2015年09月

2015年09月30日

自衛隊のPKO(国際平和維持活動)の貢献は我が国の誇れる活動である

 安倍首相がニューヨークの国連本部で演説し、シリアやイラクからの難民支援に970億円を拠出することを約束した。常任理事国入りへの決意を表明し、「積極的平和主義」の実践を目指すという。我が国の国際的活躍は世界が認めるところであり、中でも自衛隊のPKO(国際平和維持活動)の貢献は我が国の誇れる活動であろう。

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 地元郡山市が発行している「広報こおりやま」10月号の最後の頁に、「郡山から世界へ」というインタビュー記事が載っている。登場しているのは、地元郡山市出身で陸上自衛隊郡山駐屯地の幸田麻美さんと佐藤志絵梨さんの二人。

 幸田さんは、国際貢献活動に携わる為に自衛隊の道を選んだというから立派だ。彼女らは先日、国際連合南スーダン共和国ミッションに派遣隊員として参加した。

 国際連合南スーダン共和国ミッションとは、平成23年に独立した南スーダン共和国を支援する為に発足されたPKO活動である。平成24年から自衛隊を派遣しており、道路整備などインフラ整備などを行っている。(以下、抜粋して転載)

 世界には、支援を必要とする発展途上国が数多く存在します。
テレビなどで報じられる現状を見て、
私達にでも出来ることがあるのではと思い今回の任務に参加しました。
私達が行った活動は日本から派遣された隊員の炊事です。
 派遣から3ヶ月が経った頃、
郡山市から激励品としてあさか米が寄贈されたときは嬉しかったです。
久しぶりに食べる故郷のお米は、隊員の間でも好評でした。
 現地での活動を通して、
発展途上国への支援の必要性を改めて実感しました。
途上国の多くは、インフラの整備が不十分で、
多くの道に歩くのが困難なほどの大きな穴が開いています。
雨が降ると水が溜まり、そこから蚊が大量に発生して、
マラリアなどの感染リスクを増加させます。
 派遣中、戦争孤児の施設を訪れる機会があり、
折り紙やけん玉などで交流をしました。
無邪気な笑顔を振りまく子供達と触れ合い、
私達が出来る支援とは何かを改めて考えさせられました。
 任務に参加することで、日本に居ては分からない世界の現状や、
国際支援活動の重要性を知ることが出来ました。
今後もこの様な機会があれば参加したいです。
私達の活動が世界の平和に繋がることを願います。

 幸田さんも佐藤さんも、安保関連法案で騒いでたあのSEALDsの若者と同年代だ。何故にこうも違うのだろう。マスコミはSEALDsを持ち上げ、「戦争法案」とのレッテルを貼り、自衛隊の活動は全てが戦争に繋がるといったミスリードに躍起だが、彼女らの活躍でも解る様に自衛隊の活動は平和維持がその主たる目的である。

 安保関連法案というのは、日本国と国民を護る為のものではあるが、その他には海外で活躍する自衛隊員を守る為のものであるというのは言うまでもない。

 佐藤さんは幼少期から空手を習っていて、南スーダン共和国への派遣時には他国の隊員と共に空手の稽古を行い、交流を謀ったという。実に素晴らしい行動力で、郡山市民としても日本国民としても、彼女らの活動は実に頼もしく誇らしい。

※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。

《会費&御支援の御願い》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円。法人120000円。協賛会員は300000円~。

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2015年09月25日

安倍首相は立党精神に立ち返り現憲法の矛盾と誤りを糺せ!

 総裁選再選を受け、安倍首相は「新たな国造り」として任期中の三年間は経済再生を重視する方針だという。安全保障関連法案への批判を躱し、来夏の参院選挙の勝利を目指そうというのだろうが、批判勢力と対峙し駆逐することも必要なことだ。

 自民党「立党宣言」には〈(略)社会的欠陥を是正することに勇敢であらねばならない。われらは暴力と破壊、革命と独裁を政治手段とするすべての勢力又は思想をあくまで排撃する。(略)祖国再建の大業に邁進せんとするものである〉と在る。

 自民党がやるべきことは、目の前に蔓延っている安保関連法案を批判する「カタチを変えた共産主義」を排撃すれば好いことなのに、経済再生とは情けない。

 その「カタチを変えた共産主義」は、実に陰湿且つ巧妙とになった。例えば、大東亜戦争の悲惨さを殊更に煽った自虐史観、南京大虐殺、沖縄戦の悲劇、集団自決軍命令、日韓併合、講和条約での無条件降伏、東京裁判史観、A級戦犯分祀論、靖國神社問題、従軍慰安婦問題、朝鮮人強制連行、遺棄破壊兵器・・・と枚挙に暇なし。

 更にカタチを変えた左翼勢力は歴史教科書問題、靖國神社に代わる国立の追悼施設建立、夫婦別姓、男女共同参画社会、人権擁護法案、協働、共生社会、永住外国人地方参政権付与、1000万人移民計画、地方主権、子ども人権条例、無防備都市宣言、女性宮家・・・極め付けは、女性天皇容認論など多種多様に及んでいる。

