2011年10月

2011年10月31日

数数の過失は酒とともにあり・・・

「萬(よろず)相談」って感じで、年に何度か相談事を持ち込まれる。弁護士法違反や強要罪に問われ兼ねない様な問題も少なくないが、慢性的不如意故に背に腹はかえられないと二つ返事で引き受けてしまうが殆どボランティアで徒労に終わる。

 先日も知人の困り事を引き受けた。何度かの交渉の末に殆どは解決したのだが、問題点を要約した手紙を行こうと、門下生の原田文博を引き連れ出かけた。

 用事は直ぐに終え、飲む時間には早いが通しで営業している市内大町の「春鮨」で一献と相成った。先ずはビールと勝手に出してくる刺身で乾杯。大将が出してくれたのはいつもの本ミル貝とネギトロ、ヤリイカ、ホッキ貝の炙りなど。

 中でも本ミル貝は愚生の大好物で、ここのミル貝は他の店のミル貝とは甘味も香りも値段も別物だ。原田に、「これ何だか分かるか?」と聞けば、「え~とツブ貝ですか?」との答えに、ん~「食べさせ甲斐はない」と痛感する(笑)

 ビールから地酒の「笹の川」の冷酒に切り替え、大将やカウンターの客と話しも弾む。冷酒を二本ずつ空け、店も混んで来たので別の店へ。その後に二軒覗いて、〆は定番の「カレー南蛮蕎麦」ということで、中町の「辰美」へ向かった。

 生ビールとレバニラを注文し飲み出したのは好いが、原田が何か怪しい雰囲気。呑み過ぎもあってペラペラと余計なことをしゃべり出した。最初は酔いもあるし、冗談かと思ったのだが、頭に来たのでついつい爆発してしまった(爆)

 まぁ飲んでる勢いとはいえ、チョッとばかしやり過ぎた。他に客もいたし程程にしときゃ好かった。最後の浪人・阿部勉さんじゃないが、「数数の過失は酒とともにあり」を地で行ってしまった。原田には悪いことをしたなぁと猛省頻り。

 愚生も組織を脱退したとはいえ右翼人だが、右翼を毛嫌いしている人は多い。土曜日だったかTwitterで、朝出会った右翼の宣伝車から流れてる「出征兵士を送る歌」は大好きだが、「オレが一番嫌いなのは右翼だ」と、右翼団体そのものを否定し、揶揄っている会社経営者のツイートが目に付いたので意見してみた。

 その返事は、嘲笑した物言いで、礼節とか長幼の序は微塵も感じない。見た目の大物ぶりとはエライ違う了見の狭いものだった。再返信したがやはり返答はなかった。確かに軍歌を大音量を鳴らして走り回るスタイルは甚く評判が悪いのは認めるが、それを以て右翼を一括りに否定するのも邪見というものだろう。

 街宣右翼に左翼などから否定する意見は見られないが、街宣右翼を「朝鮮右翼」だの、「日本を貶めるもの」だのと否定するのは、左翼陣営と言うより、マスゴミに煽られてる自称右翼や自称愛国者を自任する似非保守の輩が多い気がする。 

 吉田松陰は、「貧銭を以てこれを軽蔑する者は富貴を以てこれに諂屈する」と訓えたが、この目黒在住の自称・青年実業家という人を見ていると、正にその言葉がピッタリで、愚生が最も忌み嫌う人品に悖るさもしい輩だった。

 この男のフォロワーの数は5000名を超えているが、ツイートを見れば有名人へのリツイートが多く、その他は自慢げな話しばかり、facebookにも登録していた様なので覗いて見たが、こちらはFBFの数は50名程。メッセージでも送ってやろうかとも思ったが、こういうのと係わってるのもアホらしいので止めといた(笑)

 因みに、五月蝿い宣伝車に遭遇したらネットで陰口など垂れ流してないで、直接苦言を呈してみては如何だろう。意外と、「すいません」と聞き入れてくれると思いますよ。万が一、聞かない様なら是非とも愚生へ御一報為れたい。呵呵。

cordial8317 at 04:51|Permalink

2011年10月29日

「汚れた顔の紳士達」はノンフィクションかフィクションか

 ライフワークブログの「汚れた顔の紳士達」の元となる短編小説を上梓したのは、今から約16年前の第50回国民体育大会福島秋季大会が行われる頃だった。

 遡ることその約1年前、愚生とヨークベニマルとの間でチョッとした諍いが起こり、ベニマル側の対応に納得出来ず、地元や世論にその是非を問うべく、当時ヨークベニマルの社長であった大高善兵衛へ猛省を促そうと街宣活動を行う事態となった。

 以来、約5ヶ月の間、ベニマル本社や郡山商工会議所やら、市内一円を隈無く街宣活動を展開した。最終的には郡山商工会議所の会員2人(篭谷社長、神田社長)と酒類卸業の三瓶社長らが仲介し、ホテルハマツで大高社長との和解が成立した。

 その和解条件は、ベニマルとの確執の原因となった元福島県警幹部の解任と大高氏からの謝罪と社長の辞任だった。大高氏は「色々と申し訳有りませんでした。もう既に元署長は解雇しました。私は商工会議所の会頭になるので、社長は近々に弟(善二郎)に譲ります」と、飄然として愚生の提示した条件を呑んだ。

 和解後、仲介した3人とホテルハマツの裏手に在る鮨屋「だるま」へ移動し酒を酌み交わした。神田社長らは、「今日はホント有難うございます。この埋め合わせは必ずしますので」と、後日の協力を確約し、愚生も強かに呑んで店を後にした。

 その後、この三人からは梨の礫。そんな折、篭谷社長の会社が経営不振に陥り夜逃げした。夜逃げした数日後、篭谷社長が東京の愚生の田園調布の事務所を訪れた。

 突然の訪問に驚くも、田園調布の寿司屋「船八」へ、幹部や若い隊員数人も同道しての一献となった。篭谷社長は、元陸上自衛隊のレンジャー上がりで、がたいはデカイが下戸で、夜逃げした心労も重なってか直ぐに酔いが廻って色々と喋り出した。

「佐久間さんに献金をしなきゃと思い、陣屋に会員制のバーを開き、その奥に『麻雀クラブ』を創り、大高さんの口利きで会員を集め、その会費を毎月、佐久間さんに渡すつもりで進めたんですが、思った様に会員が集まらなくて・・・」

「大高さんや神田さん、三瓶さん、鈴木さん(事務機屋社長)らは麻雀が大好きで、連日、神田さんのマンションに集まっては賭け麻雀をやってますよ。俺も何人かには負けてるんですが、貰える分も少し(笑)」と、暴露話や時局やらで談論風発。

 その頃は、オウム真理教が事件を起こし、「ポア」という言葉が流行ってて、「サリン手に入らないですかね。ポアしたいヤツがいるんですよ」ってなことも。

「そりゃ誰よ?」「富塚(山東ビル)ですよ!」という。愚生は冨塚という人物とは面識は無かったが、不動産業や金貸しで有名で名前だけはよく知っていた。

 その後、富塚は「あぶくま健康ランド」といったバブリーなセンスの無い施設などが原因となって経営不振に陥り、結局は倒産し、体調も崩し亡くなったらしい。

 酔いも廻って来たので事務所へ戻り「今日は泊まって行けば」ということになり、愚生は先に床に就く。だが、隣の部屋から聞こえて来る怪しげな会話に耳を欹てると、何やらクスリ好きな幹部の久山とマリファナの話しで盛り上がっていた。

「マリファナやって女とやると気持ちいいですよねぇ」と篭谷社長。

「そうなんですよ。でも最近良いのが無いんですよねぇ」と久山。

「何なら今度上げますよ。今仙台の女子大生と付き合ってるんですが、そこに塊り(マリファナ樹脂)が有りますから」と篭谷社長。

「ホントですかぁ」と久山の嬉しそうな声。

 この幹部の久山は後に薬物で逮捕された。所属していた団体の恥にもなるのでこれ以上の遣り取りは割愛するが、酔ぱらった勢いからか、大高社長や神田社長、三瓶社長らのスキャンダラスな話を得意気に話していたのを今でも覚えている(笑)

