2014年06月

2014年06月26日

「早く結婚すればいいじゃないか!」というから騒ぎで「最後は金目」発言が吹っ飛んだ!

 塩村文夏都議が一般質問中に「早く結婚すればいいじゃないか!」というヤジが飛ばされ、塩村議員は一瞬笑みを浮かべるもその後涙目になり、声も上擦る。

 女性の涙は効果覿面、ヤジはセクハラの最たるものとしてバッシングされ、結果、自民党の鈴木章浩都議が謝罪する羽目に。それでも事はこれで収まらず、「産めないのか!」とヤジった者がいるとマスコミと共に犯人探しに躍起。だが、最近はネットで簡単に塩村都議の質問シーンや問題のヤジが詳しく聴ける。

「みんなが結婚すればいいじゃないか!」というヤジは確かに聞こえるが、「産めないのか!」と言ったとされるヤジは聞こえない。

 聞こえたと言い張ってるのは塩村都議だけ、まぁ空耳だろう。塩村は「恋のから騒ぎ」に出演したというが、「空耳アワー」にも投稿したか(笑)

 このから騒ぎでテレビ出演の前歴がバレ、「妊娠した」と言って1500万円騙し取ったという自慢話も露見した。コレって詐欺とか恐喝っていうんだよね(笑)

 藪を突いて蛇を出したのか、雉も鳴かずば撃たれまいに、高がヤジに狼狽えた結果、怪しげな過去が暴かれることになったのは皮肉としか言い様がない(笑)

 このバカ女、何を勘違いしているのか、今度は安倍総理直々に謝罪を求めているというから勘違いも甚だしい。何様のつもりか。

 この名演技で、中間処理施設建設に絡み福島県民を愚弄した石原伸晃環境省の「最後は金目でしょ!」発言が消えてしまったのは紛れもない事実だろう。国会が終了した翌日、石原は福島県を訪れ「心からお詫びする」と謝罪した。

 鈴木都議も塩村に対し、「心からお詫びする」と謝罪したが、石原が赦されて鈴木が赦されない理由とは一体何なのだろう?

 地元紙ではこのニュースは取り上げられていたが、テレビやマスコミの報道を見れば、石原発言など忘れたかの様に、塩村都議へのセクハラヤジ一色。

 議会でのヤジや暴言なんてのはしょっちゅう。「ヤジは議会の華」なんていう言葉もあるし、一々ヤジに反応していたら政策なんぞ実行出来まい。

 そういや、子供のいない安倍首相に向って「タネ無しカボチャに何が分かる」と言った元総理のアホ議員がいたのを覚えているだろうか(笑)

 あの田中真紀子の発言は今回のセクハラヤジを超えた差別そのものだったが、他の議員もマスコミも笑って見過ごしていたではないか。

 政治家の一般質問では、「先ず自分がヤレ」などというヤジが飛ぶことはよくあること。それは政治家というのは言葉と行動が伴って初めて国民や有権者に信じて貰えるからだ。「政治家は隗より始めよ!」というのはこういうことだ。

 言い始めたものが先ず率先垂範して国民に範を示すこと。政治家に求められるのはこういうこと。況してや政治とは最高の倫理であり、最高の道徳でなければならないし、政治に携わる者は清廉潔白であらねばならないのだ。

 そう考える時、政治家になってはならない者が如何に多いことか。日本維新の会の吉田康一郎という元都議がtwitterでこうツイートしている。

「実は平成17年、都議会に初当選した私の最初の一般質問は『少子化対策・子育て支援』でした。質疑を始めた途端、「まず君が結婚して子供を作らなきゃ」のヤジ。大爆笑の中、私は苦笑いで質疑を続け、それで一件終了でした。今般、女性都議への同様のヤジの件、随分と世間の取り上げ方も違うものです」

 要はヤジられたのが今回は女性だったから問題なだけだ。これが男性、況してや自民党所属の議員だったなら一笑に伏されて終わりだったろう。

 一部議員が起こしたヤジ問題を殊更騒ぎ立てるのは果たして如何なものか。このバカ女、外国人特派員協会で得意満面で会見し、恰も我が国が未だに女性軽視の風潮が蔓延っているかの様に誇張する。

 こうした問題に外国メディアの関心も高く、早速、世界に発信された。それでなくても慰安婦問題だとか如何にして日本を貶めるか、虎視眈々とその機を窺ってる国や団体も多い中で、こうしたことを吹聴するのは感心しない。

「平等」という言葉をはき違えてはならない。品の無いヤジを庇うものではないが、言われる様な要因もあったのではないかという素直さも大事ではなかろうか。

「早く結婚すればいいじゃないか」というヤジも、福島県民へ「最後は金目でしょ」との言葉にしろ、自分達は被害者なんだという驕りというか勘違いが、そうした何気ない言葉にも敏感に反応してしまうのだ。

 まぁ、結婚なんてのは勢いでするもので、理想を求めたら婚期が送れるだけ。塩村都議も鈴木都議の言葉にも一理ありと、早く結婚すりゃ好いよ、羊水が腐る前に。ってか、こんな発言して総バッシングされた歌手がいたっけね(笑)

 序にこの女に聞いてみたいね「結局、最後は金目でしょ?」って。呵呵。

cordial8317 at 08:19|PermalinkComments(0)

2014年06月23日

昭和20年6月23日、決死の戦闘空しく沖縄戦終結!

