、明治24(1891)年、この文を脱稿。明治34(1901)年、「時事新報」に掲載される。

 この中で福沢は、「一片の瘠せ我慢こそ百千年後に至るまで、国の独立を維持する上で大切である」と説いている。

 福沢諭吉は、嘗て幕臣だった勝海舟と榎本武揚が、敵方である薩摩・長州中心の新政府から優遇を受け、大臣にまで昇りつめた出世を厳しく批判している。

「幕府が最後の死力を張らずして、唯一向に和を講じ哀を乞うて止まずとは立国の要素たる瘠我慢の士風を傷ふたる。独り怪しむ可きは、氏が先きの敵国の士人と並立て旧幕府の幕風を脱して愉快に世を渡りて、得々名利の地位に居るの一事なり」

 その諭旨は、「勝海舟はひたすら講和を主張し、官軍と一戦も交えず開城したのは、要素たる士風を損なった。例え、内乱が国家にとって無益大害の極みであっても、抵抗するのが武士の意気地ではないか」

「人の生命と財産を救ったのは評価するが、世話になった親(幕府)を見殺しにするような態度は、国家としての風潮を無に帰する行為だ。後世の日本人よ、奴を真似してはいかんぞ」と、勝を痛烈に批判している。

 榎本武揚に対しても同様に苦言を呈している。

「氏の為めに苦戦し、氏の為めに戦死したるに、首領にして降参とあれば、憤戦止まらず、其中には父子諸共に切死したる人もありしと云ふ。死者もし霊あらば、必ず地下に大不平を鳴らすことならん」

「中島三郎助父子のような気概溢れる武士にアンタは顔向け出来るか。普通なら出家隠棲は無理だとしても、世間の目に触れず社会の片隅でひっそりと生きていくことこそ本意だった」と批判している。

「榎本は必敗覚悟で五稜郭に立て篭もり、官軍に反抗したのは功名といえるが、降伏後に立身出世を志したのは、その過去を傷つけるもので、両人共、敵味方のケジメをつけ、野に下ることこそ取るべき道であった」と諭しているが蓋し正論。

 現今の我が国内を見渡せば、政治家を筆頭に「義」を守る者が余りにも少なく、利権に集り、私利私欲に狂奔し、カネに群がる不逞の輩ばかりなり。

 福澤翁が諭した「瘠せ我慢」の気風は何処へ行ってしまったのだろう。

 政治家は票欲しさに国民に媚び、国民もまた泣き言さえ言えば助けて貰えるという風潮は、国家国民の堕落を象徴するものである。

 「我慢」「辛抱」「忍耐」というものは人としての大事な教えであり、また立国の大事な要素でもある。

 人夫夫に艱難辛苦はあれど、そういった苦しさを辛さを表情や態度に表さず、平然としてみせることはもっと大事なことだ。

 「武士は食わねど高楊枝」というが、喩え貧しくても清貧に安んじ、気位を高く持つ「瘠せ我慢」こそが日本人の美徳であり崇高な精神といえよう。

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2016年10月11日

共産主義者が謀る「天皇制」廃止運動に騙されるな!

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 昨日の産経新聞のトップ記事は「ガラス細工の皇室典範」とのタイトルで、皇室典範が創られた経緯と問題点を論説しているが、ここでもやはり「生前退位」をどう行うかという前提に立っているトンデモ記事でしかない。

 保守派を標榜する産経新聞が、恰も陛下を慮り「生前退位」を語ってはいるが、朝日やNHK同様に皇族への敬称を略し報道していることしても、やはり反天皇運動に与していると言っても過言ではなく、それは保守派故に罪深い。

 明治政権下、成文憲法は「大日本帝国憲法」と「皇室典範」の二つに分かれ、皇室に関する規定は全て皇室典範に組み入れられた。

 「皇室典範」とは、明治22年の紀元節にて大日本帝国憲法発布の勅語と同時に発布された皇室典範制定の勅語に由来する「皇家の憲法」である。

【天佑ヲ享有シタルし我ガ日本帝国ノ寶祚ハ万世一系歴代継承シ以テ朕ガ躬ニ至ル 惟フニ祖宗肇國ノ初大憲一タヒ定マリ昭ナルコト日星ノ如シ 今ノ時ニ當リ宜ク遺訓ヲ明徴シ皇家ノ成典ヲ制立シ以テ丕基ヲ永遠ニ鞏固ニスヘシ 此処ニ枢密顧問ノ諮詢ヲ経 皇室典範ヲ裁定シ朕ガ後嗣及ビ子孫ヲシテ遵守スル所アラシム】

