2015年12月

2015年12月30日

安倍に何を期待し、何をそんなに怒ってるの(笑)

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 日韓外相会談での、日韓両国による最終的且つ不可逆的解決合意は、果してどういう結果を齎すのかは不透明だが、安倍政権下で実行されてきた数々の施策を見ればこうした決着は想像出来た。

 安倍というのは、ベターなだけでベストな首相ではない。

 自民党が「でもしか政党」と揶揄される様に、所詮は「安倍より他はいない」程度のものでそれに期待しているのが間違い。

 何事も「崇拝」し過ぎるというのは好い結果を生まない。

 自分が尊敬している先生や著者の本は、書いてある事が全て正しいと思いがちだが、信じ込み過ぎないことも大事なことだ。

 愚生はブログなどでも幾度となく、「新自由主義を盲信し、経済至上主義に奔る安倍を見ていると、吾、疑心暗鬼どころか、屋上屋を架す大馬鹿者だと断言せざるを得ない!」と安倍を評してきた。

 過去の国会答弁を見ても分かる様に、安倍は、「河野談話」や「村山談話」と同じ歴史認識を披歴している訳で、慰安婦問題にしても今になって「軍の関与」を認めた訳ではない。

 終戦記念日の戦没者追悼式に於いても、「心ならずも戦場で斃れ」だとか、「多くの国々、とりわけアジアの諸国の人々に多大の損害と苦痛を与えて来た」と語っていたではないか。

 安倍の掲げる「戦後レジームからの脱却」なんぞ自称・保守派を誑かす画餅に過ぎないということは、日韓外相会談を見ずとも分かることだ。

 安倍は「喩え正論であっても、それを言ってしまえば政治家としては失格」と憚って止まないが、要は己の信念を貫き通す様な覚悟に乏しい旧態依然の政治家だということだ。

 前々回の総選挙前、安倍は前政権下での靖國不参拝を問われ、「断腸の思い」とその悔しさを滲ませたことを国民は忘れてはいないし、そういう安倍の無念さに国民は共鳴し支持したのだ。

 なのに何故、「とりわけアジアの諸国の人々に」などという戯言を抜かすのか。安倍の言行は靖國など見向きもしない政治家より悪質で始末が悪い。

 まぁ見方を変えれば、慰安婦問題というのは韓国側が捏造したものではなく、日本側が焚き付けた問題であり、その落としどころを誰かがやらねばならず、その役目を安倍が行ったと思えばいいだけの話し。

 宮沢喜一や村山富市ら総理大臣らが謝罪し、鳩山由紀夫も総理として「国家補償」を約束し、「戦後賠償支援」を言及していた様に、日本側が国家として「謝罪」も「約束」もしている訳だから、韓国が賠償請求するのは当然のことといえば当然のこと。

 韓国側を単なる強請り、タカリと言ってもいられない現実が厳然と存在してしまったことは、政治家だけでなく我々国民も猛省すべきだろう。

 敵は外患に非ず、内憂に在り!

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2015年12月27日

「戦争」とは相手を征服することであり、「征服」とは掠奪であるという

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 所謂「従軍慰安婦」問題の年内解決に向け、日韓外相会談が行われる。

 韓国側が「慰安婦問題」で強請りタカリに奔るのは、朝鮮人の人品の低さも然ること乍ら、歴代日本政府の無知と事勿れ主義、更には弱腰外交が要因になっていることは否定出来ない。

 朝日新聞が捏造した慰安婦問題を、自民党の宮沢内閣下で加藤紘一官房長官が事実を認め、次の官房長官に就いた河野洋平が「談話」を発表したことで韓国人慰安婦を付け上がらせる原因を作った。

 更に「村山談話」で火に油を注ぎ、その後の自民党政権下でもこれらを撤回せず黙認し、民主党売国政権誕生で、鳩山由紀夫が総理大臣として「国家補償」を約束し、前原誠司幹事長もまた「戦後賠償支援」を言及した。

 慰安婦問題は、日本側が国家として「謝罪」も「約束」もしている訳だから、韓国にしてみたら賠償請求するのは当然であり、単なる強請り、タカリと言ってもいられない現実が厳然と存在してしまったのだ。

 今回も、慰安婦問題の早期解決を焦る余り、過去と同じ轍を踏み、安易な譲歩や妥協をすることがあってはならない。

 「戦争」とは相手を征服することであり、「征服」とは掠奪であるという。

 7世紀に興ったイスラムでは「略奪」は正しいと教え、中でも最高の戦利品は「女」だった。

 女を奪い犯すことは、その国家、民族の純粋性を奪い、征服者の血を入れることで征服が完結する。

 征服の定義とは、正に「掠奪」と「強姦」の歴史なのだ。

 斯くて世界中の民族、国家は万古不偏、この定義に従って戦争して来た。

 例えばロシア人は第二次世界大戦末にベルリンに侵攻し、僅か半年の間に13万人のドイツ女性を強姦し、うち1万人を孕ませた。

 8千人は堕児出来たが、2千人は「目が寄った額の狭いロシア人顔」の混血児を生んだ。

 13世紀、欧州迄攻め込んだ蒙古人はイランやロシアに混血児を残し、生まれた子供に蒙古系の血が出るとその子は社会から排斥された。

 米国人もロシア人と同じで、第二次世界大戦に参戦すると英国で400件の強姦を働き、欧州戦線では1万4千件の強姦を記録している。

 現在も、チベットやウイグル、内蒙古で漢民族が相手民族に対し「民族浄化」という陵辱の限りを尽しているのは周知の事実だ。

 無条件降伏した日本国内でも、米国人もロシア人ももっと残酷に振舞い、民家に押し入り妻や娘を強姦し、抵抗すれば殺した。

 調達庁の記録では実に2600人を超える人が殺されている。

 だが、こうした世界とは違った国が存在した。

 それが日本だ。

 我が国だけは日清戦争の昔から、「掠奪」と「強姦」を軍律で厳しく規定し、規定を破った者は厳しく処罰された。

 しかし、生きるか死ぬかの戦場で、若い兵士に生理的なものにまで我慢を強いるのは逆に統率を失うと、街に在る「遊郭」で息抜きをさせた。

 その遊郭で働いていたのが慰安婦であって、売春婦が戦場迄出張ることは当時は当り前のことだったのだ。

 ジェームスディーンの映画「エデンの東」に、開拓時代にワゴンで売春婦が街を巡回する情景が出るが、アレと同じだ。

 戦場に遊郭を建て兵士に息抜きをさせるのは肝心で、これはまた当地での性犯罪を防ぎ、相手民族の尊厳を最低限保つことでもあったのだ。

 こうした日本人の配慮を知らずして、高給に集った売春婦を「従軍慰安婦」と称し、恰も軍が関与し、朝鮮人の女性を強制連行し名誉を傷付け「性奴隷」にしたとは言語道断という他は無い。

 1951年から61年にかけて、「東亜日報」にUN軍相手の慰安婦募集の記事が載っているが、これはどういうことか。

 韓国に駐留する国連軍に、韓国が国家として慰安婦の提供をしていた事実を報じたもので、韓国こそ、国ぐるみで他国の軍隊に慰安婦を斡旋しているのではないのか。

 こうした事実には口を噤み、ライダイハン問題には沈黙し、我が国の慰安婦問題だけを騒ぎ立てることに矛盾と羞恥心は感じないのか。

 「従軍慰安婦」や「強制連行」が嘘だということは最早、朝鮮人自身でさえも判っているのに、何故か我が国の政治家だけは知ってか知らずか、懲りもせずにその嘘に付き合い続けている。

 安易な譲歩や妥協は、更なる譲歩や更なる強要を生むと同時に、我が国の繁栄と平和の礎となった英霊や先人の名誉さえも貶めることを自覚せよ。

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2015年12月25日

日本共産党のソフト路線に騙されるな!

