2018年02月04日

ジャイアンツの宮崎神宮への参拝取り止めは創価学会員の選手の影響か

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 プロ野球12球団は今月1日に一斉にキャンプイン。ジャイアンツは宮崎キャンプ。今年は何故か、草創期から58年間も続けてきたキャンプイン前日の恒例行事である宮崎神宮への必勝祈願参拝を取り止めた。

 宮崎神宮は神武天皇(神日本磐余彦尊 かむやまといわれひこのみこと)を祀る神社である。神武天皇は初代天皇として、大理想である「八紘を掩(おお)ひて宇(いえ)にせむ)」を天高く掲げ日本国を統一した肇国の神である。

 神社側には球団から「選手の意向で参拝に行かない」との連絡があり、その後、神社に出向いた球団幹部から改めて説明を受けたという。

 新選手会長に就任した菅野智之投手がナインの意向を代表して球団側に伝え、見送りに至ったという。だが、恐らくは信教の自由を理由に神社への参拝に難色を示した選手らに譲歩した結果ではあるまいか。

 ジャイアンツの内海哲也投手や球団職員の野間口貴彦元投手らは熱烈な創価学会信者でもある。神社への参拝拒否は創価学会の教えでもあり、池田創価学会に忠誠を誓うジャイアンツ内部のこうした現状が大きな要因だろう。

 野球が当たり前にやれなかった時代があった。先の大東亜戦争では多くのプロ野球選手も尊い命を投げ出されていることを、プロ野球ファンならずとも国民は知っているだろうか。

 野球をやれるということを再認識する為にも、オープン戦前の地元神社は勿論のこと、開幕前には靖國神社に参拝し、大戦で犠牲となられた先輩方に感謝の誠を捧げるべきだと思っている。

 先の大戦で亡くなられたプロ野球選手は想像している以上に多く、試合の途中で出征した方や、幾度かの戦火を潜り抜けて帰還するも再び出征して終には戦場に斃れた方など実に69名もいる。

 中でも有名なのは「東京巨人軍」の澤村榮治投手だろう。どんなに凄い選手かは説明するまでもないが、年間最優秀投手に与えられる「沢村賞」はプロ野球選手の最高の名誉である。

 昨年は最多勝を取った菅野智之投手が受賞しているが、学会員でもある内海らは、靖國の英霊でもある澤村選手に謂れのあるそんな賞など要らないと思ってるのではあるまいか。巨人ファンとしては実にもの悲しい。

 創価学会は池田太作の野望の実現と学会員の現世利益を追求する社会運動体であり、公明党は、それを政治的に実現する為の出先機関である。

 プロ野球に限らず、今やカルト池田創価学会は政治、経済、文化、教育、司法などあらゆる分野に蚕食し、日本と日本人を蝕み続けている。

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2018年02月01日

「天岩戸」こそ太陽神の天照大御神を信仰する我が国らしい神話である

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 月日の経つのは早いものであっという間に2月。先月はインフルエンザAに続いてB型にも感染してしまい散々な一ヶ月だった。今日は朔日ということで身を清め、神饌を新しくして、畏れ多くも陛下の弥栄を祈願した。

 昨日は皆既月食、然も貴重なスーパーブルーブラッドムーンだったこともあり、俄か天体ファンがカメラやスマートフォン片手に天体ショーを楽しんだ。

 古来、日食と月食の日は「穢れの日」として、月や太陽から放たれる光は「妖光」として忌み嫌われ、幕末までは日食や月食の日は不吉な兆候とされ天皇の祭祀と政務を一切取り止めたという。

 天変地異や疫病などが起きると本気で信じられ、この妖光から天皇の玉体を護って来たことが伝えられている。

 こうした「不吉」は別に神道だけに限ったことではなく、ヒンズー教なども皆既月食や皆既日食を「災いが起こる前兆」として恐れ、祈りを捧げる。

 何故に天皇を日食・月食の妖光から護るのか。その理由は、玉体を護ることが、日本国の自然と社会の秩序を維持するために枢要なことだったからだ。

 天皇とはそうした秩序を体現しているのであり、その玉体安寧を維持することが、政治の核心の一つだったのである。

 神話「天岩戸(あまのいわと)」では、天照大御神が天の岩戸に篭ってしまい世界が真っ暗闇になり悪神が蔓延ったという話があるが、この話も皆既月食や皆既日食の出来事を喩えた話しだろう。

 伊邪那岐神(いざなぎのかみ)は「天上界を天照大御神が、夜の国を月読命(つきよみのみこと)が、海原を須佐之男命(すさのおのみこと)が治めよ」と命じられた。ところが須佐之男命だけは任務を果たさず、その為悪神が蔓延り、諸々の禍が彼方此方で湧き起こる始末だった。

 伊佐那岐神は酷く怒り「お前の様な者に用は無い!」と追放した。

 須佐之男命は姉の天照大御神を頼るが、暫くは大人しくしていたが元々気性の荒い須佐之男命は、程なく種々の乱暴を働くようになった。

 天照大御神の耕す田を壊し、御殿に糞を撒き散らしたりして手の付けようがない。それでも天照大御神は大目に見ていたが、服屋(はたや)で神聖な衣装を織っていると、皮を剥いだ馬が屋根を打ち抜いて投げ込まれ、服織女(はたおりめ)が死んでしまう事件が起きた。犯人は勿論、須佐之男命。

 これには流石の天照大御神も激怒し「天の岩戸」に隠れ篭ってしまった。その為、世界は暗闇となり、悪神達が蔓延り始めたのである。

 そこで高天原の諸神である八百万の神々は、天の河原に集い策を取ることになり、思金神(おもいがねのかみ)の提案で、先ず岩戸の前に常世の長鳴鳥を集め鳴かせることに。

 次に伊斯許理度売命(いしこりどめのみこと)に八尺鏡(やたのかがみ)、玉祖命(たまおやのみこと)に八尺勾玉(やさかのまがたま)を作らせ、布刀玉命(ふとだまのみこと)には御幣(みてぐら)を持たせ、天児屋命(あめのこやねのみこと)には祝詞を奉れせた。

 こうしておいて、岩戸の真ん中で天宇受売命(あめのうずめのみこと)が乳房や女陰を露に神憑りの踊りを大乱舞した。

 これを見て八百万の神々がどっと笑うと、天照大御神は気になり岩戸をそっと開ける。「何事か?」

「あなた様より貴い神が現れたので皆喜んで騒いでいるのです」

 差し出された八尺鏡を見た天照大御神は、そこに映った自分の姿をその貴い神と勘違いし、猶もよく見ようと身を乗り出したところを、怪力の天宇受売命が岩を投げ飛ばした。

 そして、天照大御神が外に出ると漸く世界に再び光明が戻ったという話しだが、この「天岩戸」こそ太陽神の天照大御神を信仰する我が国らしい神話である。

「皆既月食」の昨日、自然現象に多くの子供達も興味を持って観察したが、科学万能の時代、日本人として生を享けたからには、「天岩戸」の神話を始め、古来の日本人の考え方や教えも伝承して行かなければならないと感ずる。

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2018年01月18日

自衛隊諸君は批判の声に怯むことなく、勇気と自信を持って職務に精励し前進せよ!

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 平成7年1月17日午前5時46分、淡路島北部沖の明石海峡を震源として、マグニチュード7.3の兵庫県南部地震(後に阪神淡路大震災)が発生し、自衛隊に批判的且つ無能な村山政権だったこともあり多くの犠牲者を出した。

 大都市の直下型地震は我が国では初めてのことで多くの教訓を残したが、残念ながらその後に起こった東日本大震災を始めとした災害を見る限り、危機管理や防災に関し万全な体制を執って来たとは思えない。

 遡れば我が国は、敗戦の汚辱を払拭せずに戦後の経済的繁栄だけに現を抜かし、国の大本を忘れ国民精神を失ひ、本を正さずして末に奔り、国家百年の大計を米国に依存し、それが当たり前だと思ってきた。

 大東亜戦争の教訓を活かすことなく、唯々反省と謝罪を繰り返してきたことで、国家としての大義を忘却してしまったことこそが、我が国が主権国家として体を成さない元凶でもある。

 阪神淡路そして東日本大震災等で被災された多くの方々の犠牲を無駄にすることなく、今後の我が国の危機管理と防災と国防が万全なものとなる様に、更なる高度な対策を構築しなければならないのは言うまでもない。

 自衛隊への批判の根底には憲法下での自衛隊の存在は違憲であるという認識から、軍事優先の結果がこうした事故が起きる原因であるとガナリ立てる。

 自衛隊に批判的な勢力は「反戦平和」を訴え、自衛隊に対する国民の反感を盛り上げようと躍起となってはいるが、今や国民の自衛隊に対する見方はひと昔前とは明らかに変わって来ているのも確かだ。

 東日本大震災での自衛隊の活躍は誰もが頼もしく感じただろう。国防と領土保全、更には防災、救援、復興と日々休み無く行動している自衛隊を心強く思い、また頼もしく思うのは国民として当然のことだ。

 国際環境やアジア情勢が大きく動いている今、政府がやるべきことは、自衛隊への感謝の念が高まっている今こそ、自衛隊を正式な軍隊として、その存在と必要性を明確にすることだ。

 昭和25年8月9日の警察予備隊発足以来、自衛隊では実に1840名以上の自衛官が「殉職」されており、一昨年も31柱が合祀された。我々はそうした犠牲者の上で生活が成り立っているのを忘れてはいまいか。

 阪神淡路や東日本大震災を始め、災害派遣や我が国の平和と独立、国民の生命財産を守る為に日夜行われている訓練などで、1870名以上の自衛官が殉職されていることを果たして国民の何人が知っているのだろうか。

 確かに、軍隊とは任務の為なら死をも厭わぬ集団である。だが、国民もまた国家の危機の要請に応じ、然と戦場に赴いて戦い散って逝った英霊に対し感謝の誠を捧げ、慰霊し顕彰することは義務でもある。

 ところが残念なことに我が国では国の礎となった方々は国家から顧みられることが少ない。このことがどれだけ国民精神の頽廃を招いているのか、我が国の政治指導者は考えたことがあるのだろうか。

 全ての捩れは日本国憲法が元凶であり、自衛隊をこのまま違憲の状態で放置することがあってはならないし、自らの国家の防衛をも否定する亡国憲法の破棄なくして「積極的平和主義」も「平和国家建設」も単なる画餅に帰す。

 今こそ日本人自らの手で日本人の為の憲法を制定するなり、先人の智慧でもある明治欽定憲法を復元・改正するなり、国民の生命財産と安全を守る為に日夜活躍している自衛隊を、国軍として、その存在と必要性を須く明確にすべし。

 姑息な現憲法の改正だけは阻止せねばならない。自衛隊諸君は批判の声に怯むことなく、勇気と自信を持って職務に益々精励せよ!

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2018年01月17日

主権恢復は祝祭日を本来の在るべき姿に戻すことから始めよ!

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 本来の成人式は1月15日。その年の初めての満月を祝う小正月に一家の行く末を託す男子の「元服」を行っていたというのが成人式の由来だ。

 だが「男子の元服」というのが性差だとして、ジェンダーフリーを叫ぶキチガイや左翼らの怒りに触れ、平成11年所謂「ハッピーマンデー」なる摩訶不思議な祝日が誕生するに至った。

「成人の日」や「体育の日」「敬老の日」「海の日」を「ハッピーマンデー」としたのは、国體破壊を謀る左翼陣営の悪知恵だが、保守を標榜する自民党や似非保守政治家らがこれに同調し施行されたことは実に御粗末と言う他はない。

「海の日」をハッピーマンデーとしながら、何故か「山の日」は8月11日と固定化されている。ならば「海の日」をハッピーマンデーから簡択し、7月20日に固定することに何を憚っているのか。

「体育の日」は、アジアで初の然も有色人種の国が初めてオリンピックを開催したという歴史的偉業である10月10日だったからで、この日以外に何の意味があるというのか。

「ハッピーマンデー」とは、祭日の意味を薄れさせ国柄を見失わせることで国體破壊を目指していることは明らかで、最終的には11月23日の「勤労感謝の日」と、2月11日の「建国記念日」をハッピーマンデーにすることが狙いである。

 左翼陣営はこうした既成事実を積み重ねることによって、我が国の歴史や伝統、文化を否定する論拠とするのは常套手段である。

 祝祭日が単なる休日となってることをして何が「ハッピー」なのかさっぱり分からんが、彼奴等の狙いは鯔のつまり「宮中祭祀」の妨害にあることは明らか。正に「ハッピーマンデー」なんぞ百害有って一利無し。

 宮中祭祀で特に重要なものは正月、元旦に執り行われる「四方拝」と、11月の2回目の「卯の月」に行われる「新嘗祭」であり、歴代天皇にとって最も大事なものは代々受け継がれてきた「祭事」である。

 事実、祭祀縮小を目指す宮内庁は、陛下の高齢を理由にして、陛下の負担軽減の一環であるとして、祭事の中でも重要とされている新嘗祭の未明に執り行われる「暁の儀」の拝礼や元旦の四方拝の一部を取り止めた。

 陛下の高齢を理由に負担軽減を図るなら祭事を優先し、国事行為や公的行為は皇太子殿下と秋篠宮殿下が輔佐すれば好かっただけのことで、祭事の採り止めは陛下を利用した国體破壊の序章であり、天皇の政治利用である。

 祭祀こそ決められた日の決められた時間にすべきものであり、国民が共に祝うべき祝日は単なる休日ではないのだ。

 諸外国に比べ、日本の祝祭日ほど「国柄」の分かる素晴らしい伝統、文化はない。だが、多くの日本人が、祝祭日をただの休みとしか考えていないのは昨今の日本人の精神的貧困を顕している。

 祝祭日を本来の在るべき姿に見直すことは喫緊の課題であり、国民に祝祭日の意義を教えて行かねばならないと痛感する。

 建国記念の日を「紀元節」。春分の日を「春季皇霊祭」。秋分の日を「秋季皇霊祭」。勤労感謝の日を「新嘗祭」と本来の名称に戻さねばならない。

 同時に「憲法記念日」や「山の日」意味の無い祝日を廃止し、4月3日を「神武天皇祭」。10月17日を「神嘗祭」として復活させることは、戦後体制(ヤルタポツダム体制)からの脱却と主権恢復の意味からも重要である。

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2018年01月14日

尖閣諸島周辺に石油・天然ガスが埋没している可能性を報告すると中共や台湾は唐突に領有権を主張し始めた

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 本日1月14日は、沖縄県石垣市が条例により尖閣諸島の主権の正当性を定めた「尖閣諸島開拓の日」「尖閣の日」の記念日である。