 即ち、皇室典範とは、神武肇国以来明らかに定まっている皇家の遺訓を成典にしたものであり、「法律」ではなく、「天皇家の家訓」であるというのが正しく、それを臣民である政治家やインチキ有識者如きが論ずること自体烏滸がましい。

 敗戦後の昭和22年、GHQはこの皇室典範を改悪し、畏れ多くも陛下を法律の配下に置いたのは歴史が証明するところ。だが、天皇は憲法や法律制定以前の御存在であり、皇室典範は改正などではなく、直ちに陛下に奉還しなければならない。

 天皇にとって最も大事なものは「祭事」であるが、歴代天皇が古来より司って来た祭事は、現憲法によって天皇家の「私事」になってしまい、皇室典範には「大嘗祭」の規定は存在しない。これだけでもGHQの策謀が分かるというもの。

 現憲法は、歴史的な国家としての継続された「祭祀」に関する天皇の役割を否定しており、天皇の「国事行為」については、首相の任命、憲法改正や法律の公布、外国大使らの接受等を定めているが「公的行為」は明文化されていない。これ即ち、未だ占領政策の「神道指令」の呪縛が解除されずにいるのである。

 皇統断絶勢力に与する宮内庁は陛下の御負担の軽減という大義名分で祭事の一部を中止させたが、本来減らすべきは「国事行為」である。

 天皇は憲法上の制約から、国事行為として「国会の開会式」「首相や最高裁長官の親任式」「大臣の認証式」「親授式」など年間約60回、国賓・公賓への接遇や会見、会食などの御公務を約170回も御努めになられるが、こうした国事行為をどの様に対処するか、どれらを軽減するかも決めないで、軽々しく「生前退位」を論ずることに不快感を覚える臣民は少なくない。

 陛下を始め皇太子殿下、秋篠宮殿下というのは、御自分達の家系の事であるから御自身で発言される事は叶わない。本来、皇室典範については「皇族会議」で議論されるのが当然であるが、現在は「皇室会議」として皇族は2名のみで、非皇族が8名という異様な構成下で論じられている。

 天皇が日本の歴史の中で果たして来られた役割や、在り方をというものを知りもしない政治家らが、民主主義の世であるからと現代の価値観や法律に基いて安易に法改正を成すことは、いつの日か「天皇はいらない」などという暴論にまで発展する危険を孕んでいる。

 蛆虫・日本共産党ならいざ知らず、保守派を辞任する自民党から皇室典範再改正や不敬極まる「生前退位」が提起されること自体、我が国は想像以上に国柄や国體の破壊が進んでいることを痛感する。

 国内の保守派や自称・愛国者、右翼陣営からは反中共や嫌韓、領土防衛や「取り敢えず憲法改正」の議論ばかりで、こうした皇統断絶を謀る勢力や宮内庁に対して何ら抗議や異論が出て来ないことに隔靴掻痒の感は否めない。

 「天皇」は天皇であり制度ではない。「天皇制」とは共産党の造語である。国民よ、共産主義者が謀る「天皇制」廃止運動に騙されるな!

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2016年10月10日

アジアで、また有色人種国として初のオリンピックが開催されたその意義を決して忘れてはならない

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 昭和39(1964)年10月10日、「東京オリンピック」が開催された。その10月10日に由来する「体育の日」なのだが、所謂「ハッピーマンデー」の施行で第二月曜日に移行されてしまった。今年は偶偶10日になったが、アジアで最初の、また有色人種国として初のオリンピックが開催されたというその意義を我々は決して忘れてはならない。

 所謂「ハッピーマンデー」なるものは、左翼陣営が国體破壊を目的として休日の意義を薄れさせる為に施行された策謀だが、こうした愚策を疑いもせずに、自民党や保守を標榜する政治家が同調して来たことは実に御粗末と言う他はない。

