2010年07月

2010年07月30日

辻元清美が社民党に「三行半」で解党は時間の問題か

 与党ボケというか薄汚い権力欲から政権与党入りした辻元清美が、社民党に三行半を突き付け、党内はてんやわんやの大騒ぎ。民主党幹部も辻元に秋波を送っており、辻元の民主党入りで社民党の消滅は時間の問題になって来た。

 辻元は「嘗ては野党で批判の急先鋒に立ったが、それだけで日本を変えることは出来ないという思いが強くなった」と尤もらしい意見を述べてはいるが、要は与党として副大臣を経験し、あの蜜の味が忘れられないと言うのが本音だろう。
  
 一方で、民主党が両院議員総会を開き、選挙敗北の結果を「消費税」として菅直人が袋叩きに遭った。だがどうだろう、国民の半数以上が消費税増税には賛成していることを見ても、その総括は間違いだと断じても好かろう。

 先の総選挙で「自民党にお灸を据える」程度で民主党を支持した有権者のバランス感覚と、民主党の売国政策に危うさを感じた国民の判断の結果である。猛省もせず菅や枝野を批判するとは本末転倒であり、未だ未だ政権担当能力不足は否めない。

 菅直人が総理に就き、漸く国家の在り方や政治の重さに目覚めたのだろう。先の参院選での「消費税増税」発言は、逼迫する財政を思った末のもので、市民運動家が一国の総理大臣に就任し、責任感に目覚めた結果ではないだろうか。

 元内閣安全保障室長の佐々淳行氏は、菅総理の消費税増税発言を「変成」と命名し、オタマジャクシが蛙へと変化・成長して行く過程に準えたが、「君子豹変す」という諺も有るし、良い方に「変成」して行くことは結構な話だ。
 
 何でも反対、反対の為の反対しか頭になかった辻元も政治の在り方に目覚め、「政権の中にいて、色々な声を届けた方が効果的じゃないか」と宣った様に、政権の中枢で活動することが如何に効果的で有るか思い知ったのだろう。

 だが、辻元の「変成」は、嘗て60年安保闘争で学生運動を経験した団塊の世代の連中が、国家の中枢に入り、官僚や政治家として戦後民主主義を撒き散らしたのと同じ臭いを感じているのは愚生だけではあるまい。

 辻元の売国活動は枚挙に暇なし。先般もソマリアへの自衛隊派遣に反対し、態態ソマリアまでキチガイ左翼のピースボートと共に行ったのは良いが、結局は大嫌いな自衛隊に助けられた。辻本らアホ左翼どもは未だ自衛隊へ感謝の言葉も無い。

 離党を受けて、社民党や有権者への謝罪よりも先ずはピースボートとの関係と国民への釈明と謝罪、そして何より自衛隊へお礼と感謝をするべきだろう。

 社民党の前身である「日本社会党」の衰退の原因は何だったのか。売国政党の消滅を願い、カリスマだった党首・浅沼稲次郎を刺殺した山口ニ矢が没して、今年で50年。漸く、山口烈士の売国政党殲滅の念願が果たされそうである。合掌。

cordial8317 at 08:00|Permalink

2010年07月29日

民間人で法務大臣が務まるなら「死刑執行」も民間委託したら如何か

  国賊・千葉景子が総選挙で有権者から「仕分け」されながら、未だに民間人として大臣の席に居座っていることは当人も生き恥を曝している様なものだろう。先の選挙で落選したことを国民からあれだけ喜ばれた政治家も珍しい。

 それに堪え兼ねてか、死刑廃止論者の千葉が「死刑執行」に踏み切ったのはある意味で笑える。刑事訴訟法は、死刑確定から6カ月以内の執行を定めており、何れも6ヶ月以内に検察庁が法務大臣に「死刑執行上申書」を提出し、規定通り押印し、法相の命令から5日以内に執行されなければならないと明記されている。

 死刑制度が有る以上、粛々と刑の執行をすべきであるのだが、性善説や冤罪などを唱え「死刑廃止」を執拗に求める輩も多く簡単には執行出来ないのが現状だ。

 これとは別に、日本在住の外国人が罪を犯し、1年以上の有期刑に処せられた場合には「永住権」は剥奪され国外追放になると決められている。然し、特別永住者の「在日」ら特定の外国人に限っては優遇されていて、7年以上の刑を起こした場合のみ法務大臣が特別永住権を剥奪し国外追放出来るとしている。

