2014年05月

2014年05月27日

「海軍記念日」に大日本帝国海軍軍人だった亡き父を偲ぶ

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 今日5月27日は「海軍記念日」

 明治38年5月27日、「日本海海戦」が行われ、東郷元帥率いる連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を撃滅し、奇跡的大勝利を収めた日だ。

 日露戦争の勝利は欧米列強に日本の地位を認めさせることとなり、幕末以来からの懸案事項だった不平等条約、畢竟、明治維新の真の目的だった「治外法権」「関税自主権」という二つの不平等条約の克服を達成することになった。

 日清・日露戦争勝利により「治外法権」「関税自主権」の回復が成されたことで、明治維新の大業は成就し、真に独立を恢復することが出来たのだ。

 我が国の近代史にとって重要な歴史的記念日であり、そうした先人の苦労と努力の上に今の自分がいることを忘れてはならないと思う。 

 明治37年(1904)2月10日、我が国は当時世界最大の軍事大国だったロシアと民族の生死を賭けた戦いを開始した。

 1年半にも及ぶ強国との大戦に我が国は奇跡的とも言える勝利を収め、極東小国日本の存在を世界に知らしめることとなった。

 日露戦争の勝利は、ロシアから占領・弾圧されていたフンランド、トルコ、ポーランドといった国々や、有色人種と差別されていた民族に、国と民族の存在を決定的に変える影響を齎したのである。

 15世紀の大航海時代以来の白人による世界制覇の滔々たる流れが、日本の勝利によって大きく変化し、全世界の有色人種に与えた影響は強烈なものだった。

 印度のガンジー、ビルマのオマッタ、フィリピンのリカルテ、ベトナムのファン・ボイ・チャウ、エジプトのムスタファ・カミール、トルコのケマル・パシャなど世界の各地で日本の勝利に狂喜し、有色人種が白人に劣らないことに確信を持ち、各地で独立運動が湧き上がって往く。

 米国内でも、日露戦争後に、黒人に人種平等の自信を与え、黒人解放運動の支えとなったのは有名な話しだ。

 黒人誌「インディアナポリス・フリーマン」はこう社説で述べる。

「東洋のリングで黄色い男達のパンチが白人を打ちのめし続けている。事実ロシアは繰り返し何度も日本人にこっぴどくやられて、セコンドは今にもタオルを投げ入れ様としている。有色人種がこの試合をものにするには、もう時間の問題だ。長く続いた白人優位の神話が、遂に今突き崩され様としている」

 それから15年後、パリ講和会議に於いて日本は国際連盟規約に「人種平等の原則」を入れる提案を行った。

 日本の全権使節団が、パリに向かう途中、ニューヨークに立ち寄った折に、黒人指導者4人が「世界のあらゆる人種差別と偏見を無くすことに尽力して欲しい」という嘆願書を全権団に提出した。

 しかし乍ら、こうした黒人の願いも、米国大統領ウイルソンが議長を務めるパリ講和会議で拒絶されていまうのである。

 日露戦争が齎した歴史的課題は大東亜戦争を待たなければならなかった。その戦争で我が国は敗れはしたが、戦後、「人種平等の原則」という歴史的使命は果たされた事実を見れば我が国こそが真の勝利者だったと言えよう。

 5月27日は父の命日でもある。

 亡き父は昭和3年生まれ、成績優秀ながら家は赤貧で進学など出来るものではなく、尋常高等小学校を卒業すると15歳で海軍に入隊、横須賀海軍工廠で大日本帝国海軍軍人としての人生が始まった。

 その後、土浦の予科練を経て終戦。想い出の地「相模原」で土木作業員として従事し資金を貯め、郷土に帰還後は、「相模屋衣料店」を起業。

 着る服もろくに無い時代、東京・日本橋で大量に仕入れて来る衣服は人気を集め事業は大成功を収め、若くしてひと財産を築いた。

「満つれば虧く」とはよく言ったもので、栄華を極めれば衰えるのが世の常、その後、呉服屋も芳しくなく、自身の放蕩も重なり借金は膨らんでいった。

 だが父はそうした状況にもめげることなく、「これからはカ・ソ・ラ(カレー・そば・ラーメン)時代だよ」とラーメン屋を開業。当時珍しかったラーメンは人気を博し、背負った借金も返し、子供4人を育て上げた。

 因みに親父はラーメン屋の修業はしていない。二本松市内の製麺所にラーメンのレシピを教わり、一週間後にはオープンさせた(笑)

 ラーメン屋の傍ら町会議員も5期務め、地方自治にも貢献。

 今思えば破天荒な親父だった。

 親父のことは尊敬していたが面と向かうと逆らってばかりいた様な気がする。何故にもっと、親父の若い頃のことや軍隊時代の思い出を詳しく聞かなかったのだろう。それが返す返すも残念でならない。

 実家の屋号の「相模屋」という名前を見れば、海軍時代と戦後に生き抜いた横須賀や相模原への思い入れが深かったことが分かる。

 厳しかったその父が、62歳で脳梗塞に倒れ、13年もの闘病生活を経て平成14年5月27日に亡くなった。

 海軍軍人だった父が「海軍記念日」に逝くとは不思議な縁を感じ、この日を決して忘れることはない。合掌。

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2014年05月22日

大飯原発再稼働認めず!判決というより個人のイデオロギーの垂流し!

 
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 福井県大飯原発の再稼働差し止め訴訟は、地震対策に「構造的欠陥」があるとして3、4号機の再稼働は認めない判決を言い渡した。今後、再稼働への道は遠ざかり、益々国力が低下し続けるだろう。

 福井地裁の樋口英明裁判長は、その判決の理由として、関電側の耐震設計の基準地震動の目安となる1.8倍の1260ガルまでは過酷事故には至らないとする主張に対し、「それを超える地震が来ない根拠はない」と退けた。

 「それを超える地震が来ない根拠はない」とはどういうことか。恰も尤もらしい主張だが、これこそ実に根拠のない言いがかりに過ぎない。

 事故が起きた場合の炉心溶融(メルトダウン)までの時間の想定にしろ、冷却機能の確保にしろ、この言いがかりを基にした妄想の判決に過ぎず、反原発派に与する実に安っぽいセンチメンタリズムによる愚かな判決と断じざるを得ない。

 また「福島第一原発事故は、我が国最大の環境汚染」と断じ、二酸化炭素排出削減に原発が効果的であるとの主張も易々と退けた。

 漫画「美味しんぼ」で主張された、「除染をしても今の福島には住めない」との主張とその根っこは同じもので、この裁判官の売国性が窺える。

 最近は司法、特に裁判官の個人的な感傷に基く判決が目立つ。何故に斯くも幼稚になってしまったのか、司法の崩壊の序章と断じても過言ではなかろう。

 原発が再稼働しない為に、現在、原子炉を冷却する為だけに1日100億円以上の燃料費が費やされているのを知る国民は少ない。

 唯々、「原発は要らない」「原発は無駄」という理由から、原発停止が当り前であるかの様に主張するが、原発が稼働しないことで起こっている現実にもっと目を向けるべきではないだろうか。

