2016年04月

2016年04月30日

「反原発」の急先鋒・小泉純一郎の大衆迎合主義を嗤う

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 今日の産経新聞に紙面を割いて、小泉純一郎と長辻論説委員との対談記事が載っている。読み応えのある記事だが、小泉の「脱原発」論は至って抽象的空想に過ぎない。

 以前、小泉は「放射性廃棄物の最処分場が確保されていない」という理由で反原発に考えが変わり、原発行政に一石を投じた。

 だが、こうした重要な問題を放置し続けて来た責任は歴代の自民党に在り、小泉にもその責任が無い訳ではない。

 小泉政権下では高レベル放射性廃棄物を地下深くに処分地探しの公募をしているが、「原発事故で考えが変わった」というのは如何にも無責任で、「即原発ゼロがいい」などと煽動していることこそ無責任の極みだろう。

 以前、小泉は「政治が原発ゼロの方針を出せば、必ず智恵のある人がいい方針を出す。専門家の知恵を借り、その結果を尊重して進めるべきだ」と訴えた。

 だが、その「必ず知恵のある人」がいないことを察知したのか、最近は「一般国民が(脱原発)を考える」だとか、「何れ分かる、国民の意見が政治を変えて行く」だとか大衆迎合主義の正体を露わにしている。

 「(原発費用を)再生可能エネルギーに回した方が、エネルギー源が開発される」というのも具体性に欠ける夢物語に過ぎない。

 長辻論説委員が「再生エネルギーは太陽光にしても風力にしても、今の技術では安定的に使うのが難しい」と質すと、「そうでもないよ。今アメリカなんかね、高速道路で太陽光発電をやろうと実験が始まった」と応える。

 「今の技術では」と言ってるのに、未だ成功もしていないアメリカの高速道路での実験を持ち出して、然も日本でやれば全ての電源が賄えると誑かす。

 将来的には可能かも知れないが、今をどうやって凌いで行くのかが大事で、東京電力福島第一原発事故後に停電も電力不足も起きなかったのは単なる偶然に過ぎない。

 長辻論説委員に拠れば、「原発は危険だというが、日本には実は高温ガス炉という安全性の極めて高い原子炉がある」という。

 一切水を使わない、非常に先進的な原子炉で、平成10年に臨界に達しているが、その存在は知られていない。

 その原子炉が在るのは、奇しくも昨日遊びに行った茨城県大洗に在る。テロの警戒警備が厳重だったのはそういうことか。

 それにしても、小泉というのは言語明瞭で、はっきりと物事を言うので、それが国民には正論かの様に思えてしまうのだろう。

 「脱原発」の流れで原発を廃炉にし、代替エネルギーも確保されないまま、もし化石燃料による電力のみに移行した場合、それは自殺行為とも言える訳で、「脱原発」ありきという考えに固執し過ぎて想定外の事態が起こったのでは本末転倒。

 やはり、安全な原発を稼働させながら、古い原子炉を安全性の高い新たな原子炉に替えて行くなりした上で、再生可能エネルギーの研究も進めて行くべきだろう。

 だが、再生エネルギーでも、現在の太陽光パネルや巨大風車、アレはイケません。何より麗しき山河を滅ぼしているし(笑)

 「脱原発」の理想は分かるが、それよりも現存する原発の安全対策を盤石に施し、核リサイクルなどの技術開発研究こそが喫緊の課題だろう。

 将来的に原発依存から脱却を図るなら、安定的に電力を供給出来る新エネルギーや、蓄電技術などへの莫大な投資が必要になることは自明の理だが、「原発費用を再生エネルギーに充てればいい」などとは勝手過ぎる言い分だ。 

 「エネルギー供給の危機」をクリアした上で、太陽光や水力、火力、風力、或いはメタンハイドレートへの投資や、蓄電の技術開発に多額の資金を投じれば、将来的な脱原発への道が開かれるだろうが、実際には実現するにしても相当先の話。

 反原発派は「原発は危険だから即時停止すべき」とか「再処理はコストがかかるから再処理せずに廃炉にしろ」などと叫んでいる。

 使用済み燃料を再処理せずに最終処分することは、国民の安全が危険に曝されるばかりか、将来的に福島原発事故以上の環境被害を及ぼす危険を孕んでいる。

 使用済み燃料を再処理するとプルトニウムを含む酸化物が精製されるが、これを「プルサーマル」や「フルMOX」として使わなければ、国際公約に違反していることになってしまう訳で、余剰プルトニウムを持つことは国際的に許されないのだ。

 とすると、使用済み核燃料を再処理してしまうと、原発を動かし続けなければならなず、反原発派が使用済み核燃料の再処理に反対し「即時停止」を叫ぶのもこうした理由からだが、軽佻浮薄とはこのことだろう。

 今や「反原発」の主役として時の人となった小泉純一郎だが、その発言は相変わらず中身の無いセンチメンタルリズム。これを嗤わずにはいられない。

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cordial8317 at 08:42|PermalinkComments(0)

2016年04月29日

百姓(ひゃくせい)昭明(しょうめい)にして、 萬邦(ばんぽう)を協和(きょうわ)す

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 本日は「昭和の日」。昭和天皇の御遺徳を偲び、激動の日々を経て戦後復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いを馳せる日である。

 終戦後、昭和天皇が全国を行幸遊ばされ、敗戦で疲弊していた国民の大きな励みになったのは誰もが知るところ。

 正に、「国民と共に在りたい」との大御心は今上陛下の御姿とも重なり、皇国臣民として感謝せずにはいられない。

 未だ国内では、先帝陛下に対して「戦争責任」などとの戯言を垂れ流す日本人らしからぬ輩が存在するのも確か。

 1932年にソ連共産党から日本共産党へ「コミュンテルンテーゼ(命令書)」の指令された。

 その「命令書」には「天皇制廃止運動」として、昭和時代の「戦争責任・退位論」に始まり、次いで「開かれた皇室論」と「敬称・敬語不使用運動」が記されてある。

 共産党に限らず、似非平和主義者や戦後民主主義者、無自覚左翼らが未だ「戦争責任」云々を叫んでいるのは、この命令書を忠実に実行していると言えよう。

 だが、欽定明治憲法下に於いては、国務は国務大臣、統帥は参謀総長及び軍令部長が陛下を輔弼し、その責に任ずることになっており、つまりは陛下には法的に責任は無い。

 しかし乍ら、道義的に最も責任を痛感されたのは畏くも昭和天皇御自身であり、終戦勅諭に於いて「五内為ニ裂ク」と仰せられた様に、自ら身を苛まれたのは陛下御自身なのである。

 「昭和」という元号は、四書五経の一つ「書経尭典」の「九族既睦平章百姓百姓昭明協和萬邦」に由来する。

 「九族(きゅうぞく)既(すで)に睦(むつ)まじくし て、百姓(ひゃくせい)を平章(へいせい)す。 百姓(ひゃくせい)昭明(しょうめい)にして、 萬邦(ばんぽう)を協和(きょうわ)す」

 「昭和」には、国民の平和と世界の共存繁栄を願う意味が込められている。

 因みに「平成」は、史記「五帝本紀」の「内平外成(内平かに外成る)」や「書経」の「地平天成(地平かに天成る)」に由来し、「内外、天地とも平和が達成される」という意味は「昭和」の想いに通じている。

 昭和64(1989)年1月7日、昭和天皇が御崩御遊ばされた際には服喪国は34ヵ国に及び、平成2年2月24日の「大喪の礼」には、実に世界193の国の元首や代表が集まった。

 これは歴史上空前の出来事であったことは言うまでも無く、嘗ての植民地民族にとって、正に昭和天皇は救世主であらされたのだ。

 すめらみこといやさか。すめらぎいやさか。

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cordial8317 at 18:29|PermalinkComments(0)

オバマが広島を訪問したところで謝罪なんぞする訳がないだろう

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 行動右翼のパイオニア・防共挺身隊を辞してからもう何年経つだろう。

 爾来、愚生の拙い思想や考えを惜しみなく伝えようと、新聞への投稿も、ブログやfacebookなどのSNSにしても微々たる啓蒙活動の一環としてやってはいる。

 地元紙への投稿は50回ほど採用されているが、震災以降、反原発派に慮ってか編集者の偏向が顕著なので30年来の付き合いを止めてしまった。

 でも、地元でしか知り得ない情報や話題、死亡欄などもあるし、そろそろ再講読せねばとは思っている(笑)

 地元紙から産経新聞に替え、投稿欄の「談話室」には、プロ野球ネタと大相撲ネタを送ったが採用されず、一昨日、投稿3回目にしてどうにか採用された。

 全国紙に載るというのは感慨深いものがある(笑)

 団体を辞したと雖も右翼人としての生き様を止めた訳ではないし、右翼活動家、一維新者としての矜持を忘れてはいない。

 右翼とは「よく読み、よく書き、よく喋る」、この三拍子が揃ってないとダメだ。まあ、愚生の場合これに「よく呑む」が入る(笑)

 怠惰な生活を送ってはいるが、一旦緩急に備えての心構えに怠りはなし。

 閑話休題。新聞を捲ると、韓国メディアがオバマ大統領の広島訪問に反発し、「大統領の広島訪問は、日本が被害者だという印象を与える」だとか「大統領が広島を訪問すれば混乱だけを引き起こす」と訴える。

 更には「ドイツとは違って、日本は周辺国を納得させられるほど歴史問題について十分に反省していない」との反論している。

 要は「ドイツは、ナチスの犯罪行為について、時効を設けずに謝罪と賠償をし続けているから日本もドイツを見倣え」ということ。

 だが、ドイツはナチスについてはその罪は認めているが、ドイツ国家、或いはドイツ国民全体の罪は今日迄認めたことはない。

 何故ならそれは、「ナチスの犯罪とドイツ国民としての戦争行為は別なもの」としているからに他ならない。

 大日本帝国の遂行した戦争とナチス・ドイツの犯罪行為とは全く異なるものだが、「反日」に固執する余り、国際分析が偏狭し過ぎており、韓国メディアの公正性の無さとレベルの低さを露呈しただけだ。

 韓国だけに留まらず、未だ東京裁判に毒され、ナチスと日本軍が同一であるかの様な自虐史観が国内にも蔓っていることは歴史と英霊に対する冒涜である。

 2010年、オバマ大統領は北朝鮮のミサイル発射を受けて、プラハで「米国は、核兵器を使ったことがある核兵器保有国として、核軍縮に向かって行動する義務がある」との演説を行った。

