2011年12月

2011年12月29日

今年も色々と有りました

 天皇誕生日前日の22日から怒涛の忘年会というか酒乱会。調子扱いて爆飲し過ぎて体調はイマイチというかイマサン。肝臓値が悪いのは承知しているが、背中も痛いし、揚句は右手の指先が痺れっ放しだし、流石にヤバイと思い昨日と一昨日は休肝日とした。何年ぶりだろう、二日間も飲まなかったのは(笑)

「御用納め」も終え、世間でも冬休みモード。愚生も昨日の午前中に野暮用を済ませ、午後から神棚の注連縄と靖國神社の神札を新しくし、玄関にも新年を迎える正月飾りを付けた。神棚を見ながら、それにしても「今年も色々有ったなぁ」と感慨を覚える。自分的に今年の5大ニュースを挙げてみれば次の通り。

 トップニュースは「東日本大震災」を措いて他にないわな。忘れもしない3月11日の14時46分、国会中継を見ていたら警報と同時に「緊急地震速報」のテロップが流れると、数秒後に大きな揺れに襲われた。直ぐに鎮まるだろうと楽観していたが、揺れは治まるどころか益々大きくなるばかり。老犬を連れ、外に出ようと思ってはみたが、外には大家が。住んでいる借家はペット禁止、仕方なくジッとしていた(笑)

 部屋中の物が散乱した。彼方此方のサッシ戸や窓が勝手に開くし、台所の様子を見れば、愚生自慢の糠漬けが散乱してて手の付け様がない。愚妻と連絡を取るも携帯は繋がらず、余震が続く中、身近なところから片付けをした。

 パートに出ていた愚妻が倅夫婦と孫を連れて帰宅した時には安堵した。原発事故の影響で、少しでも被曝を回避させようと嫁と孫を会津に避難させた。

 2位は、防共挺身隊の行動隊長となった30代から約20年に亘り、物心両面で支援して頂いていた大手警備会社「テイケイ」の高花豊会長が引退したことだ。一代で築いた警備会社を古希を機に第一線から退いた。今迄、高花先生には何かと頼りっ放し、甘えっ放しだったので、右翼人として初心を考える機会となった。

「出世払い」という言葉が在る。長期に亘って人としての成長を見守りながら、物心両面で協力してくれるというものだが、それはその人に夢を賭けていることの証しだ。高花会長の示唆に富んだ話を聞けなくなるのは残念だが、高花先生の期待に応えられる様に日々精進し、本物の右翼浪人に成らねばと思っている。

 3位は、渓流釣りを覚えて3シーズン目で初めて尺イワナを釣り上げたこと。新潟の渓の奥まった淵で大イワナがヒット、流石に慌てて、同道した哲ちゃんに助けて貰った。この時のイワナが33cm、その後も尺イワナをゲットした。今年最大サイズは35cm。1シーズンで尺上3匹と、最高の釣行となった。釣りは止められない(笑)

 4位は、ドリームジャンボで100万円当選したこと。5位は、facebookで交流が広がったことと、パソコンを新調したことだろうか。まぁ来年は、防挺の引退から3年が経つ。自分に非は無いが、自分に課した謹慎・蟄居3年間が終わる。

 右翼活動が岐路を迎えているが、新たな右翼運動の形態を模索しながら微力ながらも天皇国日本を盤石の安きに置くべく右翼道に邁進して行こうと思っている。

 今年一年、拙ブログを閲覧して頂いた友人、知人、警察関係、その他諸々の皆様方に感謝を申し上げると共に、来年が皆様にとって更に好い年と成ります様に御祈念申し上げ、擱筆したいと思います。合掌、佐久間五郎拝

cordial8317 at 06:39|Permalink

2011年12月26日

やっぱり昨夜も大破轟沈(笑)

 昨日は国士舘の後輩の松浦さんが来郡し楽しい酒席となった。東京で会社を経営している松浦さんは、クリスマスの24、25日、福島県いわき市と仙台市で、被災した子供達にクリスマスプレゼントを渡すボランティアをしに訪れたらしい。