 福島原発事故以来、冷却する為だけに5兆円以上の経費が掛かっている訳で、国民への損害は実に20兆円を超えると言われている。

 言い方を変えれば、原発事故以来、新エネルギーや再生エネルギー開発という陰で、その開発費どころかそれ以上の血税が無駄に費やされて来たのだ。

 今回の判決は、原子力規制委員会が行っている見直しにも大きく影響して来るだろう。それでなくても現在50基在る原発の審査を終えるのに10年はかかると言われていただけに、実質的には原発の再稼働は無理だということだろう。

 原子力規制委員会の田中委員長は再審査をする上で、「経済性には配慮しない」と公言していたが、経済を考えない政策など意味があるのか。

 政治と経済は一対の関係であり、喩え政治が優秀でも、経済的に疲弊すればその国の将来は危ぶまれるということ。

 毎日100億円近い燃料費が浪費され続け、こうしたことが続くことで日本経済が決定的なダメージになり、国力が低下するとは考えないのか。

 福井地裁の樋口英明裁判長は、「(巨大地震が)来ない根拠はない」と判決理由に述べているが、日本海側でそれほどまでの地震が起これば、我が国の原発よりも韓国や中共の安全基準を満たしていない原発が破壊されるだろう。

 そうなれば一体どうするのか。

 抑々、福島原発の事故は地震による「天災」ではない。

 大津波の想定をしていなかった為に発電所内の電源が全て失われ、原子炉冷却に関わるバルブが操作不能になったのが要因であり、更には菅直人が現場視察を強行した為にベントが遅れた「人災」だったではないか。

 「人災」でありながら誰一人として責任を負わず、またその罪を裁判によって罰せられた者はいない。これは正に司法の正義が崩壊した最たるものだ。

 にも拘らず、東電や関電側が恰も事故を誘発し、また「事故が起これば取り返しのつかないものとなるだろう」と、己の妄想を押し付けるのは如何なものか。

 原発を無くすことが解決策ではなく、「人災」を猛省し、原発を安全に停止させる技術を高め、冷却装置の機能を失わない対策こそ急ぐべきではないのか。

 マスコミは原発の不安を煽り続けているが、既に福島原発事故の教訓から全国の各原発では「防波堤の建設」「浸水防止ドアの設置」「高台への非常用電源の確保」などの対策が進められているが、大事なのはこういうことだ。

 マグネチュード9という巨大地震の震源地に最も近かった「女川原発」は地震直後、原子炉は安全に停止し、被災者の避難所になった。

 世界はこの「女川原発」に注目し、地震対策を講じている。福島第二原発も女川原発同様万全だった。

 「冷源」と「電源」が確り保たれてさえいれば「冷温停止」に持ち込むことが可能ということ。つまりはどんな地震であれ津波であれ原子炉を安全に停止させることは可能なのだ。

 日本の技術力をもっと信用しようじゃないか。

 「女川原発」の技術に注目すれば、さらに地震に強い原発を造ることは可能だろうに、何故、原発停止ありきなのか。抑々「便利」という価値観に溺れた日本人が原発無しで化石燃料や不安定な新エネルギーで満足するとは到底思えない。

 反原発派は原発の危険性と利権構造を批判するが、反原発派も所詮は「反原発利権漁り」であり、推進派と同じ穴の貉だ。

 集団的自衛権の憲法解釈にしても「戦争への道」などと国民を誑かしているが、反原発も同じで、人々の優しさや幼稚な正義感に漬け込んで、勢力拡大を目指しているに過ぎず、こうした連中のキレイゴトに騙されてはならない。

 愚生の様にテレビも殆ど見ず、早寝早起きを心掛ければ、原発なんぞ必要ないし、何よりテレビを見ることでの白痴化を防げるし、早寝に徹すれば少子化の問題もクリア出来るだろうよ。

 反原発派の皆さんも実践しては如何ですか。呵呵大笑。

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2014年05月21日

つれづれなるまゝに 「素直な心は母ごころ」

 
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 どうも未だ人間が出来ていないし、30年も右翼活動家としてそれなりに戦って来たからだろうか相手に対する物言いが刺々しくてダメだ。自分でも分かってはいるのだがどうも優しく諭す様には言えない(笑)

 「人に意見してその人の欠点を直す」ということは大切なことであり、それは慈悲の心とも言える行為であろう。

 ただ、意見の仕方には骨を折る必要があると「葉隠」では訓える。

 大方の人は、人に好まれない言い難い事を言ってやるのが親切の様に思い、それが受け入れられなければ、自分の力が足りなかったとしている様だ。

 だが、こうしたやり方は何ら役に立たない。ただ悪戯に人に恥をかかせ、悪口を言うだけの事と同じ結果になってしまう」

 「意見」というものは先ず、その相手がその意見を受け入れられるかどうかを見極め、先ずは相手と親しくなり、何時でも此方を信用する様な状態で仕向けるところから始めなければならない。

 言い方なども工夫し、時節を考え、自分の失敗談等を話しながら、余計なことを言わなくても思い当たる様に仕向けるのが最良。

 先ずは良い処を褒めて気分を引き立てる様に心を砕き、そうした上で欠点を直していくというのが本当の「意見」というものなのだ。

 その「意見」を受け容れる側にも器量が必要だ。

 歌舞伎の勘弥の芸談にこういう逸話がある。

 ある時、勘弥が「弥次喜多」の出番で、楽屋の揚幕の方へ行きかけたら、弟子の一人が「師匠、草鞋の紐が緩んでいます」と注意した。

 すると彼は、「ありがとう」と礼を言って、紐をしっかり結び直した。さて揚幕の前に来ると、また紐を解いて、緩く結び直したという。

 長旅の様子を出そうとする芸の細かいところだ。一流の役者というのは流石に違うと感心する。

 だがそれだけなら未だ普通だろう。

 こうした様子を見ていた人が、「どうしてあの楽屋を出た時に、貴方の弟子に『おまえらも未だ芝居を知らないな。これは長旅の様子を出す為にしているのだよ』と教えてやったらいいじゃありませんか」と言ったそうだ。

 そうしたら勧弥は、「人の親切は、素直に受けとくもんだ。もし、わしがあの時、若い者を叱ったらどうなる。あの時はそうであっても、そうでない時だってある。背中に綻びのある羽織を着て舞台に出ようとした時、(あ、これも師匠の演出かも知れない。余計なことを言ってまた叱られる)と黙っていれば、わしは綻びのまま舞台に出てしまうことになる。芸事を教えることは幾らでも機会がある。この場合は、人の親切は受け取ってあげることが大事だからね」と答えたという。

