2013年10月

2013年10月31日

稽古とは一より習い十を知り十よりかへるもとのその一(千利休)


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 「稽古」の「稽」とは「考える」という意味があり、「稽古」とは「古の道を考える」ことであり、古書を紐解いて古人の教えを学ぶ、それが「稽古」の本来の意味だ。千利休も「稽古」の何たるかを喝破している。

 「稽古とは一より習い十を知り十よりかへるもとのその一」

 稽古というのは、初めて一を習う時と、十まで習い元の一に戻って再び一を習う時とでは、人の心は全く変わっているもの。

 「十まで習ったからこれでよい」と思った人の進歩はそれで止まってしまい、その真意をつかむことは出来ないとの教えだ。

 稽古に稽古を重ね、一応全てを知り尽くしたつもりでいてもそれで満足すればそれまでで、「もとのその一」という初心が大事。

 「初心忘れるべからず」とは蓋し名言である。

 千利休は豊臣秀吉の逆鱗に触れ死罪となったが、弟子の山上宗二も、やはり秀吉の怒りに触れて追放された後に悲惨な死を遂げている。

 手柄を自慢げに語る秀吉に宗二は、「我仏(わがほとけ)、隣の宝、婿舅、天下の軍(いくさ)、人の善悪(よしあし)」と二度繰り返したのが原因だった。

 これは何かというと、人の集まるところでは口にしてはならぬ話題で、茶道に於ける厳しい約束事のひとつでもある。

 諫言するに当って、死罪も厭しがることもなく、その罰をも諒とする宗二の覚悟と潔さは凡人には分かるまい。

 諫言とは斯く在るべきであり、相手を批判し、苦言を呈するのもいいが、己の発した言葉にもまた責任と覚悟が必要だということだろう。

 千利休や山上宗二ら茶人というのは反骨精神に溢れた人物が多いということだろうが、茶道の「一期一会」の覚悟こそがそうさせるのかも知れない。

 茶道でいう「一期一会」とは、「この年、この月、この日の茶事は生涯この一度限り」であり、この覚悟こそが茶湯の根本でもある。

 「一期一会」という言葉は知っていても、本当の意味も、その言葉に込められた覚悟も理解している人は少ないのではなかろうか。

 井伊直弼が記したとされる「茶湯一会集」にはこう在る。

 「抑(そもそも)茶湯の交会は、一期一会といひて、たとへば幾度おなじ主客交会するとも、今日の会にふたたびかへらざる事を思へば、実に我一世一度の会なり、去るにより、主人は万事に心を配り、聊かも麁末(そまつ)なきやう深切実意を尽し、客にも比会に又逢へがたき事を弁え、亭主の趣向何一つおろかならるを感心し、実意を以て交るべきなり、是を一期一会という」

 要は、今の一瞬は一生涯で一度限りだと覚悟して事に臨めということだ。

 野村秋介は「美は一度限り」と言った。これは正に「一期一会」と通ずる覚悟であり、野村秋介の生き様の淵源は此処に在るのではなかろうか。

 こうした偉人の覚悟を持つことは凡人の愚生には無理だが、せめて人生意気に感じ、人との出会い、邂逅を大切に生きて行こうと思う。

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2013年10月30日

10月30日は教育勅語渙発記念日。「君国に忠、親に孝なるは最も現実なる道徳である」


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 本日10月30日は、明治23(1890)年に「教育ニ関スル勅語(教育勅語)」が渙発された記念すべき日である。

 道徳教育で大事なものは幼年期の「躾」であり、道徳というものを概念的、論理的に捉えようとするのではなく、学んだことを如何に実践するか、行動で表せるかが大事だ。

 信仰や宗教でもそうだが、「道」というものは日常の実践であり、特別に意識するのではなく、日常を過ごしながら身に付き、現れてくるものなのだ。

 道徳教育の根本は明治天皇の恩徳により渙発された「教育勅語」に示されている通り、「忠孝の道」を確立することに在る。

 愚生の拙ブログ「爆ちゃん吼える」の冒頭には、昭和天皇に論語の漢籍の進講をされたこともある戦前の日本を代表する倫理哲学者・哲学者・西晋一郎の言葉を記している。

 「我が民族の将来と国家の前途を思うは人間の最も真剣なる感情であり、君国に忠、親に孝なるは最も現実なる道徳である。之を離れては人類愛も世界的正義も空想に過ぎない」

 要するに、「君国に忠、親に孝」これを離れては、人類愛も平和主義も憲法論議も空理空論どころか、ただの「空想」に過ぎないということだ。

 我が国は、2700年以上の歴史が続く君主国家である。そして神武建国の理念は、「八紘をおおいて一宇となす」という家族国家の形成に在る。

 日本を再生するということは、日本が欧米の様な国になることではない。日本を再生するということは、その原点である日本の背骨を取り戻すということだ。

 そして日本の背骨とは何かといえば、「君国に忠、親に孝」ということ。

 つまり、我が国は天皇を戴き(君)、全ての日本人(国)が、陛下のもとにひとつの家族となって(忠)、先祖代々続く日本人としての血統を重んじ(親)、父祖に恥じない生き方を実現する(孝)、ということだ。

 日本人として生きて行く上で大切なものは国への忠誠心と親への孝養である。「教育勅語」を奉読し、日本人としての自覚を再確認しようではないか。

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誤謬に満ちたこの国の陋習を糺さなくてはならない


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 先日、市ヶ谷の防衛省敷地内で「自衛隊殉職隊員追悼式」が実施された。

 来賓の安倍首相は挨拶で、「御霊は、自衛隊員としての誇りと使命感を、自らの行為によって示されました。その御遺志を受け継ぎ、我が国の平和と独立を守り、そして、世界の平和と安定に貢献し、より良い世界を創る為、全力を尽くして参ります」と述べその決意を示した。

 「自衛隊殉職隊員追悼式」は、任務遂行中に不幸にして職に殉じた隊員を追悼するため、防衛大臣主催により昭和32年から毎年実施されている。

 平成10年、防衛省の六本木から市ヶ谷への移転に伴い、敷地内に自衛隊殉職者慰霊碑が建立され、毎年、御遺族、内閣総理大臣、防衛大臣以下高級幹部などが参列し追悼式が行われているが、防衛省はその性格上、一般国民が足を踏み入れることは出来ない為に、広く国民が慰霊や顕彰をすることは困難なのである。

 昭和25年8月9日の警察予備隊発足以来、自衛隊では実に1822名の自衛官が「殉職」されており、一昨年の東日本大震災で殉職された九柱が合祀され、更に今年にも九柱が合祀されてその人数は実に1840名にも及んでいる。

 東日本大震災を始め、災害派遣や我が国の平和と独立、国民の生命財産を守る為に日夜行われている訓練などで、1840も名の自衛官が殉職されていることを、国民は知っているのだろうか。

 今を生きる我々国民がこれに感謝し、如何に慰霊と顕彰をすべきなのか。

 仮に自衛隊殉職者慰霊碑を千鳥ヶ淵墓苑に移そうものなら、そこが「新たな追悼施設」にされる危険性を孕んでいる。殉職自衛官を千鳥ヶ淵墓苑に祀ることだけは断じて阻止せねばならない。

 中共の覇権的海洋進出を始め、朝鮮半島の緊張と日米安保の形骸化など、我が国周辺の安全保障環境は益々厳しいものとなりつつある今、一旦緩急を想定して準備を怠ってはならないのが政治の務めであろう。

 近い将来、自衛官の「戦死」が生じた場合、彼らを慰霊し顕彰するのはやはり「靖國神社」を於いて他になく、1840名に及ぶ殉職自衛官もまた、靖國神社に祀ることは当然の行為であろう。

 国家の危機の要請に応じ、敢然と戦場に赴いて戦い散って逝った英霊に対し感謝の誠を捧げ、慰霊し顕彰することは世界の何処の国でも当然のことで、今を生きる国民の義務でもある。殉職自衛官への思いもそれはまた同じである。

 ところが残念なことに我が国では国の礎となった方々は国家から顧みられることが少ない。このことがどれだけ国民精神の頽廃を招いているのか、日本の政治指導者は考えたことがあるのだろうか。

 全ての捩れは国の基本法である日本国憲法が元凶であり、いつまで自衛隊を違憲のままで放置する気か。

 安倍は、「その御遺志を受け継ぎ、我が国の平和と独立を守り、そして、世界の平和と安定に貢献する」というが、殉職した自衛官のどういう遺志を継いで、どの様に世界の平和と安定に貢献するのか。

 殉職自衛官に対し、国民が感謝の誠を捧げられないという誤謬に満ちたこの国の陋習を糺さなくてはならない。

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2013年10月29日

「集団的自衛権の解釈」などという誤魔化しで自衛隊の存在をあやふやにしてはならない


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 一昨日の日曜日、朝霞駐屯地で自衛隊観閲式が行われた。右翼現役時代はこの観閲式は欠かさず行った。激励ではなく、抗議。大日本愛国党始め他団体が「自衛隊頑張れ!」と激励する中、我が防共挺身隊は「自衛隊は悲しいかな憲法違反の存在である。自衛隊諸君自らが自主憲法制定に立ち上がれ!」というものだった。

 昭和20年8月15日、わが国はポツダム宣言を受諾し、陸海軍は解体、非武装化が進められ、日本は完全な「丸腰国家」にされた。しかし、昭和25年、朝鮮戦争が勃発すると、マッカーサー元帥は吉田茂首相に、国内警察力と海上警備力の強化を促す書簡を送った。所謂「マッカーサー書簡」である。

 このマッカーサー書簡から一ヶ月後の8月9日には「警察予備隊令」が決定、翌日公布、即日施行というスピードで準備が整えられ、自衛隊の前身たる警察予備隊が誕生した。当時は、警察予備隊は「軍隊」ではないとする為に、「師団」を「管区」、「歩兵」を「普通科」、「砲兵」を「特科」、「兵器」は「武器」、「戦車」に至っては「特車」という始末。

 昭和27年8月1日、警察予備隊、海上警備隊を統合し保安庁が設置され、政府は「保安庁法」」を提出したが、野党は「憲法9条」を楯に政府を攻撃した。

 吉田茂首相は「戦力とは近代戦を実行する力であり、保安隊、警備隊にその力はない」と答弁。その結果、自衛隊は永い間「戦力なき軍隊」と言われ、今もその呪縛に囚われていると言っても過言ではない。

 昭和29年7月1日に、防衛庁が設置され、陸海自衛隊、航空自衛隊が創設された。今や陸上には一〇式戦車、海上にはイージス艦、空にはF15戦闘機と文字通り近代戦を戦える装備を持ち、その高い士気と練度は国際的にも大きく評価される組織となっている。これが国軍でないというなら一体何なのか。

 日夜、国の防衛の為に努力する自衛官の姿は心強いし、災害に立向かう自衛隊の存在は実に頼もしい。自衛官は我が国の誇りである。

 しかし、昭和45年11月25日、三島由紀夫氏が市ヶ谷駐屯地で決起。その「檄」において「もっとも名誉を重んずるべき軍が、もっとも悪質な欺瞞の中に放置され・・・自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与えられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与えられず」と喝破した通り、自衛隊は現行憲法下では違反の存在であり、未だ「警察予備隊」のまま放置され続けているのだ。

 「集団的自衛権の憲法解釈」などという目先の誤魔化しで、自衛隊をこのままあやふやな存在にし続けたままで好い筈がなかろう。早々に憲法を見直し、自衛隊を国軍とすることに何を、何に躊躇し、誰に憚るというのか。

 自衛隊をこの様な存在にしたのは政治家の怠慢以外の何ものでもない。

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2013年10月28日

「忙しい」と言う勿れ、「忙しいとは怠け者の遁辞である(徳富蘇峰)」


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 「忙しいとは怠け者の遁辞である」とは国民新聞の創設者であり、思想家の徳富蘇峰の金言である。「八重の桜」にも登場している。

  夫をジョーと呼び捨てにし、車にも夫より先に乗った。これは新島夫妻が互いの尊重の上で、男女が等しく平等であるという姿勢を自ら世に示したものだ。

 だが、男尊女卑の明治時代においては世間からは「悪妻」と評され、 「頭と足は西洋、胴体は日本という鵺(ぬえ)の様な女性」と罵倒される。この八重を罵る同志社大学の学生が蘇峰だ。

 「忙しい、忙しい」は現代人の口癖。かといって「忙しい」と日頃連発する者に限って大した仕事も、重要な仕事を任されてはいない。

 「忙しい」と言ってた方が、如何にも仕事をやっているかの様に勘違いしてるだけで、その裏には自分が有能で、周りから仕事を求められ忙しくなってしまうのだという思い上がりも見え隠れしている。