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 日本共産党は、来年1月4日に召集される通常国会から、今迄、日本国憲法第一条の「国民の総意」を理由に、「天皇は違憲の存在である」と断じ、所謂「天皇制反対」の立場から欠席していた開会式に出席する意向を示した。

 ソビエト連邦崩壊後、東欧では「マルクスレーニン主義」を捨て去り、党名も変更した。

 合法政党の地位を有しつつ、未だに堂々と「共産党」を名乗っている存在は先進国の中では「中国共産党」と、恥ずかし乍ら「日本共産党」だけ。

 日本共産党は、所謂「天皇制」を容認してはいるが、「憲法の天皇条項は民主主義の徹底に逆行する弱点」だとし、綱領では「君主制廃止」の文言は削除してはいない。

 何故なら「天皇制廃止」は、共産党革命政権樹立後の問題であるからだ。

 保守勢力は憲法改正に躍起だが、部分改正が可能になれば、万が一、共産党政権が樹立したならば第一条を始めとした天皇の条項は廃止される危険が孕んでいるということも自覚せねばならない。

 大日本帝国憲法(欽定憲法)の復元改正こそ目指すべきである。

 抑々、この「天皇制」という言葉だが、これは専制君主であったロシアの皇帝を念頭に、「打倒すべきもの」として創られた共産党の造語である。

 だが、我が国の「天皇」は天皇であって「制度」ではない。

 日本共産党は、大正11(1922)年7月15日に、「コミンテルン(共産党インターナショナル)」の日本支部として誕生した。

 コミンテルンは、ロシア革命の指導者・レーニンが創設した共産主義の国際組織であり、レーニンの死後はスターリンが実権を掌握した。

 日本共産党はコミンテルンによって創られ、財政的援助を受けて維持され、壊滅する度に再建されたが、その歴史は暴力革命を標榜する売国政党に他ならない。

 共産党は、テロ、リンチ、スパイ、陰謀等々その毛もよだつ様な本質を覆い隠す為に、「国民の自由を守る」かの様なソフト路線を展開している。

 だが、国民は想起せよ。ソ連共産党崩壊後の暗黒一党独裁を。中共の文化大革命での人民殺戮を。金日成やポルポトの粛正の嵐を。

 国内に於いても、宮本顕治らによるリンチ殺人事件は有名だろう。

 昭和8年12月23日、党内のスパイと疑って小畑達夫と大泉兼蔵を渋谷区幡ヶ谷のアジトに呼び出しリンチ。スパイと自白しなかった小畑を殺した。

 犯行は宮本の他、袴田里見、逸見重雄、秋笹政之輔らの犯行だった。

 治安維持法違反・不法監禁致傷・不法監禁・傷害致死・死体遺棄・銃砲火薬類取締法施行規則違反で無期懲役に処された宮本顕治が日本共産党の委員長だったというのだからその特異性が解るというものだろう。

 また、武装闘争による「中核自衛隊」を組織し、警察や米軍を襲撃している。

 交番への襲撃も相次ぎ、「伊藤巡査殺害事件」や、札幌警察署警備課長白鳥一雄警部が狙撃され死亡した「白鳥事件」がそうだが、白鳥事件の実行犯2名は、事件後、中国共産党を頼り逃亡し、客死したとされている。

 皇居前広場でのデモ「血のメーデー事件」「曙事件」「あさま山荘事件」「三菱重工ビル爆破事件」「テルアビブ空港乱射事件」等等、その暴力性は挙げたら限が無い。 

 共産党の歴史を遡れば、昭和47年の総選挙で日本共産党は、14議席から40議席に躍進し、日本社会党に次いで第二野党となった。

 自民党政府はこれに危機感を抱き、「社会主義(共産主義)には自由がない」とし、「自由社会を守れ」キャンペーンを行った。

 これを受けて、共産党は昭和48年の党大会で綱領の一部を改訂し、「労働者階級の権力、すなわちプロレタリアート独裁の確立」という文言の「独裁」を「執権」に変更した。

 昭和51年の臨時党大会では、綱領の「プロレタリアートの執権」の文言を削除し、「労働者階級の権力」のみにし、「マルクス・レーニン主義」という用語も「科学的社会主義」に置き換えた。

 だが、日本共産党の実態は、「マルクス・レーニン主義」の教義に基いての「暴力革命」と「プロレタリアート独裁」の思想は変わってはいない。

 共産党は、頻りに「民主主義」を宣うが、共産党政権下では、「自由」が保障されることが無いことは歴史が証明する処であり、民主主義は存在しない。

 共産党のいう「民主主義」とは、あくまでも組織原則は「中央集権制」が主であって、民主主義は飾りに過ぎない。

 「日本共産党の誇るべき組織原則である民主主義的中央集権制(民主集中制)」と自ら記してある通り、反主流派は存在してはならず、党員同士の横の繋がりは「分派活動」として禁止されているのだ。

 とすれば、SEALDsとの連携も中央からの指示で動いていると推測出来る。

 共産党綱領には「君主制廃止」が明記されているが、1932(昭和7)年、ソ連共産党から日本共産党へ、「コミュンテルンテーゼ(命令書)」という指令が出されたことは歴史的事実である。

 その中には「天皇制廃止運動」というものが記されている。

 昭和時代には、頻りに「天皇の戦争責任・退位論」が論じられたが、これも所謂「天皇制廃止運動」の一環であり、命令書の忠実な実行である。

 つまりは天皇を制度と捉えた「天皇制打倒(廃止)」の運動は未だ続いており、今回の国会開会式への出席表明は国民を誑かす手段でしかない。

 ここへ来て、安保関連法案の成立や憲法改正に躍起な自民党のタカ派路線に対抗するかの様にソフト路線をアピールし、それが功を奏し支持拡大に繋がっているが、国民は断じてこうした共産党に騙されてはならない。

 天皇を族長と仰ぐ我が国の正統にとって悉く異質な存在が日本共産党であり、国内に巣食うあらゆる共産主義を根絶させねばならない。

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2015年12月22日

東条英機遺言書。刮目して拝読為れたい!

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 昭和23年12月22日夜、死刑執行の数時間前に、東京巣鴨において、教誨師の花山信勝師の前で東条英機が遺言書を朗読した。以下転載。(一部校正してます)