 だが、それは建前で今迄に在日の懲役7年以上の犯罪で法務大臣が押印し、特別永住権を剥奪され韓国や北朝鮮に送還された者は誰一人いない。昔、一度だけ執行しようとしたら在日らがお決まりの「差別だ!」と騒ぎ出し、結局は頓挫した。

 死刑にも在日の犯罪には目を瞑っていては、これも「法の下の平等」に触れるというものだろう。最近は、不法に入国したり、不法に残留したシナ人に因る犯罪が増えているが、これもまた在日同様に強制送還されるケースも少ない。こうした不作為もあって、我が国の刑務所は不良シナ人どもで大入り満員状態である。 

 法務大臣は、死刑執行も強制送還も、またあらゆる犯罪に対して、毅然とした態度で「公正」に処理しなければならないのは言うまでもない。

 最高裁の下した決定に従わず、支那人の留学生に特別在留資格を許可した国賊・千葉景子だもの「法の下の平等」なんてのは端から持ち合わせていない。今更「法相として法律に沿って適正な判断をしたと認識している」とは笑わせる。

 総選挙で落選し、弁護士活動を再開すべく「刑事訴訟法」を勉強し、やっとのこと死刑制度を理解出来たのかもな。然し乍ら、法務大臣が民間人で務まるんだもの、いっそのこと滞ってる「死刑執行」も民間委託したら如何だろう。呵呵。

cordial8317 at 06:14|Permalink

2010年07月17日

神道と日本人

「豊葦原(とよあしはら)の千五百(ちいほ)秋の瑞穂の国は、是れ吾が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地なり。宜しく爾皇孫(いましすめみま)、就(ゆ)きて治(しら)せ。行(さきく)ませ、宝祖(あまひつぎ)の隆えまさむこと、当に天壌(あめつち)と窮(きわま)り無かるべし」(日本書紀)

 自然は人智の及ばない大いなる存在。雷雨や日照りや嵐を人間は制御することは到底出来るものではない。人々は、自然を征服すべく挑み続けるか、それとも自然と共に生きて行くかなのだが、賢明なことに我が古の人々は共生することを選んだ。

 何故なら自然は一瞬のうちに暴れ回り甚大な被害を出したりもするが、それと同時に無限の恵みを齎してくれたりもする。そこで我が祖先達は、自然の織り成す新羅万象を「神」と呼び、豊穣を齎してくれた「神」を称え、荒ぶる「神」を畏れ、鎮め、人々は「神」と共に生きて来たのである。

 新羅万象の全てが「神」の姿で、山の神、海の神、或いは岬、谷、森、石、水・・・そして人間も、その神の在る景色の一部に過ぎなかったのである。

 日本固有の信仰である「神道」は、こうした世界の中から生まれた。神と共にあるから「カンナガラ(惟神)」といい、神の命を与えられているから、人は「神の子」、生命は神の「ワケミタマ(分霊)」と考えられた。

 人は、彼等の暮らす土地の神「ウブスナガミ(産土神)」の御陰を被って誕生し、産土神や、その他諸々の神々と正しく付き合っていくことで四季の恵みを享受し、そして最後には、産土神に導かれて祖霊の世界に帰って行ったというものである。

 民衆レベルの神々の世界は、この様な意味付けを必要としないまでも、自然に体現し、「神」を感じとっていたのである。こうした神々の世界に、天上界の別格の神々の世界「高天原」が重ねられたのは、天皇による国家統一以降のことである。
 
 自然信仰の観念に重ねられた神々の天上世界が「高天原」だ。天に固有の住居を持つ神々は、高天原で育てた稲(ユニワのイナホ)をその苗裔に授けるという神話によって、この国の神々の世界に革新を齎した。

 地上の王権は、高天原の神々の苗裔である天皇の支配するところとなり、地上に住居を持つ国津神(クニツカミ)は高天原に住む天津神(アマツカミ)の支配下に入った。神祇(ジンギ)の世界の誕生である。

 高天原というのは、神道の中に生じた垂直思考の産物であるが、民衆レベルでは、自然と共にある神は、何処まで行っても水平に広がる世界だった。太陽の昇る東の方位には「命の源の世界」が在り、日の沈む西の果てには「死の世界」があった。

 この水平に広がる生と死の世界に高天原という垂直の軸が導入されることによって、その頭上に「高天原」、高天原の下には水平に広がる「中津国」と「海神(ワタツミ)の世界」、そして「黄泉の国」という三層構造が完備されることになった。