 今日は沖縄戦終結の日。福島県内はもの凄くいい天気ですが、69年前の沖縄もこんな青空だったのだろうか・・・。昭和20年4月1日、米軍は沖縄に上陸する。

 迎え撃つ牛島満中将指揮下の師団と旅団、及び大田実海軍少将指揮下の海軍部隊、棚町整海軍大佐が指揮する約7千人の航空関係員、更には、「鉄血勤皇隊」や「ひめゆり学徒隊」に代表される少年少女など、軍官民は決死の防衛戦を展開した。

 本土からは、戦艦大和を始めとする第二艦隊の出撃「菊水一号作戦」や、桜花隊や敷島隊等の航空特攻「菊水二号作戦」を発動、更には「回天」等の特攻作戦を展開した。だが、決死の戦闘空しく、昭和20年6月23日組織的沖縄戦は終結した。

 それを遡ること昭和19年10月20日、フィリピンのレイテ島に圧倒的勢力で上陸を図ろうとする米軍部隊へ、起死回生の反撃、更に連合軍の沖縄への上陸、本土決戦を阻止しようと神風特別攻撃隊が編成される。

 死を決意して志願した特攻精神は祖国愛の極致というべきもので、「神風精神」こそは大東亜戦争が自存の為の祖国防衛戦争であったことの何よりの証である。

 沖縄戦に於いては特攻部隊が重要な役割を果たし、特攻戦死者の実に76%が沖縄戦で亡くなっている。鹿屋基地(海軍航空)からの特攻で1981名、知覧基地(陸軍航空)からの特攻で1021名、合わせて3002名が散華された。

 特攻は航空だけではなく、特殊潜航艇、回天魚雷、空挺特攻、対戦車特攻、震洋特攻艇、陸軍海上特攻など劣勢を覆す為の特攻攻撃が行われた。特攻作戦で実に3972名もの若者が尊い命を捧げたのである。

 沖縄では、未だに「日本は沖縄を見捨てた」だとか、「日本は沖縄を捨石にした」「日本軍は沖縄の敵」などというプロパガンダが蔓延っているが、いい加減県民も被害者意識を捨て、歴史の事実に目を向けたらどうだろう。

 沖縄県民の反日姿勢や反米感情は今に始まったことではないが、その要因は米国による戦後政策の失敗という皮肉な結果が招いたものだ。

 戦後、沖縄の人々は「日本軍を加害者、米軍を解放軍」などとは思ってはいなかったが、米軍は徹底的な検閲を行い「米軍こそ解放軍である」との宣伝を行った。

 その有力な協力者が「沖縄タイムス」であり、現在も反米・反基地運動を煽動している名うての売国新聞社どもである。

 反米左派集団が、未だ米軍が宣伝した嘘を信じていることは滑稽極まりないが、「反地」「基地運動」や「反米闘争」を煽動しているのが、言わずと知れた「沖縄タイムス」を始めとした反キチばかり。

 基地とはキチガイのキチ。これつまり、左翼の策謀でもあるが、米軍の自業自得、悪因悪果と言うのが正しく、戦後の沖縄は我が国の体制の歪みの象徴でもある。だが、こんな嘘をいつまでも許して置く訳にはいかない。

「戦艦大和」が出撃にしても、彼らはどうにか沖縄に辿り着き海岸に乗り上げて全力を挙げて砲撃戦を行う予定であったのだが、鹿児島沖の海に沈んだ。

「大和」には歯磨き粉、ブラシ50万人分、月経帯15万人分などの民生品を大量に積み込んでいたという。沖縄と沖縄の人々を守ろうとした何よりの証しである。

 こうした純粋に国の為に尊い命を捧げてくれた英霊に対し、一体どんな顔向けが出来るというのか。沖縄県民は被害者意識を払拭せよ!

 沖縄戦で活躍した大田実少将と牛島満中将の二人が残した最後の電文がある。

 敵ヲ迎エ撃ツコト二ヶ月余、
 陸軍トノ緊密ナル協同ノ下、敵撃滅為ノアラユル努力ニモ関ワラズ、
戦イ利アラズ、根拠地隊ハ、
既ニ陸戦隊ノ精鋭四個大隊ト使用可能ノ火砲ヲ陸軍ノ指揮下ニ派遣シ、
 部隊ノ戦力ノ低下ハ免レズ、
 加ウルニ、敵ノ装備ハ我ニ勝ルモノ在リ。
 此処ニ小官ニ委託サレタル皇国護持ノ任ヲ果タシ得去リシコトヲ、
 陛下ニ深ク御詫ビ申シ上ゲル。
 指揮下ノ部隊ハ帝国海軍ノ伝統ニ従イ、勇敢ニ戦イ、敵ノ砲爆撃、
 沖縄ノ山容ヲ改メシト雖モ、我ガ将兵ノ奉公ノ念ハ改ムルヲ得去リキ。
 我々ハ此処皇国永遠ノ発展ヲ祈念シツツ、喜ンデソノ職ニ殉ゼントス。
 永年ニ渡リ愛顧ヲ賜リタル大臣閣下並ビニ上司各位ニ対シテハ
 心カラノ感謝ヲ申しシ上ゲルト共ニ、
 コノ地ニ倒レタル部下将兵ノ遺族ニ深甚ナル考慮ヲ賜ランコトヲ願ウ。
 我ガ将兵ト共ニ、陛下ノ万歳ヲ三唱シ、皇国ノ弥栄ヲ祈ル。
 「身ハタトエ 沖縄ノ辺ニ朽ツルトモ 守リ遂ゲルベシ大和島根ハ」 
 沖縄方面根拠地隊司令官 大田実 