 開戦の時のことを思い起こすと実に断腸の思いがある。

 今回の処刑は個人的には慰められるところがあるけれども、国内的の自分の責任は、死をもって償えるものではない。

 しかし国際的な犯罪としては、どこまでも無罪を主張する。力の前に屈した。

 自分としては、国内的な責任を負うて、満足して刑場に行く。ただ同僚に責任を及ぼしたこと、下級者にまで刑の及びたることは、実に残念である。

 天皇陛下および国民に対しては、深くおわびする。

 元来、日本の軍隊は、陛下の仁慈の御志により行動すべきものであったが、一部あやまちを生じ、世界の誤解を受けたるは遺憾である。

 日本の軍に従事し、倒れた人および遺家族に対しては、実に相済まぬと思っている。

 今回の判決の是非に関しては、もとより歴史の批判に待つ、もしこれが永久の平和のためということであったら、もう少し大きな態度で事に臨まなければならぬのではないか。

 この裁判は、結局は政治裁判に終わった。勝者の裁判たる性質を脱却せね。

 天皇陛下の御地位および陛下の御存在は、動かすべからざるものである。

 天皇陛下の形式については、あえて言わぬ。存在そのものが必要なのである。

 それにつきかれこれ言葉をさしはさむ者があるが、これらは空気や地面のありがたさを知らねと同様のものである。

 東亜の諸民族は、今回のことを忘れて将来相協力すべきものである。

 東亜民族もまた他の民族と同様の権利をもつべきであって、その有色人種たることをむしろ誇りとすべきである。

 インドの判事には、尊敬の念を禁じ得ない。これをもって東亜民族の誇りと感じた。

 今回の戦争にて、東亜民族の生存の権利が了解せられはじめたのであったら、しあわせである。列国も排他的な考えを廃して、共栄の心持ちをもって進むべきである。

 現在の日本を事実上統治する米国人に一言するが、どうか日本の米国に対する心持ちを離れしめざるように願いたい。

 また、日本人が赤化しないように頼む。

 東亜民族の誠意を認識して、これと協力して行くようにしなければならぬ。

 実は、東亜の多民族の協力を得ることができなかったことが、今回の敗戦の原因であると考えている。

 今後日本は米国の保護の下に生活していくのであるが、極東の大勢はどうであろうか。終戦後わずかに三年にして、アジア大陸赤化の形勢はかくのごとくである。

 今後のことを考えれば、実に憂なきを得ぬ。もし日本が赤化の温床ともならば、危険この上ないではないか。

 日本は米国よりの食糧その他の援助を感謝している。

 しかし、もしも一般人が自己の生活の困難や、インフレや、食糧の不足などを米軍の日本にあるがためなりというような感想をもつようになったならば、それは危険である。

 実際にかかる宣伝をなしつつある者もあるのである。よって、米軍は日本人の心を失わぬように注意すべきことを希望する。

 米国の指導者は、大きな失敗を犯した。

 日本という赤化の防壁を破壊し去ったことである。

 いまや満州は赤化の根拠地である。朝鮮を二分したことは東亜の禍根である。

 米英はこれを救済する責任を負っている。従って、その意味においてトルーマン大統領が再任せられたことはよかったと思う。

 日本は米国の指導にもとづき武力を全面的に放棄した。

 それは一応は賢明であるというべきである。

 しかし、世界が全面的に武装を排除していないのに、一方的に武装をやめることは、泥棒がまだいるのに警察をやめるようなものである。

 私は、戦争を根絶するには、欲心を取り払わねばならぬと思う。

 現に世界各国はいずれも自国の存立や、自衛権の確保を説いている。これはお互いに欲心を放棄していない証拠である。

 国家から欲心を除くということは、不可能のことである。

 されば世界より戦争を除くということは不可能である。結局、自滅に陥るのであるかもわからぬが、事実はこの通りである。

 それゆえ、第三次世界大戦は避けることができない。

 第三次世界大戦において、おもなる立場に立つものは米国およびソ連である。

 第二次の世界大戦において、日本とドイツが取り去られてしまった。

 それゆえ、米国とソ連が直接に接触することになった。

 米ソ二国の思想上の相違はやむを得ぬ。この見地からいうも、第三次世界大戦は避けることはできぬ。

 第三次世界大戦においては、極東がその戦場となる。

 この時にあたって、米国は武力なき日本をいかにするのであろうか。

 米国はこの武力なき日本を守るの策をたてなければ、また何をかいわんや。そうでなしとすれば、米国に何らかの考えがなければならぬ。

 米国は、日本八千万国民の生きてゆける道を考えてくれねばならない。

 およそ生物としては、生きんことを欲するのは当然である。産児制限のごときは神意に反するもので、行うべきではない。

 なお言いたきことは、最近に至るまで戦犯容疑者の逮捕をなしつつある。

 今や戦後三年を経ておるのではないか。新たに戦犯を逮捕するというごときは、即時にやめるべきである。

 米国としては、日本国民が正業につくことを願い、その気持ちでやって行かなければならぬ。

 戦犯の逮捕は、我々の処刑をもって、一段落として放棄すべきである。

 戦死傷者、抑留者、戦災者の霊は、遺族の申し出があらば、これを靖国神社に合祀せられたし。

 出征地にある戦死者の墓には、保護を与えられたし。

 従って遺族の申し出あらば、これを内地に返還せられたし。

 戦犯者の家族には、保護を十分に与えられたし。

 青少年の保護ということは、大事なことである。

 近時いかがわしき風潮は、占領軍の影響からきているものが少なくない。この点については、わが国古来の美風をも十分考慮にいれられたし。

 今回の処刑を機として敵、味方、中立国の罹災者の一大追悼会を発起せられたし。

 もちろん、日本軍人の間に間違いを犯した者はあろう。

 これらについては衷心、謝罪する。

 これと同時に、無差別爆撃や原子爆弾の投下をなしたことについて、米国側も大いに考えなければならぬ。

 従って、さようなことをしたことについては、米国側も大いに悔悟すべきである。

 最後に軍事的問題について一言するが、我が国従来の統帥権独立の思想は確かに間違っている。あれでは陸海軍一本の行動はとれない。

 兵役については、徴兵制によるか、傭兵制によるか考えなければならぬ。

 我が国民性を考えて、再建の際に考慮すべし。

 教育は精神教育を大いにとらなければならぬ。

 忠君愛国を基礎としなければならぬが、責任感をゆるがせにしてはならぬ。この点については、大いに米国に学ぶべきである。

 学校教育は、人としての完成を図る教育である。

 従前の醇朴剛健のみでは足らぬ。宗教の観念を教えなければならぬ。

 欧米の風俗を知らせる必要もある。俘虜のことについても研究して、国際間の俘虜の観念を徹底せしめる必要がある。

 以上が、死刑執行の前日に朗読した遺言書の摘要である。

 今を生きる我々は、改めて、先人が国家の命運を賭けて戦った大東亜戦争の真実と意義を考えねばならない。合掌。

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2015年12月19日

死刑制度を存続し、国が被害者に代わり死刑の執行という仇討ちを断行すべし!

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 平成21年に川崎市で3人が殺された事件の犯人と、平成18年に岩手県で起きた母娘殺害事件の犯人に対する死刑執行が行われた。

 極めて妥当だが、刑事訴訟法では、死刑確定から六ヵ月以内の執行を定めており、何れも六ヶ月以内に検察庁が法務大臣に「死刑執行上申書」を提出し、規定通り押印し、法相の命令から5日以内に執行されなければならない。

 こうしたことを鑑みれば執行は遅きに付した感は否めない。

 日本人というのは「赤穂浪士」を筆頭に、画像の「柘榴坂の仇討ち」、或いは「必殺仕置き人」の様な悪党をやっつける芝居というのが好きだ。

 今の時代、仇討ちなんて出来はしないが、その仇討ちの代わりになるものが死刑制度である。

 我が国の死刑制度は「仇討ち禁止令」や「決闘禁止」に代わるものとして、明治6年(1873)2月、司法卿・江藤新平が「復讐禁止令(仇討ち禁止令。太政官布告第37号)」を発令した。

 幕末から維新期の派閥、政論の対立による暗殺とその報復という面があったところから、この種の紛争を断ち切る為のが目的だった。

 明治22年には「決闘罪ニ関スル法令」も発布され、敵討ちや復讐は禁じられた。

 主君や親兄弟などを殺した者を討ち取って恨みを晴らすことは、日本人の美意識の顕れであり、赤穂浪士が称えられるのもその為ともいえる。

 江戸時代には武士階級の慣習として公認され、「敵討ち」と認められれば罪に問われなかったばかりか、それは美化され大衆の支持を得た。

 現代でも「死刑制度」を容認する国民が80%以上もいるのは、国が遺族に代わって遺恨を晴らして欲しいという気持ちの顕れに他ならない。

 死刑廃止論者は、その理由を「国際人権基準」がどうのだとか「非人道的」とか「生きる権利の侵害」だとか「死刑囚の資料を精査する十分な時間があったとは思えない」とか、被害者側に立った意見は殆ど聞かない。