 翌朝、郡山市の坂上研二建設社長が郡山署に告発した件や、郡山駅中でやっていた携帯電話店の契約金800万円の取立てを愚生に依頼して何処かへ消えて行った。

 その後、郡山へ戻り、商工会議所で大高社長と会い、坂上ら関係者と会いその事後処理を講じていた矢先に、愚生が「尿管結石」で入院する羽目となってしまう。入院中に、やることもないので、今迄の篭谷遁走の経緯を小説風に書き上げた。

 原稿用紙で約180枚、三日足らずで書き上げて印刷所で製本した。そのノンフィクションが「汚れた顔の紳士達」である。300部発効したが原稿込みで即日完売。してしまったので

 当時の冊子は手元にはないが、中々の出来だった様に思う。売らないで福島県文学賞に応募していたら、県ノンフィクション大賞くらい受賞していたかもなぁ。

 その後、夜逃げした篭谷社長へ3000万円を貸付した坂上建設も、放漫経営から数年前に倒産した。この坂上社長、若い頃は暴走族として暴れていたそうだ。その若かりし頃に覚醒剤に手を出し、そのことで横浜の某右翼団体から脅された。

 何も若い頃の悪事など放っておけば良いものを、地元の右翼の重鎮、大日本愛国党の芦名昇盛事を荒立ててしまった。坂上建設の下請け企業で「エム・ケンソー」という会社が在った。この会社も坂上の倒産で吹っ飛んだが、この遊び人の社長が芦名議長と知り合いで、それが縁で芦名議長の登場となったのだという。
 
「そりゃ大変だ。よく、地元の団体にバレなかったねぇ」と芦名議長

「いや、地元で佐久間五郎に嚇されてます」と坂上ら

「えっ、どういうことで」と芦名議長

「実は、こないだ夜逃げした篭谷へ3000万円を貸付けたんですが、ゴルフの会員権やら担保にしているのだから、詐欺には当たらないし、訴えを取り下げろと、第三者を介して、佐久間が言って来たもんだから、つい『佐久間はオレの前の女房を寝取った男なんだ』とウソを吐いてしまいまして・・・」と坂上ら。

 困ったのは芦名議長、愚生が芦名議長の言うことなど聞かないのは百も承知。結局、右翼の横山武彦が愚生との仲介役となり、坂上との和解が成立した。

 和解の為に連絡をくれた横山は、愚生と会うなり、「まぁ女を寝取った、寝取らないの話しだし、ここは一つオレに任せろ」との第一声に唖然とする。

「何よそりゃ、坂上とはそういう問題じゃないんだが、横山さんが登場したんじゃしゃあないわな。ところで、横浜の右翼は何で坂上をやってるの」と聞く。

「何か、シャブをやってた人間が公共工事に携わるとは何事かということらしいわ」

「へぇ、何も若い頃だし関係ないでしょ(笑)、それにシャブの件なら昔、大越興業の大越興治社長が間に入って和解してますよ。坂上も同じネタで2回も脅されてりゃ世話ないわ。まぁシャブだけにネタが尽きない、なぁんてね(笑)」

「え、大越が入ったってホントかそりゃ。まぁオレは、佐久間との仲裁と横浜の団体への和解金を運ぶだけで小遣い貰えるし、前のことなんかどうでもいいわ」と横山。

「坂上もバカだよなぁ、最初から自分に相談すりゃこんなことにはならなかったのに、それにしても芦名議長も何やってんだか(爆)」 と相成った。

 その後、横山が横浜の団体との和解の為に上京し、愚生らが街頭演説をしている新橋SL広場へ訪れた。その際に、「結局、横山さん、(仲裁料は)幾ら貰ったの」と聞けば、結構な金額になったとほくそ笑んでいたのを思い出す。

「横浜の団体への振り込み」は実は横山の実弟の口座。その実弟に聞くと手数料は過分な額だったという。横山が掠め取ったカネの殆どは、地元の場末の飲み屋に飛んでった。横山らしいが、まぁ間接的には経済効果には繋がったということか。呵呵。

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2011年10月28日

身はたとひ 武さしの野辺に朽ちぬとも とどめ置かまし大和魂

 吉田松陰が江戸伝馬町の獄で斬刑に処せられたのは安政6年(1859年)10月27日。松陰は天保元年(1830年)8月4日、長州萩の東郊松本村で杉家の二男として生まれる。成人して吉田大助の養子となり、名を吉田大次郎と改める。

 通称は吉田寅次郎。松陰は号。吉田家は代々山鹿流兵学師範の家だった為、早くから山鹿流兵学その他の学問を修め、その道を究め、子弟の教育に努めた。

 安政元年3月、師の佐久間象山の勧めで海外渡航を計画する。下田から米艦(黒船)に便乗しようとして遺失、下田の獄に繋がれたが伝馬町獄送りとなって途中に、高輪泉岳寺の前で詠んだのが次の句だ。 松陰の強い意志が読み取れる。

「かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂」

 同年9月迄の約6ヶ月間、江戸城下伝馬町の獄に留置されていたが、国元の長州萩に謹慎の身となって帰った後の「松下村塾」での教育が最も偉大な事業であろう。

 松陰の薫陶を受けた塾生の中から、有爵者6名、贈位者17名、有位者14名等多くの著名な士が出て、中でも高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋、木戸孝允(桂小五郎)等は、明治維新の大業に勲功の有った人物ばかりである。

 歴史の上での三大変革といえば「大化の改新」「建武の中興」「明治維新」だが、その明治維新に松下村塾生の働きが大きな力となったのは誰もが知るところ。後に松陰は、「安政の大獄」に連座して再び伝馬町獄に入牢となった。安政6年7月9日、江戸の長州藩邸から評定所に召出される際に次の句を詠んだ。

「まち得たる 時は今とて 武蔵野よ いさましくも鳴く くつわ虫かな」

 自身の決心をこの詩に込めている。然し乍ら、幕府の役人を動かすことが出来ずに、その後の3回の取調べで死刑を覚悟した。10月22日、父、叔父、兄へ宛てに「永訣書」を送った中の一首が誰もが知る次の句である。

「親思ふ 心にまさる 親ごころ けふのおとずれ 何と聞くらん」

 処刑の時の近づいたのを知って、10月25日より翌日26日の黄昏までかかって書き上げた「留魂録」の冒頭に「身はたとひ 武さしの野辺に 朽ちぬとも とどめ置かまし 大和魂」(十月念五日二十一回猛士)と記した。

(二十一回猛士)とは松陰先生の号であり、「二十一回」については、名字の「杉」の字を「十」「八」「三」に分解して、その合計した数字が「二十一」となること、及び「吉田」の「吉」を「十一口」、「田」を「十口」に分解出来る。これらを組み合わせると「二十一回」となることにより付けられている。

 松陰はこれを同囚で八丈島に遠島になった沼崎吉五郎に託し、20年後、当時神奈川県令で塾生であった野村靖に手渡したものが現在残っているのが「留魂録」だ。

 その留魂録に拠って、当時の法廷の模様や尋問應答の次第など、獄中の松陰や他の志士の消息等が分かり、松陰の自己の心境と塾生の行くべき道を示したものであり、崇高な松陰魂の指南書ともいえるものである。江戸伝馬町の獄の揚屋を出る松陰は、次の辞世を高らかに朗吟して同囚の士に訣れを告げる。

「今吾れ国の為に死す 死して君親に背かず 悠々たり天地の事 鑑照明神に在り」

 次いで刑場では、「身はたとひ」の詩を朗誦して従容として刑に就いた。29歳2ヶ月のその生涯は短くも、没後150年以上経った今でもその言葉通り、松陰の魂と言行は光彩を放ち、多くの人の心を捉え感奮興起させ続けている。合掌再拝                  

cordial8317 at 01:59|Permalink

2011年10月26日

TPPは現代の「ハル・ノート」か黒船か

 我が国が環太平洋連携協定(TPP)交渉に参加するのかしないのか。民主党内も纏らず、政界も混迷の様相を呈して来た。TPPは2006(平成18)年5月にシンガポール、ブルネイ、チリ、ニュージーランドの4ヶ国加盟で発効した経済連携協定だったが、翌年10月より米国主導の下に急速に推し進められることとなった。

 野田総理は、月開かれるアジア太平洋経済協力会議(APEC)までの妥結を目標にしている。TPP問題に関しては、京都大学の中野剛志准教授の意見が分かり易い。

 中野准教授は「TPP亡国論」を上梓するなど、TPP参加には否定的な立場であり、「TPPは米国が自国の企業に有利なルールを押付け様というのが本質で、自社の利益しか考えない米企業に日本市場が蹂躙されるリスクが有る」と断じている。