 「忙しい」とは心が亡くなると書く。つまりは心が死んでいるのだ。心が死ぬということは、人間として最低になること、簡単に言えばバカだということだ。

 バカになる状態に自分が在りながら、自分の勲章かの様に「忙しい」を連発するのは滑稽でしかない。

 「忙しい」なんて使うのは、厭な相手から誘われた時の口実。友人、知人を誘って、断わる理由が「忙しい」なら、それは嫌われている証拠だ(笑)

 江戸っ子というのは「忙しい」とは言わなかったという。そんな時は「書き入れ時でねぇ」と言ったというが、今じゃ、江戸しぐさにしろ、江戸っ子気質にしろ余り見なくなってしまったのは物悲しい。 

 昭和20年の正月の毎日新聞に、国民の厭戦(えんせん)気分を嘆く徳富蘇峰の記事が掲載された。

 それは、国民の気持ちを引き締めるには東京に爆弾が落とされた方がいいとの記事だった。当時、この記事は痛罵されたというが隻眼ともいえる内容だ。

 「これを一大転機として、我が一億皇民の心構えを一回転せずんば、まさにいずれの時を期すべきぞ」

 今や「国防」という国家の大本を米国に依存し、まやかしの平和に現を抜かし、更にはその米国依存を益々強化しようというのは狂気の沙汰と言う他はない。

 現在の我が国こそ、米国に裏切られ、また中共や北朝鮮や一発喰らう様な衝撃がなければ、国民は惰眠から目覚めることは出来ないのかも知れない。

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2013年10月27日

「国士・中曽根康弘先生―昭和維新の志士・戦後初の右翼宰相」の著者は瀬戸弘幸大先生(笑)


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 「国士・中曽根康弘先生―昭和維新の志士・戦後初の右翼宰相」という著書を著したのは今や保守活動家として高名な瀬戸弘幸大先生。当時、福島県内で右翼団体の代表としてこの本を出版した。著者の上には「行動右翼の雄」とあるのが嗤える。当時の中曽根人気に便乗した本で県内の企業は随分と購入したものだ(笑)

 我が国を貶めた国賊中曽根を「国士」などとは厭きれるが、右翼というのはこういうのでも分かるが、目先しか見えないメクラが多い。このトンデモ本は大先生の汚点だろうが、カネになったからまぁ気にしてないか(笑)

 また石原慎太郎が都知事選に立候補する際に、議員在職25年の掲額議員表彰での記念演説を重く受け止め、出馬を翻意する抗議文を自宅へ投函した。

 結局、「石原くらい愛国的で日本を護るに相応しいから」との理由から、大手暴力団で右翼人脈にも顔が利く総長が間に入り和解した。だが、石原の何処が愛国的なのか、どうも右翼の先生方というのは見る目が無いらしい。

 〈安倍さんを叱咤すべきで貶すなかれ〉とはfacebookの友達の一句。これに続いて次の様な記事を書いている。

 「安倍晋三首相を叱咤すべきであって、嫌がらせの書き込みは行き過ぎです。私は消費増税やTPPには反対ですが、だからといって安倍政権打倒には与しません。アメリカによる圧力があるのは確かであり、それを跳ね返すには、保守派の国民運動が大事になっているからです。まずは安倍頼みではなく、日本国民が立ち上がるべきなのです」

 安倍信者の中でも真っ当な保守派の意見だとは思うが、右翼を自任する愚生からすれば「いいね!」を押す記事ではなく、次の様に意見した。

 「安倍は保守だと思ってたから裏切られたとの思いが強いのでしょうが、安倍は小泉の正当な継承者、新自由主義者です。小泉の脱原発の行動も一蓮托生、安倍を慮ってのものでしょう。日本は益々米国依存に陥り、安倍が失脚することで戦後政治の総決算も御破産。前回の福田同様、左派が蠢いて来るでしょう。保守ブームは単なる流行。「流行」とは元々病気の意味で、今の世論もある意味ビョーキ。 「熱狂する大衆のみが操縦可能である」(ヒトラー)。

 これに対し、一水会常任顧問で某大手右翼団体相談役の四宮某が、「同感。安倍政権を打倒して、どういう政権を樹立させるのでしょうか」との意見を入れて来た。

 この意見に違和感というか疑問を感じたので再度、「右翼民族派が新自由主義に与する安倍を批判や苦言もせず評価するとは世も末。「反体制」なき右翼が保守論客を気取ってるのは滑稽でしかありません。国民運動が大事なら、別に安倍に拘る方が可笑しいと思いますが」と意見した。 

 その答えは、「安倍総理の間違っているところを批判し足らざる点に苦言を呈するのは当然です。今日唯今、安倍政権を打倒して一体どういう政権をつくるのか、誰を総理にするのか、どの政党の政権を任せるのか、ということです。今すぐクーデターなどの方法で維新政権ができるのなら別ですが…。『反体制なき右翼』が『保守論客を気取る』ことは絶対矛盾であり不可能です」。

 「反体制なき右翼」とはこの右翼団体の相談役に浴びせたのだが、全くチンプンカンプン。この人は大手右翼団体のメンバーだが、それを隠し、学者や言論人ぶってるところがどうも気に入らない。

 嫌味で、「政治家ですねぇ(笑)てっきり、右翼の相談役だからもっと激しいことを言うのかと思ってました(爆)」と入れてみたが反応は途絶えた(笑)

 この右翼相談役四宮某も安倍にぞっこんなのだろうが、要は瀬戸大先生や広域暴力団の総長のそれと一緒。それこそ「国士・安倍晋三先生」という本でも書いた方がいいんじゃないだろうか。まぁ今どきなら「I ♡ ABE」か(笑)

 流行保守ならいざ知らず安倍を支援する右翼というのは理解に苦しむ。右翼は本来「反共」は当然ながら「ナショナリズム」「反体制」「反資本主義」を標榜しなくてはならないが、体制側に与し、反骨主義も無くして何が右翼か。

 今や「ナショナリズム」も「反体制」も「反資本主義」の何れも左翼の手中に在るのを、右翼側にいる人間として悔しいとは思わないのだろうか。

 何が「維新政権は未だ先」などと己が政治家にでもなったつもりで悠長なことを言っているのか。それでは単なる傍観者ではないか。

 現在の右翼陣営の為体は、右翼としての生き方を忘れ、育ちが分かりそうな上昇志向で一丁前の評論家や文士を気取る自称・国士の先生方が元凶でもある。

 最近の右翼は政治家的な意見ばかりで、在るべき筈の「反体制」も「反権力」も「反骨」の精神も持ち合わせてはいない。全てが個性の無い、何処でも知り得る理論をひけらかしては悦に入る。右翼は抑々政治家じゃないっての。

 安倍を保守だと思うからこういう勘違い右翼が後を絶たないのであって、安倍は小泉の正当な継承者であり、その実は新自由主義者。小泉の脱原発の行動も一蓮托生、安倍を慮ってのものでしかない。

 安倍の実践する「グローバル経済至上主義」により、悲しいかな我が国は米国依存が更に進み、結果、「戦後レジームからの脱却」どころか、米国の51番目の州に成り下がるだろう。

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2013年10月26日

大丈夫、心配ない、なんとかなる!


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 そろそろ起きようか、トイレに行こうかなと夢うつつの中、心地好い揺れにまた寝てしまった。地震もドカンとくれば驚きもするが、東日本大震災の震度6強を経験すれば、震度4や5では驚きもしない。

 小さな地震に驚いてたら本当に凄い地震が来たらパニックになると思う。兎に角、震度6は凄い揺れです。用心することは大事だが、小さな揺れに一喜一憂することなく、いつどこでも平常心でいることがもっと大事だ。

 「災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。死ぬ時節には、死ぬがよく候。是ハこれ災難をのがるる妙法にて候」とは良寛和尚の金言である。

 災難に遭ってしまうことは誰でもあること。それが何処でいつ起きるかは分からない。起こってしまった災難を取り消すことは出来ないし、災難に慌てふためいたりしてしまうと、過った対処をして災難を大きくしてしまうこともある。

 小さなことで慌てたり驚いたりしてばかりいれば、心の中で災難が大きくなってしまい、いざという時には冷静な判断は出来ないだろう。起こってしまった不幸には、「こういう時もある」と受け容れることも大事なのだ。

 人間、なるようにしかならないものだ。

 逆境やピンチになると人間というのは潜在能力を発揮するものだが、その逆境やピンチから逃れようとする人は意外に多い。それだけ人間というのは弱い。

 だが、果して、どうにもならない運命などあるのだろうか。

 「一休さん」で有名な一休宗純は、死ぬ間際、弟子達に「自分が死んだ後、どうにもならないことがあったら、これを開けなさい」と遺言状を渡したという。

 やがて、彼の死後、弟子の中で大変困ったことが起こり、弟子達は師に救いを求めようとその遺言状を開けた。

 そこには一言、「なんとかなる!」と綴ってあったという。

 どうにもならない様なことは、自分でそう思っているだけで、実はそれほど大したことではなく、なんとかなるものなのだ。

 未来のことを気にしてこじんまりするより、今現在を本気で真剣に生きるべきで、「一日一生」とはそういうことだ。

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2013年10月25日

男子たるもの厨房に進んで這入るべし!

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 「愚妻の弁当を作ってる」などというと皆さんビックリする。亭主関白に見えるらしいが、山の神には逆らえないというか逆らわない。やることもやってないし、小遣いも一万円しかやらないのに偉そうにしてたらブッ飛ばされる(笑)

 「前略おふくろ様」に憧れ料理人を目指そうと思ったこともあるし、料理は好きだから苦にはならない。ストレス解消にもなり、何より作ってて愉しい。その日の気分で残りものでの簡単料理ばかりだが、それでもそれを互いに、「うん、うまいなぁ」となればホンモノの関係だろう。

 何も夫婦に限らない。今付き合ってる彼氏や彼女が、共に食べてるものを同じ様に感じればそれは相性のいい印し。料理の他には風景にしろ、事件やニュースにしろ同じ感動があればそれは最高のカップルと言える。

 「男子厨房に入るべからず」だとか「男は台所へ首を突っ込むものではない」と昔は聞いたものだが、池波正太郎に言わせれば、それは「半可通」と言うらしい。「半可通」の「半可」とは、「生半可」、要は「知ったかぶり」ということだ。

 織田信長にしろ豊臣秀吉にしろ、加藤清正や伊達政宗でも、戦国時代の一流の男達はみんな台所へ首を突っ込んでいる。そういや「鬼平」の長谷川平蔵も、「剣客商売」の秋山小兵衛にしても料理をあれやこれやと指南するシーンは多い。

 自分で包丁を持たなくても、きっちり女房に指示するのが亭主の責任。居間で偉そうにしているのもそれはそれでいいが、それでいて「これが不味い」「あれじゃダメだ」というのは、つまりは自ら甲斐性が無いと言っている様なものなのだ。

 「典座(てんぞ)」という僧がいる。多くの僧の床座や食事などの雑事を司る役僧で、今では食事係の僧のことを「典座」という様になったという。

 日本曹洞宗の開祖である道元の教えのひとつに、「喜心老心大心(きしんろうしんだいしん)」というのがある。「喜心」はその名の通り喜ぶ心。料理する喜び、食べてくれる人の笑顔に喜びを感じる心などをいう。

 「老心」は子供を想う親の心で接しなさいという戒めで、「大心」というのは、偏りのない広い心を持ち、謙虚にして初心忘れるべからずという意だ。

 この「喜心老心大心」の教えは、料理人ならば絶対不可欠なものだが、最近は「食べて遣わす!」的な店や料理人が多く、どうも気に入らない店が多い。

 亭主というのはある意味「典座」であらねばならない。亭主関白ぶって自ら台所に立たずとも、客が来たならそういう「典座」の心で客をもてなし、また毎日料理をしてくれる女房にも感謝することは忘れてはならないということだ。

 日々こういう心構えでいれば「男女共同参画社会」なんてのは要らないし、こうした無駄な予算を廃止すれば消費税なんぞ上げなくてもいい。呵呵。


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2013年10月24日

食文化の崩壊が国家の崩壊を招く!