 大命ヲ奉ジ、驕敵撃滅ノ一念ヲ以テ、
 麾下ノ将兵、侵入軍ト戦ウコトヲ約三ヶ月、
 死ヲ顧ミ去ル抵抗ニモ関ワラズ敵ヲ破砕スルコトヲ得ズ、
 戦局ハ最後ノ関頭ニ直面セリ。
 麾下部隊ハ本島ニ進駐以来、現地同胞ノ献身的ナ支援ノ下、
鋭意作戦準備ニ邁進セリ。
 敵ノ上陸以来、我ガ陸海軍地上部隊ハ、航空部隊ト相呼応シテ本島防衛ノ為、
 アラユル努力ヲ傾注シ来タレリ。
 然ルニ事志ト違イ、今ヤ本島ヲ敵手ニ委ネントス。
 陛下ニ対シ、国民ニ対シ、誠ニ申訳ナシ。
 此処ニ残存ノ手兵ヲ率イ、最後ノ一線ヲ展開シ、
一死以テ御詫ビ申上グル次第ナルモ、
 只只重任ヲ果タシ得去リシヲ思イ長恨千載ニ尽キルナシ。
 最後ノ決闘ニ当タリ、既ニ戦場ニ散リシ将兵ノ英霊ト共ニ、
皇室ノ弥栄ヲ祈念ス。
 死スルト雖モ、魂ハ国ヲ守ラン寛吾ナリ。
 上司並ビニ同僚ノ懇情ト協力ニ深甚ノ謝意ヲ表シ、御訣レヲ申上グ。
 「矢弾尽キ天地染メテ散ルトテモ 魂遷リ魂遷リ皇国護ラン」
 「秋ヲモ待タデ枯レ行ク島ノ青草ハ 皇国ノ春ニ甦ガエラム」
 牛島満

 二人の訣別電文からは、司令官の悲壮な決意と覚悟、大日本帝国将兵としての勇猛果敢さを余すことなく示されている。

 沖縄を守るべく先人達は戦い、力及ばず敗戦の憂き目を見るが、決して沖縄を見捨てた訳ではない。戦後、米国の統治に置かれ沖縄県民の負った犠牲は気の毒ではあるが、戦争に負けるとはそういうことでもある。

 現代に生きる我々は、先人の尊い犠牲の上で、今日の沖縄や我が国の繁栄が在るということを決して忘れてはならない。

cordial8317 at 13:36|PermalinkComments(0)

2014年06月18日

タテマエなんてどうでもいい、ホンネを見抜け!

 昨日アップした記事に噛み付いて来たヤツがいた。「誰だって古里を元に戻せと思ってるし、カネなんかじゃないぞ・・・」というもの。他にも愚生への誹謗中傷を御丁寧に書き込んで来た。相変わらず匿名で夜の夜中に御苦労なことだ。

 ブログなんぞ個人の日記。自分の意見があるなら自分のブログで堂々と論じれば好いし、嫌いなら読まなきゃ好いと思うのだが、こういう輩に限って言葉尻や一部分の言葉を論い、ヘタクソな日本語で感情剥き出しで書き連ねてくる。

 日本人というのは極端から極端へ奔る傾向がある。右か左か、白か黒か、自分なりに色分けしてしまう。そういう愚生もそういう性格が無いとは言えない。レッテル貼りといういうものがそう。「街宣右翼は朝鮮右翼」が有名だわな(笑)

 最近では「ネット右翼」なんて流行語もあるが、「右翼」とはどんなものかも分かりもしないのに、チョッと保守的なものを「右翼」に準えるのも可笑しな話し。喩えて言うなら「ネット保守」「にわか保守」だろう。

 話は変わるが、故事名言にも極端なものが多い。

「武士は食わねど高楊枝」の反対が「腹が減っては戦は出来ぬ」

「虎穴に入らずんば虎児を得ず」は「君子危うきに近寄らず」

「長いものには巻かれろ」は「一寸の虫にも五分の魂」

「栴檀は双葉より芳し」は「蝮の子は蝮」

「芸は身を助く」は「芸は身の仇」

「旅の恥はかき捨て」は「立つ鳥あとを濁さず」

「男は門を出れば七人の敵」は「渡る世間にゃ鬼はない」

「渡る世間に鬼はなし」は「人を見たら泥棒と思え」

「善は急げ」は「急いては事を仕損じる」

「三人寄れば文殊の知恵」は「船頭多くして船山に上る」

「果報は寝て待て」は「撒かぬ種は生えぬ」

「好きこそものの上手なれ」は「下手の横好き」

「正直の頭に神宿る」は「ウソも方便」

 こうした格言を挙げれば限がないが、どっちも本当のことを言っているし、その時の場面場面、立場立場で使い方が異なるだけのこと。

 その上、日本人というのはエエカッコしいが多いので、常に自分をよく見せようとする。だからホンネを言わずタテマエばかり。

 ブログにコメントを書き込んだ輩が言う、「古里を元に戻せ」だとか「カネじゃない」というのもみんなウソ。カネでしか解決出来ないことは百も承知だろう。

 かといって石原の発言はどうかというと、ホンネではあるが政治家とすれば実に軽々しいものでしかない。ぶら下がりの取材だったとはいえ、安倍政権の揚げ足を取ろうとする記者が多い中で、その軽挙は猛省しなくてはならない。

