2013年12月

2013年12月31日

今年も拙ブログに御付き合い頂き感謝申し上げます


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 我が国の政治の混迷の一端は、戦後政治の総括を怠り、自己保身と偽善のみに狂奔して来た政治の陋習と、国家観なき政治家の怠慢に在ると言っても過言ではないだろう。

 今日の祖国日本の重苦しい閉塞感と、惨憺たる現況を救う為に要用なものは、「我らは日本人である!」という自覚と誇りと矜持を取戻すこと以外に無いと確信している。

 今、我が国が直面している全ての問題は先人の努力を無視し、日本人が「日本人であることを見失った」ことに起因していると言ってもいいだろう。

 つまり、何処で生き、何の為に働き、何を尊び、何を信じるのか、子供達に何を語り、友人や朋輩と何を分かつのか、そうした生き方を見失ってしまったことから、現在の混乱と精神的貧困は起きているのだ。

 今一度我々は、「日本とは何か」「日本人であるとはどういうことなのか」を考えながら、世界と、そして近隣諸国と向い合うべき時代ではないだろうか。

 欧米主導の西欧時代の終焉が叫ばれている今、我々は「日本」について考え、「日本人である」という証を示さなければならない時なのだ。

 本来の日本人なら心の中に「日本人の魂」というものを持っているだろう。この国の歴史伝統や先人達に対する尊敬や愛着の想いである。

 例えば、この日本が戦争に負けたのであれば、その事実を限りなく口惜しいと思い、占領で失われたものがあるならば、それを何としても取り戻したいと思う日本人としての「心」である。

 そう考えるとき、右翼や国士を標榜する者や、「保守」と呼ばれている政治家から、日本人としての魂から発する「思い」を感じることはなく、右顧左眄型の偽善者ばかりが目立つ気がしてならない。

 我が国は天皇を頂き、その国體の精華は万邦無比であり、世界の中で最も優れた精神文化と独自の価値を有する国家でもある。

 真の「保守」とは、我々日本人が未来永劫護り抜かねばならぬ民族、宗教、言語、歴史、価値観、習慣、制度の世界の中で最も優れた精神文化を死守し、継承して行くものでなくてはならないのだ。

 その為には、最早国の基本法として機能していない矛盾だらけの現憲法を早急に破棄し、先人の智慧と営為に学び、日本人の手による日本人の為の最高法規を制定する必要があろう。

 大日本帝国憲法(欽定憲法)の復元・改正こそが救国の至上であると同時に、日本国民一人一人の「義務」として、靖國神社に眠る英霊に感謝の誠を捧げることこそ大事であり、「靖國」を合言葉に政界再編を成し遂げねばならぬ。

 我国の長い歴史の中でこれ程迄に堕落し、自己犠牲の精神を忘却し、まやかしの平和と繁栄に現を抜かし、自己本位の享楽にばかりに狂った時代は無いだろう。

 だが、そんな中でも、真保守主義に覚醒し、山積する諸問題を如何に打破し、日本再生の転換点と成すべきかと行動する若者が多く出て来たことは喜ばしい限り。

 愚生もしがない右翼浪人だが、一維新者としてこの迫り来る祖国の危機に対処し、粉骨砕身、愛国的活動に奮励邁進することこそが日本再生の道であり、天皇国日本を磐石の安きに置く使命だと確信している。

 だが、残念ながら力及ばず、怠惰な日々に没するばかりで、隔靴掻痒の感は拭えない。来年こそは捲土重来を期さねばと思えども、さてどうなるものやら。

 この記事を以て今年の最後と致します。今年も拙ブログに御付き合い頂き感謝申し上げると共に、謹んで陛下と皇室の弥栄を寿ぎ奉り、併而、来年が皆様にとって実りある1年と成ります様に御祈念申し上げます。すめらぎいやさか。

 皇紀2673年 臘日 佐久間五郎拝

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2013年12月29日

喩えば暗殺が全然なかったら、政治家はどんなに不真面目になるか


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 皆さんは、大津事件(湖南事件)を知っているだろうか。

 明治24年(1891年)5月11日、訪日中のロシア帝国の皇太子・ニコライ(後のニコライ2世)が、滋賀県警巡査・津田三蔵に突然斬りかかられ負傷した暗殺未遂事件だ。 

 以前からロシアの北方諸島などに関しての強硬な姿勢や、我が国への高慢で傲岸不遜な態度を快く思っていなかった津田だったが、ニコライが日本を訪問する際の警備に就くことになる。運命とはこういうことだろう。

 京都から琵琶湖への日帰り観光からの帰り道、ニコライ、ギリシャ王国王子・ゲオルギオス、有栖川宮威仁親王と共に大津市街を通過中、警備中の津田三蔵が突然サーベルを抜いて斬りかかった。

 「大津事件」は、近代国家を創り上げて間もない日本が、ロシアからの報復など緊迫した状況下で、様々な干渉を受けながらも司法の独立を維持し、三権分立の意識を広めた近代日本法学史上重要な事件でもある。

 現在も国益を忘却し、党利党略、私利私欲に狂奔する政治家どもに「天誅」とは言わないまでも、ポカンと一食らわしたいと思ってる市井の臣は多いと思う。

 しかし、国会議員の要人に対する警備は過剰で、テロは疎か野次さえもロクロク飛ばせない状況であり、この過剰警備が、政治家が真剣に政治をやらなくなった原因であると断じても過言ではないだろう。

 現在の政治家は、暗殺されるという恐怖が無いから、国益を無視してまでも権力や私欲に執念を燃やす輩が増殖する。

 政治家の警備に当たるSPは、その昔、大日本愛国党の書記長だった筆保泰禎が、佐藤栄作元総理の葬儀告別式の際に葬儀委員長の三木総理を殴打した事件をきっかけに創設されたものだ。

 あわや浅沼稲次郎暗殺を彷彿させたが、筆保書記長は「容共的な三木に猛省を促すのが目的だった」と述べている。

 筆保書記長と一献した際にこの事件の逸話を聞いたことがある。

 筆保書記長が三木を殴打した際に、三木が発した言葉は「犯人はコイツだ」と言ったそうだ。そんなことはテレビ中継もされてたし誰もが分かることだ。

 昔なら「話せば分かる」とか、「男子の本懐」ってなことになるのだろうが、三木の小物ぶりを示すものだろう。

 筆保書記長曰く、「右翼も小さくなったが、政治家はもっと小者になった」とは実に御尤もだと思う。

 この小者になった政治家を物々しく警備をするから、政治家は、然も自分が大物にでもなったと勘違いするのだ。

 右翼人は勿論、市井の徒でさえも政治家に対するテロ行為が無理な時代、期待するのは津田三蔵の様な憂国の至情を抱く警察官の出現であり、第二の津田三蔵が現ずれば政治家も多小は感ずるだろう。

 三島由紀夫は、政治家の怠慢を比喩的にこう表現する。

 「喩えば暗殺が全然なかったら、政治家はどんなに不真面目になるか、殺される心配がなかったら、いくらでも嘘がつける」。蓋し名言である。

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2013年12月28日

坂本龍馬を暗殺したのは誰なのか・・・


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 先日、小名木さんのブログ「ねずさんのひとりごと」で「坂本龍馬暗殺説」というのがアップされてて興味深く読んだ。愚生も拙ブログで論じたことがある。

 龍馬暗殺の謎について、「北辰一刀流免許皆伝の龍馬を一刀両断するとは」「龍馬はピストルを持っていたのに一発も発砲されていないのは何故か」「中岡の暗殺に、龍馬が巻き込まれたのではないか」など謎は多い。

 こうした疑問は、竜馬のカリスマ性と共に後々誇張され歪曲され、そして想像されていったのではなかろうか。

 坂本龍馬は、幕末には然程有名ではなかった人物だったという。

 維新後、数十年が経ち、四国の新聞に「坂本龍馬特集」が連載され、それが人気に火を点け、全国に拡がり現在に至っているというのが真相だ。

 坂本龍馬暗殺の実行犯は今でも歴史家の意見も様々で、「京都見廻組」と「新撰組」に分かれている。

 「京都見廻組説」では、明治時代に入り、元・隊士だった今井信郎、渡辺篤が、佐々木只三郎らと実行したとの証言を理由に挙げる。

 「新撰組説」では、刺客が「こなくそ」と伊予弁を話していたとされ、伊予出身の新撰組隊士の原田左之助刀の鞘や隊士の下駄が、近江屋に残されていたとの説を挙げる。この「こなくそ」説は、それこそ谷干城のひとりごとだ。

 こうした謎が益々龍馬の神秘性を高めているのは確かだ。

 龍馬は近江屋に、脱出する事が出来る隠れ家を土蔵に作っていたというが、風邪を引いていた龍馬は土蔵ではなく、来訪した中岡慎太郎と近江屋のニ階で、好物の「鶏の水炊き」を食らいながら歓談していた。

 部屋には二人の他に、龍馬の護衛をしていた元・力士の山田藤吉。その日、近江屋に南大和の「十津川郷土」と名乗る男らが訪ねて来る。

 山田が対応したが、その客人を疑わずに通した。部屋へ向かう途中に山田は後ろから斬られ、続いて龍馬と中岡が襲撃された。

 龍馬は即死に近く、仄聞されている様な、「わしゃ脳をやられちゅうきダメじゃ」という台詞を吐く間もなかったのではなかろうか。

 中岡は襲撃からニ日後に亡くなった。

 龍馬は北辰一刀流の免許皆伝というのが歴史的に語られているが、事実は北辰一刀流の「長刀」の使い手、つまりは薙刀だ。

 西洋流砲術も学びはしたが、実際には剣の腕前はそれほどではなかったというのが真実だろうと思う。

 居合や剣道を経験した者は分かるだろうが、龍馬の立ち居振る舞いは如何にも弱そうで、とても剣の達人には見えない。

 寺田屋事件でも龍馬は短銃で応戦はしたが、弾丸が切れたにも拘らず、持っていた刀を抜いてはいない。短銃を振り回して、両手に数か所の深手を負った。とても北辰一刀流免許皆伝の応対ではない。

 この時の傷を癒す為にお龍さんと共に薩摩の温泉に行くのだが、歴史的にはこれが新婚旅行の最初とされている。

 だが、これも根拠の無いもので、薩摩の家老・小松帯刀がそれより十年早く霧島へ新婚旅行へ行ってるそうだ。

 歴史が物語として語られる時、必ずしもその人物の真実を伝えているとは限らない。書き手や読み方ひとつで変わっていくものなのだ。

 龍馬の憧れもいいが、生き方を学ぶなら、やはり龍馬が実践した横議横行が大事。時代の寵児として活躍した人物らの共通の特徴は「言葉」が違うことだ。大衆の心を引き付けるのは「言葉」を以て他に無い。

 中でも龍馬は、正に「言葉の達人」だった。

 彼が幕閣とも勤王の志士とも通じ、後には薩長連合の仕掛け人として明治維新を豪腕で引き寄せ立役者足り得たのは、説得の技術が長けていたということであり、つまりはその言葉の豊かさに拠るものだろう。

 更にもう一つは、彼が「歩く人」だったことだ。交通の不便だった時代に、龍馬は実に驚く距離を行き来している。

 家を飛び出し、多くの人と顔を突き合わせ「横議横行」することは実に大切なことで、その邂逅こそが時代をも変える可能性を秘めていると確信している。

 今秋、久々に放浪の旅に出て「横議横行」した。また行きたいと思うが、それより年末年始の手元の不如意をどうにかせねば。呵呵。

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2013年12月27日

安倍の靖國参拝で米国の面目丸潰れ!呵呵大笑!


