2013年09月

2013年09月29日

昭和47年9月29日の「日中共同声明」は無効である


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 今日は「反中共デー」であり、右翼民族派団体にとって8月9日の「反ロシアデー」に並ぶ記念日。全国で統一デモが行われる。尤も「反ロシアデー」にしろ「反中共デー」にしろ、マスコミから取り上げられたことはない。 

 我が国の主権が恢復した昭和27年4月28日、「日米平和条約」が発効された。そして同日、「報恩感謝」として中華民国(台湾)との「日華国交条約」も締結する。道義国家日本として当然の行動だろう。

 しかし、昭和47年9月29日、田中角栄は、「日中共同声明」に調印。中国共産党を唯一の政府であると認め、一方的に「日華国交条約」を破棄した。田中の行為は終戦間際に「日ソ中立条約」を一方的に蹂躙したロシアの蛮行と同じであり、決して赦されるものではない。

 「日華国交条約」の破棄は明らかな日本国憲法98条違反であり、締結していた条約の蹂躙は道義国家日本が失墜した象徴でもある。

 田中は更に、「先の大戦で中国国民に重大な損害を与えたことに、責任を痛感し、深く反省する」と詭弁を弄した。だが、我が国が先の大戦で戦ったのは中華民国であり、戦後に独立した中華人民共和国ではない。

 先の大戦での賠償は「日華国交条約」締結を以て終わっているのだ。

 田中のこうした誤ちと歴史認識が、今でも悪しき前例となり現在も受け継がれ、中共への優遇措置が講じられているのだ。

 「河野談話」や「村山談話」の見直しも結構だが、近隣アジアへの歴史の見直しをするなら、この田中角栄の「日中共同宣言」に遡らなければならない。

 抑々、我が国と支那の関係を「一衣帯水」だとか「古くからの隣人」などと心得違いをしている人が多いが、日中間に国交関係が樹立されたのは20世紀に入ってからで未だ100年も経っていない関係なのだ。

 「日中は同文同種、一衣帯水の関係」というのは全く誤った認識であり、これ即ち中国共産党の策謀に嵌っている証左なのだ。

 聖徳太子が607年、隋との対等外交に踏み切り、645年「大化の改新」を実現する。しかし、この後の663年、白村江(はくすきのえ)での敗戦を機に中華圏との正式な外交を絶った。

 その後、遣唐使が約250年間、菅原道真の献策によって廃止されるまで派遣され、唐の文化が、奈良時代の平城京を中心とした天平文化に影響を与えた例もあるが、国書を携えて派遣したのは「倭国」としてであり「日本」と名乗ってからは、一度足りとも正式な国書を携えた外交はない。

 明治4(1871)年「日清修好条規」を結んだ相手は満州人の清朝であり、支那を支配していたが漢民族の国ではなかった為に、支那との正式な外交は明治45(1915)年の「中華民国」誕生まで待たなければならなかったのだ。

 毎年9月29日は右翼民族派団体が中心となり「反中共デー」として中共の跳梁跋扈を糾弾しているが、この運動の輪が広がることで、日中関係のこうした歴史が明らかになり、対中外交が改まり、日華国交恢復が成されることを願って止まない。

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2013年09月28日

動いてならぬ時の軽挙妄動を戒める「風林火山」


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 武田信玄が「風林火山」を旗印に掲げたことは有名。この「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」の句は、「孫子・軍争篇第七」から引用したものだ。

 原文は、「故其疾如風、其徐如林、侵掠如火、難知如陰、不動如山、動如雷霆」。(故に其の疾きこと風の如く、其の徐(しず)かなること林の如く、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、知りがたきこと陰の如く、動かざること山の如く、動くこと雷霆(らいてい)の如し)

 ここで注目すべきは、作戦行動に於ける「動」と「静」の対比であろう。攻めるときは風の様に疾く、侵攻する時は燃ゆる火の勢いを以てする。

 しかし、この様な「動」だけの武将というのは歴史上数多く存在する。「孫子の兵法」で肝心なことは「静」の作戦行動であり、攻撃を中断する時は林の様に静かに、次の機会を待ち山の様に動かないことが大事だと訓える。

 動いてならぬ時に動いて失敗するというのは往往にして在ることで、「風林火山」とは、動いてならぬ時の軽挙妄動を戒めている。

 武田軍が無敵と言われたのもこの「静」の為であり、人生に於いても軽挙妄動の戒めは当て嵌まるとは思うが如何だろう。

 武田信玄の名言では、「人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり」というものがある。

 どれだけ城を堅固にしても、人の心が離れてしまったら世を治めることは出来ない。情けは人を繋ぎ留め、結果として国を栄えさせる。だが、仇を増やせば国は滅びるという意味だ。そういう信条から信玄はこう諭す。

 「凡そ軍勝五分を以て上となし、七分を以て中となし、十分を以て下と為す。その故は五分は励を生じ七分は怠を生じ十分は驕を生じるが故。喩へ戦に十分の勝ちを得るとも、驕を生じれば次には必ず敗るるものなり。全て戦に限らず世の中の事この心掛け肝要なり」

 十分の勝ちを得る事は驕りを生じると戒めた言葉だ。信玄らしい実に説得力のある言葉であるが、言い換えれば、勝ってばかりいては敵ばかりが増えるということでもあり、何事も程々を心掛けたいものだ。

 色川武大こと「雀聖」と言われた阿佐田哲也は、ギャンブルから学んだ人生観を相撲の勝敗に例え、「9勝6敗を狙え。8勝7敗では寂しい。10勝を狙うと無理がでる」と教えたという。

 「幸運が続きすぎると危ない」という考えから、ギャンブルに大負けすると「ここで不運を消化しておけば安心だ」とよく語っていたというが、勝負師としては武田信玄よりずっと分かり易いと思うのは愚生だけか(笑)

 「勝つと思うな思えば負けよ」じゃないが、勝とうと思うと実力を発揮出来ずに終わるということが多いが、「引き分け」でいいと思うと気負わずに出来るもので、そんな精神的余裕が勝ちに結びついたりするものだ。

 という訳で当面やることも無し、今月でシーズン終了の渓流釣りにも行きたいが「出れば出銭」だし、軽挙妄動を戒めて家でじっとしているしかないか。呵呵。

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2013年09月25日

「野村秋介先生追悼二十年特集号」。あれからもう20年か・・・


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 昨日、二十一世紀書院の蜷川代表から、機関誌「燃えよ祖国」が贈られて来た。いつも愚生の様な者にも気遣って頂き痛み入る。

 今月は「野村秋介先生追悼二十年特集号」。野村大人の著書は一通り読んではいるが、もう忘れている部分は多い。理論武装など考えもしなかった時代、「反共右翼からの脱却」を唱えた大人の見識に感銘したのを覚えている。

 愚生も大学時代、行動右翼のパイオニアを自任する防共挺身隊に身を置きながら、「日本論壇倶楽部」を立ち上げた。これからの右翼は理論が大事だと痛烈に思ったからだ。だが、それは如何せん理想とは違った。

 理論武装を訴えてから数十年が経ち、右翼陣営を見れば行動より理論とばかり、衒学臭げな請け売りの理論をひけらかす様になってしまった。もっと言い方を変えれば、右翼人の全てがこじんまりしてしまったということだ。

 一水会の木村代表が「右翼は終わってねえぞ」を出版した当初は大いに共鳴もしたが、残念ながら右翼は「もう終わった」といってもいいのではなかろうか。

 右翼陣営の指導者不足と資金不足は顕著であり、「右翼とは果たしてなんぞや」という問いに的確に答えの出せる人はいない。

 このままでは仁侠道を忘れたヤクザが暴力団化した様に、大義を見出せない右翼もまた淘汰されてくだろうことは想像するに余りある。

 野村大人は「さらば群青」で、「今、右翼にとっての真なる敵は右翼自身である。例えばフィクサーを気取ったただの金権右翼、思想も信念も持たないゴロツキ右翼、詩心を持たない乞食右翼等等、我が内なる敵は多岐にわたる」と喝破した。