 更には国連常任理事会でオバマ大統領が提言した「核兵器の無い世界」に向けた決議が採択された褒美としてノーベル平和賞を受賞した。

 核兵器を使ったことのある核兵器保有国の大統領であり、ノーベル平和賞受賞者のオバマが広島を訪問することの意味は大きいが、間違っても謝罪することはない。

 それにしても、未だ「原爆投下が戦争終結を早めた」とする認識が多いことに今更ながら驚くが、先の大戦の意義を検証し、東京裁判史観の払拭を図らねばならない。

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2016年04月28日

一身独立して一国独立するとはこの事なり

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 本日は「主権回復の日」。昭和27(1952)年4月28日に、サンフランシスコ講和条約が発効し、第二次世界大戦後、停止状態にあった我が国の主権が回復した日に因んで安倍政権下で決定した。

 名目的には大東亜戦争が終結し、主権が恢復した日なのではあるが、未だに続く米国依存、米国追随の体質をみれば「主権恢復」とは名ばかりで、敗戦から抜け出たとは言えない悲しい現状が続いている。

 昭和27年4月28日、同日、「日米平和(旧日米安保)条約」が発効。そして昭和35(1960)年「日米の相互協力及び安全保障条約(新日米安保条約)」が発効したことに伴い「日米平和条約」は失効する。

 この歴史的事実こそが、日米関係の日米関係たる所以である。

 「国防」という国家の大本を忘却し、まやかしの平和を貪り続け、魂亡き繁栄に現を抜かす根源こそが「日米安保条約」であり、安保条約の解消無くして真の独立は果たせない。

 「国防」無くして真の主権回復など在り得ない。

 「国防」とは、領土の防衛だけではなく、「それを失ってしまえば日本では無くなってしまうものを死守すること」であり、つまりは歴史・伝統・文化を守ることであり、畢竟、皇統を死守することに在る。

 終戦後の昭和21年から29年まで、昭和天皇は全国を行幸遊ばされ、国民を励ましになられた。正に、国民と共に在りたいとの大御心に、改めて日本という国に生まれたことに感謝せずにはいられない。

 我が国の歴史を繙けば、仁徳天皇は、高みから民の竈の煙をご覧になられ、明治天皇は日露戦争の最中、前線の兵たちと同じ食事を所望されたという。

 昭和天皇も東京大空襲で皇居へ被害が及ぶ中、御所に止まり、国民とその苦難を分かち合った。今上陛下もまた斉しい。

 陛下は常に国民と共に在り、「君民一体」こそが我が国體の精華なのである。

 日本人が護るべきものは、平和や国民の生命や財産は言うに及ばず、「日本」という国柄や国體であり、皇統の死守こそ使命である。

 端的に言えば、諸悪の根源である現憲法を破棄し、米国依存体制からの脱却を図り、国防体制を確立せねば真の独立と主権の恢復は成されないということである。

 米国製のインチキ憲法を有難がり、米国の価値感にどっぷり浸っているが、米国への依存体質が続くのと比例して、我が国の国柄と矜持が失われて行く様をこのまま拱手傍観してていい筈がなかろう。

 主権の恢復する上で何より大事なことは「一身独立」である。

 福澤諭吉翁はそうしたことをこう訓えた。

 「貧富強弱の有様は、天然の約束に非ず、人の勉と不勉とに由って移り変わるべきものにて、今日の愚人も明日は智者となるべく、昔年の富強も今世の貧弱となるべ し。古今その例少なからず。我日本国人も今より学問に志し、気力のたしかにして先ず一身の独立を謀り、随って一国の富強を致すことあらば、何ぞ西洋人の力を恐るるに足らん。道理あるものはこれに交わり、道理なきものはこれを打ち払わんのみ。一身独立して一国独立するとはこの事なり」

 「一身独立して一国独立す」「国を支えて国に頼らず」。今日の日を真の独立を祈念する日にしなければならない。すめらぎいやさか。

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2016年04月27日

安倍首相は靖國神社へ赴き、英霊の御加護の下、真の主権恢復を目指せ!

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 明日28日は「主権回復の日」だが、先の大戦の戦闘が終了したのは昭和20年8月13日。8月15日は「玉音放送」が発せられた日だ。

 ミズーリー号で降伏文書の調印式が行われたのが9月2日。そしてサンフランシスコ講和条約に調印した日が9月8日である。

 そしてその講和条約が発効された日が昭和27年4月28日であり、この日を以て占領状態から解放され主権が恢復した。

 だが沖縄は昭和47年5月15日まで解放されず、沖縄が「主権回復の日」に反対するのはそういう理由からだが、要は単なる屁理屈に過ぎない。

 因みに、伊豆諸島は昭和21年3月22日に、トカラ諸島昭和27年2月10日に、主権回復した翌年の12月25日には奄美諸島が、昭和38年6月26日には小笠原諸島が本土復帰している。

 本来ならば、我が国の本来の終戦記念日は8月15日ではなく、講和条約が発効し、戦争状態が終了した4月28日というのが正しく、そう考えれば、態態、8月15日に拘って靖國神社に詣でる必要はない。

 靖國神社の例大祭に真榊奉納で保守派の御機嫌を取った安倍だが、4月28日にこそ九段の地に赴き、英霊に感謝の誠を捧げるべきである。

 昭和27年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効し、我が国は独立国家としての主権を回復したこととなったが、同日、「日米平和(後の日米安保)条約」が発効がする。これこそが日米関係の悲しい現実でもある。

 同日、報恩感謝として中華民国と「日華国交条約」を締結する。国交条約の締結は道義国家として当然の行動だろう。

 だが、沖縄が本土吹き位した年の昭和47年9月29日、中国共産党と「日中国交正常化」がなされると、あろうことか自民党政府は国際条約である「日華国交条約」を一方的に破棄した。

 締結した国際条約の蹂躙というこの事実は、現憲法に違反するばかりか、我が国が「主権国家」どころか道義国家として失墜した象徴でもある。

 田中角栄の断行した日中国交と日華国交条約の破棄は我が国の恥ずべき歴史であり、その後の対中外交を大きく誤らせ、歴史認識もまた田中の自虐史観が現在にまで引き継がれている。

 主権回復がなされた翌年の第十六国会に於いて、「戦傷病者戦没者遺族援護法」が改正された。

 この措置を以て、所謂「戦犯」と称される方々は法的にも復権されており、つまり、我が国には「A級戦犯」だとか「B・C級戦犯」、或いは「戦争犯罪人」などという呼称はなく、全ては「昭和殉難者」である。

 救援の実施は法改正が成された翌年の28年4月1日からで、法的に復権された方々の合祀は至って当然の措置であろう。

 政治家が未だに英霊を「戦犯」と呼び咎めていることは、国会議決の軽視であり赦されざるものであるが、何よりも「主権回復」の意味を理解していない証左であろう。

 再度言おう、否、何度でも言おう。安倍よ、「主権回復の日」を祝うならば、その日に靖國神社へ詣で、英霊の御加護の下、真の主権恢復を目指せ!

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2016年04月26日

皆さんも、地元の名酒を探してみませんか!

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 朝から酒の話しで申し訳ないが、「酒は二合が適量」ということから会津では、毎月25日を「会津清酒の日」としている。

 また、最近では「乾杯の際には先ずは地元の日本酒で」ということで「乾杯条例」なるものも施行されてる自治体も在る。

 会津地方には酒蔵も多く、「国権」や「会津中将」なんて洒落た名前の日本酒もある。

 会津出身の陸軍中将・柴五郎(後に陸軍大将)に肖ったのかと思いきや、会津藩主・松平容保公が万延元年に左近衛権中将に転任したことに由来する名前だという。

 会津の「花春」や「栄川」「宮泉」といった酒蔵の社長の姓は「宮森」というが、その昔、故郷二本松小浜の実家近くに在った「宮森城」縁の氏でもある。

 伊達政宗に追い遣られ会津に遁走、いつしか酒蔵を営む様になったと言われているが詳しいことは分からない。

 昨日は、その小浜で宮森顕彰会が、御先祖祭法要や会津身知らず柿植樹式などを行ったというが、実に感慨深い。

 晩酌は、故郷二本松の地酒「大七」の純米生酛をお気に入りの錫の徳利やチロリに注いで、盃に注ぎでやっていたが、最近はそこいらの居酒屋よりも酒を揃えている。

 酒肴は貧弱だが、家飲みだと何より酒代が安い(笑)

 この日本酒というのは飲み方も様々で、同じ日本酒でも熱燗と冷や(常温)、冷酒では味わいも変わってくる。

 冷酒は、「涼冷え(15度前後)」「花冷え(10度前後)」「雪冷え(5度前後)」といい、燗酒も「飛び切り燗(55度前後)」「熱燗(50度前後)」「上燗(45度前後)」「ぬる燗(40度前後)」「人肌燗(37度前後)」「日向燗(33度前後)」と呼ぶ。

 日本酒は精米具合で純米、特別純米、純米吟醸、純米大吟醸と名称が変わり、醸造用アルコールで割った本醸造、吟醸、大吟醸などがあり、色や香り、酸味や日本酒度で呼び方が違うというから実に奥が深い。

 漢詩には「月下独酌」など浪漫を感じる飲酒詩が多くチョッと敷居が高過ぎるが、盃に月や菊や桜の花弁を浮かべたりするのも中々乙なもの。

 愚生は歌心には乏しいが、それでも詠むにはビールや焼酎、ウイスキーでは興醒めで、やはり日本酒が一番好い。

 それでも、最近はジャパニーズウイスキーのレベルはかなり高く、イチローズモルトなんてのはプレミアが付いて入手困難。

 そのイチローズモルトも数年前には閉鎖に追い込まれそうになったが、その窮状を救ったのが地元郡山市の笹の川酒造。

 笹の川酒造は元々はチェリーウイスキーで有名な酒蔵だが、昨年発売し人気を博した「山桜15年ピュアモルト」は、大手の年代物のウイスキーや高級スコッチと引けを取らない旨さで、日本酒の後はジャパニーズウイスキーをちびちびやっている。

 ワインにしても日本産ワインのレベルは年々向上しているし、行く行くはフランス産をも凌ぐのではなかろうか。

 「酒は飲むべし 酒は飲むべし 人生酒ありて肝を開く 酔中の快楽人知るなし」とは坂本龍馬だが、飲んだ心地好さは下戸には分かるまい。

 酒を飲まない人というのは人生の三分の二を損しているという。

 確かに、酒というのは失敗も多いが、酒で得るものの方が断然多い。

 ということで、皆さんも、地元の名酒を探してみては如何ですか?

 ああ、朝から飲みたくなってきた(笑)

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2016年04月25日

超党派の議員で「靖國神社法案」を提出し靖國問題の解決を図れ!

