2014年12月

2014年12月30日

行動右翼のパイオニアである防共挺身隊に所属していたという誇りを胸に精進して欲しいものだ

 
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 ネットで画像を探してたら懐かしいものを見付けた。防共挺身隊(防挺)時代の後輩らだが、福島支部長や幹事会メンバーもいて懐かしい。紀元節に靖国神社に集まった時のものだろう。

 今は夫夫、何をやっているのだろう。まぁ現役時代も真剣に右翼という生き方をしていた訳でもなし、日々の生活に流されているに違いない。

 そんな中で、元本部長だった久山宣史の事件は実に情けなく、慚愧に堪えない。

 右翼が、国家社会主義、農本主義、純正日本主義などの思想を基に活動したのは遠い昔の話で、今はそうした思想も無ければ政治に対してもネット右翼と呼ばれている連中の方が長けている。

 だが、悲観はしていない。

 人生、好い時もあれば悪い時もあるもので、女に奔ったり、金儲けに奔ったりする時期もあってもいい。その方が人間味があって右翼らしい。どんな生き様をしてようが本物は残る。

 街宣車のある者は、それを大いに利用して街頭演説で啓蒙したり、悪徳資本家へ抗議するのもいい。宣伝車が無い者は徒歩で集団示威行為をしたり、ハンドマイク使った街宣もいいだろう。

 政治家や悪漢、営利に標本する企業への抗議文の投函や送付、ビラを撒くも良し、或いは、何かの形で社会貢献するのも良し。運動とは夫夫が出来ることをコツコツとやれば好い。

 真面目な右翼も、不真面目な右翼も、パクられてばかりいる右翼も、そうでないビビリな右翼も、金儲けの下手な右翼も、ヤクザ系の右翼も、詩心のない乞食右翼と揶揄される者も、皆、右翼。色んな右翼がいて右翼なのだ。

 右翼は愛国者ではない。愛国者とは国に頼らず国を支えている勤労者だと思う。

 だが、右翼として日々の生活を怠惰に生きながらも、或いは日々の生活に流されながらも、志しさえ忘れなければいつかはその熱意は届くだろう。

 それには、己の弱さを知り、それを克服せんが為に努力し、自らの魂を磨くことこそ大事である。

 保守ブームに便乗し、「日本は滅びる!」「日本が危ない!」と徒に危機を煽り、日本が滅亡するかの様に叫ぶ自称保守や、それを売り物にしている営業右翼がいる。

 右翼から左翼に転向しながら未だ新右翼を騙る輩もいる。

 そんな営業保守、営業右翼、似非右翼の言葉を真に受けて、その御先棒を担ぎ、前衛となってネットで街頭で騒ぎ立てているのが自称・愛国者らであり、ネット右翼だ。

 右翼の何たるかも知らないで「右翼」と称されるとは右翼もナメられたものだ。

 愛国運動が軽々しくなったのは政治家の無能は然ることながら、「愛国」や「保守」を利用し、それを生業としている輩が元凶ではなかろうか。

 正統の保守主義者に於いて時間を体験する仕方は、過去の意味を直視し、その中に価値を見出す発見によって未来を創造して行くものである。

 高い精神の伴わない現在の我が国の様な繁栄はやがて衰退する。我ら大和民族は目先の繁栄ではなく、神武肇国の精神の高揚と国民国家の繁栄をこそ目指さねばならないのだ。

 国を愛する心を涵養するとは如何なることか。街頭に立ち、日の丸や旭日旗を掲げ、街中を闊歩するそんな軽々しいものではない。

 それは我々日本に生を享けた者が、八紘を掩(おお)ひて宇(いえ)にせむこと。つまりは神武肇国の大理想「八紘一宇」を掲げ、天皇國日本の真姿開顕へ奮闘前進すること以外に無いのだ。

 愚生は防挺の運動方針に付いて行けず袂を分かつ結果となり、行動右翼のパイオニアを自任した防挺も今や風前の灯。

 そうした現状は淋しいもので、隔靴掻痒の感は拭えないが、愚生を含め、防挺を去った後輩らも、防挺に所属していたという誇りを胸に精進して欲しいものだ。

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 序にもう一枚。この画像も拾い物だが、どう見ても公安か公調からの流出だわな(笑)

 紀元節に靖國の社頭で挨拶に立つ永尾隆幸参謀。大日本誠流社元総隊長だが、縁あって防挺に。愚生が辞するぱったりと音信不通になった。

 いつぞや近況報告の連絡をしたが、何やら親の保険金やら遺産が入り、親から譲られたアパート経営やらで悠々自適らしく、カトリックに改心し牧師を目指すとか言ってたなぁ。

 カネを廻してくれと言いたかったが、無理そうなので止めといた(笑)

 まぁそんなとこで、今年の「爆ちゃん吼える」は今日が最後です。

 今年も拙ブログに御付き合い頂きまして有難うございました。衷心より感謝申し上げると共に、謹んで皇室の弥栄を寿ぎ奉り、併而、来たるべき年が皆様にとって益々実りある年と成ります様に御祈念申し上げます。すめらぎいやさか。

 皇紀2674年 12月30日 佐久間五郎拝

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2014年12月28日

「生活の党と山本太郎となかまたち」のその仲間って中核派だろ!

 
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 無所属の山本太郎参院議員が生活の党に入党した。政党交付金(政党助成金)のことしか頭にない小沢一郎は、てっきり亀井静香に秋波を送るのかと思いきや山本太郎とはいやはや驚いた。

 党名は「生活の党と山本太郎となかまたち」。我が国の憲政史上、これほどマヌケで国民をバカにした政党名が在っただろうか。

 その「なかまたち」ってのは、過激派「革命的共産主義者同盟全国委員会(中核派)のことだろ。

 山本は単なるタレント候補ではない。この「革命的共産主義者同盟全国委員会」の公認を受けて当選した人物であり、その目的は共産主義を行政権と連結せしめる役目である。

 参院選前の中核派の機関誌「前進」には、山本の記事で溢れていた。

 「被曝させない・TPP入らない・飢えさせない、という山本太郎氏の主張は、労働者階級人民の率直な叫びである。それは原発輸出と再稼働、TPP交渉参加、解雇規制撤廃、賃下げ・大失業、そして憲法改悪を進める自民党=日帝・安倍政権と真っ向から激突する巨大な闘いとなる」

 「参院選は、東京100万人決起で安倍政権を打倒する決戦となった。原発再稼働とTPP、大失業攻撃と改憲に突き進む日帝・安倍への怒りを込めて、東京選挙区から立候補した山本太郎さんの必勝へ総力決起しよう」

 原発事故以来、反原発運動や脱原発を利用し、中核派が勢力を伸ばし、NPOやNGOを隠れ蓑に左翼の蛆虫共は行政にも入り込んだ。

 愚生の住む福島県はその象徴とも言うべく、原発事故以来、反原発運動や脱原発を利用し、極左が勢力を伸ばし、NPOやNGOを隠れ蓑に行政にも入り込んだ。

 県内は復興どころか復旧さえも進まないのは、政治家の怠慢も然ることながら、県民に放射線の恐怖を煽り続ける左翼どもが元凶なのだ。

 極左を取り締まるべき警察は、左翼やシバキ隊と与する梓澤和幸弁護士らの抗議に怯み、何ら手立てもなく拱手傍観を極め込んでいる。

 これ即ち警察権力は左翼の手に堕ちた証左でもあろう。 

 三島由紀夫は祖国防衛論でこう訴えた。

 「我々はあらゆる革命に反対するものではない。暴力的手段たると非暴力的手段たるとを問わず、共産主義を行政権と連結せしめようとするあらゆる企画、あらゆる行動に反対するものである」

 「反原発」「脱原発」や「子どもたちを被曝から守ろう!」などとキレイゴトを口にして、極左らは行政権に入り込み、福島県と福島県民を貶めたばかりか、我が国を蝕み続けている。

 政党助成金欲しさに、こうした極左とも手を結ぶ小沢という男を国賊と言わずして何と言おう。

 まぁ、陛下へ直訴した国賊を、権力を誇示しようと陛下を利用した国賊が同道していこうということだが、こうしたことが受け容れられる日本というのはホント懐がデカい(笑)

 小沢の権力欲と売国性は今さらながら語ることも無いが、これほどまでに無節操な政治家がいただろうか。これが自民党の大物幹事長のすることか。

 小沢のカネへの執着は尋常ではない。

 小沢はその昔、政治資金の在り方に関し、自著「日本改造計画」で「先ず、政治資金の出入りを1円に至るまで全面的に公開し流れを完全に透明にすることである」と提唱し、同時に罰則の強化も主張し違反の言い逃れを封じる為に「連座制」を導入すべきとも訴えた。

 しかし、現実にはこの時には小沢は西松建設のダミー会社から献金を受け取っていたというのだから、これほど国民をバカにした話しがあるか。

 献金問題で公設秘書が逮捕されると、「逮捕されただけで起訴されたんですか」と開き直り、「献金してくれるという方について、どういう所から出ているのかという類を聞くのは失礼なことですし詮索しない」と答え、その場を取り繕った。

 更には、秘書が起訴されると、「なんで私が離党し、議員辞職しなければならないんですか」と気色ばんで、質問した女性記者を睨み付けた。

 小沢の疑惑は、西松、水谷建設の「裏献金疑惑」や、世田谷の土地購入問題意外にも、「都内の高級マンション購入疑惑」「岩手めんこいテレビ株主問題」「個人資産疑惑」「名護市辺野古の土地取得」と枚挙に遑なし。

 これらの不動産取得や蓄財が小沢個人のカネではなく、新生、自由党の解党時の政治資金約23億円もの血税が使われたということに、国民はもっと怒るべきだと思う。

 抑々、小沢一郎の「陸山会事件」は政党交付金の在り方を問わねばならない問題だったのだ。

 だが、マスコミも政治家からも政党交付金に対する疑問は呈されることはなく、単なる政治資金規正法の虚偽記載という微罪で、小沢はまんまと逃げ切った。

 「政党交付金」は国民の血税であり、法律を作る側の政治家が法の網を巧妙に抜け、これを返納せずに不動産購入や蓄財に充てるなど言語道断である。

 「生活の党と山本太郎となかまたち」という国民を愚弄する政党交付金目当ての新党結成に断固抗議すると共に、国民への背任、横領、詐欺行為でもある政党交付金の即時廃止を断行させよう!

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2014年12月27日

ヤンキース・イチロー選手が靖国神社参拝するってよ!?

 
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 兵庫県神戸市で自主トレ中のヤンキースのイチロー選手が、近近に上京し、靖国神社を参拝するのではと実しやかな噂が囁かれている。

 「祖国の為に戦った先人に日本人として感謝を捧げたい」というのは未だしも、「玉串料として数千万円を靖国神社へ寄付する」と言い触らすというのは胡散臭げにも思える。

 靖国神社とプロ野球選手というのは実は深い繋がりがある。

 大東亜戦争で亡くなられたプロ野球選手といえば、東京巨人軍(現・読売ジャイアンツ)の澤村榮治や名古屋軍(現・中日ドラゴンズ)石丸進一の名前は存じている人も多いだろう。

 だが、大戦で亡くなられたプロ野球選手は彼らの他にも、試合の途中で出征した方や、幾度かの戦火を潜り抜けて帰還し、再び出征して終には戦場に斃れた方など、実に69名もいる。

 こうした悲劇を知る国民は少なく、イチローが靖国神社を参拝することで、靖国神社に対する偏見が止むことになれば勿怪の幸いでもある。

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 英霊の中でも有名なのは東京巨人軍の澤村榮治投手だろう。

 澤村投手がどんなに凄い選手かは説明するまでもないが、年間最優秀投手に与えられる「沢村賞」はプロ野球選手の最高の名誉ということでも想像出来よう。

 澤村榮治選手は野球だけではなく、何事にも真摯な態度で挑む人で人格者だったという。

 澤村投手の背番号「14」は永久欠番となっているが、ベーブルースを三振にしたくらいで永久欠番になる訳はなく、プロ野球選手として志し半ばにして出征し、異国の地で散華されたその崇高な精神を忘れない為のものであろう。

 名古屋軍(現・中日ドラゴンズ)の石丸進一投手と、朝日軍(現・横浜ベイスターズ)の渡邉静内野手は特攻作戦で亡くなられている。

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 石丸投手は海軍鹿屋基地から出撃の直前、最後のキャッチボールをして飛び立った。どんな思いで最後のキャッチボールをされたのか、その心中察するに余りある。

 渡邉静選手も鹿屋基地から沖縄へ出撃した。

 渡邉選手は夢見て憧れて入団したプロ野球人生での打席はたった二度。彼らは野球への情熱を、特攻という作戦に捧げ沖縄を、そして日本を死守すべく散華されたのだ。

 自らの命を犠牲にすることで、国や家族、愛するものを守るという彼らの至高の精神を我々は決して忘れてはならない。

 我が国は悠久の歴史と民族の一体性に恵まれている。ところが皮肉なことに、国の礎となった英霊の方々は国家から顧みられることが少ない。

 このことがどれだけ国民精神の頽廃を招いているのか考えたことがあるだろうか。

 愛国心や大和心の欠落、その結果としての国防意識の低下、日本人としての誇りや自信の喪失、子殺しや親殺し等の悲惨な事件にしろ、日本の社会に蔓延する問題の全てはそこに起因していると言っても過言ではない。

 先祖でもある英霊にきちんと向き合うこともせずに、まともな国家を築けるだろうか。

 散華の心と鎮魂の誠という、この分かつことの出来ない誠心こそ、民族の魂の記憶として、誇り高く永く後世に継承することこそ国家再建の道である。

 イチローならずとも、靖国神社に眠る英霊の聲を聞こうというのは大事なこと。

 イチローが靖國神社に参拝することで、明治天皇の思し召しで造られた靖國神社創建の趣旨と英霊の悲劇が国民に広く啓蒙されることを願って止まない。

 これを機に、開幕前には選手全員で靖国神社に参拝したらどうだろう。平和の世にあって、当たり前にプレー出来る有難さを実感すれば、選手の思いもまた違ってくるのではなかろうか。

 イチローよ、こうした風聞が流されるのも人気の証拠。これも何かの縁だろう。靖国神社に赴き、69名のプロ野球の先人達に頭を垂れ、感謝の誠を捧げよ!