 愚生はゴロツキ右翼と乞食右翼の両方か、或いは愚連隊右翼か。だが、現在の多くの右翼人よりは右翼らしい生き方を全うしていると自負している。

 野村大人はこう訓える。「絶望することはない。自らが学習し、自らが魂を磨くことによって、その内なる敵を凌駕し、払拭することは未だ未だ可能である」

 学習はもう十分過ぎるだろう。理論だけならネット右翼の方が数段も上だ。それよりも自らが魂を磨くことこそ大事なのではなかろうか。

 長幼の序は弁えてるつもりだが、唯単に年上だからと、或いは右翼だからと自分を誤魔化し、愛想笑いを浮かべて付き合うほど人間は出来てはいないし、意気にも感じない連中と付き合うことに意味が在るとも思えない。

 「国を滅ぼすは外患に非ず。内憂に在り」。右翼の敵は右翼自身だということはまともな右翼なら認識している筈だ。これは与党・自民党にもいえることだが、政治家のみならず右翼にしろ、全ての組織に当て嵌まることだろう。

 内なる敵と向かい合い、さらには剔抉粛清するには、慣例となってる仲良しクラブ的な行事は止めるべきで、柵は少ないに越したことはない。

 理論に長け、押しも強く、ヤクザにも顔が利き、マスコミやあらゆる分野に人脈を持つカリスマ・野村秋介の早過ぎた死は返す返すも残念でならない。

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2013年09月24日

「西郷南洲翁遺訓」は日本人必読の名著である


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 今日は西郷隆盛の命日。一般に西郷隆盛が本名となっているが、本当の名前は「隆永」。王政復古の章典で位階授与の際に親友の吉井友実が「隆盛」と届けた為に、それ以後は父の名を名乗った。

 「吉井どん、そりゃなかぞ!」。普通なら間違いを申請するだろうが、隆盛はそれを受け容れる。実に大らかな性格が垣間見れるエピソードだ。今の日本に西郷隆盛の様な指導者がいないことが「平成の不幸」であろう。

 政治家必携の本に「南洲翁遺訓」がある。政治家に限らず人の上に立つ者ならば必読の名著である。抜粋し現代語で要約すると。

 「万民の上に位置するものは、己を慎み、品行を正しくし、贅沢を戒め、倹約に努め、職務に努力して人民の見本とならねばならない。そして民衆がその働きぶりを見て『気の毒だなぁ』と思うようでなければならない」(第四条)

 「事を行う場合、どんなことでも正道を踏んで至誠を推し進めよ。決して策謀や不正を用いてはならない」(第七条)

 「人間が文明を開発するということは国家や社会の為である。だがそこには「道」がなければならない。何でも外国の真似をして、贅沢な風潮を生じれば人の心も軽薄に流れ、結局は日本そのものが滅びてしまう」(第十条)

 「道義心や恥を知る心を失っては、国を維持する方法は有り得ない。上に立つ物が下の者に対して利益だけを求めて正しい道義を忘れてしまうと、下の者も見倣って、人の心は皆金儲けの方ばかりに向いてしまう。上に立つ者は常に下の見本で有らねばならない」(第十六条)

 「どんなに立派な制度を作り或いは組織を形成したとしても、結局はそれを動かすのは人間である。先ずは人材の育成が最初であって、制度作りや組織変えはその後に来る。人間こそは第一の宝であり、自分自身でそうした立派な人間になることが肝要である」(第二十条)

 最も有名なのが「敬天愛人」の思想である、「道は天地自然の物にして、人は之を行ふものなれば、天を愛するを目的とす。天は人も我も同一に愛し給う故、我を愛するを以て人を愛する也」(第二十四条)

 「南洲翁遺訓」本編四十一ヶ条有るうちのほんの一部であるが、何れも含蓄あるものばかりで、如何に西郷隆盛が「仁者」だったか知ることが出来よう。

 昨今、政治家に限らず上に立つ者が、こうした「公の精神」を忘れ、私利私欲に狂奔している状況は目を覆うばかり。「中韓が~」だとか、「売国勢力が~」などと責め立てる前に、自分自身は果たしてそういう批判する資格はあるのか、「西郷南洲遺訓」を読んで見つめ直しては如何か。

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2013年09月23日

「晋どん、もうよか!」。この言葉こそ西郷の生き様を現している


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 やはり歳には敵わない。無事に帰還しホッとした所為か今頃になって旅の疲れが出て来た様だ。チョッとしたヨーロッパ旅行くらい出来る小遣いを持って旅に出たが、ほぼ使い果たし、残ってた金は来週車検だという愚妻に渡し、明日からまたいつもの生活に戻ります(笑)

 浪人を気取ってはいるが実際は乞食の様なものだ。だが金銭的には楽ではないが、「乞食の朝謡」という様に、サラリーマンや正業を持ってる方々よりは気楽なものではある。

 所属していた防共挺身隊は「総会屋右翼」やら「金権右翼」と揶揄されたが、初代総隊長の福田進、二代目・早坂光夫、三代目・對馬則政と30年も所属して幹部としてその恩恵を享けなかったのは愚生だけだ。

 それどころか、三代目の頃は愚生が苦労して捻出した金は殆ど家にも入れず活動費に使った。尤も、本部を当てにして、またそうしたオイシい思いをしたことが無いから、今の様な浪人暮らしも耐えられるのだろう。何事も物は考え様なのだ。

 若いうちの苦労や失敗は大きな財産を生む。苦難というものは醜い顔をし厭な顔をして苦痛の姿を採ってはいるが、実は吾等の敵ではなく味方である。

 苦難は一番親身に吾が身の為を思って突っ掛けてくる正義の友である。苦難は人を殺す為に有るのではなく、人をより善くし、より一歩を進ませ向上させる為に起こるの必然なのである。

 豪傑、山中鹿之助は、「願わくば吾が身に七難八苦を与え給え」と月に祈って修行をしたというが、苦難は危険を教える慈悲の鞭である。

 「幸福」と「苦難」は表裏一体であり苦難の本質を弁えれば、人生の苦難はやはり「天の与えた試練」と考えるべきなのである。

 NHKの大河ドラマ「八重の桜」は「西南戦争」だった。西郷が自裁するのは9月24日だが、この西郷隆盛は、「艱難は楽しむものなり」と訓える。艱難をも諒と捉え、それをも愉しもうとする西郷の精神こそやせ我慢の神髄だろう。

 自殺未遂、二度の遠島処分、そして西南戦争と苦難続きの人生を送った人物だったが、真っ黒な目の巨漢というイメージとは裏腹に、心は繊細で、その生涯は常に死の影が付き纏っていた。

 それでも、「いつ死んだっていい。人事を尽くして天命を待つだけだ」という処生観を持ち、開き直って生きている様なところがあったという。

 私利私欲や保身とは無縁で、清濁併せ呑む器用さもなく、その大人格故に多くの信望を集め、また自分の死に際でさえ実に潔い人物だった。

 「晋どん、もうよか!」。最後の言葉こそ西郷の生き様を現していると思う。

 「苦難には意味がある」が、それと共に大事なのは、西郷翁の様な「開き直りの処世観」を常に維持出来ているかということだろう。

 話しは変わるが、昨日は地元の郡山市に皇太子殿下雅子妃殿下が行啓遊ばされた。県民として実に有難いことです。

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2013年09月21日

9泊10日の旅、無事に帰還しました。皆さん、ありがとう♪


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 期するところがあり、60Lのバックパックにテントやら着替えなどを詰め込み九州の旅に出た。荷物の総重量約20キロ。旅といっても行き当たりばったりの放浪の旅、泊るところも何も決めてはいない。

 水曜日午後、大宮で待ち合わせた奥村さんが、旅の無事を祈って壮行会をしてくれた。途中で倅も同席。夕方5時45分発の福岡行きの高速バスに乗り込んだ。15時間に及ぶバスの旅は福岡には定刻通り朝8時過ぎに到着した。

 福岡上陸から間もなく、長崎の上田崇仁先輩に会う為に長崎本線に乗り込み、2時間かけて佐世保へ向った。佐世保の改札を出ると既に上田先輩が満面の笑みで出迎えてくれた。先輩の持つ杖が、現実に引き戻す。