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 靖國神社春季例大祭当日祭に、超党派の議員連盟「みんなで靖國神社へ参拝する会」のメンバー92人が靖國神社へ集団参拝した。

 国会議員約720人いる中で92人とは恐れ入るが、それでも「みんなで・・・」なんて言ってるのだから罪がない(苦笑)

 3年前には、平成以降最多の168が参拝したと悦に入ってたのも束の間、要は昨今の保守ブームに陰りが見えてきた証左だろう。

 まぁこんなことでは靖國神社の国家護持など夢のまた夢だ。

 世間では首相の参拝を熱望する声が絶えないが、抑々、総理や国務大臣が靖國神社への参拝することは現憲法20条違反に問われ兼ねない。

 高市大臣と岩城大臣が参拝したが、官房長官が頻りに「個人的参拝」を強調するのも、現憲法に抵触するとの認識を共有しているからに他ならない。

 だが、国家の為に尊い命を投げ出された英霊に対し、国民の代表である政治家が感謝の誠を捧げるのは当たり前のことであり、議論の余地などないし、誰かに慮る必要も内政干渉に屈する必要もない。

 靖國神社というのは戦後、GHQの統治下で行われた「神道指令」によって、解体や焼き打ちされそうになったのは有名な話し。

 だが、当時の関係者らは智慧を絞り、GHQの目を逸らす為に一時的に別な御祭神を祀り、「一宗教法人」として存続を図った。

 本来ならば、昭和27年4月28日に主権が恢復した折に、靖國神社と全国の護国神社は「宗教法人」ではなく、国家で管理するべきだったのだが、政治の怠慢、それも自民党の無作為でそれをも成されずに現在に至っている。

 靖國神社を語る際には必ずと言っていいほど、所謂「A級戦犯分祀論」なる声が聞かれるが、これもまた靖國神社側への政治介入並びに威圧行為であり、同じく憲法20条違反であるのは最高裁の判例が示す通り。

 にも拘らず「A級戦犯分祀論」を唱える政治家は後を絶たないが、最近では20条に抵触しない様にと、畏れ多くも天皇陛下の「御親拝」という、尤もらしい理由を述べているベテラン議員も少なくない。

 石破茂や前原らがその代表格で、「陛下が参拝できる(本来ならば「御親拝遊ばされる」というべきだが敢えて使わない)ように、靖國神社側が自ら静謐な環境をつくることが望ましい」などと言って国民を誑かしている。

 静謐な環境整備には異論はないが、こうした政治介入や威圧行為には違和感を覚えるし、靖國神社側が応じることはない。

 靖國神社は「宗教法人」となっているが、これは前述した通り、GHQが国家と神道の分離を謀った「神道指令」下、靖國神社の護持に苦慮した当時の関係当局の「緊急避難行為」であり、実態は宗教ではない。

 宗教というのは「教祖・経典・布教活動」の三要素を必須不可欠とするが、靖國神社にはその一つも無く、唯、祀りの様式を日本古来の神道に則って行っているに過ぎない。

 靖國神社の国家護持を図る上で、この「宗教法人」を見直すことが肝要であり、先ずは靖國神社の宗教法人格を外すことから進めるべきだろう。

 自民党は過去に、衆参両院議員選挙の際のその公約の一つとして、「身を挺して国に殉じた英霊を祀る靖國神社の公式参拝と国家護持の実現を図る」という政策を幾度となく掲げて来た。

 政権政党として至極当然の認識と政策であろう。

 だが、自民党は過去に幾度も安定多数の議席を確保しながらもその公約は実現せず、昭和49年の参議院での審議終了による廃案以来、この「靖國神社法案」は提出されることは無くなった。

 これ即ち、自民党のやる気の無さの現れでもあるが、公明党との連立を組む自民党に期待出来ない今、超党派の「みんなで靖國神社へ参拝する会」は、「靖國神社法案」を提出し、靖國問題の根本的可決を図るべく政治生命を懸けるべし!

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2016年04月24日

「活断層上にある川内原発で火災発生」という反原発派の夢物語(苦笑)

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 先日、デマというのは流言蜚語であり、デマを流す輩を蜚蠊(ゴキブリ)と準えたが、熊本地震と川内原発を絡めたい彼奴等は性懲りもなくデマを拡散し国民を誑かしている。

 「川内原発から火災が発生した」「川内原発を止めないと大変なことになる」 「活断層上にある川内原発の危険性を覆い隠そうとする安倍政権」など、熊本地震以降、こうしたネタがSNSでは多く見られる。

 まぁ、これ全てデマだが、被災者よりも己らの主張や活動を最優先する反原発派のこの手の悪質なプロパガンダに乗せられている国民は少なくない。

 活断層というのは、専門的には「断層が地表表面に現れているもの」をいうのだが、川内原発は活断層上にはない。

 要は、「活断層上に在る」というのは、川内原発が「活断層上に在って欲しい」という反原発派らの夢物語に過ぎない。

 「万が一」にも川内原発が福島第一原発の様な惨状になるということもないが、「なったらどうする」という起こりもしないことに反論する気もないし、気を病んでも意味はない。

 「原発を止めて欲しい」という私的な意見は、感情的に騒ぐのではなく、もう少し理論的に且つ我が国の国力というものを考慮した上で発信すべきだと思うが、反原発派というのは聞く耳は持たないし、そんな奇特な輩もいない。

 「平和主義」を望み、生まれた故郷や自然を守りたいという思いは、態態強調せずとも日本人ならば誰でもが持ち合わせている感情だろう。

 反原発派や自称・平和主義者、人権派と称する連中らの安っぽいセンチメンタリズムやキレイゴトにはいい加減うんざりだ。

 以前、原子力規制委員会は、これまで12~13万年前とされてきた活断層の定義を一変させ、耐震設計審査指針を「40万年基準」とする摩訶不思議な提案したことは記憶に新しい。

 地震国日本で「40万年基準」となれば、「活断層の可能性は否定出来ない」という結論に達するのは間違いなく、今回の活断層騒ぎも、こうした原子力規制委員会の基準を勘違いしているのだろうと斟酌する。

 抑々、福島第一原発事故は、活断層による地震が原因で被害に及んだ「天災」ではなく、大津波により発電所内の電源が失われ、原子炉冷却に関わるバルプが操作不能になったのが要因である。

 更に言えば、外国人からの献金疑惑で四面楚歌だった菅直人が、起死回生を狙い現場視察を強行した為に「ベント」が遅れた「人災」だったことをお忘れか。

 熊本地震は津波を伴っておらず、喩え津波があったとしても、川内原発は福島原発事故を教訓に複数の電源設備を確保しており、同じ事故は起こらない。

 活断層を探して原発を無くすことが解決策ではなく、「人災」を猛省し、原発を安全に停止させる技術を高めることこそ肝要だろう。

 福島原発事故以降、冷却装置の機能を失わない対策こそが必要だということを理解したのは、福島原発事故での大きな教訓であり成果ではなかろうか。

 「冷源」と「電源」が確り保たれてさえいれば「冷温停止」に持ち込むことが可能であり、喩え活断層がどんなものであれ原子炉を安全に停止させることが出来るのである。

 反原発派らが原発の不安を煽り続けている中でも、全国の各原発では福島原発事故の教訓を活かそうと、「防波堤の建設」「浸水防止ドアの設置」「高台への非常用電源の確保」などの現実的な対策が進められているのは心強い。

 福島原発事故を受けて厭な思いをしている福島県人として、原発無しで生きられたらこんな有難い話は無い。

 だが、それよりも何より、「便利」という価値観に溺れた現代の日本人が、原発無しで、化石燃料や不安定な新エネルギーで満足するとは到底思えない。

 熊本地震の後、ネットやマスコミ報道では、食料が足らないとか、生活用品が不足しているだとか、風呂に入りたいという声ばかりが聞こえて来る。

 こうしたことを見ても、如何に普段の生活が恵まれた環境の中で営まれていたかを思い知り、当り前の生活に感謝すべきだろう。

 「不自由を常と思えば不足なし。こころに望みおこらば困窮したる時を思い出すべし」とは、徳川家康の金言である。

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2016年04月23日

「政党交付金」を支給し続けることは国民への詐欺行為である

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 年四回に分けられて配られる「政党交付金」の第1回目が交付された。そのカネ、実に79億円。これ全て血税である。

 これだけあれば地震で壊れた熊本城の改修工事をしても余る金額だ。

 政治家というのは、ホント幾ら貰ったら国家国民の為に滅私奉公してくれるのだろうか?

 政党交付金(政党助成金)は、企業・労働組合・団体から政党・政治団体への政治献金を制限(禁止としないところがミソ)する代償として、細川政権時に導入されたものだ。

 細川はドイツの事例を挙げ、「ドイツでは国民がカネを出し合って政党を援助している。政治家がカネ集めに奔走しなくて済むし、何よりクリーンな政治を実現出来る」と、国民を説得させる演説を行った。

 「政党助成法」の成立で、企業献金や政治資金パーティーは無くなり、政治家は国家国民の為に汗してくれるものと国民の誰もが思いそれを期待した。

 この政党助成金、国民一人当たり約250円。年間総額約320億円。国会議員一人当たり約5000万円だが、政党職員の給料などもこのカネで賄われており、公務員の様な政党職員が多くなったのもその一因に挙げられる。

 国会議員には歳費として年間約2300万円、文書交通費約1200万円、公設秘書の給料や議員会館、議員宿舎など、年間合わせて1億円以上の国費が計上されている。

 誰が見ても政治活動をするには十分過ぎる金額だと思うが、欲の皮のツッパッた政治屋どもというのは違う様で、相変わらず、企業献金、個人献金、政経パーティーと、国政そっちのけで金策に狂奔している。

 だが、これでは国民に対する「政党交付金詐欺」ではないのか。

 政党交付金の趣旨は、企業、労働組合、団体などからの政治献金禁止の代償であったが、未だ企業団体献金が無くならない現状を鑑みれば、政党交付金は即刻廃止すべきものであるのは言うまでもない。

 日本共産党が唯一「政党助成金は止めるべきだ」としているが、これは至極当然の話しで、あの蛆虫の共産党でさえも解りきってることが、欲集(タカ)り、守銭奴著しい政治屋どもには全く理解出来ていない。

 熊本地震後、全国、また海外からの寄付や援助金が寄せられているのに、我が国の政治家がこれではホント情けなや。

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2016年04月21日

「鎮霊社」なる死者の選別を見直すことこそ天皇顕現への道である

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 靖國神社では昨日の春季例大祭清祓に続いて当日祭が斎行される。

 安倍総理は熊本地震や伊勢志摩サミットもあり、要らぬ論争を避け真榊奉納もしないのかと思ったら、保守層の取り込みを案じてか真榊奉納で事を濁した。

 何れにしても総理や政治家らが参拝することで靖國が騒がしくなるなら、政治家なんぞ靖國にかかずらって欲しくはないというのが正直なところ。

 いっそのこと千鳥ヶ淵墓苑を米国のアーリントン墓地の様に造り直し、国立戦没者墓苑を創ればいいし、政治家なんぞそっちに参じればいい。

 それでも多くの国民は靖國神社に詣で英霊に感謝の誠を捧げるだろう。

 もういい加減、靖國神社へのアホ臭い議論はもう終わりにして貰いたいし、米中韓の不当な内政干渉にいつまで屈するつもりか。

 首相の公式参拝は当然のことであるが、現憲法下でそれが赦されていないのならば控えるべきだとは思うし、首相の公式参拝を合法化するならば、靖國神社の宗教法人格を外し国家で管理すればいいだけの話しだ。