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 今秋、ケリー米国務長官とヘーゲル米国防長官が千鳥ケ淵戦没者墓苑を訪れた。同行した米国防総省高官は記者団に対し、千鳥ヶ淵戦没者墓苑はアーリントン国立墓地に「最も近い存在」だと説明した。

 ケリー国務長官とヘーゲル国防長官も、「日本の防衛相がアーリントン国立墓地で献花するのと同じ様に戦没者に哀悼の意を示した」と述べた。

 これは、米国が日本の戦没者を追悼する場所は、靖國神社ではなく、千鳥ヶ淵墓苑であり、アーリントン墓地に相当するのは靖國ではなく千鳥ヶ淵墓苑だという米国からの警告であり、暗黙の威圧行為でもあった。

 米国にとって、これ以上、靖國問題で日中韓の軋轢が広がることは米国の国益をも損なう恐れがあるとの判断から、千鳥ヶ淵を「国立戦没者追悼施設」として建設を急ぎ、決着を図れという政治的メッセージ。

 だが、ハッキリ言って大きな御世話だったが、そういう意味では安倍の靖國参拝は日本国民にとっては実に快哉であり、米国にとっては面目丸潰れには違いない。

 米国という国は何事も自分の利益だけを考える国だ。今日の夕刻までは友人であっても明朝には敵となっても、それを少しも不条理とも不道徳とも思わぬ国なのだ。だが、それが「国益」を護るということでもある。

 米国が日本を「友人」だとモチ上げるのは、それが米国の為に有利だからで、その他の如何なる理由も大義名分も付けたりに過ぎない。

 一旦その利益が失われたならば、何ら躊躇することなく180度転換し、敵側に立つことを少しも不思議と思わぬ国なのだ。

 無理無体、理不尽な事を平気でやるのが米国であり、この際、安倍も靖國参拝に続いて、米国主導のTPP不参加でも表明すれば一目も二目も置くんだが(笑)

 今回の参拝を英雄視する声も聞こえるが、所詮は政権維持のパフォーマンスであり、支持率低下を受けての靖國の政治利用の感も否めない。

 日本政府も、米国からの「失望」表明に慌てている様だが、国に殉じて尊い命をささげた方を、どのように慰霊するかは日本国内の問題であり、外交問題になる方が可笑しい訳で、米中韓には毅然と対応することが大事だ。

 だが、靖國神社にしろ、或いは慰安婦問題にしろ、事の発端は日本側であり、国家として「謝罪」も「約束」も「譲歩」もしている訳だから、中韓側に対し「内政干渉」だとか「心の問題」とかで済まされない現実が厳然と存在しているのだ。

 戦後、日本外交は「謝罪」と「賠償」さえしていれば問題ないと思っていたのは事実。屈辱的な土下座外交での譲歩が更なる譲歩を生み、結果、日本国民の誇りや自尊心を傷付けて来た。

 靖國神社の問題にしろ、歴史認識にしろ、歴代内閣の不作為こそ元凶であり、それを改めることなくして問題は解決しまい。

 抑々、総理大臣や国務大臣が靖國神社への参拝することは、悲しいことに日本国憲法下では第20条違反に問われる行為である。

 20条第三項には、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」と明記されており、総理大臣が靖國神社に詣でることは、この条項に抵触していることは明らかだろう。

 自民党幹部は、「総理と雖も個人の信条は優遇されるべき」との認識を示しているが、安倍が参拝後、いみじくも、国のリーダーとしての参拝だったということを表明している様に、その実は内閣総理大臣としての公式参拝である。

 国家の為に尊い命を投げ出された英霊に対し、国民の代表である政治家が感謝の誠を捧げるのは世界中のどの国でも当たり前のことであり、議論の余地などなく、況してや米中韓の内政干渉に屈する必要もない。

 ならば、堂々と憲法の矛盾点を指摘し、速やかに改正議論を活発化させるべきで、一国の総理が英霊に感謝の誠を捧げることが出来ない憲法が何処にあろう。こういうクソ憲法をいつまでも有難がってる場合ではない。

 靖國神社というのは戦後、GHQの統治下で行われた所謂「神道指令」によって、解体、或いは焼き打ちされそうになった訳だが、先人の智慧で、GHQの目を逸らす為に一時的に別な御祭神を祀り、「一宗教法人」となった。

 本来なら昭和27年4月28日、我が国が主権が恢復した日に、靖國神社や全国の護国神社を「宗教法人」ではなく、国家で管理するべきだったのだ。

 だが、政治の怠慢、それも自民党の無能の所為でそれをも成されずにあやふやな「一宗教法人」のまま放置され現在に至っている。

 我が国には、「A級戦犯」「B・C級戦犯」「戦争犯罪人」という呼称はない。講和条約発効翌年の第16国会の議決により、「戦傷病者戦没者遺族援護法」が改正され、それを以て法的に復権されているのだ。

 連合国側が定めた、A、B、C級の区分に関係なく、刑死・獄中死された方は「法務死」と称され、靖國神社では「昭和殉難者」としてお祀りしている。

 因みに靖國神社には、所謂B・C級戦犯1068名、それ以外にリンチ等で亡くなった方約100名が御祭神となっている。

 野党を始め中韓に阿る勢力や左翼、法曹界は、挙って安倍の参拝を否定するが、最高裁が示した憲法の禁止する「宗教的活動」の定義は、当該行為の目的が宗教的意義を持ち、その効果が宗教に対する援助、助長、促進または圧迫等も含まれる。

 つまり、分祀論や国立追悼施設建立もまた靖國神社への圧迫干渉であり、信教の自由を保障しようとする政教分離規定の「憲法20条」違反でもあるのだ。

 安倍の靖國参拝で賛否両論渦巻いているが、靖國の在り方ひとつでも未だ我が国は対米自立も出来ない国なのだと熟熟思う。

 米国に自衛隊の戦力発揮を握られ、国家の大本を米国に依存したまま口先だけで「対米自立」を訴えたところで何の意味も効果もない。

 今や米国という番犬は無用の長物と化し、その番犬も長い付き合いの中で高齢となりボケ始めた。

 飼い犬に噛まれてからでは遅いのだ。国民もそろそろ、自らの生命と安全は、自ら創り出さなくてはならないという現実に気付くべきだ。

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2013年12月26日

安倍総理の靖國参拝で「鎮霊社」の存在が明らかになった


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r600x600  鎮霊舎

 安倍総理が靖國神社に参拝した。遅きに付した感は否めないが、今回の参拝で靖國が騒がしくなるなら、政治家なんぞが靖國にかかずらって欲しくはないというのが正直なところ。

 会見で述べてた様に、「鎮霊社」という存在が明らかにされたことは画期的で、これを機に所謂「A級戦犯」議論より、「賊軍」とされた方々の祀り方を考えて行かなければならないと思う。

 我が国の歴史も「勝てば官軍」と言われる様に、薩長が後に袂を分かつと、長州閥が維新後の国家運営の多くを取り仕切った。

 靖國神社もその一つ。

 靖國神社は明治2年、明治天皇の思し召しにより、「東京招魂社」として建立された神社である。

 その合祀対象は、三条実美の祭文に在る様に、「皇軍に役立ちして、賊徒等を討たん其の義に・・・命果てぬる輩・・・」に限られている。

 この原則がある限り、会津藩や我が二本松藩、西南戦争での西郷軍関係者が祀られることはなく、未来永劫 「賊軍」の汚名が消えることはないのだ。

 明治26年に靖國神社の参道に高く聳える大村益次郎の銅像が建立された。

 大村益次郎といえば、今や靖國神社の象徴でもあるが、陸軍大将・西郷を差し置き、陸軍の実務責任者として靖國神社の建設場所を独自の判断で決めた人物でもあり、大村がその後、祭文を糺していれば靖國の在り方も違っただろう。

 こうした「賊軍」という汚名を着せられ続けている方々が祀られているのは、本殿左奥に鎮座する「鎮霊社」である。

 その歴史は浅く、昭和40年5月26日に地鎮祭が斎行され、7月13日に鎮座祭を挙行し、以来、この日に祭事が斎行されている。

 「鎮霊社」は、幕末の嘉永6年以降、戦争や事変に係わって戦没したものの、本殿に祀られていない日本人の御霊と、同時期以降の世界の戦争・事変に係わって戦没した全世界各国全ての戦没者の御霊を祀る。

 この御霊には、慶応4年の戊辰戦争で会津若松の飯盛山で自決した会津藩白虎隊や二本松少年隊、明治10年の西南戦争で自決した西郷隆盛らも含まれる。

 しかしながら、本殿と鎮霊社の並立状態は、平成13年参議院選挙直前の記者クラブでの党首討論で、所謂A級戦犯分祀について小泉純一郎がいみじくも言った、「死者の選別」に皮肉にも該当する好例だとも言えよう。

 靖國神社側が、宗教的な敬虔さを示す為に、こうしたカタチで「鎮霊社」を設けたことは高い評価を受けるべきであろうが、「朝敵」とされ、死後も未だ本殿とは別にしてその死を包括し得ない現状に、真に「靖國」の意味が在るのかという疑問もまた生じてしまうのだ。

 「嘗ての会津藩士の御霊が薩長藩士の霊と一緒に祀られることを喜ぶのか」という声が無い訳ではないが、朝敵とされたままで良いとも思えない。

 会津藩に至っては幕閣で唯一の神道であり、どの藩よりも朝廷に忠節を尽くした藩にも拘らず、薩長の策謀により「朝敵」とされただけだ。

 孝明天皇から下賜された宸翰が物語っているではないか。

 朝敵を別なカタチで祀ることと、朝敵をも本殿に祀ることと、そのどちらが現代という時代に即して天皇(すめろぎ、すめらぎ)が顕現される道なのだろう。

 このまま「死者の選別」をしたままでいいとは思えない。

 所謂「A級戦犯分祀論」で世論を攪乱してるアホ政治家が後を絶えないが、英霊を「戦犯」と罵った挙句、分祀さえすればそれで済むのか。

 安倍の参拝で明らかになった「鎮霊社」の存在を議論しながら、そろそろ我々は明治天皇の思し召しに応える意味でも靖國の本当の在り方を真剣に考えなくてはならないと思う。

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「西郷隆盛」の本当の名前は「西郷隆永」だったって知ってます?


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 西郷隆盛というと、上野の西郷さんの銅像のイメージが強いが、いざ銅像落成の日にそれを目にした糸子夫人が「宿んしはこげんなお人じゃなかったこてえ」と落胆した様に、もっと美形だったと思う。

 西郷隆盛というと「大西郷」と称される様に豪快なイメージだが、意外に繊細な面も、或いは、慶喜公を執拗に糾弾していた様に執拗な性格も見え隠れする。

 西郷隆盛の正式な名前は「隆盛」ではなく、「西郷隆永」。驚くことに「隆盛」というのは実は父親の諱(いみな・名前)だったということを知る人は少ない。

 西郷は幼少の頃には「小吉」、元服すると「吉之介」、その後は「善兵衛」「吉兵衛」「三助(菊池源吾)」、大島三右衛門、大島吉之助、西郷吉之助と名乗る。菊池や大島と名乗ったのは島流し時代だ。

 何故に「隆永」ではなく「隆盛」になってしまったのか。

 明治2年、戊辰戦争の奥羽戦線から帰京させる際に、宮内庁から御召状が出されることになり、通称ではなく諱で記さねばならず、知人の吉井友実に尋ねたところ、「確か、隆盛じゃった」と答えた。

 帰京し、吉井に会った西郷は、「あれは父の名でごわんか。わしの名は隆永じゃと、おはんも知っちょるじゃろう」というと、吉井も頭を掻きながら、「ほんにそうじゃった」と詫び、二人は顔を合わせて大笑いしたという。

 その後、西郷は「隆盛」という名を否定も訂正もしなかったのは、西郷の大らかさを示す逸話だろう。

 西郷には写真が一枚も残されていない。上野の西郷像は、実弟の西郷従道と従弟の大山巌を合わせて創った想像の人物だ。

 糸子夫人は、西郷を「俳優のような好い男だった」とのろけていたというが、実際の西郷は、眉太く、黒目がちの美しい目をした色白の美男子だったという。

 完成した銅像を見た糸子夫人の落胆は想像するに余りある。

 慶喜公の恭順と江戸城の無血開城に満足せず、代わりに会津を攻め落とすことで徳川時代終焉の象徴にした訳だが、大西郷たるものどうにか出来なかったのか。

 その後「征韓論」を唱える西郷は、大久保利通らと対立し薩摩へ帰郷する。

 「佐賀の乱」「神風連の乱」「秋月の乱」「萩の乱」など士族の反乱が続く中で、明治10年(1877年)に西郷が主宰する私学校生徒の暴動から「西南戦争」が勃発、指導者となるが、敗れて城山で自刃した。

 歴史というのは正義が常に正義ではなく、正義が敗れることもある。歴史とは実に異なものである。

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2013年12月25日

「積極的平和主義」の名の下に憲法議論を活発にし戦争出来る国創りを急げ!