 先輩は数年前に難病を患った。病気は進行性ということで、酒も飲めないという。あれだけ豪快だったから気の毒と言う他ない。「運転も2時間がギリギリかなぁ」と笑ってはいたが、無事に快復することを願うばかりだ。

 雲仙から熊本へ行こうと思うと告げると、「佐久間とも色々話もあるし、諫早まで送って行くよ!」というので、それに甘え送って貰った。

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 諫早へ向かう途中、大東亜戦争での南方からの引き揚げ者が降り立ったという南風港の話しを伺い、回天特攻基地が出撃した川棚町に立ち寄って頂いた。

 短いドライブだったが久々に先輩と邂逅し感慨無量の時間となった。別れ際、「旅の足しにしろ」と餞別まで頂く。土産も持たず本来なら見舞いを渡さなきゃならないのにホント申し訳ない。

「何だかんだ言っても俺は佐久間の先輩だぞ、連絡を貰っただけで嬉しかったよ。また会えるように頑張るよ!」と差し出した手をしっかり握って別れた。遠ざかる先輩の姿はどことなく寂しげだった。

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 諫早からは雲仙鉄道で最終の駅まで約1時間。島原で野営でもしたいと思ったが、途中で相馬の友人から連絡が入り、「是非とも、宇土へ」というので、フェリーで熊本県へ上陸した。とその前に、島原のフェリーターミナルに在った場外舟券売り場に立ち寄って「旅打ち」したものの、案の定轟沈(爆)

 フェリーの中で友人に聞いていた「旅籠こめや」をネットで検索、早速予約。フェリーからバスを乗り継ぎ、熊本駅から宇土駅へと向かった。

 旅館はこじんまりしてはいるが小綺麗でオーナーの拘りが感じられる。食事無しの素泊まりで予約してしまったので夕飯を頼むと、既に友人が言ってくれてた様で、夕飯はちらし寿司とちょっとした料理を提供して頂いた。

 夕食には、東京南青山に事務所を構えながらボランティア活動をしているNPO法人代表の上村さんが同席し、安着を祝ってビールで乾杯。

 上村さんは若いながらも経験豊富で、その気遣いをみれば色々と危ない橋も渡ってきたのだろうと推測出来る。稀に見る好青年だった。

 紹介してくれた友人の周りにはこういう人が集まって来るのもやはり友人の人徳だろう。上村さんと喧々諤々、あれやこれやと他愛もない会話で盛り上がり、上村さんに誘われるがまま調子に乗って近所のスナックに転戦することに。

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 翌日は「こめや」というだけあって、自慢の美味しい朝食を食べ、旅館のオーナーであり、地元の名士でもある米谷氏と謁見することに。

 社団法人の「熊本青年塾」の塾長の米谷氏は全国に門下生がいる。言わば思想家だろうか。息子も霞ヶ関の官僚で、歴代知事らも塾生というから凄い。

 その様な塾長とはどんな人かとわくわくしながら待ってると、当人はそんなことはお構いなしに日本酒の4合瓶を片手に登場した。

 人を食った感じが実にいい。「わしゃ会話は単語しか分からんからようしゃべられん。そんな話なんてどうでもよかバッテン、さあ、先ずは酒でも飲もうや!」ってな感じで、朝から日本酒を旨そうに呷っていた。

 運転が無ければトコトン付き合ってみたくなる人物で、言葉の節節に出る金言に暫し耳を傾けた。米谷塾長や上村さんと出会えたことは今回の旅の収穫でもある。

 東京に戻るという気忙しい上村さんに熊本駅のレンタカー屋まで送って頂き、天草の横山武彦の墓へ向う。横山との思い出は尽きないが、今回は割愛する。

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 片道3時間、何処にも寄らずに往復したが、二日酔いでの6時間の運転はキツい。それでも天草の素晴らしい景色と、営業中にも拘らず横山の墓に案内してくれた「道食堂」の夫婦の人情に触れ、その疲れをも感じさせない天草の旅となった。

 熊本に戻り、その日は八代に泊ることに。野営の場所が見つからず、ネットでホテルを検索し、予約したホテルへ。そのホテルは八代の繁華街近くに在った。

 先ずはホテル内のコインランドリーで洗濯してから街に繰り出すことに。飲屋街はいい雰囲気を醸し出していて、呑兵衛の愚生には堪らない街だった。

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 翌日は八代駅から肥薩オレンジ鉄道で出水へ。出水から川内に。川内から鹿児島本線で伊集院へ。出水までの沿岸をのんびり走るその勇姿は究極のローカル線の旅と言ってもいいだろう。乗り合わせた電車にはクマモンも乗っていた(笑)

 出水で川内行きの鹿児島本線が来るまで待ち時間がある様なので、地図で回天特攻の殉国記念碑を探すも見つからず、諦めた。

 八代から伊集院まで電車で4時間。伊集院からバスに乗り換え、1時間ほどで加世田に到着。加世田から万世への乗り換えのバスが来るのは2時間後ということで、タクシーで移動した。八代から約6時間、やっと目的地の「万世特攻平和記念館」に到着した。感慨無量。

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 施設を見学。見学者は疎ら。この地から飛び立った福島県人の特攻隊員は6名。一人一人の顔を見ながら挨拶した。その後は、外に在る戦没者慰霊碑に向かい黙祷し、鎮魂と感謝の誠を捧げる。

 見学して気になったのは、いきなり展示してあった「日中戦争から太平洋戦争へ」という歴史年表のパネルや、何気に飾られてる「散華せしめた・・・」という軍部への批判を記た掛け軸で、「反戦」と「平和」を訴えたいのだろうが、この地で散華された英霊以外のものは外すべきだと思うし、現代の価値観や倫理観や歴史観で語り継ぐものでもないと感じる。

 その日は、タクシーで加世田に戻り、居酒屋で英霊に献杯し、程程呑んだ後、万世記念館傍の海浜公園まで戻り、今回初めての野営をした。

 翌朝、目覚めると辺りは未だ真っ暗で、東北の朝に慣れてる愚生としたら鹿児島の朝は遅く、漸く空が明るくなって来るのは6時をとうに回ってからだ。

 加世田に戻りバスで知覧に向うも、途中で降りればいいのに「富屋旅館」の前まで来てしまった。何やってんだか。

 途中ローソンでおにぎりで朝食を取り暫し休憩し、「特攻平和記念館」までの残り1キロを必死に歩いた。猛暑の中で20キロ背負っての歩きはキツイ。最後の上り坂はいい試練だった。

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 そんなこんなでどうにか記念館に到着。いつもの光景だが学生達の「平和学習」とやらで超満員。知覧へは富屋旅館に3回宿泊、記念館前の町営施設に1回、泊まらなかった今回を含めて2回の計6回訪問している。

 館内は煩い学生らから離れて巡った。英霊の遺書や遺影を目にすれば各各感じるところはあるだろうし、幼稚な平和主義や倫理観を強制するべからず。

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 遺書の中でも、いつも目に留まるのが、北海道出身の前田啓命の遺書、「俺が死んだら何人泣くべ」というもので、この書に込められた若者の渾身の悩みを、今を生きる我々がどうやれば分かち合えることが出来るのだろう。

 この涙悲しく 留まりて零るることなし。合掌。

 その後は何処に向かうかは決めていない。鹿屋基地へは交通事情が悪く、時間もないので今回は断念した。知覧から枕崎に向かおうかと思っていたが、枕崎行きのバスは夕方まで無く、喜入、指宿方面のバスに乗り込んだ。

 本当は枕崎線に乗り込み、特攻隊員らが最後に見たであろう開聞岳を眺めながら英霊を偲び、最南端の西大山駅でドラマ「青い鳥」の思い出に耽り、右翼活動家として期待を掛け、仕込んだつもりだった指宿出身のトンズラしてしまった若い衆・沖野政信の行く末を案じながらぐるっと指宿枕崎線の旅でも満喫しようかと思っていたが、結局は喜入駅から鹿児島中央駅へと降り立った。

 我が胸の熱き思いにくらぶれば煙りは薄し桜島山

 今日の桜島の噴煙はどうなっているのか楽しみではある。地元の人にとっては迷惑だろうが、鹿児島駅に降り立った暁には愚生の思いよりも遥かに高い噴煙を上げてて欲しいものだと思っていたがその期待空しく、残念ながら噴煙は上っておらず、降り立った駅前の気温は37℃を表示していた。