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 安倍政権下、「グローバル経済」などと横文字を使い恰もそれがこれからの日本の進むべき道かの様に国民を誑かしているが、新自由主義を盲信し、経済至上主義に奔る安倍は保守に非ず。

 「戦後レジームからの脱却」なんぞ画餅に過ぎず、消費税値上げを実行し、その後は経済至上主義の政策が成功しようがしまいがここで賞味期限切れ、安倍降ろしと共に正統の保守主義が消え、更なる追米主義が席捲するだろう。

 敗戦後の日本は米国の経済戦略に乗せられ、資本主義や自由主義こそ正義であるかの様に洗脳された。ある意味、左翼が共産主義を盲信し、戦後民主主義者が自虐史観から目覚めないのとどっこいどっこいなのだ。

 現在の我が国は豊葦原瑞穂の国の誇りも何処へやら。農耕民族としての自覚を喪失し、「農本主義」などは最早国民の殆どが理解していない。

 政府はTPP交渉というか参加ありきという認識から、減反制度を見直し、米生産拡大によって競争力を強化する方向へ入った。安倍政権にしてみりゃ米も金儲けのひとつの生産物に過ぎない様だ。

 国民も今や米食よりパン食が当たり前で、スーパーで安くて不味い米を買い漁っているのを見れば農耕民族としての日本など最早存在していない。

 今や米の価値観が大きく変わってしまったのも事実。洋食の普及だけではないが、今の日本人は御飯の作法が実にいい加減になってしまった。安倍総理を筆頭に、箸一つまともに持てない日本人が何と多いことか。

 朝鮮人を批判する自称・保守にも結構いるが、箸の持ち方は朝鮮人の方が上手い。朝鮮人が出来て、日本人が出来ないというのはどういうことよ(笑)

 安倍にしても「グローバル経済」などと大法螺を吹く前に、せめて箸使いくらいきちんと出来なきゃダメだろう。

 「グローバル化」というのは、自国の文化や歴史を置き去りにせずきちんと捉え、文化などを伝承しながら他国の文化も理解して行かなければ意味はない。  

 日本人なら箸の持ち方は文化のひとつであり、持ち方を会得することは当然ながら、箸の作法を多少は学ぶべきだと思うし、箸使いが出来ない人が氾濫していることは大袈裟かも知れないが日本文化の崩壊でもある。

 見ていて多いのが箸置きも使わず、器の上に置く仕草だ。「渡し箸」というが、きちんと横に置くなら未だマシだが、器に縦や斜めにポンと置かれたら興醒め。

 そればかり気になって食事どころではない。せめて箸置きがあるなら箸置きに置く、何故そういう当たり前のことが出来なくなってしまったのだろう。

 豊葦原瑞穂の国に生まれた者として、もう一度、御飯を主役にした正しい食卓を再興することが大事で、その国の食文化の崩壊が国家の崩壊を招くというのは強ち間違いではない。

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2013年10月23日

原爆を有する資格があるのは世界で唯一の戦争被爆国である我が国だけであろう


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 「核兵器は非人道的なものだとして如何なる状況でも使用すべきではない」と訴える国連総会での「核兵器不使用共同声明」に日本が初めて参加した。

 核兵器不使用を訴えながら、一方で米国の核抑止力(核の傘)に頼る我が国の安全保障政策は、その整合性に矛盾しているのは明らかだ。

 日本政府は、「声明全体の趣旨が日本の安全保障政策や核軍縮の取り組みとも整合性が取れる内容になった」としているが、これはいつもながらの都合のいい解釈であり、ならば米国の「核の傘」に依存する体制からの脱却こそ図るべきだろう。

 岸田外務大臣は共同声明参加の意義を説明した上で、「世界で唯一の戦争被爆国である我が国としては、核兵器を使用することの悲惨さを、国と世代を超えて語り継い行くことなどを通じて、核兵器のない世界の実現に向けて、引き続き国際社会の取り組みを主導して行く考えだ」とする談話を発表した。

 「世界で唯一の戦争被爆国」として、核の悲惨さを語り継ぐのは結構だが、核兵器も保持せず、日米安保体制の下で国家の防衛という大本を米国に依存しながら、国際社会の取り組みを主導することなど到底出来る訳はあるまい。

 「核兵器は外交で大きな発言力を持つ」とか、「核兵器は最強の外交官」とか、「核兵器は最大の戦争抑止力」という認識は世界の常識と言っても過言ではなく、核兵器こそが外交交渉をする上での最高且つ最大の武器になり、周辺諸国に睨みを利かせることが出来るのだ。

 インドやパキスタンの紛争が治まったのも、或いはイスラエル、北朝鮮が核武装に奔ったのもそうした認識からであり、何百万人もの餓死者が出ても歯牙にも掛けず、あの依怙地なまでの北朝鮮の強硬姿勢は、我が国も外交交渉する上でも見倣うべきものがあるのではなかろうか。

 我が国が国際社会の取り組みを主導すると言うならば、世界で唯一の戦争被爆国として、「世界で核兵器が無くなるまで、世界が核兵器使用という愚かな行為が成されない様に監視し、世界平和を構築する為に、我が国は防衛体制を見直したい」くらい言って欲しいものだ。

 心の呵責無しに核兵器を有する資格があるのは世界で唯一の戦争被爆国である我が国だけだ。にも拘らず原爆投下した米国の「核の傘」に甘んじ、国家の大本を米国に依存しているこの歪な体制をいつまで続けるつもりなのか。

 実質的に米国の「核の傘」からの脱却を訴えたからには、早々に「日米安保条約」を解消し、自主防衛の確立を急ぎ、そして核武装こそがアジア諸国や世界の平和と安定に貢献出来るものだとの認識を共有すべきである。

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2013年10月21日

安倍よ、自民党綱領に則って政策を実行せよ!


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 靖國神社秋季例大祭に古屋圭司国家公安委員長兼拉致問題担当大臣が参拝した。例大祭中の閣僚の参拝は新藤義孝総務大臣に続いて二人目の参拝となった。

 これに対しマスコミは、「A級戦犯」が合祀されている靖國神社へ閣僚が参拝したことで中韓からの批判が強まるだろうとの記事を垂れ流している。

 いつまでこういう無意味な報道を続けるのか。古屋大臣が言ってる様に、戦没者をどういう形で慰霊するかは純粋に国内問題である。

 一方で、今回も参拝を見送った安倍だが、側近の萩生田特別補佐は、「一年間という時間軸の中で必ず参拝する」との認識を示した。

 世論調査を見ても、国民の多くが首相の靖國参拝を容認しており、そうした世論を無視し続ければ、保守票が逃げるという邪な考えからこうした判断がされているなら、それは英霊を冒涜する行為そのものであり、言語道断と言わざるを得ない。

 先日の代表質問に於いて安倍は、公明党代表・山口の質問に対し、「河野談話」や「村山談話」と同じ歴史認識を披歴した。

 過去にも終戦記念日などで戦没者に対し、「心ならずも戦場で斃れ」だとか語っているし、「多くの国々、とりわけアジアの諸国の人々に多大の損害と苦痛を与えて来た」と聞いたところで別段驚くことではないが、これをしても安倍の掲げる「戦後レジームからの脱却」なんぞ画餅に過ぎないということだ。

 安倍は講演などでも公言しているが、「喩え正論であっても、それを言ってしまえば政治家としては失格!」という信念がある様で、要は己の信念を貫き通す様な覚悟に乏しい旧態依然の政治家だということ。

 目先の法案通過を優先し、要らぬ論争を避け様といういうその場凌ぎの言い訳であり、事勿れ主義に他ならない。こうした国民不在の陋習とも言うべき衆愚政治をいつまで続けるつもりか。

 総選挙前、安倍は前政権下での靖國不参拝を問われ、「断腸の思い」とその悔しさを滲ませたことを国民は忘れてはいない。

 そういう安倍の無念さに国民は共鳴し支持したのだ。なのに何故、「とりわけアジアの諸国の人々に」などという戯言を抜かすのか。安倍の言行は靖國など見向きもしない政治家より悪質で始末が悪い。

 自民党が掲げる新綱領には先ず「新憲法の制定」を謳い、そして「高い志をもった日本人を」として次の様に明記されている。

  【私たちは、国民一人ひとりが、人間としての普遍的規範を身につけ、社会の基本となる家族の絆を大切に、国を愛し地域を愛し、共に支え合うという強い自覚が共有できるよう努めます。そのために教育基本法を改正するとともに、教育に対して惜しみなく資源を配分し、日本人に生まれたことに誇りがもてる、国際感覚豊かな志高い日本人を育む教育をめざします】

 安倍が保守を自任するならば、やるべきものは経済至上主義に非ず、「日本人に生まれたことに誇りがもてる、国際感覚豊かな志高い日本人を育む教育を目指す」ことであり、「世界一安心・安全な社会を創る」という綱領の実行である。

 「積極的平和主義」を唱え、「軍事力」の充実を図るのもも大事だが、「国防」とは領土の保全だけではなく「国柄」を死守することに在る。

 「国防」とは三島由紀夫が訓えた様に、国土という領土の防衛ではなく、「それを亡くしてしまったら日本ではなくなってしまうものを守り抜くこと」である。

 国を護るということはつまり、国柄である民族、宗教、言語、​歴史、価値観、習慣、制度を護り、世界の中で最も優れた精神文化​や未来の子供達、そして何より「皇統」を死守し、継承することである。

 新自由主義を盲信し、経済至上主義に奔る安倍を見ていると、吾、疑心暗鬼どころか、屋上屋を架す大馬鹿者だと断言せざるを得ない!

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2013年10月20日

10月20日、この日の思いが吾が脳裏に去来する


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 昨日は靖國神社例大祭第二日祭に参列した。朝7時過ぎの新幹線で上京し9時に靖國神社に到着、受付を済ませ参集殿へ。小鳥の声と会場を通り抜ける風の音しか聞こえない中で、10時より厳かに式典が始まった。

 例大祭に参列出来る喜びは日本人としてこれに優るもの無し。だが、我が国の為体を想う時、英霊に対する申し訳なさも無きにしも非ず。

 九段下の「寿司政」で直会、鉢合わせた友人らと強か飲んで帰還。自宅で「反省会」をやるも、焼酎を2杯飲んだら疲れもあって7時前に床に就いた。

 「いや~よく寝たなぁ」とタブレットを披いて時間を見れば3:30分。じゃそろそろ起きようとトイレに入り、置いてある時計をよくよく見れば未だ23:30分。また床に戻ったのは言うまでもない(笑)

 本日10月20日は皇后陛下の御生誕日。戦前は「地久節」と呼ばれました。謹んで御祝詞を申し上げますと共に、皇室の弥栄を御祈念致します。

 10月20日はめでたい日であると共に、歴史的にも我々日本人が決して忘れてはならない特別な日でもあります。

 昭和19(1944)年10月20日、フィリピンのレイテ島に圧倒的勢力で上陸を図ろうとする米軍部隊へ、大日本帝国海軍は起死回生の反撃、更には連合軍の沖縄への上陸、本土決戦を阻止する為に大西瀧次郎中将の指令下、「神風特別攻撃隊」が編成された。10月20日とはそういう日でもあるのだ。

 祖国を守る為に死を決意して志願した特攻精神は、祖国愛の極致というべきもので「神風精神」こそは、大東亜戦争が自存の為の「祖国防衛戦争」だったことの何よりの証だろう。

 沖縄戦でも特攻部隊が重要な役割を果たし、特攻戦死者の実に76%が沖縄戦で亡くなっている。鹿屋基地(海軍航空)からの特攻で1981名、知覧基地(陸軍航空)からの特攻で1036名が散華された。

 特攻は航空だけではなく、特殊潜航艇、回天魚雷、空挺特攻、対戦車特攻、震洋特攻艇、陸軍海上特攻など劣勢を覆す為の特攻作戦でも3972名と、実に多くの若者が祖国日本の為に尊い命を捧げられた。

 特攻作戦をを「無駄死」だとか「可哀想」だとかいう声を散見するが、現在の道徳観や倫理観で生死を語るなど笑止千万。我が国の現在の平和や繁栄は彼らの尊い犠牲の上に成り立ってるということを決して忘れてはならない。

 また、20年前の平成5年10月20日には、新右翼のカリスマ的指導者だった野村秋介烈士が朝日新聞社で壮絶な死を遂げた。野村烈士がこの日を選んだのには「特攻作戦と若者の命」という深い意味が込められていたのを知る人は少ない。

 理論家であり、行動派であり、押しも強く、幅広い人脈を持つ野村秋介の死は、新右翼に限らず右翼陣営にとっても大きな痛手だった。

 10月20日、この日の思いが吾が脳裏に去来する。

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2013年10月18日

政治家のクソどもは九段の地には近寄るな。靖國が穢れる!