 いい話ではないか。

 この世の中がどんなに捻くれていようと、悪党が横行しようと、この素直な心は人間として生きる上での基本だろう。

 悲しい映画やドラマを見て泣き、涙を流す。寄席で落語を聞きながら笑う。こうしたことも一つの素直な心だろう。

 身構えて自分を曝け出さず、隠し通すことが当たり前の世の中だが、それは素直な心が失われている結果だとも言えなくはないだろう。

 自然をもっと大切にし、初心に帰って生きる。悲しい時には泣き、嬉しければ笑い、怒るべき時には怒る。但し、怒る時は深い慈愛を込めて。

 今どき、この怒るべき時に怒る大人が少なくなったのは子供や若者にとっては不幸とも言えるのだ。

 月曜日、オヤジの13回忌があった。

 中々いい法要だった。だが最後がダメだ。酔いに任せて「意見」という憤懣を実兄にぶつけてやった。まぁいつものことだが(笑)

 酔ってても言ったことに間違いはない。唯、実兄に対する敬というか長幼の序が乏しいだけ。

 まぁ母親が闘病中で同席してなかったのが幸いだろうか(笑)

 実兄の長男は大学を出て上場企業に就職したのだが、その甥が「整体師になる」と会社を辞めた。

 別に一身上の都合で辞めるのはいいが、整体師はブームなだけで、親なら「今の会社で働いて貯めたカネで夢を追え!」と苦言を呈すべきだし、社会人になってから親に無心したり、そうした軽挙を諌めることなく同意する親も親。

 福島県相馬市の大聖寺の住職、暁仙が昭和3年に書き残したとされる「親父の小言」の中に、「子のいうこと八九きくな」と在るではないか。

 そんな甥だが、整体師の世界で一流を目指すなら愚生の大学の後輩で有名トレーナーがいるので、そこで修業させてやろうかと思っていたのだが、そんな親切心は無駄だった。

 修業どころか学校を卒業したと思ったら自分の店を持った。

 マッサージ業界も流行り過ぎて乱立。その影響で熾烈なダンピングが行われていて生き残るには大変だろうと思う。

 「満つれば虧(か)く」というが、盛りに達すれば必ず衰え始めるのは常。物事には必ず盛衰があり、整体師の業界もこれからは大変だろうよ。

 世話になった人へ挨拶も何も無し。

 義理に欠けるのは男として決定的にダメだ。

 本当に大人としてやって行けるのか心配にもなるが、「意見」されるのが嫌なのだろう自分のとこには寄り付かない(笑)

 そういや「親父の小言」には、「大酒は呑むな」ってのがあったのをすっかり忘れてた。それってダメじゃん。呵呵大笑。

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2014年05月16日

集団的自衛権の行使容認に関する安倍の危機意識は至極真っ当なものではあるが

 
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 安倍総理は、有識者懇談会からの報告書の提出を受けて記者会見し、憲法解釈の変更によって限定的に集団的自衛権の行使を容認することを視野に、憲法解釈の変更の進め方の基本的方向性を明らかにした。

 この中で、安倍は「命と平和な暮らしを守る為に何をなすべきか」と、有識者懇談会が集団的自衛権を行使しなければならない事例として、「日本近隣の有事の際」「アメリカ艦船の防護」など具体例を示し理解を求めた。

 名指しこそ避けてはいるが、我が国を取り巻く情勢や近隣アジア周辺の緊張は正に中国共産党による覇権主義によって脅かされており、これに対抗するには憲法改正という手順を踏んでいる余裕は無いと判断したからであろう。

 多くの日本人は支那を「中国」と呼び、日中は「同文同種」とか「一衣帯水」という認識と「四書五経」のイメージで支那への憧れを膨らませてるいるが、現在の中共は共産主義を最高原理とした帝国主義国という現実を理解していない。

 第二次世界大戦以降、中共は膨大な軍事力を背景に周辺諸国を弾圧し、現在も東シナ海や南シナ海でフィリピンやベトナムとの間に問題を抱え、尖閣諸島でも領有を主張し、我が国の主権を侵害しているのは周知の通り。

 我が国は先の大戦では敗れたが、その敗れた責任を取れというなら、その最大の過ちは中国共産党の跳梁跋扈を許したことであり、最大の償いはその共産主義という「癌」を取除くこと以外にない。

 そういう意味でも、集団的自衛権の憲法解釈の変更によって自衛隊が活躍出来る場が増えることは結構なこと。憲法改正が未だ未だ困難な今、憲法解釈の変更は姑息ではあるが、国益と国體を護る意味でも認めざるを得ない。

 西沙諸島、南沙諸島、インドやカシミール地方で中共の無法、虐政に呻吟している国々にとって我が国は希望の灯りでなければならない。

 そういう意味でも、我が国が目指すべきは「積極的平和主義」というより、一旦緩急あれば絶対に負けてはならない国であらねばならないのだ。

 安倍の会見で気になったのは、頻りに「国民の生命と安全を守る」ことを強調してたこと。だが、集団的自衛権を行使する自衛隊という国軍が最優先に護るべきは「生命と安全」より、「国體」でなければならないのだ。

 「国防」とは三島由紀夫が訓えた様に、「それを亡くしてしまったら日本ではなくなってしまうものを守り抜くこと」である。

 護り抜かねばならぬもの、それは「民族」「宗教」「言語」「歴史」「価値観」「習慣」「制度」の世界の中で最も優れた精神文化であり、それらを継承して行く子供達であり、何より死守せねばならないものは「皇統」である。

 安倍が決定的に乏しいのはそうした国家観でもある。他の議員が酷いだけに安倍がまともに見えているに過ぎない。

 集団的自衛権の憲法解釈変更で中共も対日政策の見直しを図るだろうが、決して策謀に嵌ってはならないし、諂ってはならないし、与してもならない。

 そんな折、中共の走狗というべき自民党の加藤紘一が共産党機関紙「赤旗」のインタビューで、集団的自衛権の行使容認について「自衛隊を海外に出し、米軍と肩を並べて軍事行動させようということだ」と批判している。

 「徴兵制まで行き着きかねない。戦闘すると承知して自衛隊に入っている人ばかりでない」とトンチンカンな自説を垂れ流している。

 加藤は「二度と銃は持たないというのが守るべき日本の立場だ」と訴え、「(行使を)容認したいのなら(憲法の)解釈変更ではなく、改憲を国民に提起すればいい」とも語っているが、どうせその改憲にも反対の立場なのだ。

 そういや古賀誠も昨年、「赤旗」で安倍自民党が目指す改憲の動きを批判しているが、自民党の元幹事長だった者が共産党機関紙で自民党政権批判を繰り広げるとは厭きれるばかり。

 取り敢えず集団的自衛権の憲法解釈の変更は検討することとなったが、これを実行するとなるとかなりの抵抗が予想される。

 試されるのは安倍の決断力と覚悟。中でも公明党との協議は難航必至。であれば、政策的一致を見ない公明党の連立は解消するのは当然。

 国防や国體護持に於いて考えを一にする政党や議員との連帯を進め、政界再編成も視野に入れ、斯かる難局に立ち向かわねばならない。

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2014年05月13日

「今の福島に住んではいけない」という差別表記!