 古事記」や「日本書記」は、これらの世界が全て「高天原」の支配下に入るよう神話を整えた。高天原は天照大御神が支配し、中津国は、その苗裔である天皇(スメラミコト)の支配領と定められ、海はスサノオ、ないしキヨミノミコト、或いは神武天皇の兄である稲氷命(イナビノミコト)の支配下に入り、黄泉の国は、やはり天津国であるイザナギないしその息子であるスサノオの世界となった。 

「高天原」の登場によって、日本の神道はオカルト的なシャーマニズムから固有の神々(八百万)の世界と信仰が生まれていったのである。

cordial8317 at 09:50|Permalink

2010年07月15日

夏の風物詩「みたままつり」を愉しむ

 昨日は久しぶりに上京し、物心両面で支援して頂いている方に挨拶を済ませ靖國神社のみたままつりを愉しんで来た。東京の夏は蒸し暑く何時もながら閉口する。

 大鳥居から参じ、奉納されている大小3万灯を超える提灯と各界著名人揮毫の雪洞を眺めてから、先ず拝殿で参拝。続いて拝殿左手に在る「鎮霊社」に詣でた。

 鎮霊舎には所謂賊軍とされた会津藩や我が二本松藩、西郷隆盛といった方々が祀られており、靖国神社を参拝する時には必ずここに詣でることにしている。

 所謂、A級戦犯合祀云々よりも先ずは維新の悲運に斃られた方々の名誉回復こそ急務で有ると思うのだが、靖国神社とはそういう処でもある。大村益次郎の銅像が、上野の西郷さんを睨んで建っているが、如何に長州閥が大きかったのが解る。

 参拝を済ませ、涼もうと、遊就館に入り、上映されている「みたまを継ぐもの」を1時間程観て、展示物を足早に眺め、特別展「神風 そのふきゆくかなたへー蒙古襲来と国難に立ち向かった護国の戦士たちー」を見学し、靖國神社を後にした。

 その後、咽喉も渇いたので一人で直会でもと、九段下の「寿司政」に立ち寄った。この店は池波正太郎や山口瞳などの文人や有名人も足繁く通った店で、シンコは絶品。ビールと〆張鶴の純米酒を気の利いた肴でやってから、一通り握って貰った。

 残念ながらこの日はシンコは無かったがコハダと煮蛤を堪能し、白身の昆布〆と穴子、干瓢巻を頂く。どのネタも職人の技が光る逸品で久々大満足でした。

 勘定をすれば1万チョィ。ポチ袋に入れた僅かばかりの御心付けを従業員に渡し店を出た。また来たいが、不景気の影響か、最近は通し(休憩無し)で営業してる店が少なく、夕方前には呑みたくなる小生には不都合な時代になった。

 我々は普段、神の存在のんて意識することなく生活をしている。「自分は無宗教だ」という人も偶に見かけるが、日本人ならば、心の深いところで、我々の物の考え方や行動を動かしている「何か」が有るのではないだろうかと思う。

 その「何か」こそが先人から脈々と受け継いでいる「神々の記憶」であり、「神道」の教えである。大自然に宿る日本人の原風景がそこには存在している。

 寺院で仏像が多く作られ祀られたのに対して神社には殆ど神像が存在しない。否、本来は全く存在していなかったのだ。何故なら、日本人は偶像崇拝とは別の次元で「神」の坐すことを感知し、「神」の宿る神木を岩を山を信仰してきたからだ。

 姿なき「神」は、自ずと知覚されるものではなく、人間の感性の源である「魂」と直接に響きあう存在なのだ。聖なる山の奥深い処に神社は在ったことでも解る。また「祭り」というのも「神祭り」であり、人々は「神」に触れ熱狂する。

 これを体験することで日常の日々から開放され、同時に他の者達と体験を共有することにより「同じ神の子供」即ち「氏子」として絆を再確認するのである。

 豊作を祝い、大漁を寿ぎ、これを「神」に感謝し、来年も再来年も善い年であるよう祈願し、「神」と共に酒を飲み「神」と共に騒ぎ、歓喜を分かち合う。

「祭り」は「神」を通じて人間を癒し、地域の共同体を維持させて来た強力な行事なのである。みたままつりも、英霊(神)に対する畏敬や欽仰する祭りである。

 正に我が祖国日本とは天皇の国であり、天皇こそ日本なのだ。随神の道を歩んで来た世界にも稀有な国であるというそんなことを実感した一日だった。

※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。

《会費&御支援の御願い》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円。法人120000円。協賛会員は300000円~。

cordial8317 at 05:15|Permalink

2010年07月07日

「みたままつり」つのだ☆ひろ奉納特別野外コンサート

 参議院選挙も終盤に入ったが、相変わらず盛り上がりに欠ける選挙で、消費税議論に掻き消され、候補者から国家観の見える政策を聞くことは無い。

 今回出馬している有名人やタレント候補に国家観を求めるのは酷というものだろうが、保守思想を持つ芸能人も少なくない。例えば、俳優の藤岡弘や歌手のつのだ☆ひろの思想・信条は共鳴するものが多い。こうした保守タレントが結集し保守新党でも結成すれば、日本が直面する危機を身近に感じる国民も増え、効果絶大であろう。