 だが、悲しい哉、尖閣諸島の問題に限らず、竹島や北方領土が不法に強奪され、占領されたという歴史的経緯を知る国民は限りなく少ない。

 国際環境が激変する際に動くものが領土問題であり、つまりそれは北方領土や竹島を取り戻す好機であると同時に、尖閣列島や対馬、或いは沖縄本土をも奪われる危機も孕んでいるということでもある。

 領土問題が解決の兆しすら見えないのは、国家主権の甘さと事勿れ主義が招いた結果で、領土主権への重要さが啓蒙されていないことも要因に挙げられる。

 現在も、世界の各地で民族争いの中で国境紛争が頻繁に起きているが、世界では寸土たりとも主権確立には戦いをしてまで死守しているのが世界の常識。

「奪われた領土は奪い返す」ことでしか解決を見ない。我が国もそうした気概を持たなくてはダメだ。

 尖閣諸島とは、「魚釣島」「南小島」「北小島」「久場島」「大正島」と岩礁からなる領土をいう。

 国際法上、「無主地先占」(持ち主のいない土地を占有した国に、その領有権を与えるという考え方)に基いて、10年に及ぶ現地調査の結果、明治28年1月14日の閣議決定に拠って沖縄県に編入された。

 尖閣諸島は世界各地の地図の上でも、支那や台湾の教科書でも日本の領土として公式に認められている。

 だが、昭和43(1968)年6月、国連アジア極東委員会が、尖閣諸島周辺の東シナ海大陸棚に石油・天然ガスが埋没している可能性を報告した。

 すると、中共や台湾は唐突に尖閣諸島の領有権を主張し、国際法上の手続きも無しに地図を書き換え、1992年に自国領に組み入れた。

 そんな中で、昭和47(1972)年に日中正常化交渉が行われ、当時の首相だった田中角栄が、こともあろうに尖閣諸島の領有権に関して「棚上げ合意」した。

 明治政府の閣議決定を無視した、田中のこうした容共姿勢と腰抜け外交が、我が国の国益を大きく損なう結果となっているのはいうまでもない。 

 我が国を取り巻く環境は決して好ましいものではなく、南シナ海の西沙諸島(英語名パラセル)を中共は1974年以降、実効支配すると共に人工島を建設、フィリピンやベトナムとの間でも緊張が高まっているのは周知の通り。

 我が国では尖閣諸島の問題はそれ相応に報道し、国民の認識も広がってはいるが、南シナ海の紛争となるとマスコミは中共に気遣って作為的な記事を垂れ流し、国民も所詮は対岸の火事だ。

 そんな中で、安倍総理は、アジアにおける最も古い海洋民主国家たる我が国は、両地域の共通利益を維持する上でより大きな役割を果たすべきであると、「セキュリティダイヤモンド構想」を提唱した。

「南シナ海は北京の湖となって行くかの様に見える。アナリスト達が、オホーツク海がソ連の内海となったと同じく南シナ海も中国の内海となるだろうと言う様に」と、南シナ海の現状を嘆いている。

 更に安倍は、「南シナ海は、核弾頭搭載ミサイルを発射可能な中国海軍の原潜が基地とするに十分な深さがあり、隣国を恐れさせるに十分である」と危惧した。

 この認識こそが重要であり、東シナ海や南シナ海での中共の覇権主義に我が国が屈してはならない最大の理由がそこに在る。

 我が国が中共に屈することになれば、南シナ海は更に要塞化され、周辺諸国に脅威となるばかりか、我が国へ運ぶ石油ルートも中共の思いのまま、石油ルートの閉鎖は我が国の運命すら握っていると言っても過言ではない。

 東シナ海の浙江省・南麂列島(南キ列島)は、尖閣諸島奪還を狙い、着々と軍事基地が整えられいる。習近平はこの島を「宝島」と評するが、この「宝」とは何を意味するのか。

 この島から尖閣諸島まで約300キロ。「釣魚島奪還」を狙う人民軍にとって格好の立地であり、習近平にとっては正しく「宝島」なのだ。

 因みに、この南麂島は先の大戦では日本軍が上陸した島であり、支那での国共戦争に於いては、劣勢になった国民党軍が「反共」の拠点を構えた島でもある。

 碧く澄んだ海に囲まれ、海の幸のも恵まれたこの島はユネスコのエコパーク(生物圏保存地域)に登録されている。

 ここを観光開発を奨める様に指示したのは習近平だった。だが、主席に上り詰めた習は、新たな野望を果すべく、この島を領土防衛の最前線として要塞化を進めているとは厭きれるばかり。

 こうしたことを看過してるユネスコもユネスコだが、エコパークさえも利用する精神性の異常さは共産主義者ならではのものだろう。

 領土は国の主権であり、尖閣に於いては奪われる前に自衛隊の駐留や住民への上陸を許可し、実効支配は勿論のこと、オスプレイなどの最新防衛設備を充実させ、想定される様々な安全保障上の対策を講じるべし!

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2018年01月12日

義理などは夢にも思ふ事勿れ。身を縛らるゝもの也(英将秘訣)

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 元FBFのタイムラインを覗いたら某政治家と愛国ビジネスが頓挫して逮捕された例のおっさん夫婦の写真がアップされ「昔は友達だったのに掌を返して批判するとは。そういうのを卑怯者や裏切り者という」という様な記事が載っていた。

 この元評論家と元理事長の関係は友達というより別に持ちつ持たれつの関係で、況してや義理なんぞ考える様な関係でもない。相手に問題があれば批判して当たり前。真の友達だったのなら刺し違えて然り(笑)

 愚生も世話になってる支援者もいれば、兄弟分や盟友という様な仲間もいたが、相手に問題があれば苦言して、袂を分かって来たし、また今迄どれだけ裏切られて来たことか。未来永劫、友達の関係が続くなんてことは有り得ない。

 友達だから、友達だったからと義理なんぞ微塵も感じない。要は愚生も「卑怯者」とか「裏切り者」とか呼ばれているのかも知れないが、世話したことはあっても、別に世話になったということも無いから別にどうでもいい(笑)

 愚生の座右の書というか「英将秘訣」には「義理などは夢にも思ふ事勿れ。身を縛らるゝもの也」と訓えているが、正論だと思っている。

 支援金などにしても、英将秘訣には「俸禄などいふは鳥に与ふる餌の如きもの也。天道豈(あに)無禄の人を生ぜん。予が心に叶はねば、やぶれたる草鞋を捨つるが如くせよ」と在る。この実践が支援者が減る要因だろうか(笑)

 友達の多さを自慢するヤツがいる。そういう輩に限って実際には心から分かち合える友はいない。そうしたものはその人の立派そうな肩書や立場に寄って来てるだけで、それは友達という代物じゃなく単なる仲間や知り合いでしかない。

 盟友とか兄弟分とか言ってるのに限って裏切るのも早い。斯くいう愚生の場合も、相手に問題があれば苦言を呈してハイさようなら。真の友達なんぞそうはいないし、自分を誤魔化して付き合ってやるほど人間が出来ていない(笑)

 実社会の人間模様を見渡せば、善友、必ずしも善友ではなく、悪友、必ずしも悪友とは限らない。「毒を以て毒を制す」ではないが、悪友の方が、結果として善友以上の働きを示すことの方が多いのも確かだろう。

 畳にこぼれた水を拭き取るには、乾いたタオルでは綺麗に拭き取れない。タオルを充分に水に浸し、これをキリリと絞り上げてから使うのがいい。タオルの水気が畳の水を綺麗に吸い上げるのだ。

 新しいタオルが殆ど水を吸わないのと一緒で、日頃、キレイゴトを言ってるヤツなどは、いざという時にはあっちにフラフラ、こっちにフラフラと、クソの役にも立たないものだ(笑)

 今どきの安っぽい愛国ブームに流され、請け売りの政治学を偉そうに語るヤツより、政治のことは全く分からなくても、酒を愛し、趣味や惚れた女やスケベな話しを懸命に話してるヤツの方が信用出来る(笑)

 相手の主体性を重んじることを「君子の交わり」というが、見て見ぬふりより、相手がどう捉えるかは別にして苦言を呈すべきだと思う。

 それとは逆に「君子の交わりは淡きこと水の如し、小人の交わりは甘きこと醴の如し」という言葉もある。

 物事をよく弁えた人の付き合いというものは水の様に自然なものなのであるが、つまらぬ小人物の交際というのは、まるで甘酒の様にベタべタした関係であり、一時的には濃密のように見えても、長続きせず、破綻を招き易いものでもある。

 facebookやSNSなどでの遣り取りを見ているとキレイゴトを並べ、ベタベタとした上辺だけのコメントが実に多い。互いに抑揚を抑え、大人の遣り取りをしているつもりなのだろうが、そんな付き合いなどに意味があるとは思えない。

 バーチャルなSNSの世界を勘違いしていませんか(笑)

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2018年01月11日

「日本が心から謝罪するなどして被害者達が許すことが出来た時が本当の解決だ」との謗言を嗤う

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 文在寅は年頭会見で、慰安婦問題を巡る日韓合意について「日本が心から謝罪するなどして、被害者達が許すことが出来た時が本当の解決だ」と述べた。

 要は、過去の日本政府の謝罪は「心から」ではなく、売春婦(自称被害者)が金のなる木を放棄することはなく解決されることはないということだ。

 韓国側が「慰安婦問題」で強請りタカリに奔るのは、朝鮮人の人品の低さも然ること乍ら、歴代日本政府の無知と事勿れ主義が元凶であり、譲歩が更なる譲歩を生んでしまった我が国外交史上の最大の失敗でもある。

 朝日新聞が捏造した慰安婦問題を、自民党の宮沢内閣下で加藤紘一官房長官が事実を認め、次の官房長官に就いた河野洋平が「談話」を発表したことで韓国人慰安婦を付け上がらせる原因を作った。

 更に「村山談話」で火に油を注ぎ、その後の自民党政権下でもこれらを撤回せず黙認し、民主党売国政権誕生で、鳩山由紀夫が総理大臣として「国家補償」を約束し、当時の前原誠司幹事長もまた「戦後賠償支援」を言及した。

 慰安婦問題は、日本側が国家として「謝罪」も「約束」もしている訳だから、韓国にしてみたら賠償請求するのは当然であり、単なる強請り、タカリと言ってもいられない現実が厳然と存在してしまったのだ。

「戦争」とは相手を征服することであり「征服」とは掠奪である。7世紀に興ったイスラムでは「略奪」は正しいと教え、中でも最高の戦利品は「女」だった。

 女を奪い犯すことは、その国家、民族の純粋性を奪い、征服者の血を入れることで征服が完結する。征服の定義とは、正に「掠奪」と「強姦」の歴史なのだ。斯くて世界中の民族、国家は万古不偏、この定義に従って戦争して来た。

 例えばロシア人は第二次世界大戦末にベルリンに侵攻し、僅か半年の間に13万人のドイツ女性を強姦し、うち1万人を孕ませた。8千人は堕児出来たが、2千人は「目が寄った額の狭いロシア人顔」の混血児を生んだ。

 13世紀、欧州迄攻め込んだ蒙古人はイランやロシアに混血児を残し、生まれた子供に蒙古系の血が出るとその子は社会から排斥された。

 米国人もロシア人と同じで、第二次世界大戦に参戦すると英国で400件の強姦を働き、欧州戦線では1万4千件の強姦を記録している。

 現在も、チベットやウイグル、内蒙古で漢民族が相手民族に対し「民族浄化」という陵辱の限りを尽しているのは周知の事実だ。

 無条件降伏した日本国内でも、米国人もロシア人ももっと残酷に振舞い、民家に押し入り妻や娘を強姦し、抵抗すれば殺した。調達庁の記録では実に2600人を超える日本人同胞が殺されている。

 だが、こうした世界とは違った国が存在した。それが日本である。

 我が国だけは日清戦争の昔から、「掠奪」と「強姦」を軍律で厳しく規定し、規定を破った者は厳しく処罰された。

 しかし、生きるか死ぬかの戦場で、若い兵士に生理的なものにまで我慢を強いるのは逆に統率を失うと、街に在る「遊郭」で息抜きをさせた。

 その遊郭で働いていたのが慰安婦であって、売春婦が戦場迄出張ることは当時は当り前のことだったのだ。

 戦場に遊郭を建て兵士に息抜きをさせるのは肝心で、これはまた当地での性犯罪を防ぎ、相手民族の尊厳を最低限保つことでもあったのだ。

 こうした日本人の配慮を知らずして、高給に集った売春婦を「従軍慰安婦」と称し、恰も軍が関与し、朝鮮人の女性を強制連行し名誉を傷付け「性奴隷」にしたとは言語道断という他は無い。

 1964年、ベトナム戦争が激化すると韓国は、米国への忠誠と資金援助を得る為に、ベトナムに韓国軍を派兵した。

 この戦争に於いて、韓国軍兵士は十万人単位のベトナム人女性を凌辱し強姦、その一部を虐殺、結果、約3万人のライダイハンが生まれ放置された。

 韓国側がひた隠す「ライダイハン(韓国人とベトナム人の混血児)」の「ライ」とは、ベトナム語で「雑種」の意味で、「ダイハン」は「大韓」のベトナム語読み。つまり、韓国人男性とベトナム人女性の間に生まれた子供のことだ。

 統一後のベトナムでは、ライダイハンは「敵国の子」とされ迫害の対象となった。1987年に米国政府は戦争責任からか混血児とその家族の移住を受け入れ始めた。だが、韓国側は謝罪もせず沈黙を続けた儘だ。

 ベトナムのクァンアイソン・ビンホア村には「韓国軍憎悪碑」というものが建っており、次の様に刻まれている。

「天をつく罪悪、万代に記憶するだろう!この虐殺で犠牲になった者の数は合計430人、そのうち268人は女性、109人は50才から80才まで老人、82人は子供、7人は妊婦だった。2人は生きたまま火に投げこまれ、1人は首を切られ、1人は腹を割かれ、2人は強姦された。2世帯は一人残らず抹殺された」

 文在寅は親日派と言われた朴正熙政権に反対する学生運動の首謀者的存在で投獄されたこともある確信的左翼闘士であり、名うての反日活動家である。ならば何故に、朴正煕政権下で行われたベトナムでのこうした蛮行を検証しないのか。

 ベトナム女性への陵虐や惨殺は犯罪ではなく、「反共」を国是とする韓国の英雄的行為とされたことを間違いだったと猛省すべきだろう。

 ベトナム共産主義者との戦いと弾圧は熾烈さを増した厳しいもので、女性子供であろうが情けは無用との認識だったが、そうした過去の過ちに向き合ってこそ成熟した国家といえるが、反日ばかりで己らの歴史を直視することはない。