 靖國神社は、総理大臣の参拝は二の次で、何より陛下の御親拝こそが大事であり、御親拝よって英霊は安らかに眠れるのである。

 また、愚生は常々、「鎮霊社」なる死者の選別も見直すべきだと思っている一人だ。

 我が故郷の二本松藩や会津藩は「朝敵」と断じられ続けているが、抑々「朝敵」なんていう言葉はない。我が祖先は「東軍」である。

 この「朝敵」と差別され突けている方々を「鎮霊社」という別なカタチで祀ることと、朝敵をも本殿に祀ることと、そのどちらが現代という時代に即して天皇(すめろぎ、すめらぎ)が顕現される道なのか。

 やはり「朝敵」と蔑視され続ける方々を祀り、名誉の恢復を図ることこそ大事であり、死者の選別を続けることは日本人の死生観にもそぐわない。

 靖國神社に批判的な勢力からの現憲法下の「政教分離」だとか「軍国主義の復活」などとは、妄想の押し付けでしかなく、「A級戦犯分祀論」もまた靖國神社への圧迫行為であり現憲法違反であるのは明らかである。

 世界のどんな国も「英霊」には最大の名誉が与えられているが、悲しいかな我が国はそうした当たり前のことが憚られている。

 これは所謂「東京裁判史観」による弊害だが、靖國神社の成り立ちを考える時、明治開国時の長州閥の施策にも疑問を呈さざるを得ない。

 靖國神社は明治2年、明治天皇の思し召しにより、「東京招魂社」として建立された神社であることは誰もが知るところ。

 その合祀対象は、三条実美の祭文に明示されている様に「皇軍に役立ちして、賊徒等を討たん其の義に・・・命果てぬる輩」に限られている。

 戊辰の役(戦争)では「西軍」と「東軍」は干戈を交えたが、「皇軍」という名の「官軍」と「賊軍」が戦った訳ではない。

 「賊軍」とは、維新後、明治新政府によって作られた造語である。

 この三条公の祭文の原則がある限り、また見直さない限り、会津藩や我が二本松藩、或いは「西南の役」での西郷軍関係者が祀られることはなく、未来永劫 「賊軍」の汚名が灌がれることはない。

 来週の4月28日は「主権回復の日」であり、東京裁判史観の払拭も大事だが、明治新政府の断行したあらゆる愚策の見直しも図るべきであろう。

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稽古とは一より習い十を知り十よりかへるもとのその一

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 「修業」や「稽古」とは、学問や技芸などを師から習い身に付けることをいうが、「修行」とは、それら修業や稽古で学んだものを、より向上させる為に肉体的、技術的、精神的に励み、磨くことをいう。

 「稽古」とは、「古(いにしえ)の道を考える」ということであり、師や先達に学ぶこともなく、また古の教えも知らないで修業は出来ない。

 稽古の「稽」とは「考える」という意味があり、「古書を紐解いて古人の教えを学ぶ」というのが「稽古」の本来の意味だ。

 千利休は「稽古」の何たるかを喝破し、こう訓える。

 「稽古とは一より習い十を知り十よりかへるもとのその一」

 稽古というのは、初めて一を習う時と、十まで習い元の一に戻って再び一を習う時とでは、人の心は全く変わっているものだ。

 「十まで習ったからこれでよい」と思った人の進歩はそれで止まってしまい、その真意をつかむことは出来ないとの教えている。

 稽古に稽古を重ね、一応全てを知り尽くしたつもりでいてもそれで満足すればそれまで。

 これは別に武道や習い事だけの話しではない。

 例えば読書だが、本というのは雑駁に数多く読むというのも必要だとは思うが、佳い本に巡り会えたなら繰り返し読むのが好い。

 別に続けて読めというのではなく、読む年代によって感じ方や捉え方が変わるもので、読み返すことで新たな発見を生むということは少なくない。

 眠い目を擦りながら読破して満足したと思っても、ちっとも頭になんぞ入ってはいないなんてことはよくある話で、その場で理解したと勘違いしてるだけに過ぎない。

 読書で大事なことは、気になった箇所や感ずる部分を書き出して、また実践出来ることは実践して体験してみることだ。

 体験すれば思う様に行かなかったり、失敗もするだろうが、別に悲観することなく自分で試行錯誤しながらも次に繋げれば好いこと。

 国士舘創立者の柴田徳次郎先生が「読書」「体験」「反省」「思索」の四つの理念を重んじたのはこういうことだ。

 大事なことは「十よりかえるもとのその一」という初心への回帰であり、「初心忘れるべからず」とは蓋し名言である。

 明治のナショナリスト・岡倉天心も、「歴史の中に未来の秘密がある。我々は、我々の歴史の中に、我々の未来の秘密が横たわっているということを本能的に知る」と、先達の教えに学ぶことの重要性を教えている。

 正統の保守主義者に於いて時間を体験する仕方は、過去の意味を直視し、その中に価値を見出す発見によって未来を創造して行くものである。

 安倍や自民党の改革を見た時、彼らの理想は「未来が全て」であり、これ即ち保守に非ず完全な自由主義者の発想であろう。

 人というのは、いざという時に的確な行動が出来る様にする為に学び、生きていると言っても過言ではなく、ただボーっと時を過ごすのではなく、日々の仕事を修行や稽古と思い励むことが大事である。

 まぁ、右翼浪人を気取ってはいるが、要は無職で怠惰な生活をしてる愚生が偉そうに宣ったところで真実味はありませんが(笑)

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2016年04月20日

暴力団を排除し遠ざけるのではなく、仁侠道の精神を叩き込め(笑)

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 今迄は、スマホとタブレットでFBやブログなどを更新したりしてたが、経費削減の折り、タブレットを解約し新しいスマホに機種変更した。

 保存していた画像をパソコンに取り込んだり、食べ歩きブログなどに転載しようと思うもこれが難しくて操作に四苦八苦しているが、まぁそのうち慣れるでしょ(笑)

 昨日の産経新聞の主張に、兵庫県公安委員会が山口組から分裂した神戸山口組を「暴力団対策法(暴対法)」に基づき指定暴力団に指定したことに触れ、「暴力団を排除し遠ざけよ」との論説が載っている。

 暴力団の撲滅は大いに結構なことだし、愚生もブログなどでも「暴力団は仁侠道に立ち返るべき」と暴力団追放を主張している(笑)

 「一般の社会生活が脅かされている」とし、清原の覚醒剤事件やバトミントン選手の闇カジノ店での賭博行為を関連付け、「これらの犯罪の背後には必ず反社会勢力の存在がある」と断じ、暴力団の壊滅を目指すべきだと主張する。

 愚生も元右翼団体員であり、一般からは反社会勢力と罵られもするが、反社会勢力が「悪」だというのなら、極左や日本共産党、民進党も立派な反社会勢力だろう(笑)

 暴力団の資金源を断つというが、仁侠というのは口入家業を生業にした肥後の武士で町奴・幡随院長兵衛(ばんずいいんちょうべえ)の江戸時代の初期から存在している訳で、そう簡単には滅びまい。

 尤も、最近のヤクザというのは「暴力団」そのもので、仁侠(任侠)道の欠片も無い守銭奴が多いのも確か。

 仁侠とは、「仁」に狂うことこそ大事で、「狂う」とは陽明学でいうところの「本気でやる」とか「一途に打ち込むこと」をいうが、つまり「仁侠」とは「仁狂」とも言えるのだ。

 親分に狂い、兄貴分に狂う。本気で仕え、ホンモノの男であろうと修行するものだが、それがよりによってカネに狂っちゃイケません(笑)

 また、「仁」とは己に克ち、他人を労わり、思い遣ることであり、つまり男気に熱く、弱い者を思い遣って助け、悪事を働く強き者を挫き、義の為には命を惜しまない気風を仁侠というが、それなら余っぽど愚生の方が仁侠だろう(笑)

 いつの頃からヤクザの間では「カネも器量のうち」などというのが当たり前になっていき、裏社会から表舞台へと登場して来る。

 日本人というのは義には篤いが、如何せん金儲けというのは下手なのが多い。

 その点、朝鮮人というのは商才に長けた者が多く、平成に入り、昭和の時代の古き良きヤクザは廃り、営利至上主義的暴力団が席捲する様になって行った。

 暴力団を排除するのは困難だろう。今のやり方では益々暴力団化、或いはマフィア化していくのではなかろうか。

 今どきのヤクザは、オレオレ詐欺などの特殊詐欺がシノギだというが、老人や弱い者を騙して仁侠だとは厭きれるばかり。

 やはり、暴力団も「暴力団」と断じられるのは悪因悪果であり、男気を求め家業入りした初心の思いを忘れることなく、「仁侠道」の精神に立ち返るべきだろうし、社会も「暴力団=恥ずかしい」、「暴力団☓、仁侠〇」という風潮を創り出したらどうだろう。呵呵。

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2016年04月19日

災難に逢う時節には災難に逢うがよく候・・・

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 地震もドカンとくれば驚きもするが、東日本大震災の震度6強を経験すれば、震度4や5程度では驚きもしない。

 小さな地震に一々驚いてたら本当に凄い地震が来たらパニックになると思う。兎に角、震度6は凄い揺れで、尋常な揺れではないので、自然と命を意識すると思います。

 何事も用心することは大事だが、小さな揺れに一喜一憂することなく、いつどこでも平常心で自然体でいることの方がもっと大事。

 因みに、「自然体」とは自由気儘、自分勝手、自分本位ということではなく、相手や状況に合わせることです。

 「災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。死ぬ時節には、死ぬがよく候。是ハこれ災難をのがるる妙法にて候」とは良寛和尚の金言である。