 10月10日の「体育の日」の由来は東京オリンピックだが、ハッピーマンデーに同調する議員らは「体育の日」の名称を「スポーツの日」にしようなどいう声も聞こえて来るがホント御粗末としか言い様がない。

 1月15日の「成人の日」も、この日が「小正月」であり、皇居では神道の儀式の一つ「元服の儀」が小正月に行われていたからだ。「祝日」や「祭日」には、夫夫に意味と意義があるのだ。

 国體破壊を目指す左翼陣営の最終目的は、我が国の重要な祝日である11月23日の「勤労感謝の日」と2月11日の「建国記念日」を、ハーッピーマンデーに合わせて第二月曜日にし意味のないものにすることである。

 自民党の中でも景気優先から「ハッピーマンデー」に同調する意見もあるのは言語道断、保守政党としての資格なし。祝日法の再改正を図り、我が国體を国柄を取り戻す好機とせよ。それには何を成すべきか。

 建国記念の日を「紀元節」、春分の日を「春季皇霊祭」、秋分の日を「秋季皇霊祭」、勤労感謝の日を「新嘗祭」と、本来の祝祭日の名称に戻し、「憲法記念日」や「山の日」など意味の無い休日を廃止し、4月3日の「神武天皇祭」と10月17日の「神嘗祭」の復活を目指すべし。

 特に見直すべきは「勤労感謝の日」の名称である。「勤労感謝」というと、何か労働していることに感謝する様に思ってしまうが、本当の意味は「人々の勤労によって生み出される万物の生産を祝うもの」で、日本版「ハロウィン」と言った方が分かり易いか。

 本来は「勤労感謝」ではなく「新嘗祭」であり、神の加護による農作物を始めとした恵に国民が互いに感謝し合う日なのだ。また「建国記念日」にしても、左翼陣営は、三笠宮崇仁殿下が「紀元節祭復活は科学的根拠に欠ける」と、紀元節の皇居皇霊殿での祭祀に反対している意見を利用し、2月11日に拘る必要なしなどとしているが言語道断である。

 左翼というのはこうした既成事実を積み重ねることによって、我が国の歴史や伝統、文化を否定する論拠とするというのは言わずもがな。

 本来「祝日」と「休日」では全く意味が違う。「祝日」には夫夫意味が在り、その日に祝うからこそその価値が見出されるものであり、況してや我が国の「祝日」ほど国柄や国體の精華を現しているものはないのだ。

 GHQが我が国の歴史や伝統、文化を否定することから始まった「祝日法」を再改正し、「ハッピーマンデー」を廃止すると共に、祝日の意味と意義を国民に教えて行かねばならない。

 明日は「ハッピーマンデー」だが、この愚策に同調するかの様な、神社庁などが推進してる「祝祭日には国旗を掲揚しましょう!」というスローガンにも違和感を覚える一人です。呵呵。

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2016年10月09日

社会は肉体の安全を保障するが、魂の安全は保証しない(三島由紀夫)

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 日弁連が人権擁護大会を開き「2020年までに死刑廃止を」とする宣言を採択した。左翼の巣窟とも言える日弁連が死刑制度に反対することは別段驚かないが、この大会にビデオメッセージを寄せた日本共産党の瀬戸内寂聴が「殺したがるバカ共と戦って下さい」などと被害者遺族の心情を逆撫でしたことは人の道、仏の道を説く僧侶として万死に値する発言である。寂聴よ、恥を知れ!

 我が国の死刑制度は「仇討ち禁止令」や「決闘禁止」に代わるものとして明治6年(1873)2月、司法卿・江藤新平が「復讐禁止令(仇討ち禁止令。太政官布告第37号)」を発令。幕末から維新期の派閥、政論の対立による暗殺とその報復という面があったところから、この種の紛争を断ち切る為のが目的だった。

 愚生は如何なる理由は問わず、人を殺めた場合は極刑にすべきだと思っている。「一人なら無期、二人以上なら死刑」という過去の判例にも疑問を持っている。

 少年ありながら、日本社会党委員長・浅沼稲次郎を刺殺し、「自分の行為は大義である、後悔はしていない、だが、ひとりの人命を奪った償いはしなければならない」として自裁した山口二矢の潔さを尊敬する。