 加盟国・交渉国10ヶ国のGDP(国内総生産)を比較すると米国が67%、日本が24%で、9割以上を我が国とアメリカの2ヶ国が占めている。因みにオーストラリアが5%、その他の7ヶ国は僅かに4%しかない。実質は日米FTA(自由貿易協定)と言っても過言ではなく、日米間の交渉となれば、日本の言い分が通るとは思えない。

 韓国は米国とのFTAが来年1月に発効する為に参加せず中共も傍観者を決め込んだ。結果、TPP推進派の言う様な「アジア市場攻略」には繋がらない。韓国のFTA交渉を見れば日本も同様に米国に翻弄されるのは火を見るより明らかだ。

 2015年迄に加盟国間の貿易に於いて、工業品、農業品、知的財産権、労働規制、金融、公共事業、医療サービスなどを始めとして、全品目の関税を10年以内に原則全面撤廃を目標としている。こうしたことは実質的には関税自主権の放棄であり、結果として、米国の傲慢に日本市場が踏み荒らされることになるのは必至だろう。

 この他にも、これまでの様な外国企業の日本への進出・投資の規制や外国人労働者の受け入れ制限が難しくなるといった指摘もされているが、強制的に移民政策が成されて行く危険も孕んでいる。つまり、米国主導のTPP参加は、現代の「ハル・ノート」や、ペリーの黒船襲来の再来とも言えるのではなかろうか。

 米国へ参加を約束した野田首相は最早引くに引けない状態で、国内の反対意見を抹殺してTPPに参加したところで、途中で離脱することなど出来はしないだろう。

 米国という国は何事に於いても自分(自国)の利益だけを考える国であり、例えば今日の夕刻までは友人であって明朝には敵となっても、それを少しも不条理とも不道徳とも思わない国である。米国が「日本を友人」だと持ち上げるのはそれが米国の為に有利だからで、その他の如何なる理由も大義名分も付けたりに過ぎない。

 米国側が一旦その利益が失われたならば何ら躊躇することな180度転換し、敵側に立つことを少しも不思議と思わぬ国なのだ。親米保守派は、TPPのメリットを主張するが、実は米国の国益を優先し日本の国益を毀損していることに気付くべきだ。

 無理無体、理不尽な事を平気でやる米国主導のTPP参加は見送り、米国への警戒を疎かにしてはいけない。同時に日米安保体制も再検証すべきである。

cordial8317 at 08:35|Permalink

2011年10月24日

永ちゃんを歌ったのは記憶にあるのだが・・・

 最近漸くfacebookが愉しくなって来た。アカウントが三つになってしまい削除も退会も出来ない様だしほったらかしにしていたのだが、久々何気に弄ってたら國士舘のグループに繋がった。友人のリクエストをしてみたら結構な数になってた。

 國士舘と言うだけで何か深く繋がってる様で、こうした縁も柴田徳次郎先生の賜物だろうか。そんな國士舘の卒業生を中心に友人の輪が広がって来た。

 facebookもmixiと同じ様なものだが、mixiは匿名が多く、主張も胡散臭げなものも少なくないが、facebookは本名だから信用が置ける気がする。

 愚生以外皆立派に見えて実に頼もしい。facebookは右翼関係者は少ない。政治批評が多いし、同じ考えの人に啓蒙しても意味が無いと思っているからだ。

 Twitterもやっているが情報量ではfacebookが一番だろう。インチキ臭いものや流言蜚語なども少なくないが、話題のニュースや政治経済、世界情勢やグルメ、雑学、諺、宗教、哲学、コラム等等、ガセネタもあるが非常に参考になっている。

 チョッとしたメモにも好いし、お気に入り登録しては聞き齧った情報を自分のことの様に語っている。「言いたがりは聞きかじり屋」と言うが実に耳が痛い(笑)

 土曜日午後、友人の哲ちゃんから「祭りだし、一杯どうよ?」との誘いに、二つ返事で迎えに来て貰った。「チョッと風呂で汗かいてからにしようや」ということで、市内の並木温泉「ゆの郷」へ行ってさっぱりしたところでいざ本宮市へ。

 先ずは本宮市の老舗鰻屋の「山本屋」へ、その途中に酒屋に寄って、宮城の地酒「浦霞」のひやおろしを購入。山本屋にはビールや芋焼酎は有るが日本酒が少なく、「ウチは鰻を食べて貰えれば良いから」と、持込OKとさせて頂いている。

 店の前には、山本屋さんが祭りの氏子ということで大きな祭り飾りが建てられている。早速、ビールで乾杯し、愚生はビールを一杯飲干した後は浦霞を呷る。

 女将さん手作りの酒肴で酒が進む。大将が申し訳なさそうに、「すいません、今日は肝はチョッと」とのことなので蒲焼を注文。そういや先日、肝焼きをあっという間に平らげて「おかわり」を頼もうとした彰君はその後元気にしてるだろうか。

 程無くして「はだか神輿」の若衆がやって来たので、外に出て暫し観覧する。生憎の天候だったが、活気が伝わって来た。店に戻り飲み出すも、哲ちゃんは月曜の仕事の段取りで電話しまくってるし、こっちはボーっと酒を飲んでるだけ。

 まぁ仕事だし、しゃないわな。そうこうしていると、今度は女性だけの真結女(まゆみ)御輿がやってきた。本来は午後の3時頃から担ぐ予定なのだが雨で遅れ、中止というのも何だし、雨が止んだのを見計らい出発した様だ。

 中々艶やかだが「神輿に跨るのは止めたら」と思ってしまう。神への冒涜行為なのだがまぁ好いか。どうせのことこっちも裸御輿にすりゃ好いのに(苦笑)

 友人に電話し、焼き鳥「喜城」で待ち合わせ。この頃から酔いも絶好調。その後、別な店に移動するも、友人の友人らも合流。哲ちゃんは、その友人の友人の女性一人と退座し、暫く戻って来なかったが、一体何があったのやら(秘密)

 その後、哲ちゃん待ちで、カラオケスナックへ。もうこの頃になると何がなんだか。永ちゃんを歌った記憶はあるが、朝方寒くて目が覚めたら、何のことはない毛布を下にして寝てた。毎度毎度、学習能力に乏しい愚生なのでした。呵呵

cordial8317 at 08:10|Permalink

2011年10月22日

京都、大阪、放浪旅の備忘録

 少々古いが、故郷小浜の同級生の菅野弘君と後輩の本田仁丈君、善方尚君の4人での京都、大阪方面への放浪旅の備忘録です。暇潰しにどうぞ御一読を(笑)
 
 9月某日夜、郡山の自宅に迎えに来て貰い出発、磐越道~北陸道を通り、朝方、京都入りし、先ずは比叡山延暦寺へ詣でた。比叡山は1200年前、伝教大師最澄が、我が国の安泰と国民の幸せを祈念する為に比叡山に開闢した山である。

 その天台宗の根本は、「一隅を照らす 是即ち国宝なり」という教えである。一人一人が相手を思いやり、自分が立っている場所で夫夫が出来ることを精一杯行えば、自然に周りも感化されて良くなって行くことに繋がるというものである。

 国学を重んずる愚生としては仏教には然程入れ込むものではないが、比叡山は「山門」との異名に相応しく、神々しさとは違う荘厳さが其処には存在した。
 
 法然や栄西、親鸞、道元、日蓮といった開祖の方々が修行された場所に立ち、思いを馳せながら鐘を撞かせて戴いた。寺院で御守りと携帯ストラップを購入し、京都南禅寺に移動した。この寺は秋の紅葉シーズンに来たら最高だろうな。

 昼食は、南禅寺近くの「順正」という茶屋で豆腐会席。 品良く並べられてはいるが美味しかったのは汲み上げ豆腐くらいで、湯葉は普通で、天婦羅は「さつま芋、かぼちゃ、いんげん、蓮根、茄子」と、態態京都で食べなくてもいいものばかりでチョッとガッカリ。「まぁ夜は鶴橋の美味しいホルモン食べるから良いか」