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 昨日は先月の旅で世話になった宮崎県の福田さんと再会し、いつも世話になっている新潟県の皆川さんも来郡し、政治談議。というのは嘘で、男同士で飲む酒は忽ち通う意気と熱。言うまでもないが問答無用の一献会となった。

 友とは付き合いの長さではなく、深さであると熟々思う。「人生は正に邂逅の一言に尽きる」とは蓋し名言である。

 焼鳥屋「平亀」で始まり、他愛もない話で盛り上がり、THE・BAR~場末のスナックでカラオケ三昧(この頃は福田さんは熟睡)、そして〆のカレー南蛮蕎麦と、翌日のことなど考えもせず強か飲んだ。

 久しぶりにいい酒だった。そんな心地いい気持ちをぶち壊すニュースが飛び込んで来た。「安倍首相、靖國神社に真榊奉納」というニュースがそれだ。

 中韓からの内政干渉に加え、米国からの暗黙の圧力が加わり、ヘタレの安倍は、靖國神社例大祭への参拝を見送るだろうとは思っていたが、大方の予想通り、例大祭に参拝せず、真榊奉納で急場を凌いだ。

 これを機に政治家は靖國には近寄らないで欲しい。千鳥ヶ淵墓苑にでも行ってセンズリでも扱いてりゃいいわ。

 ケリー米国務長官とヘーゲル米国防長官が千鳥ケ淵戦没者墓苑を訪れ、「日本の防衛相がアーリントン国立墓地で献花するのと同じ様に戦没者に哀悼の意を示した」とはついこないだのことだ。

 米国が日本の戦没者を追悼する場所は、靖國神社ではなく、千鳥ヶ淵墓苑であり、アーリントン墓地に相当するのは靖國ではなく千鳥ヶ淵墓苑だという米国からの警告だが、こうしたことに屈する安倍というのは何なのだろう。

 国家観も何もない議員なんぞは千鳥ヶ淵に行けばいいし、靖國に詣でない保守なんぞ有り得ない。これを機に政治家が靖國から遠ざかってくれることの方が願ったり叶ったりだ。

 「みんなで靖國神社に参拝する会」なんていう仰々しい名前の、遺族会や保守派の票欲しさの連中も参拝する必要もない。靖國が穢れる。

 政治家の参拝なんてのはハッキリ言ってどうでもいいことで、靖國にとって大事なのは陛下の御親拝以外ない。靖國神社の大祭に限り、天皇陛下が御親拝せられたが、政治家の不作為でそれが叶わなくなって数十年の年月が経った。

 陛下の御親拝は正に聖恩無辺、英霊並びに遺族にとっての感激と光栄、これに優るものはなかったのだ。

 それを政治家如きが中韓からの圧力に屈し、陛下の御親拝が鎖されたことほど惨い話はない。況してや米国からも干渉されるとなればもう我慢も限界。

 クソ政治家どもは神聖な九段の地に立ち入るべからず!

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2013年10月17日

「河野談話」の根拠崩れる。元慰安婦報告書は杜撰な調査だったことがバレた!


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 産経新聞に拠れば、慰安婦募集の強制性を認めた平成5年8月の「河野洋平官房長官談話」の根拠となった元慰安婦16人の聞き取り調査報告書を入手した。

 証言の事実関係は曖昧で別の機会での発言との食い違いも目立つ他、氏名や生年すら不正確な例もあり、歴史資料としては通用しない内容だった。

 軍や官憲による強制連行を示す政府資料は一切見つかっておらず、決め手の元慰安婦への聞き取り調査も杜撰だったと判明したことで、「河野談話」の真実性、信憑性、正当性は根底から崩れた。

 所謂「従軍慰安婦」問題の発端は吉田清治という人物が、昭和58(1983)年に書いた「私の戦争犯罪」というフィクション本に始まった。

 吉田は「済州島で9名の兵隊と共に約200名の朝鮮人女性を強制連行して慰安婦にした」と記述し、済州島での様子を妄想し描写した。

 後の調査で直ぐに創作だったことが判明したが、​この「私の戦争犯罪」だけが独り歩きし始める。平成元(1988)年、この本が韓国語に翻訳されると韓国の人々は激昂し、日本を責め立てた。

 その4年後の平成4(1992)年、朝日新聞がこのインチキ本を取り上げ、根拠もない儘に日本軍や警察が「慰安婦狩り」をやったと書き立てて韓国人の怒りを煽り、福島瑞穂ら名うての売国奴らがこれらを支援した。

 この本に疑問を持った「済州新聞」記者の許栄善氏は、現地を取材し、「慰安婦狩りの話を裏付ける証言者はいない。島民の名前もデタラメだ」と一蹴しているが、その声が韓国民に伝わることはなかった。

 韓国郷土史家・金奉玉氏も現地調査を実施し次の様に述べている。

 「昭和58年に日本語版が出てから何年か追跡調査をした結果、事実でないことを発見した。この本は日本の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物と思われる」

 事の発端を招いた吉田清治もこうした調査結果を突き付けられ、「実は創作だった」と嘘の事実を認めたが遅きに失した。

 日本発の嘘から始まり、韓国全土で「慰安婦狩り」が独り歩きして行く。売文という私利私欲の所業が国家を売ることになったのだ。

 戦前は日本も朝鮮も、他国と同様「売春」そのものが合法だった。​今の道徳的価値観で、この売春行為の是非善悪を裁いても意味はない。

 悲しいことであるが、貧しい女性たちが生きる為に、また親兄弟を養う為に身を売った時代もあったという歴史を忘れてはならない。

 戦争になれば兵士の息抜きの為に駐屯地の近くに「慰安所」が設けられ、危険に見合う多額の収入を求めて、多くの「売春宿」経営者が戦地に赴き、商売を始めるのは当時は何処でもある光景だった。

 当時、工場で働く女性の平均月給は約30円、戦地で働く慰安婦は約300円だったという。この額は知事や軍の大佐と同額の高給だったのだ。

 客の多くは軍人だが、慰安所の経営者は軍とは関係ない一般の民間人である。勿論募集は民間人が実施し、軍や官憲は一切係わってはいない。

 当時、慰安婦募集に「女衒」と呼ばれる悪徳業者が、「軍の依頼」と嘘をついて募集したり、或いは子女を誘拐して満州に売り飛ばし、金儲けを企むという卑劣な事件や問題を起こしたこともあった様だ。

 内務省は、こうした悪辣な事件は「帝国の威信を傷つけ、皇軍の名誉を害う」として、「契約内容や事情を調査して、略取誘拐等がないよう留意すること」「軍の名を騙る業者は厳重に取り締まること」など通達した。

 「朝鮮における慰安婦の不法な募集禁止」も閣議決定し、軍にあっては、兵士が飲酒して暴れたり、慰安婦や経営者に暴力を振るったりしない様に、不届き者を憲兵が厳しく取り締まった。

 軍や政府は、不法な募集を禁止し、慰安婦の健康指導や、人権を損なうことがないよう関与しているのであって、強制連行に関与した事実は全くない。

 平成4(1992)年、朝日新聞の報道により慰安婦問題が再燃する。

 韓国の大学教授が、「軍慰安所従業婦募集に関する件」という陸軍省の文書を発見したと報じると、「(慰安婦)募集について軍の関与があった」「強制連行があった」と嘘を垂れ流し、世論を誤誘導して行った。

 だが、大学教授のその内容は、「慰安婦の募集に対し、軍の名義や権利を利用して」誘拐に類する様な悪徳業者がいるので、警察と連携して防止を指示する文書であり、軍による強制連行を寧ろ否定するものだったのだ。

 朝日新聞の報道を受け、東亜日報は「12歳の小学生まで動員し、戦場で性的に弄ばれた」とここでも虚偽報道すると、韓国の世論は激昂した。

 これに狼狽えた宮沢内閣は、「外交上の配慮」として強制連行の事実を認める方向で検討に入ったが、証拠となる資料が発見されないことから対応に苦慮する。

 韓国が作成した資料と元慰安婦の証言に疑問を呈することもなく、「従軍慰安婦問題に旧日本軍が関与したと思われることを示す資料が発見されたことを承知しており、この事実を厳粛に受け止めたい」と謝罪した。

 今回、産経新聞が報じたのは、この「旧日本軍が関与したと思われることを示す資料」の杜撰な調査で、これは始めから分かっていたことだ。こうした証拠資料を精査せず、裏付け調査も無しに謝罪した宮沢内閣の罪は重い。

 元慰安婦の証言も後の調査で信憑性が無いことが判明している。文書を発見した教授も、慰安婦強制連行は証明出来ていないことを認めている。

 内外世論に押されて実施した政府調査でも、「強制連行させないための政府の関与」は認めたが、「強制連行を立証する資料なし」と結論付けた。

 当初、慰安婦は売春婦だと承知し、余り感心も無かった韓国政府も、激昂した世論を放っておけず、体裁を整える為に、「慰安婦強制連行」の認定を日本政府に強く迫る様になったというのが真相だ。

 当時の官房副長官、石原信雄氏は次の様に証言している。

 「一切強制連行した証拠は見つからなかった。『強制連行が無かったとすると、韓国が言論を押さえられない。賠償は請求権協定により、一切要求しないから有ったことにして欲しい』と懇願され、政治的に認めたものである」

 訪韓した宮沢首相は反日の嵐の中で謝罪と反省を8回も繰り返した。謝れば事は収まるとの甘い読み、兎に角その場は収めたいという事勿れ主義が、我が国の国益を大きく損なうこととなった。

 「言わなくても分かるだろう」というのは日本の美徳だが、国際関係においてこの日本的美徳が通用すると思うのは日本人の思い違いでしかない。

 安易な謝罪や譲歩は、悪意を以て謀略宣伝を行う勢力を勢い付かせるものでしかないのだ。我が国が外交音痴と言われるのはこういうことだ。

 日本政府は韓国に屈するカタチで、平成4(1993)年8月4日、戦後最大の外交汚点となる「河野談話」を発表する。

 「慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当ったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意志に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった」と述べ、重大な人権侵害を認め謝罪した。

 根拠も示さぬ儘、「官憲等が直接これに加担したこともあった」の一文は、軍と官憲が強制連行に関与したことを既定事実としたものだった。

 その後の韓国からの日本非難は全て「河野談話」が根拠となっている。

 韓国での国家賠償を求める裁判は勿論、その後の米国や欧州での「慰安婦非難決議」も、この「河野談話」が証拠になった。

 「河野談話」は、急場凌ぎでその場を収めたかった日本政府の思惑とは逆に、慰安婦問題を益々エスカレートさせ、複雑にしてしまったのだ。

 以上が所謂「従軍慰安婦」問題の凡その経緯だが、如何だろう。

 韓国側が「慰安婦問題」で強請り、タカリに奔るのは、朝鮮人の人品の低さも然ること乍ら、歴代日本政府の無知と事勿れ主義、そして弱腰外交が要因になっていることは否定出来ない。

 朝日新聞が捏造した慰安婦問題を、自民党の宮沢内閣下で、加藤紘一官房長官が事実を認め、次の官房長官に就いた河野洋平が「談話」を発表した。

 「河野談話」が韓国人慰安婦を付け上がらせる元凶だが、その後の「村山談話」で火に油を注ぎ、自民党政権下でもこれらを撤回せず黙認したことが大きい。

 民主党政権誕生が誕生すると鳩山由紀夫が総理として慰安婦に「国家補償」を約束し、前原誠司幹事長が「戦後賠償支援」を言及した。

 慰安婦問題は、日本側が国家として「謝罪」も「約束」もしてしまっている訳で、韓国にしてみれば賠償請求するのは当然であり、韓国側を単なる強請り、タカリと言ってもいられない現実が厳然と存在してしまっているのだ。

 歴史的正当性の無い「河野談話」や「村山談話」は早々に撤回することは当然であるが、戦後、我が国の歴史認識の元凶となった田中角栄の「日中共同宣言」での妄言こそ検証し、見直さなければならない。

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2013年10月16日

「明治の日本人に出来て今の私達に出来ない筈はありません」と言うが・・・


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 畏くも天皇陛下御臨席の下、第百八十五臨時国会が召集され、安倍首相は挨拶の後、「復興の加速化」「成長戦略の実行」「社会保障改革と財政再建」「外交・安全保障」などの所信表明を行った。

 政治で大事なものは「国防」と「教育」。「国防」に関しても避けて通れない憲法改正や「教育」に関しては、最後にチラッと語った程度で、言葉は勇ましいが、日本国総理大臣としての覚悟を感じない、国家観乏しい演説だった。

 2020年の東京オリンピック招致成功を例に挙げ、「みんなが頑張れば夢は叶う!」ってのは、見方を変えれば、失敗すればみんなの責任ということか(笑)

 「失敗を恐れて何もしない」と本田宗一郎の言葉を用いていたが、政治に失敗は許されない、結果が問われるのだ。失敗する恐れがあるなら余計なことはするな。

  「心志あれば 必ず便宜あり」 と、アジア主義(興亜主義)の原点であり、源流である「興亜会」の中村正直の言葉を引用し、然も自分の士気を鼓舞していたが、聞いてる側には全く響いては来なかった。

 「欧米列強が迫る焦燥感の中で、あらゆる課題に同時並行で取り組まなければならなかった明治日本。現代の私達も経済再生と財政再建、そして社会保障改革、これらを同時に達成しなければなりません。明治人達の意志の力に学び、前に進んで行くしかない。明治の日本人に出来て今の私達に出来ない筈はありません。要は、その意志が在るか、無いか。強い日本。それを創るのは他の誰でもありません。私達自身です。皆さん、共に進んで行こうではありませんか!」