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 歩くのも流石にキツイということで、地元の後輩松田君おススメの中央駅前の「凪」にて、生ビールで一人安着祝い。そして天文館近くのホテルを予約した。

 後輩と待ち合わせした夕方まで休憩しようと思うが、身体は疲れているのに中々寝着かれず、夕方になってしまった。待ち合わせ時間までは未だ時間があるので、天文館の繁華街を探索した。こうした散策は実に楽しい。

 夕方、ホテルロビーで松田君と待ち合わせし、行きつけの店で御馳走になった後、待ち合わせ前にチェックしてて行きたかった店に付き合って貰った。

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 地鶏の店で、その名は「丸万」。宮崎にも在るというが、此処が本店じゃなかろうか。実にマニアックな店で、「週刊朝日で紹介された」とか、「日祝日休業」とあったのだが、日曜だったにも拘らずその日も営業していた。

 メニューは、海苔が大量に乗っかってる「鳥皮のポン酢」と「鳥もも焼き」と「貝汁」のみ。キュウリの一本漬けはサービス。

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 これが小汚い店と怪しげな店員の風体とは裏腹に、地鳥焼きは宮崎のそれを凌ぐ香ばしさで絶品。大正解の店でした。やはり、飲兵衛のカンは鋭い。その後、地元の老舗ラーメン屋で仕上げ、松田君とは再会を約束し別れた。

 寝れば疲れも取れるが、旅館やホテルでのベットはどうも熟睡出来ない。ベットで寝るなら野営でのマットと寝袋の方がまだ寝れる。でも如何せん肝臓が悪いのだろう、寝汗が酷く、それを乾かすのがまた面倒。

 何だかんだ言っても、オヤジ臭という加齢臭が漂う自分の布団で寝れば、そのアロマ効果からかやはり爆睡出来るもの(笑)

 一人旅をしていると、こうした普段の何気ない日常こそが本当の幸せなのだと改めて感じる。

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 翌朝、未だ薄暗い中、多くの維新の志士達も見たであろう桜島を見に出掛けた。地図で見るとそれほどでもないと思ったが、遠回りしたせいもあり、往復1時間ほどのウォーキングになった。でも、荷物を担いでないので苦にはならない。

 桜島を遠くに望む。山は落ち着き払っていたが、道路の所々には桜島の噴煙の痕があり、駐車中の車も噴煙だらけで地元の人の苦労を垣間見た。

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 日豊本線に乗り込み、錦江湾に聳え立つ桜島を眺めながら、宮崎へ。約2時間で到着。宮崎駅前のフェニックスが南国ムードを醸し出していた。

 駅中のカレー屋で店員おススメの「鳥南蛮カレー」を注文。当然ながら「生ビール」も。流石に鳥南蛮は絶品で、生ビールをお代わりしてしまった(笑)

 そうこうしてると待ち合わせした福田さんから連絡が入った。

 福田さんは「二十一世紀書院」社友会にも名を連ねている方なので、その代表の蜷川氏を飛び越して付き合うことは愚生の考える行動美学からはちょっとズレてるのだが、まあFacebookフレンドということで寛容に願いたい。

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 宮崎駅前で福田さんと待ち合わせ。福田さんは想像通り、爽やかな方で、海釣りで日焼けした顔は精悍そのもの。

 挨拶を済ませ車に乗り込むと、「夕方の飲み会まで時間がありますからそれまでドライブでも」ということで、宮崎を案内して頂くことに。

 宮崎の街並は想像以上に整備され、メインの道路には宮崎の象徴でもあるフェニックスが立ち並ぶ。鹿児島方面に向かうと、毎年ジャイアンツがキャンプをする球場が見えてきた。

 ジャイアンツファンというか長嶋ファンの愚生としても思い入れの強い場所だ。こういうカタチで実現出来るとは想像していなかった。

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 その後は道の駅「フェニックス」や日南海岸沿い絶景地を巡って頂き、回天特攻の訓練地だったという南郷湾内を眺め、そこに建つ慰霊碑で一礼。慰霊碑から望む湾の絶景を忘れることはないだろう。

 その後、いつかは行きたいと思っていた鵜戸神宮へも連れて行って頂いた。その後は、愈々福田邸へ。東京出身だという美人の奥様が出迎えてくれた。奥様の手料理は、仕出し屋顔負けのプロ級で、どれもこれも美味しく頂きました。翌朝の「冷や汁」という気遣いにも痛み入る。本当に有難い。

「男同士で飲む酒はたちまち通う息と熱」、さぁ先ず一献。ビールで乾杯し、前もって送っておいた日本酒で亦乾杯。間もなくして末期癌で「余命3ヵ月」と宣告された福田さんの知人の田上さんも参戦。田上さんは、自力で癌を克服したという人物で、その風体から、ただならぬ人生を送って来たのだろうと推察出来る。

 酒さえあれば言葉は要らぬが、酔いも回り始めると初対面とは思えぬ論戦で盛り上がり、気付けば福田さんはうたた寝状態。縁というのはホント異なもの味なものとはよく言ったもので人生経験豊かな二人の人柄に酔いました。

 翌日、バス発車の11時まで未だ時間があるということで、イザナギ、イザナミ縁の「御池」や「江田神社」を案内して頂いた。

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 江田神社の境内の大木は最近パワースポットで人気があるらしく、欲深い、いや、信心深い女性の皆さん方が、その大木をなでなでしてました。その所為で金運が付くという玉袋の様な瘤はテカテカ輝いていた(笑)

 11時のバスに乗り込み博多へ。博多へは約4時間の行程。途中、博多在住の後輩、坪井さんから連絡が入り、急遽、博多で待ち合わせ。

 その前にコインランドリーを探すも見つからず、体調を整える為にサウナで時間潰し。夕方から「藁巣坊」というチョッとした知り合いの店で一献。

 因みにつまみは、「わらすぼの干物」「ゴマ鯖」「餃子」「チャーシュー」「蟹汁」。そして〆はラーメン。相撲取りが馴染みの店とあって全部絶品だった。好物の「すっぽん鍋」もあり、次回は「すっぽん」と決めてたら、「うちはモツ鍋も美味いんですよ!」と聞き及び、ん~それも捨て難い(笑)

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 その後は、坪井さん行きつけのウイスキーバーの「LEICHHAEDT(ライカード)へ。中々のいい雰囲気の店で葉巻を燻らせながら他愛もない話で盛り上がった。残念ながら博多の夜は此処まで。

 慌ただしくタクシーで博多駅に向かい、大阪行きの高速バスに乗り込んだ。到着は約8時間後。乗り込むともうバスの旅も慣れたもので爆睡した。坪井さん、次回はじっくりやろう!

 大阪入りし、取り敢えず環状線に乗り込み「鶴橋」へ。コインランドリーを探して彷徨うも、上新町で漸く発見。隣は銭湯だし、言うことなし。

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 コインランドリーで洗濯する間、銭湯で疲れを癒す。さて、その後はどうするかと思いながらも、足は通天閣へ向かっていた。徒歩もどうにか慣れて、酷暑の中、約1時間ほどで到着。串揚げ屋の呼び込みからは完全にシカト。まぁ串揚げという気分じゃないので、「づぼらや」で生ビールと「上てっさ」でお疲れ~!