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 「天長節」には上京し一般参賀に参列、3回目の御出座しを友人の尾形さん、国士舘の後輩の光橋さん、豊橋の竹田さんと竹田さんが姉と慕う宮下女史と待つこと暫し、尾形さんの「万歳!」の掛け声に合わせ三唱、陛下の聖壽を祈念した。

 その後は靖國神社に参拝、残念ながら鎮霊社には入れなかったが、門前で会釈、本殿前にて今年の無事を感謝し、心願成就を祈念した。

 奉祝パレードに参加するという尾形さんと別れ、直会は浅草へ。尾形さんの行動力とパワーは大したものだ。見習いたいと思うが、根が出不精で面倒臭がりなので無理そうだ(笑)

 竹田さんのリクエストの「米久本店」で一献。江戸情緒たっぷりの部屋で味わう牛鍋はまた友との邂逅も加わって最高の味わい。

 他愛もない会話で盛り上がり、「神谷バー」に。途中、盟友の大熊さんから連絡が入り、参戦。その後、大熊さんの行きつけの高級クラブでカラオケ。強か呑んで9時の新幹線で帰還。人生は正しく「邂逅」、いい出逢いと上手い酒を存分に堪能しました。感謝。

 昨夜は連日の痛飲で飲む気にもなれず、今年初めてというか最近では記憶にない「休肝日」、早々に床に就くも酒が入って無い為かウトウトするばかりで寝就けませんでした(笑)

 南スーダンで国連平和維持活動(PKO)に当たる韓国軍に対し、自衛隊が弾薬1万発を提供したことが波紋を広げている。

 日本政府は、人道的立場から韓国の要請に応じたと説明。一方、韓国国内では相変わらずメンツばかりを気にして、国内向けにあくまでも国連が要請しただけだと詭弁を弄す。

 抑々、何故に韓国軍が「SOS」を出す事態になったのか。

 2011年に独立したばかりの南スーダンでは、2013年12月15日以降、キール大統領率いる政府軍と、マシャール前副大統領を支持する反乱軍が各地で戦闘を続けている。

 民族対立も絡んで、現地では残酷な殺戮が横行。宿営地の周囲に詰め掛けた避難民と別の勢力が衝突し、他国から派遣されているPKO要員が亡くなる事例も起きている。

 映画「ブラッドダイヤモンド」ばりの現実がそこにはある。もうひとつ「踊る大捜査線」の台詞をパクれば、「紛争は会議室で起きてるんじゃない、現場で起きてるんだ!」ということだ。メンツなんてどうでもいいことだろう。

 弾薬提供を要請した韓国軍部隊は工兵隊が大半を占め、自衛の為の十分な武器を持っていないのが実情だという。

 韓国軍部隊の展開しているジョングレイ州は急速に治安が悪化しており、韓国軍は自国軍による補充が完了するまでの応急措置として日本に弾薬の譲渡を要請し、日本側は緊急対応として譲渡を決定した。

 日本政府がその緊急性と人道的措置だとしたことは無難な決定だと思うが、一方で、弾薬提供によって「冷え切ってる日韓関係の改善に繋がる」との思惑も背景にある様で、そうした邪な考えがあったのなら本末転倒である。

 我が国は歪な日本国憲法下で「武器輸出三原則」を維持し、PKOでは「武器・弾薬の譲渡は想定していない」「要請があっても応じない」「武器・弾薬は必要ない」としてきた。

 今回の対応は、こうした過去の政府の事勿れ主義の矛盾が露わになったカタチになっただけだ。これを機に憲法議論を活発化させ、「国防」とは如何なるものなのか国民に知らしめるべきである。

 安倍政権では「三原則」の見直し方針を閣議決定したが、野党は今回の政府の対応を一斉に批判する。

 民主党内保守派の松原仁も「整合性が取れない。重大な政策変更だ」と批判し、対応に不満を漏らしているが、保守を自任するならこういう時こそ国の根幹を成す憲法議論を提起すべきだと思うが、所詮、党利党略でしかない。

 共産党は「積極的平和主義の名の下に、海外で戦争出来る国創りへ危険な一歩を踏み出したことは許されない」と反対するが、いつでも戦争出来る国を創ることこそ大事。防衛とはそういうことだ。

 共産党はある意味、大事なことを教えてくれる(笑)

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2013年12月23日

「天長節」の佳き日に当り「日本国」に誇りと勇気を持って更なる躍進を誓う


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 本日は天長節(天皇誕生日)。皇国臣民としての喜び、これに優るものなし。この佳き日に当り、陛下の御長寿と皇室の弥栄を祈念申し上げます。

 我が国は永い歴史の中から数々の伝統及び制度が生み出されてきた国家であり、そんな中で永遠に無くなってはならぬものが天皇を戴く国家の在り方である。

 2673年の永きに亙り「万世一系」の天皇を戴き、常に国民や世界の平和を祈り続けておられる天皇を、善き至高の存在として暮らして来た。

 天皇を族長と仰ぐ君民一体の家族国家が日本であり、「天皇即日本」、「日本即天皇」の天皇国家が「日本」という国柄なのである。

 天皇の御代が栄えることは、即国民の代が栄えることでもあり、この国體の精華は万邦類を見ないところである。 
 正に、世界に冠絶した「君が代」そのものの世界が厳然と存在する国が、我が国「日本」なのだ。

 国歌「君が代」の出典は「古今和歌集」巻七「賀の部」で詠まれた、「わが君は 千代に八千代に さゞれ石の 巌となりて 苔のむすまで」という一首。

 この歌が「詠み人知らず」の草莽の庶民であったところに、我が偉大なる民族性を改めて認識し、無限の感激を禁じ得ない。

 神武天皇の御代より万世一系の天皇が受け継ぐものに、「八咫鏡(やたのかがみ)」「八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)」「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」という「三種の神器」が在る。

 この三種の神器である「鏡」「勾玉」「剣」は日本の精神を表すもので、「鏡」は「鑑みる」「考え見る」であり、「自己反省」や「誠の心」、「勾玉」は「慈愛」や「徳」、「剣」は「勇気」「叡智」を現したものだ。

 しかし今、勇気という「剣」を無くしてしまい、自国を自国の勇気で護ろうとする当たり前の気概を喪失し、未来永劫護らねばならない国柄をも失いつつある現状を憂いる国民は少なくない。

 「誠」と「慈愛」と「勇気」を挟持してこそ人として覚醒し、日本人として存在することが出来るのである。今こそ我々は日本人として家族や朋友、郷土や伝統文化を護って行かねばならない覚悟と気概と気魄を持とうではないか。

 「天長節」の佳き日に当り、素晴らしい歴史と伝統と文化を持つ「日本国」に誇りと勇気を持って更なる躍進を誓う。天皇陛下万歳!

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2013年12月22日

死刑執行前日の昭和23年12月22日夜、東条英機閣下は遺書を朗読・・・


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 明日は「天皇誕生日」、戦前の「天長節」だが、所謂「A級戦犯」として処刑された7名(東条英機、土肥原賢二、板垣征四郎、木村兵太郎、松井石根、武藤章、広田弘毅)の方々の命日でもある。

 何故に米国は皇太子(当時)御生誕日を選び処刑したかは、未来永劫、日本人に贖罪意識を持たせる為のものだったということは言うまでもない。

 因みに、判決日は天長節の4月29日(当時)。この事実を知るだけでも米英を始めとした連合国が如何に非情で無慈悲だったかが理解出来よう。

 東京大空襲は、日露戦争の「奉天会戦」勝利を祝う3月10日の「陸軍記念日」。現憲法を押し付けたのは明治天皇の生誕日の11月3日の「明治節」。この様に、米英連合軍の暴挙は枚挙に遑なし。

 我が国には「A級戦犯」だとか「B・C級戦犯」、或いは「戦争犯罪人」などという呼称はない。

 未だにこういう呼び方をしている政治家などがいるが言語道断。

 昭和27年4月28日の講和条約が発効された翌年の第16国会の議決により、「戦傷病者戦没者遺族援護法」が改正され、それを以て「戦犯」と称された方の名誉は回復し、法的に復権されているのだ。

 刑死、獄中死された方々は「法務死」であり、靖國神社では「昭和殉難者」としてお祀りしている。日本人が「戦犯」などと呼ぶこと自体愚かなことだ。

 極東軍事裁判に於いて弁護する機会も与えられず、一審即結審という復讐という名の茶番劇で、或いは外国の地で不当に処刑されたこの方々の命は決して軽いものではない。

 敢えて反論もせず命を捧げて日本の罪を償ってくれたのだ。

 国際法の原理に基づき、「この法廷で日本を裁く権利は無い」とし、「各被告は全ての起訴状中の各起訴事実部につき無罪とされなければならない」と述べた。

 だが、パル判事の意見は忙殺され、「侵略国」として断罪されたばかりか、その責任者として7人に絞首刑の判決を下され、処刑された。

 この「東京裁判史観」が未だに蔓延り、日本人自身が日本を貶め続けてる現状は最早コメディ以外の何ものでもない。

 抑々「極東軍事裁判」自体が無効だ。「人道に対する罪」は事後法であり、それに基づいて罰するということは国際法上も無効なのだ。

 「この法廷で日本を裁く権利は無い」としたパル判事の主張が正しいものだったことは、判決から2年半後、米国軍事委員会で証明される。

 マッカーサーが「彼ら(日本)が戦争に入った目的は、主として自衛の為に余儀なくされたものだ」と証言する。極東軍事裁判の最高責任者である連合国最高司令官マッカーサーが公的な場で認めたのだ。

 今こそ我々は、極東軍事裁判の不当性を明らかにし、「戦犯」との汚名を着せられ続けている英霊の方々の名誉恢復を急がねばならない。

 死刑執行前日の昭和23年12月22日夜、東京巣鴨に於いて、教誨師の花山信勝師の前で東条英機閣下は遺書を朗読した。その心境察するに余りある。

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cordial8317 at 17:50|PermalinkComments(1)

クリスマスケーキを買う気分で「古事記」も購入しませんか(笑)


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 街はクリスマス商戦一色。明治神宮の表参道もイルミネーションで飾られる。天皇を戴く我が国にはそぐわない景色だが、まぁイベント好きな日本人らしい(笑)

 明日は天皇誕生日だが、それより盛り上がるのはクリスマスイブ。それが終わると年末年始に向けて街の様相も変わり、正月に向けまっしぐら。

 敬虔なカトリック教徒でもないのにキリスト生誕を祝い、大晦日には寺で除夜の鐘を撞き、元旦には神社に初詣に行き、年賀状には元号を記す。ホント日本人とは実にいい加減というか、実に大らかな民族だ(笑)

 キリスト生誕を祝うのは結構だが、日本には日本の神が存在する。クリスマスケーキも美味しいが、「古事記」はマンガ本も現代語訳の本も多く出ているので、クリスマスケーキを買う気分で購入して頂きたいものだ。

 「古事記」の書き出しでは、「天地創めて發けしとき高天原(たかまのはら)に成りし神の名は天御中主神(アメノミナカヌシノカミ)、次に高御産巣日神(タカミムスビノカミ)、次に神産巣日神(カミムスビノカミ)、この三柱の神は皆獨神と成りまして身を隠したまいき」と在る。

 「造化三神」「神代七代」や「伊邪那岐(イザナギ)」と「伊邪那美(イザナミ)」が生んだとされる神は三十五柱に及ぶが、キリストやマホメット、孔子などと同様にこういう神々も日本人なら知っておくべきだろう。

 こうした神話が描かれているのが「古事記」で、筆録した人物は太安麻呂(おおのやすまろ)。日本で最初に書かれたとされる書籍で、語り部の稗田阿礼(ひえだのあれ)が暗誦していた「帝紀」「旧辞」を基に編纂されたものとされている。

 「古事記」は読む人によって感じ方も違うし、古代人が何を言わんとしたのかは捉え方も夫夫で、愉しい古典だと思う。

 西洋の神が天地創造の神で唯一絶対の不変の存在と描かれているが、我が国の神々は宇宙の後に生まれたと「古事記」では描かれいる。

 何気ないことだが、我々の祖先は唯一絶対の神が世界を意のままに創造したのではなく、それ以前の「無」の時間、つまり「ビックバン」以前の世界を想定していたというこの教えは驚くほど科学的だと思う。

 「高天原」とは「三次元世界」を表しており、「高」は高低の差を示す縦軸。「天」は空間であり時間。「原」は無限に水平に広がり行く横軸。

 「古事記」には我々日本人の先祖の歩んできた歴史が比喩を駆使して生き生きと描かれ、同時に日本語本来の美しさも感じられる。

 一見難しそう漢字が使われてはいるが、日本語が未だ完成していない時代に作られたものなので漢字自体にはそれほど意味はない。

 「音」を頼りに読み解いていくことが大切で、日本語の「言葉」とは「言ハ」であり、「コト」を表現する言語なのだ。

 これは他国の言語には見られない特徴で、一つの言葉に多くの事柄を含めて伝え合う日本独特の文化であり、「古事記」の文章の中に在る「こと」を探って読み解くことが大事で、夫夫その感じ方が違ってもそれはそれでいいと思う。

 日本神話の特徴は、神でも失敗や過ちを起こすということ。キリストやモハメットという神が失敗や過ちを起こすことなど考えられないことだが、これだけでも日本の神は愉快だ。だが、この教えは「二度の失敗はしない」ということでもある。

 年末を控え夫夫悩みも尽きないでしょうが、神様でも失敗はするのですから人生気楽に行こうじゃありませんか。呵呵。

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2013年12月20日

猪瀬の5000万円受渡しに、一水会の木村三浩が同席!!!