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2014年12月26日

アンジェリーナ・ジョリーが監督した映画「アンブロークン(ANBROKEN)」への雑感

 
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 アンジェリーナ・ジョリーが監督を務める映画「アンブロークン(ANBROKEN)」が話題になっている。ポスターを見る限りでは中々過激で「反日映画」だと批判されても可笑しくはない様にも感じる。

 映画の内容は、先の大戦で、日本軍の捕虜となった元ベルリン五輪選手で米軍機の爆撃手だったルイス・ゼンペリーニという人物の半生を描いている。

 予告を観る限りでは中々興味を注ぐ映像に仕上がってるが、何やら日本兵の捕虜に対する虐待や捕虜を生きたまま人肉を食べたという内容が描かれているというから驚くというか厭きれる。

 捕虜への虐待は東京裁判でも明らかにされているが、どれも些細なことで虐待とは言い難く、されどそうした事実は認定され、所謂B・C級戦犯として処刑されている。

 この映画に登場する日本兵も、ルイス・ゼンペリーニがこうした証言をし、映画になったということは、戦犯として処刑されているのだろうか。そうしたその後の事実にも興味が注がれる。

 B・C級戦犯の不当性を知るには、映画「私は貝になりたい」がいい。

 「アンブロークン」が、日本兵の虐待と人肉を食べたということばかりが話題にさてしまったのは、風聞を鵜呑みにして書かれた脚本の誤りを糺さずに演出してしまったことが要因だろう。

 こうした史実への歪曲は映画ファンとしては残念なことだ。ならば、いっそのこと、猟奇的映画にすりゃ好かったとも思う(笑)

 猟奇的な映画といえば、人肉をミートパイにして食べたというジョニー・デップ主演の「スイニードット・フリート街の悪魔の理髪師」は面白かったなぁ。

 映画にも、ミュージカルにもなっている「スイニードット」が、人肉を食べる猟奇的作品では最高傑作だろう。「アンブロークン」は、その「スイニードット」に対抗しようとでもいうのだろうか(笑)

 だが、残念ながら日本には、生きた人間を食む風習は無い。

 そいうや過去にも日本軍の慰安婦だったという老婆が登場し、「慰安婦にならなければ、殺して釜茹でにして食ってやる」と言われたと、当時の恐怖を真顔で語ってたことを思い出す。

 どうしても「反日」というと、朝鮮人のウソが一役買っているのは言わずもがな。これは自分達の風習を、日本人も同じ様にやっていると思って仮託した「同一化虚言」の典型的なものだ。

 日本軍が疑われるとすれば、日本軍には、当時日本人だった朝鮮人も日本人だったということ。それが事をややこしくしている様にも思えてならない。

 大陸支那の影響を受けた朝鮮人には、確かに悪病治療の迷信から人間の肝や指などを食べる人肉食習慣が存在した。そうしたことが、日本人への偏見を生む原因になってるのも確かだろう。

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 要は、アンジェリーナ・ジョリーにしろ原作者にしろ、証言者の妄想や虚言を一方的に信じてしまったということだが、こうした偏見や先人に対する愚弄は断じて否定しなければならない。

 まぁ、所詮はフィクションとしての娯楽映画で、目くじらを立てる必要もなかろう。況してや日本軍に対する外国映画は悉く失敗しているし、この映画も同じ結果になるだろう。

 例えば、「パールハーバー」にしろ、大東亜戦争末期のサイパンを舞台にした映画「ウインドトーカーズ」にしろ、観るに忍びない最低の映画だった。

 或いは、「南京事件」を題材にした「ジョン・ラーベ 〜南京のシンドラー」や「南京・NANKING」、更には「南京!南京!」などなど、恐らく大赤字だったのではと他人事ながら心配になった(笑)

 特に「パールハーバー」は、前宣伝が素晴らしく、興奮と期待に胸を膨らませて観たのだが、中身は史実を無視した実に陳腐且つ御粗末なものだった。

 パールハーバーの見せ所であった日本軍の爆撃が40分にも及ぶのだが、これには改めて日本軍の強さを実感し、心地好い爽快感があった様にも記憶する(笑)

 共通するのは日本軍が矮小化され、如何にもアジアの敵であるかの様に悪者にされているのだが、せめて史実に則って描けばいいものを、どうしても日本を悪玉に仕立て上げ様とするから無理な演出になってしまうのだ。

 今やアメリカ映画も地に墜ちたもので、ハリウッドの凋落の一途を辿っていることは誰の目にも明らか。まぁそれでも、映画好きな愚生としてはTSUTAYAで安くなったら観るだろう(笑)

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2014年12月25日

第三次安倍内閣発足。国威発揚に滅私奉公せよ!

 
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 衆参両院で首班指名された安倍首相は組閣に入り、皇居での首相、閣僚の任命式を経て第三次安倍内閣が発足した。発足したからには国威発揚に滅私奉公して頂きたいものだ。

 今朝の地元紙の論説は「安倍政権は信任されたのか?」という内容で、総選挙を振り返り、「党派別の得票率は自民党と民主党では7.3ポイントしか差は無く、過半数にも届いていない」という作為的な記事が載っている。

 選挙は、0.1ポイントであろうとも勝てば好い訳で、多数決こそ民主主義である。普段「民主主義、民主主義」とホザいてるマスコミがこうした記事を垂れ流し、国民を誘導するというのは如何なものか。

 我が国の首相が、恰も民主主義で選ばれたのではないとでも言いたいのだろが、国民として新内閣が発足したことを喜び、大いに期待してみようとの思いに何故にならないのか。

 相変わらず何でも腐す、そういう冷笑的な態度を執ることが真のジャーナリズムだと錯覚しているが、こうした「低能ジャーナリズム」を糺さねばならないと熟熟痛感する。

 それよりも、こうした無駄な選挙と組閣の度に任命式を行う陛下の御苦労如何許りか。今年は陛下の負担軽減の一環として新嘗祭(勤労感謝の日)当日の未明に執り行われる「暁の儀」の拝礼を取り止められた。

 コロコロ変わる首班や閣僚の任命式なんぞ、代理でいいではないか。天長節もあり、何かと行事が立て込んだ中での任命式に違和感を覚える。 

 天皇の祭事は、元旦早々の「四方拝」から始まり、「歳旦祭」「元始祭」や毎月の旬祭など、実に年50回ほどの祭事を執り行う。

 天皇は憲法上の制約から、国事行為として「国会の開会式」「首相や最高裁長官の親任式」「大臣の認証式」「親授式」など年間約60回。

 国賓・公賓への接遇や会見、会食などの御公務を約170回お努めになられ、他にも被災地への訪問や皇居清掃奉仕団への会釈など熟されておられるが、これほどの激務があろうか。

 天皇が最優先すべきものは神事であり、「国安かれ、民安かれ」と国家国民の安寧を祈る存在こそが天皇なのだ。

 だが、悲しいかな我が国は、未だGHQの「神道指令」に怯え、現憲法を最優先にし、天皇の神事を等閑(なおざり)にしている。

 天皇陛下の現憲法上に於ける御地位、或いは権限というのは、悲しいかな「国民統合の象徴」という実にあやふやな表現に留まっている。

 現憲法は、歴史的な国家としての継続された「祭祀」に関する天皇の役割を否定しており、これ即ち、未だ米国による占領政策である「神道指令」の呪縛から解放されずにいるということの証左でもある。

 これを政治の怠慢、不作為と言わずして何と言おうぞ。

 安倍政権が真に「戦後レジームからの脱却」を図るのならば、国體や国柄を護る上でも、天皇の「祭事」を憲法上最優先で認められる様にすべきである。

 日本国憲法というのは国の基本法として体を為していない。憲法というと第9条ばかりが議論されるが、9条よりも、「第1条」が酷過ぎるのだ。

 第1条は「主権在民」「象徴天皇制」を謳っているのだが、「天皇は日本統合の象徴であって、それは主権の存する国民の総意に基づく」と在る。

 日本共産党や左翼どもはこの第1条のこの項目を理由に天皇の存在を否定し、「天皇は憲法違反の存在だ」と断じて憚らない。

 卑しくも日本国民たるものが、陛下の御地位、御発言、御行為等を彼是批判することは誠に以て不遜不敬、不屈至極であり、断じて赦されるものではない。

 共産党らは、国體変革、革命謀略の大反逆心から、「我々が反対しているのだから国民の総意ではない」と御託を並べるが、これ実に御粗末且つ無礼千万。

 そうした屁理屈を並べ、陛下が御臨席遊ばされる国会の開会式には必ず欠席し、不敬不遜を働き続けている。

 こうした日本人としてあるまじき無礼にも、衆参議長も総理大臣も咎めたこともなく、拱手傍観を極め込んで看過していることに違和感を感じている国民は多い。

 こうした共産党の行為を苦々しく思い、怒りを覚えるが、残念ながらこの共産党の屁理屈は、憲法上の解釈としては正論なのである。

 だが、抑々、天皇陛下は憲法以前の御存在であらせられ、憲法が在って天皇が存在せられるものではない。これは歴史が証明するところであろう。

 我が国に於いては、天皇即日本であり、日本即天皇であり、天皇の存在せられない日本など断じてあり得ないのである。

 これ即ち、明治天皇が教育勅語の中に於いて、「世々その美を済せる国體の精華」と御諭しになったところであり、万邦類い無き「天皇国日本」の真姿である。

 欽定明治憲法(大日本帝国憲法)の第1条に「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と在ることは、万世一系という歴史的事実と、我が国の本来在るべき姿を明示されたものと謹解する。

 第三次安倍内閣発足で記者会見した安倍総理は、憲法改正への国民の理解を得る為の取り組みを強める意向を示した。

 「憲法改正」というと「第9条」ばかりが問題にされるが、「第9条」よりも「第1条」の共産党らの天皇否定の屁理屈を明らかにすれば、国民は膝を打ち、憲法改正への理解が深まり、改憲に反対する声は少なくなるだろう。

 天長節に宮城に赴き、聖壽万歳を声高らかに唱和する国民の姿は実に頼もしく心強いことではあるが、日本国民として、天皇が日本の歴史の中で果たして来られた役割や、在り方を学ぶことが、延いては戦後レジームからの脱却に繋がるのだ。

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2014年12月24日

クリスマス商戦一色の風景は、天皇陛下を戴く日本にはそぐわない

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 今日はクリスマスイブ。街はクリスマス商戦一色。商魂逞しい日本人らしいが、天皇陛下を戴く日本にはそぐわない景色だ。

 画像は表参道。参道とは神社や寺院に参拝する為に造られた道であり、表参道はその名の通り明治神宮への参道である。

 以前、愛国党の故筆保書記長や他の右翼団体らが、「こうした華美なイルミネーションは明治神宮創建の趣旨からも逸脱しており自粛すべし」との抗議を行った。

 商店街の役員らも同意し、自粛された時期もあるが、現在は残念なことに以前よりも華やかになってしまっている。

 まぁこれも発光ダイオードの効果か、流石はノーベル賞(笑)

 天皇誕生日を祝ったかと思うクリスマスイブで盛り上がる。イブが終わると年末年始に向けて街の様相も変わり、正月に向けまっしぐら。まぁイベント好きな日本人らしいといえばそれまでだが(笑)

 大晦日には寺で除夜の鐘を撞き、元旦には神社に初詣、年賀状には元号を記す。日本人とは実にいい加減、否、実に大らかな民族なのだ(笑)

 キリスト生誕を祝うのは結構だが、日本には日本の神が存在する。

 「古事記」を読んだことがあるだろうか。古事とは、その名の通り、古い事、昔からの言い伝えである、故事や謂れが綴られている。

 その書き出しにはこう記されている。

 「天地創めて發けしとき高天原(たかまのはら)に成りし神の名は天御中主神(アメノミナカヌシノカミ)、次に高御産巣日神(タカミムスビノカミ)、次に神産巣日神(カミムスビノカミ)、この三柱の神は皆獨神と成りまして身を隠したまいき」と書かれて在る。

 「造化三神」「神代七代」や「伊邪那岐(イザナギ)」と「伊邪那美(イザナミ)」が生んだとされる神は実に三十五柱に及ぶ。

 キリストや釈迦、マホメット、孔子などと同じく、我が国にはこういう神々も存在しているということを日本人なら知っておくべきだろう。

 こうした神話が描かれているのが「古事記」で、筆録者は太安麻呂(おおのやすまろ)。

 我が国で最初に書かれたとされる書籍で、語り部の稗田阿礼(ひえだのあれ)が暗誦していた「帝紀」「旧辞」を基に編纂されたものとされている。

 「古事記」は読む人によって感じ方も違うし、古代人が何を言わんとしたのかは捉え方も夫夫で、奥深く愉しい古典でもあり、日本人の必読書である。

 マンガも現代語訳の本や、竹田恒泰著の現代口語の分かり易いものも多く出版されているので、クリスマスケーキを買う気分で購入して読んで頂きたいものだ。

 西洋の神が天地創造の神で唯一絶対な不変の存在とされているが、古事記には、我が国の神々は「宇宙の後に生まれた」と描かれいる。

 これは何気ないことの様に思えるが、我々の祖先は、唯一絶対の神々が世界を意のままに創造したのではなく、それ以前の「無」の時間、つまり「ビックバン以前の宇宙世界を想定していた」というこの教えは、驚くほど科学的でもある。

 「高天原」とは「三次元世界」を表しており、「高」は高低の差を示す縦軸。

 「天」は空間であり時間。「原」は無限に水平に広がり行く横軸。

 「古事記」には我々日本人の先祖の歩んできた歴史が比喩を駆使して生き生きと描かれ、同時に日本語本来の美しさも感じられる。

 一見難しそう漢字が使われてはいるが、日本語が未だ完成していない時代に作られたものなので漢字自体にはそれほど意味はない。

 「音」を頼りに読み解いていくことが大切で、日本語の「言葉」とは「言ハ」であり、「コト」を表現する言語なのだ。

 これは他国の言語には見られない特徴で、一つの言葉に多くの事柄を含めて伝え合う日本独特の文化であり、「古事記」の文章の中に、在る「こと」を探って読み解くことが大事で、夫夫その感じ方が違ってもそれはそれでいい。

 日本神話の特徴は、神でも失敗や過ちを起こすということではないだろうか。

 神が失敗や過ちを起こすことなど考えられないことだが、この教えで大事なことは、「二度の失敗はしない」ということ。

 年末を控え夫夫悩みも尽きないだろうが、我が国の神様でも失敗はすると思えば人生気楽に生きられるというものだろう。

 「失敗は成功の基」ともいうし、己の失敗を反省し、思索し、それを克服することで成長し、更に向上することが出来るのだと思う。

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2014年12月23日

天皇誕生日を祝うと共に戦犯との汚名を着せられ続けている英霊の名誉恢復と御霊の安らかならんことを祈る

 
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 本日は天長節(天皇誕生日)。皇国臣民としての喜びこれに優るものなし。謹んで陛下の弥栄と長久を祈念申し上げます。

 我が国は永い歴史の中から数々の伝統及び制度が生み出されてきた国家である。そんな中で永遠に無くなってはならぬものが天皇を戴く国家の在り方であることは言うを俟たない。

 我が国は2674年の永きに亙り「万世一系」の天皇を戴き、常に国民や世界の平和を祈り続けておられる天皇を、善き至高の存在として暮らして来た民族である。

 これこそが我が国のあらゆる制度の基盤であり核心である。

 我が国は、天皇を族長と仰ぐ君民一体の家族国家であり、日本即天皇、天皇即日本の天皇国家である。

 天皇の御代が栄えることは、即ち国民の代が栄えることとなるのである。正に君民一体、この国體の精華は万邦類を見ないところである。

 世界に冠絶した「君が代」そのものの世界が厳然と存在する国が日本なのだ。

 国歌・君が代の出典は、「古今和歌集」巻七「賀の部」で詠まれた「わが君は千代に八千代にさゞれ石の巌となりて苔のむすまで」という一首。

 この歌が「詠み人知らず」の草莽の庶民であったところに、我が偉大なる民族性を改めて認識し、無限の感激を禁じ得ない。

 だが、こうした国柄を否定し、天皇や皇室を批判する誠に以て不遜不敬、不届至極の不逞の輩がいるのも確か。

 これらを排除し、迫る来る祖国の危機に対処し、天皇国日本を盤石の安きに置く使命を有するのは、真の保守派であり、我ら民族陣営である。

 正に存在の意義を示す神機は近付きつつあるのだ。

 我ら、一旦緩急に備え遺憾無きを期そうではないか。

 また今日は、所謂A級戦犯として処刑された7名の命日でもある。

 GHQは、当時の皇太子のご生誕の日を選び処刑を行った。

 未来永劫、日本人に贖罪意識を持たせる為のものであるが、こうした事実をしても米英を始めとした連合国が如何に非情かが解るというものだ。

 我国には「A級戦犯」「B・C級戦犯」「戦争犯罪人」などという呼称はない。刑死、獄中死された方々は「法務死」と称されており、靖国神社に「昭和殉難者」としてお祀りしている。