 夕方まで時間を潰し、和歌山から態態会いに来てくれるという菅原さんと上本町で待ち合わせ。菅原さんは僧侶であり、空手の師範でもあり、会った感想は想像通りの人物で、物静かで、滲み出る雰囲気は正しく沈勇を内に秘めた好漢。久しぶりに漢(おとこ)を見たと言った方が分かり易いか。

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 鶴橋の焼き肉屋で乾杯し、二件目は法善寺横丁のマニアックな路地裏に在る菅原さん馴染みのミナミのバー「tree」へ転戦した。

 マスターがまたいい雰囲気で、リーゼントに、どことなくインチキマジシャンにも見えなくもないが、その日は誕生日らしく、自分の孫と同じ誕生日に何か不思議な縁を感じ、いい酒と二人の人柄に酔わされた想い出の夜になった。

 夜は菅原さんが15年間も修行したという寺に泊まらせて頂いた。

 場所は以前、実家の友人らと泊ったことがある「大阪国際交流センター」の真ん前。寝る場所は、「皆空」の掛け軸が掲げられた大広間に一人。隣は墓なのだが、何故か今回の旅で初めて熟睡出来た。南無大師遍照金剛。

 本来ならば、九州から出雲へ渡り、出雲大社へ参詣し、その後は岡山の友人と先輩と一献し、香川の友人と久しぶりに会うのを愉しみにしていたが、出雲コースだと予定していた予算も足らなくなると判断し、急遽大阪へ、そして名古屋や三重にも立ち寄らず東京へ戻ることにした。

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 先週水曜日に自宅を出発し、九州へ上陸後、回天特攻が出撃した長崎県川棚町から始まり、鹿児島県出水市、加世田市万世、知覧町、宮崎県南郷と巡った放浪の旅の最後は靖國神社。社頭で、旅の無事と旅先での出会いに感謝し、今後の愚生の人生に加護賜わらんことを祈念し郡山に帰還した。

 今回の9泊(野営1泊、バス泊2日)10日の旅で、「人生とは正に邂逅の一言に尽きる」ということを熟熟痛感した。人との出会いは、その付き合いの長さではなく、深さなのだ。次回はいつになるか分からないが、また旅に出たいものだ。

 旅先で出会った方々の益々の御隆盛と御健康を願い擱筆します。また色々と応援して頂いた皆さん、本当に有難うございました。合掌、佐久間五郎拝。

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2013年09月09日

2週間ほど愛を求め、放浪の旅に出掛けて来ます。呵呵

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 「人間の財産というものは、いざと言う時に自分を支えてくれる人は勿論のこと、各自が目指す目標実現の為の知恵袋でもある」

 右翼浪人を気取り、日々の生活にも汲汲してはいるが、正にそういった理解者や個性的な友人・知人に巡り会えたことは、在り来たりの人生を送るサラリーマンよりも恵まれてるのだろうとは自覚している。

 右翼団体を辞して数年が経つが、右翼人というか一維新者として、このままで果たしていいのかと日々自問自答する。

 今から20年ほど前、今は亡き右翼浪人の横山武彦と、約1ヶ月かけて全国行脚の旅をした。その旅はそれまでの右翼人生が変わるきっかけでもあった。

 深い目的など無かった。やることもないし、ならばボーっとしてないで、行き当たりばったりの放浪の旅にでも出るかくらいの気楽なもので、目的地は鹿児島県知覧の「特攻平和記念館」。知覧には出発して一週間後に到着した。

 旅をした横山とは歳が20も違ったが妙に馬が合った。

 横山に初めて会ったのは防挺時代で、愚生が入隊した頃、横山は副隊長だった。それを考えれば、「縁は異なもの味なもの」とはよく言ったもので、人生とは実に面白いものだと思う。

 愚生が入隊してから数年後、諸事情で横山が防挺を離れ、故郷の天草に蟄居した。それから何年経ったのだろう、郡山で邂逅することになった。

 爾来、痛飲は言うに及ばず、色々と行動を共にしたが、酒好きが祟って数年前、幽冥境を異にした。

 破天荒な右翼であり、究極の反面教師だった横山が寂したことは愚生にとって返す返すも無念なことだった。

 その横山との旅は愉しいもので、別段、「右翼とはなんぞや」だとか、政治の話をする訳でもないのだが、一緒に行動することで何かを吸収したのは違いない。

 この旅によって、愚生の心の師である高花豊先生と邂逅し、先生から右翼人としての貴重な30代から50歳まで、物心両面で支えて頂いた。

 横山との邂逅と全国行脚の旅が無ければ、高花先生との出会いも無かった訳で、人生とは正に「邂逅の一言に尽きる」ということを痛感する。

 自由気儘に歩き回りることが禁止されていた幕藩体制下に「横議横行」を勧め、下級武士らに「脱藩せよ!」と叫んだのが吉田松陰だ。

 松陰は「一君万民論」を唱え、近代国民国家を志向した魁であり、そこから「草莽屈起論」を導いた。つまり、「天皇=一君」と「国民(臣民)」という関係を構築する為に封建制度を打破すべく脱藩し、一草莽たれと訴えたのである。

 その結果、松陰の意を汲んだ下級武士らが脱藩し、こうした草莽の志士らの結集が明治維新を実現させたと言っても過言ではないだろう。

 「横議横行」とは、「勝手に論ずる」とか「勝手気儘に歩く」という意味だが、「横議横行」を実践した人物の筆頭は坂本竜馬や吉田松陰だ。

 龍馬にしろ松陰にしろ、時代の寵児として活躍した人物の共通の特徴は「言葉」が違うことで、大衆の心を引き付けるのは「言葉」を以て他に無く、竜馬や松陰は正に「言葉の達人」だったと言えるだろう。

 龍馬が幕閣とも勤王の志士とも通じ、後には薩長連合の仕掛け人として、明治維新を豪腕で引き寄せた立役者足り得たのは、説得の技術、つまりは言葉の豊かさによるものだったと言っていいのではなかろうか。

 更にもう一つは、彼らは「歩く人」だったことで、交通の不便だった時代に、実に驚く距離を行き来した。

 こうしたことでも分かる様に、放浪の旅や、家を飛び出して多くの人と顔を突き合わせ、「横議横行」することは大切なことなのだ。

 「旅の恥はかき捨て」とか、それとも「袖摺り合うも多生の縁」だとかいうが、土地土地で知り合った方々と酒を酌み交わすくらい愉しいものはないし、それこそが横議横行の極意なのではなかろうか。

 そんな訳で、天草に眠る横山を偲び、全国各地の友人らと痛飲し、右翼浪人としての中途半端な生き方を見つめ直す為に、2週間ほど旅に出ます。

 旅といっても、バックパッカーとしての放浪の旅で、移動するのもバスと電車と徒歩で行くつもりだ。予算も乏しいので出来る限り野宿したいと思ってるが、車じゃないし、野営する場所を確保するにしても大変そうだ。

 放浪の旅に出るなどというと、「羨ましい」という声が聞こえて来る。「ならば一緒にどうよ!」というと、「時間がない」だとか「カネが・・・」という応えが返ってくる。要は「羨ましい」というのは空々しい言葉だと思う。

 そりゃそうだろう、今どき一週間も家を空けたら女房に叱られるだろうし、仕事にも影響が出るだろうし、何よりカネがかかる。

 不如意の折り経費の捻出も容易ではなかったし、気楽な旅をしてるほど余裕がある訳でもないが、必要な時間とか必要なお金というのは、「何としてでも作ってやろう」という強い気持ちが無いと中々出来るものではない。

 「カネが出来たらやろう」とか、「時間が出来たら・・・」なんて言ってる様じゃ、どんなことでも実行出来ることはないだろう。

 そういう意味では、どうしても欲しいものがあるのなら買ってしまえばいいし、思いっきり行動してしまえば、後で何とかなるものなのだ。

 やらないで後悔するより、やって失敗し、後悔する方がずっと本人の為になるし、失敗することで何か得られるものがあるだろう。

 そんな訳で明後日未明から旅に出ます。鹿児島の知覧や鹿屋、万世といった特攻基地を巡り、英霊の鎮魂と感謝の誠を捧げ、残り僅かであろう人生に加護を給わらんことを祈願し、体力と気力、何より資金が続く限り、全国を彷徨って来ます。

 そんな事情の為、このブログを以て暫く休止致します。では、また!