 自民党内にも売国法案や条例等に与する輩がいるが、党内の獅子身中の輩を抉り出し、結党精神に立ち返ることも求められる。自民党新綱領には先ず「新憲法の制定」を謳い、そして「高い志をもった日本人を」として次の様に明記されている。

〈私たちは、国民一人ひとりが、人間としての普遍的規範を身につけ、社会の基本となる家族の絆を大切に、国を愛し地域を愛し、共に支え合うという強い自覚が共有できるよう努めます。そのために教育基本法を改正するとともに、教育に対して惜しみなく資源を配分し、日本人に生まれたことに誇りがもてる、国際感覚豊かな志高い日本人を育む教育をめざします〉。実に素晴らしいが実行が伴わない。

「少子化対策」と称して、子育て支援や子供に優しい社会造りも必要だろうが、先ず将来の日本を担う子供達に如何なる教育を施すかということが大事である。政治で最も優先するべき政策は「国防」と「教育」であることは言うを俟たない。

 政治家が教育を疎かにして、教育の中身を語ることなく、カネの分配だけに狂奔するのは本末転倒と言う他なく、戦後の陋習である教育委員会の廃止や、日教組や全教といった公務員の労働組合員への罰則強化などの教育改革の実行を急ぐべきだ。

 更に「世界一安心・安全な社会を」という自民党綱領の実行を進めることも大事なことである。国防とは単に領土保全と軍事力の充実だけではない。国防とは、我が国の歴史・伝統・文化という国柄を守ることであり、畢竟、それは皇統を死守する事に在る。その皇統が現憲法下で侵され様としていることを知らぬ訳はあるまい。

 安全保障関連法案は憲法違反であると断じられているが、喫緊に見直さねばならないものは第9条ではなく、第1条と第2条である。第1条は割愛するが、第2条には「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」と在る。この「世襲」とは何ぞや。この儘では反天皇論者から「愛子内親王こそが正統な継承者である」とされる可能性が大であろうことは明らか。

 欽定明治憲法第2条に、「皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ繼承ス」と明示されてる様に、皇位は男系男子が継承されなければならないのである。

 安保関連法案での憲法議論を避けたいが為に、経済再生を重視する方針を打ち出すとは姑息過ぎる。安倍首相は立党精神に立ち返り、大いに憲法を論じ、現憲法の矛盾と誤りを糺し、明治欽定憲法の正当性を啓蒙し、新憲法制定の道筋を整えよ。

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2015年09月24日

西郷隆盛の本名は「西郷隆永」だったって知ってます?

 今日9月24日は西郷隆盛の命日。多くの人が西郷隆盛という違和感なく名前を使ってはいるが、本名は西郷隆永。「隆永」より「隆盛」の方が本名になってしまった感は否めないし、西郷隆永と表現したのではややこしくてしゃあない(笑)

 西郷隆盛(本名は隆永だが、以下隆盛で表記)というのは華やかな生涯に見えるが、その実は自殺未遂、二度の遠島処分、そして西南戦争と苦難続きの人生を送った人物でもあり、その生涯は常に死の影が付き纏っていたと言われている。

 それでも西郷は、「いつ死んだっていい。人事を尽くして天命を待つだけだ」という処生観を持ち、開き直って生きている様なところがあったという。

 私利私欲や保身とは無縁で、清濁併せ呑む器用さもなく、その大人格故に多くの信望を集め、また自分の死に際でさえ実に潔い人物だったというがどうだろう。「晋どん、もうよか!」という、この最後の言葉に西郷の生き様を現している。

 西郷どんというと、上野の西郷さんの銅像のイメージが強いが、いざ銅像落成の日に、それを目にした糸子夫人は、「宿んしはこげんなお人じゃなかったこてえ」と落胆したという逸話でも分かる様に、西郷はもっと美形だったのだろう。

 西郷隆盛というと「大西郷」と称される様に豪快なイメージだが、意外に繊細な面もあり、或いは、徳川慶喜公を執拗に糾弾していた様に執拗な性格も見え隠れする。無血開城を成し遂げても会津藩を執拗に攻めていることでもそれが分かる。

 正式な名前は「西郷隆永」。「隆盛」というのは、実は父親の諱(いみな・名前)だったというから驚く。西郷は幼少の頃には「小吉」、元服すると「吉之介」、その後は「善兵衛」「吉兵衛」「三助(菊池源吾)」、大島三右衛門、大島吉之助、西郷吉之助と名乗る。菊池や大島と名乗ったのは島流し時代のことだった。

 何故に「隆永」ではなく「隆盛」になってしまったのか。明治2年、戊辰戦争の奥羽戦線から帰京させる際に、宮内庁から御召状が出されることになった。

 通称ではなく諱で記さねばならず、知人の吉井友実に尋ねたところ、「確か、隆盛じゃった」と答えことで、以後、「隆盛」と称されることとなったという。

 帰京して、その吉井に会った西郷は、「あれ(隆盛)は父の名でごわんか。わしの名は隆永じゃと、おはんも知っちょるじゃろう」というと、吉井も頭を掻きながら、「ほんにそうじゃった」と詫び、二人は顔を合わせて大笑いしたという。