 極東軍事裁判に於いて弁護する機会も与えられず、一審即結審という復讐という名の茶番劇で、或いは外国の地で不当に処刑されたこの方々の命は決して軽いものではない。

 敢えて反論もせず命を捧げて罪を償ってくれたのだ。

 平和を謳歌し、今を生きる我々は、この英霊の悲劇を忘れてはならない。

 極東軍事裁判でパル判事はこう述べる。

 「国際法の原理に基づきこの法廷で日本を裁く権利は無い。(省略)各被告は全ての起訴状中の各起訴事実部につき無罪とされなければならない」

 しかし、パル判事の意見は忙殺された。

 だが、判決から2年半後に証明されることとなる。

 米国軍事委員会でマッカーサーが「彼ら(日本)が戦争に入った目的は、主として自衛の為に余儀なくされたものだ」と証言した。

 極東軍事裁判は連合国最高司令官マッカーサーの権限に基づいて行われたものだが、その責任者が公的な場で認めた。

 パル判決が正しいものであったことが証明されたのだ。

 我国には「戦犯」など存在しないのだが、未だ、「戦犯」と罵られ、自民党の政治家までもが「戦犯」という蔑称を平気で使っていることに違和感どころか怒りを覚える国民は多いだろう。

 天皇誕生日を祝うと共に、戦犯との汚名を着せられ続けている英霊の名誉恢復と御霊の安らかならんことを祈るものである。

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2014年12月22日

刮目して拝読せよ!東条英機遺言書全文

 
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 昭和23年12月22日夜、死刑執行の数時間前に、東京巣鴨において、教誨師の花山信勝師の前で東条英機が遺言書を朗読した。以下転載。(読み易い様に一部校正してます)

 開戦の時のことを思い起こすと実に断腸の思いがある。今回の処刑は個人的には慰められるところがあるけれども、国内的の自分の責任は、死をもって償えるものではない。

 しかし国際的な犯罪としては、どこまでも無罪を主張する。力の前に屈した。自分としては、国内的な責任を負うて、満足して刑場に行く。ただ同僚に責任を及ぼしたこと、下級者にまで刑の及びたることは、実に残念である。

 天皇陛下および国民に対しては、深くおわびする。元来、日本の軍隊は、陛下の仁慈の御志により行動すべきものであったが、一部あやまちを生じ、世界の誤解を受けたるは遺憾である。

 日本の軍に従事し、倒れた人および遺家族に対しては、実に相済まぬと思っている。

 今回の判決の是非に関しては、もとより歴史の批判に待つ、もしこれが永久の平和のためということであったら、もう少し大きな態度で事に臨まなければならぬのではないか。

 この裁判は、結局は政治裁判に終わった。勝者の裁判たる性質を脱却せね。

 天皇陛下の御地位および陛下の御存在は、動かすべからざるものである。天皇陛下の形式については、あえて言わぬ。存在そのものが必要なのである。

 それにつきかれこれ言葉をさしはさむ者があるが、これらは空気や地面のありがたさを知らねと同様のものである。

 東亜の諸民族は、今回のことを忘れて将来相協力すべきものである。東亜民族もまた他の民族と同様の権利をもつべきであって、その有色人種たることをむしろ誇りとすべきである。インドの判事には、尊敬の念を禁じ得ない。これをもって東亜民族の誇りと感じた。

 今回の戦争にて、東亜民族の生存の権利が了解せられはじめたのであったら、しあわせである。列国も排他的な考えを廃して、共栄の心持ちをもって進むべきである。

 現在の日本を事実上統治する米国人に一言するが、どうか日本の米国に対する心持ちを離れしめざるように願いたい。

 また、日本人が赤化しないように頼む。東亜民族の誠意を認識して、これと協力して行くようにしなければならぬ。実は、東亜の多民族の協力を得ることができなかったことが、今回の敗戦の原因であると考えている。

 今後日本は米国の保護の下に生活していくのであるが、極東の大勢はどうであろうか。終戦後わずかに3年にして、アジア大陸赤化の形勢はかくのごとくである。

 今後のことを考えれば、実に憂なきを得ぬ。もし日本が赤化の温床ともならば、危険この上ないではないか。

 日本は米国よりの食糧その他の援助を感謝している。しかし、もしも一般人が自己の生活の困難や、インフレや、食糧の不足などを米軍の日本にあるがためなりというような感想をもつようになったならば、それは危険である。

 実際にかかる宣伝をなしつつある者もあるのである。よって、米軍は日本人の心を失わぬように注意すべきことを希望する。

 米国の指導者は、大きな失敗を犯した。日本という赤化の防壁を破壊し去ったことである。いまや満州は赤化の根拠地である。朝鮮を二分したことは東亜の禍根である。

 米英はこれを救済する責任を負っている。従って、その意味においてトルーマン大統領が再任せられたことはよかったと思う。

 日本は米国の指導にもとづき武力を全面的に放棄した。それは一応は賢明であるというべきである。しかし、世界が全面的に武装を排除していないのに、一方的に武装をやめることは、泥棒がまだいるのに警察をやめるようなものである。

 私は、戦争を根絶するには、欲心を取り払わねばならぬと思う。現に世界各国はいずれも自国の存立や、自衛権の確保を説いている。これはお互いに欲心を放棄していない証拠である。

 国家から欲心を除くということは、不可能のことである。されば世界より戦争を除くということは不可能である。結局、自滅に陥るのであるかもわからぬが、事実はこの通りである。

 それゆえ、第3次世界大戦は避けることができない。第3次世界大戦において、おもなる立場に立つものは米国およびソ連である。

 第2次の世界大戦において、日本とドイツが取り去られてしまった。それゆえ、米国とソ連が直接に接触することになった。米ソ2国の思想上の相違はやむを得ぬ。この見地からいうも、第3次世界大戦は避けることはできぬ。

 第3次世界大戦においては、極東がその戦場となる。この時にあたって、米国は武力なき日本をいかにするのであろうか。米国はこの武力なき日本を守るの策をたてなければ、また何をかいわんや。そうでなしとすれば、米国に何らかの考えがなければならぬ。

 米国は、日本8千万国民の生きてゆける道を考えてくれねばならない。およそ生物としては、生きんことを欲するのは当然である。産児制限のごときは神意に反するもので、行うべきではない。

 なお言いたきことは、最近に至るまで戦犯容疑者の逮捕をなしつつある。今や戦後3年を経ておるのではないか。新たに戦犯を逮捕するというごときは、即時にやめるべきである。

 米国としては、日本国民が正業につくことを願い、その気持ちでやって行かなければならぬ。戦犯の逮捕は、我々の処刑をもって、一段落として放棄すべきである。

 戦死傷者、抑留者、戦災者の霊は、遺族の申し出があらば、これを靖国神社に合祀せられたし。出征地にある戦死者の墓には、保護を与えられたし。従って遺族の申し出あらば、これを内地に返還せられたし。 戦犯者の家族には、保護を十分に与えられたし。

 青少年の保護ということは、大事なことである。近時いかがわしき風潮は、占領軍の影響からきているものが少なくない。この点については、わが国古来の美風をも十分考慮にいれられたし。

 今回の処刑を機として敵、味方、中立国の罹災者の一大追悼会を発起せられたし。もちろん、日本軍人の間に間違いを犯した者はあろう。これらについては衷心、謝罪する。

 これと同時に、無差別爆撃や原子爆弾の投下をなしたことについて、米国側も大いに考えなければならぬ。従って、さようなことをしたことについては、米国側も大いに悔悟すべきである。

 最後に軍事的問題について一言するが、我が国従来の統帥権独立の思想は確かに間違っている。あれでは陸海軍一本の行動はとれない。兵役については、徴兵制によるか、傭兵制によるか考えなければならぬ。我が国民性を考えて、再建の際に考慮すべし。

 教育は精神教育を大いにとらなければならぬ。忠君愛国を基礎としなければならぬが、責任感をゆるがせにしてはならぬ。この点については、大いに米国に学ぶべきである。

 学校教育は、人としての完成を図る教育である。従前の醇朴剛健のみでは足らぬ。宗教の観念を教えなければならぬ。欧米の風俗を知らせる必要もある。俘虜のことについても研究して、国際間の俘虜の観念を徹底せしめる必要がある。

 以上が、死刑執行の前日に朗読した遺言書の摘要である。

 今を生きる我々は、改めて、先人が国家の命運を賭けて戦った大東亜戦争の真実と意義を考えねばならない。合掌。

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「死刑制度」の本義とは死刑囚に対する大慈悲でもある

 
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 秋葉原無差別殺傷事件の上告弁論で、弁護側は加藤被告の情状酌量を訴え、「死刑判決は破棄されるべきだ」と述べ、結審した。

 どの様な事件でも最高裁まで上告する権利はあるが、最高裁は別に最高の判決を出す処ではなく、現憲法との違法性を判断するだけだ。

 歩行者天国にトラックで突っ込み3人を殺害し、更にはナイフで4人を刺殺した犯人の何が憲法の、どの条文に触れるというのか。

 トラックで突っ込み、無差別に7人を殺し、10人に怪我を負わせるということは精神的にまともではないことは誰でも分かる。だが、そうした精神的理由をして死刑を回避しようなどとは本末転倒。

 如何なる理由は問わず、人を殺めた場合は極刑にすべきだと思っている。「一人なら無期、二人以上なら死刑」という過去の判例にも些か疑問を持っている一人でもある。

 「社会は肉体の安全を保障するが、魂の安全は保証しない」と言ったのは三島由紀夫だ。

 大事にしなければならないものは肉体より魂、精神性である。

 人権派を自任する弁護士や死刑廃止を訴える人は、これと同じ様に「生命は地球より重い」と言わんばかりに肉体だけを守ろうとする。

 左翼に被れながらも「人を裁けるのは神のみだ」というキリスト教的欧州思考に嵌ってるのも御粗末だが、安っぽい感傷に浸って悦に入ってるとしか思えないし、滑稽にも見える。

 まぁこれは、死生観の違いだろうが、残虐な犯行をした者が、死刑廃止で国法により生命を保証されるというのも如何なものか。

 「死刑制度」とは、死刑囚への大慈悲である。

 「死刑制度」は、他人を犠牲にした犯罪への相当の審判であり、それは無駄に生きて来た人生にピリオドを打つ為の優しさでもある。 

 「生」に拘るより、「死」を以て償うべきだ。

 日本人とは何事も潔さが肝要で、加藤にしろ他の死刑囚にしろ「殺したい」という衝動に駆られて実行した訳で、今更、命乞いとは情けなや。

 「心の死ぬことを恐れず、肉体の死ぬことばかり恐れている人で日本中が占められているならば、無事安泰であり平和である」

 これも三島由紀夫の言葉だ。

 「死刑論」ひとつでも喧々諤々の論争が繰り広げられる。だが、こうした論争を見てても日本というのは「平和なんだなぁ」と熟熟実感する。

 まぁこれも平和ボケの一つには違いない。

 「平和ボケ」とは、高度成長からバブル時代にかけて金儲けや飽食に狂奔してきた世相や、空想的平和論を弄ぶ連中を揶揄した言葉だ。

 これは戦後民主主義者や無自覚左翼に蠢蠢しているが、「平和」や「人権」「死刑廃止」「反原発」を訴える連中共通のものでもある。

 明日は天長節であると同時に、東条英機を始めとした所謂・A級戦犯とされた7名の方々が死刑執行された日である。

 東京裁判の不当性は扨て置き、彼らはその死を諒とし、死を以て罪を償ってくれたのである。

 「死刑制度廃止」を訴える左翼陣営からは、この死刑に対する不当性を語られたことはない。

 だが、この処刑こそ、人道に反するもので、人権無視の暴挙ではないのか。

 死刑執行前日の昭和23年12月22日夜、東京巣鴨に於いて、教誨師の花山信勝師の前で東条英機閣下は遺書を朗読した。

 その心境察するに余りある。

 今こそ我々は、極東軍事裁判の不当性を明らかにし、「戦犯」との汚名を着せられ続けている英霊の方々の名誉恢復を急ぐと共に、先の大戦で犠牲になられた方々の精神性、そして魂から発せられた思いを、後世に伝えて行かねばならない。

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2014年12月21日

「日本平和憲法9条をノーベル平和賞に推薦する韓国委員会」が組織されたってよ(笑)

 
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 「日本平和憲法9条をノーベル平和賞に推薦する韓国委員会」が組織され、座長は李洪九元首相。それにしても凄いというか実に分かり易い画像だ(苦笑)

 そのメンバーには、元最高裁判所長官や反日文化人らがズラリ。今のところ50人ほどだというが、今後は益々会員は殖えるのは想像するに余りある。

 「戦争放棄と交戦権の否定を宣言し、東アジアと世界の平和の砦の役割を果たしてきた平和憲法が存続することを願う」というが、抑々、我が国に「日本平和憲法」という代物はないし(笑)

 日本国憲法の第9条をノーベル平和賞に推そうと、自称・横浜の主婦という左翼活動家らがインターネットで呼びかけ、これに集った左翼学者らがノーベル賞委員会に推薦状を送ったところこれが受理されたが、全く以て前代未聞のこと。

 国内でも、このノーベル平和賞受賞に奔走し、委員会へ陳情書を提出した国会議員が60名もいる。その代表が民主党の小西洋之だが、韓国の元首相らと同じ発想というのも、嗤うしかない。

 「憲法9条にノーベル平和賞を!」との活動を、マスコミも浮かれ気味に報道していたが、これは原発事故後に、「ノーベル平和賞にフクシマを」との声が挙がったのと同じ流れだ。

 この活動の狙いは、安倍政権下で進められている集団的自衛権の行使や憲法解釈への対抗措置であり、単なる話題作りでしかなく、「フクシマから脱原発、反原発を」と、福島原発事故を利用しようとした連中が、今度は憲法9条を使って、窮状からの脱却を謀ってるだけ。

 米国製の日本国憲法の平和理念を有難がり、それらを忠実に守って来た日本国民というのは、確かに尊敬される価値は無きにしも非ず。

 だが、悲しいかな、我が国が平和を享受して来たのは憲法9条ではなく、日米安保条約の賜物であり、ならば、受賞されるべきは日本を骨抜きにした米国であり、「日米安保条約」だろう。

 我が国が戦後、戦争に巻き込まれなかったのは、確かに、吉田茂が憲法9条の条文を利用したことも大きく、それが証明されるのは朝鮮戦争であろう。

 米国の占領下だった1950(昭和25)年6月25日、北朝鮮が突如として南朝鮮(韓国)に侵攻する。これを機に同じ民族同士が相討つ戦争となり、数百万人が犠牲となる大惨事となった。

 これを遡ること昭和20年(1945年)8月9日、日ソ不可侵条約を一方的に破棄しソ連が参戦。その3日後の12日には朝鮮半島北部に侵攻した。

 朝鮮への侵攻準備が出来ていない米国はこれに慌て、急遽、朝鮮占領の協議が行われ、結果、38度線で分割することで合意した。  

 北朝鮮で、ソ連は、日本人の軍人・行政官・警察官を抑留すると共に親日派を一掃、共産主義者を中心に人民委員会を組織させ委譲。ソ連の傀儡として、重慶に亡命していた金日成を首班とする政権を1946年2月に誕生させた。

 一方、南朝鮮(韓国)では、米国が総督府の残留朝鮮人官吏を活用し軍政権を敷く。1946年1月には、間接選挙による「過度立法議院」を構成させ、翌年の2月、安在鴻を長官とする過度政府を発足させた。