 その数も4000個以上、プレゼントを入れる袋も自ら縫ったというから中々出来るものではない。毎日怠惰な生活を送っている愚生に出来るのは精精そんな後輩の慰労くらいなものだ。だが、毎晩というか夕方の4時過ぎには呑んだくれている愚生にとって、19時過ぎの待ち合わせはチョッと辛いものがあった(笑) 

 18時過ぎ自宅を出て、寒風吹き付ける寒さの中、徒歩で駅に向かうも待ち合わせた19時17分には未だ未だ時間が在る。ってな訳で、「THE・BAR」へ顔を出し、シャンパンを二杯飲んでから駅へ向かった。郡山在住で中学校の保健体育の先生をしている国士舘の後輩の羽根田先生も到着し、程なくして松浦さんの登場となった。

 挨拶を済ませ、天麩羅の名店「佐久間」へタクシーを走らせる。佐久間といっても別に親戚ではない。カウンター席を予約してたが、やはり天麩羅はカウンターに限る。後輩二人は生ビールを注文するも愚生はシャンパンを飲んで来たので、地酒「田村」の冷酒で乾杯。普段はお好みで注文するが面倒なのでコースにした。

 車海老から順に出されるが、最後の天茶漬けに至るまで絶品で、昔は駅前に在ったので気軽に来れたが、今は引っ越してしまったので久しぶりに堪能出来た。

 勘定を済ませ、駅前に繰り出しさっきの「THE・BAR」へ。郡山市内でロックンロラー向けの洋服などを販売している我妻さんも合流。我妻さんも国士舘だし、盛り上がらない訳はない。我妻さんがこの日に誕生日だったのでシャンパンで乾杯。

 その後は羽根田さんの注文したカクテルを呷る。この辺りから記憶が途切れ途切れとなった。バーボンソーダを飲んだ記憶もある気もしないでもない(笑)

 三軒目は我妻さんの知人の店へ。店の名前も何を何杯飲んだのかは知らない。強か飲んで、松浦さんをホテルに送り、何故か仕上げに「魚紋寿司」へ顔を出した。

 何を飲んで、何を食べたのかも記憶にない。自宅に戻って、気付いたら土産のちらし寿司が紙袋の中でひっくり返っていてが、夜食にしたのは薄っすら覚えている。

 今朝方、「やばい、寝過ごした。かみさんの弁当作らなきゃ」と目覚めた時には既に9時近くで、かみさんはとっくに出かけていなかった。いやぁ申し訳ない。

 着ていた服もハンガーに吊るしていたし、持ち物も何時もの場所へきちんと置いて在った。ただ、財布の中身を見れば外の気温と同様に寒いものになっていた。そういや今日も飲み会なんだよなぁ。愚生が言うのも何だが、忘年会は控えめに。呵呵。

cordial8317 at 12:14|Permalink

2011年12月24日

「天長節」と「靖國神社」と「大破轟沈」

 一昨日の夕方上京し、友人の奥村女史と西川口の話題の天麩羅屋「天心」で待ち合わせるも、不景気なのか移転したのか店は無く、急遽、モツ焼の名店「米山」の在る赤羽へ。「米山」は完全2回の入れ替え制で、1回目の18時15分頃に間に合わないと2回目の20時半頃まで待つ羽目になる。どうにかぎりぎり間に合った。

 寒風の中、店の外での一献。「レバーとタンの生、ハツ、カシラ、ハラミの半焼き、つくね、ねぎロース、水餃子、マカロニサラダ、あっさり煮込み、肉豆腐」などを注文し、店主がその順番で出して来る。ホッピー、グレハイ(グレープフルーツ割り)、トマハイ(トマトジュース割り)を呷り。約2時間、強か呑んで御勘定。

 奥村女史が、「チョッとマニアックな店へ行かない」と「めだか」という店へ向かうも、チョッとその前に串揚げ屋で「餅の串揚げ」などで生ビールとオロナミンC割りを飲んでから「めだか」へ。オカマの店には何度も行ってるが、こんなブサイク、いやいやこんなマニアックなオカマを見るのは久しぶりだ(笑)

 カラオケと会話で盛り上がる。2時間ほどで店を後にし、西川口の「JOI」へ転戦。この店もニューハーフの店だが「めだか」よりはずっとマトモなオカマだ。翌日は一般参賀だというのに調子に乗って午前3時近くまでやってしまった(猛省)