 その後、西郷はこの父の名前である「隆盛」という名を否定も訂正もしなかったのは、吉井への気遣いと、西郷の大らかさを示す逸話には違いない。

 不思議なことに西郷には写真が一枚も残されていない。上野公園の西郷隆盛像というのは、実弟の西郷従道と従弟の大山巌を合わせて創った想像の人物である。

 糸子夫人は、西郷をして「俳優のような好い男だった」とのろけていたというし、実際の西郷というのは、眉太く、黒目がちの美しい目をした色白の美男子だったというのが真相だろう。完成した銅像を見た糸子夫人の落胆は想像するに余りある。

 徳川慶喜公の恭順と勝海舟との対談の結果である江戸城の無血開城に満足せず、代わりに会津藩を攻め落とすことで徳川時代終焉の象徴にした訳だが、福島県人の愚生としたら大西郷たるもの会津戦争をどうにか回避出来なかったものか。

 そこまで執拗に会津藩を攻め落とした西郷だったが、その後、自らの信念であった「征韓論」で大久保利通らと対立に至り、故郷の薩摩へ帰郷することとなった。

「佐賀の乱」「神風連の乱」「秋月の乱」「萩の乱」など士族の反乱が続く中で、明治10年(1877年)に西郷が主宰する私学校生徒の暴動から「西南戦争」が勃発する。その指導者となるが、戦いに敗れた西郷は城山で自刃した。

 西郷の自裁という事実をして、歴史というのは正義が常に正義ではなく、正義が敗れることもあるという一例であろう。歴史というのは実に異なものである。

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2015年09月23日

「日本人」とは違う「ニホンジン」が日本国を貶める

 日本に帰化した全ての方々を論う訳ではないが、どうも日本人とは違う「ニホンジン」がこの国の脚を引っ張ってる様に感じてしまう。尤もそれは国内に巣食う左翼どもも同じで、やはり彼らも日本人に非ず、ニホンジンというのが正しい。

 凡そ、我が国の歴史の中でこれ程までに堕落した時代があっただろうか。何故にこの様な混濁の世になってしまったのか。いつの頃からか「グローバルの時代」だとか、やれ「友愛」だとか「親善」だとか「世界ではこうだ」とか、実に曖昧な次元で愚策が講じられ、国民もそれを当然であるかの様に受け容れて来た。

 例えば「観光立国」やシナ人留学生の優遇政策、在日特権など、問題先送りでキチンと突き詰めた議論が成されることなく、安っぽいムードだけで実行された。

「外国人地方参政権問題」や「夫婦別姓」「男女共同参画社会」などでも同じで、内閣府や総理府に巣食う左翼の策謀にまんまと嵌ってしまった結果でもある。

 国際化社会というのは、先ずは自国の文化や歴史を学び、それを基に諸外国の文化を重んじることであるが、我が国は「譲歩」や相手に合わせることを友好だと勘違いしている。特に中共や南北朝鮮との交流は異常としか言い様がない。

 シナ人の人間性は「死んでも非を認めない(死不認錯)」というのが特徴であるという。日本人も、自己正当化の為の反論というのはもっと必要であるとは思うが、間違いを改めることを憚ることがあってはならない。シナに於いては、詭弁や計略の芸術は非常に発達している。これを「詭計多端(きけいたたん)」という。

 大分前のことではあるが、評論家の金美齢が、こうしたシナ人の特異性をブログで紹介していたことがあった。(ここから引用)

 私の夫が50年前のある体験を話してくれたことがある。
 そのとき彼は台湾大学の一年生、田舎のぽっと出だった。
 学寮の食堂で、混雑に紛れて、一人の(中国人)学生が料理一皿を掠め取った。
 「ちょっと待った。君は賄い費を払っていない」
 学寮自治会の賄い委員がこれを見咎めた。
 同様の事件が頻発していたので警戒していたのだ。
 「勝手に料理を持っていって、皆が迷惑しているんだ。
 台湾大学の学生ともあろうものが・・・
 むかし日本時代ならこんなこと絶対に起こらんぞ」
 と台湾人の委員が言い始めた時、
 それまで黙ったままだったシナ(中国)人が突然逆襲に転じた。
 「何だと!台湾は昔も今も中国のものだ。
 『日本時代』とはどういう意味だ。お前は漢奸だ!中華民族の面汚しだ!」
 ここぞとばかりまくし立てるシナ(中国)人の前に、
 台湾人の方は唖然として言葉もでない。
 タダ食いの件はもうどこかへ飛んでいってしまい、
 この偉大なる中華民族の愛国者は昂然と方を聳やかせて、
 食堂から出て行ったのだという。
 こうした議論のすり替え(移花接木)は
 シナ(中国)人の最も得意とするところだ。(引用終了)