 「社会は肉体の安全を保障するが、魂の安全は保証しない」とは三島由紀夫。日本人が本来大事にしなければならないものは肉体より魂であり精神性である。

 人権派を自任する弁護士や死刑廃止を訴える人は、これと同じ様に「生命は地球より重い」と言わんばかりに肉体だけを守ろうとする。左翼に被れながらも「人を裁けるのは神のみだ」というキリスト教的欧州思考に嵌ってるのも御粗末だが、安っぽい感傷に浸って悦に入ってるとしか思えないし滑稽にも見える。

 欧米に倣うなら、「人を裁けるのは神のみ」と言いながら犯罪を犯した者を逮捕せず、その場で射殺するあの傲慢さも学ぶべきではないのか。我が国も、現場の警察官に凶悪犯人を容易に射殺する権限も与えればいい。

 「死刑制度廃止」を訴える左翼陣営からは、東条英機命を始めとした所謂・A級戦犯とされた7名の方々が死刑執行や、正式な裁判も行われず不当に処刑されたB・C級の方々の名誉回復が図られたことはない。

 東京裁判の不当性は扨て置き、戦犯の汚名を着せられた彼らは、その判決を諒とし、死を以て罪を償ってくれたのである。だが、この処刑こそ、人道に反する最たるもので、人権無視の暴挙ではないのか。

 死生観の違いだろうが、残虐な犯行をした者が、死刑廃止で国法により生命を保証されるというのも如何なものか。

 「死刑制度」は、他人を犠牲にした犯罪への相当の審判であり、それは無駄に生きて来た人生にピリオドを打つ為の優しさでもあり、それは畢竟、死刑囚への大慈悲でもある。 

 日本人とは何事も潔さが肝要で、「生」に拘るより「死」を以て償うべきだ。死刑囚というのは他人を「殺したい」という衝動に駆られて実行した訳だが、自分が死の淵に立たされて命乞いとは情けなや。

 「死刑論」ひとつでも喧々諤々の論争が繰り広げられる。だが、こうした論争を見てても日本というのはホント平和なんだと実感する。

 三島由紀夫はこうも訓える。「心の死ぬことを恐れず、肉体の死ぬことばかり恐れている人で日本中が占められているならば、無事安泰であり平和である」。死刑廃止論は正に平和ボケの象徴である。

 「刑事訴訟法」では、死刑確定から六ヵ月以内の執行を定めており、何れも六ヶ月以内に検察庁が法務大臣に「死刑執行上申書」を提出し、規定通り押印し、法相の命令から5日以内に執行されなければならない。

 だが、これが忠実に守られることはなく、死刑確定者の数は殖える一方。その要因は、検察庁は「死刑執行上申書」の提出を怠り、押印を躊躇する法務大臣の職務怠慢、職務放棄と言っても過言ではない。

 法務大臣の任を享けた者として、覚悟を以て大臣としての職務を遂行するべきで、それも出来ないのなら法務大臣は愚か政治家を辞めるべきだろう。検察庁は「死刑執行上申書」を規定通りに提出し、法務大臣は粛々と死刑を執行せよ!

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2016年10月08日

預言者郷里(世)に容れられず

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 「預言者郷里(世)に容れられず(新約聖書ルカ福音書四章)」とう。

 優れた人物というのは、故郷や世の中では受け容れられないことが多いという喩えだが、「受け容れられない」というよりも「受け容れたくない」というのがホンネだろうか。

 「受け容れたくない」という気持ちにしても、批判にしても、往往にして嫉妬から出てることが多く、身近な者が出世したり、優れていればヤキモチを焼くのは人間の性というものでもある。

 見方を変えれば、批判や嫉妬というものはその人の実力を認めてる裏返しでもあるから一々気に留める必要もない。

 「人は故郷を離れて貴し」とか、「 近くの坊さんえらくない」「遠きは花の香、近きは糞(クソ)の香」というのもある(笑)

 身近な者や身近な人の意見というのは中々耳に入ることはなく、例えば、近所の神社仏閣というのは余りにも身近過ぎて有難く感じないもので、それと同じで身近な人からの意見や苦言は軽んじられることが少なくない。

 だが、その軽んじられてる意見が正論だったり事実だったりするもので、喩えるならキリストは愛を説いて十字架に架けられた。日蓮は道を説いて流罪に遭った。また政治家も偉いヤツほど殺されている。