 
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 人気漫画「美味しんぼ」で、東京電力福島第一原発を訪問した主人公の山岡士郎が鼻血を出し、双葉町の井戸川克隆元町長らしき人物が登場し、「福島では同じ症状の人が大勢いる」と発言する描写に批判が相次いでいる。

 作者の雁屋哲も自身のブログで「ここまで騒ぎになるとは思わなかった」とその軽挙を認識している様だが、この男の売国性を見れば確信犯だったことが窺える。

 「福島にはもう除染しても人は住めない」「今の福島には住んではいけない」と言いたい放題。

 地元双葉町を始め県や環境省、瓦礫を受け容れている大阪府と大阪市など各地からの相次ぐ抗議に小学館も対応には苦慮している様だが、「議論をもう一度深める助長になることを願って作者が採用した」と堅白同異の弁を垂れ流している。

 小学館のホームページでは、「鼻血と放射線の因果関係を断定する意図はない」としているが、発刊前からこうした問題点は指摘されており、要はこうした世論の騒動を利用した営利至上主義であると断じざるを得ない。

 況してやこれは福島県民に対する差別ではないのか。差別に敏感なマスコミや出版社が差別を助長するとは何事か。

 我が国は在日への差別には敏感に反応するが、日本人自身への差別には寛容で、然もそれが日本を貶めることならば売国勢力は団結する実に不可思議な国だ。

 「差別表記」が容認され出したのは、沖縄集団自決の証拠として、大江健三郎が現地取材も無しに書き上げた「沖縄ノート」という出版物からだろう。

 この本には堂々と、「25年ぶりの屠殺者と生き残りの再会」という表現が綴られている。沖縄での「虐殺者」をナント「屠殺者」に準えているのだ。

 「差別」に敏感である筈のマスコミや部落解放同盟が、大江のこの差別表現だけは未だに指摘もせず黙殺しているのは不思議でならない。

 「屠殺」という差別表現にこれだけ拘るのなら、「沖縄ノート」こそ、差別表現の最たるものとして糾弾されるべきものではなかろうか。

 評論家の呉智英は、この「沖縄ノート」の差別表記に驚愕し、「これ(差別用語)、いつから解禁になったのか。虐殺を屠殺になぞらえようものなら許すべからざる差別表現として部落解放同盟と屠場労組の苛烈な糾弾が展開されたことは言論人なら誰知らぬものはいない」と語っているが蓋し正論であろう。

 更に呉は、例えて1982年の俳優座のブレヒト原作「屠殺場の聖ヨハンナ」について、「改題してもなお激しい糾弾に合い上演は困難を極めた」と指摘する。

 この際に部落解放同盟らが、「誰々の作品だから差別はない。神格化したものの考え方を一掃したい」と言明したことまでも振り返っている。

 また1987年には、「沖縄ノート」と同じ岩波書店で出版した「報道写真家」の中の、「戦場という異常な状況下では牛や豚などの家畜の虐殺と同じになる」という記述が問題にされて回収処分となっていることも紹介している。

 だが、何故か「沖縄ノート」は一度も糾弾も回収もされず、それどころかアホな裁判官がこの福ション本を証拠として採用し、摩訶不思議な判決を出した。

 大江健三郎のみ「神格化」される理由は何か。部落解放同盟が「神格化したものの考え方を一掃したい」とした声明は嘘なのか。

 要は「売国」「反日」では共闘するということ。

 所詮は「差別」なんぞより己らの利益が優先されるだけで、その他の理由なんぞ付けたりに過ぎない屁理屈だということだ。

 漫画に登場した元町長も「高が漫画で・・・」と気に留める様子はなく、己の発言が福島への風評を助長するということも自覚がないとは呆れ甚し。

 facebookでも井戸川元町長は、「美味しんぼの漫画に環境省が異常なほど反応していますがこれは彼らが福島で安心キャンペーンの嘘がバレるために躍起になって否定をしているからです、嘘をついていなければ漫画がどうしたと平静でいられるものです。如何に福島は危ないかを証明しているのは今の環境省です」とのトンチンカンな自説を垂れ流している。

 環境省の陰謀説とは恐れ入るが、今どきのどっかのインチキ宗教でももっとまともだ。こうした大馬鹿者が福島第一原発設置の首長だったというのだから地元住民にとっても県民にとっても不幸としか言い様がない。

 尤も、中間貯蔵施設設置に絡み怪しげな噂が飛び交い、結局は議会で不信任決議を受けて町長職を辞任した人物でもある。

 以前にも日本生態系協会会長の池谷奉文という人物が講演会で、「福島の人とは結婚し​ない方がいい」「今後、福島での発がん率が上がり、奇形児が発生する懸念がある」などとの発言したのは記憶に新しい。

 池谷は「福島の人を差別する様なことは思っていない」と反論​し、己の妄言を正当化するばかりか、発言が確信的だったことが窺えた。

 「結婚はするな」「子どもを産むな」とはどういうことか。

 今回の「美味しんぼ」も同じこと。

 今までも「反原発」の立場から殊更に放​射線の恐怖を煽る発言や表現はあったが、その発言に根拠はなく、単なる妄想に過ぎなかった。

 池谷はこうも語っていた。

 「福島ばかりじゃございま​せんで、栃木だとか、埼玉、東京、神奈川辺りの放射能雲の通った地域にいた方々は極力結婚しない方がいいだろう。結婚して子どもを産むと、奇形発生率がドーンと上がる」

 名指しされた東京、神奈川、栃木、埼玉​の地域だけではなく、日本人なら怒りの声を上げて当然だろうし、「反原発派」こそがこうした差別的愚論には苦言を呈すべきだと思うが、残念ながらそうした正義の声は聞こえて来ない。

 池谷や雁屋らのこうした日本人らしからぬ発言を鵜呑みにする人がいるとは思えないが、こうした妄言は更なる差別と風評被害を齎すばかりか、放射線への誤解は復旧作業や復興にも影響を与えかねない問題なのだ。

 実際にはあり得ないことだと分かっていても、それなりの立場に在る者から、実しやかに「奇形が生まれる​」とか「福島には住んではいけない」などと言われれば気持ちの良いものではないし、不安になるのは当然だ。

 原発事故にもめげずに復旧・復興に励んでいる福島県民にとって、人気漫画「美味しんぼ」の表記は残念至極という他はなく、小学館は事の重大性を認識すると共に差別表記の漫画を早々に回収し、事の収束に当るべきである。

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2014年05月10日

故事に倣えば、中共の真の狙いは尖閣ではなく南シナ海である

 
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 支那には古より「声東撃西(せいとうげきせい)」(兵法三十六計第六計)という戦略がある。「東に声して西を撃つ」の意味だ。

 東で声を発してそちらにいると見せかけ、実際は西を撃つ戦術。敵に対しては弱小のように見せかけて誘い出し、堅強な兵で迎え撃つ。西に領土を広げようとするなら、まず東に進むというのが支那戦史の鉄則。