 政治家というのは例え正論であってもホンネは出来るだけ出さない方が好いとされている。それは日本の政治家の伝統でもあろう。

 政治家のウソには馴れっこになってしまっているが、「ウソは泥棒の始まり」「ウソを吐くと閻魔様に舌を抜かれる」など、嘘というのは悪いものだと教わって来た。だが、政治家というのは「ウソも方便」というのを優先する。

 だがこの「ウソも方便」には、相手の立場に立って、相手への思いやりが込められたものでなければならないのだ。

 その昔、織田信長が桶狭間に出陣する際、熱田神宮で、あらかじめ神主に頼んで神棚の影から鎧の音を出させたという。

 それを信長は「神のお告げ、我が軍の大勝利疑いなし!」とウソを吐いた。結果、大いに士気が上り、寡兵の織田軍は今川義元の大軍を打ち破ることが出来た。

 釈迦牟尼だって「地獄極楽」なんていうウソを吐いて、民衆の心に安らぎを与え、キリストもまた天国への夢を誘って多くの人々を救ってきた。これだってウソだ。

 ウソには良いウソと悪いウソがある。良いウソは吐いても差し支えはないのだ。良いウソも吐けないのは正直というものではなく、バカ正直というヤツで、世間からは遠ざけられる傾向があるが、最近は余り見かけなくなった。

 まぁ何事も一面な見方や考え方ではなく、ホンネを見抜ける能力を身に付けることが肝心。皆さんは、ウソ吐いてますか。呵呵。

cordial8317 at 08:59|PermalinkComments(0)

2014年06月17日

「最後は金目でしょ!」発言で辞任必至の石原環境相

 石原伸晃環境相が、除染廃棄物を補完する中間貯蔵施設建設を巡り難航している福島県側との交渉について、「最後は金目でしょ!」とついつい本音を吐露。マスコミの煽りもあって矢面に立たされている。

 安定した支持率を維持していた安倍政権だが、石原発言は野党にとって願ったり叶ったり。政争の道具に使われるのは目に見えている。

 中間貯蔵施設への搬入開始目標を平成27年とする見通しも不透明となり、早々の収束を図ろうとする安倍政権にとって石原の辞任は避けられない。

 地元紙は、石原の発言は福島県を愚弄する発言として糾弾して行く構えで、佐藤雄平知事も「住民の古里を思う気持ちを踏み躙る発言」と述べている。

 中間貯蔵施設の候補地となっている大熊町の渡辺利綱町長も「中間貯蔵施設は住民が先祖代々の土地やお墓を手放すことになるもので、お金だけで解決出来るものではない」と不快感を表明。

 双葉町の伊沢史郎町長も「補償や賠償などと金目当てとの誤解を招く」と批判し、関係者も怒りを露わにしている。

 だが、冷静に考えれば石原の発言は図星であり、中間貯蔵施設建設は交付金や地主への買収価格や地元住民への賠償といった金目でしか解決しない。

 安倍政権下、復旧・復興を急ぐ上で中間貯蔵施設建設は喫緊の最重要課題。先月末から今月15日まで県内外で16回、住民説明会を行っている。

 約2600人が参加し、参加した住民からは用地の補償や県外最終処分場の実現性、風評被害対策など多くの質問が出されたという。

 これだけ多くの住民が参加してるということはそれだけ中間貯蔵施設の重要性を認識しているということでもあり、その解決策はやはり損失補償や交付金が大きく係わって来るのは確かだろう。

「何の落ち度もないのに突然、古里を追われた住民に対する冒涜だ」と責め立てるが、「カネなど要らない。古里を返せ。元の暮らしを返せ」というキレイゴトが事をややこしくしてしまっていることにも気付くべきだろう。

 中間貯蔵施設は、原発事故に伴う除染で出た県内の汚染土壌や廃棄物を最長30年間保管する施設。国は、この施設を、双葉、大熊、楢葉の3町に建設する計画を提示したが、県は双葉と大熊2町への集約を要請している。

 県内の復旧はこの中間貯蔵施設が無い為に遅れているのは誰の目にも明らか。本来ならば国だけではなく、県や原発を設置した自治体が進んで建設に協力するべきなのだが、県や関係自治体は未だ被害者意識丸出し。

 原発事故は事故調査委員会で「人災」という結論が出されているが、最大の責任は当時の総理大臣だった菅直人に在る。

 震災当日に菅政権下で福島原発の「炉心溶融」を予測した。翌日には放射性ヨウ素や高レベルの放射線を検出、応急措置を執る方針が決まった。だが、翌日早朝、菅が現地視察を強行したことで応急措置に遅れが生じたのは確か。

 当時の政府関係者も、「現場で首相を被曝させられない」との判断が、ベントの遅れや現場作業に影響が出たとの事実を認めている。

 この初動ミスが事態を深刻化させたのは間違いなく、原発事故は正に菅による「人災」であり、外国人からの不法献金で四面楚歌だった菅のパフォーマンスが取り返しのつかない最悪の事態を招いてしまった。本来なら菅は「業務上過失致死傷容疑」で検挙され、実刑に処するべきだったのだ。

 1号機の炉心損壊、その後の炉心溶融阻止に向け、即座に取るべき応急措置を優先し「二の矢、三の矢」を視野に入れて事態収拾を図るべきだったのだが、右往左往するばかりの佐藤知事のリーダーシップの無さが更に追い打ちをかけ致命傷となった。