 古来、真理を説き、道理を訴えた者は世の中に受け容れられることはなく、多くはバカかキチガイ扱いされた上に罰せられるか殺されている。逆をいえば、キチガイだとかバカだとか、変人だとか言われる様になればホンモノ(笑)

 ガリレオ・ガリレイは「天動説」が当り前だった時代に、地球が太陽の周りを廻ってるなどとは考えても見なかったのは当然のことといえば当然のこと。結果、「地動説」を唱えたガリレオは世を誑かす者だとして宗教裁判にかけられた。

 これが当時の大勢であり正論だった訳だが、今も当たり前だとか、正論だとか、常識だと思っていることも、後の世には間違いや非常識だったとされる場合も無きにしも非ず。つまり、正しいことというのは、いつの世も後になって気付くもので、そんな時代に、必死に「正しい」と吠えたところで理解してくれないのは当然のことでもある。

 分かり易くいえば、何しろ世の中にはバカの方が多いのだから、どうしてもそういう結果になってしまうのは自明の理とも言えなくもない。今の世の中、「あの人はいい人だ」とか「あれは正しい」などというのも、古来に学べば大半は間違っていると思った方がいい(笑)

 大勢の意見とは正論というより、単に平均的意見に過ぎないし、人というのは単純に「好きか嫌いか」のどちらかで判断するもの。

 先入観に囚われる者に滔々と説得を試みたところで受け容れられることはないし、それが矯正されることもないのに、右翼如きが正論を掲げて世論に訴えてみたところで大衆から支持されることがない。何故なら右翼は「好きか嫌いか」で言えば圧倒的に忌み嫌われているのだから(笑)

 見た目が一番というが、好い人ぶってるヤツに限ってその裏では何をやってるか分かったものではない。愚生の経験からすれば、笑顔のいいヤツや愛想のいいヤツというのは意外と性格が悪いのが多く、単に調子がいいだけに過ぎない。

 「笑顔の綺麗なヤツには気を付けろ」とか「笑うと目が無くなるヤツは信用するな!」という訓えは強ち間違いではない。

 作られた笑顔の裏の顔というのは実に醜いもので、自分を誤魔化そうとか、相手に悟られないようにしようとしているに過ぎず、逆にブスっとして無表情のヤツの方が存外信頼出来るものだ。

 返事もそう。愛想好く何でもかんでも「ハイ、分かりました」なんていうヤツは実は意外と聞いていないのが多い。

 「相手の目を見て話せ」などというが、話をしてる最中に此方の目をじっと目を見ているヤツもダメだ。それは自分の気持ちを悟られない様にしてるだけで、況してや相手に敬があればじっと目を見られるものではない。

 話を聞きながらも、目を伏せてメモしたり、同意した内容があれば視線を上げ、此方と目を合わせ相槌を打つ様な人物なら使い物になるだろう。

 何事も、信じ過ぎず、崇拝し過ぎず、違う角度から穿った見方をすることも必要なことでもある。何故なら、現在の常識や多くの意見というのは、マスコミや或いは戦後に創られた米国の価値観だったりすることが多いのだから、常に人を見抜く眼力を養いたいものだ。

 愚生にしても、いつもいつも同じ様な薀蓄や能書きを綴ってると、有難みも薄れ軽んじられてしまうのも当たり前のこと(笑)

 まぁ、愚生は「郷里に容れられず」よいうより「近きは糞の香」くらいにしか思われてはいないのは何となく気付いている。呵呵。

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2016年10月07日

動いてならぬ時の軽挙妄動を戒めを訓えているのが「風林火山」である

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 福島県の一級河川・阿武隈川は、西郷村の源流が白河に流れ、多くの支流を呑み込みながら県内を縦断し、北は宮城県の荒浜から太平洋に灌いでいる。南の福島から北へ北へと流れているが、場所によっては南から北へ、或いは東から西へ、西から東へと流れる場所もある。

 この様に川というのは紆余曲折、なだらかな流れもあれば激流もある。舟で下ったとしても滝に出くわしたり、ダムで堰き止められてたり。カヌーやカヤックで下ったとしても、それを運ばなきゃならない場所もある。