 また司法の質の低下も顕著で、そのいい例が「裁判員裁判」制度。

 最近では裁判員裁判でも重大な事件を裁くこともあり、極刑か無期懲役かの選択肢しかない場合もある。

 国を相手取り、裁判員裁判に出た主婦が精神的被害を訴え告発したケースがあるが、被害者側の峻烈な怒りや悲しみを酌むことも出来ない精神状態ならば、始めから裁判員裁判に望む前に辞退すべきだろう。

 死刑判決は裁判員に大きな負担を強いるし、「我が国もそろそろ終身刑を導入すべきだ」とする流れもあるのも確かだ。

 だが、死刑制度の廃止より、この裁判員裁判を廃止して欲しいものだ。

 死刑廃止は今や世界の大勢で日本もそうすべきという意見は少なくない。

 いつも思うことだが、この「世界では」とか「どこそこでは」という理屈は実に胡散臭げなものが多い。

 死刑廃止の理由として「法により国が人を殺す事は罪悪で人道に反する」「死刑には期待する程犯罪防止効果は無い」「冤罪の場合に取り返しが付かない」」、或いは「人間は善を行うべき道徳的本性を先天的に具有しているのだ」という性善説など様々だ。

 「冤罪」というのは、袴田巌さんの事件を見るまでもなく、確かに有り得なくはないが、それは警察や検察の強引な取り調べや科学捜査の正確さが乏しい時代の事件が殆どで、そういう疑いのある事件は再審対象にすればいいだけの話し。

 「人道に反する」とは、「人を裁けるのは神のみだ」というキリスト教的欧州思考に冒されている典型的なもので、そんなものに与する方が間違い。

 左翼人士や自称・人権派弁護士などにも、こうした主張をする人を見かけるが、日頃、反米を唱えながら、或いは無神論者でありながら、都合のいい部分は欧米でもキリスト教でも利用しようというのはホント逞しい(苦笑)

 残虐な犯行をした者が、死刑廃止で国法により生命を保証されるというのも如何なものか。

 日本人的死生観から言えば、重罪を犯した者は「生」に拘るより、「死」を以て償うべきだと思うのは愚生だけではあるまい。

 抑抑、前述した通り、我が国の死刑制度は被害者遺族に代わり国が仇討ちする意味合いがある。

 「仇討ち禁止令」や「決闘禁止」を再度合法化するなら兎も角、終身刑を導入したところで被害者の感情は薄れることは無い。

 死刑制度反対派の宣う、「死刑は犯罪抑止効果は無い」との理由は、「終身刑」を導入しても同じことだろう。

 裁判では反省の度合いも考慮されるが、要は、要領良く減刑目的に反省したフリをしている者だけが裁判で考慮されてるだけのこと。

 今迄、愚生も多くのワルを見ているが、多くの者は逮捕された事実は確かに反省するが、それは「何故にパクられたのか」という反省であって、犯した罪を反省している輩など見たことはない。

 死刑制度が良いか悪いかという答えの出ない論争をするつもりはないが、被害者及び遺族の無念や怨念を考慮すれば、我国では死刑制度を存続し、国が被害者に代わり死刑の執行という仇討ちを断行すべし!

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2015年12月17日

「氏(姓)を変えることにより自己喪失感を覚える」という変態的意見

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 民法で定めた「夫婦は同一の姓とする」との規定の違憲性が争われた訴訟の上告審で、最高裁は「規定は合憲である」との判断を示した。

 最高裁で「違憲判決」が下されれば、鬼の首を獲ったかの様に騒ぐ連中というのは「合憲」判断は無視し、今回の合憲判断も受け容れることはない。

 民法第750条には「夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する」と明記されている。

 つまり夫となる人、または妻となる人の何れか一方の「氏」を夫婦の氏とするということ。

 この規定を大半の人は「片方が氏を変える」と理解しているが、「氏は自分個人の名前の一部」という誤解が混乱を招いているのも確かだろう。

 抑々「氏」というものは、個人を表す名称ではなく、明治維新以前には武士や大店(おおだな)の商人以外は「氏」などない。

 明治維新により新政府が樹立すると、戸籍を整える為に全ての国民に「氏」を与え、戸籍を整え、家族の絆の重要性を教えた。

 戸籍抄本や謄本を見れば分かるが、戸籍の筆頭者のみが「氏」と「名」で書かれており、その他の家族は「続柄」と「名」しか書かれていない。

 つまり、「氏」は家族を表す名称であり、個人名ではない。

 日本人の日本人らしさの根幹を成すのが「戸籍制度」であり、個人だけでなく、親兄弟や子といった歴史の縦軸の中に生きるという制度である。

 正に我が国の「戸籍制度」は世界に誇れる制度であると言えるのだ。

 欧米の教育は個人が生存権に勝つ為のものであり、辺り構わぬ闘争が行われ、働く目的は金と享楽の追求のみ。

 それ故、家族の絆は緩み道徳の深さは生活から離れ、結果、唯物主義の考え方が支配的となり、人々の心を孤独化している。

 我が国の個人主義は極僅かで、世代に亘る家族の絆は固く、互いの助け合いによって人間本来の善良な姿と優しい心が保たれている。

 夫婦別姓制は家族の一体感を損ない、子供に与える精神的影響も大きく、事実婚を増加させ、離婚の増加や婚姻制度の崩壊を齎すのは明らか。

 抑々、婚姻に際し氏を変える者で職業上不都合が生じる人にとって、通称名で旧姓を使用することが一般化しており、婚姻に際し氏を変更するも、関係者知人に告知することにより何の問題も生じない。

 また、「氏を変えることにより自己喪失感を覚える」という様な意見もある様だが、これは「氏(姓)は個人名ではない」ということを理解していない典型で、同姓が嫌なら、同棲という事実婚でいいだけのことだろう。 

 だが、そうした変態的な意見より、結婚に際し同じ姓となり、これから新たな家庭を築くという喜びを持つ夫婦の方が圧倒的多数であり、それが極めて一般的な感覚だ。

 夫婦同姓は、普通の日本人にとって極めて自然な制度であり、現代社会で家族とその絆を支えているのが「戸籍」なのだ。

 戸籍は、国民の出生・結婚・死亡などの身分の変動を「夫婦と未婚の子」を単位として登録するシステムである。

 戸籍制度は結婚や相続など家族生活を営む上で極めて重要な役割を担うと同時に、実は家族の一体感を維持する機能も有している。

 ところが、別姓推進派の中には「別姓導入は戸籍制度改廃への一里塚だ」とする考え方が根強く存在するのは事実。

 別姓するくらいなら結婚などしなきゃいいと思うのが普通だが、あくまでも夫婦別姓の目的が「戸籍法」の改正に在るのだとすれば、合点が行くというものだろう。

 別姓推進派は、現在の戸籍制度が家族単位である点を、戦前の「家父長制度」の残滓と捉え、戸籍を個人単位の「個籍」や、欧米諸国を模した「個人登録制」に改めることを求めているが、要は国體破壊こそが目的なのだ。

 選択的夫婦別姓と雖も、導入されれば我が国の戸籍制度や家族制度は瓦解し、祖先と家族・親と子を結ぶ連帯意識や地域の一体感、延いては日本人の倫理道徳観にまで悪影響を及ぼすのは必至である。

 夫婦別姓に限らず、突き詰めた議論が無いまま、安っぽいムードだけで、やれこれが世界の流れだとか、グローバル時代の到来だとか、そんな曖昧な次元でもって賛同者が広がってるが、こうした世論の怪しい動きに騙されてはならない。