 9月半ば過ぎとはいえ、あまりの京都の暑さに、チョッと涼もうかと貴船に向かうが、「川床」目当て手であろう観光客で大渋滞得に巻き込まれた。全く動く気配がないので、車を降りて交通整理をしてやろうと車を移動すると、「チョッと何してはんの。ここはうちとこの敷地どすえ」と茶屋の女将が出てクレーム。

 頭に来たのでチョッと一喝し苦言を呈す。本来は茶屋側が警備員を頼むとか、地元の方が交通整理をすれば済むことだろうに。こんな横柄な商売してると客が遠のくに違いない。貴船を早々に切り上げ、京都御所を一周して金閣寺に向かう。

 金閣寺は、御釈迦様の骨を奉った舎利殿「金閣」が有名だろう。一般には金閣寺と呼ばれてはいるが、正しくは「鹿苑寺(ろくおんじ)」とう名称で臨済宗の禅寺である。愚生的には、金閣寺を放火した青年僧を題材にした三島由紀夫の「金閣寺」のイメージが強い。参道の休憩所で茶菓子で一服、暫し贅沢な気分を味わう。

 旅の初日の最後に向かったのは平等院鳳凰堂。高校時代の修学旅行で行って以来の訪問で、大人になってから見る平等院は高校生の頃に見た光景とは違ってた。

 CGで建立当初の色が復元されたのを拝見したが、色彩の豊かさと華麗さに驚愕し、宝物殿の鳳翔館に展示されている「雲中供養菩薩像」の52体は、何れも雲に乗り、様々な楽器を奏で舞う姿を繊細に彫り上げているが、その仏師の高度な技術には圧倒された。 仏閣巡りと京都の旅はここまでで、宿泊地の大阪へ向かう。

 約2時間後ホテルに到着。慌しくシャワーを浴びて、タクシーに乗り込んで鶴橋へ向かった。運転手が勧めてくれた「吉田」という焼肉屋へ入り、生ビールで乾杯。

 店員の薦める4種類のイチボなどの貴重部位を注文し、他にキムチの盛り合わせとナムルの盛り合わせを追加。タクシーの運ちゃんも言ってたが、この店には芸能人やら有名人が来店するらしく、店内はその写真やらサインやらが多く飾られていた。

 注文した品が運ばれて直ぐに食してみたが、これがまた美味で大満足。この店だけでも十分で居座ろうと思ったが、折角鶴橋に来たので、次に、グルメ雑誌に載っていた「空」という店に移動する。人気店だけあって店の前には大行列が出来ていた。

「空」は諦めて、その近くで呼び込みしていた「喜楽園」という店に入ることに。「ウチは40年やってますから」という台詞を信用して入ったのだが、これが最悪で、今まで食べてきた焼肉屋の中もで堂々のワースト3のランキング入り。

 タレは濁って、味見をすると腐臭がする。分かり易く言えば、クサヤの漬け汁に焼肉のタレを混ぜた様な感じで、アレで40年も続いていることが不思議で、40年間熟成したタレだったのかもな。そういや、他の客にも笑顔が無かったな(笑)

 口直しにやっぱ「空」に並ぼうと言うことになり、店の前に並ぶ。10分程度で案内され「上ミノ」やら「テッチャン」など鶴橋の王道の品を注文。最初に入った「吉田」とは違って鶴橋らしい店だ。何より客も店員も見掛けによらず良い感じ。

 朝鮮人の聖地であり、ジャイアンツの敵地で阪神タイガースの地元でも在るが、大いにジャイアンツの話題で盛り上がる。〆に「ユッケジャンスープ」とライスを食べたが、これまた美味で大満足。最初から並んでりゃ良かったと反省。

 法善寺横町に在るバーに移動しようと思ったが、前年、四国の旅の後に行ったことのある通天閣近くの場末の飲み屋に「裏を返し」。昨年初めて顔を出したことを忘れずいてくれて、その時に店で働いていたオバちゃんも呼んでみた。

 他の客を巻き込んで、カラオケ三昧。客が「この方(弘君)は俳優の脇役で有名な人に似てる」と大いに盛り上がる。結局その俳優の名前は出ず、俳優の松澤一之と分かった頃には大酒乱会の様相。強か飲んで、シナ人のネエチャンにタクシーを呼んで貰い、ホテルの部屋に着くなり5秒で爆酔となり、1日目の旅は終了。

 翌日は6時近くに起床。「チャミソル」と「いいちこ」を呑み過ぎ完全な二日酔い。酒を抜く為、ホテルの周りを30程散歩し、コンビニで「ウコンの力」を購入。

 ホテルに帰り半身欲で汗を出し、7時にホテルのモーニング。食欲も無いので、ゆで卵とサラダとコーヒーだけで済ませ、シャワーを浴び身支度を整え2日目の旅は準備万端。8時半にホテルのロビーで待ち合わせして、この日はタクシーで移動する。

 友人らも、疲れと酒が残ってる様で気のせいか顔色が悪い。先ずは通天閣へ買った。9時前に通天閣に到着し、通天閣が開くまで時間があるので、立ち飲みの串揚げ屋に誘うも結局は仁丈君と2人で「串揚げ」3種と「どて焼き」で生ビールで迎え酒。散歩と半身欲と「ウコンの力」で、朝から至極の一杯になった。

 その後、通天閣に上がっては見たが、まぁあんなものだろうな。ビリケンさんのご利益に肖ろうと足の裏を撫上げてはみたが、ビリケンさんの足裏は相当磨り減ってしまっていてピカピカ。皆さんの煩悩の多さには思わず苦笑してしまった。

 続いてタクシーで大阪城へ。何度か遠巻きに見てはいたが実際に行くのは初めてで、「城マニア」とまでは行かないまでも城は男心と悠久の浪漫を感じさせる。

 大手門から入り桜門から天守閣を望む。大阪城は姫路城などとは違い上り易くなっていて、姫路城の様な凄みは無いが、全体的に綺麗で、「豊臣秀吉の生涯」や「大阪夏の陣」などの歴史をCGを使い分かり易く教えてくれるので愉しかった。

「大阪夏の陣」の図屏風は一見の価値有り。「大阪夏の陣」や「賎ヶ岳合戦図屏風」には「日の丸」を持った武将が何人も描かれていた。「日の丸は先の大戦の侵略の象徴」と宣う連中は、この事実を何と説明するのだろう。展示室では秀吉の「朝鮮出兵」の誓文書が飾られており、加藤清正らの直筆と花押を見て感動する。

 時計を見ると昼近く。昼食は何が良いかと思案し、大阪名物の「自由軒」のカレーに決定。店に到着するも店は超満員。だが、運良くテーブル席に座れた。やり手女将の指示の見事さと、従業員の手際の良さに感心しつつ、大盛りカレーを食すが、店に入って出るまでその間10分程。店員も客もホント慌しい店だった。

 味わいは香辛料が利いてて厭きの来ない懐かしいドライカレー。生卵を掻き混ぜながら好みでソースをかけて食べるのだがイマイチ。別なメニューの方が美味そうで、是非とも次回は空いた時間にビールと共に洋食を味わいたいと思っている。

 今回の旅もここまで、一路福島を目指す。途中SAに立ち寄りながら土産を購入。SAの土産というのは変わり映えしないものばかりだが、仁史君おススメの富山県のニューオータニ高岡の「鱒の寿司」は美味で、北陸道を通った時は定番となっている。休憩を挟みながら何だかんだで、どうにか夜10時過ぎ無事に郡山到着した。

 旅は良い。一人の放浪の旅も良いが、気の置けない仲間との旅もまた最高。最後になるが、旅の段取りをし行きも帰りも一人で運転してくれた善方君に感謝。その尚君だが昨年結婚した。40半ばにして始めての結婚で幸せになって欲しいものだ。

 一方の同級生の弘君、もう50過ぎだというのに未だ独身。顔も俳優の松澤一之似でまぁまぁ、仕事は歯科技工士で、実家は新しいし、少々背が低いとはいえ申し分ないと思うのだが。まぁ恐らく何か怪しいクセを持っているに違いない。呵呵大笑。

cordial8317 at 09:45|Permalink

2011年10月21日

カダフィ死亡!死んでオリオンの星座とならん

 防共挺身隊初代総隊長・福田進著「日本人と油虫」に次の様な一節が在る。

「俺はまだアラブを知らない。アラブでは夜空に輝く星が、今にも落ちて来るのじゃないかと思うくらい綺麗なんだってな・・・連合赤軍の兵士てえ自称する、共産主義の三匹の油虫のアンチャンは、イスラエルの空港で好き勝手に暴れ回ってユダ公をぶっ殺した。・・・生き残った一匹は『我々三人は死んだ後オリオンの三つの星になろうと考えていた』その言葉は稚拙ではあるが荒廃した日本にはないロマンを感じさせるんだなあ。アラブという国が、日本青年をして死を覚悟するまで革命に駆り立てる何かがあるとすれば、俺も夢多き一人として一度アラブへ行って見たい衝動に駆られる。きっとアラブの夜空に燦然と輝くオリオンの星が、油虫の俺を魅きつけるのかも知れない・・・ 」