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 猪瀬東京都知事が辞任するという。そのまんま東が辞任した時点で辞任は既定路線だったのだろうが、男の引き際としては無様過ぎる。

 猪瀬という人物がどういうものかは分からないが、人相学というか、こういう顔はどうも生理的に合わない。男の粋や品格の好さなど微塵も感じない。

 5000万円がどういう借金なのかなどどうでもいいが、抑々そのカネをどうするつもりだったのか。

 そこまで生活が苦しいとも思えないし、何故に一水会代表の木村三浩まで立ち会う必要があったのか、誰が見ても胡散臭さは拭え切れない。

 「李下に冠を整さず」という。

 スモモの木の下で、曲がった冠を直そうと手を上げれば、スモモを盗むのかと疑われるから、冠を直さない。疑いを招き易い行為は避ける方がいいという諺だ。

 カバンに5000万円が入るとか入らないとかそんなことはどうだっていいが、政治とは最高の倫理であり、最高の道徳でなくてはならないのだ。

 「南洲翁遺訓」で西郷隆盛はこう訓える。

 「万民の上に位置するものは、己を慎み、品行を正しくし、贅沢を戒め、倹約に努め、職務に努力して人民の見本とならねばならない。そして民衆がその働きぶりを見て『気の毒だなぁ』と思うようでなければならない」

 マスコミや都議会から責められる猪瀬もある意味「気の毒だなぁ」と思えなくもないが、猪瀬に限らず、己を慎み、品行を正しくし、贅沢を戒め、倹約に努め、職務に努力して人民の見本となってる政治家なんぞ見たこともない。

 貰えるとなればそのカネがどういうものかも疑いもせず懐に入れる。尤も、愚生も5000万円と言わず、多額のカネを貸してくれる人がいるなら、愚生も躊躇なく借りて、若手活動家やテロリストを養成するんだがなぁ(笑)

 抑々、徳洲会が何故にこんなに大金をばら撒くのか。徳洲会に限らず政界のタニマチを気取った医師会へのそういう体質にこそ問題があるのではなかろうか。

 現在の医療というのは一般企業と同じ営利至上主義であり、国民医療費は年々増加の一途を辿っているのは余程のバカじゃない限り承知している。

 我が国の歳入は約40兆円程度。その税収の殆どが医療費で消えてしまう計算で、このままでは約10年後には50兆円を超えると予想されている。だが、悲しいことに歳入増加の見込みはない。

 医療費が、新抗がん剤の開発や治療方法の確立、高度な診断機器の普及など、医療の高度化や、新薬や医療技術が向上するのは結構なことだが、華美で分不相応な病院施設も目立ち、こうした医療とはかけ離れた実態を糺し、「医は仁術」という医療の根本に立ち返らせるべきだろう。

 厚労省は価格の低い「後発医薬品(ジェネリック)」の利用促進や入院日数短縮など医療費抑制策に取り組んではいるが、その効果は微々たるもので、医療費の増加に歯止めが掛かるどころか膨らむ一方。

 「乱診乱療」「薬漬け」「保険点数の水増し請求」「大口脱税」など医師会や営利に狂奔する悪徳医師の構造的腐敗にメスを入れることが、こうした膨れ上がる医療費の見直しにも繋がる訳だが、如何せん、「日本医師会」の集票力とバラ撒かれる政治献金で、誰も口出し出来ないのが現状なのだ。

 「医術」より「算術」とばかりに不正請求や脱税に奔る悪徳医師どもや左翼系医療機関が保険料を詐取し、共産党や左翼勢力などに流用しているという疑いもあり、こうしたことを剔抉粛正しなければならない。

 日本医師会が牛耳る医療行政にメスを入れ、現在の麻痺状態の医療制度の正常化を図ることは、我が国の財政再建を考える上でも喫緊の課題であるが、医師会の票目当ての政治家に期待するのは無理がある。

 「徳洲会事件」をきっかけに一水会の木村三浩が右翼・民族派を代表して、こうした医療の実態を剔抉粛正するというなら大いに結構なことだが、そんな声などさっぱり聞こえて来ない。単に右翼の大物を気取ってるだけなのだろう。

 それにしても、木村三浩もオイシイ思いはしたのだろうなぁ。池口恵観のボディガードなんかもしてるとか聞いたし、まぁ右翼に在りがちな小銭で利用されてポイってなことにはならない様にね。木村さん。呵呵。

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2013年12月19日

勝海舟の「氷川清話」は維新史や人物月旦としては超一級の作品ではあるが・・・


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 旧幕臣ながら外務大丞、兵部大丞、参議兼海軍卿、元老院議官、枢密顧問官を歴任し伯爵を叙された勝海舟が晩年遺したものに「氷川清話」がある。

 勝がその生涯に出会った幕閣や歴史上の人物、時事評論まで縦横無尽に語られた「思想書」というより「談話集」であり、「維新史」や「人物月旦」としては超一級の作品とされている。日本人の読むべき名著でもある。

 だが、どうも愚生にはイマイチ勝海舟という人物を尊敬出来ない。

 「人物月旦」が面白いというが、殆どは己の自慢と相手を誹る話しばかり。その一部を端折って書けば。

【横井小楠と西郷隆盛】 俺は今迄、天下で恐ろしい者を二人見た。それは横井小楠と西郷南洲だ。その横井に西洋の事を俺が教えてやった。西郷と面会したら、その意見や議論は寧ろ俺の方が優る。

【佐久間象山】 佐久間象山は物知りで、学問も博し、見識も多少持っていたが、どうもホラ吹きで困るよ。

【藤田東湖】 俺は大嫌いだ。あれは学問もあるし、議論も強く、また剣術も達者だったが本当に国を思うという赤心がない。書生を大勢集めて騒ぎ廻るとは、実にけしからぬ男だ。

【桂小五郎(木戸孝允)】 西郷に比べれば非常に小さい。余り用心し過ぎるので、大事には向かない。

【山岡鉄舟と大久保一翁】 この二人は共に熱性で、切迫の方だから、可哀想に若死にしたよ。

 これ以外にも偉人、傑物との逸話は在るが、佐久間象山を「ホラ吹き」と罵ってる割には、同じ様にその人となりが分かりそうなものばかり。

 この「氷川清話」が纏められたのは明治30年頃の最晩年75歳前後のことなので、老人にありがちな妄想的言い回しが多い。

 妄想症の疑いと迄は言わないが、勝の自己顕示欲の強さを割り引いて読めば、幕末維新史としては貴重な資料なのは確かだろう。
 
 福沢諭吉は、「痩せ我慢の記」の一節にはこう記されている。

 「一片の痩せ我慢こそ百千年後に至るまで、国の独立を維持する上で大切である」と説き、嘗て幕臣だった勝や榎本武揚が、敵方である薩摩・長州中心の新政府から優遇を受け、大臣に昇りつめた出世を厳しく批判している。

 その諭旨は、「勝海舟は只管講和を主張し、官軍と一戦も交えず開城したのは、要素たる士風を損なった。譬え、内乱が国家にとって無益大害の極みであっても、抵抗するのが武士の意気地ではないか」という。

 榎本然り、「榎本武揚は、必敗覚悟で五稜郭に立て篭もり、官軍に反抗したのは功名といえるが、降伏後に立身出世を志したのは、その過去を傷つけるものである。両人共、敵味方のケジメをつけ、野に下ることこそ取るべき道であった」と断じているが、愚生も激しく同意する。

 昨今の我が国を見渡しても、政治家を筆頭に「義」を守る者が余りにも少なく、利権に集り、私利私欲に狂奔し、カネに群がる不逞の輩ばかり。経済的な貧困よりも、精神的貧困の方がが深刻だ。

 日本人が本来持つべき「痩せ我慢」の気風は何処へ行ってしまったのだろう。

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2013年12月18日

佐藤栄佐久元知事、退職金7726万円の返還命令を拒否!


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 原発事故以来、「反原発派」に持て囃されている前福島県知事の佐藤栄佐久だが、7726万円の退職金返還命令に異議申し立てしていた件で、県議会は「棄却すべし」とする答申を全会一致で可決した。

 栄佐久はこれに対し、「謂れのない命令を突き付けられている。誇りを賭けて一生、戦う」と語った。この男に誇りなどあったとは驚いた。

 佐藤栄佐久と実弟の祐二らにあるものは卑しい金銭欲と権力欲、実弟に至ってはそれに色欲が付いて来る。

 原発事故や原発問題を然も国の責任であるかの様に批判するが、ポンコツで問題のあった福島原発1号機、2号機のスイッチを入れたのは栄佐久自身であり、前知事に政府や東電を批判する資格はない。

 「福島県知事汚職事件」では、実弟の会社「郡山三東スーツ」の土地を巡り、水谷建設に相場よりも高い金額で引き取らせたことが「収賄」と見做され、有罪判決を受けた。

 水谷は前知事が初当選以来、福島県内で多くの公共工事を受注してきた建設業者で、中でも、東電からの130億円という多額の寄付で建設した「Jビレッジ」は、水谷建設が一手に引き受けた。

 この130億円が、実弟や知事の自称私設秘書で大日本愛国党福島県本部相談役の辻政雄や地元広域暴力団に流れたのは誰もが知るところ。

 前知事も「辻くんには12億の貸しがあるんだよ!」と知人に漏らしたことでも分かる様に、血税に集り、「口利き料」を強要していた事実を知りながら、今更ながら、「冤罪だ」と訴えたところで、汚名が返上されることはない。

 知事と実弟とブローカーの辻政雄は一蓮托生。

 その辻は、「入札妨害(談合)」の罪で逮捕されると、保身から検察証人となり栄佐久らを裏切った。前知事の周りは辻を始めどいつもこいつもろくでもない連中ばかりで、知らないのは当人だけ。相変わらずの裸の王様。

 実弟と辻は金銭欲に塗れ、挙句に実弟は選挙の手伝いに来た女性と不倫をする始末。その愛人が妊娠し、糟糠の妻と離婚するが、実弟は前妻への慰藉料捻出の為に水谷建設に無心したというのが真相。

 尤も、辻が建設業者から掠め取ったカネをネコババしないで、実弟に渡していれば、前妻の慰藉料に窮することも、汚職事件も起きなかっただろう。

 「三東スーツ」を巡る増収賄など、実弟や辻らが業者から巻き上げたカネに比べりゃ屁の様な金額だ。こうした栄佐久兄弟の限りの無い金銭欲というものは、やはり極貧の中で育った環境がそうさせるのだろう。

 余談だが、辻の件で愛国党の芦名議長に苦言を呈したことがある。

 「北朝鮮と係りのある水谷と、愛国党の相談役の辻がツるんでるのは、日頃、拉致問題を訴えてる愛国党として問題だし、辻が掠め取ったカネもあるし、どうにかするべきでは」という様な内容だった。

 愚生の様な若造に苦言を呈され怒り心頭に発したのか憮然としていたが、その諫言は図星だったから反論は無かった。

 その後、芦名議長は体調を崩し幽冥境を異にしたが、兄弟分だった辻の逮捕を見なくて済んだのは本人にとっては勿怪の幸いだったと思う。

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2013年12月17日

韓国は昭和20年(1945年)8月15日の「光復節」を祝うが・・・


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 昨夜は寝ようと思ったら知人から召集命令が出て駅前に出兵。飲み過ぎました。やっぱり、夕方にチラッと晩酌して、8時頃寝るのがいいなぁ。

 それにしても、朝鮮人のおばちゃんらの商魂は逞しい。慰安婦もあんな感じだったんだろうと想像してしまう。

 昭和20年(1945年)8月9日未明、「日ソ不可侵条約」を一方的に破棄しソ連が参戦。その三日後の12日には朝鮮半島北部に侵攻した。

 朝鮮への侵攻準備が出来ていない米国はこれに慌て、急遽、朝鮮占領の協議が行われ、結果38度線で分割する事で合意した。  

 北朝鮮でソ連は、日本人の軍人・行政官・警察官を抑留すると共に親日派を一掃、共産主義者を中心に人民委員会を組織させ委譲させた。

 ソ連の傀儡として、重慶に亡命していた金日成を首班とする政権を1946年2月に誕生させる。

 一方南朝鮮(韓国)では、米国が総督府の残留朝鮮人官吏を活用し軍政権を敷いた。1946年1月に、間接選挙による「過度立法議院」を構成させ翌年の2月、安在鴻を長官とする過度政府を発足。