 我が国の家族制度というのは皇室の在り方を理想とするものであり、正に、父母に孝に兄弟に、夫婦相和し。実に尊いものである。

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2015年12月14日

ウンコ投擲といえば防共挺身隊の専売特許だろう(笑)

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 靖國神社への爆破未遂テロ事件を受け、横浜市中区の韓国総領事館の敷地内にウンコの入った箱が投げ入れられた。

 犯行は、爆破未遂事件の報復ということになってるが、真相はどうなのだろう。

 ネットでは、韓国人の「自作自演」だとか、「ウンコを投げるのは朝鮮人にしかできない」だとか、いつもの様な朝鮮人蔑視の書き込みがされている。

 投げ込まれた箱には、「姦酷塵(かんこくじん)による靖国爆発の復讐です。在特会」と書かれ、ウンコが包装されてた新聞は「赤旗」だという。

 誰がやったのかは知らないが、愚生も実に興味津々の事件だ(笑)

 防犯カメラに投げ込む人物が映っていたとの報道もあり、神奈川県警にすれば犯人検挙は時間の問題だろう。

 だが、これがホントに韓国人の自作自演となれば報道規制が敷かれるのは必至だし、犯人が日本人ならば総バッシングを受けるだろう。

 ネットでは、ウンコの投擲事件を朝鮮人の専売特許の様に言ってるが、右翼に限れば、ウンコといえば愚生が所属していた防共挺身隊の専売特許だった(笑)

 「日ロ漁業(現・ニチロ)」が旧ソ連と内通してて、容共的売国企業と断じられた昭和60年だか61年だったか、その株主総会で、会社役員や議長を務めていた某右翼団体幹部めがけてウンコがぶつけられている(笑)

 やったのは当然、防共挺身隊の総会屋部門の連中(笑)

 この件で、福田進総隊長他数人が威力業務妨害などで逮捕されたが、投げた張本人は何故かパクられてはいない(笑)

 因みに愚生といえば、株主総会の会場前で、他の隊員らと共に宣伝車でアジってたことを思い出す。

 初代総隊長の福田進といえば、国会議事堂敷地内で、共産党代議士ら数十名に一斗缶に入れた糞尿をぶちまけた「糞尿事件」は有名だ(笑)

 政治家が刺されたり、殺されたりすれば政治家として本懐だろうが、ウンコをぶっかけられたらこれ以上の侮辱、屈辱はない(笑)

 この事件以来、国会には規制される柵が設けられ、一般人が自由に入れなくなり、福田総隊長自身も懲役に行くこととなった。

 3年ばかりの懲役を終えてからの福田総隊長は運が急上昇し、右翼団体としてだけではなく、総会屋や事業家としても成功を収め、その資産は数百億円は越えた。

 総隊長曰く、「ウンコ撒いたら運が付いたよ!ワッハッハ!」

 因みに、日ロ漁業の総会でパクられた総隊長は警視庁本庁の留置場に拘留された。その際、同房だったのは薬事法違反でパクられてた松本智津夫。

 「あんちゃん、なんでパクられた?」

 「へぇ~、まぁ金儲けするなら、これからは宗教だよ、ハッハハ・・・」

 確かに総隊長は、創ったのか、乗っ取ったのか、「天地神明教(てんちしんめいきょう)」という胡散臭げな宗教団体もやっていた。

 以前、総隊長に漏れ伺ったことがあるが、「神が創ったのは天と地。この天と地は消えることはない」という様なことを聞いたことがあったが、要は「天壌無窮」ということだろう。

 教祖は本人。経典は分からないが、「朝から集まって酒飲んでるだけの宗教だな(笑)」とは、総隊長の談(笑)

 確かに、酒を飲むことで、人生を悟ることもあるし、ん~奥が深い(笑)

 こうした宗教法人のノウハウを、同房の男に教えたかどうかは知らないが、このあんちゃんこそ、後の「麻原彰晃」である(爆)

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2015年12月12日

「開かれた皇室論」から、我が国の伝統文化や美徳が喪失して行く!

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 年末になると頂くのがカレンダー。色んなカレンダーがあるが、頂いて始末に困ってしまうのが「皇室カレンダー」だ。

 愚生は右翼仁だから喜ぶだろうと送ってくれるのだろうが、確かに御真影は奉戴したりはするが、部屋にこういうものは飾らない。

 というのも、月が替わればページを捲るとか、破って捨てるというのはどうも気が進まないし、捨てないで取って置くにも始末に困る。

 皇室の存在は決して開かれるべきものでもなければ、親近感のある軽々しいものでもなく、マスコミを始めとした「開かれた皇室論」の姿勢は、今や国内に蔓延し、天皇陛下や皇室に対する敬愛の念を薄れさせている。

 1932年、ソ連共産党から日本共産党へ、「コミュンテルンテーゼ(命令書)」という指令が出されている。

 天皇とは天皇であって制度ではないが、その命令書には、天皇を制度として捉えた、「天皇制廃止運動」というものが明記されてある。

 先ず、昭和天皇への「戦争責任・退位論」に始まり、「開かれた皇室論」と「敬称・敬語不使用運動」、そして平成に入り、「女性天皇論」「女性宮家」など、その「反天皇制運動」は継続されている。

 皇室カレンダーも「開かれた皇室論」に与するものであると思うし、「美智子さま」「雅子さま」「紀子さま」「愛子さま」という呼称は、国民が殆ど知らぬまに、共産党の命令書を忠実に遂行していると言っても過言ではない。

 本来の日本人ならば、皇后陛下、皇太子妃殿下、秋篠宮妃殿下、敬宮殿下と呼ぶべきで、こうした「開かれた皇室論」から、我が国の伝統文化や美徳が喪失して行くということを自覚すべきだろう。

 我が国は天皇陛下を族長と仰ぐ家族国家であり、この国體は万邦無比である。

 戦前の様に「畏れ多くも畏くも」とは言わないまでも、節度ある敬意を表するべきであると常々感じている。

 陛下や御皇室のことというのは、喩え、褒めることであってもそれを口にすることは不敬だと思っているし、親からもそう教わって来た。

 愚生が右翼の世界に入り違和感を持ったのは、口では「尊皇」を唱えながら、皇室を軽々しく扱っているのではと思うことが少なくなかった。

 例えば、もう直ぐ「天長節」だが、一般参賀に背広や正装ではなく、私服や平服、或いは隊服で皇居に赴く右翼人が目立つ。

 尊び敬うべき陛下に拝謁するのに、ノーネクタイだったりするのは右翼人以前の問題で常識を疑ってしまう。

 正月には、落語家かと見間違える様な派手な着流し姿で参賀する右翼幹部も見かけるが、着物を着るなら袴を着用するのが常識だろう。

 右翼人として、皇室に係わる問題は避け、画像のアップも控える様にしている。

 何故なら前科持ちの右翼如きが、皇室を語ることこそ贔屓の引き倒しであり、陛下への尊厳をも穢すことにもなり兼ねないと思っているからだ。

 右翼人に限らず愛国者を自任するのであるならば「神聖にして侵すべからず」に尽きる訳で、親しみを以て画像をアップしたりしている人も少なくないのだろうが、それは「開かれた皇室論」を容認するものと認識すべし。

 右翼人や自称・愛国者が、ネットと雖も、気安く御真影や動向などを貼り付けるのは、左翼の策謀である所謂「天皇制廃止運動」に与するものだと思っているし、どうしても違和感を感じてしまうのだ。

 この皇室カレンダー、製造には警察OBや宮内庁OBが係わっているのではないのではなかろうかと思うこともしばしば。

 立場を利用し、皇室カレンダーの販売で金儲けをしてるとしたら赦されるものではない。

 年末になると警察がこのカレンダーを大量に購入し配布する。これは警視庁に限らず、全国の県警内でも恒例化している。

 また、愚生の知る某大手右翼団体も下部団体に強制的に購入させているが、その目的は単なる組織の資金作りであり、以ての外だと思う。

 頂いた皇室カレンダーは処分するのもどうかと思うので、喜んでくれる方に譲り、自宅に飾るのは専ら「靖國カレンダー」。これに限ります。

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2015年12月11日

ワレ、イマダモッケイタリエズ!