 災難に遭ってしまうということは誰でも起こり得ることで、それが何処でいつ起きるかは分からない。

 起こってしまった災難を取り消すことは出来ないし、災難に慌てふためいたりしてしまうと、パニックから過った対処をして災難を大きくしてしまうこともある。

 小さなことで慌てたり驚いたりしてばかりいれば、心の中で災難が大きくなってしまい、いざという時には冷静な判断は出来まい。

 起こってしまった不幸には、いつまでも立ち止まることなく、「こういう時もある」と受け容れることも大事であり、何より人間、なるようにしかならないものなのだから。

 逆境やピンチになると人間というのは潜在能力を発揮する。

 だが、その逆境やピンチから逃れようとする人は意外に多く、それだけ人間というのは弱い生き物でもあるのだ。

 だが、果して、どうにもならない運命などあるのだろうか。

 「一休さん」で有名な一休宗純は、忌の際に、弟子達に「自分が死んだ後、どうにもならないことがあったら、これを開けなさい」と遺言状を渡したという。

 やがて、彼の死後、弟子の中で大変困ったことが起こり、弟子達は師に救いを求めようとその遺言状を開けてみた。

 そこには一言、「大丈夫、なんとかなる!」と綴ってあったという。

 どうにもならない様なことは、自分でそう思ってしまっているだけで、実はそれほど大したことではなく、なんとかなるものなのだ。

 未来のことや、未だ起こりもしないことを一々気を病んでこじんまり生きて行くよりも、今を本気で懸命に生きるべきで、「一日一生」とはそういうことである。

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2016年04月18日

参議院とは貴族院の名残りであり、勅選議員でもあるのだが・・・

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 昨日の産経新聞に、イタリアの上院改革により「二院制廃止」という記事が載っていた。秋に行われる国民投票によって可決される見込みだという。

 我が国も「参議院不要論」や「一院制」の意見も儘に出るが、「それこそが大衆迎合主義」だとか、「衆議院の暴走を食い止めるには二院制は必要」という、尤もらしい意見を並べ立てられ有耶無耶にされて来た。

 本来、参議院とは「貴族院」の名残りであり、言い換えれば「勅選議員(ちょくせんぎいん)」でもあるのだ。

 旧帝国憲法下では、満30歳以上の男子で国家に勲功がある者や学識のある者の中から勅任された。

 だが、現在の参院議員に、天皇に選ばれたという意識など毛頭無く、こんな為体な参議院なんぞ廃止するのが賢明だろう。

 抑抑、参議院を「良識の府」というが、その良識とは政治的良識であり、政治的良心が備わっていなければならない。

 例えば、福島瑞穂や山本太郎だけではないが、彼奴らに政治的良識どころか一般的な日本人的良心も備わっているとはとても思えない(苦笑)

 他にも女優やらタレント、歌手、女子プロレスラーやら部落解放同盟、元朝鮮日報支社長やら元極左、日教組組合員やら不倫妻、議員そっちのけで金儲けに勤しんでた女子プロゴルファーのアホ親父なんてのもいたな(苦笑)

 ホント挙げたら限がないが、彼奴らに政治的良識なんぞ微塵も感じない。

 所詮は単なる数合わせと、単なる投票要員で、日本の政治家としての矜持を以て政(まつりごと)を司ることなど出来はしない。

 参議院は「衆議院のカーボンペーパー」と揶揄され、その存在意義が問われて久しいが、「戦争法案いらない」「原発要らない」「消費税要らない」というなら、参議院こそ要らないだろう(笑)

 申し訳程度に「議員定数の削減」を公約に掲げる政党は在るが、「参議院の廃止」を訴える政党はいない。

 過去には、日本維新の会(当時)の橋下も「一院制」を訴えていたが、いつの間にやらダンマリを極め込んでしまった。

 我が国の財源が危機的状況だというならば、先ずは政治家が模範を示すべきで「隗より始めよ」とはそういうことだ。

 政治家自身が自ら歳費などを削り、敢然と行財政改革を実行すれば役人も国民も右倣えするだろうし、国民から尊敬もされるだろうよ。

 イタリアで二院制が廃止すれば、政治経費は大幅に軽減されるばかりか、法案成立も迅速に進むのは明らか。

 我が国の政治審議の鈍さには定評があるが、我が国もイタリアに見倣って一院制にしたら如何だろうとは思うが、まぁ、党利党略、保身と次の選挙が最優先の我が国の政党や政政治諸侯には到底無理だわな(笑)

 因みに、イタリアの憲法は「平和主義」を始め日本国憲法と同じ規定が明記されている。イタリアの他にも、スペイン、ハンガリー、エクアドル、フィリピンも同様。

 福島瑞穂ら誤憲派は、日本国憲法を「世界で唯一の平和憲法」と賛美しているが、これこそ無知と驕り以外の何ものでもなく、こんな低レベルの参議院議員なんぞに給料をあげ続けてやるほど我が国は裕福ではない。

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2016年04月17日

「朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだ」という悪質なデマは摘発すべし!

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 熊本地震で犠牲になられた方々に対し衷心より哀悼の意を表します。

 「おいふざけんな、地震のせいでうちの近くの動物園からライオンが放たれたんだが」と書き込み、御丁寧にもライオンが街を徘徊する画像が添付されていたという。

 更には「イオンモール熊本で火災が発生」だとか、「朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだ」「熊本では朝鮮人の暴動に気をつけてください」「火事場泥棒を狙ってくる不届な国がすぐ近くにありますから」といったなどという悪質なデマが拡散しているという。

 当人らはシャレのつもりらしいが、相手に通じないシャレはシャレではなく、ホント、厭きれるというか怒りさえ覚える。

 こうした悪質極まるデマで思い出されるのは、大正12(1923)年9月1日に起きた関東大震災直後、住民が混乱する中で、「朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだ」「朝鮮人が暴動を起こした」などというデマが流され、そのデマを信じた日本人によって、東京や横浜で朝鮮人が殺害されたという事件だ。

 この経緯の真相を論じるつもりはないが、今回の悪質なデマを流した者は、こうした過去の事件を知っている愉快犯であり、歪な愛国心に傾倒してる自称・愛国者か、それともヘイトスピーチに便乗した自作自演か分からぬが、摘発して身元を曝すべきだと思う。

 国民の多くが被災地に思いを馳せ、犠牲者への哀悼を祈り、一日でも早い復旧と沈静化を願っているというのに、真に以て恥ずかしい限り。

 東京電力福島第一原発事故に絡み、悪質なデマや風評で厭な思いをしている福島県人としても、こういうデマはホント許し難い。

 放射線への影響も何の躊躇もなく「県民は普通に問題なく生活してる」と言えば、「それこそデマだ」とか「原子力ムラの連中に騙されてる」だのと全く聞く耳を持たない。

 揚げ句に「福島の人とは結婚するな」だとか「福島の人は子供を産むな」とまで差別され、存在自体が忌み嫌われる始末。

 こうしたデマや愚論に反論すれば、「原発を推進する財界の手先」だの「ニセ福島県民」だの「似非愛国者」だのとバカにされる。

 「それでも、福島の子供達はみな逞しく、明るく元気に生きている」と言えば、「そうやって子供を被曝させ、取り返しの付かない事態を招いている」だとか、「無責任だ」「親のエゴだ」などと非難される。

 デマを流す者、そのデマを信じた連中というのはホント始末が悪い。

 デマとは「流言飛語(りゅうげんひご)」をいうが、本来は「流言蜚語」と書く。

 デマとは、確証のない噂話や根拠のない煽動的な宣伝をいうが、「蜚」とは悪臭を放つ小さな虫の意味で、忌み嫌われる語彙だ。

 因みにゴキブリは「蜚蠊」と書くが、デマを流している連中は、正に愉快犯という名のゴキブリそのものだ。

 「流言は知者に止まる」というが、皆さんは大丈夫ですよね。呵呵。

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2016年04月15日

田母神さん、もう国政なんていいから来年の郡山市長選に出馬したら!

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 平成26年の都知事選を巡り、公職選挙法(運動員買収)容疑で田母神俊雄元航空幕僚長が東京地検特捜部に逮捕された。

 選挙前に運動員を買収したというのなら未だしも、選挙後の貢献度に応じた慰労金での逮捕というのも何か胡散臭げだ。

 逮捕前、田母神本人は「国家権力にはかないません」とtwitterで、負け惜しみともいえるツイートを流していたが、ああいうイヤミは己の値打ちを下げるし、第一みっともない。

 確かに、態態、東京地検特捜部が出張っていることを見ても何か裏が在るのだろうと推測するが、確信が無ければ逮捕はしまい。

 田母神元空幕長は郡山市田村町田母神地区出身で、同じ郡山市に住む小生としては誇りでもあった。

 その熱が醒めたのは、不倫関係(実質的には内縁の妻なのだろうが、日本では重婚は認められていない)を続けながら、妻との裁判でその妻へ罵詈雑言を浴びせたことだ。

 氏の経歴や思想信条を否定するものではないが、こういう女性関係での醜聞は聞くに堪えないもので、言いたいことはあったのだろうが、それらをじっと我慢して肚に納めておくべきではなかったか。

 田母神閣下に士(さむらい)を見ていただけに残念至極なことだった。

 夫婦というのは所詮は他人。何らかの事情で糟糠の妻と別れるのはいいが、別れた途端に新しい妻との写真を嬉しそうにアップして悦に入ってた某区議会議員がいるが、ああいう写真を自分の元妻や娘が見てどう感じるだろう。

 元妻や子供の気持ちも思い遣ることも出来ずに、他人を思い遣り、国や地方自治を正そうなどとは実に痴がましい。

 保守派を自任し、愛国者を気取るのならば、国民の模範的人物であらねばならず、私生活を含め峻烈に生きるべきだと思う。

 政治というのは最高の倫理であり、最高の道徳であらねばならず、政治家に求められるのは唯々「滅私奉公」の一つである。

 西郷隆盛もこう訓える。

 「万民の上に位置するものは、己を慎み、品行を正しくし、贅沢を戒め、倹約に努め、職務に努力して人民の見本とならねばならない。そして民衆がその働きぶりを見て『気の毒だなぁ』と思うようでなければならない」(南洲翁遺訓第四条)

 尤も、今どき「気の毒だなぁ」と思える政治家なんぞ見たことも無いし、滅私奉公なんてのは政治の世界じゃ死語だ(苦笑)

 話しが逸れたが、田母神氏が「日本は良い国だ!」といって航空幕僚長を解任されたのは記憶に新しい。

 米国を始めとする世界各国も、自分達の都合が悪いので表立って認めはしないが、我が国が一方的に世界を侵略したなどということが事実でないことは余程のバカで無い限り認識している。

 ところが本当のことを言った途端に、マスコミは作為的にこれを報じて国民世論を煽り、空幕長を守るべき自民党政府は大慌てで空幕長を解任し、野党は国会で吊るし上げ退職金の返納までも強要した。

 要するに、「日本は侵略国家、犯罪国家」とする東京裁判史観と見解を異にする意見に対しては、条件反射的に拒絶反応を示すのだろうが、これこそ滑稽という他はない。

 田母神氏が寄稿したアパ論文の冒頭はこう綴られている。

「米英蘭などとの戦争は、どう見ても日本の自衛戦争であり、またアジア開放の戦争であったと思っている人は多い。しかし、中国との戦争については中国の本土に軍を進めたのだから侵略だ、と思い込んでいる人が意外に多いようだ。しかしこれは完全な間違いである。条約に基づいて他国に軍隊を駐留させることは国際法的に全く合法であり、侵略ではない。日米安保に基づき日本に米軍が駐留しているのは(好き嫌いは別として)侵略ではないのである。逆に合法的に駐留している米軍を自衛隊が攻撃して戦争になった場合、それが日本国内で戦われたとしても、侵略者は日本ということになるのである。日本は『北京議定書』に基づき在留邦人保護のために軍隊を駐屯させていた。盧溝橋でその日本軍を攻撃してきたのが中国軍である。また上海で日本人保護のために合法的に駐留していた海軍陸戦隊に、正規軍10万人で一方的に攻撃を仕掛けてきて、日中戦争は本格化した。何れも中国軍が仕掛けたことであり、侵略者は日本ではなく『中国』なのである」

 愚生から言わせて貰えれば「中国」ではなく「支那」と呼ぶべきであり、「日中戦争」ではなく「支那事変」だろうが、田母神論文はこういう重要なことを教えてくれた。

 寛大な処分を下されるのを期待しているが、今後の人生は国政なんぞより、郷土の為に出来れば来年の郡山市長選にでも出馬しないかなぁ。呵呵。

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2016年04月12日

G7外相が広島平和公園を訪問し、原爆慰霊碑に献花!