 ヤルタ協定では1948年3月迄、国連の信託統治を予定していたが、米ソの対立で全ての協議が決裂し、1948年8月、米国で反日活動をしていた李承晩を初代大統領に据え、「大韓民国」を建国した。

 翌9月、北朝鮮は「朝鮮民主主義人民共和国」を発足。

 韓国が昭和20年(1945年)8月15日を「光復節」として独立を祝うが、実際の独立は3年後の昭和23年である。

 北朝鮮では、金日成の支配下で着々と国政の整備が進んだのに対し、韓国は、在来の官僚や亡命先からの帰国者、米国の措置で監獄から解放された共産主義者が入り乱れ、政権は安定せず、労働組合によるストライキが多発し、社会混乱が加速した。

 1946年10月以降、それまで容共的だった米国は次第に共産党の抑圧政策に転じ、米国の傀儡・李承晩は、日本と共同歩調を執ろうとした「呂運亮」を暗殺し、自ら大統領に就き、「反日」「反共」を国是とした。

 李承晩が最初にやった仕事は親日派の追放であり、その結果、日本に育てられた優秀な官僚は次々と追放されるに至る。

 1950年6月25日の北朝鮮の突然の侵攻で、同じ民族同士が相討つ戦争となり、数百万人が犠牲となる大惨事となったのである。

 朝鮮戦争は、1953年7月27日に「休戦調停」を結んではいるが、終結した訳ではなく未だ戦争状態であり、北朝鮮に不穏な動きがあるというが、果たしてどうなるものやら。朝鮮半島情勢から目が離せない。

 韓国人は「朝鮮戦争」や「南北分断」をも日本の責任であるかの様に言うが、朝鮮戦争の勃発にしろ、朝鮮の南北分断にしろ、我が国にその責任は無く、在るとすれば大東亜戦争に敗北し、共産主義の跋扈と米国の驕逸を許した事であろう。

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2013年12月16日

河井継之助と岩村精一郎


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 昨夜のもの凄い風で、我が襤褸家は彼方此方から隙間風が入り、ぴゅーぴゅーと五月蠅いもので少々寝不足気味です(笑)

 床に就いて間もなく友人から、「20時からBS日テレで、特別時代劇 河井継之助 駆け抜けた蒼龍・北国にいたもう一人の坂本竜馬!が放映されます」との報を頂いたが生憎、うちはBSが観れない(笑)

 坂本龍馬というのは脱藩し、時流に乗り、維新の魁となったのは分かるが、河井はそうした時代の流れの中で小藩を必死に守ろうとした侍であり、龍馬とは真逆の生き方を全うした人物だ。

 確かに龍馬は「薩長同盟」に奔走したり全国を駆け回ったが、河井の遊学は藩を憂うる至情からのものであり、その目的は全くの別物だ。

 龍馬というのは幕末の時代にはそれほど有名な人物ではない。維新後に、「こういう人物が土佐にいたぞ」と地元新聞で取り上げられ、日本人ウケするそのキャラクターと共に全国的に有名になっただけだ。

 坂本龍馬に憧れ新政府軍に参加した人物に岩村精一郎がいる。土佐藩士で後に華族、男爵の称号を与えられたこの岩村こそ、長岡藩や会津藩の悲劇を生んだ張本人であると言っても過言ではない。

 慈眼寺に於いて会談が行われた河井継之助は、総督として長岡藩の中立を保ち和平交渉を進めようと、山縣有朋(狂介)か黒田清隆との会談を希望していたが弱冠23歳の岩村はこれを一蹴。この時、河井42歳。

 後に岩村は自伝で「途中で従う様になった信州各藩の家老は平凡な人材ばかりで、河井についても経歴や人物を知らなかった為に、時間稼ぎをしているだけだと思った」と述懐している。

 この岩村の無知と熟慮を欠いた判断が、長岡藩を奥羽列藩同盟側へ追い込むこととなったのだが、こうした刮目して相対すことも出来ない若造から罵られた継之助の心境は想像するに余りある。

 岩村・河井会談が決裂した結果、中立を模索していた長岡藩は東軍勢力として戦うことを決意する。

 「北越戦争」に於いて新政府軍は、長岡藩の抵抗によって大損害を被り、一旦陥落させた城を再び奪われるという軍事史的に稀な大失態を起こすことになった。

 本来であれば岩井は切腹ものだが、こうした失態の責任を問われたり罰せられてはいない。これをしても新政府軍というのは卑しい権力欲ばかりで、武士の精神は崩壊してしまっていたと言えよう。

 歴史に「もし」はないが、もし河井と山縣や黒田との会談が実現していれば、「北越戦争」を避けられただろうし、その後の「会津戦争」も避けられただろう。或いは、長州閥で固められたその後の日本の姿も違っていたかも知れない。

 会津藩への講和交渉提案を引き受けるとまで申し出た河井に対し、「単なる時間稼ぎである」と一切の交渉の機会を与えなかった岩村というのは、一軍の将としては狭量と言える。

 要は未熟だったということだ。新政府軍も土佐藩というだけで岩村の様な無能な人材を登用せざるを得なかったということなのかも知れない。

 土佐の坂本龍馬や中岡慎太郎が存命ならまた違ったものになっていただろう。歴史というものは実に移ろい易い。

 先の大戦でも多くの有能な人材が失われたが、明治維新でも然り。維新後に残った者といえばこの岩村を始め長州を中心とした木っ端ばかり。

 ドナルド・キーンも岩村の人物像をして、「無能で横柄な岩村の抜擢は、最悪の選択だったと言える」と厳しく評しているが正鵠を射たものだと思う。

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2013年12月15日

尊敬はあくまでも醇乎たるべきものでなければならない(河井継之助)


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 司馬遼太郎は「峠」で、河井を武士道倫理に生きた「最後の侍」だとし、その生き様を活き活きと描いている。中でも茶屋遊びの場面が粋でいい。やはり放蕩というのは人物を大きくするものだと痛感する(笑)

 歴史家も、河井を東西の優れた軍事指揮者の一人に挙げているが、愚生は河井継之助こそ最も人間味に溢れた武士だったと思う。

 河井継之助、名は秋義、号は蒼竜窟。越後長岡藩士。

 「越の蒼竜(ほくえつのそうりゅう)」と称された継之助は、幕末に於いて長岡藩の近代化に努力した英雄である。

 継之助は、長岡藩士120石取りの代右衛門秋紀の子として生まれる。幼少の頃から腕白で、人の忠告を素直に聞かない強情張りであったというが、それは大人になってからも変わらなかった。

 少年時代は、藩校で古義学(こぎがく)を学び、成長するとともに実践重視の「陽明学」へと傾倒していった。

 17歳の時に継之助は、鶏を裁いて、王陽明を祭る祭壇に鶏肉を供え、人民と藩是の為に立志し、誓明したという。

 青年期には読書に没頭し、良書を見つけると、その書だけを何度も読み返し、一字一句を書き留め暗記し、我が身の行動の規範と成した。

 嘉永5(1852)年、継之助は、江戸に遊学し、佐久間象山、古賀謹一郎に師事する。だが、象山の尊大さと勿体付けて理屈を捏ねる腹の曲がり具合が気に食わず、象山から遠ざかった。

 継之助が生涯を通じて、敬服した人物は、備中松山藩の儒者・山田方谷(ほうこく)であった。

 安政6(1859)年には、自ら松山藩まで足を運び、直接、方谷から陽明学を学び、藩政改革の方法を習得している。彼は、方谷を「先生」と呼び、「希代の英雄」と讃え、方谷が唱える思想を熱心に学んだ。

 方谷に入門を乞うも中々承諾されなかった。だが漸く入門を許可されると、「学問の講義は要りませぬ」と断った。

 方谷先生と起居を共にすることだけでも学ぶものが多いのことを継之助は知っていた。暇があれば師と雑談する、その雑談や所作、何気ないことから学ぶことこそ貴重であり、得るものが多いものだ。

 書物を読み、暗記したところで意味はない。継之助は内弟子らは、「何故に貴公は方谷先生と一緒に鍬を持たないのか」と詰られる。

 「嫌いだからだ。今更、百姓の真似が出来るか」

 内弟子が尚も「方谷先生を尊敬していないのか」と詰るも、継之助は、「尊敬はあくまでも醇乎(じゅんこ)たるべきものであり、百姓を手伝うというのはおべっかに過ぎない」と開き直った。

 昨今、愚生の周りを見渡しても、目上の者や強い者、或いは有名な人と見るや「おべっか」や「諂い」ばかりで、その心情や行動に「醇乎」さは乏しく、純粋さからはかけ離れている「ヨイショ」が多い。

 方谷は後に、「河井は豪(えら)すぎる。豪すぎることが幸福な結果になるか、不幸を呼ぶか」と語ったというが、結果は後者の方であった。

 1ヶ月半ほどの遊学であったが、別れの朝、継之助は対岸の街道の路上に土下座し、師匠の小さな姿を伏し拝んだ。人を容易に尊敬することのない男が土下座したのは生涯これが最初で最後だった。 

 長崎などへも西国遊学を果たし、見聞を広めるとともに、会津藩の秋月悌次郎などとも交友を深め、人脈を広げている。

 真実を求める為に塾を転々とし、諸国を遍歴した継之助の真似ではないが、愚生も今秋、遊学の様な偉そうなことではないが旅に出た。どんなものでも「旅」は人を大きくしてくれると思っている。

 放浪の旅というのは日常の解放であり、酒徒が酒を恋うのと同じ欲求でもある。

 人との出会いに感動し、酒を酌み交わせば言葉は要らない。「刮目して相対す」とか「人生意気に感じる」とはそういうことだ。

 愚生にも師と呼べる師はいない。強いて言えば、一代で大手警備会社「テイケイ」を築いた高花豊先生くらいなものだ。

 皆さんにはいざという時に心の支えになる「師」はいますか。

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2013年12月14日

何故、浅野公は斬りつけたのか、斬りつけずに突けばよかったものを!(丹羽光重)


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 赤穂浪士が吉良邸に討ち入りしたのは元禄15年12月14日から翌朝にかけてとされているが、旧暦では元禄16年1月30日。

 討ち入りの日は満月とされ、雪もあり明るい夜だったとさているが、旧暦だと新月、三日月なので暗かったのではと推測する。

 我が故郷の二本松には、代々「必殺を期すには、斬らずに突くべし」という刀法が伝わっている。これは、浅野内匠頭と二本松藩初代藩主・丹羽光重の繋がりを示す逸話から、いつしか伝統となったものだ。

 丹羽公は、吉良上野介を討ち損じたとの報に接し、「何故、浅野公は斬りつけたのか、斬りつけずに突けばよかったものを!」と、ひどく悔しがったという。

 以来、二本松に於いては「斬らずに突け」が伝統となった。

 二本松少年隊の成田才次郎が出陣の際に父から訓されたのも、この「斬らずに突け!」だったという。

 その才次郎。大壇口から敗走中の混乱で隊士はバラバラになってしまい、単独で二本松城下の郭内まで戻るも戦意は尚も旺盛だった。

 「必ず敵将を斃してやる」そこで一の丁の物陰に潜んでいたところ、馬上豊かに立派な武士が一隊を率いてやって来るのが見えた。

 長州藩士・白井小四郎が率いる長州藩の部隊だった。

 才次郎、隊列が目前に来るまで充分に引き付け、此処ぞ!というところで、大刀をまっすぐに構えるや、一気に先頭の白井に向って突進した。

 しかし、歴戦の長州兵は、この遮二無二突進する小さな刺客に即座に反応し、隊長を護るべく馬前に出る。

 「子どもじゃ、手を出すでない」

 白井は、突っ込んで来るのが子供だと瞬時に見抜き、兵を制した。

 それが徒となった。

 才次郎の剣は、狙い違わずこの敵将の脇の下から胸部を突き刺した。

 白井、どうっと落馬。

 驚愕した長州兵らは慌てて才次郎を捕えようとするが、才次郎に近寄ることも出来ず、已む無く鉄砲を使い、漸くこの小さな勇士を倒すことが出来た。

 このとき才次郎、14歳。

 少年への一瞬の憐憫が自らの死を招いたこの長州の将・白井小四郎の墓前には、今でも多くの参詣者からの香華が絶えることはない。

 会津白虎隊士の構成年齢が16~17歳だったことに対し、二本松少年隊の最年少隊士の年齢は僅か12歳。

 会津武士道の昇華を白虎隊に例えるのなら、二本松少年隊は正しく二本松武士道の昇華そのものだろう。

 浅野公と吉良公にしろ、東軍と西軍にしろ、それは喩え敵味方と雖もその生き様は今を生きる我々に何かを示唆しているのではなかろうか。

 今、我々は先人の覇気に学ばねばならない。合掌。

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2013年12月13日

武士とは即刻、「やられたらやり返す」というのが本道である


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 いやぁ~、昨夜はチョッと飲み過ぎた。相変わらず学習能力に乏しいようだ。