 福島県の復興が進まない要因のひとつには佐藤雄平知事の無能も在る。県民の不幸とも言えるこの知事は、相変わらず被害者意識丸出しで、原発事故の責任は全て東電だと責め、復興の遅れは国の責任だとするそのヒステリックさは実に情けない。

 原発事故の責任は、東電は勿論のこと国にも県にも、誘致を容認した自治体にも、そして東電におんぶにダッコで優遇されて来た地元住民にも在るし、便利というものばかり追求してきた我々国民にも責任が無い訳ではない。石原発言は政治家として軽々しいものだが、よくよく考えれば県や住民の本音でもあるのだ。

 佐藤知事も、口では「米軍基地反対」を叫びながらも本音では交付金の増額を勝ち取ることに長けてるあの沖縄県の手法に学ぶべきで、「全て福島県が受け容れるしかない」というホンネとタテマエを使い分け、そこから捻出した交付金によって新たな街創りを図るべきだと思うのだが、無能な知事にそうした芸当は出来そうにない。

 それにしても復興どころか復旧をも儘ならないのは除染の所為。やらなくてもいい場所で除染をし、それがゴミとなって町の至る所に大量に置かれ町の景観を損ない、それが結果的に福島県への風評被害の止まない要因ともなっている。

 こうした復旧の遅れを助長する除染作業という無駄をいつまで続けるつもりなのか。序に言わせて貰えれば、マグネチュード9という巨大地震で安全に停止した福島第二原発を再稼働させ、福島県の復旧・復興を加速すべし。

cordial8317 at 09:11|PermalinkComments(0)

2014年06月13日

集団的自衛権行使容認に傾いた公明党の危機意識(嗤)

 集団的自衛権行使に対する憲法解釈の変更に慎重な姿勢を貫いて来た公明党が一転して譲歩に傾いた。強硬に反対すれば連立から外されると思ったのか(笑)

 憲法解釈変更に並々ならぬ意気込みを示す安倍に押され、終に譲歩するカタチになってはいるが、こうした譲歩の陰には連立に固執する公明党の狡さも然ることながら、安倍内閣の飯島勲参与の発言が重要な役割を果したと言えなくもない。

 6月10日のワシントン講演会で飯島は、「もし内閣が法制局の答弁を一気に変えた場合、『政教一致』が出てきても可笑しくない」と述べたが、これは創価学会と癒着している公明党に対する恫喝であり、この発言によって譲歩したのもまた事実。

 違憲の存在の公明党が白々しくも憲法解釈云々の議論をしていることは厭きれるが、こうした売国政党と連立を組んでる自体が矛盾だらけなのだ。

 集団的自衛権の行使は憲法解釈の変更という姑息なものより、やはり憲法の見直しを図った上で実行すべきという意見も多いし、愚生もそういう意見を述べて来た。

 だが、我が国を取り巻く情勢や近隣アジア周辺の緊張は正に中国共産党による覇権主義によって脅かされており、これに対抗するには憲法改正という手順を踏んでいる余裕は無いと判断した安倍の認識は間違ってはいない。

 我が国の基本法である日本国憲法の矛盾は余程のバカではない限り理解しているだろう。だが、如何せん、政治家の無能と無作為によって憲法改正どころか憲法論議も儘ならず、党利党略が優先され国民不在の政争が繰り返されて来た。

 況してや大日本帝国の復元改正や自主憲法の制定など夢のまた夢。最早、なし崩し的なものでしか実質的改憲は出来なくなってしまっているのが現状。

 抑々、自衛隊という存在そのものも憲法解釈によって正当化され、自衛隊法などによって合法化されている存在でしかない。旧社会党が自衛隊を「違憲だが合法」と言ったが、自衛隊は現行憲法下では悲しいかな憲法違反の存在なのだ。

 9条第2項の「前項(第1項)の目的を達成する上で陸、海、空の戦力は保持しない」という条文を読めば小学生でも違憲の存在であることが分かるだろう。

 自衛隊が未だ「警察予備隊」のまま放置され続けているのは正に政治家の無能と怠慢の結果である。「集団的自衛権の憲法解釈」などという目先の誤魔化しで、またもあやふやな存在として放置し続けて好いとは思えない。

 見直すべきは集団的自衛権の行使云々ではなく自衛隊の存在である。自らの国家の防衛をも否定する矛盾だらけの現憲法を見直し、違憲状態の自衛隊を「国軍」とすることに何を、何に躊躇し、誰に憚るというのか。

 憲法の解釈という行為より、もっと踏み込んで現憲法と自衛隊の設立過程と存在というものについて真剣に議論し、今後の「国防」の在り方を考えて行かねばならないのではなかろうか。国防を重んじるなら憲法改正では間に合わない。

 三島由紀夫はその「檄」において、「最も名誉を重んずるべき軍が、最も悪質な欺瞞の中に放置され・・・国軍たりえず、建軍の本義を与えられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与えられず」と喝破したのは痛烈だった。

 公明党が「憲法解釈の変更をしなくても国民の生命と財産は守れる」などと宣っているのを見れば、自衛隊の存在というのは三島が憂いた「警察の物理的に巨大なものとしての地位」の立場の儘に放置され続けることとなる。

 安倍にしても「国民の生命と安全を守る」というのもこれと同じで、「生命と安全」を守るのは警察であり、国軍としての自衛隊が護るべきは国柄であり畢竟皇統である。自衛隊とはつまり、国軍であり皇軍で在らねばならないのだ。