 実に仰々しい演説だった。「明治人に出来て・・・」などと本気で思っているのだろうか。安倍を始めとする現在の我が国の政治家に、国難に打ち克った明治人の気概も、国家に対する熱い思いや誇りも在るとは思えないし、国民もまた明治人の様な高貴さや高邁さも、国を支えようという心構えも無い。

 「明治維新」にしても、日清・日露戦争に至った国難にしても、その基となったのは江戸時代に育まれた道徳や教養、武士道精神、大和魂が見事に結実し、それが明治に開花した結果と言えよう。

 明治人のバックボーンは江戸時代。だが、現代を生きる日本人には悲しいかな、明治人の様なそうした揺るぎない生き方や信条は無い。

 本居宣長が古事記伝を表し国学を大成させ、水戸光圀は「大日本史」を編纂し、勤王の志士を鼓舞した。この日本学を「水戸学」といい、佐久間象山や吉田松陰、西郷隆盛、坂本龍馬、桂小五郎など多くの志士が影響を受けた。

 水戸学を知ることで天朝の尊厳性を崇し、鼓舞し奮い立った。 江戸時代に培った国学・日本学による勤王思想、武士道精神、大和魂の国益中心の愛国・憂国の心の成果が、「大政奉還」と「大政復古」の見事な明治維新を成し遂げたのである。

 安倍は「明治の方々に出来て」と先人を軽々しく引合いにだし、「国益」という言葉を乱用するが、安倍の「国益」とは所詮は経済優先の新自由主義ではないのか。規制緩和が国を滅ぼすとは考えないのか。

 社会保障改革と財政再建する上でも、最も大事なことは「人々の心の赤字」の解消以外に道はない。喩え成長戦略が成功し、数字的な赤字を解消し、経済が豊かになろうとも、心が貧しければまた同じ過ちを繰り返すだろう。

 安倍にとって「国益」とは何ぞや。強い経済を基盤とした社会保障改革と財政再建を成し遂げることが「国益」なのか。成長戦略とデフレ脱却こそが「国益」なのか。消費税の値上げも「国益」上で仕方ないことなのか。TPPも同様か。憲法を見直さず「集団的自衛権」を見直すことが「国益」に繋がるのか。

 安部総理が誕生し、国家意識と国益観念を重んじた首相が再登場したと誰しもがそう思い、それを歓迎した。

 だが、よくよく考えれてみれば中曽根康弘の時も、小泉純一郎の時も同様に国民は熱狂的に支持し、その度に裏切られ、国益を損なって来たのも事実だろう。

 安倍も中曽根や小泉と同じ様に保守を標榜し、国民を誑かしているが、米国や支那に迎合し「国益」を損ねた徒輩と同じ匂いがしてならない。

 今、政治がやらなければならないものは明治人の様な、道徳や教養を兼ね備え、武士道精神や大和魂を持った志しの高い日本人を育むことであり、上杉鷹山が訓える様に、「人々の心の赤字」こそ財政再建する上でも最も大事なことなのだ。

 今や国民の勤勉性、家族愛、愛国心、信義誠実の原則は失われ、心の中の高貴なものを失い、高邁さを忘れ、私利私欲の欲望に塗れている。

 マスコミや自称・有識者が取り上げる胡散臭げな問題に一喜一憂し、問題が出ればその萌芽は日本に在ると貶し貶め、それをマスコミ御用達のインチキ言論人が煽り、政治家も頭の中は保身と次の選挙だけ。

 安倍よ、総選挙で国民に約束した「高い志を持った日本人を育む教育を施す」という「大義」はもう忘れてしまったのか。

 それこそ、明治人に出来て今を生きる我々が出来ない筈はあるまい。将来を担う子供達の為にも、心の赤字の解消に立ち上がろうではないか。

 安倍よ、経済政策より真の「教育改革」を優先し、その身を捧げよ!

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2013年10月15日

和を講じ哀を乞うて止まずとは立国の要素たる痩我慢の士風を傷ふたる


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 本日、畏くも天皇陛下御臨席の下、臨時国会が召集される。現在の我が国は経済的な貧困問題よりも、精神的貧困の方が深刻。「成長戦略」という名の経済政策も結構だが、国家の大本となる「国防」と「教育」の議論をして欲しいものだ。

 福沢諭吉は、凡そ100年前「痩せ我慢の記」という一文を発表し、「一片の痩せ我慢こそ百千年後に至るまで、国の独立を維持する上で大切である」と説いた。

 福沢諭吉は、嘗て幕臣だった勝海舟と榎本武揚が、敵方である薩摩・長州中心の新政府から優遇を受け、大臣に昇りつめた出世を厳しく批判している。

 「幕府が最後の死力を張らずして、唯一向に和を講じ哀を乞うて止まずとは、立国の要素たる痩我慢の士風を傷ふたる。独り怪しむ可きは、氏が先きの敵国の士人と並立て、旧幕府の幕風を脱して愉快に世を渡りて、得々名利の地位に居るの一事なり」

 その諭旨は、勝海舟はひたすら講和を主張し、官軍と一戦も交えず開城したのは、要素たる士風を損なった。例え、内乱が国家にとって無益大害の極みであっても、抵抗するのが武士の意気地ではないか。

 人の生命と財産を救ったのは評価するが、世話になった親(幕府)を見殺しにするような態度は、国家としての風潮を無に帰する行為だ。後世の日本人よ、奴を真似してはいかんぞと、勝を痛烈に批判している。

 榎本武揚も然りである。

 「氏の為めに苦戦し、氏の為めに戦死したるに、首領にして降参とあれば、憤戦止まらず、其中には父子諸共に切死したる人もありしと云ふ。死者もし霊あらば、必ず地下に大不平を鳴らすことならん」

 中島三郎助父子のような気概溢れる武士にアンタは顔向け出来るか。普通なら出家隠棲は無理だとしても、世間の目に触れず社会の片隅でひっそりと生きていくことこそ本意だったと批判している。

 榎本は、必敗覚悟で五稜郭に立て篭もり、官軍に反抗したのは功名といえるが、降伏後に立身出世を志したのは、その過去を傷つけるもので、両人共、敵味方のケジメをつけ、野に下ることこそ取るべき道であったと諭す。

 今日の我が国を見渡せば、政治家を筆頭に「義」を守る者が余りにも少なく、利権に集り、私利私欲に狂奔し、カネに群がる不逞の輩ばかり。

 福澤翁が諭した「痩せ我慢」の気風は何処へ行ってしまったのだろう。何でもかんでも泣き言さえ言えば助けて貰えるという風潮はいい傾向ではない。

 欲しがり屋ばかりが得する世の中だが、「我慢」「辛抱」「忍耐」は大事な教えだ。そんな苦しさを表情や態度に表さず平気な顔をしてみせることはもっと大事。

 「武士は食わねど高楊枝」と言った方が分かり易いか。喩え貧しくても清貧に安んじ、気位を高く。「痩せ我慢」こそ日本人の美徳であり崇高な精神でもある。

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2013年10月14日

我が国の国柄や国體を損ねる主義・思想に断固として対峙して行かねばならない


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 愚生が所属していた団体は「防共挺身隊」。最近は「街宣右翼は朝鮮右翼」だと揶揄されているが、その行動右翼、街宣右翼のパイオニアが防共挺身隊でもある。

 抑々「街宣右翼」自体にそれほどの歴史はなく、日本を貶めてると言われるほど影響力も無いし、そんな右翼に貶められたとしても滅びる様な日本でもない。

 昭和30年代から50年代の左翼全盛時代、日本を貶めようとしていたのは左翼団体であり、それらを殲滅せんと対峙していた右翼陣営を、現在の風潮で「朝鮮右翼」と揶揄するのは簡単だが、街宣右翼の行動全てを断じられる謂れもない。

 戦前の右翼と戦後の右翼は全く違う存在だ。戦前の右翼というのは「国粋主義」的要素が強く、外国思想は全て悪と捉えるという考えであり、それは共産主義であろうが、資本主義であろうが、民主主義であろうが批判されるべき対象だった。

 戦後の右翼が国粋主義から「反共」に奔り、ヤクザというか愚連隊の様な組織になってしまったのは右翼の巨頭と称された児玉誉志夫の影響が大きい。

 「政財界の黒幕」と言われた児玉誉志夫だが、戦前は海軍航空部門の物資調達を任された「児玉機関」の親玉でもあり、右翼の大物と言われた人物で、「A級戦犯」としてGHQに逮捕された経歴もある。

 GHQは占領下に於いて、戦争を引き起こしたのは日本国内の右翼勢力だとして、右翼団体や危険人物を潰そうとするが、大東亜戦争が終結すると、アジアや世界各地で共産党による革命や暴動が起こった。

 日本国内でも同様で、これを危惧したGHQは右翼の解体の方向を転換し、右翼を「反共」に利用することに。同じA級戦犯だった笹川良一も同じ様なものだ。

 児玉も笹川も、米国の意のままに「民主主義」「資本主義」に与し、「共産主義」のみを悪とし、それらを忠実に実行した。児玉や笹川が米国のスパイと言われるのはその所為でもある。

 児玉は「児玉機関」で貯め込んだ潤沢な資金を基に、全国の博徒や香具師を纏め上げ、右翼団体を次々と立ち上げ共に「反共運動」に乗り出した。

 今も続いている旧態依然の「反共」活動や、自民党を始めとする保守派のスローガンを忠実に遂行している「院外団」的行動もその名残である。

 「防共挺身隊」も児玉誉志夫の門下でもあり、初代福田進総隊長はそれらをフルに利用し、経済的な恩恵を享けたのも確か。

 例を挙げれば、神奈川県葉山の二束三文の土地を取得したが、間もなく有料道路が建設され莫大な資金を得た。或いは、未だ日本に帰属される前の沖縄の那覇空港内に在る「福田商店」という免税店にしても、そうした裏の政治力の賜物だろう。

 だが、ヤクザが「仁侠道」を忘却し暴力団化した様に、右翼も「大義」を忘れ、資本主義に溺れ、金儲けなどに興じていれば、必要価値のないものに成り下がって行くのは必然であろう。

 ならばどうすれば善いのか。

 右翼の使命は、日本の純粋性を曇らすもの、つまりは「共産主義」であろうが、「資本主義」であろうが、「民主主義」であろうが、我が国の国柄や国體を損ねる主義、思想に断固として対峙して行かねばならないのだ。

 三島由紀夫は、戦後に右翼が左翼に取られたものとして、「ナショナリズム」「反体制」「反資本主義」の三つを指摘した。今やそれらは左翼の手中に在る。

 国家主義や民族主義という「ナショナリズム」にしても、「反体制」という反骨主義や「反資本主義」という国粋主義も戦前の右翼はそれらを自覚し保持していた。何故ならこの三つは右翼の矜持に他ならないからだ。

 右翼の矜持を取り戻さなければならないが、果して現在の右翼や自称・愛国者には三島のこの指摘はどの様に響くのだろう。

 共産主義や共産党を始めとする左翼らを批判するのは容易いが、批判する側もまた自らが自由主義や資本主義という病魔に侵されている自覚はない。

 天皇国日本を盤石の安きに置く歴史的使命を有するものは民族陣営以外におらず、そう考えた時、右翼民族陣営は果たして何を為すべきなのか。

 「大義」を取戻し、テロを担保しつつ更なる愛国的活動の奮励に邁進する以外に道は無い。それが畢竟、日本再生に繋がることと信じて止まない。

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2013年10月13日

御陵や墳墓発掘の真の狙いは皇室の否定と解体である!