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 G7(先進7ヶ国)の外相が昨日(11日)広島平和公園を訪問し、原爆慰霊碑に献花し、心新たに「核兵器のない世界」の実現に向け新たな歩みを始めた。

 広島平和公園内には、「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから」という意味不明の碑が建っている。

 「過ち」を犯したのは原爆を投下した米国だろうが、この碑に書かれた過ちとは「大東亜戦争」を意味するのは想像するに余りある。

 戦後の日本を象徴する自虐史観の象徴の様な碑だが、過ちを犯したのは米国であり、そういう意味では米国国務長官らがこの碑を訪れ、献花し、黙祷を捧げた意味は大きく、来月の伊勢志摩サミットで来日するオバマ大統領の決断を大いに期待したい。

 抑抑、米国による原爆投下は、日本人への人種差別と人体実験であるというのが正しく、その他の理由は付けたりに過ぎない。

 米軍による6日の広島、9日の長崎への原爆投下を受け、我が国政府は14日、終にポツダム宣言の受諾を決定した。

 この結果を見て、「原爆投下が戦争の終結を早めた」「原爆投下は日本人自身をも救った」という人がいるが、事実はそう簡単なものではない。

 元駐日大使だったグルー国務長官代理が中心になって作成された当初のポツダム宣言の原案には、「天皇制存続の保障」が盛り込まれていたのは確認されている。

 だが「天皇」とは天皇であって制度ではなく、「天皇制」とは共産党の造語であることをしても、米国も共産党同様に、我が国の天皇を「天皇制」と捉えていること自体、先の大戦がコミュンテルン(共産主義者)による策謀であったということが窺える。

 多くの戦死者、戦災者を出し、資産の大部分を失った先の戦争が勃発した原因を、我が国内では、大日本帝国憲法だとか統帥権や軍部、軍国主義に在ったと断じるが、それは余りにも安直過ぎるし、間違いだ。

 真の戦争犯罪人は近衛文麿と尾崎秀美(ほつみ)らそのブレーン達、即ち日本国内で蠢いていた共産主義者らであり、マルクス・レーニン主義という思想が昭和の悲劇を生んだということは今や歴史的事実である。

 大東亜戦争とは、ソ連コミンテルンと中国共産党、そして日本国内の共産主義者が仕組んだ共産革命の実現の為の争いであり、そのマルクス・レーニン主義者の策謀にまんまと嵌ってしまった愚かな戦争とも言えるのだ。

 米国側は、我が国政府が和平を模索していることを知っていたので、「天皇制」を保障する案なら受け容れる可能性が極めて高いと考えていた。

 ところが、反日的なスチムソン陸軍長官やバーンズ国務長官らは、元国務長官ハルの助言によって、この「天皇制存続」の項目をポツダム会議の直前で削除してしまう。

 即ち、「天皇の存続」の項目が明記されていないポツダム宣言は、我が国にとっては極めて受け容れ難い内容になっていたのは言わずもがな。

 そのことをよく認識していたトルーマン大統領は、ポツダム宣言発表前日(7月25日)の日記に、「この兵器(原爆)は今から8月10日迄の間に使用されることになる」と記した。

 この事実をしても、米国側が「日本政府がポツダム宣言を黙殺したから原爆が投下された」という反論が真っ赤な嘘であることは、この日記が明瞭に証明している。

 原爆を日本国土に投下することになった背景は、根強い人種差別と日本人への偏見であるというのは間違いない。

 米国が原爆投下を決定したのは1943(昭和18)年5月のことで、原爆搭載機を対日戦用のB29爆撃機を選んだ。

 翌年9月、米英間の秘密覚書「ハイド・パーク協定」には、「原爆は日本に対して使用されるであろう」と明記された。

 こんな不可思議な決定は、人種偏見、日本人蔑視以外に合理的根拠は見つからない。

 更に、その後の米軍の広島長崎で執った「放射能治療方法交流禁止」や「被爆者カルテ没収」など、目に余る人権蹂躪行為を見ると、「動物実験」としての原爆投下だったのではとすら思えて来る。

 トルーマン大統領の当時の日記には「ジャップどもは野蛮人で、冷酷、無慈悲且つ狂信的な連中だ」と綴られているが、この一言でも日本人への無理解と人種差別、日本人蔑視が米国首脳の間に横溢してたのは明らかだろう。

 無慈悲な原爆投下した米国の「核の傘」に甘んじ、国土の防衛という国家の大本を米国に依存しているこの歪な体制をいつまで続けるつもりなのか。

 集団的自衛権の行使は当然ながら、アジアと世界から核兵器が無くなるまで暫定的に保有する「核武装構想」を掲げることで、アジア諸国や世界の平和と安定に貢献出来るものだとの認識を共有すべきである。

 心の呵責無しに、核兵器を有する資格があるのは、世界で唯一の戦争被爆国である我が国だけであり、戦争被爆国である我が国が核を保有した上で、核の脅威と核廃絶を訴えることに大きな意味を持つ。

 「過ち」即ち「敗戦」を繰り返すことがあってはならない。

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2016年04月11日

岡田の崩れた面相が民進党の体質を現してはいる(笑)

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 「なんでも反対」を党是とする民進党。自分達に都合の悪いことは自分達の自説と解釈で責任回避。これが我が国の最大野党というのだから厭きれるが、我が国の不幸は未だ未だ続きそうだ。

 尤も、岡田の崩れた面相が党の体質を現してはいるが(笑)

 TPPの審議を、未だ出版もされてもいない西川TPP特別委員会委員長の著書を、恰も証拠の様に政府の情報開示を要求する。

 「印刷物の束」とは西川委員長の印刷物なのだろうが、本人は出版予定を認めておらず、それを閲覧して質問し、それを理由に国会審議を拒否するとは本末転倒。

 行政権を翳した検閲は日本国憲法第21条によって禁止されているが、野党議員と雖も節操というのは持つべきだろう。

 岡田は山尾政調会長の政治資金規正法違反(虚偽記載)や元秘書の横領についても「かなり明確に説明している」と説明責任を果たしたとの認識で、逆に代表質問での山尾議員の健闘を称え称えている。

 「おおさか維新の会」の松井一郎代表(大阪府知事)が発した核武装の議論に対しても、岡田は「(核武装)の議論は尽くされている。常識がある人なら理解している」などと批判しているが、いつ議論が尽くされたのだろう。

 「常識がある人なら理解している」という言い草が如何にも岡田らしいが、常識、取分け政治的良識が欠落している岡田に「常識」などと言われるとチョームカつく(笑)

 松井代表と若者との議論はこうだ。

 「完璧な集団的自衛権の方向に行くか、自国で全て賄える軍隊を備えるのか、今こそ政治家が議論しなければならない」と述べ、その上で「自国で武力を持つなら最終兵器が必要になる」と、安全保障環境次第では核武装も議論の対象にすべきだとの考えを示しただけで、これの何処が非常識なのか。至極真っ当な意見ではないか。

 産経新聞に拠れば、北朝鮮は、新型の大陸弾道ミサイル(ICBM)用高出力エンジンの地上噴射実験を成功したと伝えている。

 実験を視察した金正恩は、「新たな弾道ロケットにより、米国を始めとする敵対勢力に核攻撃を加えられる様になった」と表明したという。

 我が国は、北朝鮮による拉致事件に絡み、経済制裁を断行している訳で、要は北朝鮮とは敵対関係、否、経済封鎖という名の宣戦布告を行ったと同じである。

 近隣諸国にこの様な国が存在する限り、あらゆる想定を考慮するのは当然であり、態態此方から核武装論をも放棄し、手の内を曝す必要もない。

 要は、岡田御得意の、おおさか維新の会への嫉妬から来る御粗末な揶揄であり、参院選挙を見据えた党利党略に他ならない。

 「国歌君が代は民主主義に相応しくないので違和感を感じる。民主主義国家にふさわしい国歌があっていいんじゃないか」と言って憚らない岡田だが、民主党時代には「民主党に(票を)入れない国民はバカだ」 とも言い放っている。

 「なんでも反対!」のこうしたアホな野党が存在する限り、我が国の政治は三流、否、三流以下の存在の儘、国民の政治不信は極に達するだろう。

 それこそ、民進党に一票を投じる国民はバカとしか言い様がない。呵呵大笑。

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2016年04月09日

「政治資金規正法」は議会制民主主義の根幹を成す法律である

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 「保育園落ちた日本死ね!」との匿名ブログを引用し、国会で待機児童問題を取り上げ一躍有名になり、その論功行賞として民進党の政調会長に大抜擢された山尾志桜里だが、甘利追及で墓穴を掘った。

 これぞ民進党の御家芸ともいえるブーメランだが、「元秘書」への責任転嫁もまたこの党の伝統とも言えなくもない(笑)

 「政治資金規正法」は議会制民主主義の根幹を成す法律であり、政治資金の実態を偽ることは、国民を欺いて政治判断を歪めることに他ならない。

 繰り返される「政治とカネ」の問題は、ザル法と揶揄されるこの政治資金規正法の欠陥が要因に挙げられるが、日本国憲法と同じく、これもまた性善説に基いて成り立っている訳で、やはり政治家自身の心構えが大事である。

 山尾は元検事だというが、こういうことを知らなかったでは済まされないし、収支報告書を訂正さえすれば赦されるというものではない。

 こうした疑惑が浮上すると、それに比例して政治不信の増大を招く。

 地球何周分というガソリン代を自費で賄ってれば済むものを、何でもかんでも経費で落とそうという感覚が実にさもしい。

 抑々、政治家には歳費の他にも政党交付金が支給されてるが、それは国民の血税であるということを軽く見過ぎてるのではなかろうか。

 「政党交付金(政党助成金)」は、企業・労働組合・団体から政党・政治団体への政治献金を制限する代償として、細川政権時に導入された。

 細川はドイツの事例を挙げ、「ドイツでは国民がカネを出し合って政党を援助している。政治家がカネ集めに奔走しなくて済むし、何よりクリーンな政治を実現出来る」とこの制度を導入した。