 國士舘大學時代この本に出会い、何時の日か自分もアラブに行きたいと思ったが未だ実現出来ないでいる。そんなアラブ情勢が緊迫し、リビアの最高指導者カダフィ大佐が殺害された。右翼人だからという訳ではないだろうが、カダフィやビンラディン、チェ・ゲバラ、カストロといった革命家や愛国者には共鳴を覚える一人だ。

 チェ・ゲバラの様な革命家に出会っていれば、行動を共にしたに違いない。ゲバラもカストロも共産主義者だが愛国者だ。世界には多くの左翼がいるが、その多くは愛国者だ。日本の左翼の様な売国奴は世界でも稀で珍現象の一つだろう。

 カダフィーは独裁者といわれるが、政権掌握後にもリビア最高指導者と君臨しながらも、エジプトでの革命に成功したナセル大佐に憧れ、大統領という呼称を使わず「大佐」の肩書きを通した。日本のマスコミは、独裁政権と糾弾し反体制デモに加担するが、独裁政権は何もリビアに限ったことではない。

 北朝鮮は金一族の独裁だし、シナも中国共産党の一党独裁ではないか。我が国のマスコミから中共の独裁を糾弾したことなど聞いたことは無い。カダフィ死亡の報を受けて、オバマがリビアの民主化を称える声明を出したが、「独裁」は悪であり、「民主主義」が正義などという欺瞞はアラブ諸国には通じない。

 アラブには「無政府状態よりも百年の独裁(圧制)の方がましだ」との格言が在るそうだ。イラクやアフガニスタンの現状がそれを如実に証明している。

 アラブは、部族社会や国境を接した人々が入り混じり、一民族で構成されている訳ではなく、人の物を盗んでも罪の意識もなく、物を壊しても決して謝らず、優先されるのは国益よりも家族、部族の利益で、アラブ人というのは、砂漠の民、遊牧民だというし、それは市民だけではなく、空港の税関職員も公務員や警察、軍隊も皆同じ感覚の人が集まっているという。それがアラブのアラブたる所以なのだ。

 カダフィ大佐は二月の反体制デモを受けて「リビアを去らない。殉教者としてこの地で死ぬ」と言明して、反体制デモの鎮圧を指示した。天安門事件が起きた時は戦車が投入された。これは冗談ではない」と警告したていたが抵抗空しく死亡した。

 本人は死んでも悔いはないだろう。今後、リビアの騒乱がどの様な結末を迎えるのか定かではないが、カダフィの死で民主化運動が進むとはとても思えない。天安門事件を黙殺し支那の民主化を妨げたマスゴミにカダフィを責める資格は無い。

cordial8317 at 07:51|Permalink

2011年10月18日

昨日は靖國神社の秋季例大祭で清祓の儀を拝見しました

 昨日は靖國神社へ参じて「清祓の儀」を拝見し、浮世の垢で穢れた吾身も清められた思いでした。今日から当日祭、第二祭、第三祭と続く。終戦記念日やみたままつりの喧騒さとは違う静謐な境内で、御神霊と静かに心を通わせる。

 昨日、午後1時1分発、上り「やまびこ54号」で上京。東京駅に到着後、大手町まで徒歩で移動。先日の「爆ちゃんの無事を確認する会」の際は、不覚にも靴摺れが出来てしまったが、昨日はどうにか靴摺れを起こさず歩くことが出来た(笑)

 大手町から東西線で九段下へ。九段下の坂をゆっくり歩きながら靖國神社へ向かった。秋季例大祭だというのに訪れる人々は少なく、靖國神社の参道を下校する児童や生徒の姿もホッとする情景だ。そうこうしていると靖國神社の参道が迎える。

 靖國神社への参拝というと、どうしても8月15日の所謂「終戦記念日」を思い浮かべる人も多いだろう。また桜満開の時節や、みたままつりの賑わいも味わい深いが、やはり靖國神社には静謐な環境こそ相応しい場所だと感じる。靖國の大鳥居を潜り、大村益次郎の銅像を横に眺め、社へと向かう。手水舎で清め、いざ参拝。

 本来ならば先ず、本殿左側の奥に鎮座する「鎮霊社」に詣で、会津藩士や先祖のニ本松藩士の慰霊をしてから本殿参拝をするのだが、本殿前の広場は午後三時からの「清祓」式典場になっていて参拝することは叶わなかった。

 社頭での参拝を済ませると間もなく「清祓の儀」が執り行われた。その間は参拝中止となり、集まった参拝客はその厳かな光景に緊張気味に見入っていた。靖國神社へは随分来ているが「清祓」は初めてで暫し感動しながら神事に目を凝らした。

 靖國神社を後にし、九段下の「寿司政」で直会がてら軽く一杯やろうと思ったが、時間が午後3時半を過ぎていて、店はどうせ休憩時間になっているだろうと諦めた。江戸前を謳っていながら蕎麦屋もそうだが通しで開いている店が少なくなり、昔の風情は無くなってしまい愚生の様な酒飲みにはチョッと寂しい時代になった。

 都営新宿線で新宿へ向かい、友人と待ち合わせしている赤羽に埼京線を乗り継いで向かった。到着したのは良いが待合せの時間より1時間も早い。赤羽駅界隈を探索してみた。流石に酒飲みの聖地と言うだけあって朝から営業している店も多い。大学時代、親からの仕送り3万円と実兄から2万円から貰っていた。

 その兄は「アストリア」というアパレルメーカーに就職して。赤羽店に勤めてた頃に連れて行って貰った鰻屋が未だ営業していたので懐かしさから入ってみた。「肝焼き」と「鯉のあらい」とビールを注文、程無く運ばれ肝焼きを口にするも不味いのなんの。やはり、懐かしい思い出は遠い記憶の儘で仕舞ってた方が好い(笑)

 友人の奥村女史も到着し、もつ焼きの名店「米山」へ移動する。開店約1時間前ということで当然先頭だったが、あっという間に行列が出来た。並んでる客同士で会話も弾み、待ち時間も気にならない。夕方6時15分に開店となり、いざ入場。

 定番の生レバから始まり、半焼き、つくねと出てくる。飲み物はホッピーの白、そして次にグレハイ(焼酎のグレープフルーツ割り)を呷り、最後はトマハイ(焼酎のトマトジュース割り)を。トマハイを飲んでる頃は終わりも近い。

 もつ煮込みとマカロニサラダと水餃子が運ばれ、美味しく頂き、御勘定。酔っ払ったが、久しぶりの米山と気風の好い友人との一献は実に愉しいものだった。

 後ろ髪を引かれる思いだったが、老犬の世話があるので赤羽で別れた。別れ際に手土産を渡される。手ぶらで来たのに友人の気遣いに恐縮しながらも、「森伊蔵より美味しい芋焼酎だから」と頂いた。どんな焼酎かと覗いて見たら瓶もラベルも森伊蔵とソックリ。名前も「森以上」。美味しいに決まっているわな。呵呵。

cordial8317 at 15:40|Permalink

2011年10月12日

靖國神社会報誌のコラム「靖濤」より

 昨日、靖國神社から会報誌「靖國」と来年の「靖國暦」が届いた。先月末には注文していた靖國カレンダーも届いたが、一年はホント早いものだと熟熟思う。コラム「靖濤」は大好きで、こうした文章を書きたいものである。(以下転載)