 ヤルタ協定では1948年3月迄、国連の信託統治を予定していたが、米ソの対立で全ての協議が決裂し、同年8月、米国内で反日活動をしていた李承晩を初代大統領に据え「大韓民国」を建国する。

 その翌月、北朝鮮は「朝鮮民主主義人民共和国」を健国させた。

 北朝鮮では金日成の支配下で着々と国政の整備が進んだのに対し、韓国は官僚や亡命先からの帰国者、米国の措置で監獄から解放された共産主義者が入り乱れ、政権は安定せず、労働組合によるストライキが多発し、社会混乱が加速。

 1946年10月以降、それまで容共的だった米国は次第に共産党の抑圧政策に転じ、米国の傀儡。李承晩は、日本と共同歩調を執ろうとしていた「呂運亮」を暗殺して大統領に就くと、「反共」「反日」を国是とし、徹底させた。

 それらが、今では「反共」は忘れ去られ、「反日」だけが未だに続いている。

 李承晩が最初にやった仕事は、「親日派の追放」であり、その結果、日本に育てられた優秀な官僚は次々と追放されて行くこととなった。

 李承晩が失脚し、その後は日本へ歩み寄る姿勢も見えたが、金大中が大統領に就任し、更には盧武鉉大統領下で施行された親日分子取締法によって、それまで積み上げてきた日韓の友好親善が脆くも崩れ、反日の姿勢は酷くなる一方。

 朝鮮戦争が勃発し、吉田茂がマッカーサーの要請通りに現憲法を破棄していれば、「集団的自衛権」も「憲法改正」という煩わしい問題もクリアされていたことだろう。

 今更、当時の吉田茂の判断が良かったかどうかなど議論したところで意味はないが、この時の憲法解釈が未だに大きく圧し掛かっているのは紛れもない事実なのだ。

 左翼ら誤憲派は現憲法を「平和憲法」などとホザく。憲法9条を根拠に「平和主義」を叫んでいるが、「平和主義」にしても、憲法第9条の「戦争放棄に関する条項」にしても、第二次世界大戦後に国連が勧めた「不戦条約」がその源だ。

 この不戦条約は、我が国始め、アメリカ、イギリス、フランス、イタリアなど多くの国が締結している。だが、戦争放棄の国際条約を結んでから世界から戦争が無くなったかというと、皮肉なことに条約とは全く正反対の道を歩んで往った。

 「憲法九条にノーベル平和賞を」というキチガイ沙汰を見れば、如何に誤憲派や反日勢力が我が国を蝕んでいるかが分かるだろう。

 「平和主義」の理念を守れば平和が訪れる時代ではなく、況してや憲法9条が我が国を守ってくれている訳でもない。

 韓国がそれほどまでに「憲法9条」を美化するのであれば、「そんなに欲しかったらどうぞ、差し上げます」って言いたいのが正直なところ(笑)

 国際情勢やアジアや朝鮮半島情勢が不穏な今、平和というのは米国依存ではなく、自分達で創り出すものでなければならないのだ。

 これは韓国も同じだろう。いつまでも米国に頼ってる場合でもなかろうに。それとも、北朝鮮や中共に与するのなら、いっそ戦うことを放棄して併呑されればいい(笑)

 「憲法九条にノーベル平和賞を」とは、つまりは米国製の憲法を後生大事に護って、現状のままに魂なき繁栄に現を抜かし、まやかしの平和をいつまでも貪っていろということに他ならないが、そんなのはもう、まっぴらごめんだ。

 要は、日頃、「反米」のポーズを採り、自虐史観にどっぷり漬かっている左翼どもこそが、その実は究極の親米派であると断じてもいいし、中共や北朝鮮のシンパだろう。

 左翼らは「世界で唯一の平和憲法だ」という。だが、残念ながら、「平和主義」を憲法で謳っている国は80ヶ国以上に上り、イタリア、スペイン、ハンガリー、エクアドル、フィリピンには日本国憲法と同じ規定がある。

 これこそ無知と驕り以外の何ものでもない。

 韓国でのノーベル賞受賞者は、その有難い「平和賞」を受賞した金大中だけ。この「日本平和憲法9条をノーベル平和賞に推薦する韓国委員会」も、ひょっとするとイグノーベル賞くらいは受賞出来るかもよ(苦笑)

 今こそ日本衰退の元凶である日本国憲法に示された「平和主義」という偽善を取っ払い、真の平和と自立を創造しなければならない。

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2014年12月18日

そこの君、それってひょっとしてギャグで言ってるの?

 
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 総選挙でのネタも殆ど沈静化したが、今回の総選挙に限らず、前回の選挙などでは必ずといっていいほど「不正選挙だ」ということは囁かれていたことだ。

 その多くは、自民党圧勝に対するやっかみから、安倍政権や自民党への批判だったが、今回は共産党の躍進で左翼団体などからは「不正選挙」の声は聞こえて来ない。

 今回の総選挙で「不正選挙の疑いあり」と訴えているのは次世代の党で、別に、次世代の党が不正にやられとは思わないが、ネットで流される映像を見れば、確かに怪しいものもあるのも確か。

 だが、こうした疑惑というのは素人では解明出来る術はなく、そうした疑いを晴らすことこそマスコミやジャーナリズムの努めであり、「国民の知る権利」に敵うことではなかろうか。

 マスコミのプライドか、巨大化したマスコミの傲慢か、マスコミとネット社会は合い入れることはなく、ネットでの疑問や疑惑はテレビや新聞等では流されることは殆ど無い。

 マスコミとネット社会の隔絶は決定的に思えるが、現代に於いてはマスコミとネット社会が融合されて、初めて真実も見えて来るのと確信している。

 自民党が勝てば左翼どもが騒ぎ立て、共産党が躍進すれば次世代の党を支持した自称・保守、自称・愛国者らが大騒ぎする構図にはうんざり。

 前回の総選挙後に、「不正選挙だ」!と頻りに騒いでた「未来の党」は消滅したが、次世代の党も同じ様に消えないことを祈るばかり(笑)

 こうしたことは疑惑や疑問というのは、国民へ提供する情報量が余りにも乏しいから起こる訳で、多くの情報があれば、自分らに都合のいい解釈をすることも少なくなるだろう。

 「特定秘密保護法案」に反対するマスコミやジャーナリストらは、「知る権利」を翳し国民を煽動したが、一体、その「知る権利」とは何だったか。

 マスコミの「知る権利」とは国家機密なのか。国民が国家機密を知りたいなどとは思えないが、国民の知りたいものがマスコミのいう「知る権利」でないとしたら本末転倒という他はない。

 国民の多くは、テレビ、新聞等に出て来るマスコミ御用達の評論家や自称・有識者を信じ込み、その連中が取り上げる胡散臭げな問題に一喜一憂し、自ら考えることを放棄してしまった。

 連中は、様々な問題が出れば、その萌芽は我が国や日本政府に在ると貶し、これまたマスコミ御用達のインチキ言論人が煽り立て国民を誑かす。

 「大東亜戦争」にしても、「太平洋戦争」という立場で論じ、「日清・日露戦争」や「日韓併合」「南京事件」や「慰安婦問題」にしても、未だアジア近代史を公正な目で論じようとはしない。

 自虐史観が蔓延っているマスコミ界が、その間違いから目覚め、「社会の木鐸」として真実を伝えるのはいつになるのだろう。

 NHKにしろ朝日新聞にしろ、GHQからの「言論統制」時代から未だ覚醒せず、自虐史観から脱却出来ずにいるそんなマスコミや売文ジャーナリスト風情が、「知る権利」などとは御粗末過ぎる。

 今やマスコミに「社会の木鐸」としての自信も誇りも感じない。

 「木鐸」の努めとは、世人に警告を発し、教え導くことにある。

 だが、どうみても、自虐史観から中韓に媚び諂い、我が国の国柄や国體を崩壊させんが為にそれらの走狗と化してしまっているではないか。

 嘗て、坂の上の雲を追い続けたあの時代、国民の側に立ち「自由民権」を主張した新聞や言論人は、「反骨」を旨とし、権力に対して敢然と闘い、大衆の代弁者を自負していた。

 時の権力は、新聞社や記者を弾圧するも、彼らはジャーナリズムの矜持と使命を以て決して弾圧に怯むことはなかったのだ。
 
 今や正統ジャーナリズムは存在せず、権力への批判は単なるパフォーマンスと化し、民衆に迎合して、何でも腐して終わり。

 そうした冷笑的な態度こそが真のジャーナリズムだと錯覚している。

 我が国の政治が、未だ三流と言われ続けるのは、世論をぶち壊して悦に浸っている進歩の無い「低能ジャーナリズム」が元凶でもある。

 それにしても、マスコミから発せられる問題ってのは、「それってひょっとしてギャグ?」「それってマジで言ってんの?」「それってウソでしょ(笑)」ってのが多過ぎるよなぁ。

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 ※借りものの画像ですが、秀逸なので貼り付けてみる(笑)

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2014年12月17日

君、狂え給え!(吉田松陰)

 
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 画像は、愚生が所属していた防共挺身隊の初代総隊長・福田進の父で、「進め社」「日本労農党」の福田狂二(素顕)。如何にも国士の面構えだ。

 中核派の「前進社」も、この「進め社」のパクリだ。国内では警察や国権から弾圧を受け、支那に亡命し、その後、蒋介石と共に台湾へ転進。

 伝説の革命家であり、左翼にも信奉者は少なくない。大江志乃夫著「凩の時(筑摩書房、1985年/ちくま学芸文庫, 1992年)」の主人公である。

 日本に帰国すると名を「素顕(そけん)」と改め、国家社会主義者に転向し「防共新聞」を創設、主幹となる。その行動部隊が防共挺身隊だ。

 「狂」という字を、単に「狂った」という意味に捉える人が殆どだろうが、本来この「狂」とは陽明学の「狂」であり、「狂」の思想は王陽明が「伝習録」で訓えたものといわれている。

1 河井
 陽明学を実践した偉人では、越後藩家老の河井継之助を尊敬している。

 「越の蒼竜(ほくえつのそうりゅう)」と称された継之助は、幕末に於いて長岡藩の近代化に努力した英雄である。

 継之助は、長岡藩士120石取りの代右衛門秋紀の子として生まれる。

 幼少の頃から腕白で、人の忠告を素直に聞かない強情張りであったというが、それは大人になってからも変わらなかった。

 少年時代は、藩校で古義学(こぎがく)を学び、成長するとともに実践重視の「陽明学」へと傾倒していった。

 17歳の時に継之助は、鶏を裁いて、王陽明を祭る祭壇に鶏肉を供え、人民と藩是の為に立志し、誓明したという。

 青年期には読書に没頭し、良書を見つけると、その書だけを何度も読み返し、一字一句を書き留め暗記し、我が身の行動の規範と成した。

 嘉永5(1852)年、継之助は、江戸に遊学し、佐久間象山、古賀謹一郎に師事する。だが、象山の尊大さと勿体付けて理屈を捏ねる腹の曲がり具合が気に食わず、象山から遠ざかった。

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 継之助が生涯を通じて、敬服した人物は、備中松山藩の儒者・山田方谷(ほうこく)であった。

 安政6(1859)年には、自ら松山藩まで足を運び、直接、方谷から陽明学を学び、藩政改革の方法を習得。彼は、方谷を「希代の英雄」と讃え、方谷が唱える思想を熱心に学んだ。

 方谷は後に、「河井は豪すぎる。豪すぎることが幸福な結果になるか、不幸を呼ぶか」と語ったというが、結果は後者の方であった。

 1ヶ月半ほどの遊学であったが、別れの朝、継之助は対岸の街道の路上に土下座し、師匠の小さな姿を伏し拝んだ。

 人を容易に尊敬することのない男が土下座したのは生涯これが最初で最後だった。

 陽明学は、簡単にいえば「知行合一」の教えであり、言葉にしたことは必ず実行するという「知行合一」は極めて陽明学的思考だ。

 逆を言えば「実行できるかどうか分からないことは言葉にしない」ということであり、自分の発言には自ら責任を課していることを意味する。

 陽明学は、先ず「志を立てる」ところから始まり、その志を「行動に昇華する」ことで終結する。

 つまり、例えば政治家を志すにしても、自分の言葉に責任を持ち、自らが率先垂範して国民の模範となることが大事で、そしてそれは、親に対する孝、国に対する忠、「忠孝」が源でなければならない。

 陽明学は、人間の格位を「聖賢」「狂」「狷(けん)」「卿愿(きょうげん)」の四つに分けている。

 孟子はこれを注釈し、「聖賢」とは、知識・人格に優れた人物。「狂」は理想主義。「狷」は不潔を潔しとしないもの。「郷愿」は世俗と歩調をあわせた風俗とし、徳の賊(道徳家を装って郷里の評判を得ようとする俗物)だとした。

 要するに、「狂」とは、「理想を高く持ち、何の虚飾も隠し立てもなく、心のままに率直に行動すること」であり、「狂」とは、一つの信念に向かって脇目もふらずに突進することである。

 また「狂」は、「もし過失があれば改めさえすればよい」とする臨機応変的なものでもあり、世俗社会の常識に対し果敢に挑戦する「実践的理想主義」とも言える思想でもある。

 自分の行動を「狂挙」と敢えて言える為には、歴史を見つめる「冷静な目」が必要であり、この「狂」の精神こそが、明治維新への道と切り開く転換点となったと言っても過言ではない。

 旧来の思想や社会構造を打破しようとする時に生まれる常軌を逸した行動こそが「正気」の「狂気」であり、「狂挙」である。

 この「狂気」の「狂挙」こそが現状打破の大きな力となり得るのだが、昨今の右翼にしろ、最近の保守ブームにしろ、そこに「狂気」はない。つまり、本気さが無いということだ。

 吉田松陰もこう訓える。

 「君、狂い給え!」

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2014年12月16日

「支持政党なし」の得票数が「次世代の党」を大きく上回り10万4854票を獲得(笑)

 
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 衆院総選挙で、何やら北海道ブロックでは「支持政党なし」の得票数が、次世代の党や社民党が得票した票を大きく上回り10万4854票を獲得したとか。

 この「支持政党なし」だが、どう見ても政党には思えないが、れっきとした政党で、北海道ブロックでは9番目の届け出で、その結果、投票用紙で一番右側に政党名が記載された。この末尾の記載がことをややこしくさせたのは言うまでもない。

 自民党や民主党、共産党といった政党名が並ぶ最後に、「支持政党なし」とあれば、政治に疎い有権者は勘違いして選んでしまうのは想像出来る。要は、この「支持政党なし」という政党を創った代表の狙いはまんまと的中したということだ(笑)

 有権者というのはそういうもので、政治に詳しい人も、そうでない人も一票には変わらない。そういう有権者を相手にするのだから、選挙というのは滑稽なことでもある。

 「総選挙の投票率が下がったのは、マスコミが『自民党優位』というミスリードをした影響で、多くの有権者は『どうせ自民党が勝つのだから』と投票行動を示さなかった」という様な意見を目にした。

 確かに、投票率低下によって組織票のある共産党や公明党、民主党に有利に働いたのは否めないが、投票率低下をマスコミの責任だとするのは些か無理があるのではなかろうか。

 総選挙に限らず、首長選挙や地方議員選挙でも投票率低下は酷くなる一方で、これは、「誰がなっても変わりない」というのが最大の理由であり、これ即ち「政治不信」の現れでもある。

 投票を棄権した有権者の多くは政治には、無関心。更には、自分の思いを托せる政治家がいないが為に棄権する人もいた訳で、そういう意味では棄権票も「政治不信」という一票でもあるのだ。