 また、斉の威王が軍師・孫臏の献策により、魏が趙を攻撃している最中に魏の都を急襲して趙を救ったという故事、「囲魏救趙(いぎきゅうちょう)」(兵法三十六計第二計)という戦略もある。

 敵を集中させるよう仕向けるよりも、敵を分散させるよう仕向けるのがよいとされ、敵の正面に攻撃を加えるよりも、敵の隠している弱点を攻撃する策。敵を一箇所に集中させず、奔走させて疲れさせてから撃破する戦術だ。

 支那の戦史にはこうした戦略、謀略が実に多く、尖閣問題を始めとする東シナ海のトラブルは、見方によっては中共の真の狙いは尖閣ではなくて南シナ海、西沙諸島と見せかけて南沙諸島だと言えるのではなかろうか。

 そんなことを思わせる様な事案が南シナ海で起きている。

 南シナ海の西沙諸島(英語名パラセル)でベトナムの船と中共の艦船が衝突するという事件が頻発ている。映像を見る限り衝突というより中共艦船が一方的に体当たりを繰り返している様に見える。

 尖閣列島で起きた漁船衝突事故も、衝突というより漁船が海上保安庁の艦船に体当たりを繰り返していたがあれと一緒だ。

 中共は1974年以降、西沙諸島を実効支配し、フィリピンとの間でも南沙諸島でも領有権を巡り緊張が高まっているのは周知の通り。

 我が国では尖閣諸島の問題はそれ相応に報道し、国民の認識も広がってはいるが、南シナ海の紛争となるとマスコミは中共に気遣って作為的な記事を垂れ流し、国民もまた対岸の火事の如く思っている。

 「反原発」「脱原発」の流れで原発が停止し、化石燃料による電力に移行した場合、中東からの輸入経路であるシーレーンは南シナ海を通る。つまり、南シナ海の問題は我が国と切っても切り離すことの出来ない重要な問題なのだ。

 万が一シーレーンを封鎖された場合、日本の電力供給は数か月程度しか持たず、福島原発事故以上のパニックが起きるのは必至。それどころか無血開城じゃないが、中共に併呑されてしまう危機を孕んでいるのだ。

 こうした喫緊の課題に対して「反原発派」からは全くそんな声は聞かれない。センチメンタリズムにいつまでも浸っているつもりなのだろう。

 「反原発」なら未だしも、連中はシーレーン防衛に威力を発揮するオスプレイにも反対しているのだから、「反原発派」とは何を況やだろう。

 「脱原発」の理想は分からなくもないが、それよりも現存する原発の安全対策を施すことこそが喫緊の課題であり、原発を捨てて新エネルギーに移行して行けばいいという様な悠長な時間は今の日本には無いということだ。

 原発再稼働が無理な状況下、先ずやるべきは適切な海上権益を確保し、マラッカ海峡から日本までのシーレーンの安全確保を万全にしなければならず、南シナ海での出来事は決して対岸の火事、他人事ではないのだ。

 「アジアにおける最も古い海洋民主国家たる日本は、両地域の共通利益を維持する上でより大きな役割を果たすべきである」と提唱したのは安倍総理。所謂「セキュリティダイヤモンド構想」と言われるものだ。

 その中で安倍は、「南シナ海は北京の湖となって行くかの様に見える。アナリスト達が、オホーツク海がソ連の内海となったと同じく南シナ海も中国の内海となるだろうと言う様に」と南シナ海の現状を嘆いている。

 更に「南シナ海は、核弾頭搭載ミサイルを発射可能な中国海軍の原潜が基地とするに十分な深さがあり、隣国を恐れさせるに十分である」と危惧している。

 この認識こそが重要であり、東シナ海や南シナ海での中共の覇権主義に我が国が屈してはならない最大の理由がそこに在る。

 我が国が中共に屈することになれば、南シナ海は更に要塞化され、周辺諸国に脅威となるばかりか、我が国へ運ぶ石油ルートも中共の思いのまま、石油ルートの閉鎖は我が国の運命すら握っていると言っても過言ではない。

 安倍は、「東シナ海および南シナ海で継続中の紛争は、国家の戦略的地平を拡大することを以て日本外交の戦略的優先課題としなければならないことを意味する」と訴えた。

 ならば自公連立を優先し、集団的自衛権の憲法解釈を引き延ばすとは何事か。自ら提唱した「セキュリティダイヤモンド構想」とはそんな軽いものだったのか。

 今もこうしている間にも東シナ海や南シナ海の地下資源が中共によって盗掘されている。然も南シナ海の要塞基地は着々と整備されて行く。

 我々が直ぐに出来ることは原発の再稼働。化石燃料の依存度を軽減することは重要で、化石燃料に依存すればするほど中共の脅威がモロに覆い被さってくるということを自覚しなければならない。

 話しは逸れるが、世界最強と言われるのはイスラエル軍だが、イスラエルの様な最新鋭の武器は無いがベトナム人の国防意識は世界でも屈指。

 最近でも、南沙諸島で中共の軍艦がベトナム漁船に発砲し負傷者が​出ると、べトナムはトンキン湾に入り込んだ支那漁船団を襲撃し、​きっちりと仕返ししたが、今回も直ちに中共に抗議、干戈も辞さない構えだ。

 ベトナムと中共の関係も曰くがある。元々ベトナムは支那の属国。「清仏戦争」に負けた支那は賠償の一部として朝貢していたベトナムをフランス​に差し出し、ベトナムはフランス領となった。

 ベトナムの愛国者・ファン・ボウ・チャウは新しい宗主国を探しに日本を訪れる。当時​の日本は、フランスよりも強いロシアと戦争中。

 巨大ロシアに勝利したその衝撃をファンは、「この時に当って東風一陣、人をして爽快足らしめる事件が起きた。日露戦役は我々の頭脳に一新世界を開かしめた」と記している。

 犬養強に拝喝したファンは、「朝貢もするから、軍を出してフランス人ど​もを追い出して欲しい」と懇願するも、犬養は諭す。

 「自分の国は自分で守るものだ。日本はその為には協​力を惜しまないが、自分は何もしないで他人に血を流して貰おうと​いうのは料簡が違う」

 犬養の言葉にファンは恥入り、祖国から若者を呼んで日本で学ばせた。先ずは世界を知り​、そして戦い方を知る。ベトナムの悲運とも言える抵抗運動は当時の日本に学んだところが大きいのだ。

 ベトナムは先ずフランスと干戈を交え、そして勝利。更に米国と戦い、追い出し、序に背後から攻め入る中共の​傀儡政権ポルポト派を倒した。

 これに怒った中共は人民解放軍を送り込む。この「中越紛争」も​、ベトナムの圧倒的勝利に終わった。

 鄧小平はこの「中越紛争」での惨敗から人民解放軍の近代化を謀り、軍拡路線を定着させるに至ったのだが、近代化を図った中共がまたしてもベトナムとの紛争の機会を窺ってるのは皮肉な状況とも言える。

 ベトナムはフランス、米国、中共という強敵を全て破った唯一の国。最新鋭の武器が無くとも、国を想う心と国民の意気の高さが強さに繋がるという証明であり、日本も見倣うところが多い。