 岡山から参賀に来る国士舘大学の同級生の高杉さんと丸の内中央口で待ち合わせ。錬心舘の松尾先輩も同道し、皇居へ向かった。例年より参賀する人が少なかったのは寂しいが、自然発生的に皇居へ向かう方々を目にし、日本も未だ未だ捨てたものじゃないと感心する。一回目の御出座しに間に合い、「聖壽萬歳!」

 参賀続いて徒歩で「靖國神社」へ向かった。毎回、本殿参拝前に「鎮霊社」へ詣でるが、鎮霊社は本殿に祀られていない所謂賊軍だった方々が祀られている社だ。戊辰戦争で亡くなった福島県の先人に、大震災からの神助を祈願する。

「遊就館」を気忙しく参観し、直会は、浅草の「駒形どぜう」へ。前日というか、朝方の3時まで飲んでたので酒が未だ残ってたが、松尾先輩は焼酎のお湯割りで、高杉さんと愚生は升酒で乾杯と相成った。「男同士で飲む酒は忽ち通う意気と熱」というが愉しい酒席となった。 2時間ほどで店を後にし、再会を約束して別れた。

 帰りの新幹線では爆睡してしまい、あっという間に郡山到着した。安着祝いにいつもの「春鮨」で一杯やろうとも思ったが、自宅へ帰り、そのまま寝てしまった。

 明日は、福島と宮城県の被災した子供達にクリスマスのプレゼントを配るという国士舘の後輩の松浦さんが来訪する。こうした活動を行っている松浦さんにはホント頭が下がる。明後日は梅本兄と郡山女子大学教授のO先生らとの一献の予定だし、畏友の言葉を借りれば、またまた「大破轟沈」するのは間違いない(爆)

cordial8317 at 08:42|Permalink

2011年12月20日

金正日頓死で「哀悼の意」を表したアホ政府

 北朝鮮の独裁者金正日が頓死した。今迄も「死亡説」が飛び交ったが、今回の死亡の報は間違いなさそうだ。死亡した日は、先週末の土曜日に京都で日韓首脳非公式会議が行われた日だというから奇遇と言えば奇遇だが、笑えない対応だわな。

 日本政府と韓国の情報能力は世界から嘲笑されかねないレベルだ。「金正日死亡」の情報を入手してたら会談は行われない可能性もあっただろうし会談の内容も別のものになっていただろう。李明博にしても「日本政府が応じなければ慰安婦像をあと2、3個造るぞ」なんて恫喝してる場合じゃなかっただろうに(苦笑)

 日本政府は金正日死亡の報に接し「哀悼の意」を表明した。日本人の道徳観からすればどんな人も死ねば同じだろうが、もう少し言い方を考えたらどうなのだ。

 国家の方針として「国際テロ」や「拉致」を実行したのは北朝鮮も認めているし、麻薬や覚醒剤を生産して密輸して薬物中毒患者を殖やし、ニセ札をばら撒く「犯罪国家」や「ヤクザ国家」のボスだという認識はないのだろうか。

 マスコミも、金正日の頓死などテロップで流す程度で十分なのに、国民に金正日のカリスマ性でも植え付けるつもりか。リビアのカダフィやイラクのフセイン、チェコのチャウシェスクら独裁者が死亡した際には「遺憾の意」を表したか?

 独裁者の金正日の訃報に接して「遺憾の意」とはどういうことなのかか。北朝鮮に日本人同胞が拉致されてるのに「哀悼の意」とは頭が捻じれてるんじゃねぇのか。

 北朝鮮は正式名称「朝鮮民主主義人民共和国」というが、民主主義でも人民の国でもない。人民の貧困や餓死者が出ても歯牙にも掛けず、ミサイルを開発しては日本上空を飛行させ、核開発の疑惑を持たれても懲りずに軍事力増強に狂奔している社会主義に内在した金一族の世襲全体主義に物申すべきではないのか。

 北朝鮮如きに媚びる必要は全くない。日韓首脳会談で無礼千万な対応に終始した李明博然り、朝鮮人には日本的美風あんてのは通じないということを知るべきだ。

 小泉純一郎総理が訪朝した平成14年(2002年)、金正日は日本人拉致を認めて謝罪した様に、拉致の責任はこの金正日に在るのは明らか。朝鮮半島情勢が激変するかもしれない今こそ、拉致被害者救出の千載一遇のチャンスとも言えよう。