 こうした人間性は小中華の朝鮮然り。日本に帰化した方々を批判するつもりはないが、DNAとか育った環境というのはそう簡単には変わらないものだ。

 シナ人と付き合う上でこうした「死不認錯」「移花接木」「信口開河」といった、支那人の本性を理解することは大事なことだと思われますが、如何でしょう。

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2015年09月14日

君達が日陰者である時の方が国民や日本は幸せなのだ・・・

 鬼怒川決壊で救助作業を行う自衛官らの活躍は実に頼もしい。こうした自衛官の活躍を受けて、ネットでは保守派や自称・愛国者らが、吉田茂が昭和32年に行った、防衛大学校第1回卒業式での挨拶が素晴らしいと拡散しているのが目に留まった。

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 吉田は、「君達は自衛隊在職中、決して国民から感謝されたり、 歓迎されることなく自衛隊を終わるかもしれない。きっと非難とか誹謗ばかりの一生かもしれない。御苦労だと思う。しかし、自衛隊が国民から歓迎されちやほやされる事態とは、外国から攻撃されて国家存亡の時とか、災害派遣の時とか、国民が困窮し国家が混乱に直面している時だけなのだ。言葉を換えれば、君達が日陰者である時の方が、国民や日本は幸せなのだ。どうか、耐えてもらいたい」との演説を行った。

 当時としては、戦後間もないこともあり軍隊に対する偏見があったのは確かだが、今でも自衛隊を日陰者にしているのは為政者の怠慢以外の何ものでもない。

 昭和25(1950)年6月25日に朝鮮戦争が勃発すると、マッカーサーは吉田茂首相に、国内警察力と海上警備力の強化を促す書簡を送った。所謂「マッカーサー書簡(文書)」である。マッカーサーが実質、日本国憲法の破棄を促したものだ。このマッカーサーの書簡から一ヶ月後の8月9日には「警察予備隊令」が決定する。

 驚くことに警察予備隊令の決定の翌日公布、即日施行という速さで準備が整えられ、自衛隊の前身たる警察予備隊が誕生することとなった。当時は「警察予備隊は軍隊ではない」とする為に「師団」を「管区」、「歩兵」を「普通科」、「砲兵」を「特科」、「兵器」は「武器」、「戦車」に至っては「特車」という始末だった。

 我が国がGHQの統治から解放されて主権回復後の昭和27年8月1日、警察予備隊と海上警備隊を統合し、「保安庁」が設置された。続いて政府は、「保安庁法」を提出するが、野党は「憲法9条」を楯に政府を攻撃する。この与野党の構図は今も変わることなく、憲法9条を巡り不毛空論の議論が繰り返されている。

 野党に追及された吉田はその答弁で「戦力とは近代戦を実行する力であり、保安隊、警備隊にその力はない」との詭弁を弄した。その結果、自衛隊は永い間「戦力なき軍隊」と言われ続け、巨大な警察機構の儘で放置され、今もその呪縛に囚われて続けている。防衛大学での吉田の挨拶なんてのは単なる言い訳でしかない。

「言い訳は見苦しいばかりではなく、同じ過ちを繰り返す」というが、当時の吉田の判断を今更論っても意味はないが、朝鮮戦争が勃発し、吉田がマッカーサーの要請通りに現憲法を破棄していれば、現在の様な「集団的自衛権」の問題も「安全保障関連法案」の問題も、更に言えば「憲法改正」の煩わしい問題も無かっただろう。

「国防」というのは、単に領土防衛だけが任務ではない。三島由紀夫は、「国防とは、それを失えば日本ではなくなってしまうことを死守することだ」と訓えたが、正に正鵠。市谷駐屯地で自裁した三島が携行した「檄文」にはこう綴られている。

「国體を守るのは軍隊であり、政体を守るのは警察である。政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、初めて軍隊の出動によって国體が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであろう。日本の軍隊の建軍の本義とは、『天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る』ことにしか存在しないのである」とは蓋し正論。

 本来、「国民の生命と安全」を守るのは警察の役目であり、国軍としての自衛隊が護るべきは「国柄」であり「国體」であり、畢竟「皇統」である。自衛隊が「国軍」であり「皇軍」で在らねばならないというのはこういうことだ。

 安全保障関連法案が「違憲」であるなら、自衛隊こそが憲法9条違反の存在であろう。その違憲である自衛隊は今や合法的に存在していることに刮目すれば、安全保障関連法案もまた合法というのは当然の帰結でもあるが、国防を担い、国軍であるべき自衛隊が、今の様なあやふやな存在の儘で放置されて好い筈がなかろう。

 保守派いしても自称・愛国者にしても吉田茂の挨拶を有り難がってる場合ではなかろうに。それとも、自衛隊をいつまで日陰者にして置くつもりなのか。

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2015年09月10日

「観光立国」での支那人への優遇措置を改めよ!