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 「我、未だ木鶏(もっけい)足り得ず」「木鶏に似たり」「木鶏子夜に鳴く」という様に、「木鶏」の喩えは多い。

 これは「荘子」や「列子」などの古典に出て来る寓話だが、本当に強い闘鶏というのは、空威張りもしないし、無闇に戦闘的でもなく、木で作った鶏の如く相手を見据えじっとしているもの。

 この「木鶏」で有名なのは双葉山の逸話だろう。

 双葉山は、思想家の安岡正篤に「木鶏の様になれば徳が充実し、勝敗も超越して天下無敵となる」と教わると、それに応えようと努力した。

 前頭二枚目から破竹の69連勝で一気に横綱に上り詰めたのは、その教えの下で努力した結果だろうか。

 だが、昭和14年1月14日、双葉山は安芸の海に敗れ連勝記録は止まった。

 双葉山は、欧州航路でインド洋上にあった安岡に「イマダモッケイタリエズ(未だ木鶏たりえず)」と打電した。

 双葉山の四股名は「栴檀(せんだん)は双葉より芳し」からの命名。

 その意味は、「大成する人物は、幼い頃から人並み外れて 優れたところがあること」の喩えである。

 双葉山の相撲というのは全てが受けて立つ相撲。

 双葉山の強さに加え、美しさがあった。土俵に上がったら無駄な動きはせず、どんな相手でも必ず受けて立った。

 今の張り手や逃げなどの無様な相撲ではなく、所作そのものが美しく横綱の威厳と風格があったのだ。

 最近の横綱の相撲も双葉山と比べられ、「横綱なら受けて立ち、自分が不利な体勢からも勝たなければならない」などと批判されるがそれは無理というものだろう。

 というのも、双葉山というのは片目が見えない隻眼だった。

 全て受け身で立ち会うことを本人は、「目が悪かったので、自分から突っかけるのは不利だと思った」と述べている。

 6歳の時に友達と吹き矢で遊んでいる際に、その矢が右目に刺さり失明する。

 さらに少年時代、父親の海運業の手伝いをしていた際に、錨の巻き上げ作業で右手小指を潰してしまう。

 父の海運業が失敗し、知人の警察の勧めで立浪部屋に入門。右目は失明、右手小指も動かないというハンデを克服し、69連勝を達成し横綱に上り詰めた偉業は素晴らしいが、その苦労は本人にしか分からないだろう。

 隻眼といえば伊達政宗や北一輝、乃木希典もまた幼少の頃に左目の視力を失っている。全盲の塙保己一にしろ障害を克服した努力の人は多い。中でも双葉山の場合は身体がものをいう力士なのだから驚く他はない。

 そういう自分と言えば五体満足に生まれながら一体何をしているのやら。愚生に足らないものは努力、それも「強烈な努力」以外にない。

 話しは変わるが、数日前の夕方、着信があった。

 相手は以前に会った自称・投資家、その後は「博徒」、最後に聞いたのは「金貸し」。要はヤクザにも属さない不良といった方が分かり易いか。

 「世の中カネ」という男で、愚生の一番毛嫌いする、「貧賤を以て是を軽蔑する者は、富貴を以て是に諂屈する(吉田松陰)」の典型的な人物。

 初めて会った時は60歳くらいに見えたので、長幼の序を弁えてる愚生はそれなりに敬意を払って相対したのだが、徐々に胡散臭さが見え出した。

 聞けば愚生より6歳下ということにも驚いたが、人生意気に感じて付き合いたい様な人物でも無ければ、カネの無い者を見下して、自分が如何にカネ持ちかを吹聴する様な俗臭芬芬たる人物。

 「以心伝心」という言葉があるが、こっちが嫌いだと思う相手は、往々にして相手も同じ様に感じているもので、今回も例外ではない。

 携帯に出るなりエライ剣幕で怒鳴り散らしてる。

 恐らく、周りには若い連中が居るのだろう、これを見よがしに畳み掛けてくる。

 「おい、こっちが下手に出てりゃいい気になりやがって、何なんだテメーは!」

 「テメエのことは勘弁しねえ、ヤクザでも何でも出して来いよ!」

 何のことはない。以前、この男らの相談を受け、ライフワークにしてるブログ「汚れた顔の紳士達」で、大田西ノ内病院の副理事長絡みの問題をアップしたことがあるのだが、太田家の身内の墓の問題なので差し障りがあると思い削除したのだが、これに難癖を吐けて来た。

 夏ごろだったか、この男の秘書(自称)が指を詰めて来たこともあった。

 聞けば、「(愚生が)ブログを削除したのでケジメを取らされた」とのこと。

 今どき、若い者をこれだけ追い込む親方が居るのにも驚いたが、仲間を引き連れての訪問といい、アレも愚生への脅かしだったのだろうな(苦笑)

 今回の嚇しも要は単なるイチャモンだが、こっちも出掛ける直前ということもあって、こっちもついつい相手に合わせてしまい、同じ様に怒鳴ってしまった。

 恐らくこの男、怒鳴られたことがないのだろう、それに呼応するかのように、「テメエのことは赦さねえからな、ぜって~殺してやるから待ってろ!」

 興奮もピークに達したのかどこか声が震えてる様にも感じる。

 人間10分、本気で怒らせると死ぬそうだ(笑)

 そんなこともあり、「ああ、来るなら来い!その代り一人で来いよ、若いのが可愛そうだからな。でも、一人じゃ来れないだろ!」と反撃したがチョッと言い過ぎたか(笑)

 何回かそんなやり取りをするも、同じレベルで相手するのもバカらしいので、「そうだ、おい、この電話、録音しといたから警察に言っとくわ。『あんたオレのこと殺す』って言ってたよな」と言ってやった(笑)

 その後もしつこく携帯が来てたが暫くして鳴り止んだ。

 熟熟、愚生も修業が足らないと痛感。木鶏どころか、狂犬相手に吠えてるんじゃ、未だその辺の野良犬でしかないと猛省した次第。

 キチガイ相手に「来るなら来い!」と言ってしまった以上、来ることを想定しているし、刺されることも覚悟してるが、果してどうなるものやら。

 卑怯な男だから、本人が来ることは無いだろうが、まぁ、来たら返り討ちにしてやるか、生け捕りにして警察に付き出すか、別な方法があるのかどうか、色々と思索中。

 あ~気が滅入るというより、あ~メンドクセ~。呵呵。

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2015年12月08日

先ずは「太平洋戦争」という呼称を止めませんか!