 金正日の死亡で、後継者の金正恩には全拉致被害者を帰国させる大英断を実行して欲しいものだが、親父に輪をかけて如何にも性格が悪そうな人相風体だし、三代目の親分に就任したところでそうした甘い期待を抱くのは危険だろうな。

 我が国周辺を見渡せば台湾や沖縄及び尖閣列島を虎視眈々と狙う中国共産党の策謀に嵌り、「東アジア大交流時代」だとか「沖縄ビジョン」だとか、更には左翼勢力に拠る「米軍基地反対運動」は激しさを増し、中共の御先棒を担いでいる。

 こんなことでは、拉致問題は解決するどころか更に手を拱き、我が国土は不良外国人に蚕食され続けることだろう。金正日が死亡した今こそ、危機管理を疎かにすることなく、国家の安全保障の確立と自衛軍備強化を急がねばならない。

cordial8317 at 05:10|Permalink

2011年12月18日

「慰安婦問題」を強請りタカリとばかりも言ってはいられない

 昨日、京都で行われた日韓首脳非公式会談で両首脳は「歴史を直視し未来志向で日韓関係​発展に努力する」との方針で一致したが、歴史を直視しないの​は韓国だ。

 韓国政権を揺るがす様な問題が起こると「反日」を叫び、日韓併合の歴史的事実を理解することなく「日帝支配36年」とほざいて思考停止状態に陥り、我が国が反論すれば「全くのデタラメ」と聞く耳も持たないのは民族性だけではないのかもな。

 李明博大統領は、野田佳彦総理に「慰安婦問題での政治的解決を求める」などと言ったらしいが、コレっていつもの支持率回復の為のパフォーマンスに過ぎない。韓国側がこうした強請り、タカリに奔るのは朝鮮人の人品の低さも然ること乍ら、歴代日本政府の事勿れ主義や弱腰外交が要因になっていることは否定出来ない。

 朝日新聞が捏造した慰安婦問題を、自民党の宮沢内閣下で、河野洋平官房長官が談話を発表し韓国人慰安婦を付け上がらせる原因を作り、村山談話で火に油を注ぎ、その後の自民党政権下でもこれらの談話を撤回せず黙認し、民主党政権誕生で鳩山由紀夫が「国家補償」を約束し、前原誠司が「戦後賠償支援」を言及した。

 慰安婦問題は捏造であるのだが、日本側が国家として「謝罪」も「約束」もしてしまっている訳だから、韓国にしてみりゃカネを要求するのは当然のこと。単なる強請り、タカリと言ってもいられない現実が厳然と存在してしまっているのだ。

 戦後、日本外交は「謝罪」と「賠償」さえしていれば問題ないと思っていたのは確か。外交での譲歩は更なる譲歩を生むだけで、こうした土下座外交は、国民の誇りや自尊心を傷付けるものである。歴代の不作為犯と売国議員こそ一掃すべし。

 我が国は日清戦争当時から掠奪と強姦を軍律で厳しく規定し、日露戦争もその後の支那戦線も大東亜戦争でも然りで、規律を破った者は厳しく処罰された。

 然し、生きるか死ぬかの戦場で若い兵士に我慢を強いるのは逆に統率を失うと、街に在る「遊郭」で息抜きをさせた。その遊郭で働いていたのが慰安婦。当時は売春は合法であり、売春婦が戦場迄出張ることは当時では当り前の光景だった。

 戦場に遊郭を建て、兵士に息抜きをさせるのは肝心で、強姦といった性犯罪を防ぎ、相手民族の尊厳を最低限保つことでも有意義だった。こうした日本人の配慮を知らずして、高給に集った売春婦を「従軍慰安婦」と称し、恰も軍が関与し、朝鮮人の女性を強制連行し「性奴隷」にしたとは言語道断と言わざるを得えない。

 1951年から1961年の10年間、韓国の「東亜日報」にUN(国連)軍相手の慰安婦募集の記事が載っている。韓国に駐留する国連軍に、韓国が国家として慰安婦の提供をしていた事実を報じたものだが、集まった売春婦こそ従軍慰安婦ではないのか。