「国慶節」になると、シナ人の「爆買い」を大きく報じ、恰もシナ人観光客が日本経済に好い影響を与えているかの様なヨタ記事をよく見るが、実際には来日しているシナ人に因る不法滞在や不法就労が罷り通っているというのが実情である。

 元警視庁通訳捜査官の安藤忠信氏によれば、「来日」外国人犯罪者の殺人事件は年平均して約35件発生し、中で多いのが当然ながらシナ人に因るものだ。

 昨年は、シナ人に日本人が9人殺されて、ここ10年の殺害件数を見ると実に145人に上る。これは来日外国人による殺人事件全体の41.5%を占める数字である。殺人でこれならば、窃盗や強盗などはこれ以上であることは想像するに余りある。

「観光立国」の裏で、こうした来日外国人の犯罪に因って、日本人が被害に遭ってる現状を鑑みれば、観光立国という愚策は早々に見直すべきであろう。

 日本国民の生命の保証、財産の安全こそ日本国民の願望であり、それらを守ることこそが政治家の務めであり、これに優る国益はないのである。

 米国やヨーロッパ、ロシア、アジアの国々はゴキブリ並みに繁殖力のあるシナ人を警戒し、あらゆる策を講じている。だが、日本国内では、シナ人らの凶暴性を知りながら、積極的にシナ人を受容れようと言うのだから狂気の沙汰と言う外無い。

 抑抑、清朝は封禁制で漢族の移住を禁じていたから、満州やその北方のロシア領、沿海州に漢族が居ることは無かった。然し、清朝の衰退に乗じ、漢族は大河沿いに進出し、売掛代金が返済出来ない土着民から、「婦人を奪い取り、まるで家財道具か何かの様に、自分ら同士で分け合っていた」というのが歴史的な事実だ。

 約100年前、北方の樺太の地で漢族が活動していた証拠がある。1807年、樺太からアムール河下流地帯を探検した間宮林蔵は「漢族商人は、借金を払えない樺太・アイヌ人の其子、其兄弟を率い帰て質と成す」と「東韃靼紀行」で報告している。

 その結果として、ロシア極東では合法・非合法を問わず、移住シナ人の数は800万人~1000万人以上に達し、民族別ではロシア人に次いで第二位となった。

 ハバロフスク州知事は、「ロシア領土側に間断無く浸透しつつあるシナ人は、次第にロシア人をこの地域から追い出す様になるだろう。シベリア・極東は最初はシナの影響圏に、やがてシナが事実上保有し、最後には法的にシナの領土になってしまうだろう」と、ハバロフスク州の眼前の危機を訴えたのは記憶に新しい。

 南方のインドに於いても、「支那脅威論」が噴出している。産経新聞に拠れば「東北国境地帯での水資源開発に対するアジア開発銀行の融資を中共政府が潰そうとした」「シッキム州ナトゥラ峠で中印両軍が衝突した」等の情報が交錯し、メディアは、インド政府が国境地帯で中共軍の活動を隠蔽していると非難した。

 然し、問題は我が国である。親中派は戦後民主主義に洗脳され、その贖罪意識から「日中友好」を推進し、支那大陸への憧れからか、支那とは「同文同種」「一衣帯水」であると宣って恬として恥入ることは無い。その認識は全く誤りである。

 日本が支那との対等外交に踏み切ったのは607年の遣隋使が初めてであり、その後の645年「大化の改新」を実現するも、663年の白村江(はくすきのえ)の戦いでの敗戦を機に中華圏との外交を絶った。その後、1871年の「日清修好条規」を結ぶまでの約1200年に亙り、日本は日本の国の中で日本文化を熟成させたのである。

 大陸からの漢字に音と訓を付け、ひらがな(後にカタカナ)を付け加え、大和言葉を表現し、支那とは全く別の文字体系と文化を創造して行ったのである。一方のシナは戦乱に次ぐ戦乱と易姓革命の連続で文字文化の発達は全く止まった儘だった。

 先日、ネットで安倍首相の字と、習近平国家主席の字とを比べた写真が載っていたが、正に漢字文化は我が国の方が遥かに優れていることを証明した。尤も、現在中共国内で使用されている漢字の多くは日本製ということを知ってるだろうか。

「人民共和国、共産主義、共産党、革命、共和、左翼、唯物論、社会主義、右翼、演説、警察、芸術、自然、自由、新聞、鉄道、文学、歴史・・・」等等、こうした使用されてる日常用語は、実は総て日本で作られた漢字であるのだ。

 シナに於ける和製漢字語研究の第一人者である王彬彬は、「我々が使っている西洋の概念は、基本的に日本人が我々に代わって翻訳してくれたものであり、中国と西洋の間には永遠に日本が介在している」と正鵠を射た意見を述べている。

 日本の漢字用語というのは、西洋の語彙を日本語に置き換えたものであり、この「漢字」こそが日本の文化と言っても過言ではない。尤も、シナ人に日本人の様な芸当は出来ないし、そんな智慧もないのは言わずもがな。

 中共も「反日教育」徹底するなら、いっそのこと「和製漢字」の使用でも禁止したら如何と思うが、「和製漢字」を捨てることなどは不可能だし、混乱を極めることは必至である。尤も、無恥で厚顔不遜なシナ人のこと、その「和製漢字」そのものもを否定して、「日本製」だと認めることは絶対しないだろう。