 雨が降れば増水し、その姿を一変したり。移り変わる風景もそうした流れがあるから心に響く。人生もそれと同じで「紆余曲折」というものを理解しないと失敗の基となるし、失敗や試練を経験してない人というのはどこか魅力も削がれる。

 政治も然りで、右に行ったり左を向いたり。ここで大事なのはその流れの最後に辿る場所。果たしてどんな処なのか理解しているかが大事。

 大局に立ってその流れを見定める目を養わなくてはならないが、我が国の政治を見る時、果して今、その川がどんな場所でどちらを向いているのか、なだらかなのか、激流なのか、悲しい哉、我が国の政治家にそれが見えているとは思えない。

 激流に慌てたり、流されたり、少しばかりのことで驚く様であれば大将の器は無い。困ったこと、悪いことが起これば右往左往してる様じゃ先が思い遣られるし、ロクな結果を生まない。

 困難が起これば、立ち止まって状況を冷静に見極めることだ。解決出来ない試練は無い。じっと対策を考えればその暗闇から微かではあるが光が見えて来るし、光が見えれば勇気も湧いてくるというもの。決して慌てて動かないことが肝要。

 故野村秋介の「熱い風呂に入ってる時はじっとしていろ」とは蓋し名言である。

 武田信玄が「風林火山」を旗印に掲げたことは有名だが、この「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」の句の原文は、「故其疾如風、其徐如林、侵掠如火、難知如陰、不動如山、動如雷霆」。

 「(故に其の疾きこと風の如く、其の徐(しず)かなること林の如く、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、知りがたきこと陰の如く、動かざること山の如く、動くこと雷霆(らいてい)の如し)」と読む。

 ここで注目すべきことは、作戦行動に於ける「動」と「静」の対比。攻めるときは風の様に疾く、侵攻する時は燃ゆる火の勢いを以てする。しかし、この様な「動」だけの武将というのは歴史上数多く存在する。

 「孫子の兵法」で肝心なことは「静」の作戦行動であり、攻撃を中断する時は林の様に静かに、次の機会を待ち山の様に動かないことが大事だと訓える。

 動いてならぬ時に動いて失敗するというのは往往にして在ることで、「風林火山」の訓えとは、動いてならぬ時の軽挙妄動の戒めでもある。武田軍が無敵と言われたのもこの「静」の為であり、人生に於いても軽挙妄動の戒めというのは当て嵌まるとは思うが如何だろう。

 武田信玄の名言では、「人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり」というものがある。だが、どれだけ城を堅固にしても、人の心が離れてしまったら世を治めることは出来ない。情けは人を繋ぎ留め、結果として国を栄えさせる。だが、仇を増やせば国は滅びるという意味だ。そういう信条から信玄はこう諭す。

 「凡そ軍勝五分を以て上となし、七分を以て中となし、十分を以て下と為す。その故は五分は励を生じ七分は怠を生じ十分は驕を生じるが故。喩へ戦に十分の勝ちを得るとも、驕を生じれば次には必ず敗るるものなり。全て戦に限らず世の中の事この心掛け肝要なり」

 話を戻すが、善いことと悪いこととは表裏一体であり、掌の表と裏の関係。「山高ければ谷深し」と言うではないか。悪いことが起きた時は慌てずじっと肝を据え、軽挙妄動を戒めて、目の前の艱難を有り難いと思い逆に愉しむべし。

 ということで、自分自身へ箴言を込めて綴ってみました。

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2016年10月05日

人工透析患者は実費負担にさせよ。無理だと泣くなら殺せ!

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 「病気とは何を食べどんな生活をして来たかに尽きる」。斯くいう愚生もここのところ調子が悪く、病院の世話になった。親が亡くなって初めて親の有難味が分かる様に、体調を崩して初めて健康の有難さというものを痛感する。

 元フジテレビアナウンサーの長谷川豊の人気ブログ「本気論・本音論」で、人工透析患者を「人工透析患者は実費負担にさせよ。無理だと泣くなら殺せ!」と過激な言葉で詰ったことで、ブログが炎上し、全国腎臓病協議会(全腎協)から抗議されたり、レギュラー番組を下ろされたり散々な目に。