 これこそ韓国こそが国ぐるみで他国の軍隊に慰安婦を斡旋している決定的証拠だろう。今や慰安婦が売春婦というのは韓国人でも分かっているだろうに(苦笑)

 自称従軍慰安婦だったという老婆がインタビューで、「日本軍から銃を突き付けられ『慰安婦にならなければ、殺して釜茹でにして食ってやるぞ』と言われた」というビデオを見た。だが、残念ながら日本には、老婆が言う様な「人肉食習慣」はない。

 コレは自分達の風習を日本人も同じ様にやっていると思って仮託した「同一化虚言」の一つなのだ。コレ以上、朝鮮人の嘘に付き合うのは止めて頂きたいものだ。これ以上の我が国の英霊や先人への冒涜を許してはならない。

cordial8317 at 06:32|Permalink

2011年12月15日

「慰安婦問題」「南京事件」の背後にいるものは米国だ

 韓国領域で韓国海洋警察隊員が殺傷された問題で、韓国と中共の関係が不穏になっている。まぁ日本にしてみりゃ高みの見物と極め込みたいものだが、そう安穏とはしてはいられない。何故なら連中は「反日」で団結するだろうから(苦笑)

 韓国がソウルの日本大使館前に慰安婦像を建立し「撤去して欲しいならカネをくれ!」と恥も外聞もなく強請りタカリをしているが、中共も南京陥落の日に合わせ、南京事件を描いた「ザ・フラワーズ・オブ・ウオー」の制作発表を行った。

 主演した米国人俳優のクリスチャン・ベイルは、同作品は「反日のプロパガンダ映画ではない」と主張している。尤もこんな映画は中国人でも観ないだろう。

 ベイルが、南京に進攻した日本軍の残忍な略奪行為から少女や売春婦らを守ることになる米国人を演じていることからも、確かにベイルの言う様に「反日プロパガンダ」映画ではなく、単なるフィクションの娯楽映画か。

 中国軍と日本軍の戦闘シーンや、日本兵による中国人女性のレイプや殺害のシーンばかりらしく、国内の反日感情を煽り、凋落する中国共産党の威信を確保したいのだろうが御粗末過ぎる。 抑抑、「南京事件」など存在していない。

 戦後、米国の原爆投下が問題となるや、日本軍も30万人も虐殺していたぞと言わんとばかりに世論のすり替えが得意な米国がでっち上げたものなのだ。

 南京事件は「ラーベ日記」などが証拠とされている。昭和12年12月に日本軍が南京を占領した時に南京に残っていた欧米人15人で組織された「安全区国際委員会」の委員長がジョン・ラーベった。ラーベは、南京住民保護に当たった人道主義者であり「中国のシンドラー」として讃えられてはいるが実際はどうだったか。

 ラーベはドイツの電機メーカー「ジーメンス」の南京支社長で、当時のドイツは、蒋介石政権に軍事顧問団を送り込み、中国軍の近代化を指導すると共に、ドイツ製の武器を大量に売り込んでいた武器商人でもあった。

 産業連盟ぐるみで輸出を行い、支那はドイツの第一のお得意様でジーメンスもその中心メーカーで、蒋介石と親密な関係を持つドイツのラーベが安全区国際委員会委員長に選ばれたのは当然の成り行きだったと言える。

 軍事顧問団のファルケルハウンゼン将軍は蒋介石に、日本に対する先制攻撃を提案していた位だから、ラーベが反日的で支那人に同情的だったのは想像するに余りある。従って「ラーベ日記」には日本軍に対する極めて悪意的な描写が多い。

 あの狭い「安全区」に20万人の市民がいたが、そこを自由に行き来していたラーベ。それでも日記にはたったの一件も殺害を見たとは書いていない。 全ては「こう言っている」「ああ言っている」という伝聞ばかり。

 事実、国際委員会の公式記録「南京安全区の記録」には南京の人口はずっと20万人だったと書いてあるが、ラーベは、ヒットラーへの上申書で、5~6万人の民間人が殺されたと虚偽の報告をした。要するに南京事件とは、「ラーべ日記」やヒットラーへの上申書を証拠に捏造されたものであり、全くの事実無根なのだ。