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2013年09月08日

アメリカは日本の番犬だったが、その番犬も・・・

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 米国はシリアの化学兵器使用は非人道的であり、国際法違反であると、然も軍事介入は当然だとの認識を示す。

 だが、シリアが実際にサリンを使用したかは定かではないし、喩え化学兵器を使用したとしても、米国が正義を振り翳し、それを批判する資格はない。

 第二次世界大戦でのナチスによるユダヤ人虐殺を最大のホロコーストだと教えられ、ナチスの蛮行こそ、世界最大のホロコーストだと疑わなかった。

 だがよくよく考えてみれば、米国による広島・長崎への原爆投下や東京などへの無差別爆撃は、ナチス・ドイツのユダヤ人虐殺に匹敵する、否、それ以上の「人種差別」であり、ホロコーストであろう。

 ナチスにとって全ての原因は「人種差別」にあった。

 人間の価値を決めるのは思想や行動、人格などに関係なく、どの人種に属しているかが重要で、アーリア人種の中核であるドイツ民族のみに生存権を認め、国籍が何処であろうと「劣等民族」として絶滅させることが目的だったのだ。

 この点こそがナチス・ドイツが史上例を見ない犯罪国家とされる理由であり、これは何もヒトラーが創り上げたものではなく、ヒトラーが政権を執る以前から存在したと「我が闘争」にはハッキリと述べられている。

 先の大戦では、旧日本軍とナチス・ドイツとがよく比べられるが、我が国とナチスの犯罪は全く異なるものなのだ。

 それこそ広島・長崎への原爆投下こそ、ナチスと同じ「人種差別」の人体実験であり、米国の数々の非人道的戦争犯罪はナチス・ドイツの犯罪と比肩する。

 中韓などは我が国に対し、ドイツが謝罪し、賠償を続けていることを見倣えなどというが、ドイツが国家として、或いは国民全体の罪として認めたことはない。

 それはナチスの犯罪はヒトラーの責任であり、ドイツ国民としての戦争行為は別なものだとの認識に立っているからに他ならない。

 米国も同様に、広島・長崎への原爆投下や東京大空襲などによる一般人の虐殺行為を認めず、謝罪していないのもこれと同じ認識なのだ。

 今や、米国の自己中心的不正や非道に苦しむ非西欧諸国は、「世界の警察」を気取っている米国を唯一最大の外敵であり脅威と考えている。

 欧米が自己中心的正義の名の下に更なる弾圧や軍事介入が続けば、米国への反発とテロの連鎖は止むことはなく、真にテロの根絶と世界平和を願うなら、圧政に呻吟する民族の解放と独立をさせる以外にない。

 しかしそれは、言い換えれば政治体制の崩壊を意味しており、米国然り、中共、ロシア、中近東然り、北朝鮮もまた然り、それはゲリラやテロリストの根絶以上に不可能なものなのだ。

 諸文明が鎬を削り合う時代、我が国が為さねばならぬことは米国からの自立であり、「米国のポチ」としていつまでも従属させられている場合ではない。

 「全国戦没者追悼式」に於いて安倍は、「戦後68年間、平和国家の道を歩んで来た」と大見得を切ったが、湾岸戦争やイラン・イラク、アフガニスタンやリビアに間接的に介入し、そしてまたシリアの紛争に介入しようとしているが、「平和国家」とは実に痴がましい。

 その昔、大日本愛国党の赤尾敏は数寄屋橋で、「アメリカは日本の番犬だ。番犬にはエサは必要で、いい番犬ほど金はかかるものだ」とアジっていたのを思い出す。流石は親米右翼の赤尾敏(笑)

 今やその番犬は無用の長物と化し、その番犬も高齢となりボケ始めた。

 飼い犬に噛まれてからでは遅いのだ。国民もそろそろ、自らの生命と安全は、自ら創り出さなくてはならないという現実に気付くべきだ。


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2013年09月07日

神国日本の不滅を信せずに何が保守か、何が愛国者か

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 福島原発事故の汚染水漏れが深刻なのは素人でも想像出来る。政府が汚染水対策に巨額な費用を計上したから、余計不安に感じてしまう人も少なくないだろう。

 汚染水問題に関し、自称専門家なる人物や評論家がまるで他人事の様に被害の拡大を叫び、マスコミもそれに便乗し不安を煽る。

 我が国の将来を考える時、原発を推進する人もいれば、広島・長崎の影響か、放射線を目の敵の様にアレルギーを抱いている人もいるだろう。

 だが、原発事故以来ロクに休養も取らず、福島第一原発構内で命がけで事故を収束させようと、懸命に努力している勇士や英雄らがいることを我々は忘れてしまっているのではなかろうか。

 1日に15分しか動けない場所で働いていたり、家族に対し万が一の場合を想定させていたり。県内でも安心して復興に専念出来るのは、そういった方々の努力や犠牲の上に成り立っている。

 汚染水漏れが騒がれてはいるが、放射線数値が安定しているのは、原発の仕事に誇りと覚悟を持ってこの困難に立ち向かった方々の尽力の賜物であり、言い換えれば彼らこそが真のヒーローであり、愛国者と言えるだろう。

 世界が福島原発事故の行方を注視する中で、現場で従事している彼らの人知が未曾有の国難を救い、その努力が、必ずや報われることを祈ることしか出来ない。

 一方的に事故の責任を責め立てたところで、或いは汚染水の数値が高いと騒ぎ立てたところで、何になるというのか。自然に解決する訳ではあるまい。

 何もせず、安全なところから危機感を煽り、無知な人々を煽動しようとする卑怯者や、それらに与する様な愚か者にはなりたくない。

 「原発事故に対する政府の対応が~」などと責め立てるのは簡単だが、ならば自らが前線に立ち、事態の終息の為に貢献すればいいし、出来ないなら黙って収束を祈っていた方が日本の未来の為だ。

 最近は、自分さえ良ければ、自分さえ安全・安心が確保されればいい、という様な風潮が蔓延していることは倫理観や道徳観の喪失と相通じるものがある。

 或いは、「日本は滅びる!」「日本が危ない!」と徒に危機を煽り、日本が滅亡するかの様に叫ぶ自称保守やそれを売り物にしている営業右翼がいる。

 神国日本の不滅を確信せずに何が保守か。何が愛国者か。

 正統保守ならば、神州不滅を信じ、神武肇国の精神の高揚と国家国民の繁栄をこそ目指すべきだろう。

 我が国の今が未曽有の危機ならば、我々は夫夫の立場でやれることを懸命に努力すべきであって、「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉シ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スへシ」とはこういうことだ。

 震災直後、陛下は、「被災者のこれからの日々を私達皆が、様々な形で少しでも多く分かち合って行くことが大切であろうと思います。被災した人々が決して希望を捨てることなく、身体を大切に明日からの日々を生き抜いてくれるよう、また、国民一人びとりが、被災した各地域の上にこれからも長く心を寄せ、被災者と共に夫々の地域の復興の道のりを見守り続けて行くことを心より願っています」と下賜遊ばされた。

 この未曾有の国難ともいえる事態を鑑みれば、国民一人一人が自ら出来ることを考え、陛下の大御心に応える為にも、労わりあい、この不幸な時期を乗り越えることが大事であって、原発事故を殊更に煽ることではない。


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2013年09月06日

婚外子相続の最高裁違憲判決は「戸籍制度解体」への一里塚


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 「婚外子相続の民法規定は違憲」との最高裁判決が出た。案の定マスコミは大歓迎し、谷垣法相や菅官房長官も「民法」改正を口にしているが、安易な改正は「夫婦別姓」と共に家族制度を崩壊させかねない危険を孕んでいる。

 平成10年以来、「民法の一部を改正する法律案」が国会に10数回提出され、「選択的夫婦別姓制度」について議論がなされているが、我が国には馴染まない制度の為か国民的合意には至っていない。

 我が国は「明治維新」以後、国民の全てに「姓」を与え、戸籍を整え、家族の絆の重要性を教えた。国民が家族の理想にしたのは、皇室の家族の在り方である。正に我が国の家族制度は、「父母に孝に兄弟に友に夫婦相和し」と教育勅語でも訓える様に尊いものである。

 欧米の教育は個人が生存権に勝つ為のものであり、辺り構わぬ闘争が行われ、働く目的は金と享楽の追求のみ。それ故、家族の絆は緩み道徳の深さは生活から離れ、結果、唯物主義の考え方が支配的となり、人々の心を孤独化している。