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 今年になって仁徳天皇陵の陵墓内に、宮内庁が新事務所を建設し陵墓内の木も伐採された。これ即ち、宮内庁が我が国の国柄と不可分の天皇陵の尊厳ということを全く理解しない証左であり、看過出来る問題ではない。

 学匪どもは天皇陵の発掘調査を「史跡」だとして、然もその研究が研究者として当然の権利の如く主張しているが、御陵や墳墓発掘の真の狙いは、皇室の否定と解体そのものに在る。

 ピラミッドや兵馬俑などの王の墓と同様に、天皇陵をも発掘の対象にすべきだとの意見が多いというが、御陵や墳丘の発掘までもが許される事態となれば、尊厳は完全に損ねられる自体になることは必至であり、断じて許してはならない。

 エジプトや支那の場合は既に滅亡した王朝の墓だが、天皇陵は現存する皇室が守るべきもので、況してや祭祀の場でもあり、その背景はピラミッドや兵馬俑などとは全く異なるものだ。

 「御陵の周辺部が史跡に指定されてない為に、宅地造成で埋め立てられたり、破壊されたり危機的状況であり、国が直接保護するべきだ」と、如何にも御陵の荒廃を嘆いている様な意見を振り翳してはいるが、彼らの狙いは外に在る。

 そのトリックが「史跡」という言葉だ。「史跡」になれば発掘は可能になるのを承知しての確信犯であり、学匪どものあれやこれやの尤もらしい屁理屈も奸智奸策に過ぎない。

 彼らは目的は、立ち入り調査という「権利」を確保し、発掘という「権利」の実行を目論むことは火を見るより明らかで、そしてその結果を「科学的証拠」として巧みに利用し、我が皇室の歴史を批判、誹謗するかが目的なのだ。

 御陵や墳墓などの発掘の真の狙いは、皇室の否定と解体そのものに在り、左翼が目指す「天皇制廃止運動」の一環と断じても過言ではない。

 朝鮮や支那では、墓を掘り起し、死者に恥辱を与えるというのは珍しくもないが、「墓を発く」「死屍に鞭打つ」という発想は、我が国では死者への最大の非礼であり糾弾されるべき蛮行だ。

 御陵は断じて文化財や史跡として考えるべきものではなく、民間調査などという対象になるべきものでもない。

 最近では「御陵を世界遺産にしよう」などという戯言を宣う輩まで出ているのは、日本人の精神的幼稚さを示すものの一つだろうが、御陵は国民挙って崇拝し、伏し拝むべき神聖にして侵すべからざる聖域である。

 西村真悟は、仁徳天皇陵のこうした現状と将来を憂い、「共に力を合わせて、我が風土における国体の尊厳を取り戻す政治を実現しましょう」と事務所建設阻止を訴えているが、蓋し正論である。

 戯言を抜かす学匪どもと、それに与する輩を一掃しよう!

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2013年10月12日

七生までも同じく人間の世界に生まれ代わり朝敵を滅ぼしたいものです


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 ここのとこの陽気で桜が咲いたところもあるとか。そういう我が家の朝顔ももう終わったと思っていたらボロボロだが大きな花と小ぶりなのが二輪も咲いた。

 「七生報国」という言葉がある。七度生まれ代わっても朝敵を滅ぼすという覚悟だが、この言葉は楠木兄弟の生き様から作られたものだ。

 楠木正成は討死の直前、弟の正季にこう尋ねる。

 「人は死ぬ直前の思いによって生まれ代わる先が違って来るという。人が生まれ代わる先には九つの世界が在るらしいが、お前はどの世界に生まれ代わりたいか」

 その時、正季はカラカラと打ち笑いて、「七生までも同じく人間の世界に生まれ代わり朝敵を滅ぼしたいものです」

 それを聞いた正成は、よに嬉しげなる気色でこういう。

 「罪業深き悪念ではあるが、私もそう思っていたところだ。さあ、共に人間の世界に生まれ代わって、その願いを果たそうではないか」

 こうして二人は討死にするのである。

 この世を超え、生き代わり死に代わりつつ「永遠」に生き続ける魂がある。その事を、楠木兄弟は確信し「笑って逝く」ことが出来たのであろう。

 歴史上、その様な生き方をし、死に方をした人々は無数に存在する。何より、先の大東亜戦争で見事な最後を遂げた英霊もその「義」を貫いた方々である。

 あの若者達の最後は、余人の想像を絶する悲しみや苦しみの世界を潜り抜けたに違いない。彼らの渾身の悩みに比べれば我々の悩みなどちっぽけなものだ。

 しかし、出撃直前の様様な記録や写真などから感じるものは、悲壮感というより、正に楠木兄弟と同じ「カラカラカラと打ち笑って」とでも「よに嬉しげな気色」とでもいう様な不思議な透明感である。

 その不思議な透明感は山口二矢や三島由紀夫、森田必勝、野村秋介といった方々の見事な自裁も同様で、楠木兄弟と英霊の方々のその崇高な精神は、時空を超えて今も明らかに感応している。合掌。

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2013年10月11日

安倍よ、そして政治家よ、隗より始めよ!


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 総選挙前、実家「相模屋」のカツ丼を食べてくれたから安倍を支持した訳ではない。語ってた政策の中で、「将来を担う子供達が自分の国に誇りの持てる教育を施す」との、その一言で支持出来ると思ったからだ。

 安倍よ、経済ばかりでどうしたら子供らが誇りが持てる様になるのか。将来の子供達は、我々が遺した借金の返済だけをしてればいいのか。

 「断腸の思い」と悔しさを滲ませた靖國への参拝も前回同様「真榊」奉納でその場を誤魔化し、「戦後レジームの総決算」と宣いながら集団的自衛権さえも憲法解釈で誤魔化そうとしているが、今やらずにいつやるのか。

 「今でしょ!」などと揶揄するつもりもないが、国の基本法である憲法の改正無くして戦後政治の総決算など出来る訳はない。改憲さえも手を拱いていて、どうやって「誇りの持てる教育を施す」のか。

 政治で大事なものは経済に非ず。未来の子供達を思えば「国防」と「教育」にこそ心血を雪ぐべきなのだ。

 だが「誇りの持てる教育を施す」と大見得を切った安倍も歴代の首相と何ら変わることなく、教育をほっぽり投げ、民主党の遺した愚策を継承し景気対策やら財政再建やらを優先するばかり。

 「教育」を疎かにし、政治家がカネの分配ばかりに狂奔するとは本末転倒である。「国防」にしても集団的自衛権を憲法解釈で誤魔化そうとするのが関の山。「戦後レジームの総決算」とは所詮はそんな薄っぺらいものだったのだ。

 「国防」とは単に領土だけを護ることではない。国を護るということは、国柄である民族、宗教、言語、​歴史、価値観、習慣、制度を護ることであり、世界の中で最も優れた我が国の精神文化​や未来を担う子供達、そして何より皇統を死守し継承して行くことに他ならないのだ。

 本を糺さず、その場凌ぎの偽善に狂奔し、自己保身、権力欲に溺れた現在の我が国の政治屋は、「自由主義経済」や「グローバル経済」に狂奔しながら詭弁を弄し、己を正当化しているが、こうした米国主導の醜い経済競争への追随は軽佻浮薄な愚行そのものであると断じざるを得ない。

 奔放に生き、世界を流浪し、大勢の知己友人を持つ日本の誇るべきナショナリスト・岡倉天心は斯く言う。

 「ああ西洋開花は利欲の開花なり。利欲の開花は道徳の心を損じ、人身をして唯一個の射利器械たらしむ。貧者は益々貧しく、富者は益々富み、一般の幸福を増加さする能はざるなり」

 「射利」とは、「手段を選ばず利益を得ようとすること」だが、消費税の値上げにしろ、TPPにしろ、この「射利」そのものだ。

 国民の幸福ではなく、共産党が吠えている様に、消費税増税とTPP参加は「大手資本と特権階級の保護を目的とするものだ」と断じても強ち間違いではあるまい。

 岡倉天心は外交交渉の上でも我が国の伝統文化に目を向け日本文化を鼓吹した。現在の我が国の政治家や官僚に決定的に足らないものがこうした国家観と気概だ。

 我が国では国の礎となった英霊の方々は国家から顧みられることが少ない。何故ならそれは政治家が中韓に諂い、英霊に感謝の誠を示さないからだが、このことがどれだけ国民精神の頽廃に繋がり、政治家の為体を招いているのか、安倍や政治指導者は考えたことがあるのだろうか。

 愛国心の欠落、その結果としての国防意識の低下、日本人としての誇りや自信の喪失、子殺しや親殺し等々、日本の社会に蔓延する問題の全ては靖國の問題に起因していると言っても過言ではない。

 消費税値上げにしても、偉そうに未来を語り、財政再建の痛みを国民に押し付けるなら、歳費を返上しろとは言わないまでも、国民から詐取している「政党交付(助成)金制度」を廃止し、準公務員的な立場から脱却すべきだろう。

 安倍よ、そして政治家よ、隗より始めよ!

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2013年10月10日

10月10日は「体育の日」。「ハッピーマンデー」を廃止しよう!


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 昭和39(1964)年10月10日、「東京オリンピック」が開催された。アジアで最初の、また有色人種国としても初のオリンピックが開催された日に由来した「体育の日」のその意義を、我々は決して忘れてはならない。

 未だ幼かった為に記憶は殆ど無いが、地元の円谷幸吉選手の銅メダル獲得と、その4年後のメキシコシティオリンピック前、「幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」と言い残し自殺したことは子供心に衝撃を受けた。

 今でも「とろろメシ」を食べる度に、「三日とろろ美味しゅうございました・・・」と綴られた円谷選手の遺書の一節を思い出す。

 毎年10月10日、実家では「紋付き祭り」が開催される。だが、「祝日法」が改悪により、所謂「ハッピーマンデー」が施行され第二月曜日が休日となってからは、祭りは10日に関係なく「土日月」に開催される。

 第二月曜日が祝日になることが何故「ハッピー」なのだろう。月曜日が祝日となったことで、例えば教育現場では月曜日の授業分の字数が減って、それを補う為に教員らは色々と苦労を強いられている。

 所謂「ハッピーマンデー」なる愚策は、左翼陣営が国體破壊を目的として、その休日の意義を薄れさせる為に施行されたものだが、こうしたものに自民党や保守を標榜する政治家が同調して来たのは実に御粗末過ぎる。

 10月10日の「体育の日」は東京オリンピックだし、1月15日の「成人の日」にしても、何故1月15日なのかと言えば、この日が「小正月」であり、神道の儀式の一つ「元服の儀」が小正月に行われていたからだ。

 国體破壊を目指す左翼陣営の最終目的は、我が国の重要な祝日である「勤労感謝の日(新嘗祭)」や「建国記念日(紀元節)」を第二月曜日にすることにある。

 「勤労感謝」というと何か、労働していることに感謝する様に思ってしまうが、本当の意味は「人々の勤労によって生み出される万物の生産を祝うもの」だ。

 神の加護による農作物を始めとした恵に国民が互いに感謝し合う日なのだが、その意味を取り違えている国民は少なくない。やはり「勤労感謝」というより、「新嘗祭」という名称が相応しい。

 また「建国記念日」にしても、三笠宮崇仁殿下の「紀元節祭復活は科学的根拠に欠ける」と、皇居皇霊殿での祭祀に反対している意見を利用し、2月11日に拘る必要なしなどとしているが言語道断。

 左翼陣営はこうした既成事実を積み重ねることによって、日本の歴史や伝統、文化を否定する論拠とするというのは言わずもがな。

 本来「祝日」と「休日」では全く意味が違う。「祝日」には夫夫意味が在り、その日に祝うからこそ、その価値が見出される。我が国の「祝日」ほど国柄や国體の精華を理解出来るものはないのだ。

 GHQが我が国の歴史や伝統、文化を否定することから始まった「祝日法」を再改正し、「ハッピーマンデー」を廃止し、本来の在るべき姿に見直すべきだ。

 まぁそんなとこですが、「祝祭日には国旗を掲揚しましょう!」というスローガンにも違和感を覚える一人です。呵呵。

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2013年10月09日

「ヘイトスピーチ」元凶は相手が朝鮮人だからと野放しにしていた行政側の責任が大きい


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 在特会の抗議行動が「差別」だと認定される判決が出た。差別や偏見的発言が否定されるのは理解出来なくもないが、そのアジ演説は品が無いだけで、それが在特会の表現方法ならそれはそれでいいではないか。

 日本国憲法下では「表現の自由」や「集会・結社の自由」が保障されており、控訴によって覆る可能性は否定出来ず、最高裁では難しい判断が求められるだろう。

 抑々、在特会が主張しているのは「在日特権」であり、今回の抗議も京都朝鮮第一初級学校の近隣公園の不法占有が原因だ。今回の問題の元凶は相手が朝鮮人だからと野放しにしていた行政側の責任が大きい。

 在日特権が与えられる契機となったのは、昭和27(1952)年1月、韓国初代大統領・李承晩が国際法を無視し、軍事境界線、所謂「李承晩ライン」を設定し、竹島を取り込んで韓国領と宣言したことに始まる。

 当時は未だ占領下で無力な我が国の立場を見透かし、泥棒猫の様に竹島を掠め取ったというのが真相だ。我が国の主権が恢復される3ヶ月前のこの侵略行為は国際法上の観点からも断じて許されるものではない。

 戦後、「李承晩ライン」を侵犯したとして不当に拿捕され、抑留された日本人漁民は「日韓漁業協定」が成立する昭和40(1965)年までに3929人に及び、船舶328隻、死傷者は44名を数えた。

 韓国政府は日本人抑留者との引換えに、日本国内で犯罪を犯し収監されていた在日朝鮮人犯罪者472名の放免と日本滞留特別許可を要求し、日本政府は已む無くその要求に応じた。譲歩が更なる譲歩を生む最たる例であろう。

 「在日特権」や戦後の日韓関係を知る上でも、「竹島」が不法占拠された経緯を再検証することは大事だ。

 日本人同胞の救出という大義名分があったにせよ、不当要求に屈したのを機に在日が殖え続け、「差別だ!」と吠える在日に特権が次々と与えられて行くこととなった。これこそが戦後の日本外交の悪しき前例となり、在日への弱腰的優遇政策が現在も継承され続けている。

 「ヘイトスピーチ」ばかりが話題に上がるが、行政側の職務怠慢を看過し、街宣は公共の福祉に抵触すると差別認定し摩訶不思議な判決を出した司法にしろ、国益とは無縁の他人事でしかない。

 今回の在特会の抗議行動も、その元凶は朝鮮学校の不法占有であり、その経緯を見れば竹島の不法占拠と同じゴネ得だろう。

 こうした朝鮮人の違法行為には寛容で、在特会側のみに多額の賠償を請求し、一方的に断じることは本末転倒と言う他はない。

 パチンコ屋を筆頭に、朝鮮人らが戦後のどさくさに紛れて不法占拠した土地は日本中には数多く存在する。こういう事実は余程のバカではない限り知っているが、今回の判決でそうした実態を暴くのは困難になるだろう。

 今回の摩訶不思議な判決で朝鮮人を付け上がらせる結果となるのは必至で、在特会が指摘する違法行為や不法占有、在日特権の実態を精査することまでもが憚れる様なことになればそれこそ在日らの思う壺だ。

 高額な賠償金の捻出は大変だろうが、在特会はこの判決に怯むことなく、裁判闘争によって在日特権を世間に曝して欲しいものだ。

 朝鮮学校側の不法占有を断ぜずに在特会ばかりがやり玉に挙げられるのは公平・公正とは言えない。この摩訶不思議な判決を機に在日への優遇政策を直し、違法行為は徹底して排除・摘発するべし!