「南京大虐殺」や「従軍慰安婦」は存在せず、この問題の背後にいるのは実は米国なのだ。「南京事件」や「慰安婦問題」などの解決は、対中韓ではなく米国へ抗議すべきで、それには米国依存の体制や戦後占領政策を見直すことが肝要である。

cordial8317 at 07:43|Permalink

2011年12月14日

慰安婦像は日本の恥というより韓国の恥だよ(笑)

 余程のバカじゃない限り、朝鮮人が主張している様な「何十万人という朝鮮人の乙女が強制連行され慰安婦にされた」などとの虚言を信じている人はいない。今や小中華宜しく笑中華・韓国の虚言症は本家の中共をも凌ぐ勢いだ。

「嘘も吐き続けると真実になる」とはよく言ったもので、これらの虚言に何ら反論もせずに、揚句に同調する日本人がいることには開いた口が塞がらない。

 先日、「青き狼(地果て海尽きるまで)」というモンゴル帝国を創ったチンギスハンの角川映画を観た。今一つパッとしない作品だったが、この映画の戦いでも「戦利品は女性だ」と描いている。征服の定義は掠奪と強姦だったのだ。

 7世紀に興ったイスラムでは「略奪」は正しいと教え、最高の戦利品は「女」だった。女を奪い犯すことは、その国家と民族の純粋性を奪い獲り、征服者の血を入れることで征服が完了する。斯くして世界中の民族と国家は万古不偏として、この「掠奪と強姦」の定義に従って戦争して来たと言っても過言ではない。

 第二次世界大戦末にベルリンに侵攻したロシアは、僅か半年の間に13万人のドイツ女性を強姦し1万人が孕んだ。そのうちの8千人は堕児処置を施すもののが2千人の混血児が生まれた。モンゴル帝国は13世紀欧州へ攻め込み、イランやロシアに混血児を残した。生まれた子にモンゴル系の血が出るとその子は社会から排斥された。

 米国人もロシア人と同じで、第二次世界大戦に参戦すると英国人400人を強姦した。欧州戦線では1万4千件の強姦を記録している。無条件降伏した日本では米国人もロシア人も残酷に振舞った。民家に押し入り妻や娘を強姦し抵抗すれば躊躇なく殺した。調達庁の記録では実に2千600人を超える日本人女性が殺されている。

 そんな掠奪と強姦の世界の鬼畜どもとは違い、日本軍だけは日清戦争の昔から掠奪と強姦を軍律で厳しく規定した。日露戦争もその後の支那戦線も、大東亜戦争でも然りで、その規律を破った者は厳しく処罰された。

 然し、生きるか死ぬかの戦場で若い兵士に精神的肉体的我慢を強いるのは逆に統率を失うということで、街に在る「遊郭」で息抜きをさせた。その遊郭で働いていたのが慰安婦で、売春婦が戦場迄出張る事は当時当り前のことだったのだ。

 映画「エデンの東」に、開拓時代にワゴンで売春婦が街を巡回するシーンが在るが、アレと同じだ。戦場に遊郭を建て兵士に息抜きをさせるのは肝心で、性犯罪を防ぎ、相手民族の尊厳を最低限保つ事でも有ったのだ。

 こうした日本人の配慮を知らずして、高給に集った売春婦を「従軍慰安婦」と称し恰も軍が関与し、朝鮮人の女性を強制連行し「性奴隷」にしたとは言語道断。では、韓国に聞くが、1951年から1961年にかけ「東亜日報」にUN軍相手の慰安婦募集の記事が載っている。これはそれこそ従軍慰安婦だろう。

 韓国に駐留する国連軍に韓国が国家として慰安婦の提供をしていた事実を報じたもので、韓国こそ国ぐるみで他国の軍隊に慰安婦を斡旋しているのではないのか。

 従軍慰安婦が嘘だとは朝鮮人でさえも判っているのに日本政府は沈黙を続けるだけ。「日本大使館前の碑を建てられたくなければ要求を呑め!」とは単なる強請り。歴代の日本政府が譲歩して来た結果が更なる不当な要求を生んでいる。