 我が国の個人主義は欧米とは違い極僅かで、世代に亘る家族の絆は固く、互いの助け合いによって人間本来の善良な姿と優しい心が保たれている。

 「夫婦別姓制」の導入を許せば家族の一体感を損ない、子供に与える精神的影響も大きく、事実婚を増加させ、離婚の増加や婚姻制度の崩壊を齎すのは明らかだ。

 我が国は「一夫一婦制」だが、別姓は「一夫多妻(一婦多夫)制」が可能。婚外子が実子と同じ相続権を得るなら、別姓は罷り通り、不倫なんぞ当たり前で倫理観や道徳観も低下して行くだろう。

 既に「選択的夫婦別姓制度」を導入した、イタリア、オーストリア、ドイツ、デンマーク、スウェーデン、ハンガリー、フランス、スペインなど欧州の国々では婚姻率が4割以上も減り、離婚率が倍となり、婚外子の割合が5割も増加し、従来の家族制度が崩壊した。「選択的夫婦別姓制度」の導入が最大要因だった。

 抑々、婚姻に際し「氏」を変える者で職業上不都合が生じる人にとって、通称名で旧姓を使用することが一般化しており、婚姻に際し「氏」を変更するにしても、関係者知人に告知することにより何の問題も生じない。

 また、「氏」を変えることにより自己喪失感を覚えるという訳の分からぬ意見もあるが、それよりも結婚に際し同じ姓となり、これから新たな家庭を築くという喜びを持つ夫婦の方が圧倒的多数であり、これは極めて一般的な普通の感覚だろう。

 夫婦同姓は、普通の日本人にとって極めて自然な制度であり、「別姓」が導入され、別姓世代が続けば家系は確実に混乱して、日本の戸籍制度や家族制度は瓦解し、祖先と家族・親と子を結ぶ連帯意識や地域の一体感、ひいては日本人の倫理道徳観にまで悪影響を及ぼすのは必至。

 仄聞されている様に、「選択的夫婦別姓」導入が、「戸籍制度解体」への一里塚となる可能性は否定出来ないし、今回の違憲判決もその流れに沿うものだ。

 日本の社会で家族とその絆を支えているのが「戸籍」だ。戸籍は、国民の出生・結婚・死亡などの身分の変動を「夫婦と未婚の子」を単位として登録するシステムであり、戸籍制度は結婚や相続など家族生活を営む上で極めて重要な役割を担うと同時に、実は家族の一体感を維持する機能も有している。

 ところが、別姓推進派の中には「別姓導入は戸籍制度改廃への一里塚だ」との声が根強く存在するのは事実で、別姓するくらいなら結婚などしなきゃいいと思うが、あくまでもその目的が「戸籍法の改正」に在るのだとすれば合点が行く。

 推進派は、現在の戸籍制度が家族単位である点を戦前の「家父長制度」の残滓と捉え、戸籍を個人単位の「個籍」や、欧米諸国を模した「個人登録制」に改めることを求めている。これはつまり、別姓導入によって「家族の絆」が弱まるだけではなく、別姓導入は初めから家族制度の解体を意図した策動とも言えるのだ。

 要は夫婦別姓は、それ自体が目的ではなく、日本の誇る戸籍制度そのものの崩壊を目的とするものだと言っても過言ではないだろう。

 現在は民法と戸籍法によって婚姻のときの氏の決め方が定められている。民法第750条には「夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する」と明記されている。つまり夫となる人、または妻となる人の何れか一方の「氏」を夫婦の氏とするということだ。

 この規定を大半の人は「片方が氏を変える」と理解しているが、「氏は自分個人の名前の一部」という誤解が混乱を招いているのも確かだろう。

 日本の「氏」というものは、個人を表す名称ではない。明治維新以前には武士や大店の商人以外は氏などなく、「明治維新」で、戸籍を整える為に新政府は全ての国民に「氏」を与え、国民は皇室を家族の理想としたのだ。

 戸籍を見れば分かるが、戸籍の筆頭者のみが氏と名で書かれており、その他の家族は続柄と名しか書かれていない。つまり、「氏」は家族を表す名称なのだ。

 日本人の日本人らしさの根幹を為すのが「戸籍制度」なのだ。個人だけでなく、親兄弟や子といった、歴史の縦軸の中に生きるという制度であり、正に我が国の「戸籍制度」は世界に誇る制度であると言えよう。

 こうした問題が提起されると、必ずと言っていいほどマスコミや左翼御用達のインチキ有識者が登場し、「世界ではこうだ」とか、「何処ぞの国では」という愚論を垂れ流すが、他所の国なんぞどうでもいいではないか。日本は日本である。

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2013年09月05日

台湾は台湾、「チャイニーズタイペイ」ではない!


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 福島県内は夜半からずっと雷雨に襲われています。天譴とは思いたくはないが、最近の全国的な荒れ模様は少々不安を覚える人も多いだろう。 

 「中華人民共和国」は「中国」ではなく「中共」であり、「支那」や「シナ」「チャイナ」が世界の共通語だとは昨日言った通りだ。

 昨日の「世界バレーアジア最終予選」日本×台湾戦を観ていて違和感を覚えた国民は多いのではないか。

 「台湾」という名称を敢えて使わず、「チャイニーズタイペイ」と表記する様は、中共に媚びる我が国の姿を如実に現している一例だろう。

 主権を恢復した昭和27年4月28日、我が国は「日米平和条約」を締結し、同時に「報恩感謝」として中華民国(台湾)との「日華国交条約」を締結した。

 「日米平和条約」は別にして、「日華国交条約」締結は、道義国家・日本として当然の行動であろう。

 だが、昭和47年9月29日、田中角栄総理大臣は、中国共産党政府を唯一の合法政府であると承認し、締結していた「日華国交条約」を一方的に破棄し、日中共同声明に調印する。

 更に田中は、「先の大戦で中国国民に重大な損害を与えたことに、責任を痛感し、深く反省する」と謝罪した。

 この田中の認識が現在の歴史認識と対中外交に引き継がれているのだが、我が国が先の大戦で戦ったのは、蒋介石率いる中華民国であり、戦後に独立した中国共産党一党独裁の中華人民共和国ではない。

 田中角栄らが強行した「日中共同声明」と「日中国交条約」締結によって、「日華国交条約」が蹂躙されたが、この行為は明らかな日本国憲法第98条違反であり、道義国家として決して許されざる蛮行だった。

 未だ我が国が台湾を国家として認めない故に、「チャイニーズタイペイ」などという中途半端な表記が罷り通っているが、これつまり、田中が中国共産党を唯一の政府と認めた結果なのだ。

 我が国が道義国家として生まれ変わるのなら、田中角栄の蛮行と田中の日中共同声明の発言を糺すことだ。田中の歴史認識がその後の村山談話や謝罪決議、或いは河野談話に繋がっていることを我々はそろそろ気付くべきである。

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2013年09月04日

中華人民共和国は「中国」ではない。「支那(シナ)」こそ世界の共通語である


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 右翼陣営や保守を自任している人でも「支那」や「中華人民共和国(中共)」を一括りに「中国」と呼んでる人がいるが、我が国で中国といえば「中国地方」のことで、況してや「中華人民共和国」を「中国」と呼ぶのは間違いだ。

 中共政府は我が国に対してだけ「中国」と呼ぶよう強要し、日本人もその意味も知らず「中国」と呼称するが、これは中共への忠誠以外の何物でもなく、我が国に蔓延する「中国」表記は国際的にも間違った表現である。

 「中国」という言葉の一番古い意味は「首都」という意味で、中共政府のいう「国民国家」を意味するものではない。「支那」と呼ぶのが正しい。

 「支那」という呼称は差別だという人もいるが、ならば、世界地図で表記されている「東シナ海」「南シナ海」「インドシナ半島」などは如何なるものか。或いは日本人のソウルフードの「支那そば」は食べられないではないか。

 「支那」という言葉は最初の統一王朝の「秦」に由来し、世界中でその「シン」や「China」を近似音で呼んでいる。

 英語圏では「チャイナ」、フランス「シーヌ」、ドイツ「ヒーナ」、イタリア語「チーナ」、ペルシャ語「チーン」、アラビア語「スィーン」、インド「シナスタレ」などなど。日本も「支那」がダメならチャイナと呼べばいい。