「同文同種」も妄想であり、「日中友好」なんぞ幻想に過ぎず、中国共産党と反日逞しい南北朝鮮とは「脱亜論」に倣い、絶交するに越したことはない。

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2015年09月08日

常に戦場にあるの心を持って生き事に処す「常在戦場」

 昨日は、長岡藩家老・河井継之助の逸話をアップしたが、河井が只見で幽冥境を異にした後には続きがある。残された長岡藩士は越後へは戻らず会津へ向かった。

 長岡藩上席家老で大隊長の山本帯刀(やまもとたてわき)もその中の一人。山本以下44名(碑に刻まれてる数字、46名とも)は濃霧の為に敵が見えず、味方の会津藩だと思われた軍勢は、霧が明けてみれば西軍の然もそのど真ん中だった。

 会津同盟軍から孤立し、銃撃されるも勇猛果敢に応戦。32名が戦死し、14名が生け捕りにされた。薩摩藩淵辺直右衛門ら3人の軍監は山本らに降伏を迫る。帯刀は「我らは降伏に来たのではない。戦いに来たのだ」と降伏を拒否する。

 この覚悟と潔さ、天晴れ。帯刀を始め長岡藩士の斬首が決まり、9月8日、藩主、そして長岡の方向に別れを告げ、粛々と異郷の地に散って逝った。帯刀、24歳。

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 彼らの遺骨は会津若松市の「本光寺」に懇ろに葬られている。山本帯刀亡き後、山本家は廃絶。明治に入り、罪は赦面となるも、跡継ぎの居ない山本家は廃家状態となっていた。そこで、山本家は長岡士族の高野家より養子縁組をすることにする。

 その養子こそが高野定吉の六男だった、後の連合艦隊司令長官・山本五十六元帥である。因みに、五十六の妻・禮子は会津士族の娘であり、河井継之助と山本五十六という悲運の武将二人と、悲運の会津藩が不思議な縁で繋がっている。

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 河井継之助や山本五十六が好んで使ったのが「常在戦場(じょうざいせんじょう)」との格言。長岡藩の藩風・藩訓であり、読んで字の如く、「何事に於いても常に戦場にあるの心を持って生き、事に処す」という意味である。

「戦場」という言葉を戦争や戦いなどと勘違いする者もいるだろうが、何処の職業でも戦場であり、これ即ち「一所懸命」、或いは「一日一生」と同じ意味であり、「今いるその場で今頑張らずにいつ頑張るのだ」という戒めである。

 政治家や上に立つ者こそ、この真心を以て事に当らねばならないが、悲しい哉、今の政治家は日々是選挙宜しく「常在選挙」。我が国の政治の為体と不作為から出でる国民の悲劇は、継之助の様な政治家がいないことに尽きる。合掌。

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2015年09月07日

「八十里こしぬけ武士の越す峠」(河井継之助)

 幕末の英雄というと坂本龍馬や吉田松陰、西郷隆盛などが有名だが、愚生的には越後長岡藩の家老・河井継之助こそ最も尊敬する幕末の英雄である。

 昨年の九月、継之助の生き様を偲びながら、終焉の地・只見町に在る記念館から新潟県長岡市へ戻る逆のコースを辿る旅を企画し実行するも無計画が徒となり、只見町から約40キロの新潟との県境付近で頓挫した。その顛末は此方ブログを御参考に! http://blog.livedoor.jp/cordial8317/archives/51953669.html

 昨年は六十里峠を通ったが、次回は八十里峠の縦走をしたいが未定だ。まぁ一人じゃ無理だし、熊も出そうだし膝に不安を抱える身としては厳しいか。

 慶応4(1968)年1月3日(新暦1月27日)、京都で鳥羽・伏見の戦いが勃発する。西軍は次第に勢力を強めて、3月には江戸城開城、上野寛永寺の戦いなどにも勝利し、最大の目標である会津を目指し北上する。7月、北越の地にも西軍が迫る。

 長岡藩は、継之助の下、藩内を統一し「非武装中立」を貫こうとするも、西軍の岩村精一郎との会談が決裂し、継之助は東軍勢力として戦うことを決意する。

 歴史に「もし」はないが、継之助と岩村の対談が成功していれば、また西軍が岩村の様な小僧ではなく、山縣有朋(狂二)か板垣退助、或いは西郷隆盛が直接対応していれば、「会津戦争」は避けられ、歴史も大きく変わっていただろう。

 継之助率いる長岡藩は、奥羽列藩同盟に加わり「北越戦争」へと突入する。北越戊辰戦争に於いて、長岡藩兵は近代的な訓練と最新兵器の武装を施されており、継之助の巧みな用兵により、開戦当初では新政府軍の大軍と互角に戦った。