 集団的自衛権の憲法解釈というが、今迄には憲法解釈どころか、「なし崩し的改憲」という代物でもなく、堂々と憲法蹂躙が実行されている。

 最早、国の最高法規である現憲法は実に矛盾だらけのクソ憲法であり、姑息な憲法解釈という方法ではなく、堂々と「無効宣言」した方が国民にも分かり易い。

 現憲法の矛盾の最たるものが「第9条」第9条第1項では、「日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と武力による威嚇または行使は国際紛争を解決する手段としては永久に放棄する」と在る。

 だが、第2項で「前項の目的を達成する上で陸、海、空の戦力は保持しない。国の交戦権これを認めない」と在り、自衛隊は明らかな憲法違反。歴代首相の靖國神社参拝も第20条違反なら「戦犯分祀論」も違反。公明党と創価学会の関係もダメ(笑)

 私学助成金制度は第89条違反だが、違反だからと私学助成金制度を廃止すれば私学は経営困難に落ちるどころか教育制度の崩壊にも繋がり兼ねない。

 田中角栄が日中国交条約を締結した際「日華国交条約」を破棄した。だが、第98条には「いかなる理由があろうとも、日本が締結した条約は破棄してならない」と明記されており、田中の道義国家としての破廉恥行為は国内でも明らかな憲法違反だ。

 憲法第96条には「国会議員の3分の2以上が発議し国民の過半数の同意」で憲法改正出来るとされているが、これに基づき発議すれば「天皇及び摂政、国務大臣、全ての公務員は憲法を遵守しなければならない」との第99条違反に問われる。

 第1条も然り。天皇は国民統合の象徴ではあるが、第1条には「それは国民の総意に基づくもの」と在り、反天皇制を標榜する共産党を始めとした左翼陣営が存在する限り「国民の総意」ではないのだ。現憲法下では天皇は意見の存在でもある。

 こうした矛盾を知りながら、また憲法蹂躙が行われていながら、改憲政党である自民党は沈黙し、憲法改正の議論すらやらなかったのが現実。憲法の矛盾には目を瞑りながら、国防に関することには殊更に煽り立てるのは如何にも日本的だ。

 なし崩し的憲法解釈で通用する時代ではない。集団自衛権行使に反対派からは「憲法改正=軍国主義」「若者を戦場に送るな」という戯言が聞こえて来るが。今どき、若者が赤紙一枚で召集されるとでも思っているのだろうか(嗤)

 時代の流れに応じて憲法を変えて行くものである。環境問題、情報公開、プライバシー保護、国家の安全等々憲法を施行した時代からは想像もしなかった程社会は変化している。憲法解釈の変更などということをいつまで続けるつもりなのか。

 憲法改正では間に合わない。一刻も早く現在の日本国憲法の無効を宣言し、日本国民の手による日本国民の為の憲法を創り上げなくてはならないが、我が国の正統な国法である大日本帝国憲法を復元改正こそが我が国を救う唯一の道である。

cordial8317 at 09:48|PermalinkComments(0)

2014年06月10日

桂宮宜仁親王殿下薨去報道に見る反天皇制廃止運動

 桂宮宜仁親王殿下薨去の報に接し謹んで衷心より哀悼の誠を捧げます。

 マスコミは陛下や皇室に対しては敬語を使わない。桂宮宜仁親王殿下の「薨去」を「桂宮さまご逝去」と態々「様」をもひらがなで統一し報道している。その理由は「親しみを込めて」報道することを優先しているかららしい。

「逝去」と報じる方が親しみがあるというが、これは付けたりに過ぎない屁理屈に過ぎず、皇室に対しては「親しみ」よりも「尊敬」であらねばならない。

 マスコミの「敬称・敬語不使用」や「開かれた皇室論」の姿勢は、今や国内に蔓延し、天皇陛下や皇室に対する敬愛の念を薄れさせている。「開かれた皇室論」は我が国の国柄の破壊を目指す共産主義者の策謀である。

 1932年、ソ連共産党から日本共産党へ、「コミュンテルンテーゼ(命令書)」という指令が出されたことは歴史的事実である。その中には「天皇制廃止運動」というのも記されている。

 昭和時代の「戦争責任・退位論」に始まり「開かれた皇室論」と「敬称・敬語不使用運動」。平成に入り「女性天皇論」や「女性宮家」の問題として、未だにその「天皇制廃止運動」はそうした自覚の無いままに継承され浸透してしまっている。尤も、天皇は天皇であって制度ではな、く「天皇制」というのは共産党の造語である。

 今回の「桂宮さまご逝去」の報道にしろ、日頃、報道されている「美智子さま」「皇太子さま」「雅子さま」「紀子さま」「悠仁さま」という呼称は共産党の命令書を忠実に遂行している様なものなのだ。

 本来の日本国民ならば、「桂宮宜仁親王殿下」と称するべきであり、「皇后陛下」「皇太子殿下」「皇太子妃殿下」「秋篠宮妃殿下」「悠仁親王殿下」と呼称さなければならないのだ。

 こうした「開かれた皇室論」から、国民が知らぬ間に日本の伝統文化や美徳が喪失して行くということを自覚すべきだろう。我が国は天皇陛下を族長と仰ぐ家族国家であり、この国體は万邦無比である。戦前の様に「畏れ多くも畏くも」とは言わないまでも、節度ある敬意を表するべきだろう。