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2013年10月08日

「読書の秋」、読書の心得事三箇条。「崇拝」「反抗」「衒学」


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 滅多にテレビは見ないが、愚妻が録ってる番組は時々見る。先日、明石家さんまが司会の「ほんまでっか」で何処かの大学教授がいいことを言っていた。

 「読書の秋」、本を読む機会が多いが、本を読む際に気をつけなければならない心得事が3つあるという。

 1つ目は「崇拝」
 2つ目は「反抗」
 3つ目は「衒学(げんがく)」である。

 1番目の「崇拝」というのは、自分が尊敬している先生や著者の本は、書いてある事が全て正しいと思いがちだが、信じ込み過ぎないことが大事。

 2番目の「反抗」というのは、自分が嫌いな考えの人物や著者の本は、初めから粗を探そうと読んでしまいがちだが、揚げ足を取ろうとして読まないことが大事。

 3番目の「衒学」というのは、自分の学識・博識を、見せびらかすつもりで読まないようにすること。

 新渡戸稲造の「武士道」にも書いてあるが、武士道で一番嫌われることはこの「衒学」。武士は決してひけらかす様なことをしてはならない。

 この3つの心得事に共通している事は、 「本は先入観を持って読書をしない方が良い」ということ。「バカの壁」なんてのがベストセラーになったが、要はアレと同じ。固定観念はダメということ。

 安倍さんを信じきってる人や宗教に嵌る人、或いは自虐史観に陥ってる人やその逆の考えに凝り固まってる人、或いは聞き齧った言葉を然も自分の言葉の様に周辺にひけらかしている人はいませんか。

 「小人の学は耳より入りて口より出ず」とか「言いたがり屋は聞き齧り屋」ともいうが、実に耳の痛い話だ。

 学ぶということは本来、他人を説得したり論破する為のものではなく、自分自身の人格向上や、どう生きて行くかといったことに答えを見出すものではなくてはならない。

 仲間にしか通用しない請け売りの理論や付け焼刃の知識を、然も斬新な言葉や理論であるかの様に自分自身に酔ってる輩を見掛けるが、そんな衒学臭い理論では世の中どころか仲間でさえも感化させることは出来ない。

 人間関係も同じ様なもので、崇拝し過ぎたり、訝しがってばかりいたりしてもダメだし、或いは自慢話ばかりだと嫌われる。外見や肩書など先入観や固定観念を無くして付き合う方が相手のことがよく見えるのは確かだろう。

 愚生は読書は雑駁に、ジャンルを問わず、スケベなものから難しいものまで幅広く読むのがいい。ひとつのものを突き詰めて調べるより、広く浅く、よく言えば「浅学菲才」っていう響きが好きだ。

 雑駁な読書によって色々な情報や知識を浅くて幅広く得ていると自負しているので、どんな人ともどんな話題でも対応出来る自信はある。

 まぁそれでもどちらかといえば「読書の秋」より「食欲の秋」が好い。呵呵。

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2013年10月07日

1949(昭和24)年10月1日、中華人民共和国建国。この意味を知れ!


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 狭い日本にゃ住み飽いた。海の彼方にゃ支那がある・・・長白山の朝風に剣をかざして附し見れば、北満州の大平野、俺の住処にゃまだ狭い♪この「馬賊の歌」では実に浪漫を感じさせる歌だ。

 10月1日前後の中共は建国記念日の「国慶節」で盛り上がる。これは1949(昭和24)年10月1日に天安門広場で建国式典が行われ、毛沢東により「中華人民共和国(中共)」の成立が宣言されたことにちなんだもの。

 日頃、「中国4000年の歴史」などと宣って憚らないが、実はたった64年の歴史しかない国だ。逆説すれば、一党独裁の中国共産党政権が半世紀以上も続いているのだから驚く他ない。

 未だ共産主義を最高原理として崇め、神や仏という共産主義を超える最高の存在を許さず、人民には信仰の自由、集会、結社、出版、言論等々基本的人権が無い。

 「満州」「内蒙古」「チベット」「新疆」を侵略し異民族を虐殺、共産主義と漢民族化を強制し、清朝時代の最大版図を「歴史的領土」とするばかりか、尖閣諸島や東シナ海、南シナ海をも併呑しようする中共の野望は尽きない。

  中共は尖閣問題で、国連に於いて「敗戦国(日本)が戦勝国の領土(沖縄・尖閣列島)を占領しようとしている」と発言した。

 これは国連憲章第53条、第107条の、「旧敵国条項」の「連合国の敵国であった日本などが再び侵略行為を行った場合、他の国は安保理の承認なしに武力行使出来る」という規定を意識した発言だ。

 つまり、中共は戦勝国として、我が国を監視し、我が国の如何なる理由による防衛も侵略行為と断定すれば、一方的な武力行使は可能なのだ。

  だが、我が国が先の大戦で戦ったのは「中華民国」であり、戦後4年も経ってから建国された共産党一党独裁の中共ではない。

 日本国内では相変わらず中共に媚びる報道が垂れ流され、国民は誤った情報に振り回され続けているが、節操も無く中共に靡く輩が多いのは厭きれ甚し。

 共産主義一党独裁の中共と友好関係を続けていること自体、国益を大きく損なうものであり、日中外交戦略の見直しを急がなければならない。

 抑々、世界でも稀有なことに64年も共産党一党独裁が続いているのは、我が国の朝貢外交が影響しているのは否定出来ない。

 我が国は先の大戦で、アジアを侵略したのではない、アジアを侵略していた連合国に対して戦ったのだ。戦後、多くの植民地の解放が実現したことは、大東亜戦争が大義ある戦いだったことの証明でもあろう。

 それでも尚、我が国がアジアの人々に謝罪し、その罪を償う必要があるというなら、最大の過ちは、戦後、共産主義の跋扈を許したことであり、その償いは共産主義を失くすこと以外にない。

 共産主義の撲滅は世界の悲願であり、支那の民主化が世界平和を齎すと言っても過言ではない。日本こそがその先頭に立つべきであり、先ずは国内に巣食う漢族や不良支那人、蛆虫・共産党や日教組、全教等の共産主義勢力を一掃しよう!

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2013年10月06日

ケリー国務長官らの千鳥ヶ淵への参拝は「国立戦没者追悼施設」建設への布石


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 過日、ケリー米国務長官とヘーゲル米国防長官が千鳥ケ淵戦没者墓苑を訪れた。極めて異例のことで、何故に今なのか。何故に千鳥ヶ淵墓苑なのか。

 同行した米国防総省高官は記者団に対し、千鳥ヶ淵戦没者墓苑はアーリントン国立墓地に「最も近い存在」だと説明したという。

 ケリー国務長官とヘーゲル国防長官も「日本の防衛相がアーリントン国立墓地で献花するのと同じ様に戦没者に哀悼の意を示した」と述べた。

 これは、米国が日本の戦没者を追悼する場所は、靖國神社ではなく、千鳥ヶ淵墓苑であり、アーリントン墓地に相当するのは靖國ではなく千鳥ヶ淵墓苑だという米国からの警告だろう。

 米国にとって、これ以上、靖國問題で日中韓の軋轢が広がることは米国の国益をも損なう恐れがあるとの判断から、千鳥ヶ淵を「国立戦没者追悼施設」として建設を急ぎ、決着を図れという政治的メッセージ。ハッキリ言って大きな御世話だ。

 最近は異国の地で亡くなった戦没者の遺骨収集が話題になるが、収拾された遺骨は全て千鳥ヶ淵の戦没者墓苑に納められる。

 持ち帰った遺骨は遺族に行くことは殆どなく、千鳥ヶ淵墓苑に納められる訳だが、満杯状態というのが現状だ。

 死生観の違いだろうが、異国で草生す屍となった英霊の遺骨を無理してまで持ち帰ることに違和感を覚える一人だ。

 遺骨が埋葬されてるいう理由だけでこの墓苑が拡張整備され、ここが「国立戦没者追悼施設」になる危険も孕んでいるのだが、それを危惧する国民は少ない。

 そうした風潮を利用し、その為の布石だと思えば、ケリー国務長官らの行動は納得出来る。

 異国の地で草生す屍となった英霊の御霊は靖國に帰り、我が国の行く末を照らし続けているのは申すまでも無いが、戦没者の鎮魂と追悼、そして顕彰を考えれば、靖國の在り方こそ論じ対処するのことこそが大事だ。

 遺骨は仏教的意味合いが強く、魂こそ大事だとする神道との違いだろう。仏教徒が多い日本では遺骨が納められている千鳥ヶ淵墓苑の方が追悼施設として分かり易く、米国首脳の参拝は世論攪乱の狙いもあるのだろうと感じる。

 靖國は日本人の精神そのものだ。靖國神社には246万6千余柱の神霊が祀られているが、別に遺骨が納められている訳ではない。靖國神社は神霊を只管お慰めし顕彰する神社だということを未だ勘違いしている人も少なくない。

 神道の教えは、異国の地で屍となった神霊は存在し続けるというのが神霊観念であり、遺骨収集は靖國とは別問題なのだ。

 仏教徒が多い日本では遺骨こそ大事だという声は少なくなく、戦没者の遺骨が眠る千鳥ヶ淵こそ国立墓苑に相応しいとなれば、靖國の存在意義が廃れることを危惧せざるを得ない。

 万が一、千鳥ヶ淵墓苑が国立戦没者追悼施設になったとしても、「靖國で逢おう!」と散って逝った英霊に感謝し、崇敬の念を捧げる国民が絶えることはない。

 政党助成金で準公務員化し、国家観も何もない議員なんぞは千鳥ヶ淵に行けばいいし、政治家が靖國から遠ざかってくれることの方が有難い。

 靖國神社の大祭に限り、天皇陛下が御親拝せられたが、政治家の不作為でそれが叶わなくなって数十年の年月が経った。

 陛下の御親拝は正に聖恩無辺、英霊並びに遺族にとっての感激と光栄、これに優るものはなかったのだ。それを政治家如きが中韓からの圧力に屈し、陛下の御親拝が鎖されたことほど惨い話はないと思う。

 ケリー国務長官らの暗黙の圧力で、ヘタレの安倍は、またしても靖國神社例大祭への参拝を見送るだろうとは、チョッと穿ち過ぎか。

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cordial8317 at 06:27|PermalinkComments(0)

2013年10月05日

「国を支えて国に頼らず!」とは福澤諭吉の言葉だが、どう感じますか?