 最近はそうした問題も無かったかの様に話題にも上がらなくなったが、裏で大きな圧力が働いている様にも感じる。

 ブログタイトルで「本気論・本音論」と言ってる様に、真相を究明し、本音を語ったことで、それが抹殺されるというのであれば明らかな言論封殺であり、「殺せ!」という言葉は過激ではあるが、ブログとしてはインパクトもあり、況してや医療制度に対する提言からだとすれば括目する記事でもあるのも事実。

 「本気論・本音論」の9月19日のブログには冒頭でこう綴られている。

「医者の言うことを何年も無視し続けて自業自得で人工透析になった患者の費用まで全額国負担でなければいけないのか?今のシステムは日本を亡ぼすだけだ!!」

 その上で、「私は『健康保険制度』と『年金』をすべて解体すべきだと考えています。それを実行できる政治家がいるのかどうか…結論から言うときっと現れないことでしょう。でも、私は考えています。それが日本を再生させる極めて有効な手段だと」いうが、検証の上に立った正鵠を射た意見だと思う。

「この1年で医療費が1.5兆円増えたという記事を見たのが全ての入り口だった。適正に使っていかなければそう遠くない未来に破たんする。人工透析の予算はあらゆる病理に対する社会保障の中でも伸び率が断トツで高い。このままいくと本当に苦しんでいる透析患者まで3割負担、という話になってくる」

 長谷川氏は闇雲に人工透析患者を否定している訳ではなく、自堕落な生活から悪因悪果を招いた患者と一線を画すべきだと提言してるに過ぎない。

 平成26年に医療機関へ支払われた医療費が概算で40兆8000億円となり、過去最高を更新したのも束の間、27年度は42兆円を超えた。

 我が国の歳入は約50兆円、単純に見ればその約8割が医療費ということだ。このまま推移すれば10年後の医療費は50兆円を超えると予想されており、景気次第では歳入と同じ位、否、それ以上の費用が計上されるという国家財政が危機的状況になってしまう可能性は捨て切れない。

 何故に医療費がここまで増大してしまったのかといえば、日本医師会の我田引水的な拝金主義的医療制度に目を瞑り、票とカネ(政治献金)目当ての政治家によって医療制度や医療行政の改革に手を拱いたことが原因と言っても過言ではない。

 医療制度の改革は先ず、自民党を始めとした政治家と日本医師会との卑しい関係を矯正する必要があるが、その実行は限りなく不可能に近い。

 以前、自民党の麻生太郎が医療費負担について「食いたいだけ食って、飲みたいだけ飲んで、糖尿病になって病院に入っているヤツの医療費は俺達が払っている。公平ではない。無性に腹が立つ」と語り、物議を呼んだことは記憶に新しい。

 また、麻生は医療費の抑制策として、病院に通わずに医療費が掛からなかった高齢者に対して「『10万円をあげる』と言ったら、医療費は下がる。それが最もカネが掛からない方法だ」とのアイデアを披歴したが、これも一理ある。

 介護保険でもそうだが、何でもかんでも利用しなきゃ損みたいな風潮に一石を投じる意味でも、麻生の「健康高齢者褒賞金制度」は面白い試みであり、是非とも実行して頂きたいものだと思ったものだが未だ実現には至っていない。

 麻生は終末医療についてもこう語った。

 「私は少なくとも遺書を書いて、そういうことをして貰う必要はない、さっさと死ぬからと書いて渡しているが、そういうことが出来ないと死ねません。いい加減、死にたいと思っても『生きられますから』なんて生かされたんじゃ、叶わない。しかも政府の金で(高額医療を)やってもらっていると思うと寝覚めが悪い。さっさと死ねる様にして貰わないと」

 その上で、「残存生命期間が何カ月かとそれにかける金が月に一千何百万円だという現実を厚労省も一番よく知っている筈だ」とし、終末医療での財政負担が重い現状を指摘している。

 人工透析患者も飽食の時代にあって年々増加の一途を辿り、その治療費も比例して増え続けている。因みに透析治療には年間一人約500万円が投入され、一級身体障碍者としての給付金なども財政的に窮迫しており、長谷川氏のブログもこうした現状を知って貰いたいが為の苦諫と提言でもある。