 「国民の声」を大事にするなら、選挙の投票は義務化して「該当者なし」の項目を創れば、投票率の問題もクリア出来るし、「一票の格差」なんぞで訴えられることもない。

 今やネットでの選挙運動も合法化されたし、今では期日前投票は容易になった。これからは、時代に即し、コンビニでの投票や郵送による投票、インターネット投票なども可能にして、有権者の意思が反映出来る環境を整えるべきだ。

 自公連立で3分の2以上の議席を確保し、「憲法改正」も現実味を帯びてくる。

 公明党は改憲には乗り気ではないが、「加憲」の立場であり、これもまた憲法改正でしか実現出来ない。世論が改憲を望めば、公明党も面と向かって反対はしないだろう。

 改憲するにしても、先ずは3分の2の国会議員の発議から。どうにか3分の2の国会議員は確保出来ても、それより問題なのは、国民の過半数の同意を得るという手続きだ。

 保守派や自称・愛国者らは、改憲こそが日本を再建するものであると信じて止まない。

 「自主憲法の制定は困難、況してや欽定憲法(大日本帝国憲法)の復元改正など不可能。ならばやはり現憲法の改正しかない」という考えの保守派は実に多い。

 だが、容易に改憲出来る環境を整えるということは、革命政権樹立後には再改憲は可能となり、天皇の非合法化も可能になる危険を孕んでいるということでもあるのだ。

 改憲にしても、そこには「無効論」や「破棄論」「復元論」「復元改正論」など様々で、自民党憲法草案然り、憲法を改正を図るにしても困難を極める。

 一括りに憲法改正といっても、夫夫の一長一短を指摘するばかりで中々議論が纏まらない。ならばと、96条を先ず改正してから議論を進めればいいというのは姑息過ぎはしないか。

 ここで憲法論を滔滔と語るつもりはないが、米国製の「押し付け憲法」と言われてはいるが、事実は米国による新憲法の制定ではなく、あくまでも、大日本帝国憲法(明治欽定憲法)の改正ということになっていることを知るべし。

 米国側の論理で行けば、現憲法の無効を宣言することは容易だということ。何も態々96条を改正し、国民投票という面倒な手続きも不要となる。

 欽定憲法第七十三條にはこう在る。

 「將來此ノ憲法ノ條項ヲ改正スルノ必要アルトキハ勅命ヲ以テ議案ヲ帝國議會ノ議ニ付スヘシ此ノ場合ニ於テ兩議院ハ各々其ノ總員三分ノ二以上出席スルニ非サレハ議事ヲ開クコトヲ得ス出席議員三分ノ二以上ノ多數ヲ得ルニ非サレハ改正ノ議決ヲ爲スコトヲ得ス」

 国会議員の3分の2以上の出席と、3分の2以上の賛成によって憲法を改正出来るとされている。国会議員は国民の代表であり、その国会議員が発議し可決させることが好ましい。

 国民投票というまやかしに騙されてはならないし、国民投票に棄権が多くなれば、それはそれで問題視され、未来永劫、憲法改正は不可能になるということも考えられよう。

 現憲法制定の経緯を明らかにし、欽定憲法の改正によって出来たとされる現憲法を破棄し、欽定憲法を復元し改正することこそ容易であり、我が国の正当性をも恢復出来るであろう。

 だが、悪意はないが無批判で無関心な、あるいは現状維持にだけ興味を持っている国民にとって、憲法改正なんぞどうでもいいこと。何の抵抗もしないのが普通の国民の感情であり、この中間の大衆は決して自ら闘うことはしないのである。

 人々が思考しないことは、政府にとっては幸いなことだが、こうした政治に無関心な国民を取り込み、オルグを謀るのは、左翼陣営にとっては常套手段であるということも知るべきであろう。

 「無知は罪悪ではないが害悪である」という言葉がある。無知ならば教えればいいが、無関心こそが罪悪であり、悪害であるのだ。国民よ、思考せよ!

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2014年12月15日

総選挙は、選挙前にマスコミ各社が予想した通りの結果になった

 
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 総選挙は、選挙前にマスコミ各社が予想した通りの結果になった。「自民党優勢の報道はミスリード。騙されるな!」といった声も聞こえたが、蓋を開けてみれば報道通りの結果になった。

 ネットでは高い支持率を誇った次世代の党は惨敗。これも予想されたことで、マスコミの情報収集能力の高さを改めて痛感した。

 マスコミにとってネット社会というのは「象VS蟻」程度のもので、所詮、自称・愛国者の勇ましい声も、単なるネット番長。多くの有権者はそうした危なっかしい風潮を拒絶したということだ。

 ネット番長らの能書きは立派なのだが、ああいうのに動かされる人はいない。田母神や西村候補、或いは次世代の党の候補者の得票数がそれを現している。

 ネットで叫ぶのもいいが、先ずは身近な人を感化してみなさい(笑)

 同じ様な連中が集まり、同じネタで盛り上がり、それが世論だと勘違いし、結果を見ればその責任は無能な国民に在ると責任転嫁。まぁ、ホント我が国は平和だなぁと痛感する(笑)

 それにしても、選挙結果を受けて、皆さん方の解説は面白い。一億総評論家時代と言ってもいいのではなかろうか(笑)

 選挙というのは勝たなければ意味は無い。どんな手段を採ろうが勝てば官軍。

 海江田の落選は快哉だが、一方で、亀井静香の当選には驚いた。それにも強かなのは、愚生の住む福島二区での出馬経験のある太田和美が、維新の党で当選を果たしたことだ。

 次世代の党に足りないのは、立派な政策ではなく、こうした選挙での強か且つ狡猾な選挙戦略である。正攻法では勝てないことを自覚し、この教訓を次の選挙戦に活かさねばならないが、あれだけ負ければ次は無いだろう。

 選挙結果を見れば、「改憲」に必要な3分の2以上の議席は確保した。

 だが、この議席数に意味はなく、自公連立が続く限り、憲法改正は愚か、戦後政治からの脱却を図ることすら到底不可能と言うことを証明した選挙結果であろう。

 今回の総選挙が、次世代の党の壊滅を狙ったものだとしたら、公明党の圧倒的勝利ということだ。

 次世代の党の埋没は保守派にとって落胆は隠せない。今回の選挙を機に、各党内に埋もれる保守派との新たな連携や政界再編を模索するべきだ。

 また、喩え自民党が単独で3分の2の議席の確保を目指すべきとの意見もあるが、3分の2の議席を獲得したところで、憲法改正など出来ないだろう。

 過去にも絶対安定多数に達しながらも出来なかった訳で、余りにも期待し過ぎだ。

 やはり、保守の立て直しは「自民党粛正」、これに尽きる。

 この「自民党粛正」だが、右翼陣営ではもう半世紀ほど訴えてるが全く効果はない。粛正どころか、保守政党の矜持も忘れ、益々酷くなる一方だ。

 今回の選挙結果を冷静にみれば「自民党の勝利」ではない。

 次世代の党が減らした議席数が、共産党や民主党に流れた結果になった。

 つまりは、表面上は保守ブームと言われながら、現実には我々の想像する以上に左翼勢力が国内に浸潤しているという証左とも言えよう。

 これは、昨年の参院選挙と同じ流れでもあり、共産党の「ソフト路線」に騙された結果であり、別段、驚くことではない。

 共産党の躍進と得票数を見ても、今後、保守VS左翼勢力の構図は益々鮮明になって行くだろう。否、鮮明にして行かねばならないのだ。

 ソ連崩壊後、東欧では「マルクスレーニン主義」を捨て去り、党名も変更した。先進国の中で、合法政党の地位を有しつつ堂々と「共産党」を名乗っている存在は中国共産党と日本共産党だけ。

 「天皇制」を容認してはいるが、共産党綱領では「君主制廃止」の文言は削除されてはいない。何故なら「天皇制廃止」は、共産党革命政権樹立後の問題であるからだ。

 憲法改正は第9条や96条ではなく、「第1条」の条項の「主権の存する国民の総意に基づくもの」という部分を問題提起し、如何に共産党が極めて反国家的な団体であり、天皇陛下を族長と仰ぐ日本国家の正統にとっても悉く異質な存在であることを国民に知らしめることだ。

 改憲の突破口は第1条の問題提起であることは言うに及ばず。

 第1条の認識は、創価学会の頭目・池田太作の傀儡政党である公明党も、共産党と同じ認識であり、自公連立が続くことは、同時に我が国の国柄をも失い続け行くことになるということだ。

 やはり、自公連立にしろ、国防問題や外交問題に対する政治家どもの過った道を糺すのは、テロによる世論警鐘が必要なのではなかろうかと熟熟痛感する。

 愚生ならずとも、国益を忘却し、党利党略、私利私欲に狂奔する政治家どもにポカンと一発食らわしたいと思ってる市井の臣は多いだろう。

 しかし、国会議員の要人に対する警備は過剰で、天誅どころか、野次さえもロクロク飛ばせない状況で、この過剰警備こそが、政治家が真剣に政治をやらなくなった原因である。

 現在の政治家というのは、暗殺されるという恐怖が無いから、国益を無視し、権力に固執し、私欲に執念を燃やす輩が増殖するのだ。

 三島由紀夫は、政治家の怠慢を比喩的にこう表現してる。

 「喩えば、暗殺が全然無かったら、政治家はどんなに不真面目になるか。殺される心配が無かったら、幾らでも嘘が吐ける!」

 蓋し、名言であろう。

 この際、単独で法案提出の議席を確保した共産党が、「SPを廃止します!」っていうことで、「SP廃止法案」を提出しないかなぁ。そうなりゃ政治家も少しは真面目に働いてくれるかもね(笑)

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2014年12月14日

時に元禄十五年十二月十四日、江戸の夜風をふるわせて、 響くは山鹿流儀の陣太鼓・・・

 
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 実兄の十八番に「俵星玄播」がある(笑)

 「時に元禄十五年十二月十四日、 江戸の夜風をふるわせて、 響くは山鹿流儀の陣太鼓、 しかも一打ち二打ち三流れ、思わずハッと立ち上がり、 耳を澄ませて太鼓を数え、おう、 正しく赤穂浪士の討ち入りじゃ、 助太刀するはこの時ぞ、 もしやその中に、昼間別れたあの・・・」

 子供の頃から幾度となく聞かされた。お蔭で未だ台詞を覚えている(笑)

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 赤穂浪士が吉良邸に討ち入りしたのは元禄15年12月14日夜から翌朝にかけてとされているが、本来は旧暦であって、事実は、元禄16年1月30日。

 討ち入りの日は満月とされ、雪もあり明るい夜だったとさているが、旧暦30日だと新月、三日月なので暗かったのではと推測する。

 旧暦では1年が13ヶ月、月の満ち欠けで「1ヶ月」を現した訳で、月の周期は15日。太陽と同じ方向にある場合を新月(朔)、反対方向にある場合を満月(望)となる。

 その間の上弦・下弦(半月)があるが、赤穂浪士が討ち入った30日は満月ということになる。

 古の日本人というのは、月の満ち引きでさえも生活に生かし、実に自然と共に活き活きとしたロマンチックな生活を営んでいた様に思う。

 赤穂浪士の精神的支柱となったのが、陸奥国会津若松城下(現・福島県会津若松市)生まれの山鹿素行(やまがそこう)だ。

 山鹿素行というと、一般には「山鹿流軍学の祖」として知られているが、実は、江戸時代に於ける武士道の理論を確立した人物である。

 山鹿の門人達が素行の談話を筆記した、「山鹿語類」は日本人必読の著。

 また、尊皇愛国の書として有名な「中朝事実」で、山鹿は、世の学者の外国(主として漢土)崇拝を批判し、皇統の一貫を根拠に、「日本こそ万国に卓越した中華・中国と呼ぶに相応しい国である」との日本主義を主張した人物としても有名だ。

 山鹿は、王朝の度々変わった漢土に対し、日本は天子の地位を侵すような不義不道の者がいなかった為に皇統が一貫していると、日本の卓越性を強調している。

 右翼人、愛国者を自任するなら、「中朝事実」は必読の著である。

 江戸時代の267年の歴史の中で赤穂藩の様な理不尽な御家断絶や御家騒動は他にもあったが、唯一、赤穂藩の四十七士だけが「義士」と呼ばれ「武士道の華」と評価されたのは、山鹿素行の「正義の遂行」の本義に基づく教えが在ったからだと言ってもいいだろう。

  だが一方で、忠臣蔵の討ち入りに「大義」などではなく、単なる「打算」だと断じる批評家もいるのも確かで、先日は、赤穂浪士の討ち入りは「単なる逆恨み」という自説を唱える人にも遭遇した。

 「大石内蔵助は忠義心によって討ち入らなければ大石家は山科で帰農し、そのまま埋もれただろうが、けれど吉良を討ち取った結果、子孫は本家の浅野家に千五百石の高録で召し抱えられた」

 この事実をして、「忠義ばかりでなく、子孫の将来まで考えて討ち入った」「吉良からすれば逆恨みと言う他なく、幕府の裁定は妥当」とか意見は様々だが、こういう批評は武士の美学というものを理解していない軽々しい戯言でしかない。

 愚生は別に赤穂浪士を否定するものでもないし、賛美するものでもない。

 「葉隠」では、赤穂浪士の討ち入りに触れた部分がある。

 「赤穂浪士の仇討ちも、泉岳寺で腹を切らなかったのが落度と言うべきだ。それに主君が死んで、敵を討つまでの間が長過ぎる。もしもその間に、吉良殿が病死でもなされた時にはどうにもならないではないか」

  仇討ちというのは緻密な計画でやるものではなく、武士とは即刻、「やられたらやり返す」というのが本道で、事の「成否」は問題ではなく、「成否」よりも行為自体に意味が在るという。

 その上で、赤穂の武士を、「上方の人間は小利口だから、世間から褒められる様にするのは上手である」と嘲笑している。

 愚生は、この「葉隠」の批評に賛同しているが、赤穂浪士の討ち入りを打算的と見るか否かは夫々だろう。だが、「仮名手本忠臣蔵」が日本人の美学を現し、多くの国民から愛されているのは確かだ。

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 我が故郷の二本松藩と赤穂藩の面白い逸話がある。

 愚生も二本松剣友会の末席を穢したことがあるが、二本松には、代々「必殺を期すには、斬らずに突くべし」という刀法が伝わっている。

 これは、浅野内匠頭と二本松藩初代藩主・丹羽光重の繋がりを示すもので、丹羽公は、吉良上野介を討ち損じたとの報に接し、「何故、浅野公は斬りつけたのか、斬りつけずに突けばよかったものを!」と、ひどく悔しがったという。

 以来、二本松に於いてはこの、「斬らずに突け」が伝統となった。

 少年隊の成田才次郎が出陣の際に父から訓されたのも、この「斬らずに突け」だった。

 その才次郎、大壇口から敗走中の混乱で隊士はバラバラになってしまい、単独で二本松城下の郭内まで戻るも、戦意は旺盛だった。

 「必ず敵将を斃してやる」との一心で、一の丁の物陰に潜んでいたところ、馬上豊かに立派な武士が一隊を率いてやって来るのが見えた。

 長州藩士・白井小四郎が率いる部隊だった。

 才次郎、隊列が目前に来るまで充分に引き付け、「此処ぞ!」というところで、大刀を真っ直ぐに構えるや、一気に白井に向って突進した。

 歴戦の長州兵は、この遮二無二突進する小さな刺客に即座に反応する。

 白井隊長を護るべく馬前に出た兵に白井は。

 「子どもじゃ、手を出すでない」

 白井は、突っ込んで来るのが子供だと瞬時に見抜き、兵を制した。

 だが、それが徒となった。

 才次郎の剣は、狙い違わずこの敵将の脇の下から胸部を突き刺した。

 白井が落馬する。

 驚愕した長州兵らは慌てて才次郎を捕えようとするが、才次郎に近寄ることも出来ず、手古摺った長州兵は已む無く鉄砲を使い、この小さな勇士を仕留めた。

 このとき才次郎、14歳。

 亡くなった白井小四郎は地元の寺に懇ろに葬られた。

 少年への一瞬の憐憫が自らの死を招いたこの長州の将の墓前には、今でも多くの参詣者からの香華が絶えることはない。

 会津武士道の昇華を白虎隊に喩えるが、白虎隊よりも更に年少だった二本松少年隊は、正しく二本松武士道の昇華そのものである。

 浅野公と吉良公にしろ、東軍と西軍にしろ、それは喩え、敵味方と雖もその生き様は、今を生きる我々に何かを示唆しているのではなかろうか。

 今、我々は先人の覇気に学ばねばならない。

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2014年12月13日

贔屓し過ぎて、反ってその人の迷惑になってはいませんか?