 然し、圧倒的物量を有する西軍に比べ、兵力に劣る長岡軍は徐々に押され始め、5月19日(同7月8日)長岡城を奪われる。だが、その後の6月2日(同7月21日)、今町の戦いを制して逆襲に転じると、7月24日(同9月10日)夕刻には敵の意表を突く「八丁沖渡沼作戦」を実施し、翌日に長岡城を再び奪還することに成功する。

 これは軍事史に残る快挙であり、関東軍参謀で陸軍中将・石原莞爾の陸軍大学校における卒業論文は継之助のこの戦術を研究したものであるとされる。だが、この長岡城の奪還の代償は大きく、奪還を果たした当日、継之助は左膝下に被弾、重傷を負った。これにより長岡藩の士気が下がり、戦線は次第に後退して行った。

 家臣や同士から「会津藩を頼り、会津で再起を図ろう」という進言を受けるも、故郷で死にたいとの思いから拒否する。だが、戦局は益々不利となり、継之助の傷も化膿が酷く、破傷風に罹ってしまい、已む無く会津での捲土重来を期すこととなった。

 長岡から会津へは、国境の「八十里峠」を超えなければならなかった。実際には8里(約30キロ)程度の道のりなのだが、その山道は険しく、この「八十里峠」という名前がそれを現している。峠越えの途中、継之助は次の様な詩を詠んだ。

「八十里こしぬけ武士の越す峠」(こしぬけとは、「腰抜け」と「越後を抜ける」という意味で、継之助の洒落と悲しみが込められている)

 8月5日(9月20日)、会津領の只見に入り、叶番所で休憩した後、只見村の目明し清吉宅に身を寄せ七日間を過ごす。8月12日(9月27日)に只見を出発するも、継之助の体調が芳しくなく、塩沢町の医師・矢沢宗益宅に留まる。

 15日(30日)夜、継之助は従僕の松蔵を呼ぶと、「松蔵や、永永厄介して呉りやって有難かったでや」と、労いの言葉と共に死期を悟った継之助は火葬の仕度を命じた。「松蔵、火を熾(さかん)にせよ!」。この継之助の言葉が頭から離れない。

 翌16日(10月1日)の昼に継之助は談笑した後、うとうとと眠り就くと危篤状態に陥った。再び目を覚ますことのない儘に同日午後8時頃死去した。享年42歳。

 河井継之助終焉の家(矢澤家)は昭和36年、只見川電源開発による水没の為、現在は福島県只見町の河井継之助記念館内に移築されている。そんな訳で、放浪の旅に出たいという衝動に駆られる今日この頃です。誰か同道しませんか。呵呵

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2015年09月04日

「正しい歴史観」を共有するということは自国の歴史を否定することである

 今日の地元紙を読むと、実家でもある二本松市小浜と会津若松市が、会津身不知(みしらず)柿を縁に連携して観光を盛り上げるという記事以外に大して興味を注がれる記事はない。政治・外交面では、北京で「抗日戦勝と世界ファシズム戦争勝利七十周年」の記念行事と軍事パレードが行われたという記事が目に留まった。

 その席上、習近平は「正しい歴史観」をアピールし、暗に我が国に歴史の共有を強要した。プーチンや朴槿恵、そして江沢民らの御歴歴も顔を揃えた。ってか、こないだの天津での爆発事故を受けて江沢民が拘禁されたって記事が流れてなかったか?

 ホント、ネットってのはインチキ情報もあるから困ったものだ。「正しい歴史観」というが、政府は、中韓の内政干渉に屈するカタチで、「日中歴史共同研究」や「日韓歴史共同研究」という茶番が行われる様になった。その結果がこれである。

 血税の垂流し、無駄使いとはこういうことだろう。この研究は、日中韓の合意によって創られたものではあるが、「正しい歴史観」を共有するということは、自国の歴史を否定することでもある。抑抑、歴史の共同認識など共有出来るものではない。

 歴史を共有するということは、相手国の歴史を受け容れることであり、況してや戦争もしていない中共や韓国と何を、どういう歴史を共有するというのか。

 我が国の歴史学者は中韓の学者に比べれば多少モラルを持っているだろうが、中韓の歴史家なんぞ酷いものだ。彼の国にとって優秀な歴史家というものは、自国の正当性を如何に論じられるかだけで、捏造してでも真実と言い張れるかである。

 習近平のいう「正しい歴史観」というのも、「捏造のインチキな歴史を丸暗記しなさい!」ということだ。彼らの歴史に対する修正要求は、歴史解釈という様な範疇ではなく、我が国の歴史と日本人そのものを否定する愚劣な強要であり、軍事力を背景にした恫喝でしかない。さっさと安保関連法案を成立させなさいな。

 地元紙の一面には仰々しく、「元最高裁長官が違憲!」との記事が躍っている。元最高裁長官の山口繁が、共同通信の取材に応じ、安保関連法案について「集団的自衛権の行使を認める立法は憲法違反と言わざるを得ない」と述べたという。

 新聞では「憲法の番人は最高裁であり憲法学者である」と語った高村正彦自民党副総裁の発言が、然も問題であるかの様に書かれているが、「法案は憲法違反であるから憲法を見直してからやるべきではないか」という苦言にも聞こえなくもない。