 保守派を気取る連中の御真影の貼り付けも同じ様なもので、尊皇というより、それ以前の天皇の本質というものが誤られてしまっており、その元凶でもある「開かれた皇室論」という反天皇制運動を糺さねばならない。

 戦後、マスコミは、週刊誌などで陛下や皇族方を登場させ、不敬なスキャンダラスな記事で尊崇の念を薄れさせることに成功した。

 今回の桂宮殿下の「斂葬の儀」にしろ、「葬儀は三笠宮家の私的行事だが国費が充てられる」と報じ、喪主も三笠宮崇仁殿下ではなく、故三笠宮寬仁親王殿下の長女彬子女王が代行するのではということまでも報ずる。

 恰も「私的行事に税金が使われるのですよ」という様にも聞こえるし、彬子女王を前面に出す言い様は女性宮家ありきの報じ方だ。

 安倍政権下では集団的自衛権の憲法解釈を巡って各党の駆け引きが続いているが、喫緊に改正すべきは第9条ではなく、第1条と第2条なのだ。

 第2条には「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」と在る。この「世襲」とは何ぞや。このままでは愛子内親王こそが正統な継承者であるとされる可能性が大なのだ。

 欽定明治憲法第2条には、「皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ繼承ス」と在る様に、皇位は男系男子が継承されなければならない。

 天皇廃止を叫ぶ勢力は、現憲法第2条を楯に皇室典範の改悪を謀り、愛子内親王こそ世襲の筆頭であるとし、初代・神武天皇から125代の今上陛下の皇統が「男系」と連綿と続いていとるいう厳然たる事実を否定する。

 世界に類の見ない我が国固有の歴史と伝統を、平成の御世で高が「法律」ということを以て改革して良い筈がなかろう。 男系継承を維持する為の方法として、三笠宮寬仁親王殿下が生前、私的なものとして次の様な意見を呈している。

「臣下降下された皇籍離脱した旧皇族の皇籍復帰」「女性皇族(内親王)に旧皇族(男系)から養子やその方に皇位継承権を付与」 「廃絶になった宮家(秩父宮・高松宮)の祭祀を継承し宮家を再興」

 全く以て正論至極。これに倣い皇室典範改正を目指すべきである。皇室典範は政治家や宮内庁中心で議論するのではなく、陛下や皇太子、皇族の方々の御意見こそ尊重するべきなのだ。

 陛下や皇室の問題を軽々しく語るものではないが、自民党にしろ民主党にしろ、祭儀や国事行為などでの陛下の御苦労を理解していない連中が多過ぎる。

 尊皇精神皆無で机上で議論をしていること自体、実に痴がましい。先ずは我々国民が、天皇が日本の歴史の中で果たして来られた役割や在り方を学ぶべきであろう。

 そういうことがなければいつの日か「天皇」は「開かれた皇室」どころか「要らない」という議論にまで発展して行くだろう。

 天皇陛下の現憲法上に於ける御地位、或いは権限というのは、悲しいかな「国民統合の象徴」という実にあやふやな表現に留まったままだ。

 天皇は現憲法上の制約から、国事行為として、「国会の開会式」、首相や最高裁長官の「親任式」、「大臣の認証式」など年間約60回、国賓・公賓への接遇や会見や会食などの御公務を約170回お努めになられる。 

 また天皇の「祭事」は、元旦未明から斎行なされる「四方拝」から始まり、「歳旦祭」、「元始祭」や毎月の「旬祭」など、実に年に約50回程に上るが、こうしたものは「公的行為」ではなく、「私的行為」とされてしまっている。

 天皇にとって最も大事なものは「祭事」である。本来は「国事行為」よりも優先されるべきものなのだが、「祭事」は現憲法によって「天皇家の私事」とされたまま放置され続けている。

 現憲法は、歴史的な国家としての継続された「祭祀」に関する天皇の役割を否定しており、これ即ち、未だ米国による占領政策である「神道指令」の呪縛から解放されずにいるということの証左でもあるのだ。

 これを政治の怠慢、不作為と言わずして何と言おう。安倍政権が真に「戦後レジームからの脱却」を図るのなら、国體や国柄を護る上でも、天皇の「祭事」を憲法上最優先で認められる様にしなくてはならない。

cordial8317 at 10:45|PermalinkComments(0)

2014年06月06日

退職金7726万円の返納を拒否する佐藤栄佐久元知事が国の原子力政策を批判!

3f6a0149
 今や全国的にも「反原発」のカリスマとして講演会などに引っぱりだこ。原発政策の安全性への指摘や、プルサーマルに対する疑問など、然も現役時代から「反原発」に取り組んで来たかの様に語ってるが、嗤わせてくれる。

 昨日も衆院原子力問題調査特別委員会で参考人として出席し、「(福島第一原発、1、2号機は)40年以上運転すべきではないと思ったが、経済産業省が運転継続を認めた後に事故が起きた」と、然も責任は経産省に在るかの様な口ぶり。

 だが、1号機、2号機のスイッチを入れたのは栄佐久自身であり、「40年以上は運転させてはならないと思っていたのなら断固として経産省の要求は拒否すべきではなかったのか。全てを他人の所為にする栄佐久らしい言い分だ。

 栄佐久は県からの3期目と4期目の退職金併せて7726万円の返納命令を拒否し続けている。拒否する理由というのが実にふざけた理由で、県発注工事を巡る汚職事件は無罪であり、冤罪であるから返還命令は違法だというのだ。