「ライダイハン問題」を抱えながら、ベトナムに対して謝罪も補償もしない韓国に慰安婦問題や歴史問題で我が国を責める資格など無い。

 1951年から61年にかけて「東亜日報」にUN軍相手の慰安婦募集の記事が載っている。韓国に駐留する国連軍に、韓国が国家として慰安婦の提供をしていた事実を報じたものだ。

 韓国こそ、こうした国ぐるみで他国の軍隊に慰安婦を斡旋していた事実には口を噤み、ライダイハン問題には謝罪どころか沈黙し、我が国の慰安婦問題だけを騒ぎ立てることに矛盾と羞恥心は感じないのか。

「従軍慰安婦」や「強制連行」が嘘だということは最早、朝鮮人自身でさえも判っているのに、何故か我が国の政治家やマスコミだけは知ってか知らずか、懲りもせずにその嘘に付き合い続けている。

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2018年01月10日

選択的夫婦別姓に見られる世論の怪しい動きに騙されてはならない

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 どこぞの性的変質者の社長らが「選択的夫婦別姓」を認めない戸籍法の不備で精神的苦痛を受けたとして、国に計220万円の損害賠償を求める訴訟を東京地裁に起こした。日本人になれただけでも十分なのに何を勘違いしてるの(笑)

 民法第750条には「夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する」と明記されている。つまり夫となる人、または妻となる人の何れか一方の「氏」を夫婦の氏とするということ。

 この規定を大半の人は「片方が氏を変える」と理解しているが、「氏は自分個人の名前の一部」という誤解が混乱を招いているのも確かだろう。

 抑々「氏」というものは、個人を表す名称ではなく、明治維新以前には武士や大店(おおだな)の商人以外は「氏」を使う必要もなく、氏自体が意味を持たなかった。明治維新により新政府が樹立すると、戸籍を整える為に全ての国民に「氏」を与え、戸籍を整え、家族の絆の重要性を教えた。

 戸籍抄本や謄本を見れば分かるが、戸籍の筆頭者のみが「氏」と「名」で書かれており、その他の家族は「続柄」と「名」しか書かれていない。つまり、「氏」は家族を表す名称であり、個人名ではない。

 日本人の日本人らしさの根幹を成すのが「戸籍制度」であり、個人だけでなく、親兄弟や子といった歴史の縦軸の中に生きるという制度である。正に我が国の「戸籍制度」は世界に誇れる制度である。

 欧米の教育は個人が生存権に勝つ為のものであり、辺り構わぬ闘争が行われ、働く目的は金と享楽の追求のみ。それ故、家族の絆は緩み道徳の深さは生活から離れ、結果、唯物主義の考え方が支配的となり、人々の心を孤独化している。

 我が国の個人主義は極僅かで、世代に亘る家族の絆は固く、互いの助け合いによって人間本来の善良な姿と優しい心が保たれている。

 だが、夫婦別姓制は家族の一体感を損ない、子供に与える精神的影響も大きく、事実婚を増加させ、離婚の増加や婚姻制度の崩壊を齎すのは明らか。

 抑々、婚姻に際し氏を変える者で職業上不都合が生じる人にとって、通称名で旧姓を使用することが一般化しており、婚姻に際し氏を変更するも、関係者知人に告知することにより何の問題も生じない。

「夫婦別姓が男女平等の理想」とか「別姓は仕事上の不都合を生む」といった胡散臭げな理由を不審に思う国民が多くなり、「夫婦別姓」運動は廃れたが、夫婦別姓推進派はそれでも執拗に「選択的夫婦別姓」という新たな戦略を模索している。

 平成10年以来「民法の一部を改正する法律案」が国会に十数回提出され、選択的夫婦別姓制度について議論がなされているが、我が国には馴染まない為か国民的合意には至っていない。だが油断してはならない。

 自民党議員が十年以上騙された「夫婦別姓」運動と同じ騙され方をしているのが「選択的夫婦別姓」や「女性宮家」問題であり、こうした巧妙にカタチを替えた共産主義の策謀に騙されてはならない。

「選択的夫婦別姓制度」を導入した、イタリア、オーストリア、ドイツ、デンマーク、スウェーデン、ハンガリー、フランス、スペインなど欧州の国々では婚姻率が4割以上も減り、離婚率が2倍となり、婚外子の割合が5割も増加した。

 北欧、フランスでは婚外子が5割を超え、従来の家族制度が崩壊している。これは「選択的夫婦別姓制度」の導入が最大要因だったのは言わずもがな。

「氏を変えることにより自己喪失感を覚える」という様な意見もある様だが、これは「氏(姓)は個人名ではない」ということを理解していない典型で、同姓が嫌なら、同棲という事実婚でいいだけのことだろう。

 だが、そうした変態的な意見より、結婚に際し同じ姓となり、これから新たな家庭を築くという喜びを持つ夫婦の方が圧倒的多数であり、それが極めて一般的な普通の感覚ではあるまいか。

 夫婦同姓は、普通の日本人にとって極めて自然な制度であり、現代社会で家族とその絆を支えているのが「戸籍」であり、戸籍は、国民の出生・結婚・死亡などの身分の変動を「夫婦と未婚の子」を単位として登録するシステムである。

 戸籍制度は結婚や相続など家族生活を営む上で極めて重要な役割を担うと同時に、実は家族の一体感を維持する機能も有している。

 ところが、別姓推進派の中には「別姓導入は戸籍制度改廃への一里塚だ」とする考え方が根強く存在するのは事実。

 別姓するくらいなら結婚などしなきゃいいと思うのが普通だが、夫婦別姓は世界に誇る「戸籍法」の解体こそがその目的である。

 別姓推進派は、現在の戸籍制度が家族単位である点を、戦前の「家父長制度」の残滓と捉え、戸籍を個人単位の「個籍」や、欧米諸国を模した「個人登録制」に改めることを求めている。

 夫婦別姓を導入すれば我が国の戸籍制度や家族制度は瓦解し、祖先と家族・親と子を結ぶ連帯意識や地域の一体感、延いては日本人の倫理道徳観にまで悪影響を及ぼすのは必至。だが、彼らの目的が日本的家族制度の破壊、畢竟、国體破壊に在るとすれば合点がいくというものだろう。

 夫婦別姓に限らず、突き詰めた議論が無いまま、安っぽいムードだけで、やれこれが世界の流れだとか、グローバル時代の到来だとか、そんな曖昧な次元でもって賛同者が広がってるが、こうした世論の怪しい動きに騙されてはならない。

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2018年01月03日

父上様、母上様、三日とろろ美味しゆうございました(円谷幸吉)

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 愚生の住む福島県内を始めとする東北や北関東の一部では、正月の3日にとろろメシ(汁)を食べる風習がある。

「三日とろろ」を食べるとその年は風邪をひかないと言われているが、まぁ風邪をひかない様にというより「七草粥」の様に、年末年始で飲み過ぎた胃腸を労わるという優しさから食べられる様になったのだと思う。

「三日とろろ」でいつも思い出すのは、福島県須賀川市出身で東京五輪マラソン銅メダリストの円谷幸吉選手のことだ。

 円谷選手の遺書の最初には「父上様、母上様、三日とろろ美味しゆうございました」と認められ、家族皆への感謝が綴られている。

 そして「幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました」で結ばれ、中でも「幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません。何卒お許し下さい」の言葉はトップ選手故の苦悩の現れであり衝撃的でもある。

 円谷選手が遺書は、世話になった方々から頂いた美味しい食べ物への感謝の言葉で綴られ、人となりが十分伝わってくる内容だ。(以下、遺書の全文)

「父上様、母上様、三日とろろ美味しうございました。干し柿、もちも美味しうございました。敏雄兄姉上様、おすし美味しうございました。勝美兄姉上様、ブドウ酒 リンゴ美味しうございました。巌兄姉上様、しそめし南ばんづけ美味しうございました。喜久造兄姉上様 ブドウ液養命酒美味しうございました。又いつも洗濯ありがとうございました。幸造兄姉上様、往復車に便乗さして戴き有難とうございました。モンゴいか美味しうございました。正男兄姉上様、お気を煩わして大変申し訳ありませんでした。幸雄君、秀雄君、幹雄君、敏子ちゃん、ひで子ちゃん、良介君、敬久君、みよ子ちゃん、ゆき江ちゃん、光江ちゃん、彰君、芳幸君、恵子ちゃん、幸栄君、裕ちゃん、キーちゃん、正嗣君、立派な人になってください。父上様母上様、幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません。何卒お許し下さい。気が休まる事なく御苦労、御心配をお掛け致し申し訳ありません。幸吉は父母上様の側で暮しとうございました」

 アジアで最初、有色人種国として初めて開催された東京オリンピックで3位という快挙を成し遂げた幸吉はレース後にこう語った。

「私1人が走っているのではなく、日本国民全部の人が後ろから私を押していてくれるという感じを受けました」。正しく幸吉は国士だったのだ。

 遺書というのはその人の人物像が現れる。中でも特攻隊員や靖國に眠る英霊の遺書は正しく「神」そのものの渾身の叫びであり、その言葉には言霊が宿り、その精神は日本人の心の奥に響き、時空を超えて明らかに現代に感応している。

 右翼人の愚生には左翼という生き方はどんなものかは知らないが、28歳で自裁した連合赤軍中央委員会委員長・森恒夫の遺書には「自己の責任の重さに絶望し、自らに死刑を下す」と綴られていた。内容は次の様なものだった。

「御遺族のみなさん、十二名の同志はぼくのブルジョア的反マルクス的専制と戦い、階級性、革命性を守ろうとした革命的同志であった。責任はひとえにぼくにある。同志のみなさん、常に心から励まして下さってありがとう。お元気で。父上、ぼくはあなたの強い意志を学びとるべきだった。強い意志のない正義感は薄っぺらなものとなり、変質したのである。お元気で。愛する人へ、希望をもって生きて下さい。さようなら。荷物は坂東君に」

 森は逮捕されてからはキリスト教に関心を示していたというが、自ら行った罪を悔い改めている遺書からも、キリスト教に縋り、革命家を気取りながらも幼稚だった正義感を恥じている心境が伝わってくるが、遺族への謝罪は全くないこれをしても左翼というのは自分勝手の様に思えてならない。

 一方で、浅沼稲次郎社会党委員長を刺殺した右翼の山口二矢は、供述調書を取り終えると移送された練馬鑑別所で自裁する。その調書の中で遺族に対して心境を吐露している。

「浅沼委員長を倒すことは日本の為と堅く信じ殺害したのですから、行為については法に触れることではありますが今何も悔いる処はありません。しかし、浅沼委員長は最早故人となった人ですから、生前の罪悪を追及する考えは毛頭なく唯故人の冥福を祈る気持ちであります。又浅沼委員長の家族に対しては、如何なる父、夫であっても情愛に変わりなく、殺害されたことによって悲しい想いで生活をし迷惑を掛けたことは事実ですので、心から家族の方に申し訳ないと思っています」

 二矢は練馬鑑別所に於いて、「國のため 神洲男児晴れやかに ほほえみ行かん 死出の旅へ」「大君に 仕えまつれる 若人は 今も昔も 心かわらじ」の辞世を遺し、「天皇陛下万歳」と従容として死に就いた。

 二矢は、「私には日本人の血が流れており唯物論では到底割り切れない。持って生まれた日本精神という唯心論的なものが滾っており、天性からこういう人生観、思想などが形成されたと思っています。尚、本当の日本人であれば、私の様な人生観、思想というものが心の奥底には必ず在ると思います」と述べているが、右翼と極左暴力団との違いはこういうことだろう。

 17歳の二矢と27歳の円谷幸吉の遺書に日本人としての惻隠の情を犇々と感じ、人というのはどれだけ生きたかという人生の長さではなく、どう生きたか、どう生きるかが大事だと痛感する。合掌再拝。

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2018年01月01日

大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス

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 皇紀2678年、平成30年を迎えるに当り、謹んで陛下と皇室の弥栄を寿ぎ奉り、併而心願成就を祈念する。扨て今年もどうなるものぞ。

「わが民族の将来と国家の前途を思うは人間の最も真剣なる感情であり、君国に忠、親に孝なるは最も現実なる道徳である。之を離れては人類愛も世界的正義も空想に過ぎない」(西晋一郎)

 心ある国民は日本に生まれた者としてその日本を憂い、心中密かに期するものがあるだろう。それは一体何か、何であらねばならないのか。

 これを一言にして表現するならば、天皇国日本の真姿開顕に奮励前進、捨身奉公するということに尽きよう。

 畏くも、皇祖天照大御神が垂示し給うところの、「豊葦原の千五百秋の瑞穂国は、是れ吾が子孫の王たるべき地なり、宜しく爾皇孫就いて治せ、行矣。宝祚の隆えまさむこと、当に天壌と窮り無けむ」との天孫降臨の御神勅を心魂に刻んで日々奉拝することである。

 明治22年2月11日の紀元節、畏くも明治天皇は、大日本帝国憲法施行の際に下し給える憲法発布勅語の中でこう思召し遊ばされた。

「惟フニ我カ祖我カ宗ハ我カ臣民祖先ノ協力輔翼ニ倚リ我カ帝国ヲ肇造シ以テ無窮ニ垂レタリ此レ我カ神聖ナル祖宗ノ威徳ト並ニ臣民ノ忠実勇武ニシテ国ヲ愛シ公ニ殉ヒ以テ此ノ光輝アル国史ノ成跡ヲ貽シタルナリ」

 この御神勅こそ正に天孫降臨の御神勅の精神の継承である。「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と在る様に我が国は「天皇国日本」なのである。

 これこそが日本国民たるものとして肝に銘じ、忘れてはならない万古不磨の大原理大原則であることを知るべきなのだ。

 北畠親房卿は「皇統正統記」の冒頭でこう記す。

「大日本者神国也。天祖はじめて基をひらき、日神ながく統を傳へ給ふ。我國のみ此事あり。異朝には其たぐひ なし。此故に神國と云ふ也。神明の皇統を傳へ給へる國也」

 これもまた日本国民が矜持すべき信念であり、日本人としての信仰であらねばならないと断言して憚らない。

 この民族の精神と、道統を受け継ぎ、これを護持し、これを宣布し、そして子孫に伝えるところの責任と使命を有する者は、今を生きる我々日本人であることは言うを俟たないところであろう。

 然るに、この万邦無比の国體、尊厳崇高なる祖国日本の歴史と道統に目を覆い、或いは西洋物質文明に被れ、或いは共産主義反逆思想に随喜して、日本人の本質を自ら喪失し、無機質な人種が増殖する傾向は由々しき一大事と言わざるを得ない。