  
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 「贔屓の引き倒し」という言葉を知ってるだろうか。

 贔屓し過ぎて、反ってその人の迷惑になるという意味だ。

 そんな「贔屓の引き倒し」を知るエピソードがある。

 平成20年に行われた第22回参院選・山梨選挙区で、日教組のボス・輿石東に無名の元高校教師・宮川典子が挑戦し、僅か3745票の差で惜敗した。

 その輿石が、参院選挙で落選するのではという予想が各報道機関の世論調査で明らかにされると、輿石は、局面打開の為に鳩山・小沢の偽装辞任劇を画策し、菅新総理の御祝儀相場で、鳩山政権末期20%そこそこだった支持率が60%台に跳ね上がった。

 これにより落選と目されていた輿石が息を吹返し、一気に当選圏内に入った。その後、菅の消費税増税発言で宮川が追い上げるが、追い上げもここまで、落選の憂き目に遭った。

 宮川の票が伸びなかった一因に「贔屓の引き倒し」があったという。

 というのも、地盤も看板もカバンもない宮川を応援しようと、自民党が総力を挙げて選挙戦を戦ったのだが、対抗馬が日教組の輿石ということもあり「たちあがれ日本(当時)」が輿石批判を訴え、更には右翼団体が押しかけ輿石糾弾を始めた。

 宮川の選対幹部はその時の様子をこう語る。

 「右翼団体が街宣車で押しかけて来て、盛んに輿石糾弾をしました。彼らにすれば当然の糾弾でしょう。輿石のやっていることも糾弾に値します。だけどそれが宮川に優位に働くかというと、必ずしもそうは言えない」

 「そこへ『たちあがれ日本』がやって来て、輿石批判をやる。何か、右と左の対決みたいな様相になって来て、これまた宮川にとって、どうも有利に働かない。有難い応援には違いないんですが、贔屓の引き倒しみたいな感じになっちゃった」

 「こちらは世代交代を訴えたかったんです。向こうは74歳、こちらは31歳ですからね。後半はひたすらその線で行きました。後一週間かそこらあれば勝てたんじゃないかと思います」

 小生も右翼人の一人として、輿石糾弾を展開した団体を責める立場には無いが、自分の過去の行動を振り返れば反省すべき点は多い。自分では良かれと思った行動が「贔屓の引き倒し」になっている場合も無きにしも非ず。

 所謂「終戦記念日」の8月15日に、多くの右翼団体や軍事マニアや自称・愛国者が大挙して「靖國神社」に集合する。これも贔屓の引き倒しのいい例だろう。

 自民党支持者や熱狂的安倍信者、次世代の党に期待し過ぎてる方、皇室カレンダーを飾り愛国者ぶってる諸君らもそうだろう。

 また、奉仕活動というのは隠れてやるもので、「勤労奉仕して来た」などとボランティアを自慢している方々然り、それって贔屓の引き倒しになってはいないのだろうか(笑)

 話しは変わるが、頂いて始末に困るものが、「皇室カレンダー」だ。

 右翼だから喜ぶだろうと送ってくれるのだろうが、右翼事務所なら御真影は奉戴したりはするが、部屋にこういうものは飾らない。月が替わればページを捲るというのはどうも気が進まない。

 陛下や御皇室のことというのは、喩え、褒めることであってもそれを口にすることは不敬だと思っているし、そう親からも教わって来た。

 冒頭に書いた「贔屓の引き倒し」ではないが、右翼の世界に入り違和感を持ったのは、口では「尊皇」を唱えながら、皇室を軽々しく扱っているのではと思うことが少なくなかった。

 例えば、もう直ぐ天長節だが、一般参賀でも私服や隊服で皇居に赴く右翼人が目立つ。尊び敬うべき陛下に拝謁するのに、ノーネクタイだったりするのは右翼人以前の問題で常識を疑ってしまう。

 正月には、笑点の落語家かと見間違える様な派手な着流し姿で参賀する右翼幹部も見かけるが、着物を着るなら袴を着用するのが常識だろう。

 皇室に係わる問題は避け、画像のアップも控える様にしている。

 何故なら前科持ちの右翼如きが、皇室を語ることこそ贔屓の引き倒しであり、陛下への尊厳をも穢すことにもなり兼ねないと思っているからだ。

 右翼人であるならば「神聖にして侵すべからず」に尽きる訳で、親しみを以てアップしたりしている人も少なくないが、それは「開かれた皇室論」を容認するものと認識すべし。

 右翼人や自称・愛国者が、ネットと雖も、気安く御真影や動向などを貼り付けるのは左翼の策謀である天皇制廃止運動に与するものだと思っているし、どうしても違和感を感じてしまうのだ。

 この皇室カレンダー、製造には警察関係者OBが係わっているのではないのだろうか。皇室を利用し金儲けをしてるとしたら赦されるものではない。

 年末になると警察がこのカレンダーを大量に購入し配布する。また某大手右翼団体も下部団体に強制的に購入させているが、その目的は意味不明。上層部のシノギにしか感じない。

 まぁ、自宅に飾るのは靖國カレンダー、これに限ります。

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2014年12月12日

国民を蔑にする「官賊」「政賊」「労働賊」の三賊を糺さねばならない!

 
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 その昔、箱根の山には山賊が出て、善良な人々を苦しめたという。今は流石に山賊はいないが「三賊」というのが蔓延って人々を苦しめる。

 「三賊」とは「官賊」「政賊」「労働賊」

 これらは昔でいうところの悪代官。「士農工商」の階級の名残りで「農工商」の上に胡坐をかいている士階級。特権階級といわれる連中だ。

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 二本松市の霞ヶ城址に「戒石銘」という碑が在る。

 爾俸爾禄(なんじのほう なんじのろくは)
 民膏民脂(たみのこう たみのしなり)
 下民易虐(かみんはしいたげやすきも)
 上天難欺(じょうてんはあざむきがたし)

 愚生が右翼現役の頃、団体のビラにこの「戒石銘」を使い、「政財官界粛正」を訴えたこともある。中々いいビラだったと我ながら思う。

 「戒石銘」の意味は、「貴達の俸給というのは人々の汗と脂の結晶である。だから人々を労わらなければならない。もし、人々を苦しめたりする様なことがあれば、必ず天の怒りに触れるであろう」ということだ。

 これは二本松藩第七代藩主・丹羽高寛が藩の学者・岩井田昨非の献策によって、藩庁前の自然石に、藩政改革と綱紀粛正の指針として建てたもので、今でもこの地に残っている。

 二本松来訪の際には是非とも立ち寄って頂きたいものだ。

 「政治は三流、経済一流、官僚機構は超一流」と揶揄されたのも今や昔の話で、その一流だった経済も崩壊した。商業道徳そっちのけで営利至上主義に狂奔したツケが出た。

 政治が三流なのは今も変りはない。それどころか益々悪くなる一方。

 過去には、政治が如何に混迷しても、超一流の官僚機構が「日本丸」の舵取りを巧くやってくれるという「神話」があったのも事実だが、今やその官僚が国を滅ぼす一大勢力になってしまっている。

 正に官僚亡国、否、官僚暴国。取分け、官僚機構が崩壊した象徴こそが、あの有名な「ノーパンしゃぶしゃぶ事件」だろうか(笑)

楼蘭
 平成10(1998)年2月、かって銀行のMOF担とよばれる行員が旧大蔵官僚の接待にノーパンしゃぶしゃぶ店「楼蘭」(新宿歌舞伎町)で接待していたことがマスメディアに暴露され、話題となった。

 「楼蘭」では、大蔵・通産等各省は言うに及ばず、日銀、羽田や首都高等の公団、国民金融公庫まで事務次官・総裁・理事長クラスが顧客になっていて、その後、「楼蘭」が東京地検特捜部の家宅捜索を受け顧客名簿が押収された。

 事件発覚後、その「楼蘭」の常連客でもあった山口剛彦 (厚生次官)が不可解な自殺。

 山口次官の自殺にしろ、「ノーパンしゃぶしゃぶ〈楼蘭〉官僚愛好御用事件」の真相は未だ謎だ。

 「ノーパンしゃぶしゃぶ」とは、女性店員がノーパンで接待してくれる料理店のことで、店内の床を鏡張りにして、高い場所にアルコール類を置くことで、ノーパンの女性店員が酒を注ぐその姿を覗いて愉しむ非常に下劣な飲食店。

 女性店員の「持ち帰り」もOKだというし、飲食店の名を借りた風俗店というのが正しい。

 また女性店員の上半身もスケスケの衣装やトップレスにしているケースが多く、起源はノーパン喫茶にあると見られ、他にもノーパン焼肉などが在ったという話しだ。

 愚生も一度覗いてみたかったが、事件発覚でそれは叶わなかった(笑)

 通常の風俗店では経費として認められない為に、接待する側は「飲食費」として領収書が落とせる「しゃぶしゃぶ屋」を利用したのだが、スケベな官僚どもを接待するのに、「ノーパンしゃぶしゃぶ」はうってつけの店だった。

 事件が発覚した後、その顧客名簿が、「探偵ファイルのノーパンしゃぶしゃぶ楼蘭の厚生労働省系リスト」としてサイトアップされた。

 そのファイルの前口上には、こう記されていた。

 「話題の ノーパンしゃぶしゃぶ【楼蘭】の顧客名簿を入手しましたので掲載いたします。楼蘭では昭和62年から昨年末までの12年間、政界、財界、官界、等々、多方面の顧客1万人以上の名簿を FDに保存しております」

 全名簿の公表は割愛するが、これは、日本の官僚の売国奴派の一覧表としての意味を持つ一級資料とも言えるのではなかろうか。

 調べたい人は、「ノーパンしゃぶしゃぶ」や「楼蘭」などのキーワードを入れて検索すれば出て来ると思いますので、ご自由に閲覧下さい(笑)

 その顧客名簿には、小泉政権下で日銀総裁に就いた福井俊彦を始め、日銀関係者が4名。大蔵省(当時)6名。厚生省37名。農水省34名。通産省55名。運輸省19名。郵政省13名。労働省2名。建設省26名。食糧庁4名。その他の公団にしろ、我が国官僚の事務方トップといわれるエリートの名前がズラリ並んでいる。

 その中に郵政省の顧客の末席に在る名前が「品川萬里」。そう、現郡山市長である。

 まぁ、見方によっては、あの「楼蘭」の顧客リストに載るということは、品川さんってのは官僚の中でも実力派だったんだろうなぁ(笑)

 強大な国家権力を背景にした高級官僚どもの腐敗は目に余る。

 特定の政治家の手下になって諂屈したフリをして操縦し、或いは天下り先の大企業とべったりくっ付いて、目は国民を向いてはいない。

 政治家どもは「国民目線」などと頻りに語るが、国民目線が必要なのは、こうした高級官僚どもの方だ。これは地方と雖も同じこと。

 そういう意味でも、官僚を操れる政治家が出なければならないのだが、それは不可能に近い。我が国の不幸はこういうことでもあるが、国民を蔑にする政財官界を糺さねばならない。

 
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2014年12月11日

韓国とはやはり「助けない」「教えない」「係わらない」ことに尽きる

  
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 2018年に韓国で開かれる平昌冬季五輪でIOCは、ボブスレーとリュージュ、スケルトン競技を日本で開催する可能性があることを示唆した。

 何故に日本なのか。

 日韓共催のワールドカップを振り返っても、審判の買収、ラフプレーなど、およそ、スポーツマンシップとはかけ離れた行為の連続で、世界中の非難を浴びたのは記憶に新しい。

 抑々、韓国がオリンピックを開催するなど財政的に無理なことは当初から分かってたことで、困った時だけ日本に頼るとは都合好過ぎだろう。

 韓国は同胞である北朝鮮との共催を模索すべきで、IOCは北朝鮮共催には難色を示すだろうが、北朝鮮なら国の威信をかけて成功させるだろう。

 オリンピックは平和の祭典ともいうし、共催を機に朝鮮半島の統一の流れになれば、願ったり叶ったり。朝鮮半島が一国になった方が外交的にも交渉し易くなるし、統一後は中共に併呑され、「朝鮮自治区」になりゃいい(笑)

 朝鮮民族、特に韓国の我が国への蔑視は異常過ぎる。

 韓国の「反日」は国是であり、今に始まったことではないが、「反日」活動が異常性を持つ様になったのは、盧武鉉が就任してからだ。

 2002年、韓国16代大統領に盧武鉉が就任する。

 盧武鉉は歴史の見直しに強い意欲を示し、100年前の日韓併合や日本統治時代の親日派、朝鮮戦争時代の韓国軍による民間人虐殺、軍事政権下での人権抑圧事件の真相究明を主張する。

 韓国国会では過去清算の立法を進め、真相究明や責任の追及、補償を行う為に「過去史整理基本法」を成立させた。

 更には、日本統治時代の親日派の子孫を排斥する為に「親日分子取締法(反日法)」を施行し、「親日派」とする李完用元首相ら9人の子孫が所有する財産36億ウォンと相続した土地を没収した。

 2006年には、全斗煥元大統領ら170人の叙勲を取り消す暴挙を実行した。

 2009年には、「親日・反民族行為者の財産の国家帰属に関する特別法」に基き発足した「親日・反民族行為者真相究明委員会」は、新たに406名を「親日派・反民族分子」と断定し追加公表した。

 これらの事後法は文明の原則である、法の「不遡及の原則」に反しており、まともな国際社会では許されるものではない。

 そうした文明の原則すら遵守しないのが韓国なのだ。
 
 これらの事実を見ても、韓国と胸襟を開いて付き合うなどとは笑止千万で、ここ10数年来の安っぽい愛国心による反日・侮日活動は、この「親日分子取締法」に起因する。

 この恥ずべき法律が存在する限り日韓友好など有り得ない。

 中共に「愛国無罪」が在る様に、韓国は「反日無罪」。「日本に与すれば有罪」だとする「親日分子取締法」が韓国反日運動の諸悪の根源である。

 韓国に対して我が国政府は、あらゆることで譲歩して来た。だが結果は、譲歩が更なる譲歩を生んで来た訳で、こうした対韓外交をどこかで断ち切らないと、益々増長して行くだろう。