 毎秋、本殿にキンモクセイの芳香が漂い始めると、
季節は移ろい例大祭の日が近いことを感じさせる。
 本殿が竣工して二年後の明治七年に刊行された「東京繁昌記」には、
当神社例大祭の様子が概ね次のように記されている。
「参拝者は九段坂上に雲の如く群集して肩肘が擦れ合ふ程で、
商人は露店出店の為の場所を争ひ、
人々は押し合ひへし合ひして立錐の余地もない。
初日の主な奉祝行事は花火、
二日目は競馬、三日目は相撲で祭礼中最大の呼び物である」
 更に明治四十四年の「東京年中行儀」によれば、
「参道の右側は見世物小屋で活動写真が最も多く、
左側は二百余の飲食雑貨店が立ち並び、
今年の三日目の如きは、人手の数およそ二十万、
遊就館の入場者一万二千人、
例祭当日の六日は諸学校とも休業したのは例年の通り」と伝えており
当神社創立以来、毎年の例大祭は時代が下っても多くの参拝者に親しまれ、
境内は活況を呈していたことが読み取れる。
 ところがこうした状況も昭和十四年から始まった
境内の大規模な緑化計画により、
この年の春から見世物興行と露店の出店が叶わなくなり、
賑やかな祭りの風情から荘重な雰囲気の境内へと様変わりして
今日に至っている。
 一方、嘗ての例大祭の情趣は、
奇しくも戦後昭和二十二年七月から始まった
「みたままつり」に受け継がれてきた。
例年この夏祭は往時と同様の佇まいと、
まさに立錐の余地もないほど大勢の参拝者で賑っている。
 兎もすると靖國神社といえば、堅苦しく厳しい印象もあるが、
明治期以来続いてきた庶民的な神人和楽の祭の形態もまた、
当神社の余り語られる事のない重要な一面なのである。
 ほどなく秋季例大祭が斎行される。
境内の花の見ごろがキンモクセイから菊花にかわる頃、
夏祭とは趣のことなる静謐な境内で
御神霊と静かに御心を通わせて戴きたい。(以上転載終了)

 愚生の借家の玄関の横にも金木犀の木が在る。今年も先月半ばくらいからか周辺に秋の香りを降り注いでいる。大好きな香りだが、そろそろ香りも薄らいで来た。

 実家の二本松では金木犀から菊花が咲き始める頃に「大菊人形展」が開催されるが、今年は原発事故の影響もあって規模を縮小して入場料を取らずに行うという。

 原発事故以来県内の観光地や観光業は壊滅状態だ。野田総理は「福島の再生なくして日本の再建なし」と宣言したが、「言うは易く行なうは難し」の典型だ。

 靖國神社の春季例大祭はのっぴきならない都合で欠席したが、来週月曜日から斎行される秋季例大祭には参じたいと思っている。本来なら19日、水曜日の第二日祭への参加なのだが、月曜日、午後から日帰りでの本殿参拝を予定している。

 御神霊に対し、福島復興への御力添えを戴きたいと思う。野田総理が真に福島の再生と日本の再建を願うならば、靖國神社へ参拝することこそ大事である。それこそが日本国の総理としての務めであろう。8月15日に拘らず例大祭に赴き首を垂れよ!

cordial8317 at 08:53|Permalink

2011年10月11日

秋の三連休は終ったが・・・

 三連休は実家の「小浜の紋付祭り」に行こうと思ったが、土曜日は外食に出掛けたくらいで何もせず、日曜日は友人らと飯豊山系の山に登り夕方からは同級生三人で一献。昨日も知人に一献誘われたが、流石に飲み疲れているので丁重に断わった。

 ゴールデンウイークもそうだが、普段から休日の様な怠惰な生活をしているので、連休と言っても何ら変わりは無い。連休といえば、中共は「国慶節」の10月1日を挟む一週間が大型連休。日本に滞在しているシナ人らの多くが帰国する。

 そういや先日、夜な夜な酔っ払いのオヤジらを誘惑をしているマッサージ店の姉ちゃんらも「連休には帰国するんだ」と喜んでいた。小銭も貯め込んだのだろうし、「もう二度と日本へ戻らなくて好いから」と言ってみた(笑)

 まぁ、如何わしい仕事をしながらも、祖国の建国を祝おうとする良心は大したものだ。方や日本の風俗嬢はどうだろう。祖国日本の建国を祝う殊勝なねえちゃんはいない。風俗嬢に限らず、日本国民の精神の乱れは中共以上に進んでいる様だ。

 中共は、日頃「中国4000年の歴史」と宣って憚らないが実は62年の歴史しかない新興国というのが正しい。中華人民共和国建国以来、共産主義を最高原理として崇め、神や仏という共産主義を超える最高の存在を許さない。

 人民に基本的人権は無く、信仰の自由も認めない。現代中国こそ世界最大の「帝国主義国」「植民地主義国」である。その中共は、来年は日中国交快復40年を迎えるということもあって、中共の先棒を担ぐアホどもが多くなりそうだが、共産主義国との善隣友好など徒夢でしかないのに未だその夢から覚めようとしない。

 60年余りの中共建国以来、様々な出来事が起こっている。1959年、共産主義化、漢民族化に反発したチベット人が中共軍に対し蜂起した「サラ蜂起」。北京オリンピック直前に「チベット騒乱」が起こったのもこのサラ蜂起の記念日だった。

 中共軍の膨大な軍事力を背景に弾圧され続ける少数民族の抵抗はチベットに止まらず内蒙古、新疆、ウイグルなどで今も続いている。大躍進政策失敗と中印戦争。

 文化大革命中の中ソ国境衝突。経済近代化の失敗と中越戦争。天安門事件やユーゴの中国大使館誤爆事件。民主化を求める「0八憲章」運動に取り組む人民も年々増え、13億の人民の不安は極に達し、この不満が中共政府に向かうだろう。

 今こそ世界も足並みを揃え、中共の圧政を糾弾すべきである。12年前、法輪功の信者が北京の中南海を占拠した。その後中共政府は法輪功を徹底的に弾圧したが、共産党脱党を推し進める法輪功は4500万人を脱党させるという事態に。

 法輪功に限らず、共産主義の撲滅は世界の悲願であり、中国共産党の民主化こそが世界平和を齎すと言っても過言ではない。 最近では共産主義への警戒感からか、強硬派、特に軍部の突出が目立ち始め、「空母の建造」や「東シナ海のガス田掘削」「南シナ海領有権問題」など、隣国との国境紛争が顕著となっている。

 尖閣列島での漁船衝突事件や度重なる領海侵犯は、強硬派の抵抗の証左であり、中共政府は日本を標的に人民の反日感情を煽り、苦境を乗り切ろうと試みている様だが、情報化社会が発達した今日、その姑息な統制が続くとも思えない。

 日本国内では相変わらず支那成長を伝えるキンピカ報道ばかりで、国民は誤った情報に振り回されているが、実際は未だ便所の普及率は4割にも満たない三等国。

 共産党幹部の横領や持ち逃げは後を絶たず、ギャンブル好きの国民性は相変らずだ。そんな亜流なクソ共産国に媚び諂い、「中国とは一衣帯水の関係だから」と友好を謳う日本の政治家どももまたクソばかり。中共に節操もなく譲歩する日本人は、戦後に建国した共産党一党独裁の中華人民共和国の行動を先ず学ぶべきだろう。

cordial8317 at 06:24|Permalink

2011年10月07日

酒を以て真を養うというが・・・

 昨日は、前々から約束していた田村市滝根町に本社の在る「富士工業」の社員で同級生の佐藤彰君らと本宮市で一献。4時前に彰君に迎えに来て貰う。夕方5時前ということもあり、やっている店もないので、通しでやっている鰻屋「山本家」へ。

「山本家」は、知人の作家・山平重樹の著書「児玉誉志夫伝」に、幼少の頃の児玉先生が川で獲った泥鰌や鰻をこの店で捌いて貰ったと言うことが書かれてあり興味が湧き入ったのが最初だった。以来、月に1、2回、もう7、8年は通っている。

 鰻の蒲焼は勿論のこと、泥鰌の蒲焼も絶品。でも、原発事故以来、その泥鰌は入荷していないとのことで、こうしたところにも原発事故の影響は及んでいる。

 取り敢えず肝焼きとかぶと(頭)焼きを注文。彰君との久闊を除しビールで乾杯。間もなく、地元に住んでるダンプ屋の斉藤哲弥君も登場した。哲ちゃんの渾身の悩みの気晴らしにでもなればと誘ったが、快諾しての登場と相成った。