 本居宣長は自著「うひ山ふみ」の中でこう教示している。

「やまと魂だによく堅固(かた)まりて、動くことなければ、昼夜からぶみをのみよむといへども、かれに惑はされるうれひはなきなり」

「からぶみ」とは「洋風かぶれ」「米国追随」ということだが、多くの国民も悲しいかな「やまと魂だによく堅固まりて」どころではないのだ。

 国内には未だ米国の占領政策の洗脳から目覚めることなく、米国や中共の走狗となった不逞の徒輩により大和魂の基盤そのものが逐次掘削され、国家の大本を忘却し経済至上主義に奔り、我が国體の精華が穢され続けている。

 この迫り来る祖国日本の危機に対処し、天皇国日本を盤石の安きに置く使命を有するものは我ら日本人である。

 正にその存在の意義を示す神機は近付きつつあるのだ。さあ、全国の愛国者よ、草莽の志士よ、その一旦緩急に備え遺憾無きを期そうではないか。

 念頭に当り、右翼浪人として、そして一維新者として、貧すと雖も志士の覚悟を忘れることなく草莽の道を歩んで往こうと思っておりますれば、本年も何卒御付き合いの程宜しく御願い申し上げます。すめらぎいやさか。

 皇紀2678年 平成30年 歳旦 佐久間五郎拝

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2017年12月30日

「今日は無礼講だから遠慮しないでどんどん呑め!」とか言われて杯盤狼籍(笑)

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 忘新年会のシーズン、「今日は無礼講だから遠慮しないでどんどん呑め!」とか言われ、その気になって泥酔して杯盤狼籍。調子に乗って飲み過ぎて、翌日には記憶もカネも無いなんてのはよくあるだろう。

 先輩や上司から「無礼講だ」と言われてもやはり酒席では礼節は失ってはいけません。大体、会社や先輩での酒席は修行の一環。気を遣って飲む酒なんぞ旨くもないし楽しくもない。やはり酒は身銭を切って飲むのが旨いし愉しい。

 毘沙門天を信仰し、生涯質素な生活を送った質実剛健の戦国武将・上杉謙信は酒には目が無くて、酒の飲み過ぎで脳卒中で死んだというから何か親近感が沸くというものだが、愚生も他人事ではない。

 謙信は、お気に入りの大ぶりの盃を持って部下と一献。大いに酒を勧めながら部下の酔いの姿を観察し、酒に呑まれて我を忘れる部下を酷く嫌ったという。また、酔った勢いでここぞとばかりに進言したりする部下も信用しなかった。普段も酒席も同じ態度の者を重用した。

 愚生の場合、鼻に付く先輩などには酒席で苦言を呈す時もある。ただ、翌日には「昨日は酔っぱらってついつい言い過ぎました」と謝ることにしているが、酒の所為にすれば大概赦される。でも、言ったことは本音です(笑)

 吉田松陰は「常に直諫なくば」と訓えているが、先輩や上司への諫言とはシラフの時に言った方が好い。ただ、それを赦してくれる様な度量の大きな先輩や上司は少ないので御注意を(笑)

「今日は無礼講だ」と勧める一方で、酒席の様子や酔っ払いぶりを謙信の様に冷静に観察している上司や先輩方がいることを忘れてはいけません(笑)

 酒ってのは失敗も多いが、失敗で得る方が断然多いから酒での失敗も大事な経験。「酒が人間をダメにするんじゃなく、酒は如何に人間がダメなものかを教えてくれる」とは立川談志だが、蓋し正論。

「酒は飲むべし 酒は飲むべし 人生唯酒ありて肝を開く 酔中の快楽人知るなし」とは坂本龍馬。酒は男を磨く道具の一つ。肴は特に拘らなくても好いが、飲む酒には拘りたいものだ。但し呑み過ぎには御注意を。呵呵大笑。

 これを以て今年最後のブログと致します。今年も「爆ちゃん吼える」に御付き合い頂き感謝申し上げると共に、謹んで陛下と皇室の弥栄を寿ぎ奉り、併而、来年が皆様にとって実りある年と成ります様に御祈念申し上げます。

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2017年12月29日

「喪中につき年末年始の挨拶はご辞退させて頂きます」という陋習

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「喪中につき年末年始の挨拶はご辞退させて頂きます」だとか、「喪中なので初詣には行かない」いう様な声を聞く。信心深いのだろうが、こうしたことも古くからの習慣であり、大した意味はなくやっている様だ。

「初詣」も神道なら50日を過ぎていれば問題はない。仏教でも浄土真宗などは「死」は「穢(ケガ)れ」ではなく、故人を阿弥陀如来の智慧の光明に縁り極楽浄土へと導くという真理であるという教なのだから問題はない。

 尤も、日本人というのは天皇陛下の御生誕を祝わずキリスト誕生を祝い、大晦日には除夜の鐘を撞き、初詣には神社に参拝する。結婚式を教会や神社で挙げ、葬式は仏教と実にいい加減な民族ともいえるが、何故か喪中にだけは拘る(笑)

 先祖の宗派も分からず、日頃、神仏などを軽んじていながら、自分の都合の好い時だけ信心深くなるのはどういう訳だろう(笑)

 近親者が亡くなった場合に、一定の期間、その死を悼み、身を慎むことを「忌服」、或いは「服喪」という。

 古くは、門戸を閉じ、酒肉を断ち、弔せず、賀せず、音曲をなさず、嫁取りをせず、財を分かたずという様な仕来たりがあった様だが、今日ではそれらの一部分が慣例として受け継がれているだけなのだ。

 現在はここまで喪に服することはないし、そこまでした人を見たことも聞いたこともない。一等親の身内が亡くなられた場合でも、一週間も仕事を休めば「もう、君は来なくていい」と上司から誹られるだろう。

 日本での喪中の規定に関する法律は、奈良時代の「養老律令」には既に見られ、江戸時代になると「服忌令」という法律によって喪中の規定が記され、これらによると父母の喪は12ヶ月~13ヶ月であると制定されている。

 明治7年に出された太政官布告(「忌服令」昭和22年に廃止)では、「父母、夫、50日、13ヶ月。妻、兄弟姉妹、20日、90日」などと「忌(忌中)」と「服(喪中)」の期間をこと細かく定めている。

 明治42年に制定された「皇室服喪令」では「12か月」と、こちらも「忌服令」などと粗同様の期間が決められている。

「忌」と「服」は、謹慎度の深さによって分けられるが、大まかには「忌」は自宅に謹慎する期間、法要(四十九日)が終わる期間。「服」は喪服を着用する期間、死者を偲ぶ期間と考えていいだろう。

「忌中」とは、神道の「穢れである死を忌む期間」という考え方から、忌中時(五十日)は「出仕(仕事)を控え、殺生をせず、髭や髪を剃らず、神社に参拝しない」としている。

 現在ではこうした法令は全て撤廃され、仏事の慣例としては今もこの太政官布告が一つの目安にされていて、喩えば父母の死亡に際しては七七忌(四十九日)までが忌中、一周忌(一年間)までが喪中とされることが多い様だ。

「喪」は抑々儒教から生じているもので、父母の死については13ヶ月間喪に服するということになっている。

 この13ヶ月の数え方だが、昔は「0」という観念がないので、父母が亡くなった月が1ヶ月目となり、丸1ヶ月なくてもその月が終われば1ヶ月と数え、翌月は2ヶ月目になる。亡くなって二年目の法要が三回忌となるのと同じ。

「年賀状」は明治6年、日本で「ハガキ郵便配達」が始まったのを機に、遠方以外の人にも挨拶状を送る習慣が広まって行った。

「年賀郵便」の制度は明治39年に始まり、昭和24年には「お年玉付き年賀はがき」が発売されると、年賀状が次第に普及し慣例となった。

 年賀状というのは正月の愉しみではあるが、通信手段が無い時代に遠くの友人に年に一度の挨拶する為に生まれたのが年賀状であり、ネットや通信網が普及された現代に於いては面倒な習慣でもある。

 服喪期間という個人の故人への思いはそれはそれで好い。喪中の相手を気遣うという意味では年賀状を送るというのは思慮不足なのかも知れないが、悪気が在って送る訳でもないだろうし、陋習ともいえる年賀状如きに、亡くなった人まで巻き込んで一喜一憂などする必要はない。

 尤も「喪中だから」と門戸を閉じ、酒肉を断ち、弔せず、賀せず、音曲を成さず、嫁取りをせず、財を分かたず、出仕(仕事)を控え、殺生をせず、髭や髪を剃らず、自らを厳しく律している方なら別だが、そんな人はいないだろう(笑)

 愚生の場合、年賀状は殆ど書かない。頂いた方には寒中見舞いを出すことにしている。「葬儀・告別式」も「年忌法要」も「偲ぶ会」も身内や友人には「やる必要なし」と断ってるので、当然、喪に服する必要もない。

「死んだらそれまで、忘れて結構!」と念を押している。若しこの遺言とも言える申し入れを無視する様なら化けて出るつもりでいる。呵呵大笑。

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2017年12月28日

フィクサーを気取ったゴロツキ右翼や金権右翼も歌心のない乞食右翼も皆右翼

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 右翼が、国家社会主義、農本主義、純正日本主義などの思想を基に活動したのは遠い昔の話で、今はそうした思想も無ければ、政治に対しての認識や危機感も「ネット右翼」と揶揄されている連中の方が長けている。

 だが、そんな右翼にも悲観はしていない。人生、好い時もあれば悪い時もあるもので、女に本気になったり、金儲けに奔ったりする時期もあるだろう。その方が人間味があって右翼らしい。どんな生き様をしてようが本物は残る。

 街宣車のある者は、それを大いに利用して街頭演説で啓蒙したり、営利を貪る悪徳資本家共を糾弾するのも好い。宣伝車が無い者は徒歩で集団示威行為をしたり、ハンドマイクを使った街頭演説や抗議も好いだろう。

 文章が上手なら、政争ばかりの政治家や営利に狂奔する企業への抗議文の送付したり、アジビラを撒くも良し。或いはボランティアなどで社会貢献するのも良し。救国運動とは夫夫が出来ることをコツコツとやれば好い。

 真面目な右翼もパクられてばかりいる右翼も、ヤクザブルな軟弱右翼も、金儲けの下手な右翼も、ヤクザ系右翼やフィクサーを気取ったゴロツキ右翼も、歌心のない乞食右翼と揶揄される者も皆右翼。色んな右翼がいて右翼なのだ。

 右翼は愛国者ではない。愛国者とは社稷を重んじて懸命に働き納税してる資本家であり、国に頼らず国を支えている勤労者だと思う。

 日々を怠惰に生きながらも、日々の生活に流されながらも、一維新者としての志しさえ忘れなければいつかはその熱意は届くだろう。

「日本は滅びる!」「日本が危ない!」と徒に危機を煽り、日本が滅亡するかの様に叫ぶ保守派や、我が国に係る危機を売り物にして売文し、講演を生業にしてる営業保守がいる。

 日本会議を始めとしたそんな営業保守、営業右翼の言葉を真に受けて、その御先棒を担ぎ、前衛となってネットで街頭で騒ぎ立てているのが、自称・愛国者を気取ったネット右翼と言われる連中だろう。

 右翼の何たるかも知らないで「右翼」とは右翼もナメられたものだ。愛国運動が軽々しくなったのは右翼指導者の無能は然ることながら、「愛国」や「保守」を利用し、それで蓄財し、右翼の大物ぶってる輩が元凶ではなかろうか。

 正統の保守主義者に於いて時間を体験する仕方は、過去の意味を直視し、その中に価値を見出す発見によって未来を創造して行くものである。

 高邁な心を忘却し、高い精神の伴わない現在の我が国の様な繁栄はやがて衰退する。我ら大和民族は目先の繁栄ではなく、神武肇国の精神の高揚と国民国家の繁栄をこそ目指さねばならないのだ。

 国を愛する心を涵養するとは如何なることか。街頭に立ち、日の丸や旭日旗を掲げ、街中を闊歩すれば愛国者なのか。やらないよりはやった方が好いだとか、そんなものはオナニーと同じで贔屓の引き倒しそのものだ。

 愛国心とか大和心とはそんなものではない。愛国とは日本に生を享けた者が、八紘を掩(おお)ひて宇(いえ)にせむこと。つまりは神武肇国の大理想「八紘一宇」を掲げ、天皇國日本の真姿開顕へ奮闘前進すること以外に無い。

 愚生は、防挺(防共挺身隊)に愛着はあったが、前任者やそれを取り巻く体制に付いて行けず袂を分かつ結果となてしまったのは返す返すも残念無念。今やその行動右翼のパイオニアを自任した防挺も風前の灯というのも寂しい限り。

 そうした現状に隔靴掻痒の感は拭えないが、愚生を含め、防挺を去った後輩らも、防挺に所属していたという誇りを胸に精進して欲しいものだ。

 ということで、怠惰に日々を過ごしてしまっている愚生への自戒と純粋に右翼活動に打ち込んでいる若手活動家にエールを送ってみた。

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2017年12月27日

文科省も教育委員会も日教組も全教も教育荒廃の腐った肥溜め

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 今年1月、須賀川市の中学1年の男子生徒が自殺した問題で、市の第三者委員会は「いじめが大きな一因となって自死を選択した」との調査結果を公表した。

 関係者は「二度とこの様な悲しいことが起きない様に学校と教育委員会が一丸となって再発防止に務める」と御決まりの決意を述べる。

 男子生徒は同じクラスの男子9人から「菌がうつる」だとか揶揄われ、部活動でも人格を否定する様な名前を付けられ呼ばれていたことで、精神が滅入り、ストレスが溜まり自殺したという。

 学校の対応の甘さを指摘しているが、子供の気持ちに寄り添えなかった親にも責任はあるし、何より自殺する勇気があるなら、いじめた同級生に負けても良いから反撃や報復すれば好かったと思っている。

 今は暴力は絶対悪として受け入れられることはない。況してや反撃や報復となれば逆に批判されかねない。市側は学校の対応の甘さを指摘するが、いじめを糺そうといじめてた生徒にビンタでも食らわせたら、それこそ体罰だと騒がれて正義感溢れる教師が吊し上げられる。

 こうした社会の風潮、被害者よりも加害者側の人権を重んじるかの様な不正義が、いじめや犯罪が無くならない最大要因となっているのも確かだろう。

 いじめというのは幾ら防止しても無くならないだろう。人間というのは強い者には巻かれるが、自分より弱い者と見るや虐めたくなるのは本能でもある。

 教育の荒廃の元凶は日教組や全教というだけではなく、文科省や教育委員会の不作為と政治家の教育改革への無関心、そして戦後の幼稚な人権主義や暴力否定の安っぽい平和主義が少なからず影響を齎したのだ。