 産経新聞ソウル支局長の件でも、仏像窃盗事件にしろ、対馬問題にしろ、日本の贖罪意識を基にした弱腰外交が元凶だ。

 戦後民主教育の影響から、アジア近代史を学ばない為に、「日韓併合」や創氏改名などの一方的な歴史感が贖罪意識を生み、それを基に外交を行うから誤ってしまうのだ。

 この期に及んで、平昌オリンピック共催という愚にも付かない提案に賛同し、与する輩がいることに驚きを隠せない。

 未だ、日本と韓国は同胞であり、一衣帯水の如くに感じている日本人がいるが、人品も然ることながら、朝鮮人は全てに於いて劣後。朝鮮人に、我が国古来の武士道精神や日本精神を理解させるのは到底無理なこと。

 友好を叫ぶ人はそういう根本が間違っていることに気付くべきだ。

 日韓共催の急先鋒が、舛添東京都知事。2020年の東京オリンピック開催に向け、恩を売っておこうという算段の様だが、余計なことはしないで頂きたいものだ。

 強請り、タカリ、恩知らずな韓国とは一切係わり合わないのが一番。韓国とはやはり、「助けない」「教えない」「係わらない」ことに尽きる。それは韓国の為でもある。

 
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2014年12月09日

「遠きは花の香近きは糞の香」、身近な者の意見というのは兎角軽んじられる

  
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 「預言者は郷里(世)に容れられず」という言葉がある。優れた人物は、故郷や世の中では受け容れられないことが多いという喩えだ。

 人への批判というのは、往往にして嫉妬から出てることが多く、身近な者が出世したり、優れていればヤキモチを焼くのは人間の性というものだろう。

 見方を変えれば、批判や嫉妬というものは実力を認めてる裏返しでもある。

 「人は故郷を離れて貴し」「 近くの坊さんえらくない」というのもあるし、「遠きは花の香、近きは糞(クソ)の香」というのもある(笑)

 身近な者や身近な人の意見というのは中々耳に入ることも少なく、近くの神社仏閣というのも身近過ぎて有難く感じないもので、軽んじられることが多い。

 だが、その軽んじられてる意見が正論だったり、事実だったりするものだ。

 キリストは愛を説いて十字架に架けられた。日蓮は道を説いて流罪に遭った。また政治家も偉いヤツほど殺されている。

 古来、審理を説き、ものの道理を訴えた者は世の中に居られない。バカかキチガイ扱いされた上に、罰せられるか殺されている。

 ガリレオ・ガリレイもそうだ。「地動説」を唱えた時代、誰も地球が太陽の周りを廻ってるなどとは考えても見なかった。

 結果、世を誑かす者だとして宗教裁判にかけられた。

 これが当時の世論だった訳だが、今も当たり前だとか正論だと思っていることも、後の世には間違いや非常識だったとされる場合も少なくない。

 正しいことというのは、いつの世も後になって気付くもので、そんな時に、必死に「正しい」と唱えたところで理解してくれないのは当然のことでもある。

 何しろ世の中にはバカの方が多いのだから、どうしてもそういう結果になってしまうのは自明の理とも言えなくもない。

 今の世の中、「あの人はいい人だ」「あのことは正しい」などというのも、古来に学べば大半は間違っていると思った方がいい。

 「オレはいい人間だ」「善人だ」と吹聴するヤツに限って、その裏では何をやってるか分かったものではない。

 愚生の経験からすれば、笑顔のいいヤツ、愛想のいいヤツというのは意外と性格が悪いのが多く、調子がいいだけだ。

 作られた笑顔の裏の顔というのは実に醜いもので、自分を誤魔化そうとしているに過ぎず、ブスっと無表情のヤツの方が信頼出来る。

 返事もそう。何でもかんでも「ハイ、分かりました」なんていうヤツは意外と聞いていない。話をしてる最中も、じっと目を見ているヤツもダメだ。

 話を聞きながらも、時々目を伏せ、メモしたり、同意した内容があれば目を上げ、目を合わせ相槌を打つ様な人物なら使い物になるだろう。 

 何事も、違う角度から穿った見方をすることも必要で、現在の常識や多くの意見というのは、マスコミや或いは戦後に創られた米国の価値観だったりすることが多いものなのだから。

 まぁ愚生の薀蓄や能書きも、預言者ではないが、「郷里に容れられず」ってより、いつもいつも綴ってると軽んじられるもので、「近きは糞の香」くらいに思われてるんだろうなぁ。呵呵大笑。

 
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2014年12月08日

「リメンバー・パールハーバー」、反省すべきは日本ではなく米国である

  
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 昭和20年9月2日、戦艦ミズーリの甲板上で重光葵外相と梅津参謀総長が降伏文書に調印する。

 上海爆弾事件で右足を失った重光全権は、ステッキを頼りに義足を引き摺りながら喘ぎ喘ぎ上る。

 調印を前に一杯の水を所望するが、冷たく拒否された。

 卑怯者の「ジャップ」にやる水などないという憎悪が目に見える。

 今も糾弾して止まない「リメンバー・パールハーバー」も、日本と日本人への偏見と差別なのだろうが、先の大戦の間違いを反省すべきは我が国に非ず、米国である。

 存在と存亡を賭けて戦った大東亜戦争。この戦いは、アジア諸民族の独立と復権を齎した。我が国は結果的に敗れはしたが、アジアの「希望の星」の役割は見事に果たしたのだ。

 タイのククリットプラモード元首相が実に解り易く述べている。

 「日本のお蔭でアジア諸国は全て独立した。日本というお母さんは難産して母体を害なったが、生まれた子供はスクスク育っている。今日、東南アジアの諸国民が、米・英と対等に話が出来るのは一体誰のお蔭であるのか。それは身を殺して仁を為した日本というお母さんが在った為である。12月8日は、一身を賭して重大な決心をされた日であり、我々は決して忘れてはならない」

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 米国では12月7日(現地時間)を汚名の日「リメンバー・パールハーバー」とし、日本を卑怯な国として糾弾して止まない。戦後70年経とうというのに依然として我が国は「騙し討ち」の汚名を着せられ続け、日本人蔑視は止むことはない。

 こうした汚名を着せられ続けるのは、駐米日本大使が、宣戦布告の覚書を渡し遅れたことが原因で、外務省の職員の職務怠慢に他ならない。

 我が国は「騙し討ち」なんぞしてはいないが、「騙し討ち」そのものが問題ではない。

 問題は、抑抑、何故に我が国が開戦を決意し、真珠湾攻撃に至ったかであって、それには1953年のペリー来航時代まで遡り、アジアの近代史を学ばねば到底理解は出来まい。

 我が国は西洋列強に追いつくべく、強力な中央集権国家を形成しようと明治維新の大業を成し遂げる。

 15世紀の大航海時代以来、白人による世界制覇の波がアジアにも押し寄せアジアは次々と列強に蚕食され植民地となる。

 その間に勃発した、日清、日露戦争も、アジアや我が国にとっても避けては通れない宿命的な歴史だったのである。

 日清戦争に勝利し、更には日露戦争でも我が国が勝利する。「日本大勝利」の報は、固唾を呑んで見守っていた世界の人々を驚嘆させ、特に有色人種に与えた影響は強烈だった。

 日露戦争勝利から15年後、パリ講和会議で我が国は「人種平等の原則」を国際連盟規約に載せることを提案する。

 しかし、議長を務める米国大統領ウイルソンが拒絶し否決。「有色人種に人権など必要無い」との差別が横溢していたのは明らかだった。

 その後世界は第二次世界大戦に突入し、我が国へABCD包囲網が敷かれ、最後通牒「ハルノート」が突き付けられる。最早、我が国の生き残る道は連合国との戦争しかないとの決断に至る。

 昭和26年(1951年)、マッカーサーが上院軍事外交委員会で、「日本が戦争に飛び込んで行った動機は、安全保障の必要に迫られた為である」と証言した様に、大東亜戦争は正に自存自衛の為の戦いだったのだ。

 我が国は敗れはしたが、戦争後、アジアは独立し「人種平等の原則」は成立した。その事実をして如何に大東亜戦争が聖戦だったかが理解出来よう。

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 また、12月8日は、嘗ての先輩であり、兄であり、上司でもあった對馬則政の命日でもある。

 やはり12月8日は忘れられない。南無大師遍照金剛。合掌

 
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2014年12月07日

「戦後のタブー」とは憲法だけではないぞ!

  
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 日本は「フジヤマ、ゲイシャガール、ハラキリ」の低開発国だとする米国は、様々な占領政策で日本人の去勢と改良を行った。

 日本国憲法が米国製というのは余程のバカでない限り知ってるが、「労働三法」と呼ばれる法律もまた米国製だということを知る人は限りなく少ない。

 「労働三法」とは「労働組合法」「労働基準法」「労働関係調整法」の3つの法律をいう。

 憲法 28条の労働基本権の理念に基づいて制定されたもので,日本の労使関係を規定し,対等的労使関係の基礎となっている。

 これは米国の学者どもが、日本を実験台にして作られたものだ。

 「理想的な労働関係の法律を作る」だとか「労働者の保護」という目的で作られたが、労働者によるストライキによって生産低下を狙ったものというのが真意だ。

 結果は米国の大失策。労働組合が乱立し労働人を蔓延らせ、嗤えることに、反米闘争の闘士を育ててしまうという皮肉な結果となった。

 米国の意図とは失敗に終わり、揚句に、米国が作った法律で守られた労働者が「反米」を唱える始末で、飼い犬に手を咬まれるとはこのことだ。

 相も変わらず我が国は労働者天国だ。労働者にとって社会主義国や共産主義国が理想の国とされたりもするが、どっこい、日本ほど労働貴族といわれるプロ組合員が優遇されてる国はない。

 中共にストライキがあるか。赤旗を振って「ガンバロー!」などと労働歌を歌い、遊びながら給料を貰える国があるか。経営者や政治家の罵詈雑言を赦す国があるか。

 今や、政治家は政策よりも如何に支援者の御機嫌を伺うかが大事。共産党や社民党、民主党などの左がかった政治家らは、労働組合の支持が無くては当選も出来ないとは実に情けない。

 尤も、この構図は恰も創価学会票を当てにする自民党と同じだが(笑)

 沖縄でのプロ市民にしても、元凶は米国製の法律であり、米国の自業自得、悪因悪果ともいえるが、「戦後政治の総決算」とは憲法以外にも様々な問題が山積しているのだ。

 例えば、「教育委員会制度」も米国が教育破壊を目的として導入したものだ。

 米国は、「戦前の日本の軍国主義が日本の中央集権的教育制度を齎し、それが結果戦争に繋がった」と結論付けた。

 その日本の学校教育を、内務省の中央集権的統制から解き放ち、その管理を地域住民の代表により構成される合議制の「教育委員会」の下に置こうと画策し、それを実行したのである。

 教育委員会のモデルとなったものが、米国の教育委員会制度である。

 これは、米国の開拓時代の占領統治の思惑から生まれたもので、日本の統治もこれと同じ様に、占領によって米国の意のままに置こうというのが狙いだった。

 米国の実行した、「戦後民主主義教育」と日本国憲法を始めとした様々な法律や制度は、米国の思惑以上に大きな成果を齎し続けている。

 現憲法を始めとした、こうした悉く失敗した米国の策謀を有難く思い、それを当たり前だと錯覚し、それを変えることすら躊躇しているとは滑稽という他はない。

 それにしても、「反米」を唱えている左翼や労働組合どもは、米国製の憲法を護り、米国製の労働三法に守られ、米国製の教育委員会の下で米国の行った自虐史観を信じ、純粋な子供達を洗脳していることに違和感を感じないのだろうか。

 そういう意味でも、「戦後タブーに挑戦する」との幟を鮮明にする「次世代の党」の活躍に期待したいが、「自民党の右側に立つ」どころか、存続の危機に追い込まれようとしている現実は、想像以上に占領政策が浸透し悪化している証左であろう。

 
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2014年12月06日

大勢に流されず何事も両目を見開いてその中身を吟味したいものだ

  
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 当り前だが人間には目玉が二つある。だが、多くの人は世の中を片目でしか見ていなかったり、自分で判断もせず大勢に流される。

 伊達政宗や柳生十兵衛、前田利家、乃木希典、北一輝、小泉八雲、双葉山などなど、隻眼と言われた人物の方が物事を冷静に見てたりもする。

 世の中というのは自分で見聞きしたものよりも、数の多いものが「当たり前」と捉え、数の少ないものを「間違い」と決め付ける癖がある。

 徳川時代、日本にやってきた外人は、日本人の丁髷を見て、日本人の男は恐ろしい、頭にピストルを載せているとびっくりしたという。

 それに尾鰭が付いて変な日本人観が生まれた。

 そういう日本人も、来日した外人を見て、背の高い、赤毛の天狗が来たとびっくりしたというからお互い様。人の見る目と噂とはそんなものだ(笑)

 大東亜戦争に突入する頃、数ある国会議員でさえ、対米戦争已む無しの声が大勢を占め、反対したのは当時、参議院議員だった赤尾敏ら少数だった。

 多くの国民も、神州不滅を信じ、「反対」の意見を吐くものなら「非国民」として憲兵にひっぱられ酷い目に遭わされた。

 大衆の多くは無知で愚かであり、大衆というのは操縦し易い。人々が思考しないことは、政府にとってこれほど都合の好いものはない。

 原発運動だってそうだ。「反原発」に踊らされてるのは多くは無知な大衆だ。

 第一次オイルショックを経験した日本は、基幹エネルギーに原発を選択する。そして我が国は高度成長に乗り、三種の神器といわれるテレビ、冷蔵庫、洗濯機といった家電が普及する。

 こうした便利さを多くの国民は当たり前だと思ったのだが、今更、原発を目の仇として批判するのは筋違いもいいとこ。本末転倒とはこのことだ。

 民主主義は多数決だが、数の多い意見が正しいとは限らない。同様に、善人必ずしも善人とは限らず。悪人必ずしも悪人といい難い。

 一般人から見れば「キチガイ」や「変人」かも知れないが、そのキチガイ側から見れば、一般人が変人に見えてるかもしれませんよ(笑)

 勝海舟という人物は余り好きではないが、勝はこんなことを言っている。

 「世評なんぞ気にかけるな。人間の評価など十年毎に浮き沈みするものだ。大奸物、大逆物と言われた勝麟太郎も今では伯爵という華族様の勝安芳様と言われる様になった。世評など変わるものだし、信じるものではない」

 世評なんぞ懼れるに足らず。

 坂本龍馬もまたこう訓える。

 「世の人は我を何とも言わば言え、我が成すことは我のみぞ知る」

 人間の賢愚、美醜、善悪など、そう簡単に決められるものではない。何事も極一部の人間の判断で決まるもので、大衆はいつの時代もどうにでも動くものなのだ。

 ヒトラーは、「大衆は、小さな嘘より大きな嘘にだまされやすい。なぜなら、彼らは小さな嘘は自分でもつくが、大きな嘘は怖くてつけないからだ」と語り、そしてこう訓える。

 「必要不可欠なのは、一人の指導者の意志、一人が命じ、他の人はそれを実行すればよい」

 我が国の政治は大衆迎合主義であり愚衆政治となるのは、悪意はないが、無批判で無関心な、現状維持にだけにしか興味のない大衆が、マスコミによる世論誘導を疑うことなく受け容れ、それが正しいものと錯覚してしまっているからだ。

 一般大衆は、最良のものが支配している場合には、これに従い、最悪のものが支配している場合にも、控えめに言うことはあっても、何の抵抗もせず、自ら闘うことをも放棄してしまった。