 悲しい哉、そんな悠長に憲法論議をしている時間的余裕は無いし、憲法9条の平和主義を補う上で、平和主義を全うしようと安保関連法案成立を目指すことは、「戦争法案」と叫んでいるバカ者らにとっても有難いことではないか(笑)

 抑々、最高裁というのは最高の判決を出す処ではない。その罪が現憲法に違反しているかどうかを審理する処であって、司法の最高機関に於いて「違憲判決」が出たなら、立法府である国会としては粛々と憲法の見直しをすれば好いことだ。

「憲法の番人」が最高裁なら、国会議員が守るべきは国民である。だが、如何せん、現憲法には国会議員の憲法順守規定があるんだよなぁ。ということは、憲法改正を発議することは現憲法の否定に繋がり、憲法を守ってる限り憲法改正は夢のまた夢ということ。現憲法はもう矛盾だらけで、国の基本法としては機能していない。

 憲法改正なんぞより憲法を捨ててしまったらどうだろう。「イギリスには憲法はありません。イギリスの議会制民主主義を見倣おう!」、な~んてね(笑)

 憲法が無けりゃ「違憲だの」「護憲だの」と煩わしくもないし、最高裁も要らなくなれば、元最高裁長官の勘違い野郎が出しゃばることもないだろう。呵呵。

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2015年09月01日

大東亜戦争の真の歴史と意義を知ることは国民としての義務である

20100919221854
 1945年(昭和20年)9月2日、東京湾上に停泊してた戦艦ミズーリの甲板上で重光葵(しげみつまもる)外相と梅津美次郎参謀総長が降伏文書に調印する。

「上海天長節爆弾事件」で右足を失った重光全権は、ステッキを頼りに義足を引き摺りながらミズーリの階段を喘ぎ喘ぎ上る。調印を前に重光は一杯の水を所望する。

 案の定、その要望は米国側に冷たく拒否された。卑怯者の「ジャップ」にやる水などないという米国人の憎悪が目に見える。 重光全権の強かさにも思える。

 遡ること昭和7年4月29日、重光は上海に於いて、駐中華民国公使として天長節奉祝式典に参列し、国歌を斉唱する。この時、朝鮮独立運動家・尹奉吉が爆弾を投擲。だが、重光は逃げずにそのまま「君が代」を歌い続け、結果、片足を失った。

 重光は、この事件を振り返り「爆弾が投げられたのは分かっていたけれど、国歌斉唱中なので動かなかった。動くのは不敬であると考えた」と述べている。

 重光の隣でやはり遭難して片目を失った海軍大将だった野村吉三郎も、重光と同じく「国歌斉唱中だったから逃げなかった」と、その理由を語っている。

 終戦後に外相や駐米大使となる野村や重光の様な、こうした決死の覚悟というか、肝の据わった官僚や政治家がいないのは我が国の不幸とも言えよう。

「君が代」「日の丸」に反対する勢力も、また軽々しく国旗や国歌を利用する自称・保守派や右翼人もまた、決死の覚悟が伴っているかといえば疑問である。
 
 降伏文書の署名に由って我が国は「負け」を認めた訳だが、先の戦争は決して間違いではない。抑抑、何故に我が国が開戦を決意し真珠湾攻撃に至ったかが問題であり、それにはペリー来航時代にまで遡らなければ到底理解は出来まい。

 ペリー総統率いる黒船に驚いた我が国は、強力な中央集権国家を形成しようと明治維新の大業を成し遂げた。15世紀の大航海時代以来、白人による世界制覇の波がアジアにも押し寄せ、アジアは次々と列強に蚕食され植民地となって行った。

 その間に勃発した「日清・日露戦争」も避けては通れない宿命的な歴史だったのだ。「日清戦争」に続く「日露戦争」での日本大勝利の報は、固唾を呑んで見守っていた世界の人々を驚嘆させ、特に有色人種に与えた影響は強烈だった。

 日露戦争勝利から15年後、パリ講和会議で「人種平等の原則」を国際連盟規約に載せることを提案。然し、議長を務める米国大統領ウイルソンが拒絶し否決される。「有色人種に人権など必要無い」との差別が横溢していたのは明らかだった。

 その後、世界は第二次世界大戦に突入し、我が国はABCD包囲網や最後通牒を突き付けられ、最早生き残る道は連合国との戦争しかないとの決断に至るのだ。

 今も糾弾して止まない「リメンバーパールハーバー」は、日本人への偏見と差別であり、先の大戦の過ちを反省すべきは我が国ではなく米国自身である。

 歴史を語る上で大切なことは、古今東西、世界に蔓延る覇権主義の克服を主張すべきであって、他国の覇権主義には目を瞑り、一方的に自虐の淵に止め処なく漬かり込むことではない。終戦70年を迎えた今、日本という奇跡の国に生まれ育った者として、大東亜戦争の真の歴史と意義を知ることは国民としての義務である。

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