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 「志定まれば、気盛んなり」、安倍は消費税値上げの詭弁会見で吉田松陰の言葉を引用し、その正当性を主張した。

 民主党政権下で首相に就任した鳩山や菅、野田らも維新の偉人の言葉を得意気に語ったことは記憶に新しい。

 鳩山は、民主党政権誕生を「平成維新」に喩え、弟の邦夫も邦男で「平成の坂本竜馬になる」などと悦に入っていた。

 菅は初閣議で「平成の開国」だとしてTPP参加を表明し、その内閣を「騎兵隊内閣」だと誇らしげに語った。

 野田は所信表明演説で、「政治家に求められるのは『正心誠意』の四文字が在るのみ」と強調した。

 「正心誠意」は、勝海舟の談話集「氷川清話」からの引用だ。

 真に国益を重んじ、滅私奉公を厭わないというならば、明治維新の立役者らの言葉を引用しても結構だが、言葉だけで実行も、また実践した上での失敗を反省し、そこから学ばないのでは意味はない。

 国士舘の教えには「誠意・勤労・見識・気魄」の他に、「読書・実行・反省」というものがある。よく読んで、いい処を実行すれば失敗もある。ここから大事なのは失敗からの「思索」にあるのだ。

 政治家に足らないものは「反省」と「思索」。安倍もまた、松下村塾出身者の如く長州との縁を口にするなら、先ずは先人に学び、隗より始めるべきだ。

 といっても長州人でも色々で、菅なんぞは会津戦争で悪逆無道の限りを尽したクソ共とどっこいどっこい、やればやるほど嫌われるのがオチだ。

 「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という。

 アベノミクスも結構だが、財政再建をする上で見倣うべき歴史上の人物は米沢藩第九代藩士の上杉鷹山だ。鷹山公はこう教える。

 「単に帳簿上の赤字を克服すれば財政再建が出来るという訳ではない。今は困窮の余り、この国の人々は目先の利益のことしか考えず、他人のことを思い遣れなくなっている。人々の心にも赤字が生じてしまったのだ。これを克服しなければ、喩え帳簿上の赤字を克服したとしても、また同じことを繰り返すだろう」

 鷹山公が訓えた様に、現在の我が国に必要なのは目先の財政再建策より、先ずは心の赤字の解消と克服、つまり道徳教育の充実を図ることこそ大事。

 国民もまた国から何でもやって貰うという考えではなく、国民夫夫が国を支えて行こうという意識が大事なのだ。

 「国を支えて国に頼らず!」とは福澤諭吉の言葉だが、どう感じますか?

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cordial8317 at 07:44|PermalinkComments(1)

2013年10月04日

神代の時代より現在まで一貫して貫く精神こそが神道であり、正に神道なくして日本なし


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 「遷御の儀」に、首相として戦後初めて安倍晋三首相が参列した。菅官房長官は「私人としての参列で、国の政教分離原則に反するものではない」と説明するも、疑問を呈する声も聞こえる。

 平野武龍谷大名誉教授は「一宗教法人に過ぎない伊勢神宮の儀式に首相が出席することは、国にとって特別な存在だというメッセージを与える。首相という立場の人がやるべきことではない」と批判する。

 一方、大原康男国学院大名誉教授は「首相が出席したことで他の人の信教の自由が侵害されたわけではない。日本の伝統行事に国民の代表として参列しただけで、何ら問題はない」と話し、公人として出席しても問題はないとの考えを示した。

 日本人ならば大原名誉教授の意見に賛同するだろうが、日本国憲法的に見れば首相の「遷御の儀」の出席は悲しいかな憲法違反なのだ。

 日本国憲法第20条は次の様に記されている。

 1.信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。

 2.何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。

 3.国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

 政治家が自主的に宗教行事に参加するのは否定されないが、総理大臣や国務大臣、政務官など国や国に係わる者が宗教活動に参加することは認められてはいない。だから「私人として」などとの詭弁を弄するのだが、これ即ち、憲法に抵触しているということを承知している証左であろう。

 神道というのは日本人の心である。欧米人からキリスト教を取り去ったら欧米人でなくなる様に、日本人から神道を取り除いたら日本人でなくなってしまうのだ。

 現在の日本に必要なことは、国家民族の最も基盤となるべき自己本来の宗教たる神道について、正しく認識することである。

 それには、古事記、日本書紀、万葉集、古今集、源氏・平家物語などの謂わば神道の経典というべき古典に触れることこそ肝要である。

 現代の日本人は余りにも神道の価値について盲目過ぎる。神代の時代より現在まで一貫して貫く精神こそが神道であり、正に神道なくして日本なし。

 神道は憲法以前から存在するものであり、日本の総理大臣の参拝が憲法に抵触するなら、憲法こそ改正すべきだろうし、抑々「国體」の何たるかも明記されていない様なクソ憲法は即刻廃棄するのが一番。明治欽定憲法の復元・改正を急げ!

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cordial8317 at 06:50|PermalinkComments(1)

2013年10月03日

いにしへの姿のままにあらためぬ 神のやしろぞたふとかりける(明治天皇御製)


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 皇大神宮(伊勢神宮)の式年遷宮というより神道最大且つ最重要の儀式である「遷御の儀」が昨夜厳かに斎行された。

 式年遷宮とは、20年に一度、神様に新しい社殿に遷り戴き、神の瑞瑞しい力の蘇りを祈る神事であり、「大神嘗祭」とも呼ばれるものだ。

 繰り返し再生することで、いつも変わらない姿で、瑞瑞しいままに「永遠」を目指すことを「常若(とこわか)」といい、「常若」こそが神宮の大本の精神であり、この思いと祈りこそが先人の英知を象徴していると言えよう。

 「万葉集」の時代、全てのものには魂が宿るとする信仰があった。米には稲魂(いなだま)、木には木魂(木魂・こだま)、言葉には言霊(ことだま)。国にも国魂(くにだましい)が在るとされた。

 オオヒルメムチといわれた「天照大神」は光の魂であり、日霊である。その神や国の魂を清新にすれば、我が国は若々しく、愈々栄える。つまり弥栄(いやさか)になるとされたのだ。

 20年ごとに日本の国の魂を生まれ変わらせることによって、国家が若返り、そのことにより永遠を目指そうとするのであるが、何とロマンチックで素晴らしい想いだろう。

 「常若」というのは、「古事記」や「万葉集」にある「常世(とこよ)」と同じ様に御目出度いことで、室町時代の古文書にもしばしば出てくるが、いつも若々しいこと、永遠に若いことを意味し、それは正しく神宮の目指す理念である。

 いにしへの姿のままにあらためぬ 神のやしろぞたふとかりける

 「式年遷宮」の神事を見入りながら、日本人として生まれた喜びを感じるとともに、この古から続く精神こそ受け継いで行かねばならない。すめらぎいやさか。



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cordial8317 at 05:58|PermalinkComments(0)

2013年10月02日

消費税増税、「熱狂する大衆のみが操縦可能である」とはよく言ったものだ


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 「熱狂する大衆のみが操縦可能である」とはヒトラーの言葉だ。昨日の消費税値上げ報道に対し、あ~だ、こ~だと、然も評論家の如く振る舞う自称保守を見てて、こういう大衆こそが国を危ぶむ勢力にも与するのだろうと傍観してた。

 「消費税増税は保守派分断の契機になる」などという声も聞くが、果たしてその「保守」とは何ぞや。正統の保守主義者とは過去の意味を直視し、その中に価値を見出す発見によって未来を創造して行くものである。

 だが現在の自民党も、民主党も、自称保守派も、未来が全てであり、これは保守ではなく完全な自由主義者であり、新保守主義だ。そんな「保守」など分断したところでどうってことは無い。却って結構なことではないか。

 我が国の「保守」は最早、欧米のそれと同じであり、保守したいのは己らの体制だけではないのか。「尊皇」なくして何が保守か。

 国民もまた、魂亡き繁栄に現を抜かし、国の大本を忘れ日本精神を失い、自己保身、偽善のみに狂奔していながら他人を責め立てるのは一丁前。

 消費税如きで「日本は滅びる!」とか「日本が危ない!」と徒に危機を煽り、日本が滅亡するかの様に叫ぶ自称保守や営業右翼がいるが、神国日本の不滅を確信せずに何が保守か。何が愛国者か。

 抑々、民主党政権下で提出された「消費税増税法案」に自民・公明が政争の末に合意したことが問題であり、戦後レジームの総決算を訴える安倍がこうした柵から抜け出せないことが大問題なのだ。

 「必要不可欠なのは、一人の指導者の意志、一人が命じ、他の人はそれを実行すればよい」とヒトラーは言う。何事も安倍一人の判断が大事なのだ。

 安倍が「社会保障制度を次世代へ引き渡す」というならば、日本国民の為に在るべき社会保障や国民医療が、今や在日や支那人、不良外国人の犯罪の温床になっている現状も剔抉粛清すべきだあろう。

 それと、いい加減、国家観の違う連中と徒党を組むのは止めるべきで、党内に巣食う獅子身中の虫を炙り出し、国民にその売国性を曝すべきだ。

 憲法改正にしても靖國問題にしても国家観に関わることであり、これを機に国家観による政界再編こそが正しい道なのだ。

 保守政党を標榜する自民党が、民主党の遺した愚策を引き継ぐことや、カルト宗教傘下の政党が政府与党の一翼であることが我が国の不幸であり、国益を重んじるならば政界再々編を急ぐべし。

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cordial8317 at 06:35|PermalinkComments(0)

2013年10月01日

消費税引き上げは「三党合意」を優先した結果だろう


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 消費税が引き上げられる。国民総評論家の現代、消費税議論も経済評論家ばりに、「今、消費税を上げれば~」だとか、「景気が~」だとか喧々諤々の議論がされてる様だが、抑々、消費税引き上げは社会保障の安定財源確保の為のものであり、その肝心な社会保障の在り方は全く聞こえて来ない。

 消費税の引き上げは、平成24年3月30日に野田内閣が提出した「消費税増税法案」等の法案について民主党と自民党、公明党三党が修正協議を行い、その結果を以て法案成立ありきの流れで行われて来たものだ。安倍にしてみれば景気との兼ね合いよりも、政治的に三党合意を優先した結果であろう。

 国民医療費は年に1兆円ずつ殖え、昨年度は約38兆4000億円。内、高齢者の医療費は約半分で、1人当たりの医療費も前年度より1・9%増加して30万1千円と歯止めが掛からない状況だ。

 我が国の歳入は約40兆円ほどで、その殆どが医療費で消えてしまう計算。このまま行けば約10年後には国民医療費は50兆円を超えると予想されている。

 新薬や医療技術が向上するのは大いに結構な話しだが、華美で分不相応な病院施設も目立つのも事実で、「本当にそんなものが病院に必要なのだろうか」と疑問を抱く国民も多い。医療に携わる医師や製薬会社が「医を以て世に尽くす」という根本に立ち返らない限り、医療費は殖え続けるだろう。

 厚労省は価格の低い「後発医薬品(ジェネリック)」の利用促進や入院日数短縮など、医療費抑制策に取り組んではいるが、現実的には「焼け石に水」、医療費高騰に歯止めが掛かるどころか膨らむ一方なのだ。

 「乱診乱療」「薬漬け」「保険点数の水増し請求」「大口脱税」など医師会や営利に狂奔する悪徳医師の構造的腐敗にメスを入れることが、こうした膨れ上がる医療費の見直しにも繋がる訳だが、如何せん、「日本医師会」の集票力とバラ撒かれる政治献金で誰も医療の世界に口出し出来ないのが現状だ。

 高齢化社会に向け、社会保障の充実や医療技術の向上を図ることは結構なことだが、日本医師会が牛耳る医療行政にメスを入れ、現在の「医は算術」と言わんばかりの医療制度の正常化を図ることこそ大事だろう。

 我が国の社会保障制度は世界でも優れた制度だが、一方で、抜け道が多く、不良外国人や支那人らの格好のシノギになっているのも事実。

 窃盗や強盗などのリスクの高い犯罪を犯さなくても簡単に稼げることを知った連中にとって「海外療養費支給制度」は打ち出の小槌。タレントのローラの父親がこの社会保障制度を利用し、口利き料を詐取していた事件は氷山の一角に過ぎない。

 こうした犯罪が急増したのは、民主党政権下で行われた「住民基本台帳法」の改悪だった。外国人でも3ヶ月以上の滞在で国民健康保険制度が利用出来る様になったことで、不正請求が急増した。こうした犯罪が後を絶たない現状をみれば早々に見直すべきで、消費税引き上げ議論と並行して実行することが求められる。

 健康保険の不正請求は詐欺罪であり、徹底して検挙すべきだが、在日を始めとした外国人への生活保護費支給も「憲法第25条」及び「生活保護法」違反だ。

 「人道的措置」という日本側の甘い措置が不良外国人の増殖を招き、社会保障の安定財源の確保さえも容易でなくなっている。こうしたことに目を瞑り、消費税の引き上げさえすればいいという様な安易な改革ならばやらない方がマシだ。

 不正受給には毅然とした対応で臨み、不正受給した外国人に対しては厳罰に処し、賠償請求するのは当然で、「払えない」とか「払わない」なら本国へ送還し、その国に対し賠償請求すべきで、国民健康医療制度も生活保護も日本国民の為のものでなくてはならない。

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cordial8317 at 05:25|PermalinkComments(0)