 藤岡 弘

「祖国の為、先祖、子孫の為に、戦いの場に赴いた戦士達を、後世の人間が敬意をもって遇しないとしたら、その国はやがて滅びるだろうと私は思います。難民救済活動でいろんな国へ行きましたが、女子供、老人たちが見るも無残な難民となって、彷徨う姿を見る度に、国や民族が滅びるとはこういうことかと、とても悲痛な思い駆られます。だから私は『自衛力無き民族は滅びる』という言葉を実感として受け止められるのです。全人類の歴史を考えてみれば、一体どれほどの民族が絶えてしまったか。もう自分が生きていることは奇跡の様な事だと思って間違いない。そして自分を、自分の両親、そのまた両親を生かしてくれる為に、自らの命を投げ出してくれた人がいる。自分の存在はそうした尊い犠牲の上にある。靖国神社にはそうした、生きては見(まみ)えることのなかった子孫のために命を投げ出してくれた人たちが祀られている。感謝の気持ちは自分もまた次なる子孫の為に、愛の連続性に責任を持つという姿勢として現れてくる。だからこそ、どの国、どの民族も、自国の為に戦って倒れた戦士の慰霊を大切にする。当たり前の行為なんだといいうことを改めて日本人は自覚すべきである。そして慰霊の作法というのは、それぞれの国や民族の文化によって異なるものですから、これは日本のやり方を通すしかない。今の日本が徹底した侮りを受けないで済んでいるのは、身命を投げうって究極の奮戦をしてくれた英霊、特に神風特攻隊のお陰です。彼らが武士道精神を発揮して戦ったその記憶が『バリア』となって、いまも我々を守ってくれている。戦後半世紀の平和は『平和憲法』によって齎されたもたものではなく、最悪の戦いの中で、究極の武徳を示してくれた英霊のお陰だと私は思っています」

 つのだ☆ひろ

「私は、戦後の自虐史観を身体に叩き込まれた団塊の世代だ。戦前や戦中派の人達と違って皇民教育の断片も頭の中に無く、最初から祖父や父の世代を悪し様に貶め、軍隊や戦争は全て悪いといった教育の真っ只中に育った。何処の誰が何時の間に、そんな考えを植え付け指導したのか。これは国家の安全対策上大きな問題であろう。遡って、先の大東亜戦争は国民の総意により洋威の圧力に屈せず、亜細亜の安定を強固にする事で、日本の安全をより確かなものにする為に起きたものだと確信する。欧米の侵略から亜細亜を救う為の戦いという大義は誇らしく思う。ところが、日本が敗戦するやこの理念は一変して戦勝国によって捩じ曲げられてしまった。軍国主義国家という不名誉な罪を擦り付けられ、法律上有り得ない事後法まで使って裁かれ、戦犯の汚名を着せられた上に、戦争の責任を一方的に負わされてしまったのである。日本の正義も道理も歴史も理不尽に踏み躙られてしまった。私は幸いにも祖先から高潔な志と価値観を受け継いだ日本人として、自らを律して一生の幕を閉じたいと思う。社会が私をどう見ようが、日本人としての魂に恥じない視点と方向性を私の『普通』として位置付け、常に先学に学び勤勉と進歩を目指して努力を怠らない姿勢を貫きたい。現在の日本に蔓延している事勿れ主義と無責任、そして何より誤った教育、偏った報道は国を滅ぼし大切な命を死に至らしむる病原菌と成りうる事を我々は肝に銘じなければならない」

 来週13日から16日迄の4日間、靖国神社で、第64回「みたままつり」が執り行われる。14日には「つのだ☆ひろ奉納特別野外コンサート」が催される。

 コンサートに先立ち、「御神前に額づき英霊に感謝の気持ちを伝え、労を労って戴ければ私の奉納演奏の意義も自ずと価値を高めるに違いない」と語っているが、是非とも機会が有ればコンサートに参加したいものである。

cordial8317 at 08:13|Permalink