 転戦した場末のスナックでは気分良さそうに「俵星玄播」を歌ってたオッサンがいたが、この歌は子供の頃から散々実兄に聴かされたので、自分でも歌えないことはない(笑)

 「ときに元禄15年12月14日・・・」、赤穂浪士の精神的支柱となったのが、陸奥国会津若松城下生まれの山鹿素行(やまがそこう)という人物だ。

 山鹿素行というと一般には「山鹿流軍学の祖」として知られているが、実は、江戸時代に於ける武士道の理論を確立した人であり、山鹿の門人達が素行の談話を筆記した「山鹿語類」は日本人必読の著である。

 また、尊皇愛国の書として有名な「中朝事実」で山鹿は、世の学者の外国(主として漢土)崇拝を批判し、皇統の一貫を根拠に、「日本こそ万国に卓越した中華・中国と呼ぶに相応しい国である」との日本主義を主張した人物でもある。

 王朝の度々変わった漢土に対し、日本は天子の地位を侵すような不義不道の者がいなかった為に皇統が一貫していると、日本の卓越性を強調している。

 江戸時代の267年の歴史の中で赤穂藩の様な理不尽な御家断絶や御家騒動は他にもあったが、唯一、赤穂藩の四十七士だけが「義士」と呼ばれ「武士道の華」と評価されたのは、山鹿素行の「正義の遂行」の本義に基づく教えが在ったからだと言ってもいいだろう。

  だが一方で、忠臣蔵の討ち入りに「大義」などではなく、単なる「打算」だと断じる批評家もいる。

 「大石内蔵助は忠義心によって討ち入らなければ大石家は山科で帰農し、そのまま埋もれただろうが、けれど吉良を討ち取った結果、子孫は本家の浅野家に千五百石の高録で召し抱えられた」

 この事実をして、「忠義ばかりでなく、子孫の将来まで考えて討ち入った」と断じるが、こういう批評は武士の美学というものを理解していない、軽々しい戯言でしかない。

 「葉隠」では、赤穂浪士の討ち入りに触れた部分がある。

 「赤穂浪士の仇討ちも、泉岳寺で腹を切らなかったのが落度と言うべきだ。それに主君が死んで、敵を討つまでの間が長過ぎる。もしもその間に、吉良殿が病死でもなされた時にはどうにもならないではないか」

  仇討ちというのは緻密な計画でやるものではなく、武士とは即刻、「やられたらやり返す」というのが本道で、事の「成否」は問題ではなく、「成否」よりも行為自体に意味が在るという。

 その上で赤穂の武士を「上方の人間は小利口だから世間から褒められる様にするのは上手である」と嘲笑している。

 赤穂浪士の討ち入りを打算的と見るか否かは夫々だろうが、「仮名手本忠臣蔵」が日本人の美学を現し、多くの国民から愛されているのは確かだ。

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2013年12月12日

山水三千世界を万里一空に入れ満天地とも攬る(宮本武蔵)


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 一昨日の通夜に引き続き、昨日は叔父の葬儀告別式に参列。しめやかながらも孫や曾孫らの明るさが叔父の人柄を現していた。座ったまま亡くなってた死に様は正に山岡鉄舟か達磨大師。改めて大したものだと思う。

 別れというものは悲しいことではあるが、死別に限らず、生きていれば別離というものは避けては通れない必然である。

 宮本武蔵といえば「五輪書」が有名だが、死の直前、弟子らに「独行道」という21ヶ条の置文を遺している。

 一、世々の道をそむく事なし。
 一、身にたのしみをたくまず。
 一、よろづに依枯の心なし。
 一、身をあさく思、世をふかく思ふ。
 一、一生の間欲心思はず。
 一、我事におゐて後悔をせず。
 一、善悪に他をねたむ心なし。
 一、いづれの道にも、わかれをかなしまず。
 一、自他共にうらみかこつ心なし。
 一、恋慕の道思ひよるこゝろなし。
 一、物毎に数奇このむ事なし。
 一、私宅におゐてのぞむ心なし。
 一、身ひとつに美食をこのまず。
 一、末々代物なる古き道具所持せず。
 一、わが身にいたり物いみする事なし。
 一、兵具は格別、余の道具たしなまず。
 一、道におゐては、死をいとはず思ふ。
 一、老身に財宝所領もちゆる心なし。
 一、仏神は貴し、仏神をたのまず。
 一、身を捨ても名利はすてず。
 一、常に兵法の道をはなれず。

 この中に「いづれの道にもわかれをかなしまず」というものが記されてある。

 それでは、宮本武蔵という人物は血も涙も無い冷血漢だったのだろうか。

 例えば、酒を嫌いな人が「我、酒を絶つ」、或いはタバコを吸わない者が「タバコを絶つ」などと書かない。

 飲みたいが、或いは吸いたいが止めようと自分に誓願した者が「絶つ」と言ってこそ、人に訴えるものがあるのではないか。

 武蔵は寧ろ、人一倍感情豊かで熱血漢だったのではないだろうか。別離に人並み以上の涙を流しながら、涙を見せまいと努力した人間に違いない。

 愚生も見倣いたいと思うが実践するのは中々難しい。

 宮本武蔵の「五輪書」は、山本常朝の「葉隠」に在る「武士道とは死ぬことと見つけたり」という訓えよりも、もっとクールで合理的な武士道である。

 武蔵は、「死ぬということ位なら、僧侶でも女でも百姓その他でも弁えている、武士に限ったことではない」と言い放つ。

 「武士が兵法を実行する場合は、何事に於いても他人より優れている事が第一の条件である。個人対個人の戦いに勝ち、数人の戦いに勝つのは、主君の為、我が身の為、名を上げて身を立てる為である」という。

 その上で、「万事に役立つ様に心掛けてこそ兵法の徳というものだ」と訓える。

 要するに武蔵は、武士が死ぬことを覚悟しているのは当然で、その本質は「常に勝つこと」であり、それによって名を上げる事が目的だというのだ。

 これは「葉隠」の武士道が主従関係に重きを置いているのに対して、武蔵の武士道は戦国の世を如何に勝ち抜き、如何に生きていくかの「兵法」であったかが理解出来る。

 「五輪書」に、「山水三千世界を万里一空に入れ、満天地とも攬(と)る」という一節がある。

 「万里一空」とは、「世界はどこまでいっても空は一つ」「全てのものは一つの世界に留まっている」という考え方で、武蔵の思想の根本とも言えるものだ。

 「動揺せず、常に冷静な気持ちで事に当たる」「一つの目標に向かって精進する」などの意味として解釈されるが、これが実に難しい。

 何か事が起これば冷静さなど忘れ右往左往。右翼人として政局に一喜一憂し、「時局厳正批判」を尤もらしく披歴しているが、目先のことを語ることや喧々諤々の議論に何の意味もない。

 天地自然や人間の大道を心得え、時の動きに従いつつも正義を踏み外さず、危機に際しても平時と同じ様に対処出来ること、理論よりもこういう心構えこそ大事。男の修業とは斯く在りたいものだ。

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2013年12月10日

抑々「死刑制度」は「仇討ち禁止」や「決闘禁止」に代わるものだ


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 「死刑」については賛否両論、この問題が持ち上がると結論の出ない議論が延々続く。愚生は「死刑」は大賛成。廃止するなら「有期刑」をというより、「仇討ち禁止令の撤廃を!」と思っている(笑)

 「死刑廃止」を訴える連中は、「国際人権基準」がどうのだとか、「非人道的」とか、「生きる権利の侵害」だとか、「死刑囚の資料を精査する十分な時間があったとは思えない」など、愚にも付かぬ理由を挙げる。 

 抑々「死刑制度」は、「仇討ち禁止」や「決闘禁止」に代わるものだ。

 明治6年(1873)2月、司法卿・江藤新平は「復讐禁止令(仇討ち禁止令。太政官布告第37号)」を発令した。

 幕末から維新期の派閥、政論の対立による暗殺とその報復という面があったところから、この種の紛争を断ち切る為のが目的だったというが、明治22年には「決闘罪ニ関スル法令」も発布され、敵討ちや復讐は禁じられた。

 主君や親兄弟などを殺した者を討ち取って恨みを晴らすことは、日本人の美意識の顕れでもある。「赤穂浪士(忠臣蔵)」がその典型だろう。

 江戸時代、武士階級で慣習として公認され、「敵討ち」と認められれば罪に問われなかったばかりか、それは美化され、大衆の支持を得た。

 現代も死刑制度を容認する国民が8割以上もいるのは、国が遺族に代わって遺恨を晴らして欲しいという気持ちの顕れであり、痛切な哀願でもある。

 「遺恨あり!」という映画を知ってるだろうか。

 江戸末期、親が藩の策謀で殺され、倅はやっとの思いで仇を討つが、それは明治の「仇討ち禁止令」後のことで、残念ながら罪に問われてしまう。実話に基いた物語なので、実に見応えのある映画だ。

 犯人への「仇討ち」も「決闘」も出来ない遺族に代わり、「遺恨を晴らす」ことこそが「死刑制度」の大きな意味だ。

 「生きる権利の侵害」などとくだらない理由で死刑執行しないのでは、それこそ遺族の無念は晴れることは無いし、憲法下での「法の下の平等」を犯してるばかりか、刑事訴訟法の意味も問われかねない。

 袴田死刑囚の様に司法による不当捜査により冤罪の可能性のある事件は別として、「死刑」判決が下され、控訴審で決定されたなら「刑事訴訟法」に基き、確定から6か月以内に粛々と執行すべきなのだ。

 まぁそんなとこですが、「仇討ち」復活ともなれば「返り討ち」というのもあるからなぁ。まぁそんな時は「助太刀」っていう手もあるか(笑)

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2013年12月09日

歴史というものは「中立・公正」つまりは「是」と「非」の両論を記述すべき


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 最高裁は、「教科書は内容が正確且つ中立・公正であり当該学校の目的、教育目標、教科内容に適合し、内容の程度が児童生徒の心身の発達段階に応じたもので、児童生徒の使用の便宜に適うものでなくてはならない」としている。

 斯かる認識からすれば、「歴史」というものは「中立・公正」に、つまりは「是」と「非」の両論を記述すべきであるが、現実には中立・公正な両論併記というより、「日本悪玉論」に基づく自虐史観が罷り通っている。

 我が国の近代史を見れば、「ペリー来航」や「明治維新」の意味を教えず、単に年表の記憶に重点が置かれ、「日清・日露戦争」や「大東亜戦争」の意義も教えず、「日韓併合」や「南京事件」は我が国の蛮行だと断罪する。

 例えば「南京事件」にしても抑々存在していない事件であり、真相はジョン・ラーベという男のでっち上げに過ぎない。

 ジョン・ラーべは、昭和12年12月に日本軍が南京を占領した時に南京に残っていた欧米人15人によって組織された「安全区国際委員会」の委員長である。

 「安全区」は南京の一角を中立地帯にして、一般市民を戦火から守る為に設置されたものだ。

 ジョン・ラーベは、支那では住民保護に当たった人道主義者「中国のシンドラー」として讃えられてはいるが、実際はどうだったか。

 先ず何故、ラーベが委員長に選ばれたのかである。

 ラーベはドイツの電機メーカー「ジーメンス(Siemens)」の南京支社長で、当時のドイツは、蒋介石政権に軍事顧問団を送り込み中国軍の近代化を指導するとともに、ドイツ製の武器を大量に売り込んでいた。

 産業連盟ぐるみで輸出を行い、支那はドイツの第一のお得意様で「ジーメンス」もその中心メーカーであり、蒋介石と親密な関係を持つドイツのラーベが委員長に選ばれたのは当然の成り行きだった。

 軍事顧問団のファルケルハウンゼン将軍は、日本に対する先制攻撃を蒋介石に提案していたくらいだから、その仲間のラーベが反日的で中国人に同情的だったのは不思議ではない。