 実に立派に成長したベトナムだが、方やその恩師の日本はというと​、支那の漁船に衝突されても何も出来ず、尖閣列島や竹島、北方領土で主権を侵されながら拱手傍観し、未だ米国依存のまやかしの平和を貪ってい​るのは御粗末過ぎる。

 「自分の国は自分で守るものだ。自分は何もしないで他人に血を流して貰おうというのは料簡違いだ」との犬養の台詞が空しく響く。

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2014年05月09日

つれづれなるまゝに 「酒飲んで得し、酒飲んで損し、酒やめて徳し」

 
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 福島原発事故が収束するまで酒は自粛している。というのは嘘で、ここんとこは酒1合と芋焼酎のロックを2,3杯、休肝日の様な日が続いている(笑)

 最近は慢性的手元不如意だし酒の誘いはなるべく断わることにしている。

 「あんたが(カネを)持っていても、俺が持ってなければ、酒なんざ飲んでも旨くない。酒とはそういうもんぜよ」とは坂本龍馬。

 ホント、龍馬じゃないが他人のカネで飲んでも大して美味いとも思えないし、自宅で「大七」の純米酒をチビチビやってる方が気楽でいい。

 亡父にも、「ただ酒は飲むな。卑しくなる」と口煩く言われたことも影響しているのかも知れないが、何れにしても酒は身銭を切って飲むことに価値がある。

 酒というのは「百薬の長」とも言われるが、本来はバカになる為に飲むものだ。世の中バカほど愉しいものはないが、酒を飲むとそのバカになれるのだ(笑)

 正気ではとても出来ないことを、酒の力を借りれば「一時的バカ」になることが出来る。一時的でもバカの幸福に浸れるのだ。酒が別名「キチガイ水」といわれるのはこういうことからだ。

 バカと言っても酒乱は論外、酒に飲まれる様じゃ酒飲みの資格はない。落語のサゲじゃないが、チョッとマヌケで明るい飲みっぷりがいい(笑)

 右翼やヤクザとの酒席ぐらいつまらないものはない。どいつもこいつも、自分を大きく見せようと懸命で話も建前や美談ばかり。

 一応真面目に聞いたふりをしているが、相槌はいい加減で、愛想笑いで誤魔化し、冗談を発したかと思えばシャレにならないくらいつまらない(笑)

 酒も飲まず天下国家を論じてる自称・国士をたまに見かけるが、そんな先生をからかうと酒を飲んでないから、シャレで言ったことまでも真に受けて、後々までも根に持たれるから困ったものだ。

 体質的に酒を受け付けないなら未だしも、ああいう堅物は大きな人間には成れない。尤も、体質に合わないというのは訓練が足らないだけで、何より酒を飲まない男というのは人間が小さく見える(笑)

 正気というのは、世間体を気にしているということで、周りを気にするということは、それだけ神経を使ってるということ。毎日これじゃストレスが溜まるし、ストレスが溜まれば何より身体に悪い。

 上に立つ者は人一倍神経を使うもので、逆を言えば人一倍神経を使えない人間は上には立つ資格は無いということだ。

 下の者からすれば上の者は気楽に見えるかも知れないが、上は上なりに頭の中ではあれやこれやと神経を使い考えを廻らせているものなのだ。

 そんな時に頭をからっぽにするのに手っ取り早いのが酒。気の利いた店、贔屓ので陽気に騒ぐ。酒は愉快に飲むのが一番。暗い酒は身体を壊すが、適度に、愉快に飲む酒は正に「百薬の長」なのである。

 「酒は陽気に身銭を切って飲むべし」。酒飲みというのはこれに尽きるが、中には人に奢って貰って喜んでいるのがいる。

 タダ酒を覚えたヤツというのどうもクセになるらしく、店からも仲間からも嫌われているのだが、当の本人は自覚していないのが多い。

 「タダほど高いものはない」という言葉があるが、タダで飲めたと喜んでばかりいると後でとんだしっぺ返しが来る。

 借りを作るのが嫌いな性格だからかもしれないが、何より借りたものは返すというのが大人のルールだと思っているし、「武士は相身互い」と言うではないか。

 酒でも女でも同じこと。女と遊ぶのも、若い頃ならいいが、いい年をしてカネも使わずに遊ぶなんてのは愚の骨頂。いい年になればそれ相応の遊び方もあるし、それなりにカネを使うことを知らなきゃダメだ。

 地元郡山市の名士には素人女を騙して安い小遣いで愛人にしたり、子供を孕ましたりしている輩もいるが、こういう遊び方を見聞きすると、経済人としても、遊び方も、小者だなと呆れるばかり。

 最近はというか、若い頃からだが、気の利いた店で飲んでも「心づけ」ひとつも渡せない大人が多過ぎる。酒道というのがなっておらん。

 世話になったテイケイの会長ほどに過分なポチ袋を渡せないまでも、ホンの気持ち程度のカネを渡す気遣いは欲しいものだ。

 愚生も慢性的不如意ではあるが、財布には新券を入れたポチ袋を3~5個は持ち歩いている。高が「心づけ」だが意外に渡すのは難しいもので、これを何気に渡すことが出来ればもう男としても大人としても一丁前だ。

 「お釣りは要らないよ!」とか、此れ見よがしにチップを渡している人がいるが、あれは野暮だ。釣り銭は貰い、別に準備したポチ袋を渡す。これがいい。

 喩え千円、二千円の僅かな心づけは有難いもの。心づけは相手に対しての気遣いでもあるが、後々自分に戻ってくるものなのだ。

 一見で行った店でも、裏を返した時には覚えていてくれるし、つまみの一品二品、気を遣ってくれたりもする。

 「情けは人の為ならず」ではないが、その心づけという気遣い、気配りが大事だと思っている。唯、心づけをしても何も感じ入ることのない店も在るのも確か。そんな店は遅かれ早かれ客が遠退いてしまうのは言わずもがな。

 酒癖は悪い、カネも払わず、大威張りした揚句にスケベってのは嫌われますよ。まぁそんなとこで、今日もつれづれなるまゝに綴ってみました。呵呵。

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2014年05月08日

つれづれなるまゝに日暮らし 硯(パソコン)に向ひて心に移り行くよしなしごとをそこはかとなく書きつくれば

 
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 小学校時代、死んだ親父から「この本は読んどけ」といわれた本が3冊ある。田中角栄の「わたしの少年時代」と尾関宗園の「いま頑張らずにいつ頑張る」そして福島が生んだ大物財界人で梟雄の織田大蔵語録(今泉正顕著)「大物になる本」

 中でも「大物になる本」は子供ながらにワクワクして読んだっけ(笑)

 座右の書を挙げろと言われれば「徒然草」だろうか。他にはマンガの「嗚呼、花の応援団」と「大物になる本」くらいなものか(笑)

 自称愛国者や右翼人らに聞くと林房雄や福田恆存、或いは北一輝や大川周明などの難しい本を挙げる人が多いが、本当に理解しているとは思えない(笑)