 教育委員会は戦後、日本の教育制度を米国の意のままに置こうというのがその狙いだった。その戦後民主主義教育は米国の思惑以上に大きな成果を齎し続けているが、その教育委員会制度に頼ったところで余計に混乱を招くだけ。

 文科省も教育委員会も日教組も全教も教育荒廃の腐った肥溜め、中でも占領下に謀られた教育委員会は早々に廃止すべき組織であり、教育委員会制度の廃止が教育改革に繋がり、延いてはいじめ問題解決にも繋がるだろう。

 会津の「什(じゅう)の掟」には「卑怯な振舞いをしてはなりませぬ」「弱い者を苛めてはなりませぬ」ということを訓えている。

「什」とは数人の子供が集まり、色々なことを話し合った集団で、決まり事は子供自ら考えて実践した。

 いじめというのは、いじめが卑怯なことや恥ずかしいものだという認識の欠落から行われているのが殆どで、大人が介入したところで解決は見ない。生徒自らが問題意識を以て話し合い、解決することが好い。

 子供達がこうしたいじめという卑しい行為に奔るのは、日本文化の喪失に起因してると言っても過言ではない。

 それは政治家の怠慢でもあるが、我々大人の責任でもある。いじめで自殺した生徒も、意味も分からずいじめた側も戦後教育の被害者でもあるのだ。

 いじめられて自殺するくらいなら報復しなさい。反撃もやらないなら学校なんぞ行くな。勉強なんてやる気があれば何処でも出来る。

 その昔、右翼現役時代「日教組撲滅」のビラを都内中に貼った。そのビラの一つに「どんな子も みんな日本の 大事な子!」というのがあった。

 子供達は日本の宝だ。どんな出来の悪い子供であっても、大人達が優しい目で、そして時には厳しく、慈愛を持って見守ってやらねばならない。

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2017年12月26日

我が国は正に「天皇国日本」。これこそが万古不磨の大原理大原則である

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 現憲法下で明記されている国事行為を全うすることが難しくなったと御発露遊ばされ、安倍は「国事行為を軽減する有識者会議」を発足するも、「生前退位」という意味不明の言葉が躍り、天皇譲位は避けられない状況を作り上げられた。

 畏くも天皇陛下は歴史が証明している通り、憲法以前の御存在であらせられ、憲法が在って天皇が存在せられるものではない。

 国事行為が困難ならば、皇太子殿下や秋篠宮殿下が輔佐する環境を作れば好かっただけで、また憲法に明記されてる国事行為を改めれば好かっただけのこと。

 然し乍ら、安倍亡国政府はあろうことに皇室典範に手を付け、陛下の譲位を附帯し、皇太子の即位に当たっての大嘗祭も、現憲法に明記していないことで行わない。その他の皇室に関わる行事も特例法という姑息な手段で乗り切るつもりだ。

 我が国は天皇即日本であり日本即天皇である。これ即ち、明治天皇が教育勅語の中に於いて「世々その美を済せる国體の精華」と御諭しになったところであり、万邦類い無き「天皇国日本」の真姿である。

 欽定明治憲法(大日本帝国憲法)の第1条に「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と在ることは、万世一系という歴史的事実と、我が国の本来在るべき姿を明示されたものと謹解する。

 安倍政治を盲信し、自民党を支持した多くの自称保守派や自称愛国者らは、安倍政権下で憲法改正が恰も成立するかの様なはしゃぎぶりだったが、安倍の目論む憲法改正は現憲法を認め、帝国憲法への復元改正を不可能にするものだ。

 絶対安定多数を占めた第三次安倍政権が発足すると、憲法改正への国民の理解を得る為の取り組みを強める意向を示し、先ずは憲法96条の改正を目論んだ。

 第96条の改憲発議要件を「国会議員の3分の2以上」から「2分の1」に緩和するらしいが、安易な発議条項緩和は、万が一、革命政権が樹立されれば天皇条項をも廃止され国體の破壊に繋がる危険を孕んでいる。

 憲法改正というと9条が問題にされるが、9条こそが重要だと位置付けしている点では、自民党議員や保守派や日本会議に洗脳された自称・愛国者というのは、「9条の会」を始めとした誤(護)憲派らのバカらと大して変わらない。

 尤も、安倍の憲法改正論は保守票を取り込むリップサービスでしかないが、こうした国體を破壊しかねない「とりあえず憲法改正派」というのはインチキ保守、インチキ右翼というのが正しい。

 その証拠に、対北朝鮮や尖閣問題といった領土主権ではあれだけ騒いでいながら、国體や皇統断絶に関わる「生前退位」に沈黙し、そして同調した。

 更には、豊葦原瑞穂の国・日本を崩壊に導く「種子法廃止法案」や「農業競争力強化支援法」、また残留農薬基準の大幅緩和という、正に我が国農業の危機に対しては何ら抗議の声を上げることは無かった。保守派や右翼は何を死守するのか。

 我が国は正に「天皇国日本」。これこそが日本国民として肝に銘じ、忘れてはならない万古不磨の大原理大原則である。

 現憲法は帝国憲法の改正であり、現憲法を改正するというのなら第96条の改正などという姑息な手段ではなく、現憲法が帝国憲法七十三条に基付いて改正された事実に刮目し、現憲法を破棄し帝国憲法の復元・改正こそ目指し、天皇国日本を盤石の安きに置かなければならない。

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2017年12月25日

日本中央競馬会のJRAって日本赤軍(ジャパン・レッド・アーミー)と同じだね(笑)

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 日本中央競馬会(JRA)は、政府が導入することを決めたカジノ法案(統合型リゾート施設)を踏まえ、ギャンブル依存症対策として、今月28日より依存症の疑いのある人の家族の依頼で投票権購入を拒否出来る制度を導入するという。

 競輪・競馬やボート、オートレースなどをギャンブルと非難するが、カジノ法案に反対する連中が「負けた人のカネが収益になるというのが問題」だと言うであれば、国内最大のギャンブルはそれこそパチンコだろう。

 だが何故か、カジノ法案に反対する連中は「パチンコはギャンブルではない」という。コレ正しくダブルスタンダードの典型でもある。

 ギャンブルとは博打や賭け事だけではなく、株などの投機もギャンブルだし、結婚もある種のギャンブルだろう(笑)

 毎日の様に新聞折込に入ってくるパチンコ屋のチラシには「パチンコ・パチスロは適度に楽しむ遊びです」という白々しい広告を目にするが、パチンコに限らず公営ギャンブルも己の器量以上にのめり込んではダメだということに尽きる。

 競馬や競輪などの公営ギャンブルより、民間企業のパチンコで家庭崩壊に陥った人の方が断然に多い。競馬は週末だけだが、パチンコは毎日なので猛省する機会がない、だからダラダラと続けてしまうのだ。

 依存症になる人というのは金銭欲が逞しく、根がだらしないのに自分に甘い人が多い。大体、賭け事は負けるということを理解していないのでは(笑)

 別に競馬や競輪などだけではなく、株などの投資や投資にしても同じで「もっと儲けたい」「負けを取り返したい」と、のめり込んでしまう。

 逆にギャンブルに嫌悪感を抱き、或いは受動喫煙がどうたらこうたらとタバコに対して敵意を剥き出しにする人というのは、往々にして鷹揚さが足らない人が多い。気持ちに余裕が無いから相手に厳しく当たる。

 人間、自分を律し、厳しくするのは好いが、相手にも厳しく当たると窮屈でイケません。ハンドルに遊びがないと危険な様に、やはり「遊び」という余裕は大事なことだ。テレビに登場する貴乃花親方を見てると余計にそう思う(笑)

 かといって、こういうギャンブルもタバコもやらない人というのは立派な人かというとそうでもない。下半身にだらしなく女好きが多い。保守派として持て囃されてる荒川区議の小坂某などを見てると熟熟そう思ってしまう(笑)

 何事も自分でやらないことには分からない。昨日は有馬記念だったが、10万人もの人が競馬場を訪れ、何千万人という人がキタサンブラックの勝利に感動した。この多くの喜びを否定して依存症ばかりを取り上げるのは本末転倒。

 斯くいう愚生も週末になれば競馬のメーンレースには参戦するし、競輪も月に数回あるG3以上のレースの最終3レースに参戦している。

 懐具合が芳しくないのでネット口座の残高を気にしながら細々と楽しんでいるが、ストレス解消や小さな喜びを得るには持って来い。

 掛け金が多いと負ける時も損害が大きくなって、ストレスが溜まり、負けを挽回しようと依存症に陥る。何事も過ぎたるは猶及ばざるが如し。

 要は、己の器量以上なことをやって身を滅ぼしているのだ。そういう意味では、馬券や車券の買い方一つでも、その人の性格や人となりを知ることが出来ます。今度、競馬場に同道しませんか。ってか、中央競馬会のJRAって、日本赤軍(ジャパン・レッド・アーミー)のJRAと同じだね。呵呵大笑。

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2017年12月24日

仏教にしてもキリスト教や新興宗教にしても「宗教」とは正に流行という病気でもある

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 日本人というのは戦後、米国の価値観を植え付けられ、それが当たり前だと思って来た。建国記念日を否定し、天皇誕生日よりキリスト生誕を祝い、新嘗祭よりハロウィンといった具合。

 我が国に古より伝わって来た「神道」は、こうした世界の中から生まれた。神と共にあるから「惟神(かんながら)」という。

 新羅万象の全てが、山の神、海の神、森、川、泉、石ころや水・・・全てのカタチある物やそして人も、その神の在る景色の一部に過ぎず、これこそが八百万の神である。

 その後、仏教が伝来する。仏教も当時は新興宗教であり、昔から人々は流行に敏感で瞬く間に普及していった。

 日本人の心の奥底には随神の教えがあるが、一方で仏教的価値観が事の善悪や行動の指針にもなっているのも確かだろう。

「宿命」という認識は仏教の教えからのものでもあり、それを仏教では「宿業(しゅくごう)」とか「宿世(すくせ、しゅくせ)」という言葉で表される。

 これは「生きる上で、自分の力ではどうにも出来ない過去に制約を受けているからどうしようもない」という発想である。

 仏教には「目の前にある状況は何らかの原因で起こっていることであり、この状況も何らかの原因となって別の結果を生み出す」という思想が根本にあり、それを「縁起(えんぎ)」という。

「因果応報」「悪因悪果」というが、今生きている自分は、自分が知らぬ過去によって決められているので自分ではどうしようもない。

 自分の死後も自分でもどうなるかは分からない、死後は「仏の世界」に導かれる、という一種の洗脳から、日本人は自分一代の生涯ではなく、過去と未来にも想いを巡らせる様になった。

 これは仏教の教えにより「永遠という観念」を手に入れたとも言える。仏教とは現世利益を与えてくれる恩恵の神という捉え方である。

「源氏物語」は、主人公である光源氏を中心に様々な恋が「宿世」として捉えられている。男女が出会うのも「宿世」なら、求愛も「宿世」。要は、不倫なんかも過去の導きから生まれた「宿世」ということになる(笑)

 この仏教的「宿業」「宿世」の考えは「自分の力ではどうしようもない」という一種の開き直りに繋がったのも事実。

 平安時代末期「仏の道が衰え、悪が横行する世になる」という「末法思想」が流行する。これをしても宗教とは正に流行という病気でもある。

 天皇誕生日よりキリスト生誕を祝う現在の風潮も、戦後の米国による洗脳の現れなら、そんな流行も廃れるのは時間の問題か、否否未だ未だ続くのか。惜しむらくは後者の方だろう。呵呵大笑。

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2017年12月23日

明治天皇と憲昭皇太后の御遺徳を偲び創建された神社の参道のイルミネーションに違和感

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 本日は天皇誕生日。皇国臣民としての喜びこれに優るものなし。謹んで陛下の弥栄と長久を祈念する。日本国民にとって天皇誕生日より盛り上がるのは何故かキリスト生誕を祝うクリスマスイブ。

 ということで街はクリスマス商戦一色。明治天皇と憲昭皇太后の御遺徳を偲び創建された神社の参道もイルミネーションで飾られる。天皇を戴く我が国にはそぐわない景色だが、まぁイベント好きな日本人らしい(笑) 

 敬虔なカトリック教徒でもないのにキリスト生誕を祝い、大晦日には寺で除夜の鐘を撞き、元旦には神社に初詣に行き、年賀状には元号を記す。ホント日本人とは実にいい加減というか、実に大らかな民族だ(笑)

 キリスト生誕を祝うのは結構だが、日本には日本の神が存在する。それを知るには「古事記」が好い。最近はマンガ本や現代語訳の本も多く出ているので、クリスマスケーキを買う気分で気軽に購入して頂きたいものだ。

「古事記」の書き出しは「天地創めて發けしとき高天原(たかまのはら)に成りし神の名は天御中主神(アメノミナカヌシノカミ)、次に高御産巣日神(タカミムスビノカミ)、次に神産巣日神(カミムスビノカミ)、この三柱の神は皆獨神と成りまして身を隠したまいき」と在る。

「造化三神」「神代七代」や「伊邪那岐(イザナギ)」と「伊邪那美(イザナミ)」が生んだとされる神は三十五柱に及ぶが、キリストやマホメット、孔子などと同様にこういう神々も日本人なら知っておくべきだろう。

「古事記」にはこうした神々が登場する。筆録した人物は太安麻呂(おおのやすまろ)。日本で最初に書かれたとされる書籍で、語り部の稗田阿礼(ひえだのあれ)が暗誦していた「帝紀」「旧辞」を基に編纂されたものとされている。

「古事記」は読む人によって感じ方も違うし、古代人が何を言わんとしたのかは捉え方も夫夫で、愉しい古典だと思う。

 西洋の神が天地創造の神で唯一絶対の不変の存在と描かれているが、我が国の神々は宇宙の後に生まれたと「古事記」では描かれいる。

 何気ないことだが、我々の祖先は唯一絶対の神が世界を意のままに創造したのではなく、それ以前の「無」の時間、つまり「ビックバン」以前の世界を想定していたというこの教えは驚くほど科学的でもある。

「高天原」とは「三次元世界」を表しており、「高」は高低の差を示す縦軸。「天」は空間であり時間。「原」は無限に水平に広がり行く横軸。

「古事記」には我々日本人の先祖の歩んできた歴史が比喩を駆使して活き活きと描かれ、同時に日本語本来の美しさも感じられる。

 一見難しそう漢字が使われてはいるが、日本語が未だ完成していない時代に作られたものなので漢字自体にはそれほど意味はない。

「音」を頼りに読み解いていくことが大切で、日本語の「言葉」とは「言ハ」であり、「コト」を表現する言語である。

 これは他国の言語には見られない特徴で、一つの言葉に多くの事柄を含めて伝え合う日本独特の文化であり、「古事記」の文章の中に在る「こと」を探って読み解くことが大事で、夫夫その感じ方が違ってもそれはそれで好いのだ。