 ビールは一杯飲めば十分、後は持ち込んだ地酒「奥の松」の特別純米をマイ盃で飲む。程無く、肝焼きが運ばれると、彰君は一気に平らげた。コレには哲ちゃんも唖然茫然。「コレ、美味いね。もっと注文スッペ」と彰君。田舎っぺにも程がある。

 肝焼きは、愚生だからと店主が特別に多く出してくれた訳で、普通は予約してなけりゃ断わられるのに、イイ歳こいたオヤジがこれじゃしゃあないっての。彰君が、「オレ、酒飲むと食べんだよね」というので鰻重を一つ頼んでやった。

 哲ちゃんと愚生は、かぶと焼きと女将さんの手料理でチビリチビリ。奥の松も空き、芋焼酎のロックに変える。酔いも絶好調となり、あれやこれやと談論風発。

 哲ちゃんと愚生は結局、鰻重を食いそびれる。小腹も空いてるのでジンギスカンの名店「だるま」へ転戦。ラッキーなことにこの日は生マトンが入っていたので久々に食す。生ラムも美味いがマトンはジンギスカン通の好みな味わいだ。

 暫くすると同級生の菅野弘ちゃんが、ナント愚生の実兄を連れて登場したのには愚生もビックリ。弘しゃん曰く「一人じゃ寂しいので勝君(実兄)も呼んだよ」

 実兄とは久しぶりの一献である。兄は亡くなった親父の跡を継いで、食堂を経営する傍ら地方議員となり四期務め、議長を最後に40代で地方政治から引退した。地方自治は勿論のこと国政問題も語れるので、飲むと政治談議に華が咲く。

 未だ50代、そろそろ県議にでも挑戦して欲しいと思うが、母親の介護も有って中々難しい。前回の県会議員選挙に、「通常の選挙活動はしない」という条件でやってみればと進言したことがあるが、もう政治家への道は諦めている様だった。

 公約は、「選挙カーによる古い選挙よ、さようなら」「福島空港の国際貨物空港化」「少子化による少人数のクラスを見直し、複合クラスを導入して一人っ子の弊害を防ぐ」「議員報酬を日当制に」など訴えろと言ったが翻意することはなかった。

 同級生との一献ほど愉しいものはない。そこに実兄も加わり杯盤狼籍。朝起きて記憶が無いので、哲ちゃんに連絡したら、だるまの後に、「やきとり喜城」に行ったらしく、その後は「幸楽」でおじやで〆たと聞いて、恥じ入り、猛省頻り。

 着ていた服は台所にあった。財布は何時もの所に置いて有ったが携帯が無い。鳴らしてみるも充電切れ。布団の下から見つけたやっと時には酔いも醒めた(笑)

cordial8317 at 09:24|Permalink

2011年10月06日

「驕る平家は久しからず」

「陸山会事件」の初公判が今日東京地裁で行われる。厚顔無恥な小沢は当然無実を訴える魂胆らしいが、政治資金規正法は議会制民主主義の根幹を成す法律であり、政治資金の実態を偽ることは、国民を欺いて政治判断を歪めることに他ならない。

 法律を作る側の国会議員が、その法律の抜け道を巧妙に掻い潜り、不動産購入や蓄財に充てるなど言語道断、政治家として万死に値する破廉恥行為だ。

「裁判の場で無罪を明らかする」と常々宣っていた小沢だが、その千載一隅のチャンスがやって来たのだから、存分に堅白同異の弁を垂れ流して頂きたいものだが、言い訳は実に見苦しい。思想家・徳富蘇峰は「言い訳は見苦しいばかりではなく、同じ過ちを繰り返す」と訓えたが、小沢にぴったりな名言だと思う。

 小沢の師・田中角栄も金丸信も晩年は「政治とカネ」で失脚した。小沢は政治力や人間力では遠く田中に及びはしないが、政治家としての末路は田中や金丸と同じ道を辿りそうだ。歴史は繰り返されるというが、実に面白いものだ。

 昭和51年、米国上院外交委員会で、ロッキード社による航空機売り込みの国際的リベート疑惑が浮上。同年7月、田中は、5億円の「受託収賄罪」と「外国為替・外国貿易管理法違反」の容疑により、秘書の榎本敏夫などと共に逮捕された。

 それでも田中は終生無罪を主張した。 7年にも及ぶ裁判の末に、昭和58年10月、東京地裁は田中に対し、懲役4年、追徴金5億円の有罪判決を下し、田中は即日控訴した。田中が逮捕された時は愚生は未だ高校生だったが。大学に入り、右翼団体に入ってからは、裁判所前の田中批判集会に参加する為に何度も通ったのを思い出す。

 田中の公判日には地裁前で、今は亡き大日本愛国党・筆保泰禎書記長や当時先輩だった對馬則政らと共に団扇太鼓を叩き、国賊・田中の極刑を願ったものだ。

 58年の判決当日は、筆保書記長や大日本誠流社の面々や横浜の言論同志会の平沢次郎会長、当時、大日本坤龍社だった伊藤満(現瑞穂塾)、故・瀬野寿夫といった友人らと参加したのを思い出す。今日も本来ならば参上し、小沢の政治家としての欠落を指弾したいと思っているが、出来ない自分に対し隔靴掻痒の感は否めない。

 今回問題とされている政治資金規正法など、田中のロッキード疑獄や日華国交条約の蹂躙、金大中事件の揉み消しに韓国政府から貰った裏金問題に比べればちっぽけなもので、小沢の小者ぶりを示すものだろう。小沢への期待など幻想に過ぎない。

 小沢が法の抜け穴を駆使し、政治資金を蓄財したことなど、本人の特異な金銭欲を示す様なもので笑ってしまうが、小沢が目指す「永住外国人地方参政権付与」は、田中の行った日華平和条約破棄同様、断じて容易出来るものではない。

 小沢の蓄財がこうした売国法案を成立する為に小沢シンパを募り、それらの愚策を実行させるものならば、我が国の政治家として万死に値する。

 逸話が在る。田中は日中共同声明を出し、浮かれ序でに周恩来から一枚の色紙を渡され喜んだ。色紙には「言必信行必果 硜硜然小人哉」と書かれて在ったという。

 これを見て思想家・安岡正篤は、この言葉の意味も知らないで喜んでいる田中角栄を見て、教養の無さと中共の強かさを周りの人に指摘したという。 今、安岡先生を始めとした思想家や哲学者が居ないことは日本にとっての不幸であろう。

 安岡は「言必信行必果 硜硜然小人哉」の意味について、「その言葉は必ず真実であり、やるべきことは必ずやり遂げる。それは士として持つべき資質。しかし、もしそれだけの人だとしたら、人間として小さい」と訳されると教えている。

 田中は見下されていたのだ。田中が日華国交条約を蹂躙し中共の御先棒を担いで以来、日本の政治家は中共に阿諛追従する大馬鹿者ばかりになってしまった。

 小沢はその大馬鹿者らの民主党議員を大挙動員して、胡錦濤に臣下の礼で忠誠を誓ったことは政治の失墜を示すものだった。小沢も田中同様に、胡錦濤や習近平から送られた読めもしない漢文の色紙を大事に飾っているのではなかろうか(苦笑)

 日本国憲法98条には、締結した国際条約の遵守が明記されており、如何なる理由が有ろうとも破棄してはならない。況してや国際条約締結は天皇の国事行為だ。

 絶対的権力者だった田中角栄が堂々と憲法違反を犯したのだ。中華民国と断行せずとも日中国交は結べたし、日中国交を結ぶというのなら、憲法改正を断行すべきだった。若しあの時に絶対的権力者で国民的人気を博した田中が、憲法改正や自主憲法制定を行っていれば現在の我が国の安全保障や外交も変わっていただろう。

 田中の裁判では、「政治とは最高の倫理、道徳だ」として、「政治倫理の確立」を訴えると共に、国際法規であった日華国交条約の蹂躙に対する憲法問題も提起したが、我々右翼団体からの抗議や主張はマスゴミから完全に無視された。

 昭和60年、田中角栄は脳梗塞で倒れるも総選挙でトップ当選。無実を訴え続けるも62年控訴棄却。地盤をバカ娘の真紀子に譲り、脳梗塞の身ながら選挙カーに乗り、涙を流し支持者に訴える姿は過去の栄華を極めた者とは別人だった。

 田中も金丸も晩年は実に淋しいものだったが、小沢一郎の栄華も間もなく終焉を迎えるだろう。歴史は繰り返されるのだ。驕る平家は久しからず。

cordial8317 at 08:32|Permalink

2011年10月05日

「ノーベル平和賞」にフクシマがノミネート!?