 まぁ本は読まないよりは読んだ方がいいが、読むだけではダメ。読んで感じたところを書き留め、それを実践してみることが肝心。

 国士舘の教育指針には「読書」「体験」「反省」「思索」というものがあるが、「読書」して感じ入ったものに近付こうと「体験」してみることが大事であり、体験や実践すれば失敗もするし、そこで「反省」し、何故そうなったのかを「思索」してみることこそが学ぶ上で大切だと教える。

 「徒然草」も実践しているといえば聞こえはいいが難しい。人の世は常に欲望の社会だが、吉田兼好はこう曰はす。

 「名利に使われて、閑かなる暇もなく、一生を苦しむこそ、愚かなれ。財多ければ、身を守るにまどし。害を買い、累を招く媒なり。身の後には、金をして北斗をささふとも、人のためにぞわづらはさるべき。愚かなる人の目をよろこばしむる楽しみ、またあぢきなし。利に惑ふは、すぐれて愚かなる人なり」(三十八段)

 世俗的な名声とか地位とか財産とかに身も心も使われて、心静かにゆったりと生活を楽しむ余裕もなく、一生あくせくと暮らすなど実に愚かなことだ。

 財産が多いとそれだけ身を守らねばならず、面倒な煩いを招くもととなる。例え死んだ後でも残された遺族たちは財産分与で揉めるだけだ。

 そんな愚かな人々の為に自慢したところで、それもまたつまらないことだ。利欲に惑うことは最も愚かな人である。

 兼好の様に、職を辞し精神の自由を求めれば生活は困窮する。暮らしを楽にしようとすれば心が拘束される。

 愚生もせめて精神だけは兼好の様に自由でありたいと思い、徒然草の生き様を実践しようと思うが生活は困窮するばかり。

 右翼浪人として「清貧に甘んじる」とカッコ付けてはいるが、織田大蔵に言わせれば「弱者の戯言」に過ぎないと断じる(笑)

 右翼は「反共」であると共に「反資本主義」であらねばならないが、それに拘泥すれば今の世の中何も出来ないのも確か。

 生業として何かをしなければならないとは思うが商売向きでもない。

 「門前の小僧習わぬ経を読む」ではないが、ラーメン屋の倅として食堂でもやればやれない訳ではないが厭きっぽい性格だから無理そうだ(笑)

 「商人」とは、自分の商売を厭きずにコツコツやる「厭きない人」という意味から「あきんど」と言われる訳で、一攫千金、果報は寝て待てが信条の愚生に「あきんど」は到底出来そうもない(笑)

 世界は資本主義か社会主義、或いは共産主義の体制に分かれてはいるが、どれが国民にとって生活が豊かなのかといえば資本主義国だろう。

 「資本」とは「カネ」。ただのカネではない、カネを動かすことによって、利益としてそれ以上のカネが増え、その儲かるカネを「資本」という。

 資本主義とは「カネ主義」という単純なこと。国民が業突く張りになったのも全てがこの資本(カネ)主義による弊害なのだ。

 だが、資本の単純な意味も分からず、資本を投入することでそれ以上の収入(税収)を生むことを知らないから、「公共投資はダメ」だとか「赤字国債の発行はケシカラン」と言った妄言が罷り通る。

 資本主義国に甘んじながらそれすらも理解していない国民は実に多い。

 資本を、人間の欲と努力で段々と大きな資本として発展させるところに、事業としても、国家としても繁栄に繋がると信じているのが資本主義なのだ。

 我が国は戦後、米国型資本主義社会を選択した訳だが、その限りない資本主義という欲望は止まるところを知らない。

 だが、一方では「社会保障」の充実を謳い国民を誑かす。

 我が国は資本主義というカタチを採ってはいるが完全な米国附庸型日本的社会主義国であり、果してこうした体制がいつまで続くのやら。

 心ある国民ならそろそろ資本主義の矛盾に気付いているし、資本主義の限界を感じている。本来、我が国が目指すべきは資本主義に非ず、天皇中心の国家社会主義で在らねばならないのだ。

 経済界を見渡せば営利至上主義の小者ばかり。その小者に平身低頭し、小者の言い分を実行しているのが今の政治家であり、政治家は更に小者になった。

 また、今の時代、「成りあがり」や「成り金」なんていうと軽蔑されるが、資本主義社会では本来は一目置かれる存在であらねばならないのだが、そういう昔の財界の大物と呼ばれた「成りあがり者」の経済人もいない。

 若い時分に矢沢永吉の「成りあがり」を読んで、自分をああいうサクセスストーリーを歩むんだと夢をダブらせた人も少なくないだろう。

 だが、いつの間にかそうした感動も忘れ、成功者を「成りあがり者」だとか「成り金趣味」だとか軽蔑する側に立ってはいないだろうか。

 抑々、この世の中で成功を欲していない人はいないだろう。誰しも成功したいし、金持ちにもなりたいと思っているが、実際に成功する人というのは才能ではなく、努力と運に優るホンの一握りの人でしかない。

 人というのは悲しいもので、なろうとして自分がなれないと、なった人を羨むばかりか、ついには軽蔑や中傷にまで発展する。

 まぁある意味、中傷や悪口というのは羨む気持ちから出ているものが多く、見方を変えればその実力を認めているということでもある。

 つまり「成り金」とは将棋の成り金と同じく、立派な「おくり名」でもあり、実際に成り金になった者にとって痛くも痒くもない嫉妬の言葉に過ぎない。

 三菱の岩崎弥太郎を始め、松下幸之助やホンダ、ブリジストン、ソニーにしろ創業者と言われる人物は「成り金」だったではないか。

 商売人を目指すなら成り金を目指すべし(笑)

 まぁ右翼浪人に商売のイロハを聞いてる様じゃ高が知れてるが、小者は大人物の大きな志など分からないが、大人物にならんと欲する者は、小者の気持ちを知らねばならず、先ずどんなことでも経験することが後々の財産になる。

 貧乏人の苦労が分からない金持ちなんぞ百害あって一利なし。現在の経済停滞の一因には経験不足上に立ってはならない経営者が多いことに尽きる。

 事業家に必要なことは柔軟性。いつでも変化に即応する柔軟性とはやはり「経験」であり「反省」。そしてそこから生まれたものが「思索」となり活かされるのだが、今の二代目、三代目の経営者にはそれらが決定的に乏しい。

 「燕雀(えんじゃく)安(いず)くんぞ鴻鵠(こうこく)の志を知らんや」というが、扨て、今、右翼人で大人物といわれるのは一体誰なんだろう???