 日本神話の特徴は、神でも失敗や過ちを起こすということ。外国では神が失敗や過ちを起こすことなど考えられないことだが、これだけでも日本の神々というのは愉快で、親しみを感じてしまう。

 クリスマスが終わると年末年始に向けて街の様相も変わり、正月に向けまっしぐら。年末を控え夫夫悩みも尽きないが、神様でも失敗はするのだから、人生もっと気軽に行こうじゃありませんか。呵呵大笑。

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2017年12月22日

天皇陛下の御地位および陛下の御存在は動かすべからざるものである(東条英機の遺言書より)

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 昭和23年12月22日夜、死刑執行の数時間前に、東京巣鴨において、教誨師の花山信勝師の前で東条英機が遺言書を朗読した。以下転載。(一部校正してます)

 開戦の時のことを思い起こすと実に断腸の思いがある。今回の処刑は個人的には慰められるところがあるけれども、国内的の自分の責任は、死をもって償えるものではない。

 しかし国際的な犯罪としては、どこまでも無罪を主張する。力の前に屈した。自分としては、国内的な責任を負うて、満足して刑場に行く。ただ同僚に責任を及ぼしたこと、下級者にまで刑の及びたることは、実に残念である。

 天皇陛下および国民に対しては、深くおわびする。

 元来、日本の軍隊は、陛下の仁慈の御志により行動すべきものであったが、一部あやまちを生じ、世界の誤解を受けたるは遺憾である。日本の軍に従事し、倒れた人および遺家族に対しては、実に相済まぬと思っている。

 今回の判決の是非に関しては、もとより歴史の批判に待つ、もしこれが永久の平和のためということであったら、もう少し大きな態度で事に臨まなければならぬのではないか。この裁判は、結局は政治裁判に終わった。勝者の裁判たる性質を脱却せね。

 天皇陛下の御地位および陛下の御存在は、動かすべからざるものである。天皇陛下の形式については、あえて言わぬ。存在そのものが必要なのである。

 それにつきかれこれ言葉をさしはさむ者があるが、これらは空気や地面のありがたさを知らねと同様のものである。東亜の諸民族は、今回のことを忘れて将来相協力すべきものである。

 東亜民族もまた他の民族と同様の権利をもつべきであって、その有色人種たることをむしろ誇りとすべきである。インドの判事には、尊敬の念を禁じ得ない。これをもって東亜民族の誇りと感じた。

 今回の戦争にて、東亜民族の生存の権利が了解せられはじめたのであったら、しあわせである。列国も排他的な考えを廃して、共栄の心持ちをもって進むべきである。

 現在の日本を事実上統治する米国人に一言するが、どうか日本の米国に対する心持ちを離れしめざるように願いたい。

 また、日本人が赤化しないように頼む。東亜民族の誠意を認識して、これと協力して行くようにしなければならぬ。実は、東亜の多民族の協力を得ることができなかったことが、今回の敗戦の原因であると考えている。

 今後日本は米国の保護の下に生活していくのであるが、極東の大勢はどうであろうか。終戦後わずかに三年にして、アジア大陸赤化の形勢はかくのごとくである。今後のことを考えれば、実に憂なきを得ぬ。もし日本が赤化の温床ともならば、危険この上ないではないか。

 日本は米国よりの食糧その他の援助を感謝している。しかし、もしも一般人が自己の生活の困難や、インフレや、食糧の不足などを米軍の日本にあるがためなりというような感想をもつようになったならば、それは危険である。

 実際にかかる宣伝をなしつつある者もあるのである。よって、米軍は日本人の心を失わぬように注意すべきことを希望する。

 米国の指導者は、大きな失敗を犯した。日本という赤化の防壁を破壊し去ったことである。いまや満州は赤化の根拠地である。朝鮮を二分したことは東亜の禍根である。

 米英はこれを救済する責任を負っている。従って、その意味においてトルーマン大統領が再任せられたことはよかったと思う。

 日本は米国の指導にもとづき武力を全面的に放棄した。それは一応は賢明であるというべきである。しかし、世界が全面的に武装を排除していないのに、一方的に武装をやめることは、泥棒がまだいるのに警察をやめるようなものである。

 私は、戦争を根絶するには、欲心を取り払わねばならぬと思う。現に世界各国はいずれも自国の存立や、自衛権の確保を説いている。これはお互いに欲心を放棄していない証拠である。

 国家から欲心を除くということは、不可能のことである。されば世界より戦争を除くということは不可能である。結局、自滅に陥るのであるかもわからぬが、事実はこの通りである。

 それゆえ、第三次世界大戦は避けることができない。第三次世界大戦において、おもなる立場に立つものは米国およびソ連である。

 第二次の世界大戦において、日本とドイツが取り去られてしまった。それゆえ、米国とソ連が直接に接触することになった。

 米ソ二国の思想上の相違はやむを得ぬ。この見地からいうも、第三次世界大戦は避けることはできぬ。第三次世界大戦においては、極東がその戦場となる。この時にあたって、米国は武力なき日本をいかにするのであろうか。

 米国はこの武力なき日本を守るの策をたてなければ、また何をかいわんや。そうでなしとすれば、米国に何らかの考えがなければならぬ。米国は、日本八千万国民の生きてゆける道を考えてくれねばならない。

 およそ生物としては、生きんことを欲するのは当然である。産児制限のごときは神意に反するもので、行うべきではない。なお言いたきことは、最近に至るまで戦犯容疑者の逮捕をなしつつある。

 今や戦後三年を経ておるのではないか。新たに戦犯を逮捕するというごときは、即時にやめるべきである。

 米国としては、日本国民が正業につくことを願い、その気持ちでやって行かなければならぬ。戦犯の逮捕は、我々の処刑をもって、一段落として放棄すべきである。

 戦死傷者、抑留者、戦災者の霊は、遺族の申し出があらば、これを靖国神社に合祀せられたし。出征地にある戦死者の墓には、保護を与えられたし。従って遺族の申し出あらば、これを内地に返還せられたし。

 戦犯者の家族には、保護を十分に与えられたし。青少年の保護ということは、大事なことである。近時いかがわしき風潮は、占領軍の影響からきているものが少なくない。この点については、わが国古来の美風をも十分考慮にいれられたし。

 今回の処刑を機として敵、味方、中立国の罹災者の一大追悼会を発起せられたし。もちろん、日本軍人の間に間違いを犯した者はあろう。これらについては衷心、謝罪する。

 これと同時に、無差別爆撃や原子爆弾の投下をなしたことについて、米国側も大いに考えなければならぬ。従って、さようなことをしたことについては、米国側も大いに悔悟すべきである。

 最後に軍事的問題について一言するが、我が国従来の統帥権独立の思想は確かに間違っている。あれでは陸海軍一本の行動はとれない。

 兵役については、徴兵制によるか、傭兵制によるか考えなければならぬ。我が国民性を考えて、再建の際に考慮すべし。

 教育は精神教育を大いにとらなければならぬ。忠君愛国を基礎としなければならぬが、責任感をゆるがせにしてはならぬ。この点については、大いに米国に学ぶべきである。

 学校教育は、人としての完成を図る教育である。従前の醇朴剛健のみでは足らぬ。宗教の観念を教えなければならぬ。

 欧米の風俗を知らせる必要もある。俘虜のことについても研究して、国際間の俘虜の観念を徹底せしめる必要がある。

 以上が、死刑執行の前日に朗読した遺言書の摘要である。

 今を生きる我々は、改めて、先人が国家の命運を賭けて戦った大東亜戦争の真実と意義を考えねばならない。合掌。

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2017年12月20日

社会は肉体の安全を保障するが、魂の安全は保証しない(三島由紀夫)

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 法務省は19日、死刑囚二人の死刑を執行した。その一人は事件当時少年だった関光彦。その残虐さに戦慄を覚え、何故に今迄、刑の執行を躊躇していたのか不思議でしょうがない。正に政治家の怠慢以外にない。

 刑事訴訟法では、死刑確定から六ヵ月以内の執行を定めており、何れも六ヶ月以内に検察庁が法務大臣に「死刑執行上申書」を提出し、規定通り押印し、法相の命令から5日以内に執行されなければならない。と定められている。

 法務大臣の死刑制度への心情なんぞ関係ない、法務大臣の任を享けたのならば覚悟を以て大臣としての職務を遂行するべきで、それも出来ないのなら法務大臣の就任は拒否するべきだろう。

「死刑制度」を容認する国民が80%以上もいるのは、国が遺族に代わって遺恨を晴らして欲しいという気持ちの顕れに他ならない。政治家は感情的死刑廃止論に与することなく、刑事訴訟法に則り粛々と刑の執行をすれば好いだけのこと。

 冤罪の疑いがある受刑者が再審請求するのは分かるが、唯「死にたくない」という理由で再審請求していることは異常事態としか言いようがない。

「社会は肉体の安全を保障するが、魂の安全は保証しない」と言ったのは三島由紀夫。大事にしなければならないものは肉体より魂、精神性である。

 人権派を自任する弁護士や死刑廃止を訴える人は、これと同じ様に「生命は地球より重い」と言わんばかりに肉体だけを守ろうとする。

 無神論の共産主義に被れながらも「人を裁けるのは神のみだ」というキリスト教的欧州思考に嵌ってるのも御粗末だが、安っぽい感傷に浸って悦に入ってるとしか思えないし、滑稽にも見える。

 まぁこれは、死生観の違いだろうが、残虐な犯行をした者が、死刑廃止で国法により生命を保証されるというのも如何なものか。

「死刑制度」とは、死刑囚への大慈悲である。「死刑制度」は、他人を犠牲にした犯罪への相当の審判であり、それは無駄に生きて来た人生にピリオドを打つ為の優しさでもある。「生」に拘るより「死」を以て償うべきだ。

 日本人とは何事も潔さが肝要で、死刑囚らの多くは「殺したい」という衝動に駆られて実行した訳で、今更「死にたくない」と命乞いとは情けなや。

「心の死ぬことを恐れず、肉体の死ぬことばかり恐れている人で日本中が占められているならば、無事安泰であり平和である」とはこれも三島由紀夫の言葉。

「死刑論」ひとつでも喧々諤々の論争が繰り広げられる。だが、こうした論争を見てても日本というのは「平和なんだなぁ」と熟熟実感する。

 まぁこれも平和ボケの一つには違いない。「平和ボケ」とは段階の世代への揶揄だが、高度成長からバブル時代にかけて金儲けや飽食に狂奔してきた世相や、空想的平和論を弄ぶ連中を冷やかした言葉でもある。

 こうした風潮は戦後民主主義者や無自覚左翼に蠢蠢しているが、これは「平和」や「人権」「死刑廃止」「反原発」を訴える連中共通のものでもある。

 週末の23日は天長節であると同時に、東条英機を始めとした所謂・A級戦犯とされた7名の方々が死刑執行された日である。東京裁判の不当性は扨て置き、彼らはその死を諒とし、死を以て敗戦の罪を償ってくれたのである。

「死刑制度廃止」を訴える左翼陣営からは、この「戦犯」の汚名を着せられて死刑に処せられた英霊に対する不当性を語られたことはない。

 これはA級戦犯に留まらず、海外の地で正式な裁判を受けることなく処刑されたB・C級の戦犯と言われる方々も同じで、この処刑こそ人道に反するものであり、人権無視の暴挙の最たるものではないのか。

 死刑執行前日の昭和23年12月22日夜、東京巣鴨に於いて、教誨師の花山信勝師の前で東条英機閣下は遺書を朗読した。参照(東条英機の遺言書)http://blog.livedoor.jp/cordial8317/archives/52044601.html

 今こそ極東軍事裁判の不当性を明らかにし、「戦犯」との汚名を着せられ続けている英霊の方々の名誉恢復を急ぐと共に、先の大戦で犠牲になられた方々の精神性、そして魂から発せられた思いを、後世に伝えて行かねばならない。

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2017年12月19日

「種子法廃止法案」の成立と「農業競争力強化支援法」や「残留農薬基準の大幅緩和」は正に農業の危機

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 現在の我が国は、豊葦原瑞穂の国の誇りも無く、農耕民族としての自覚を喪失し、「農」をも新自由主義の営利至上主義で勘定し、農業を以て立国の基本とするという「農本主義」は国民の殆どが理解していない。

 我が国は戦後GHQの策謀によって農本主義的国家観は排除され、大輸出国の米国の戦略に嵌ったまま米国の価値観が我が国の価値感だと錯覚してしまった。

 その典型といえるものが「主要農産物種子法廃止法案(種子法廃止法案)」である。種子法は米、麦、大豆など主要農産物の品種改良を国や都道府県の公的研究が行い、良質で安価な種子を農家に安定的に供給してきた法制度である。

 種子法の廃止は日本古来の種子の廃止であり、これつまり食の安全と食料安全保障を廃止すると同じであり、畢竟、豊葦原瑞穂国という国柄の崩壊の序章であるといえるものだったが、何故か保守派や自称愛国者らは沈黙した。

 種子法廃止法案は、別名「モンサント法案」とも言われている。モンサント社はベトナム戦争で悪名高い枯葉剤「エージェント・オレンジ」を開発し「ダイオキシン」を撒き散らした世界最大のバイオ化学会社である。

 種子法廃止法案成立により、我が国は米国モンサントに食料を依存することになる。つまり、種子を輸入する国(米国)が不作になった場合や政治的な問題が重なり、種子の売り控えということになれば我が国の農業そのものが崩壊するという危険を孕んでいるということでもある。

 簡単に言えば、我が国の農業はモンサントに握られてしまったということで、モンサントと提携する前経団連会長で住友化学工業の米倉弘昌は正に売国奴であり、こうした営利至上主義の経済界に与した安倍もまた然り。

 種子法廃止法案の追加措置として「農業競争力強化支援法」という法案が国会を通った。驚くことに外資等の規制はしておらず、これも種苗メーカーであるアグリバイオビジネス企業が農業に参画する出来る為のものであることは明らか。

 つまり、我が国の公的研究機関や各県や自治体に在るハイテクプラザなどで培った研究資料やデータが外国資本に無償で提供され、それを盗用され、一部を変更することで特許などが容易に取得される危険を伴うということでもある。

 住友化学工業の米倉弘昌はモンサントの系列企業であるベーラントUSA社との長期契約を結んでいるが、モンサントが生産する強力な除草剤「Roundup(ラウンドアップ)」に、耐性を持つ遺伝子組み換え種子をセットで販売している。