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 戦争というのは国際法上認められている行為で「悪」ではない。

 米英は、戦争とは「政治の継続である」と教え、ドイツでは、「別の調停手段を伴う政治的な取り引きの継続である」と教える。

 戦争とは政治の延長の末に生まれる悲しい現実である。

 我が国は、負けてしまったから「悪」とされて思考が停止してしまったのだ。

 そういう意味では、先の大戦は、一旦始めた戦争は決して敗れることがあってはならないという極めて重要な教訓を残したと言っていいだろう。

 抑抑、何故に我が国が大東亜戦争の開戦を決意し、真珠湾攻撃に至ったかが問題であって、現代の幼稚な倫理観や道徳観で一部分の歴史を見て断じることに何の意味が在るというのか。

 我が国の歴史やアジアの近代史を知るには、1953年のペリーの黒船来航時代にまで遡らなければ理解出来まい。

 日清・日露戦争に至ったのも歴史の必然であり、大東亜戦争もまた支那事変に端を発した日本軍の一方的な侵略戦争ではない。

 東京裁判史観に侵された連中は、未だに米国による洗脳から醒めないばかりか、あろうことか日清・日露戦争までをも侵略戦争であったと断罪する。

 未だ自虐史観から目覚めることもなく、自国を罵り、卑下することに喜びを感じているが、それは現実逃避であろう。

 国や故郷の為に、愛する家族の為に、尊い命を投げ出された先人の方々を「戦犯」と罵り続けていることを恥ずかしいとは思わないのか。

 極東軍事裁判に於いて、弁護する機会も与えられず、一審即結審という復讐という名の茶番劇で、或いは外国の地で不当に処刑された方々の命は決して軽いものではない。

 彼らはその判決を諒として敢えて反論もせず、尊い命で罪を償ってくれたのだ。

 我が国の現在の繁栄や平和は、こうした方々悲劇の上に存在しているということを決して忘れてはならない。

 東京裁判に於いて、「国際法の原理に基づき、この法廷で日本を裁く権利は無い」とし、「各被告は全ての起訴状中の各起訴事実部につき無罪とされなければならない」と述べたパル判事の意見は忙殺された。

 「戦争」という行為や手段は国際法で認められていながら、我が国だけが一方的に「侵略国」と断罪されたのは、欧米列強による日本蔑視、日本人差別以外の何ものでもない。

 パル判事の「日本無罪論」の主張が正しいものだったことは、判決から2年半後の米国軍事委員会で証明されることとなる。

 マッカーサーが、「彼ら(日本)が戦争に入った目的は、主として自衛の為に余儀なくされたものだ」と証言した。

 極東軍事裁判の最高責任者であったダグラス・マッカーサー連合国最高司令官が公的な場でそれを認めた意味は大きい。

 これをしても、先の大戦は自存自衛とアジア解放の聖戦であり、国際法を無視して行われた東京裁判によって断罪されたこと内容は虚構である。

 歴史の検証をする際、我が国の罪を論うことは大事なことだ。

 だが、国際法違反の広島・長崎への原爆投下、日本の各都市への無差別絨毯爆撃の罪を糾弾することを忘れてはならないし、中立条約を一方的に破棄して参戦し、鬼畜の如く振舞ったソ連の蛮行も決して忘れてはならない。 

 大切なのは古今東西、世界に蔓延る覇権主義の克服を主張すべきであって、他国の覇権主義には目を瞑り、一方的に自虐の淵に止め処なく漬かり込むことではない。

 パル判事は東京裁判の無罪判決の最後をこう結んでいる。

 「時が、熱狂と偏見を和らげた暁には、また理性が、虚偽からその仮面を剥ぎ取った暁には、そのときこそ正義の女神はその秤を平衡に保ちながら、過去の賞罰の多くに、そのところを変えることを要求するであろう」

 今こそ、我々日本人は忘れ去られた大東亜戦争の意義を知り、それと同時に堂々と東京裁判の不当性を検証し、未だ米国の属国としてあしらわれている現状に警鐘を鳴らさねばならない。

 思うに、我が国が自虐史観から目覚めないのは、米国が徹底した「太平洋戦争」史観が蔓延っているからに他ならないが、我が国が断行したのは「太平洋戦争」ではない。

 我が国は「大東亜戦争」を断行したのであって、真に米国からの独立を目指すのであれば先ずは「太平洋戦争」という呼称を止めることだ。

 そうすれば自ずと先の戦争の意義を理解することが出来るだろう。

 本日、12月8日の大詔奉戴日(開戦記念日)に当り、戦陣に散った英霊に感謝の誠を捧げると共に、畏くも陛下の弥栄を祈念する。

 すめらぎいやさか。すめらみこといやさか。すめらみくにいやさか。
 
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2015年12月07日

預言者は郷里(世)に容れられず!

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 「預言者郷里(世)に容れられず(新約聖書ルカ福音書四章)」という言葉がある。

 優れた人物は、故郷や世の中では受け容れられないことが多いという喩えだ。

 「受け容れられない」というより、「受け容れたくない」というのがホンネだろう。

 受け容れたくないという気持ちにしても、批判にしても、往往にして嫉妬から出てることが多く、身近な者が出世したり、優れていればヤキモチを焼くのは人間の性というもなのかも知れない。

 見方を変えれば、批判や嫉妬というものはその人の実力を認めてる裏返しでもあるから一々気に留める必要もない。

 「人は故郷を離れて貴し」とか、「 近くの坊さんえらくない」というのもあれば、「遠きは花の香、近きは糞(クソ)の香」というのもある(笑)

 身近な者や身近な人の意見というのは中々耳に入ることはない。

 例えば、近所の神社仏閣というのは余りにも身近過ぎて有難く感じないもので、それと同じで身近な人からの意見や苦言は軽んじられることが少なくない。

 だが、その軽んじられてる意見が正論だったり事実だったりするものだ。

 喩えるならキリストは愛を説いて十字架に架けられた。

 日蓮は道を説いて流罪に遭った。

 また政治家も偉いヤツほど殺されている。

 古来、真理を説き、道理を訴えた者は世の中に受け容れられることはなく、多くはバカかキチガイ扱いされた上に、罰せられるか殺されている。

 ガリレオ・ガリレイもそうだ。

 「天動説」が当り前だった時代に、地球が太陽の周りを廻ってるなどとは考えても見なかったのは当然のことといえば当然のこと。

 結果、「地動説」を唱えたガリレオは世を誑かす者だとして宗教裁判にかけられた。

 これが当時の大勢であり正論だった訳だが、今も当たり前だとか正論だと思っていることも、後の世には間違いや非常識だったとされる場合も無きにしも非ず。

 正しいことというのは、いつの世も後になって気付くもので、そんな時代に、必死に「正しい」と吠えたところで理解してくれないのは当然のことでもある。

 分かり易くいえば、何しろ世の中にはバカの方が多いのだから、どうしてもそういう結果になってしまうのは自明の理とも言えなくもない(笑)

 今の世の中、「あの人はいい人だ」とか「あのことは正しい」などというのも、古来に学べば大半は間違っていると思った方がいい(笑)

 大勢というのはいつの世も創られるもので、単に平均的意見に過ぎないのだ。

 また、「オレはいい人間だ」とか「善人だ」とは吹聴するヤツに限って、その裏では何をやってるか分かったものではない。

 愚生の経験からすれば、笑顔のいいヤツ、愛想のいいヤツというのは意外と性格が悪いのが多く、単に調子がいいだけに過ぎない。

 「笑うと目が無くなるヤツは信用するな!」という訓えは強ち間違いではない。

 作られた笑顔の裏の顔というのは実に醜いもので、自分を誤魔化そうとしているに過ぎず、逆にブスっと無表情のヤツの方が案外信頼出来るものだ。

 返事もそう。何でもかんでも「ハイ、分かりました」なんていうヤツは実は意外と聞いていない。話をしてる最中も、こちらの目をじっと目を見ているヤツもダメだ。

 話を聞きながらも、時々目を伏せ、メモしたり、同意した内容があれば視線を上げ、目を合わせ相槌を打つ様な人物なら使い物になるだろう。 

 何事も、信用し過ぎず、違う角度から穿った見方をすることも必要なことでもある。

 何故なら、現在の常識や多くの意見というのは、マスコミや或いは戦後に創られた米国の価値観だったりすることが多いのだから、常に人を見抜く眼力を養いたいものだ。

 愚生にしても、いつもいつも同じ様な薀蓄や能書きを綴ってると、有難みも薄れ軽んじられてしまうのも当たり前のこと(笑)

 まぁ、愚生は預言者ではないが、「郷里に容れられず」よいうより、「近きは糞の香」くらいにしか思われてはいないのは何となく気付いている。呵呵大笑。

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2015年12月06日

「日本国憲法」も「労働三法」も「教育委員会」も全て米国製!