 我が国の戦後政治は、悲しいかな、そういうマスコミに世論誘導された大衆の意見に媚びるだけの政治でもあるのだ。

 政治での議論は必要なことではあるが、大事なのは上に立つ者の意志と実行力であるが、如何せん、我が国にはそうしたリーダーはいない。

 果たして、これからの乱世を治められる政治家が生まれるのだろうか。

 新聞紙上では、「次世代の党」の田母神候補の苦戦が報じられている。

 「自公分断」こそ政治の流れを変える千載一遇の好機であるのだが、こうした予想を見ても、無関心な、現状維持にだけにしか興味のない大衆が殆どであるということが理解出来よう。

 大勢に流されず、何事も両目を見開いて、その中身を吟味し、強固な意志と実行力を以て国民生活を安寧に導く、真の保守政治家の出現を待望して止まない。

 
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2014年12月05日

「こんな年の瀬になんで選挙なんてするの」という有権者に次世代の党の政策なんぞ聞こえることはない

  
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 「この年の瀬の忙しい時期になんで選挙なんてするの?」「もっとやらなきゃいけないことがあるでしょうに」という様な声を聞く。

 でも、前回の民主党・野田政権下で行われた総選挙は12月4日だったのだが、そういうことすら忘れてしまう有権者を相手にするのだから、ある意味、大変だわな(笑)

 前回の衆議院選挙公示日、地元紙に目を通していると、当日の午後0時55分~1時15分、愚生の故郷の二本松市小浜四つ角交差点で、安倍総裁(当時)の立会い演説会が行われるという記事を見付け出掛けてみた。

 序に、実家の「相模屋」でカツ丼食べようかと思って立ち寄ってみたら、何やらテレビ局がうじゃうじゃ、顔見知りの警察の姿もチラホラ。

 聞けば、安倍総裁が「カツ丼」を食べに来るという。

 警察も訝しげに「入るんですか?」と聞いて来た。「実家だもの(笑)」と店に入る。実兄が愚生を見るなり「そりゃ、来るわな(笑)」

 何やら数日前に警察が来て「弟さんには安倍総裁が来ることは黙ってて頂けませんか?」と言われたという。

 兄は「どうせ、新聞見て来るよ!」と笑って答えたという(笑)

 案の定の登場で、周辺はざわついてた。愚生がいることで実家に迷惑かけると悪いので、挨拶だけして早々に演説会場に向かうことにした。

 愈々、立会演説会が始まる。司会進行役は実兄だ。

 森まさこ参議院議員らが応援演説し、地元候補者の根本匠の演説が始まった頃、フィンランドの記者というのが通訳を交え、「安倍さんのどこを支持できますか?」などと愚生に質問して来た。

 「政治で大事なものは国防と教育、その中でも安倍総裁は『将来を担う子供達が、自分の国に誇りの持てる教育を施す』と訴えており、その一言でも支持出来ます」と答えた。

 周りの警察や公安が聞き耳を立てる。

 他にも自民党の綱領を交え、「尖閣」に絡んだ領有権の問題やら「戦後レジームの総決算」での憲法の話しなどもしたが、その記者も通訳も「何でこんな田舎で、こんなに詳しい人がいるのだろう」と思った様だ(笑)

 その記者は、更に「安倍首相が誕生しても同じ様に、また直ぐ止める様なことにはなりませんか?」と聞いて来た。

 「日本の政治が大衆迎合主義になってしまうのは、マスコミの誘導というか、政権の支持率という人気によって進退が決まってしまう訳ですが、今は、ネットなどもあり、前回の様な一方的な報道を鵜呑みにする様なことにはならないでしょう」などと応えて終わった。 

 それにしても、片田舎の交差点で演説をする安倍は、氷雨に打たれながらも気合いが入っていたなぁ。やはり、昼に食べた相模屋名代の「カツ丼」が好かったのかもね(笑)

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 その日の夜のNHK選挙特集で、安倍が相模屋でカツ丼を食べるシーンが流され、インタビューに答えていた。(画像はその時のもの)

 当時、安倍は「潰瘍性大腸炎」の難病を理由に「また政権を放り出すのでは」と囁かれていた。

 潰瘍性大腸炎は肉類は厳禁。カツ丼や、当時揶揄された高級カツカレーを食べたということは、難病を克服したという証しだった。

 地元紙に総選挙の序盤戦の記事が出てた。見れば、自民党の躍進という予想が発表されている。維新や次世代の党が減らす分、自民党や共産党、民主党に流れると見ている様だ。

 一方で、大幅に議席数を減らすと予想されている次世代の党だが、ネットでは次世代の党を支持する声はかなり多い。だが、これが我が国の政治の現実なのだとしたら呆れ甚し。

 前回の総選挙で安倍は、「将来を担う子供達が、自分の国に誇りの持てる教育を施す」と声を大にした。だが、残念ながらカネの配分ばかりで教育論などほったらかしだ。

 「こんな年の瀬になんで選挙なんてするの・・・」という有権者には、教育問題を始め、「戦後のタブーに挑戦する」という次世代の党の国を憂うる政策なんぞ聞こえることはない。

 
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2014年12月04日

共産党や左翼は無自覚左翼的有名人を利用し、国民を誑かすのが常套手段

  
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 高倉健に続いて菅原文太が亡くなった。仁侠映画の二大スターが同じ時期に亡くなるとは、何か不思議な謂れを感じてしまうのは愚生だけではあるまい。

 「仁義なき戦い」は年代的にリアルタイムでは観られなかったが、レンタルビデオで借りて初めて見た興奮は忘れない。どちらかというと、「トラック野郎」を観ては愉しんだものだ。

 高倉健主演の 「網走番外地」などの仁侠映画は、当時、学生運動をしていた左翼連中のバイブルで、強い者に一人立ち向かう健さんの姿が、権力に歯向かう自分と重なり合わせていたという。

 そんなこともあり、マスコミは高倉健の死を左翼運動とダブらせ、作為的な報道を垂れ流し、また菅原文太も「反原発」や「機密保護法反対」などの活動シーンを頻りに放映し、国民を誑かす。

 菅原文太が潜在的無自覚左翼思想を露にし、人生観や政治観を露にし出したのは、倅を事故で失ったことが大きかったのではなかろうか。

 そうした彼の信条は、共産党を始めとした左翼陣営にはうってつけのものだったのだろう。

 芸能界には保守的な芸能人も多くいるが、逆に共産党シンパや無自覚左翼も少なくない。

 だが、芸能人やタレント、有名人の「言葉」というのは社会的影響が大きいだけに、政治活動をしたり政治的発言をするのは慎重であらねばならないと思う。

 俳優や芸能人というのはファンあっての物種であって、政治的には不偏不党、中立の立場を守るべきだろう。映像を通してのイメージを大事にするべきで、ファンの夢を壊すべきではない。

 菅原文太や吉永小百合、或いは沢田研二など、彼らに共通するのは安っぽい正義感。

 戦後教育の自虐史観にどっぷりと漬かりながら、それらを疑うこともせず、「戦後民主主義」に拘泥するあまり、自分の考えこそ絶対として全く聞く耳を持とうとはしない。

 一世を風靡したジュリーこと沢田研二に至っては、「憲法九条を守りたい」と、自ら詩を付けたバラード「我が窮状」を制作し、これがコンサートでは人気らしい(笑)

 以前、地元紙に、沢田研二の憲法観というか、バカ丸出しのインタビュー記事が載っていたが、これが実に薄っぺらい正義感からのもので、嗤えるものばかり。

 「アメリカから与えられた憲法だという人がいるが、世界に誇れる宝物だと思う。特に惹かれるのは、『戦争を放棄する』という部分。やられたらやり返すじゃない。(これは)日本人の宗教観で、受け入れられる感覚だと思う」と語っている。

 日本人の宗教観というが、共産主義者に宗教云々を言う資格はない。

 「どの家でもお父さんが怒っても、お母さんが我慢すれば喧嘩にならない」というが、ジュリーにとっては、悪いのはいつでも親父らしい(苦笑)

 「他国に宣戦布告されて迎え撃ちに出ることになったら若い人達が召集されて、国の未来を考えると良いことはないですよ。国の軍隊同士の戦いと言っても、結局普通の人が巻き込まれる。自分の家族が死傷者に含まれていたら、国の為、大義の為で片付けられないでしょう」と言いたい放題。

 読んでる方が「勝手にしやがれ!」と言いたくなった(笑)

 「世界中の宗教絡みの争いも、どっかで止めれば、或いは我慢すれば無くなる」という。

 ここまで来ると、余りの短絡的思考に憐れみを感じてしまった。

 「若い人は自分のことで手一杯でしょう。長く生きて来た僕らが考えないといけない問題なのだと感じます。」と締め括っていた。

 だが、歌手として何を歌おうが勝手だが、九条を、「世界に誇れる宝物」だとか、「若い人は自分のことで手一杯」だからとか、アホな解釈を垂れ流すのは勘弁して貰いたいものだ。

 第九条の「戦争放棄に関する条項」は、世界大戦後に国連が勧めた「不戦条約」がその源である。

 不戦条約は我が国を始め、米国、英国、仏国、伊国など多くの国が締結している。しかし、戦争放棄の国際条約を結んでから、世界は皮肉な事に条約とは全く正反対の道を歩んで往った。

 理想と現実は違うのだ。ましてや戦争というのは政治の延長であり、政治的に合意を見なければ戦争というのは避けられないことでもあるのだ。

 憲法で「平和主義」を謳っている国は80ヶ国以上在り、イタリア、スペイン、ハンガリー、エクアドル、フィリピンは日本と同じ規定が在る。

 沢田研二ら護憲派は、「世界で唯一の平和憲法」と賛美しているが、これこそ日本人の奢りであり、無知以外の以外の何ものでもない。「護憲」は正に「誤憲」と断じるのが正しい。

 タレントとは一芸に秀でた者をいうが、俳優としては一流だからといって、そういう者が政治的にも立派な考えを持っているのかといえばそうでもない。その自論は実に幼稚なものばかり。

 「誤憲」「人権」「平和団体」などの所謂「無自覚左翼」に共通するものは、物事の見方が薄っぺらで、実に腹立たしいものが多いが、菅原文太や吉永らも例外ではない。

 左翼にとって、彼らの様な無自覚左翼的芸能人は利用価値は非常に高いのである。

 「反原発派」にしろ「九条の会」にしろ、共産党や左翼陣営、売国マスコミの連中はこうした有名人を利用し、国民を誑かすのが常套手段であることを、視聴者は知らねばならない。

 菅原文太の晩年は、農業に従事したことは大いに賛同するが、反原発運動にしろ、秘密保護法反対運動にしろ実に御粗末なものだった。文太ファンとしては寂しい限りである。合掌。

 
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cordial8317 at 08:30|PermalinkComments(0)

2014年12月02日

政党の中身も知らないで一票を投じることがあってはならない

  
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 本日、第47回衆議院選挙が公示される。公示前から既に投票先を決めてる有権者は多いのではなかろうか。

 前々回の総選挙では、「自民党にお灸をすえる」ということから民主党が支持され、前回は民主党政権への絶望から自民党が政権を奪回した。

 どちらもマニュフェストや政策ではなく、怪しげな世論の流れと、民主党政権や自民党政権に対する反動であり、大衆迎合政治の結果である。

 我が国の選挙というのは、創価学会や共産党員ら熱烈な支持者以外は、「自民党(民主党)くらいしかないか」「民主党(自民党)にでも入れとくか」といった感覚で投票したというのが実情で、所詮、自民党にしろ、民主党にしろ、「でもしか政党」でしかない。

 政治で大事なものは、如何に国家観を以て政治を行い、国家・国民を安寧に導くかであり、我が国の政治家に決定的に乏しいのはそういう国家観である。

 そういう意味でも、政党や候補者の中身も知らないで一票を投じることがあってはならない。

 自民党然り、政治家は挙って、「この国を経済や財政を立て直すのが第一で、憲法問題は喫緊の課題ではない」と宣う。

 だが、国家最大の課題は、国の基本法として機能を呈していない現憲法を見直すことでしか、日本再生を図る手段は無い。

 国の大本は景気対策よりも、将来を担う子供達への教育の充実と国防力の整備を図ることであり、憲法議論亡き国防論や教育論に意味はない。

 この二つに不可欠なものは愛国心であり大和心である。

 日本を愛するという心情は理屈ではなく極めて自然な感情であるのだが、戦後は戦前の狂信的ともいえる鼓吹された愛国心の反動から「愛国」という言葉自体が、政治家からもマスコミからも教育の世界からも消えて久しい。

 我が国は今や、愛国心の希薄と国防意識の欠落では恥ずかしいことに、世界に冠たる国となってしまった。この元凶は現憲法に在ることは言うを俟たない。 

 国防とは単に領土主権の保全ではない。

 三島由紀夫は、「それを亡くしてしまえば日本ではなくなってしまうもの」を死守することであると訓える。つまりは、歴史・伝統・文化を守り、天皇を戴く日本という国柄を護り抜くことである。

 「国防」も「防災」も「領土保全」も同一線上に在るという観点に立てば、これらの妨げになっている現憲法を大いに論ずるのは余りにも当然のことで議論の余地などない。

 今こそ、国益を害する陋習の一掃を図り、我が国の危機管理能力の欠如と脆弱さを克服し、周辺国からの蚕食を防ぎ、アジアの平和安定に寄与する政治を目指さねばならない。

 昨日行われた党首討論でも、アベノミクスの正否や経済政策ばかりで、憲法の在り方を語ったのは次世代の党の平沼代表だけというのも実に御粗末過ぎる。

 「独立国に相応しい自主憲法を創るべきだ」という主張は大いに同意する。次世代の党も「でもしか政党」に違いないが、次世代の党の躍進は我が国の政治の曙光となる可能性を秘めている。

 我が国の政治が三流と言われる一因に、進歩の無いマスコミの影響があるのは言わずもがな。

 マスコミはオチョクリに乗っかって何でも腐す。そういう冷笑的な態度を執ることが真のジャーナリズムだと錯覚している。こうした「低能ジャーナリズム」を糺すことが、政治を正すことにも繋がり、日本再生へも繋がると信じて止まない。

 放送法第1条第2項には「放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによって、放送による表現の自由を確保すること」が謳われている。

 第4条第2項には「政治的に公平であること」、そして第4項には「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点をあきらかにすること」と記されている。

 憲法21条では「報道の自由」が保証されているが、これは、礼儀を欠いた取材活動や報道を保証するものでもない。

 新聞倫理綱領にも「言論・表現の自由の下、高い倫理意識を備え・・・」とあり、「言論・論評の自由を守り抜くと同時に、自らを厳しく律し、品格を重んじなくてはならない」と記されている。

 「放送法」も「新聞倫理綱領」も、「報道の自由」も、兎角、傲慢になりがちな記者を諌める為のものでもあるのだが、我田引水的に都合好く解釈しているマスコミこそ政治腐敗の元凶でもある。

 新聞記者諸公に高い倫理意識など感じることもなく、とても品格を重んじてるとは思えない。

 テレビにしろ、傍若無人な礼儀を欠いた報道は、日本の品格を貶め、国民の倫理意識を低下させ続けている。また政治の為体にしろ、その悪因悪果はマスコミに因るところが大きい。

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 地元紙には党首の自筆の政策目標が掲げられてる。皆さん、個性的な筆跡ばかり。医者と弁護士で達筆な人は少ないが、最近の政治家も同じ。

 字は人となりを現すもの。この中では、共産党の志位の字は真面目さが窺える。以外にコイツって優しいのかもね(笑)

 皆さんはどこの「でもしか政党」の「でもしか政治家」に一票を投じるのだろう・・・

 そういう意味でも、選挙期間中はテレビは見ない方がいいかもね(笑)

 
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cordial8317 at 06:45|PermalinkComments(0)