 清朝の公的文書にも「支那」は出てくる。「支那」を漢字にしたのは新井白石で「チーナ」を翻訳したものだ。

 しかし、日本を属国、朝貢国と見做す中共は、日本にだけは自分達を世界の真ん中にある「中国」と呼ばせたいだけなのだ。

 「支那使用禁止」の理不尽な言い掛かりが始まったのは、戦後の混乱期の昭和21年6月にまで遡る。

 「中華民国」の一部だった「中国共産党」は形式上、連合国の一員であり戦勝国であった為に、その力関係を盾に、我が国に対し「中国」という名を強要した。

 外務省はそれに反論せず従順に受け容れ、外務省から「局長通達」が出されることとなったというのが事の始まりだ。局長通達には次の様に書かれている。

 「今度(このたび)は、理屈抜きにして先方の嫌がる文字を使わぬ様に」

 こうした難癖ともいうべきイチャモンに諾々として従い、更には言論機関にもこれを強制し現在に至っている。

 今日の日本外交の基本である、「隣国が嫌がるようなことはしない」との近隣諸国条項に続く弱腰土下座外交はこの時が最初であり、外交での一つの譲歩が更なる譲歩を生む典型だろう。

 「中国」という名は世界の共通語ではない。戦後、外務省が通達した「言論抑圧通達」は無効であり、「支那」という呼称こそが世界の共通語なのだ。

 「中国」と呼ぶことによって忠誠を示してしまっていることを自覚すべし。

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cordial8317 at 06:55|PermalinkComments(1)

2013年09月02日

1945年(昭和20年)9月2日、重光葵外相が降伏文書に調印


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 1945年(昭和20年)9月2日、東京湾上に停泊してた戦艦ミズーリの甲板上で重光葵(しげみつまもる)外相と梅津美次郎参謀総長が降伏文書に調印する。

 上海天長節爆弾事件で右足を失った重光全権は、ステッキを頼りに義足を引き摺りながら階段を喘ぎ喘ぎ上る。調印を前に一杯の水を所望するが、冷たく拒否された。卑怯者の「ジャップ」にやる水などないという米国人の憎悪が目に見える。

 これを遡ること昭和7年4月29日、重光は上海に於いて、駐中華民国公使として天長節奉祝式典に参列。国歌斉唱していた際に、朝鮮独立運動家・尹奉吉が爆弾を投擲するも、重光は逃げずにそのまま「君が代」を歌い続け、結果、片足を失った。重光はこの時を振り返りこう述べた。

 「爆弾が投げられたのは分かっていたけれど、国歌斉唱中なので動かなかった。動くのは不敬であると考えた」

 重光の隣でやはり遭難し片目を失った海軍大将・野村吉三郎も、重光と同じ様に、「国歌斉唱中だったから」と逃げなかったその理由を語っている。

 後に外相や駐米大使となる野村や重光の様な、こうした覚悟というか、肝の据わった官僚や政治家がいないのは我が国の不幸とも言えよう。
 
 降伏文書によって我が国は負けを認めたが、先の戦争は決して間違いではない。だが、未だに大東亜戦争を「侵略戦争」と思い込み、アジアの人々に多大の迷惑を掛けたという認識の国民は少なくない。

 戦争の原因を天皇であるとか、軍部であるとか、A級戦犯であるなどと喧伝しているのは、無知に加え、大戦の原因や犯人を隠し続けたい、左翼陣営の思惑も絡んでいるからだろう。

 戦争犯罪人は大日本帝国憲法でもなく、統帥権でもなく、況して軍部でもなければ日本の軍国主義でもない。真の戦争犯罪人は近衛文麿と尾崎秀美らそのブレーン達、即ち日本国内で蠢いていた共産主義者らであり、マルクス・レーニン主義思想が昭和の悲劇を生んだのだ。

 多くの戦死者、戦災者を出し、日本の資産の大部分を失った大東亜戦争とは、ソ連コミンテルンと中国共産党、そして日本の共産主義者が仕組んだ共産革命の為の愚かな戦争だったことは、最早隠し様のない歴史的事実だ。

 米国では、12月7日(現地時間)を汚名の日「リメンバーパールハーバー」とし、日本を卑怯な国として糾弾して止まない。

 70年経った今でも依然として我が国は、「騙まし討ち」の汚名を着せられ続けているが、汚名を着せられた原因は、駐米日本大使が宣戦布告の覚書を渡し遅れた職務怠慢に他ならないが、抑抑、何故、開戦を決意し、真珠湾攻撃に至ったかが問題であり、それにはペリー来航時代に迄遡らなければ到底理解は出来まい。

 我が国は強力な中央集権国家を形成しようと明治維新の大業を成し遂げる。

 15世紀の大航海時代以来、白人による世界制覇の波がアジアにも押し寄せ、アジアは次々と列強に蚕食され植民地となっていく。その間に勃発した「日清・日露戦争」も避けては通れない宿命的な歴史だったのだ。

 「日清・日露戦争」での日本大勝利の報は、固唾を呑んで見守っていた世界の人々を驚嘆させ、特に有色人種に与えた影響は強烈だった。

 日露戦争勝利から15年後、パリ講和会議で日本は、「人種平等の原則」を国際連盟規約に載せることを提案する。しかし、議長を務める米国大統領ウイルソンが拒絶し否決される。「有色人種に人権など必要無い」との差別が横溢していたのは明らかだった。

 その後、世界は第二次世界大戦に突入し、日本もABCD包囲網や最後通牒を突き付けられ、最早生き残る道は連合国との戦争しかないとの決断に至るのだ。

 今も糾弾して止まない「リメンバーパールハーバー」は、日本人への偏見と差別であり、先の大戦の過ちを反省すべきは我が国ではなく米国である。

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cordial8317 at 19:28|PermalinkComments(0)

オバマの決意表明は重い。だってノーベル平和賞受賞者だもの(嗤)


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 ノーベル平和賞受賞者のオバマが軍事行動を決意したというのはそれなりに軽いものではないのだろうが、「サリン使用の証拠を掴んだ」だとか、アサド政権の化学兵器使用を声高に叫ぶのを見ていると胡散臭さしか感じない。

 武力を使用した侵略や弾圧が世界的に非難される現在において、シリアの内紛が、米国の倫理や正義に触れるということで騒いでいるのだろうが、ならば中国共産党による近隣国への弾圧や虐殺、領土主権への侵害はどうするのか。  

 満州、内蒙古、チベット、新疆は元来漢民族の土地ではない。「新疆ウィグル自治区」とは、元々はトルコ系の民族が多く住む「東トルキスタン共和国」と呼ばれる国のことだ。

 歴史的に見ても侵略に晒されることが多く、唐、モンゴル帝国、清などの支配下に置かれていた時代もある悲劇の国と言ってもいいだろう。

 支那大陸における王朝の興亡の影響を強く受けてきた不運な民族で「東トルキスタン共和国」として、独立を果たそうとしているがが、1955年の中華人民共和国の侵略より「新疆ウィグル自治区」として設置されている。

 「自治区」とされた後のトルキスタンの人々の受ける迫害は凄まじく、膨大な数の死者と、7万人以上がソ連(現ロシア)へ逃亡した。

 その他にも有名な「ロブノール核実験場」における1964年から実に46回にわたる核実験が行われ、19万人の死亡者と129万人の健康被害者がいる。

 中共は、「民族浄化」という人口侵略により我が国の支配を目指しているが、新疆やチベットの弾圧を「対岸の火事」と見ていては危険過ぎる。

 殖え続ける支那人の蚕食を放置し、外国人への参政権を認め、労働者不足などという不埒な理由で移民を受け容れることになれば、近い将来、我が国も満州や内蒙古、チベット、新疆の様になる可能性を拭いきれない。

 米国へ忠誠を示し、リビアへの軍事行動を容認することは、果たして「平和国家」を自任する我が国の選択する道なのだろうか。

 その昔、サリンを使用し、陛下暗殺をも企んだ宗教団体への破防法適用を見送った国が、この期に及んでオバマに同調し、「重い決意表明」などと持ち上げているのを見ると、臍で茶を沸かすどころか、嗤い過ぎて片腹痛いわ。

 まぁノーベル平和賞者のオバマが言ってるんだから間違いないか。呵呵大笑。

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cordial8317 at 06:15|PermalinkComments(0)