 ノーベル賞受賞ウィークに入り、本年も日本人受賞者が出るのか興味津津だが、ナント「平和賞」に「フクシマ」の声が挙がっているというから驚いたのなんの。

 まぁ、単なる話題作りだろうが、フクシマが平和賞を受賞したところで、「脱原発」「反原発」に利用されるだけのことだろうし、県民にはエライ迷惑なことだ。

 昨年、平和賞を受賞した劉暁波(りゅう・ぎょうは)は未だ獄中に座し、中共の弾圧を受け続けており、世界の人々も既に劉氏の存在すら忘れてしまっている。

 ノーベル財団には是非今年も中共の圧政と闘っている活動家に平和賞を授与し、共産党一党独裁の中共政府の実態を世界に知らしめて頂きたいものだ。

 香港の人権団体・中国人権民主化運動ニュースセンターは4日、平和賞を受賞した中共の民主活動家である劉暁波氏が、服役中の遼寧省の刑務所で実兄と面会したと発表した。実に面会は平和賞受賞後初めてで、夫人との面会すら許可されていない。こうしたことをしても未だ中共の人権弾圧は改善されてはいない証左である。

 昨年、度重なる中共政府の厳しい圧力や抗議に屈せず、劉氏に平和賞を授与し、圧政と人権侵害に警鐘を鳴らしたノーベル賞委員会には敬意を払ったものだが、授与しっぱなしでは平和賞そのものの価値は益々無意味なものとなろう。

 劉暁波氏の平和賞受賞は、中共政府の圧政に呻吟している人民や国にとっても喜びは一入だった。ノーベル賞が、その国の文化レベルを知る上で参考になるのは当然だが、支那での平和賞の受賞は、89年のチベット仏教最高指導者・ダライ・ラマ14世以来二人目で、改めて支那・中共政府の人権侵害が浮き彫りになった。

 劉氏の中国を思う心は深く、中共政府の一党独裁の廃止こそ人民を救うという信念は決して間違いではない。弾圧と制裁を受けながらも怯むことなく、民主化運動に取り組む勇気と良心は尊敬に値する。活動家とは斯く在りたいものだ。

 1989年の天安門事件で逮捕・投獄されて、他の民主活動家が病気治療の名目で国外に移住したが、劉氏は国内に留まり刑期を満了した。然し、2008年に「0八憲章」を起草し公表した為に、更に11年の刑に服している。

 劉氏がノーベル賞を授与された昨年12月10日、モンゴル文化の保護や民族自決を訴え、「南モンゴル民主連盟」を組織し、1996年に中共政府から「国家分裂及びスパイ活動の罪」で逮捕されて投獄されていた、モンゴル人活動家・ハダ氏が、内蒙古自治区・赤峰刑務所から15年の刑期を終えて出所した。

 こうした活動家や英雄の存在を知っている人々は極僅かだ。ハダ氏のシンナ夫人も、夫の不在中、フフホト市で書店「モンゴル学書社」を経営し生計を立て、モンゴル人同胞にその文化と抵抗の精神を絶えさせないとの思いで必死に生き抜いた。

 中共政府の厳重な監視下に在るシンナ夫人は意見発表を奪われているが、ニューヨークに本拠を置く「南モンゴル人権情報センター」は、国際電話でシンナ夫人を取材した談話をインターネット上に掲載し、獄中のハダ氏個人の動静のみならず、情報統制下に在る南モンゴルの現状を知らせる貴重な情報源となって来た。

「ノーベル平和賞」は「フクシマ」ではなく、こうした活動家にこそ送られるべきで、ノーベル財団は、再度、中共政府の圧政と人権侵害に警鐘を鳴らすことこそ務めであり、畢竟、それこそが世界平和に寄与出来るものと信じて止まない。

cordial8317 at 07:37|Permalink

2011年10月01日

人生「我以外皆我師也」とはいうが・・・

 今日は朔日。カレンダーを捲り、神棚の神饌を新しくし、今月の息災を祈る。新聞に目を通すと、中学校時代の副担任だった遠藤四郎死去の報が出ていた。享年84歳。英語と野球部の顧問で、父兄達にも結構人気があった先生だった。

 愚生は剣道部だったが、中学2年で初段を取ったばかりの頃に、練習相手がいないだろうと相手をして貰った記憶がある。だが、如何せん、遠藤四郎は共産党員。定年後、共産党公認の二本松市議になったが、心底尊敬出来る先生ではなかった。

 最後に会ったのは二本松の岳温泉での初老を祝う同級会。遅れて参加した愚生に発した言葉は、情けないことに「五郎、遅れて来たって会費は払えよ!」だった。

 参加出来ないと思っていたので欠席分の会費は振り込んでいたが、参加したので会費も支払った後でのこの言葉は驚くというより厭きれてしまった。久々に邂逅して、先生なら何か言うべき言葉が有るだろうに、老化の所為もあって哀れを感じた。

 その同級会だが、会費は払ったものの料理も泊まる場所も無く、幹事らの無責任さに頭に来たので二次会途中で退座した。郡山迄のタクシー代は1万円オーバー。

 愚生の中学校時代の担任は名うての日教組組合員の高橋寅彦(寅さん)。副担任は共産党の遠藤四郎。その昔、この寅さんと遠藤四郎と政治談議をしたことがあった。「五郎、オメエは天皇制は絶対だと思ってんのか」と遠藤四郎が聞いてきた。

 愚生は、「天皇は制度でもないし、日本人として生まれ、日本人として恩恵を享けていながら、天皇や皇室を否定する理由はない。それなら、共産主義とはなんだ。矛盾だらけだべ。『赤旗』の値上げは、労働価値観じゃなく、売上げ低迷からの資本主義の論理だし、ソ連なんてのは絶対崩壊するよ。共産党のくせに公務員の給与で家を建てて、安住しながら『革命』もないっての」と中途半端な左翼教師を揶揄う。

 この愚生の反論に遠藤四郎は激怒して、思わず「ニシャとは話しになんねぇ」と捨て台詞を吐きその席を立った。残った寅さんは、「五郎、オメエは大したもんだな。俺は退職してから建てたが、遠藤四郎は現役時代に建てたからな。アレは頭が固い(笑)」。あの政治談議から数年後、ソ連が崩壊したのは言わずもがな。

 中学時代のこの二人の日教組の先生が、愚生が右翼人として生きる切っ掛けを作ってくれた。そういう意味ではこの二人には感謝しなきゃいけないのかもな(笑)

 大学時代を除いて、中学校時代や高校時代にしろ、剣道にしろ右翼団体時代にしろ、余り良い恩師には恵まれなかった。右翼に入った十代の頃には岩瀬康雄という厳しくも優しい支部長に鍛えて貰ったが、岩瀬支部長も商法改正と同時に引退。

 初代の福田進総隊長も、カリスマが有り過ぎて近寄り難く、思想など聞く機会も殆ど無かった。大学を卒業し、故郷に帰還してからも、地元の右翼の重鎮、大日本愛国党の芦名昇盛氏に教えを乞うたが、イマイチ示唆に富んだものは得られなかった。

 三代目の對馬則政然り、右翼浪人・横山武彦然り、まぁ、何事も師を持つことは大事だが、逆を言えば良い反面教師に恵まれたとも言えるのかもなぁ(笑)

 組織に縛られることなく自由気侭にやらせて貰った御蔭で、右翼人とは関係なく個性豊かな面々とも知り合いになれたし、組織に拘泥することなく奔放に生きて来れた。恩師には恵まれなくとも様々な友人には恵まれたし畏友も多い。

 三十代の頃、故横山武彦を介して、思想家・高花豊先生と出会ってからは人生観も大きく変わった。高花先生には長きに亘り物心両面で支えて頂いた。この高花先生との邂逅が無ければ、また違った価値観で右翼人生を歩んでいたかも知れない。

 先場所好成績を残し大関に昇進した琴奨菊は「万里一空」と、剣豪・宮本武蔵の言葉を口上で述べたが、愚生も残り少ない人生をどうやって人生を閉じるか、それとも右翼として再度活躍出来るのか、答えの出ない自問自答の日々が続く。

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cordial8317 at 09:27|Permalink