 従って、南京事件の証拠とされている「ラーベ日記」には、我が国や日本軍に対する極めて悪意のある描写が多いのは当然でもある。

 あの狭い安全区に20万人の市民がいた。そこを自由に行き来していたラーベ。それでも日記にはたったの一件も殺害を見たとは書いていない。

 全ては「こう言っている」「ああ言っている」という伝聞でしかない。

 事実、「国際委員会」の公式記録「南京安全区の記録」には、南京の人口はずっと20万人だったとハッキリと書いてある。

 ところがラーベは、ヒットラーへの「上申書」に、「5~6万人の民間人が殺された」と、虚偽の報告する。

 要するに、南京事件とはジョン・ラーベの書いた「ラーべ日記」やヒットラーへの「上申書」を証拠に捏造されたもので、全くの事実無根ということである。

 歴史の問題は、一国の存亡に関わる大事である。

 相変わらず我が国では贖罪意識から中韓に阿る輩が少なくないが、歴史というのは一面だけではない。一方的な思い込みで歴史を語ることがあってはならない。

 「平和友好」とは、自国の公正・公平な歴史を学び、互いに尊重し合うもので、相手国の一方的な歴史を受け容れることではない。

 親中派が真に「平和友好」を願うなら、先ずは「南京大屠殺記念館」や各戦争記念館に展示してあるインチキ写真を撤去するよう抗議すべきであり、傲岸不遜な中共に対し猛省を促すべきだ。対韓国も然りである。

 余談だが、「南京大屠殺記念館」と、「虐殺」を「屠殺」に準えているが、「虐殺」を「屠殺」に準え様ものなら、「許すべからざる差別表現」として、部落解放同盟と屠場労組の苛烈な糾弾が展開されたことを知る人は多い。

 しかし、「沖縄集団自決軍命令」の証拠とされた大江健三郎の「沖縄ノート」の一節には、「25年ぶりの屠殺者と生き残りの再会・・・」と綴られているのだが、大江の「沖縄ノート」だけは糾弾も出版社が回収もされることはない。

 それどころかアホな裁判官がこれを証拠として採用し、摩訶不思議な判決を出しす始末。大江健三郎のみ「神格化」される理由は何か。

 「南京大屠殺」にしても、「反日」「自虐史観」では、左翼にしろ部落解放同盟にしろ共闘するという事を証明している様なものだろう。

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2013年12月08日

大東亜戦争後、アジアの国々は独立を果たし「人種平等の原則」は成立した


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 昭和16(1941)年12月8日未明、大日本帝国海軍は真珠湾を攻撃、東アジアに永遠の平和を確立し、我が国の光栄の保全を期す戦いの火蓋が切られた。

 我が国にとって先の大戦は結果的に敗れはしたが、アジア諸民族の独立と復権を齎し、「開戦の詔勅」で示された大義と、アジアの「希望の星」としての役割は見事に果たしたと言えよう。

 タイのククリットプラモード元首相が実に解り易く述べている。

 「日本のお蔭でアジア諸国は全て独立した。日本というお母さんは難産して母体を害なったが、生まれた子供はスクスク育っている。今日、東南アジアの諸国民が、米・英と対等に話が出来るのは一体誰のお蔭であるのか。それは身を殺して仁を為した日本というお母さんが在った為である。12月8日は、一身を賭して重大な決心をされた日であり、我々は決して忘れてはならない」

 米国では、12月7日(現地時間)を汚名の日「リメンバーパールハーバー」とし、日本を卑怯な国として糾弾して止まない。70年以上経った今でも依然として我が国は、「騙まし討ち」の汚名を着せられ続けている。

 汚名を着せられた原因は、駐米日本大使が宣戦布告の覚書を渡し遅れた職務怠慢に他ならないが、抑抑、何故、開戦を決意し、真珠湾攻撃に至ったかが問題で、それには1953年のペリー来航時代迄遡らなければ理解出来まい。

 我が国は強力な中央集権国家を形成しようと江戸時代の封建制度を改め「明治維新」の大業を成し遂げる。

 15世紀の大航海時代以来、白人による世界制覇の波がアジアにも押し寄せ、アジアは次々と列強に蚕食され植民地となっていった。その間に勃発した「日清・日露戦争」も避けては通れない宿命的な歴史だったのだ。

 「日清・日露戦争」での日本大勝利の報は、固唾を呑んで見守っていた世界の人々を驚嘆させ、特に有色人種に与えた影響は強烈だった。

 日露戦争勝利から15年後、パリ講和会議で我が国は、「人種平等の原則」を国際連盟規約に載せることを提案する。

 しかし、議長を務める米国大統領ウイルソンが拒絶し否決される。「有色人種に人権など必要無い」との差別が横溢していたのは明らかだった。

 その後、世界は第二次世界大戦に突入し、我が国もABCD包囲網や最後通牒を突き付けられ、最早生き残る道は戦争しかないとの決断に至った。

 大東亜戦争の大義は「開戦の詔勅」に御示し遊ばされいる通りである。

 昭和26(1951)年、上院軍事外交委員会でマッカーサーが、「日本が戦争に飛び込んで行った動機は、安全保障の必要に迫られた為である」と告白している様に、我が国は決して騙まし討ちも、侵略もしていないのだ。

 我が国は戦いに敗れはしたが、大東亜戦争後、アジアの国々は独立を果たし、「人種平等の原則」は成立した。その事実をしても、如何に大東亜戦争が聖戦だったかが理解出来よう。

 昭和20年9月2日、戦艦ミズーリの甲板上で、重光葵外相と梅津参謀総長が降伏文書に調印する。

 上海爆弾事件で右足を失った重光全権は、ステッキを頼りに義足を引き摺りながら喘ぎ喘ぎ上った。調印を前に一杯の水を所望するが冷たく拒否された。

 卑怯者の「ジャップ」にやる水などないという憎悪が目に見える様だ。今も糾弾して止まない「リメンバーパールハーバー」も、結局は日本人への偏見と差別であり、先の大戦を反省すべきは我が国ではなく米国である。

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2013年12月07日

一族の者が皆礼儀を心得て、親子兄弟の間に不和が無いこと(佐久間象山)


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 司馬遼太郎の「峠」を読み出した。昔読んだが忘れてた部分もあるし、新たな発見もある。本というのもそれっきりのものもあればまた出会うものもあり、正に邂逅だと思う。

 河井継之助という人物は実にいい。後々綴りたいと思う。

 継之助が師事した人物に佐久間象山がいる。象山は愚生と姓が同じということもあり、気になる歴史上の人物の一人だが、継之助は象山の尊大さや、勿体付ける教え方に辟易し遠ざかった。

 象山は、その尊大な物腰から毀誉褒貶相半ばする人物として知られているが、自ら「天下の師」を任じ、その態度は人を見下す倣岸不遜な人物だったという。言行は兎も角として幕末に於ける最高の思想家には違いない。

 身長五尺八寸、道行く時は萌黄色の五泉平の馬乗り袴を穿き、黒文字肩衣に白縮みの帷子を羽織り、備前長光の白柄の太刀を差していたというから、まるで自己顕示欲の俗物が歩いている様なものだ。

 その為か、京都三条木屋町で「人斬り彦斎(げんさい)」こと河上彦斎に暗殺された時も、仕えていた信州松代藩では同情する者も少なく、佐久間家は断絶の処分を受けたというから、如何に嫌われていたことが分かる。

 だが、その暗殺者の河上彦斎は象山を「絶代の豪傑」と呼び、幕末の傑物、山岡鉄舟は「人傑」と慕っていた。

 吉田松陰も象山の弟子で、ペリー艦隊への渡航計画を企てたのも象山だった。その為に松陰が縛についた時には同時に象山も連座して同罪となり、国元の信州松代で蟄居することになる。

 その時書いた「省諐(せいけん)録」というものがある。(せいけんとは、過ちを省みるという意味)その中の一つに次の様な一節がある。

 「君子には五つの楽しみがある」と始まる教えは。

 一つは、財産や地位とは関係なく、一族の者が皆礼儀を心得て、親子兄弟の間に不和が無いこと。

 二つは、金品の授受をいい加減にせず、心を清く保ち、内には妻子に恥じず、外には民衆に恥じないこと。

 三つは、「聖学」を学んで天地自然や人間の大道を心得え、時の動きに従いつつも正義を踏み外さず、危機に際しても平時と同じ様に対処出来ること。

 四つは、西洋人が科学を発達させた後に生まれて、孔子や孟子の知らなかった処の「理」を知ること。

 五つは、東洋の道徳と西洋の芸術(技術)と、この両方について余すところ無く詳しく研究し、これを民衆の生活に役立て国恩に報ずること。

 この象山の教えが後に、「和魂洋才」となって、アジアで唯一の近代化を成し遂げることが出来るのである。

 思えば敗戦後の我が国は、「洋風カブレ」ばかりで、この「和魂」、つまり伝統的精神を忘却しているところに今日の悲劇があるのではないだろうか。

 大河ドラマの「八重の桜」で象山は、山本覚馬にこう言い放つ。

 「新しいことをしようとする者、改革をしようとする者には必ず邪魔をする者が現れる。何故なら、既得権者は新しい動きを放置すれば、忽ち自分の拠って立つ基盤を失ってしまうからだ。それらを蹴散らして前へ!」

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2013年12月06日

その心を汚さず鏡の様に磨き上げておくことが身を修める根本である(中江藤樹)

 
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 日本最初の陽明学者と言われる人物は中江藤樹だ。徳川幕府は儒教の朱子学を盛んにしたが、朱子学が形式や礼儀を重んじたのに対し、明の学者・王陽明が唱えた陽明学は心の持ち方を大切にする教えでもある。

 王陽明は、若い頃は生活もだらしなく、無頼の徒で、仁侠道にも溺れたり、武道に凝り過ぎたり、詩や仏法に惑溺したりしたという。

 「峠」の主人公・河井継之助もこの陽明学を重んじ、王陽明を敬慕していた為か、それ故にどこか王陽明を彷彿させ、どことなく破天荒でもある。

 王陽明は終いに儒教に辿り着き、独自の学派を拓く。「知識」は「行動」と一つであり、人を狂人にし、常に人を行動へと駆り立てる。

 因みに愚生の所属していた防共挺身隊の初代・福田進の父は「福田素顕」だが本名は「福田狂二」、社会主義者でも有名だった人物だ。

 この「狂」という字は単に「狂った」という意味ではなく、陽明学の教える「狂」であり、「狂」の思想は王陽明が「伝習録」で訓えたものでもある。

 陽明学は「知行合一」の教えだということを知ってる人は多いだろう。言葉にしたことは必ず実行するという「知行合一」は陽明学の究極の思考だ。

 逆を言えば「実行できるかどうか分からないことは言葉にしない」ということでもあり、自分の発言には自ら責任を課していることを意味する。

 「良知に至る」というが、人は誰でも生まれながらにして美しい心、即ち「良知」を持っている。その心を汚さず、鏡の様に磨き上げておくことが身を修める根本だという意味だ。

 悪人の「性善説」とはチョッと違う。悪いことをするというのは「良知」が乏しく、自分自身を磨き上げることを怠ったということで、死刑廃止を訴える人権派弁護士らのいう「性善説」は本末転倒と言う他はない。

 最近の政治家にしても言葉が軽いのは、こうした陽明学の意味を知らず、行動に責任も持てない輩が多いからだ。

 陽明学は「志を立てる」ところから始まり、「行動に昇華する」ことで終結する。つまり、例えば政治家を志すにしても、自分の言葉に責任を持ち、自らが率先垂範して国民の模範となることが大事であるということだ。

 陽明学は人間の格位を「聖賢」「狂」「狷(けん)」「卿愿(きょうげん)」の四つに分けており、孟子はこれを注釈している。

 「狂」は理想主義だが言行不一致。「狷」は不潔を潔しとしないもの。「卿愿(郷愿)」は世俗と歩調をあわせた風俗とし、徳の賊(道徳家を装って郷里の評判を得ようとする俗物)だとした。

 我が国の国会や政治家を見渡せば、正に「卿愿の如し」。政治家は中身の無い俗物と化し、政治は最早党利党略の風俗に成り下がっている。

 要するに陽明学派の「狂」は、「理想を高く持ち、何の虚飾も隠し立てもなく、心のままに率直に行動すること」であり、「狂」とは、一つの信念に向かって脇目もふらずに突進することである。

 因みに福田進の実弟は「狂介」という名だが、第三代、第九代内閣総理大臣に就いた山県有朋もまた自らを「狂介」と号している。

 また「狂」は、「もし過失があれば改めさえすればよい」とする臨機応変的なものでもあり、世俗社会の常識に対し果敢に挑戦する「実践的理想主義」とも言える思想とも言えよう。

 河井継之助が、当時流行していた堅物な衒学臭げな尊皇カブレの徒輩とどこか違うのは、陽明学の「実践的理想主義」故のものだったからではなかろうか。

 自分の行動を「狂挙」と敢えて言える為には、歴史を見つめる「冷静な目」が必要であり、この「狂」の精神こそが、明治維新への道と切り開く転換点となったと言っても過言ではない。