 まぁそんなとこで、つれづれなるまゝにパソコンに向かってみました。呵呵。

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cordial8317 at 09:39|PermalinkComments(0)

2014年05月03日

本日は日本国憲法の施行を記念し国の成長を期する日だというが・・・

 
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 本日は「日本国憲法の施行を記念し、国の成長を期する」所謂「憲法記念日」だが、国の成長を期する上でこの憲法が障害となっているのは言わずもがな。そういう意味合いから今日を「ゴミの日」と揶揄されるのも理解出来る。

 現憲法を否定する最大の理由を聞けば、「米国から押し付けられた憲法だから」というのが多い。だが、米国から押し付けられたものは憲法だけではあるまい。

 戦後民主主義にしろ、営利至上主義の経済理論にしろ、戦後の平和や繁栄、或いはファッションや食べ物に至るまで米国製ではないのか。

 「押しつけ憲法」がダメなら、米国から押し付けられている全てのもの、我が国に蔓延る米国製の価値観も否定すべきであり、隘路を切り開くにはやはり米国製の憲法を見直す以外には手は無い。

 現憲法が問題なのは「押し付け」られた経緯。

 終戦直後に米国のジャーナリストのマーク・ゲインが著した「ニッポン日記」という本がある。日記ではあるが、ゲインが連合軍司令部や日本の政府や政党、財界など各方面を訪問し、それらを綴ったものだ。

 「ニッポン日記」は、ゲインの見聞だけではなく、取り扱っている話題の意味、即ち「日本をどの様に変えようとしたか」という主題を深く彫りこんでいる。当時の歴史を知る上でも貴重な著書でもある。

 日記の日付は、コーン・パイプを咥えたマッカーサーが厚木の飛行場に降り立った1945年の12月5日から始まり、最後の日付は1948年5月3日。この間に日本は徹底的に「民主化」されたのは言うまでもない。

 その取材範囲は広範囲に及ぶが、この中に、日本国憲法制定の秘話、即ち真相が記されてある。摘記すれば。

 「・・・ある晩、マッカーサー司令部の民政局の首脳将校達は、厳秘のうちに日本の新しい憲法を起草する様に命ぜられた。第一ホテルの一室で開かれた非公式な会議で新憲法の総括的な輪郭が描き出された。その翌日、ホイットニー代将は部下全部を会議室に召集した。彼はいと厳かに言った・・・」

 「紳士並びに淑女諸君、これは正に歴史的な機会である。私は今、諸君に憲法制定会議の開会を宣言する」

 「マニラの弁護士出身のホイットニーは、多分に役者である」

 「・・・ここでホイットニーはマッカーサー元帥が、新憲法中に期待する三原則を読み上げた。即ち、①日本は戦争を永久に放棄し、軍備を廃し、再軍備しないことを誓うこと。②主権は国民に帰属せしめられ、天皇は国家の象徴と叙述せられること。③貴族制度は廃止され、皇室財産は国家に帰属せしめられること・・・」

 「ニッポン日記」の他にも憲法制定での逸話が記されたものは多くある。

 文芸春秋発行、「天皇白書」での細川隆元の「天皇の代償」もそうだ。

 「マッカーサーは、21年2月3日、民生局長のホイットニーに司令部案の起草を命じている」。司令部案といのは憲法草案である。

 「・・・この司令部起草案は10日間で仕上げられ、2月12日にタイプで打たれ、翌13日突如して日本側に突き付けられたが、この時の条文には、天皇は象徴と文字は生まれ変わっていたが、天皇制そのものは認められていた」

 「司令部が憲法草案を日本側に突き付けた時、ホイットニーは日本側の吉田外相、松本国務相に次の様に言い渡した」

 「マッカーサー元帥は、予てから天皇保持について深甚な考慮を廻らしつつあったのであるが、若し日本政府が今自分の方から出した案を呑まないなら此方としては、天皇の身分保障は引受けられぬ・・・」

 これでは全くの脅しではないか。

 我が国家、我が民族の命である天皇陛下の身分が保障されないとあれば、彼是と注文を付ける訳にはいかないのは当然。

 何故なら我が国は連合国の占領下に在り、当時の政府にしてみれば不本意ではあるが、こうした米国の条件を呑まざるを得なかったということだ。

 こうして屈辱的経緯の下に米国製の憲法が押し付けられたのだ。

 だが刮目すべきは、事実は新憲法の強制なのだが、米国の意図は表面上は新憲法(日本国憲法)の制定ではなく、建前上は大日本帝国憲法(明治欽定憲法)の改正ということになっているのだ。

 この論理で行けば憲法改正より現憲法の無効こそ容易だということだ。

 現憲法制定のこうした経緯を明らかにすれば、憲法改正は容易であり、議論されてる集団的自衛権の憲法解釈や靖國問題など、現憲法との整合性を疑われる諸問題も容易に解決を図れるだろう。

 現憲法で得たものは、成否は別として「自由主義」「民主主義」「人権尊重」「平和主義」であり、今日の基を築いたと言ってもいいだろう。

 朝鮮戦争が勃発し、マッカサーからの派兵要請を拒否出来たのも、ある意味この日本国憲法のお蔭だろうが、逆に失ったものの方が断然多い。

 「礼節」「長幼の序」「忍耐」「我慢」「滅私奉公」「信義」「忠義」「孝行」「足るを知る」「恥を知る」など数え挙げたら限がない。

 日本人はいつの間にか利己的な人間ばかりが殖え、自己犠牲の精神など皆無に等しが、これらは全て現憲法に起因すると言っても過言ではないだろう。 

 自分を犠牲にして他人に尽くすことこそ日本人たる所以であり、美徳美風なのだが、今や心の中の高貴さを失い、高邁な知性の磨きを様を忘れてしまった。

 想えば、戦前と戦後では我が国は全く別な国になってしまった。

 無条件降伏した日本は米国の51番目の州になっても不思議ではなかったが、帝国主義の崩壊で免れただけだ。

 その代り米国は徹底した教育改革を行った。

 その徹底した「戦後民主主義教育」は米国が意図した以上の効果を上げ、現在もあらゆる処に影響を及ぼし続けている。

 その米国の落し子こそが戦後民主主義者であり、左翼である。

 「戦後民主主義」とは、自国を汚辱に塗れた過去と捉える自虐史観である。

 その教育で育った者は国家から恩恵を受けながら、個人と国家を常に対立させ、恰も国家は「人間を抑圧する組織」と見做し、反国家反体制的なポーズをとることが「進歩的」で「文化的」だと錯覚している。

 占領下、米国は徹底したのが言論統制を行い、中でも情報発信の中枢、NHK、朝日新聞、岩波書店が監視下に置かれ洗脳された。

 未だに所謂戦後民主主義者は勿論、幼稚な正義感や安易な平和主義を振り翳す「無自覚左翼」が氾濫しているが、悲しいかなこうした連中は米国の洗脳状態から脱却出来ずにいることに気付いていない。

 米国から洗脳された連中が「反米」を気取りながら現憲法を「平和憲法」だと信じ込み、祖国日本を貶めているのは最早コメディと言う他ない。

 現憲法は平和憲法に非ず、大日本帝国憲法が改悪されたものである。

 ならば今こそ日本衰退の元凶である日本国憲法の「平和主義」という偽善を取り払い、欽定憲法の下で国の成長を期そうではないか。

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