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 日本は「フジヤマ、ゲイシャガール、ハラキリ」の低開発国だとする米国は、様々な占領政策で日本人の去勢と改良を行った。

 日本国憲法が米国製というのは余程のバカでない限り知ってるが、「労働三法」と呼ばれる法律もまた米国製だということを知る人は限りなく少ない。

 「労働三法」とは「労働組合法」「労働基準法」「労働関係調整法」の3つの法律をいう。

 憲法 28条の労働基本権の理念に基づいて制定されたもので,日本の労使関係を規定し,対等的労使関係の基礎となっている。

 これは米国の学者どもが、日本を実験台にして作られたものだ。

 「理想的な労働関係の法律を作る」だとか「労働者の保護」という目的で作られたが、労働者によるストライキによって生産低下を狙ったものというのが真意である。

 結果は米国の大失策。

 労働組合が乱立し労働人を蔓延らせ、嗤えることに、反米闘争の闘士を育ててしまうという皮肉な結果となった。

 米国の意図は失敗に終わり、揚句に、米国が作った法律で守られた労働者があろうことか「反米」を唱える始末で、「飼い犬に手を咬まれる」とはこのことだろう(笑)

 相も変わらず我が国は労働者天国。

 労働者にとって社会主義国や共産主義国が理想の国とされたりもするが、どっこい、日本ほど労働貴族といわれるプロ組合員が優遇されてる国はない。

 中共にストライキがあるか。

 赤旗を振って「ガンバロー!」などと労働歌を歌い、遊びながら給料を貰える国があるか。

 経営者や政治家の罵詈雑言を赦す国があるか。

 今や、政治家は政策よりも如何に支援者の御機嫌を伺うかが大事で、共産党や社民党、民主党などの左がかった政治家らは、労働組合の支持が無くては当選も出来ないとは実に情けない。

 尤も、この構図は恰も創価学会票を当てにする自民党と同じだが(笑)

 沖縄でのプロ市民にしても、元凶は米国製の法律であり、米国の自業自得、悪因悪果ともいえるが、「戦後政治の総決算」とは憲法以外にも様々な問題が山積しているのだ。

 例えば、「教育委員会制度」も米国が教育破壊を目的として導入したものだ。

 米国は、「戦前の日本の軍国主義が日本の中央集権的教育制度を齎し、それが結果戦争に繋がった」と結論付けた。

 その日本の学校教育を、内務省の中央集権的統制から解き放ち、その管理を地域住民の代表により構成される合議制の「教育委員会」の下に置こうと画策し、それを実行したのである。

 教育委員会のモデルとなったものが、米国の教育委員会制度である。

 これは、米国の開拓時代の占領統治の思惑から生まれたもので、日本の統治もこれと同じ様に、占領によって米国の意のままに置こうというのが狙いだった。

 米国の実行した「戦後民主主義教育」と日本国憲法を始めとした様々な法律や制度は、米国の思惑以上に大きな成果を齎し続けている。

 現憲法を始めとした、こうした悉く失敗した米国の策謀を有難く思い、それを当たり前だと錯覚し、それを変えることすら躊躇しているとは滑稽という他はない。

 米国は、「日本国憲法」で国民を骨抜きにし、「労働三法」で労働者を優遇し、「教育委員会」の制度導入によって教育を荒廃させたのだ。

 それにしても、「反米」を唱えている左翼や労働組合どもは、米国製の憲法を護り、米国製の労働三法に守られ、米国製の教育委員会の下で米国の行った自虐史観を信じ、純粋な子供達を洗脳していることに違和感と矛盾を感じないのだろうか。

 尤も、そういうことが解る様なら左翼になんてならないわな。呵呵大笑。

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2015年12月01日

今日から師走かぁ、一年がどんどん早くなって行く(笑)

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 早いものであっという間に師走。一年というのは1歳は1㌔、40歳は40㌔、80歳は80㌔と、年齢と同じスピードで過ぎるという。愚生は55㌔、どうりで早く感じる訳だ(笑)

 子供時代には一年がホント長く感じ、学校へ行くのも億劫だったが、今思うと学生時代が好かったのだと思う。

 朔日ということで身を清め、神饌を新しくし、神前に向い、畏れ多くも天皇皇后両陛下の弥栄を祈念し、感謝と心願成就を念ず。

 今日から12月だが、旧暦(太陰暦)では未だ10月20日。温かい日が続いていたが、昔の感覚だと晩秋といったところなのだから温かいのも肯ける。

 旧暦では一年が13ヶ月あった。そういう意味では西暦もいいが、日本人であれば旧暦や月齢なども表記すれば季節感を感じ易いのではあるまいか。

 ところが明治5年(1872年)、それまでの月の満ち欠けを中心にした太陰暦を切り替え、一太陽年を基準とする太陽暦のグレゴリオ暦を採用すると発表し実行した。

 こうしたことを見ても、明治維新後の新政府の採った制度というのは「維新」とはかけ離れた、単なる西洋文明の模倣でしかない。

 13ヶ月あった一年を12ヶ月になるのだから、大きな混乱や支障を生じたのは想像に余りある。

 今では当り前の様に使っている西暦だが、これはキリスト教に基くものだが、暦というのは宗教と歴史が関連するものであり、国が変われば暦も様々なものが使われている。

 イスラムでは「太陰暦」を使いマホメットのメディナ遷宮を元年とする。ユダヤ教では天地創造を起源とする「ユダヤ暦」。

 タイでは御釈迦様の没年から数える「仏暦」。因みに北朝鮮では、金日成の生誕から数え、「主体(チュチュ)」だ。

 本来ならば我が国は、神武天皇御即位の年を紀元とされる「皇紀」を用いるべきで、皇紀は実に2675年の輝かしい歴史を誇る。

 暦とは別に、我が国には「元号」制度が在る。

 これは節季の習俗を時代の流れに応用する先人の智慧であり、これこそが日本文化を象徴するものだろう。

 「西暦が世界で一般化している」として、恰も元号が古臭く時代遅れだとして反対を唱える大馬鹿者がいる。

 これは国体破壊、「天皇制反対」を標榜する左翼のみならず、悲しいかな、無自覚左翼の自民党員や自称・保守派にも存在する。

 明治に開国し、西暦を採用し、混乱の中でも元号を捨て去れなかったのは、大化の改新の昔から国民生活に深く定着していたからであり、これもまた我が国が君民一体、天皇即日本であったことを証明している。

 元号制度を捨て去ることは、我が国の国柄をも喪失するということを自覚すべし。

 聖徳太子の時代より歴代の天皇は、数年から十年を目途に改元して巧みに時代転換をして来た。

 孝明天皇は、御在位なされた21年の間に「嘉永」「安政」「万延」「文久」「「元治」「慶応」と実に6回も改元遊ばされた。

 これ即ち、混乱の時代を如何に転換させるかの苦衷の表れであろう。

 師走に入ると街はクリスマス商戦一色になるが、天皇陛下を戴く我が国にはそぐわない光景である。

 尤も、日本人というのはクリスマスでキリスト生誕を祝い、大晦日は寺で除夜の鐘を撞き、元旦には神社に初詣に出掛け、年賀状には元号を記す。

 こうしたことは、実にいい加減な無宗教の民族の様にも感じるが、これこそが日本民族の大らさの現れでもあろう。呵呵。

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cordial8317 at 07:38|PermalinkComments(0)