 強請り、タカり、恩知らずの韓国は、文化の違いというより、人品の違い、朝鮮人には言葉足らずの日本的美風は通じない。500年以上も前の豊臣秀吉の朝鮮征伐をも責める韓国には、論拠を示して、毅然と対応するべし。

cordial8317 at 06:42|Permalink

2011年12月08日

大東亜戦争勃発から70年に想う

 大東亜戦争勃発から今日で70年の節目を迎えた。未だに左翼勢力は、大東亜戦争を「侵略戦争」であり、アジアの人々に多大の迷惑を掛けたと罵り、戦争の原因を天皇であるとか、軍部であるとか、A級戦犯であるなどと喧伝しているのは、無知に加えて、先の大戦が起きた原因や犯人を隠し続けたいからだろう。

 戦争犯罪人は大日本帝国憲法でもなく、統帥権でもなく、況して軍部でもなければ日本の軍国主義でもない。真の戦争犯罪人は近衛文麿と尾崎秀美らそのブレーン達、即ち日本国内で蠢いていた共産主義者らである。

 マルクス・レーニン主義思想が昭和の悲劇を生んだ。多くの戦死者、戦災者を出し、日本の資産の大部分を失った大東亜戦争とは、ソ連コミンテルンと中国共産党、そして日本の共産主義者が仕組んだ共産革命の為の愚かな戦争だったのだ。

 米国では、12月7日(現地時間)を汚名の日「リメンバーパールハーバー」とし、日本を卑怯な国として糾弾して止まない。70年経った今でも依然として我が国は「騙まし討ちをした卑怯な国」との汚名を着せられ続けている。

 汚名を着せられた原因は、駐米日本大使が宣戦布告の覚書を渡し遅れた職務怠慢に他ならないが、抑抑、何故、開戦を決意し、真珠湾攻撃に至ったかが問題で、それには1853年のペリー来航時代迄遡らなければ到底理解は出来まい。

 我が国は黒船に驚き乍らも、強力な中央集権国家を形成しようと明治維新の大業を成し遂げる。15世紀の大航海時代以来、白人による世界制覇の波がアジアにも押し寄せ、アジアは次々と列強に蚕食され植民地となって行った。

 その間に勃発した「日清・日露戦争」も避けては通れない宿命的な歴史だったのだ。「日清・日露戦争」での日本大勝利の報は、固唾を呑んで見守っていた世界の人々を驚嘆させ、特に有色人種に与えた影響は強烈だった。

 日露戦争勝利から15年後、パリ講和会議で我が国は、「人種平等の原則」を国際連盟規約に載せることを提案する。然し、議長を務める米国大統領ウイルソンが拒絶し否決されてしまう。白人優位主義から「日本を始めとした有色人種に人権など必要無い」との人種差別が会場に横溢していたのは明らかだった。

 その後、世界は第二次世界大戦に突入し、我が国はABCD包囲網や最後通牒を突き付けられ、我が国が生き残る道は連合国との戦争しかないとの決断に至る。

 戦後の1951年(昭和26年)、上院軍事外交委員会でマッカーサー元元帥が、「日本が戦争に飛び込んで行った動機は、安全保障の必要に迫られた為である」と告白している様に、日本は決して騙まし討ちも、侵略もしていない。

 結果として我が国は敗れはしたが、大東亜戦争後、アジアの国々は独立を果たし、「人種平等の原則」は成立した。その事実をしても、如何に大東亜戦争が有色人種の地位向上と植民地解放を目指した「聖戦」だったかが理解出来よう。

 昭和20年9月2日、戦艦ミズーリの甲板上で、重光葵外相と梅津参謀総長が降伏文書に調印する。上海爆弾事件で右足を失った重光全権は、ステッキを頼りに義足を引き摺りながら喘ぎ喘ぎ上った。調印を前に一杯の水を所望するが、米国側に冷たく拒否された。卑怯者の「ジャップ」にやる水などないという憎悪が目に見える。

 今も糾弾して止まない「リメンバーパールハーバー」も、結局は米国の日本人への偏見と差別であり、先の大戦を反省すべきは我が国ではなく米国である。

 12月8日は、国士舘大学の先輩で防挺時代の兄であり、親であり、同志であった對馬則政の命日でもあり、やはり12月8日は忘れられない。 合掌再拝

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