 ラウンドアップの有効成分名はグリホサートイソプロピルアミン塩。グリシンの窒素原子上にホスホノメチル基が置換した構造を持つ。接触した植物の全体を枯らす(茎葉)吸収移行型で、殆どの植物にダメージを与えるという。

「グリホサート」という成分は除草剤の殆どに含まれているという。粗全ての植物を枯れさせる高い効果があり、安価なのでホームセンターなどで手軽に入手出来て、あらゆる場所で使用されているという。

 日本では栽培中の植物に散布することは出来ないというが、小麦の様な遺伝子組み換えではないない作物には、自然に枯れて実が乾燥するのを待たなくても、このグリホサート入りの枯葉剤を散布して強制的に枯らしてから収穫するという。

 ここで問題になるのはグリホサートの残留農薬の数値だが、なんと政府はこの農薬残留基準を緩和させる動きがあるというから驚く。

 厚生労働省の「食品中の農薬の残留基準」の改正案では、安倍が妄信する環太平洋連携協定(TPP)や自由貿易協定(FTA)の流れで、外国の基準に合わせて残留農薬基準を大幅に緩和することは既定路線となっている。

 安全安心と言われた我が国の農作物が「種子法廃止法案」の成立と「農業競争力強化支援法」や「残留農薬基準の大幅緩和」は正に農業の危機であると同時に葦原瑞穂国という国柄の崩壊である。

 我が国の保守派や自称・愛国者らを見ていると対北朝鮮や中韓に対しての領土の防衛ばかりで、農耕民族としての自覚を喪失し、豊葦原瑞穂の国に生まれた者として農業を以て立国の基本とするという考えは持ち合わせてはいない。

 こうした愚策に加え、皇統断絶を謀る勢力に阿り、只管亡国に奔る安倍を糾弾する声は全く聞こえない。安倍の放題は、安倍信者や安倍ヨイショの営業保守と、なんちゃって愛国者らの賜物でもある(苦笑)

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2017年12月18日

「南京大虐殺犠牲者30万人」と「大韓民国臨時政府の対日宣戦布告」という大ウソで反日の連携(苦笑)

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 文在寅大統領は追従外交中の重慶で、第2次大戦中に設置された「大韓民国臨時政府」の庁舎跡を視察し、習近平国家主席に「抗日運動」関係施設の復元に協力するよう要請したという。まあ、哀願したというのが真相か。

「南京事件」をでっち上げる中国共産党と、国際的に認められていない「大韓民国臨時政府」で連携しようとは実に御粗末な反日活動と嗤う他はない。

 韓国の国是は「反共」と「反日」だったが、共産主義者でもある文在寅は「反共」は放り出して「反日」のみに躍起になっている。

「反日」も「反共」も竹島の不法占拠も「大韓民国臨時政府」を標榜した初代大統領・李承晩が実行したものだ。その李承晩といえば後に不正が発覚し、学生デモにより失脚。ハワイに亡命した犯罪者の愚策をいつまで信じるのか。

 韓国の愛国心は安っぽい「反日」のみで​、未だに李承晩に因る洗脳から未だに抜け出せない状態。これは米国の占領政策によって自虐史観を植え付けられた我が国左翼や自称・文化人と同じで気の毒とも言えなくもない(笑)

 李承晩は日本統治時代より「大韓民国臨時政府」を標榜し、米国内や海​外で反日活動を行ってた人物で、戦後、米国の威光で初代大統​領に就任した。李承晩が米国の傀儡と言われる所以でもある。

 韓国人は李承晩らが創り上げたウソの歴史を鵜呑みにし、愛国者​気取りで憎悪を剥き出しにするが、我が国へ歴史認識を云々言​う前に韓国こそ冷静に公正な歴史を学ぶべき時に来ている。

 韓国のウソの原点は李承晩の「大韓民国臨時政府」のウソに在る。​国定教科書でも「対日宣戦布告」等を過度に強調する余り、ウソに​ウソを重ねるしかなくなっているのが現状で、正に「屋上屋を架す」典型的な例でもある。

 今更、間違いを認める訳にはいかなくなってしまっているというのが真相なのだが、日清戦争も朝鮮を巡る戦いだったということも理解していない。

 日露戦争後、日韓関係の悲劇の現実が「日韓併合」であり、大東亜戦争​も「日本人として共にアジア解放の聖戦に立ち上がった」というのが歴史的真実である。

 そうした歴史的事実を無視して「大韓民国臨時政府として対日宣戦布告し抗日戦争に​参加した」などというウソを教えるからややこしくなるのだ。

 韓国は憲法前文で「大韓民国は3.1運動により建てられた大韓民​国臨時政府の法統を受け継ぐ」と規定している。だが「大韓民国臨時政​府」は国際的にも認められておらず、サンフランシスコ講和条約への​署名も認められなかった。

 こうした国際的な常識を無視し「我々の手で独立を勝ち取った」と​いう神話を捏造してしまったところに韓国の悲劇が在る。

「南京大虐殺犠牲者30万人」と「大韓民国臨時政府の対日宣戦布告」という大ウソで反日の足並みを揃える中国共産党や韓国と友好なんぞクソ食らえ。

 性悪な韓国も貧坊ちゃまの北朝鮮も、いっそのこと中共に併呑されてしまった方が外交的に楽だと思っているのは愚生だけではあるまい(大笑)

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2017年12月17日

「日本会議」に見る我が国の保守派の認識不足と軽佻浮華

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 先日、実家に顔を出したら店のテーブルに、実兄も会員でもあり定期購読してる日本会議の冊子「日本の息吹」が置いてあり目を通してみた。

 日本会議は周知の通り保守団体であり、憲法改正や内閣総理大臣の靖国神社参拝や自衛隊を国防軍になどを主張しており、自民党の重要な支援団体の一つでもあり、自民党のシンクタンク的な存在でもある。

 歴史認識や教育改革、行政に入り込んだ男女共同参画社会などの愚策への疑問など共鳴する部分は大いにあるが、本丸ともいえる憲法改正や皇室問題への取り組みは根本的に間違っていると言わざるを得ない。

 今月号は「女性宮家」創設に反対する論文が掲載されている。女性宮家に反対までは別に問題はないが、女性皇族(内親王)が婚姻する場合、旧皇族の男系男子からの婿入り(養子)を容認している。

 論文は格式高く書かれていて一見問題は無さそうに見えるが、要は女性宮家を間接的に容認している様なもので、GHQに臣籍降下させられた旧皇族の皇籍復帰もせずに男系皇族を婿入りさせようとは本末転倒である。

 櫻井よし子や八木秀次などの評論家や学者らの多くが、これと同じ婿入りを主張しているが、男系男子が拒否した場合、或いは一般人が皇室に入る様なことになる可能性もあり、こうした認識不足が反天皇勢力に付け入られるのだ。

「臣下降下された皇籍離脱した旧皇族の皇籍復帰」の実現を図ることこそが皇統を盤石の安きに置く最善最良の策である。

「女性宮家」では祭祀が叶わない。旧皇族の復帰を図り、廃絶になった宮家(秩父宮・高松宮、女性皇族しかいない常陸宮と三笠宮)の祭祀を継承するには、女性宮家ではなく旧宮家を再興する以外にないのだ。

 大体「宮家」とは男系だからこそ宮家なのであって、「女性宮家」とはなんぞや。「女性宮家」とは正に近年の反天皇運動に見られた「生前退位」や、皇太子即位後に創設される「皇嗣殿下」という皇統の歴史にも存在しない意味不明の言葉もまた共産主義者による造語である。

 そうした共産主義者の造語を愛国者を気取る保守系団体が軽々しく使っていることに、我が国保守派の無知と限界を感じる。

「生前退位」という言葉が躍ったのも、高齢もあり憲法で明記されている国事行為が思う様に出来なくなったと吐露したことで、「生前退位」は避けられないという様な世論を形成して行ったことに始まる。

 陛下の御発露を受けて、安倍首相は「国事行為を軽減する有識者会議」を招集するもマスコミは「生前退位を実現する有識者会議」などと作為的に報道し、退位は既定路線であると国民を扇動し同意を得ることに成功した。

 保守派もまた「高齢であるし致し方ない」という様に譲位に与したが、天皇の存在は個人的な意思や政治が介入するべきではなく、国事行為の軽減を図る為に皇太子殿下や秋篠宮殿下が補佐出来る環境を整えれば好かっただけのこと。

 何れにしても譲位は避けられない。残すは皇統を盤石の安きに置くことが保守派としての務めであり、それには昭和天皇が最後まで反対された臣籍降下させられた旧皇族の皇籍復帰を成すこと以外にはない。

 我が国を崩壊に導くのは左翼勢力に非ず、安易な憲法改正を叫び、皇室典範に附帯し、瑞穂の國の崩壊を齎す種子法廃止法案を成立させ、新自由主義を盲信する安倍自民党や日本会議に見られる似非保守が国を亡ぼす最大勢力となる。

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2017年12月16日

尊敬はあくまでも醇乎たるべきものであり

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 幕末の英雄というと坂本龍馬や吉田松陰などを挙げる人は多いが、愚生的には長岡藩家老の河井継之助を置いて他にない。

 継之助を一躍有名にした司馬遼太郎の小説「峠」で、司馬は継之助を武士道倫理に生きた「最後の侍」だとして、その生き様を活き活きと描いている。茶屋遊びの場面を想像しても、人間味に溢れた武士だったと思っている。

 多くの歴史家も、継之助を東西の優れた軍事指揮者の一人に挙げているが、一方で長岡藩を要らぬ戦争へ巻き込んだとの批判があるのも確か。

 河井継之助、名は秋義、号は蒼竜窟。越後長岡藩士。「越(ほくえつ)の蒼竜」と称された継之助は長岡藩の近代化に努力した英雄である。

 継之助は、長岡藩士120石取りの代右衛門秋紀の子として生まれる。幼少の頃から腕白で、人の忠告を素直に聞かない強情張りで、それは大人になってからもその偏屈ぶりは変わらなかった。

 少年時代は、藩校で古義学(こぎがく)を学び、成長するとともに実践重視の「陽明学」へと傾倒。17歳の時に継之助は、鶏を裁いて、王陽明を祭る祭壇に鶏肉を供え、人民と藩是の為に立志し、誓明したという。

 青年期には読書に没頭し、良書を見つけると、その書だけを何度も読み返し、一字一句を書き留め暗記し、我が身の行動の規範と成したという。

 嘉永5(1852)年、継之助は江戸に遊学し、佐久間象山、古賀謹一郎に師事する。だが、象山の尊大さと勿体付けて理屈を捏ねる腹の曲がり具合が気に食わず象山から遠ざかったというが、何となく分かりそうだ(笑)

 継之助が生涯を通じて敬服した人物は、備中松山藩の儒者・山田方谷(ほうこく)。安政6(1859)年には、自ら松山藩まで足を運び、直接、方谷から陽明学を学び、藩政改革の方法を習得している。

 彼は、方谷を唯一「先生」と呼び、「希代の英雄」と讃え、方谷が唱える思想を熱心に学んだ。方谷に入門を乞うも中々承諾されなかった。漸く入門を許可されると「学問の講義は要りませぬ」と断ったという。

 師に学問を教わるより、起居を共にすることだけでも学ぶものが多いのことを継之助は知っていた。師と雑談し、その一挙手一投足を目に焼き付けた。

 書物を読み、暗記したところで意味はない。理論なんぞより、尊敬する人との雑談や所作、何気ないことから学ぶことこそ貴重であり得るものが多い。

 継之助に内弟子らは「何故に貴公は方谷先生と一緒に鍬を持たないのか」と詰られるも、継之助は「嫌いだからだ。今更、百姓の真似が出来るか」と応じた。

 内弟子らが「方谷先生を尊敬していないのか」と詰るも、継之助は「尊敬はあくまでも醇乎(じゅんこ)たるべきものであり、百姓を手伝うというのはおべっかに過ぎない」と開き直ったというから、かなりの削げ者だったのだろう。

「尊敬はあくまでも醇乎たるべきものであり」とは実に好い。愚生の周りを見渡しても、チョッと有名な人と見るや「おべっか」ばかりで、その心情や行動に「醇乎」さは乏しく、単に「ヨイショ」ばかり(苦笑)

 方谷は後に「河井は豪すぎる。豪すぎることが幸福な結果になるか、不幸を呼ぶか」と語ったという。だが、結果は残念ながら後者の方であった。

 1ヶ月半ほどの遊学であったが、別れの朝、継之助は対岸の街道の路上に土下座し、師匠の小さな姿を伏し拝んだ。人を容易に尊敬することのない不器用な男が土下座したのは生涯これが最初で最後だったという。 

 長崎などへも西国遊学を果たし見聞を広めると共に、会津藩の秋月悌次郎などとも交友を深め人脈を広げている。

 愚生も最近は慢性的不如意で放浪の旅に出ていないが、どんな「旅」でも人を大きくしてくれるものだと思っている。人との出会いに感動し、酒を酌み交わせば言葉は要らない。正に功名なんぞに意味はない。

「刮目して相対す」とか「人生意気に感じる」とはそういうことだ。

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2017年12月15日

赤穂浪士の仇討ちも、泉岳寺で腹を切らなかったのが落度と言うべきだ

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 赤穂浪士が吉良邸に討ち入りしたのは元禄15年12月14日とされているが、実際は旧暦の元禄16年1月30日だった。

 討ち入りの日は満月とされ、雪もあり明るい夜だったとさているが、元禄15年12月14日だと新月に近かったので暗かったのではと推測する。翌年1月30日だと粗満月で、映画などで語られてる情景に近い。

 赤穂浪士の精神的支柱となったのが、陸奥国会津若松城下生まれの山鹿素行(やまがそこう)と言われている。

「山鹿流軍学の祖」として知られているが、実は江戸時代に於ける武士道の理論を確立した人であり、山鹿の門人達が素行の談話を筆記した「山鹿語類」は日本人必読の著でもある。

 また、尊皇愛国の書として有名な「中朝事実」で山鹿は、世の学者の外国(主として漢土)崇拝を批判し、皇統の一貫を根拠に、「日本こそ万国に卓越した中華・中国と呼ぶに相応しい国である」と主張した儒学者でもある。

 これは「日本主義」と言われるもので、易姓革命で度々王朝が変わった漢土に対し「我が国は、天子の地位を侵す様な不義不道の者がいなかった為に皇統が一貫している」と、我が国の卓越性を強調した思想である。