「事件の裁判は異常である」として、「我々(佐藤兄弟)は一貫して無罪を主張したにも係わらず最高裁は真実に到達出来なかった」と詭弁を弄す。

 だが、こうした屁理屈が通用するなら裁判なんぞ必要はなく、最高裁で出される判決全てが意味のないものになってしまうだろう。少なくても参議院議員を経験し、県のトップに君臨した者の言い分ではない。

 最高裁判所は司法権を担当する司法に於ける最高機関であるが、最高裁で出される判決が全てが「正義」とは限らない。国民の多くが勘違いしてるだけ。

 全ての裁判所(下級裁判所)は最高裁判所の下に置かれ、唯一の終審裁判所として、上告及び特別抗告について裁判権を持つ。だが、最高裁判所で判断するのは、その上告や特別抗告が現憲法に合致しているか否かだけだ。

 あの福島県汚職事件や佐藤栄佐久の関係者らが起こした破廉恥行為の何処に憲法との違法性があるというのか。上告が却下され有罪判決を受けるのは当然であり、その判決を諒として受け容れ猛省することが人としての道だ。

 福島県知事汚職事件では、実弟の会社「郡山三東スーツ」の土地を巡り、水谷建設に相場よりも高い金額で引き取らせたことが「収賄」と見做され、兄弟揃って有罪判決。最高裁に上告するも却下され有罪が確定した。

 水谷は前知事が当選以来、福島県内で多くの公共工事を受注してきた建設業者で、中でも、東電からの130億円という多額の寄付で建設した「Jビレッジ」や福島空港建設工事は、水谷建設が一手に引き受けたものだった。

 この高額な工事代金から実弟や知事の盟友・辻政雄に数十億円が流れ、また広域暴力団にも5億円もの血税が流れたのは誰もが知るところ。

 前知事もこうした事実を知りながら、今更ながら東電や国の原発行政を批判したところで、汚名が返上されることはない。

 それでも己の正当性と正義を訴えるのであれば再出馬し、県民にその是非を仰ぐべきだと思うのだが、栄佐久さん、御決断を。県内に巣食う中核派を始めとした「反原発派」から結構な票を取れると思いますよ(笑)
e891249b3d272f5a04574ea1243469af
 福島原発が造られた40年前、日本は正に高度成長期。自民党一党独裁とも言うべき時代、総理となった田中角栄は「日本列島改造論」を掲げ、国民はその夢の様な話に舞い上がった。新時代のエネルギーとして原発設置を国策とした。

 原発は低コスト故に資源の乏しい日本にとって画期的なものだったに違いない。だが、如何せん、米国製の原発は御粗末で時代と共に朽ち果てて行った。

 こうした状況を傍観し、原発は安全だと国民を騙し、その基本的安全対策も講じず手を拱いていたのは確かなことだ。これは何も東電だけの責任ではない。国も県も誘致に同意し恩恵を享けていた自治体や住民にも責任は在るだろう。

 民主党の目玉政策の「仕分け」で「1000年に一度来るか来ないか分からない物に予算を付ける必要はない」と宣ったのは蓮舫。その1000年に一度という最悪の大災害が、最悪の政権下で起きてしまったのは皮肉としか言い様がない。

 イタリアではチェルノブイリの原発事故を受け、国民投票で原発を止めた。それ故、慢性的な電力不足で経済や日常生活に支障を来たしているのが現状なのだが、イタリア国民は実に明るいものだという。

 我が国が若しイタリアと同じ様に原発を止めたら、果たして便利で快適な生活から質素な暮らしぶりが出来るか疑問だし、恐らくは耐え切れないだろう。

 正に、まやかしの平和を貪っていたツケが大きく跳ね返って来たと言っても過言ではなく、そういう意味では、東日本大震災は戦後の日本人の在り様を問われていることでもある。「福島県の復興なくして日本の復興はない!」という。

 言葉は立派だが、その復興も所詮は除染のタレ流し。既に4兆円もの除染費用が費やされながら放射線への間違った認識も改められず、復興したという実感も、莫大な除染費用が功を奏し景気が良くなったという実感もない。

 復興の目玉はやはり新しい都市創り以外にはない。それにはやはり公共投資なのだ。公共投資が税収を生むのだが、それを知らないから「赤字国債の発行はダメ」だとか「土建業者ばかりに何故」という様な妄言が罷り通る。

 除染は公共工事ではない為に無駄なカネがゼネコンを始め何処か県外に消えてってしまっているのが現状で、また如何せん、そうした公共工事にタカる不良業者も多く、税収アップに繋がっていないのも確か。

 公共投資の必要性も然ることながら、血税にタカる不良業者の一掃もまた行政側の課題でもある。民主党政権下で道路維持財源が一般財源化され、道路がボコボコになっているにも関わらず除染ばかりが優先され放置され続けている。

 復興は先ず県内道路網の整備と、災害の安全性の観点からも県内全ての電柱の地中化を推進し、新しい街創りの見本となるべきである。

 原発周辺の自称被災者優先の政治にはうんざり。福島の地に留まって必死で生き抜いている県民の為の政治をして頂きたいもので、それにはやはりインフラ、特に道路整備は最重要なものだ。

 今年11月に行われる知事選にはそうした活発且つ有意義な意見や政策が出され、県民を引っ張ってくれる強力なリーダーの出現を待望して止まないが、愚生的には荒井広幸を推す。何しろこういう乱世には育ちが悪いのがいい(笑)

cordial8317 at 08:28|PermalinkComments(0)