 中江藤樹は母親を養う為に、「今、孝行を尽くさなければ後悔しても間に合わない」と武士を辞め故郷へ帰る。

 刀を売り資金を作り、貧しいながら老母に仕え、村人に学問を教えた。噂を聞いて遠近から藤樹の人柄を慕って来る者は絶えなかった。

 講義を受けていた中の一人の馬方が、客が馬の鞍に結びつけたまま忘れた二百両入りの財布を八里も離れた宿場まで届けるも礼金を享けなかったという話は有名で、偶々この評判を聞いたのが、熊沢蕃山だった。

 「貴男の様な立派な御武家にお教えする様な学も徳もない」と、師となることを固く断る藤樹に蕃山は、門前に二日間座り込み漸く入門が叶った。

 後に蕃山は岡山藩に仕え、藤樹から教わった学問を政治の上に大きく活かした。

 藤樹は41歳の若さで没するも、多くの門人に熱心に、真面目に、丁寧に教えた故に「近江聖人」と讃えられ、今なお尊敬され続けている。

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cordial8317 at 08:21|PermalinkComments(0)

2013年12月05日

いのちのバトンを受けついで いまここに 自分の番を生きている


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 相田みつをの「自分の番 いのちのバトン」という詩がある。

 父と母で二人
 父と母の両親で四人
 そのまた両親で八人
 こうしてかぞえてゆくと十代前で
 千二十四人
 二十代前では・・・?
 なんと百万人を越すんです
 過去無量の
 いのちのバトンを受けついで
 いまここに
 自分の番を生きている
 それが
 あなたのいのちです
 それがわたしのいのちです

 福島瑞穂の著書で「生まない選択 子供を持たない楽しさ」というトンデモ本がある。当の本人には子供がいないかというとそうではない。

 「子供を生まない」「子供を持たない」とは、「男女共同参画社会」を叫ぶ性的変質者らしい発想だが、子供が出来ないなら兎も角、実に身勝手なものだ。

 今の自分が存在しているのは、沢山の御先祖様のお蔭であり、子供が必要ないということは、自分の代でその永い歴史が終わるということでもある。

 何より、家庭とは、家族とは、未熟な夫婦が子供が出来ることで、精神的にも、肉体的にも共に成長して行くものだと思っている。

 同じ様に、国にも歴史がある。

 我が国は歴史上、人口移動の殆どない稀有な国だ。日本列島に存在していた方々は皆、我々の御先祖様なのである。

 その共通の御先祖様からの流れの中に今日の我々が存在している。 我が国の歴史は、正に我々の御先祖様の歩みなのである。

 その祖先の歴史を貶し、罵る連中がいる。

 これ即ち御先祖様の歩みを否定していることであり、つまりそれは、自分という存在自体を否定していることと同じである。

 問題にぶつかれば、自分の短い人生の中での経験から解決を急ぐよりも、先人の多くの経験から学ぶことが懸命であり、御先祖様の営為を学ぶことこそが、歴史を学ぶことであり、問題解決の近道でもある。

 「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」とは蓋し名言である。

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cordial8317 at 05:44|PermalinkComments(0)

2013年12月03日

日本臣民ハ法律ノ範圍内ニ於テ言論著作印行集會及結社ノ自由ヲ有ス


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 「特定秘密保護法案」に反対するデモを「テロ行為」と准えた石破幹事長がやり玉に挙げられている。マスコミは恣意的に「市民デモ」と表記するが、ならばこれが右翼団体によるデモならどうだろう。

 在特会のヘイトスピーチにしても、「不良朝鮮人を殺せ!」だとか「在日を叩き出せ!」というのは差別表現と批判するが、この「朝鮮人」や「在日」を、「米国(アメリカ)人」に置き換えたら差別だと騒ぐのだろうか。

 マスコミにしろ、「市民デモ」の連中にしろ、憲法21条の「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する」という条項を金科玉条の如く振り翳すが、それは本末転倒と言わざるを得ない。

 現憲法では結社の自由や集会の自由、表現の自由が保障されている。憲法は国の最高法規であり、憲法が最優先されるのは当然である。

 だがどうだろう。右翼現役の頃、ビラ貼りで検挙され、さんざ街宣や抗議行動はやってきたが、街宣するにも「道路使用許可」が必要で、音量も規制される。

 街宣するにも警察にショバ代を払い、街宣時間も音量も規制されているし、国会議事堂や外国公使館周辺での街宣や拡声器での抗議活動は「静穏保持法案」によって禁止されている。

 「結社」も「表現」も「集会」も「自由」なら、ビラ貼りも自由だし、ショバ代も音量規制も、時間制限も明らかに憲法に抵触するものだろう。こうした矛盾には傍観を極め込みながら自分達に火の粉が被ると大騒ぎ。

 マスコミにしろ野党にしろ、「市民デモ」が良くて、右翼の街宣がダメな理由を教えて欲しいものだ。

 「道路交通法」や「静穏保持法案」や地方の「騒音防止条例」や今や憲法は国の基本法として機能しておらず、道交法や刑法より軽い法律と見做されているのだ。ならば、憲法こそ見直すべきであろう。

 中共による覇権主義の脅威が現実的になっている今、現憲法の見直しが困難ならば、「日本版NSC」「特定秘密保護法」「集団的自衛権行使」の所謂「三点セット」は、喫緊にやらなばならない最重要課題だ。

 「知る権利」も結構。ならば愚生も中共に密通を謀る国賊の輩は誰なのか、米国が掴んでいる情報こそ知りたいものだ。

 売国奴どもにしてみりゃ、「特定秘密保護法案」成立により日米の情報が共有され、己らの素性が暴かれるのが心配なだけだろう。

 「(特定秘密保護法案が)悪用される」と騒いでいるが、現憲法前文には「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼し・・・」とあり、悪いことをする人はいないという前提でこの憲法が作られている。

 「特定秘密保護法案」に反対する連中は「表現の自由を守れ!」「憲法を護れ!」というが、憲法を信用し、順守していないのはこの連中の方だろう。

 因みに、「大日本帝国憲法」第二十九條にはこう在る。

 「日本臣民ハ法律ノ範圍内ニ於テ言論著作印行集會及結社ノ自由ヲ有ス」。この「法律ノ範圍内ニ於テ」という、これが大事。

 「表現の自由」が何でもかんでも赦されるなら「放送禁止用語」も要らないだろう。マスコミは先ずはそこから始めりゃいい(笑)

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cordial8317 at 06:20|PermalinkComments(0)

2013年12月02日

言葉の多き・負け惜しみ・差し出口・言葉のすぐるは愛想なし!(良寛)


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 「我仏 隣の宝 婿舅 天下の軍 人の善悪」とは千利休の弟子・山上宗二。人の集まる所では決して口にしてはならないものを並べたもので、いわば茶道の教えのひとつである。

 この教えと同じ様に、人との付き合いの中での「戒め」を分かり易く教えたのが大愚良寛の「良寛戒語(九十戒)」だ。端折って書けば。

 言葉の多き・話の長き・表裏口・負け惜しみ・返らぬことを幾度も言う・人のことばを笑う・客の前に人を叱る・人を隔つることを言う・人の恥かくことを言う・人を嫉むことを言う・おれがこうした、こうした・もの言いのくどき・差し出口・手柄話・自慢話・減らず口・話の腰をおる・たやすく約束する・親切気にもの言う・酒に酔いてことわりを言う・己が氏素姓の高きを人に語る・人を敬いすぎる・神仏のことを軽々しく沙汰する・軽はずみにもの言う・さしたることもなきことを細々と言う・返事を聞こうとするはむつかし・人を侮ること・己の意地を言い通す・よく物の講釈をしたがる・田舎ものの江戸ことば・よく知らぬことを憚りなく言う・人の寝てからの大話・悟り臭き話・学者臭き話・茶人臭き話・言うこと言わぬ・くれると言うてくれぬ・あくびとともに念仏・・・

 「あゝ致しました、こう致しました、ましたましたのあまり重なる」「言い足らぬことは又つぎても言うべし」「言うたことは再び返らず」「ことばの過ぐるは愛想なし」

 嫁に行く人に与えた戒語には、「ゲラゲラ笑い、ふくれ面、無駄口など固く止めなさい」と訓える。

 どうだろう、各各感ずるものがあるだろう。 

 「災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。死ぬ時節には、死ぬがよく候。是ハこれ災難をのがるる妙法にて候」とは良寛。

 災難に遭ってしまうことは誰でもあること。それが何処でいつ起きるかは分からない。起こってしまった災難を取り消すことは出来ないし、災難に慌てふためいたりしてしまうと、過った対処をして災難を大きくしてしまうこともある。

 小さなことで慌てたり驚いたりしてばかりいれば、心の中で災難が大きくなってしまい、いざという時には冷静な判断は出来ないだろう。起こってしまった不幸には、「こういう時もある」と受け容れることも大事なのだ。

 人間、なるようにしかならないものだ。

 良寛は70歳にして若くて美しい貞心尼とめぐり逢い純真な恋をした。その貞心尼に看取られながら亡くなった。辞世の句は、「散る桜 残る桜も 散る桜」

 「もの言いのくどき」という戒めがあるが、「もの言い」とは「老人」という意味でもある。70の良寛が若い尼僧を口説くというのは「オイッ!」とツッコみたくもなるが、「戒語」というのは自分自身に対する戒めだったのだろう。

 まぁそんなとこですが、日々戒めるのもいいが、余り気にし過ぎると人間、こじんまりしてしまうので御注意為れたい。呵呵。

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cordial8317 at 06:05|PermalinkComments(1)

2013年12月01日

「防空識別圏」の設置は中国共産党一党独裁を崩壊させる千載一遇の好機


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 本日は朔日。あっという間に師走、一年というのは1歳は1㌔、40歳は40㌔、80歳は80㌔と年齢を掛けたスピードで過ぎるというが全くその通りだと思う。

 神饌を新しくし、神前にて、畏れ多くも天皇皇后両陛下のインド行啓の安泰と弥栄、そして心願成就を祈念した。

 インドへの両陛下の行幸は日印の友好親善は言うに及ばず、日印の関係強化は中共への牽制となることは間違いないが、安倍による皇室の政治利用の感も否めなくもない。

 中国共産党が東シナ海での「防空識別圏」を設定し、連日、米軍機が飛行してみたり、自衛隊も追随してみたり、中共側も「中共軍がスクランブル発進した!」だとかありもしないことを発表してみたり、駆け引きが続いている。

 こうした中共の策謀に嵌り、「日中間で戦争となるだろう」と予測してる専門家も多いが、中共が本気で干戈を交える覚悟もなく、恫喝するのが関の山。

 中共軍より自衛隊の方が兵器も個人の資質も遥かに高い。中共軍が尖閣上陸を強行し、戦争に突入した場合には自衛隊の能力の高さと優秀性を世界に誇示することになるし、我が国にとってそれはまとまな国家となる好機となるだろう。

 更に、尖閣での紛争に米国が同盟国として参戦するとなれば、中共側は短期間で重大な被害を受けるのは必至で、それを承知でやるとも思えないし、そこまでの覚悟があるとも思えない。

 自衛隊がもし一時的にでも中共軍を追い払うことが出来なかったとしても、国民が領土主権の重要性に目覚め、憲法や国防力を見直す契機になるとしたならそれはそれで御の字だ。

 だが、中共の場合はそうはいかない。紛争での失態は、習近平体制の威厳を失墜させることとなり、結果、周辺国への恫喝も通じず、巨大な軍事力を背景に弾圧されている国々は独立に向けて自信を深めることになるだろう。

 中共なんぞ恐れるに足らないチンピラ国家、いっそ尖閣列島で紛争が勃発してくれれば、一気に共産主義体制を崩壊させる一因となり、我が国は世界から称賛されるに違いない。

 未だ、日本軍のアジア侵略を糾弾し、「日本は過去の過ちを反省し、アジアの方々へ謝罪すべし!」との愚論を散見する。

 我が国がアジアの方々に謝罪する必要があるというなら、その最大の過ちは中国共産党の跳梁跋扈を許したことであり、最大の償いはその共産主義という「癌」を取除く以外にない。

 尖閣での戦争が勃発し、自衛隊が中共軍を圧倒することによって、西沙諸島、南沙諸島、或いはインドやカシミール地方で中共の無法、虐政に呻吟している国々にとって希望の灯りとなり、アジアは愚か世界の平和に大きく貢献するだろう。

 尖閣諸島での戦争は、共産主義一党独裁体制を崩壊させる好機でもあり、「防空識別圏」の設置は見方を変えれば千載一遇の好機なのかも知れない。

 まぁそんなとこで、師走朔日、皆様方の家内安泰と商売繁盛を祈っております。売り上げが伸びたら、しがない右翼浪人に愛の手を(笑)

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cordial8317 at 06:25|PermalinkComments(0)