 国家予算に占める医療費の負担は年々殖えるばかりで、今や我が国の財政を危機的な状況にしている医療費の現実や医療の実態を国民一人一人が知り、考えることは大事で、ブログ「本気論・本音論」もそうした現状に一石を投じるものであり、ブログの真意が曲解され伝わっていることに違和感と危機感を覚えてしまう。

 長谷川氏の「医者の言うことを何年も無視し続けて自業自得で人工透析になった患者の費用まで全額国負担でなければいけないのか?今のシステムは日本を亡ぼすだけだ」との言い分と、麻生の「食いたいだけ食って、飲みたいだけ飲んで、糖尿病になって病院に入っているヤツの医療費は俺達が払っている。公平ではない。無性に腹が立つ」との意見は然程変わらないと思うが、何故に長谷川氏だけが糾弾されなければならないのか不思議でならない。

 「殺せ!」という言葉だけを以て指弾されるのであれば本末転倒であり、また、そうした抗議や番組降板の裏で全国腎臓病協議会(全腎協)や日本医師会の圧力があったのだとすれば言語道断、忌忌しき事態であると言わざるを得ない。

「医者の言うことを何にも聞かず、医者が処方する薬も正確に飲みもせず、看護師に暴言を吐き、家族が止めても酒を飲み続け『うまいもん食って何が悪いんだ!おらぁ!』と暴れ…その結果、人工透析まで至った患者がいますよね?正直に答えてくださいよ。大変申し訳ないが、かなりの数、いますよね?そういう人たちにまで、『全額を国で負担しましょうね~』なんて…そんなシステム…もう持つわけないでしょうが!!!!」

「時代は動いています。もう、高度経済成長期ではないのですよ。あまりにも苦しい経済事情の中、高すぎる保険料と税金をしょっ引かれている現役の子育て世代の皆さんのお気持ちにもちゃんと思いやりを持つべきです。責任ある社団法人の、それは勤めではないですか?あなた方は透析患者と透析病院の利権集団のおつもりか?だとしたら、とっとと解散すべきだ。そんな集団は今の時代に合わない!」

 これもブログタイトル通りの「本気論」「本音論」だと思うが如何だろう。

 愚生の身近な人工透析患者も、或いはサウナなどで会った人工透析を受けてる人になった原因を聞くと、長谷川氏のいう様に「バカみたいに暴飲暴食を繰り返す」「腹は出る、腰は痛める。周囲に注意されているのに、無視」「それでも食べ続け、運動もしない」「周囲は必死に注意。でも無視」「で、糖尿病になる」「にも関わらず、運動もしない、食事も先生から言われたことをろくに守らず好き放題」。そして、ついに人工透析患者になった人ばかり。

 また愚生の周りには、刺青や覚醒剤が原因でC型肝炎になった奴も少なくないが、これもまた自業自得で、それらの治療の優遇制度にも違和感を覚える。肝炎になった要因次第では治療費の見直しは必要だと思う。

 正に「病気とは何を食べどんな生活をして来たかに尽きる」訳で、その悪因悪果は自業自得という他は無く、そうした自堕落な生活を問題にせず、無制限に血税を投入することに違和感を覚え、一石を投じることは、恕から出でた正義感であり、褒められることがあっても糾弾されたり嫌がらせを受ける謂れはない。

 高齢化社会に向け、社会保障の充実や医療技術の向上を図ることは結構なことだが、日本医師会や特定社団法人らが牛耳る医療行政にメスを入れ、「医は算術」と言わんばかりの無節操な医療制度の正常化を図ることこそ大事である。

 こうした問題は医療行政だけに留まらず生活保護などの社会保障制度にも言えることで、喩えば、働きもせず自堕落な生活を送って来た愚生が、生活に窮したからと生活保護を承けたとしたら、やはり違和感を覚える人は多いだろう。要は、こうした問題は在日や支那人などへの優遇制度にも同じことが言えるのです。

※「爆ちゃん吼える」に(COMMON SENSE)というサブタイトルを入れました。COMMON SENSE(コモンセンス)とは「良識・常識」という意味。国士舘大学在学中から綴ってた冊子名です。米国独立革命の書「Common Sense」とは関係ありませんが、我が国が米国依存体制から脱却出来れば勿怪の幸い(笑)

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