 「政党助成法」が成立し、企業献金や政治資金パーティーは無くなり、政治家は国家国民の為に汗してくれるものと国民の誰もが思った。

 だが、現実は、企業献金も政治資金パーティーも無くならないばかりか留まるところを知らず、政治家共は政治資金集めに狂奔するばかり。

 これを政党交付金詐欺と言わず何という。

 政党交付金は、国会議員一人当たり約5000万円が支払われている。国民一人当たり換算で約250円、総額約320億円に上る。

 抑々、議員には歳費として年間2300万円、文書交通費1200万円、他にも公設秘書の給料や議員会館、議員宿舎など年間合わせて1億円以上の国費が計上されている。

 誰が見ても十分な金額だと思うのだが、欲の皮のツッパッた政治家共というのは流石に金銭欲が尋常ではなく、貰えるものなら何でもOK。でも、払うのはイヤ(笑)

 企業献金やら個人献金、政経パーティーは止むことはない。

 政党交付金は、政治活動の自由という観点から、政党交付金の使い道には制限が無ければ立法事務費も使途報告の必要もなく、解散時の返納する義務もない。

 民主党を解散し民進党を立ち上げたが、民主党に支給された政党交付金は返納されることなく、民進党に受け継がれた。

 正に「政党助成法」は国民をバカにした法律だったのだ。

 民進党が真に国民の声に耳を傾けるのなら、詐取した政党交付金を返納してからキレイゴトを言うべきだろう(笑)

 日本共産党は政党助成金を受け取らず、「政党助成法」の廃止を主張しているが、至極真っ当な認識で、敵ながら天晴れ。

 共産党以外の政党は、未だに恥じることなく「政党交付金」をいけしゃあしゃあと受け取っていることが、国民への背信行為や詐欺行為だとの認識はないのだろうか。

 政党交付金の趣旨は、企業、労働組合、団体からの政治献金禁止の代償であり、未だ企業団体献金や政治資金パーティーが無くならない現状を見れば、即刻廃止すべきであり、健全財政化を図るなら当然のことだ。

 「隗(カイ)より始めよ」という言葉がある。

 遠大な事をするには、手近なことから始めよ。転じて、事を始めるには先ず自分自身が着手せよという「戦国策燕策」郭隗の故事だ。

 政治資金の実態を偽ることは、国民を欺いて政治判断を歪めることに他ならない訳で、疑惑を持たれた政治家は、事の大小に拘らず、政治の世界から身を引くべきである。

 政治家は、隗より始めよ!

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2016年04月07日

外国人が日本人に感じるものは気品であり、洗練された礼儀正しさであり、寛大さである

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 昨今の生半可な言葉の洪水や片言のカタカナ外国語の氾濫にはうんざりしていたが、大いなる愚策である「観光立国」の影響から、最近ではそこに支那語やハングルの看板などが溢れているのだから呆れ甚し。

 国際化社会の時代だというのなら、それこそ日本語が創って来た素晴らしい日本文化に国民は回帰すべきだし、日本語に秘められた意味を世界に広めるべきだと思っている。

 日本語をロクに知りもせず、単なる流行で安易に横文字を使用しているが、抑々「流行」とは元々「病気」という意味で使用されていた言葉でもある(笑)

 外国人が日本人と交流して感じるものは気品であり、洗練された礼儀正しさであり、寛大さである。

 世界の何処を探しても、日本人の様な洗練された美を追求する高い創造性や質素な上品さに比肩するものは他にはいない。

 この様な日本の生活文化を支えているものが日本語なのだ。

 安易な横文字の使用は、先人達が長い歳月に亘り言葉に宿らせて来た重い意味を失わせてしまう。

 明治の先覚者は、外来語を全て新漢字に翻訳した。日本語のまま西洋文化を学ぶことが出来たことは偉大なことだ。

 現代人の様に外来語をそのまま羅列し、軽薄な舶来趣味と比べれば、明治人の気骨と気概、高い見識を伺い知ることが出来る。

 日本語に自信を持ち、何処までも日本語で主張し、日本文化を貫いたからこそ発展が得られたのだ。

 世界で今、数千万人以上の外国人が日本語を学び始めている。

 「世界平和」の実現を図る上で、日本語文化を世界に普及し、日本の「和」の心を伝えるというのは大いに効果があると考える。

 それには先ず、日本人自身が乱れた日本語を正し、学ぶことこそ大事であろう。

 因みに、品で支那(中共)でよく使われている「人民共和国、共産主義、共産党、革命、共和、左翼、唯物論、社会主義、右翼、演説、警察、芸術、自然、自由、新聞、鉄道、文学、歴史、教室、学生・・・」 

 こうした日常用語は、実は総て日本で作られた漢字だということは知られていない。

 人民日報の姉妹紙「環境時報」に拠れば、現在、中共で使用されている社会、人文分野の用語の実に約70%が、日本から導入された外来語(日本語)だというから嗤える。

 支那に於ける和製漢字語研究の第一人者である王彬彬は、「我々が使っている西洋の概念は、基本的に日本人が我々に代わって翻訳してくれたものであり、中国と西洋の間には永遠に日本が介在している」と正鵠を射た意見を述べている。

 我が国の漢字用語は、西洋の語彙を日本語に置き換えたもので、我が国の文化そのものと言っても良いだろう。

 支那人というのは、孔孟を笠に着せて大人(たいじん)を気取っているが、現実は日本人の様な芸当は出来ないし、そうした智慧もない。

 中共も「反日教育」徹底するなら、先ず「和製漢字」の使用でも禁止したら如何と思うが、今、中共が「和製漢字」を捨てることなど不可能だし、混乱を極めるだろう。呵呵。

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2016年04月06日

「教育」をカネの分配のみで語ることは本末転倒である

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 安倍首相は経済諮問会議でGDP(国内総生産)600兆円の目標達成に向け、具体策の検討を指示したが、その中に「育児クーポン」というのがある。

 民主党政権誕生の最大要因ともなった愚策の中に「子ども手当」というのがあったが、アレと大して変りない、ノンポリ主婦から一票を取り込むニンジンにしか見えないのはチョッと穿ち過ぎか(笑) 

 「給付型奨学金」もそうだが、外国人留学生、特に支那人留学生の厚遇を考えれば当然だし、足らない気もするが、将来の日本を託し、担っていく子供達への教育をカネの分配だけ片付け様とは本末転倒という他ない。

 だが、給付すれば何でもいいという訳には参らない。

 国旗掲揚もせず、国歌斉唱もしない大学への補助を止めるべきだし、それが国立大学や公立の学校ならば廃校も辞さないという覚悟も必要で、SEALDsの様なバカな左翼学生が生まれるのは学校の気風が関係している。

 そんな学生にも「給付型奨学金」は支給されるとしたら言語道断。

 因みに、「私学助成金制度」は明らかな日本国憲法違反だが、「安保関連法案は憲法違反である」と断じて憚らない護憲派や、「戦争法案反対!」などと叫ぶ勢力からはそんな声は聞こえて来ない(笑)

 政治家がやるべきは、子育て支援や授業料などの不安解消というのも大事かも知れないが、自国への誇りと自信の持てる教育を如何に施すかということが何よりも肝要。

 我が国は、政治家にしろ国民にしろ、経済至上主義に陥ってると言わざるを得ず、拝金主義の経済界に汚染された国民もまた同じで、日本精神の退廃は顕著である。

 この責任は果たして誰の所為なのか。

 有識者やマスコミが取り上げる胡散臭げな問題に一喜一憂し、問題が出れば、その萌芽は全て我が国に在ると貶し、貶め、それをマスコミ御用達のインチキ言論人が大騒ぎし、国民世論を煽り、攪乱する。

 経済界は営利至上主義に狂奔し、政治家は平身低頭し、事勿れ主義から謝罪を続け、頭にあるのは保身と次の選挙だけ。

 第三の権力であるマスコミは国益を擁護する気配など皆無で、国民の愛国心を蝕み、「マスゴミ」と揶揄される始末だ。

 迷えるものはつまらぬ宗教に走り、私利私欲の欲望に塗れている。

 「子ども手当」や「授業料の無償化」「高速道路の無料化」「年金」「医療費」「社会保障」... 国民は民主党時代からのばら撒き政策に慣れてしまい、「カネをくれ」「日本しね!」とは実に見苦しい。

 政治で大事なことは「国防」と「教育」の二つである。

 国防とは単に領土の防衛だけに非ず、国體、つまり皇統を死守することであり、自衛隊が国軍で在らねばならないのはそういうことだ。

 高邁な魂を喪失した我が国に最も必要なことは、将来を託し、そして担う子供達への教育内容を如何に充実させるかに尽きる。

 今の時代、「国防」や「教育」を充実させるのにも、「先ずはカネだろ!」という屁理屈が聞こえて来そうだ。呵呵。

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2016年04月05日

「巧言令色鮮矣仁(こうげんれいしょくすくなしじん)」」とは蓋し正論(笑)

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 孔子の言葉に「巧言令色鮮矣仁(こうげんれいしょくすくなしじん)」という教えがある。

 その意味は、「言葉巧みで、人から好かれようと愛想を振りまく者には、誠実な人間が少なく、人として最も大事な徳である仁の心が欠けている」というものだ。

 斯くいう愚生も、「巧言」というのは無きにしも非ずだが、「令色」に至っては、相手に気に入られようと機嫌を取ったり、笑顔を振りまく様なことはない。

 経験上、女じゃあるまいし、いつもニコニコと笑顔を見せるヤツにロクなヤツはおらず、性悪なのが少なくない。

 笑顔を振りまくタレントや選挙の時だけニコニコと笑顔を見せて握手してる政治家もそうだが、「笑うと目が無くなる男には気を付けろ!」というのは強ち間違いではない(笑)

 「巧言」といえば、FBにしろ、ネット上での記事や薀蓄を読むと、皆さん、ホント凄い。あれがホントなら皆さん天才(笑)

 趣味やくだらない話をその折折に入れるならその人となりも分かるというものだが、立派な記事ばかりを読んでみてもこちらに全く響いて来ないのは何故だろう?

 それは、つまり自分の言葉で語ってないからだと思う。

 自分の周りの人にしか通用しない理論や聞き齧った付け焼刃の薄っぺらい知識を難しく、或いは使い古された政治用語を斬新な言葉や理論であるかの様に語り自分自身に酔ってる輩を目にする。

 ネット右翼や自称・愛国者に多く見られるが、ああいうことでは世の中どころか、意見を異にする他人などを感化出来るとも思えないし、身内さえも賛同しないだろうし、それこそ贔屓の引き倒しというものだろう。

 愚生の知る右翼人もそうだが、上司や周りから好かれようと愛想を振りまく者が少なくなく、「巧言令色鮮矣仁」とは蓋し正論。

 愚生の場合、食べ物の好き嫌いは無いが、人の好き嫌いは激しく、好かれようなどとは思ったことも無い。

 若い頃ならこれも修行と我慢もするが、この歳になってまで歩調を合わせ様などとは思わないし、目も合わせない(笑)

 「巧言令色鮮矣仁」の対語は、「剛毅木訥近仁(こうきぼくとつじんにちかし)」。

 その意味は、「意思が強く強固で、素朴で口数が少ない人物が、道徳の理想である仁に最も近い者である」という教えだ。

 愚生は剛毅さはあると自負するが、朴訥には程遠い(笑)

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2016年04月04日

国士舘創立者・柴田徳次郎先生の「読書」「体験」「反省」「思索」の教え

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 読書量を自慢し、本棚に並ぶ本の多さに悦に入ってる人がいる。斯くいう愚生も、若い時分にはそういうこともあった様にも思う(笑)

 だが、読書量を誇ったところで意味はなく、本の中身の感ずる処を書き記し、自ら実践してみることが何より大事である。

 実践すれば失敗することが多いだろうが、その失敗を反省し、その失敗を次に繋げる糧とすることが貴重なのだ。

 国士舘の創立者・柴田徳次郎先生が、「読書」「体験」「反省」「思索」と、学ぶことで大事な四徳目を示しているのはそういうことだ。

 保守陣営などからは、道徳教育の拡充や戦前の「修身」復活の声も聞こえるが、これらは幾ら教えたところで、その教えを実践しなければ単なる画餅に帰すだけだ。

 道徳教育とは体育の授業と同じで、理論を教えることは大事だが、行動(運動能力)が伴わなければ意味はない。

 嘗ての我が国は、「教育立国」として明冶の試練と昭和の国難を乗り越えた。極貧の中から多くの偉人が輩出したのは立派な教育の故であろう。

 「坂の上の雲」で、父親が秋山兄弟に苦諌する場面がある。

 「好きで貧乏しているのではない。敢えて君等の将来を考えてやっているのだ。昔の偉人や英雄は極貧の中から生まれた。金持ちから偉人や英雄は生まれん」

 教育の原点とは意外とこんな処に在るのではなかろうか。

 現在はどうだろう。国民の勤勉性、家族愛、愛国心、信義誠実の原則は失われ、心の中の高貴なものを失い、高邁さを忘れ、在るのは自己中心性の欲望だけだ。

 高邁な魂を喪失した国民に最も大事なものは、将来を担う子供達への教育を如何に充実させるかは大事ではあるが、道徳教育や「修身」復活を願うなら、先ずは自らが実践して模範を示すことだ。

 画像の修身の一コマ、「おたけがめくらのてをひいて」の「めくら」は差別用語とされ、放送禁止用語だが、こうしたことを見ても「修身」復活は無理だろう(笑)

 愚生は映画が好きでよく観るが、「座頭市」や「眠狂四郎」とか古い映画ってのは、放送禁止用語が飛び交ってて実に面白い。

 盲(めくら)、唖(おし)、吃(ども)り、跛(びっこ)、聾(つんぼ)なんてのは日常会話の様にしょっちゅう飛び交う。

 古い映画や古典落語には差別用語だけではなく、懐かしくも美しい日本語が溢れていて、実に実践した教育でもある。

 「憚(はばか)り様でした」(ご苦労様です。恐れ入ります)
 「傍杖(そばづえ)を食う」(思わぬ災難に遭う)
 「荷が勝つ」(責任・負担が重過ぎる)
 「武士は相身互(あいみたが)い」(同じ立場の者は助け合うべし)
 「罪業(ざいごう)の深さ」(罪の原因となる行為)
 「浮世(うきよ)に拗(すねる」(世の中に逆らう)
 「卒爾(そつじながら」(人に声をかける時に言う語)
 「阿漕(あこぎ)な奴」(しつこくずうずうしい)
 「お為倒し(おためごかし)」(相手の為といいながら、自分の利益を図ること)
 「朝未(あさま)だき」(夜の明けきらない頃)
 「足元から鳥が立つ」(思いがけないことが起こる)

 挙げれば限がないが、余り馴染みのない言葉や台詞が出て来るが、こうしたことを気にしながら、観たり聴いたりするのは実に楽しいものだ。

 こうした難解な言葉を四六時中考え、気にしている訳ではないが、この「四六時中(しろくじちゅう)」という言葉も、昔は「二六時中(にろくじちゅう)」と言ってたそうだ。

 一日を十二刻(昼六時、夜六時)に分けていた時代には「二六時中」だったが、二十四時間になって「四六時中」に変わったというから面白い。

 言葉は移ろうものだが、どういう人がどういう風に使っているのかを知れば、また違った世界を知ることが出来る。

 道徳教育は大事であるのは言うまでもないが、その前に美しい日本語を教えることこそ肝要である。

 英語なんていう田舎言葉を教えてる場合じゃないぞ(笑)

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2016年04月02日

中韓外交と同じで公明党に譲歩すれば更なる譲歩を生むのは明らか

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 自公連立の政府与党は、公明党の申し入れもあり、夏の参院選挙を考慮し、衆院憲法審議会の開催を見送る方針を決めた。

 これ即ち、連立を組む公明党からの反対という口実と、バカ左翼らによる安保関連法案反対議論回避の党利党略に他ならない。

 今迄、憲法改正が成し得なかったのは、こうした「憲法改正は票にならない」との旧態依然の陋習に因る処が大きい。

 政治を知ってる人の一票も、ノンポリの一票も一票に変わりはなく、態態危険な賭けに出るよりは、一票確実なニンジンをぶら下げて党勢拡大に繋げようとする邪なものであって、要は国民をなめきってるということだ。

 性悪な中韓との外交と同じで、人品卑しい公明党に譲歩すれば更なる譲歩を生むのは明らかで、安倍首相はこうした雑音を排し、憲法議論を活発化させるべし。

 それにしても、保守を標榜する自民党と、極めて戦後民主主義的且つ反国家的な創価学会の出先機関でしかない公明党が、政府与党の一翼であるということは我が国體から鑑みて異常としか言い様がない。

 創価学会は宗教団体というより、学会員の現世利益を追求する社会運動体であり、公明党はそれを政治的に実現する為の組織でしかなく、究極の目的は、日本を「池田王国」にして、池田を日本の国主にすることだ。

 創価学会の支援を受けて当選した議員は、「学会員の為に政治をやれ」と指導を受ける。つまりは創価学会のの頂点に君臨する「池田太作名誉会長の現世利益の為だけに命がけでやれ」という命令なのだ。

 公明党の売国性は、「外参権付与」「自虐史観」「反靖國」「反天皇」と挙げれば限が無いが、政治は勿論のこと、経済、文化、教育、司法と、今や創価学会は巷に蔓延し、我が国と国民精神を蝕み続けている。

 池田太作こと池田大作の父方の本名は「成田作(ソン・ジョンチャク)」、母方の姓は「池(チ)」、これを併せれば「池田作」。

 「作」だけじゃ小者っぽいということでそれに「大」を付け、「池田大作」としたというが、本名は「大」に鼻クソが付いて「池田太作」だと洩れ伺った(笑)

 池田こそ国内最大の国賊と断じても過言ではないが、池田如きを崇め奉るこうした連中と保守を標榜する自民党が連立を続けていること自体、国益を大きく毀損しているしていることを何故に分からないのか。

 自民党よ、保守を自任するならば自公連立を解消せよ!

 そういう意味でも、今夏行われる参院選挙は国民の政治的良識が試される選挙でもあり、政党や候補者の中身も知らないで一票を投じることがあってはならない。

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2016年04月01日

今日、卯月朔日を「月齢」で表すと「下弦(かげん)」となる

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 今日から卯月、朝まだきから身を清め、神饌を新しくし、畏くも陛下の弥栄を念じ、併せて心願成就を祈念する。

 半月毎の季節の移ろいを表した「二十四節気(にじゅうしせっき)」というのは知ってるだろうが、五日毎に分けて表したものに「七十二候(しちじゅうにこう)」というものがある。

 「七十二候」は、支那から伝わったものを我が国の四季折々の風土に合わせ改訂され、明治7(1874)年には「略本暦(りゃくほんれき)」が出され現在に伝わっている。

 芒種次候(第26候)「腐草為蛍(かれたるくさほたるとなる)」は「枯れた草が蛍になる」という意味だが、「どうも嘘っぽい」との理由で明治16年の暦ではこの候だけが外され、明治17年からは「七十二候」そのものが暦から削除されてしまった。

 今の時期、七十二候では「玄鳥至る(つばめいたる)」となるが、確かに桜が散り暖かくなった地方には燕も来るだろうが、東北の春は未だ未だ先の話しだ。

 西暦とは別に、我が国には「元号」が在る。

 節季の習俗を時代の流れに応用する先人の智慧であり、これこそが我が国文化を象徴するものだろう。

 歴史・伝統・文化を否定する左翼陣営は、旧暦を否定し、西暦が世界で一般化しているとして「西暦一元化」を謀った。

 「元号」に関しても「時代遅れだ」として反対を唱えているが、これ即ち、反天皇論からのものであるのは言うを俟たない。

 「反米」を唱える左翼らが、キリスト生誕を起源とする西暦のみを有難がって推進し使用しているというのも滑稽なことだ。

 明治維新を成し遂げた我が国は、西洋を模し西暦を採用したが、あの混乱の時代でも「元号」を捨て去らなかったのは、「大化の改新」の昔から我が国の国民生活に深く定着していたからに他ならない。

 聖徳太子の時代より歴代の天皇は、数年から十年を目途に改元することで巧みに時代転換を成して来た。

 江戸末期に即位された孝明天皇は、御在位21年の間に「嘉永」「安政」「万延」「文久」「「元治」「慶応」と実に6回も改元されたのは、混乱のあの時代を如何に転換させ安寧を図るかの苦衷の現れであろう。

 本来ならば西暦と共に旧暦を復活させ、「元号」と「皇紀」、「二十四節季」や「七十二候」、「月齢」などと併用すれば、季節の移ろいや、休日の意味など、日本という地に生を享けた者として実に分かり易いと思う。

 今日は「月齢」でいうと「下弦(かげん)」。

 「下弦」とは、満月から新月に至る中間の月をいう。「半月」は別名、「弓張り月」或いは、「弓月」と呼ばれるが、古の人は、月の形を弓に見立てた。

 その弦に当たる欠けが上を向く場合を「上弦の月」、下を 向く場合を「下弦の月」と呼んだが、こうしたこと一つでも浪漫を感じませんか?

 現代版「略本暦」を創り、普及したいものだ。呵呵。

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cordial8317 at 07:50|PermalinkComments(0)