 江戸時代267年の歴史の中で赤穂藩の様な理不尽な御家断絶や御家騒動は他にもあったが、唯一、赤穂藩の四十七士だけが「義士」と呼ばれ「武士道の華」と評価されたのは、山鹿素行の「正義の遂行」の本義に基づく教えが在ったからだろう。

 だが一方で、忠臣蔵の討ち入りに「大義」などではなく、単なる「打算」だと断じる批評家もいるのも事実。

 大石内蔵助は討ち入りで忠義心を示さなければ山科で帰農しそのまま埋もれただろうが、吉良を討ち取った結果、子孫は本家の浅野家に千五百石の高録で召し抱えられている。

 この事実をして「忠義ばかりでなく、子孫の将来まで考えて討ち入った」と断じているが、これもまた一理あり。「葉隠」でも、赤穂浪士の討ち入りに触れた部分があり、やはり批判的に書かれてある。

「赤穂浪士の仇討ちも、泉岳寺で腹を切らなかったのが落度と言うべきだ。それに主君が死んで、敵を討つまでの間が長過ぎる。もしもその間に、吉良殿が病死でもなされた時にはどうにもならないではないか」

 仇討ちというのは緻密な計画でやるものではなく、武士とは「即刻やられたらやり返す」というのが本道で、事の「成否」は問題ではない。成否よりも行為自体に意味が在るという。

 その上で赤穂の武士を「上方の人間は小利口だから世間から褒められる様にするのは上手である」と嘲笑している。

 赤穂浪士の討ち入りを打算的と見るか否かは夫々だろうが、「仮名手本忠臣蔵」が日本人の美学を現し、多くの国民から愛されているのは確かだろう。

 幕末から維新期の派閥、政論の対立による暗殺とその報復という面があったところから、この種の紛争を断ち切るのを目的に、明治6年(1873)2月、司法卿・江藤新平が「復讐禁止令(仇討ち禁止令。太政官布告第37号)」を発令。明治22年には「決闘罪ニ関スル法令」も発布され、敵討ちや復讐は禁じられた。

 仇討ちや報復を否定する風潮が浸透した結果、相手と刺し違えるくらいの仕返しをすれば好いものを、泣き寝入りした挙句に被害者側が自殺なんてことも日常茶飯事。学校でのいじめがその最たるものだ。

 自殺するくらいなら相手と刺し違えて遺恨を晴らすべし。呵々大笑。

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2017年12月14日

大和国は丈夫の国にて、古は、おみなもますらおに、習えり。故、万葉集の歌は、凡丈夫のてぶり也

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「万葉集の歌は、外国の思想的な影響を受ける前の純粋な日本の心で詠まれた歌である。だから万葉集こそが純粋な国意を伝える日本の聖典である」と説いたのは昨日も登場した賀茂真淵。

 真淵が、国学・歌論について記した書「にひまなび(新学とも表記される)」には「大和国は丈夫(ますらお)の国にて、古は、おみなもますらおに、習えり。故、万葉集の歌は、凡丈夫のてぶり也」と在る。

 多くの日本人は「万葉集」も「古今和歌集」も同じ文学的価値のものだと思っているが、真淵は「両者は大きく違う」という。

 前出の「にひまなび」の続きは「山背国はたをやめの国にして、丈夫もたをやめを習いぬ。かれ、古今和歌集の歌は、専ら手弱女(たおやめ)のすがた也」

 真淵は「古今和歌集」の歌は、儒教や仏教に毒され、技巧を弄した作品であり、「万葉集」の単純な写実から、素直ではない形式的な技巧と断じる。

「万葉集」の素直でな風景描写や率直な感情表現を「高く直き心」と説き、これこそが素朴で雄渾な日本人の魂であると評し、これを「ますらおぶり」と現した。

 対して平安時代(山背国)に成立した「古今和歌集」は、外国(とつくに)の影響を受けた歌風であると評し、これを「たをやめぶり」と呼んだ。

「手弱女(たおやめ)」とは、優しいとか、淑やかな、という意味もあるが、浮かれ女、遊び女、という意味もあり、要は大和国の「丈夫(ますらお)」ぶりを詠った万葉集に比べて、古今和歌集は女々しいと感じたのだろう。

 現代風に言えば万葉集は男性的であり、古今和歌集は女性的。つまり真淵の思想は男性優位であり、男女共同参画社会の現代に於ては、ジェンダーフリーを叫ぶ性的変質者らからは非難の対象だろう(笑)

 況してや古今和歌集に集録されている約1100首の歌は天皇の勅撰和歌集でもあり、今なら自称愛国者らからも糾弾されるに違いない(笑)

 真淵は「和歌は政治の根本であり、経世・経国に役立つもの」と教える。何故なら歌には人心を和らげ、世の中を和やかにする力があるからだという。

 真淵が「万葉集」研究に打ち込んだのは、趣味や文化研究でもなく、日本を佳い方向へ導く為の教えを模索していたのだろう。

 では、万葉集から何を学ぶか。それは万葉集で使われている古語を習得することだという。これが凡人の愚生には容易なことではない。ならばどうするか、要は万葉集を見様見真似で詠んでみることに尽きる。

「今、右翼にとっての真なる敵は右翼自身である。フィクサーを気取ったただの金権右翼、思想も信念も持たないゴロツキ右翼、詩心を持たない乞食右翼等等、我が内なる敵は多岐にわたる」と喝破したのは野村秋介。

 愚生は金権右翼団体に所属はしていたがカネに縁が無いゴロツキ右翼か、詩を詠もうにもどうも語彙に乏しく上手く詠めないから乞食右翼の両方か(笑)

「人真似上手は個性を想像する」という様に、何事も真似てみるというのはその道を極める上では重要なことでもある。尊敬する人の考えや所作などを真似することは悪いことではないし、後々己の個性にもなる。

「稽古」とは、技芸などを師から習い身に付けることをいうが学問も同じこと。稽古とは「古(いにしえ)の道を考える」ということであり、師や先達に学ぶこともなく、また古の教えも知らないで修業は出来ない。

 稽古の「稽」とは「考える」という意味があり、「古書を紐解いて古人の教えを学ぶ」というのが「稽古」の本来の意味だ。

 真淵は、古代の純粋な日本人の心を会得し復元する為に、万葉集で使われていた言葉を紐解いて蘇らせる。これは「心と言葉は直結した存在である」との考えで、古の人の心や思想、人倫が言葉に現れていると確信したからだろう。

 そのことによって「国意」を形成しようとしたのだ。この発想こそが国学の基本であり日本こそが世界で唯一正しい国であるとの確信に行き着くのだ。

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2017年12月13日

儒教などの外国の思想が輸入され「国意」に悪影響を及ぼしたからだ(賀茂真淵)

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「万葉集」の研究家でもあり、江戸中期、国学の基礎を確立した賀茂真淵は、支那の歴史と日本の歴史を比較した。

 易姓革命を見るまでもなく様々な王朝が権力抗争を繰り返して来た支那に対し、我が国の古の時代には大きな諍いもなく、大らかで自然な皇位の継承が成されて来たことに着目し、それを真淵は高く評価した。

 何故に古代の日本はそれ程までに平和であったのか。それは元々、日本人が道徳的に立派な人種であったからで、支那の思想は「中華思想」であり、「中国こそが世界の中心で、周りの国や人種というのは野蛮人である」と考える。

 支那人は自己主張が烈しく、本性は劣悪。他人への思い遣りに乏しく、規則を厳しくしないと統制出来ない。現在の中華人民共和国も共産主義を最高原理として崇め、人民に信仰の自由や言論、結社、出版等々の自由を認めないのはその為だ。

 方や日本人はどうだろう。謙遜や謙譲を知り、それが身に付いていたから細かい規則など無くても人倫の道が行なわれていた。

 真淵は古代の日本に理想郷を見る。そして古の日本人の美しい心を「国意」と表した。つまり国意とは儒教や仏教伝来以前の、日本の中だけで育まれた日本独自の倫理であると考えたのだ。

 政治にしても人為的で論理的な規則は必要なく、人々の心の中で国意が自然に働けば、それで平和になると訓えた。然し、実際の日本の歴史というのは平安時代後半からの権力抗争、鎌倉期以降の戦乱の時代と幾つのも乱が起きている。

 この歴史的事実を真淵は、「儒教などの外国の思想が輸入され、国意に悪影響を及ぼしたからだ」と説明する。つまり、日本人本来の心の美しさが歪んだのではなく、外からの邪悪な思想に染まってしまったから日本が悪くなったというのだ。

 真淵は、仏教や儒教を安易に享け入れた過去を反省し、国意を取り戻すべきだと訴えた。その具体的な方法とは「万葉集を知ること」だと説いた。

 現在の我が国を顧みれば、仏の教えもなく、儒教の教えもなく、単に米国の新自由主義を妄信し、頭にあるのは私利私欲。迷えるものはつまらぬ宗教に奔り、日本人は心の中の高貴さを失い、高邁な知性の磨きを忘れてしまった。

 右翼陣営を見渡せば、戦前の右翼と戦後の右翼は全く違う存在となってしまった。戦前の右翼というのは「国粋主義」的要素が強く、外国思想は全て悪と捉えるという考えであり、それは共産主義であろうが、資本主義であろうが、民主主義であろうが批判されるべき対象だった。

 右翼もそうした「大義」を忘れ、資本主義に溺れて金儲けなどに興じていれば、ヤクザが「仁侠道」を忘却し暴力団化した様に、国民からの信頼は失せ、必要価値のないものに成り下がって行くのは必然であろう。

 右翼の使命とは、日本の純粋性を曇らすもの、つまりは「共産主義」であろうが、「資本主義」であろうが、「民主主義」であろうが、我が国の国柄や国體を損ねる主義、思想に断固として対峙して行かねばならない。

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2017年12月12日

「この世は、あるがままで悟りの世界」と教えた「本覚思想」

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 愚生の場合、極楽浄土とは現世に在ると思っている。自分より劣る者に惜しみなく教え与え、難渋している者の相談に乗り、自分なりに如何にして助けてあげるか、少しでも安堵させるか、極楽浄土とは単にそういうものだと考えている。

「死後に極楽浄土(天国)がある」というのは、釈迦牟尼やキリストが、人の抱く死への恐怖を取り除く為に吐いた優しい嘘だと思っているし、死んだら「無」、地獄も天国も救いの為の教えでしかない。

「この世は、あるがままで悟りの世界」と教えたのが「本覚思想」。平安時代から鎌倉~室町時代にかけて仏教信者に人気のあった思想でもある。

「本覚」とは、悟りに至る為の清らかな知恵といった意味で、仏教では「その清らかな知恵は全ての者に備わっており、誰でも悟れる可能性がある」と教える。だが、可能性は可能性に過ぎず、現実に悟れるかどうかは分からない。

 これを「本覚思想」では、可能性ではなく、抑々人間の心に100%備わっていて、目の前の現実が「悟り」であり、仏の道だと教えている。

 元々、仏教は「全てのものは互いに関係があって、何かが別の何かの原因であり、結果である」という教えであり、所謂「縁起」という思想であり、「悪因悪果」や「因果応報」などというのがその一つ。

「悟り」とは本来、こうした縁起を理解することで、つまり「現実の意味を知る」とは「現実を受け入れる」ということでもある訳で、現実を見た儘で納得することそのものが「悟り」でもあるのだ。

 我が国は古来より随神(かんながら)の道、即ち神道という教えが根付いており、自然崇拝は当然のことで、我が身を包む自然の営みを「悟り」と認めた本覚思想は実に魅力的な仏教思想だったのだと思う。

 本覚思想には「死後に極楽浄土がある」という浄土思想とは相容れない。現実が浄土であり、愚生の極楽浄土への感覚に近い。

 この本覚思想の現実の肯定は「修行の軽視と否定」という問題もあり、どうしても堕落的になる。江戸時代になるとこの点が批判されて本覚思想は廃れて行ったのは、修行に重きを置く仏教が広まったからだろう。

 正に宗教とは流行(ブーム)に流されて来た歴史でもあるが、当世の新興宗教も仏や神の道というより単なる流行でしかない。本来「流行」という意味は「病気」の意味で使われた言葉で、信者はその熱に冒されているだけ。

 斯くいう愚生も、別に本覚思想の代表的な文献である「三十四箇事書」を読んだ訳でもないのだが、極楽浄土感や堕落的生活ぶりを肯定してしまってる生き方は、正に本覚思想からのものでは?と最近何となく気付いた(笑)

 ということで、皆さんも、葬式坊主から戒名さえ貰えば都合好く極楽浄土の世界に行けるなんてことは無いと思いますよ。呵呵大笑。

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2017年12月11日

爾俸爾禄 民膏民脂 下民易虐 上天難欺(戒石銘)

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 愚生の故郷・二本松市の霞ヶ城址に「戒石銘」という碑が在る。

 爾俸爾禄(なんじのほう なんじのろくは)
 民膏民脂(たみのこう たみのしなり)
 下民易虐(かみんはしいたげやすきも)
 上天難欺(じょうてんはあざむきがたし)

 その意味を要約すれば「貴達の俸給というのは人々の汗と脂の結晶である。だから人々を労わらなければならない。もし、人々を苦しめたりする様なことがあれば、必ず天の怒りに触れるであろう」

 これは二本松藩第七代藩主・丹羽高寛が、藩の学者・岩井田昨非の献策によって藩庁前の自然石に藩政改革と綱紀粛正の指針として建てたものだ。

 右翼現役の頃、団体(防共挺身隊)のビラにこの「戒石銘」を記し「政財官界粛正」を訴えたこともあった。

 中々いいビラだったと我ながら思ったが、最後の「難欺」が「欺難」になってると公安から指摘されるも、どうせ見る奴も少ないし読んでる奴は分からないだろうからそのままにしといた(笑)

「戒石銘」は、先日の市長選挙で返り咲いた三保が好きで、以前の現職時代にはこの碑を拓本したものを恵贈しており、愚生も貰ったことがある。

 三保というのは言葉が上手く、先日も市長としての心構えを問われると、上杉鷹山公の「受け継ぎて国の司の身となれば忘れまじきは民の父母」と応えた。だが、言ってることとやってることは程遠い。まあ自戒だろう(笑)

 三保もそうだが口々に「市民目線の政治を行う」などという。国会議員も同じく「国民目線」などと頻りに語るが、政治で大事なのは国民目線の平均的政治ではないし、国民目線が必要なのは政治家自身と官僚(役人)共の方だろう。

 我が国は官僚(役人)亡国というか官僚暴国。官僚や役人のやりたい放題。そういう意味でも官僚や役人を上手に操れる政治家が出なければならないのだが、政治家はそんなことより次の選挙のことばかり。

 その昔、「政治は三流、経済一流、官僚機構は超一流」と揶揄された。政治が三流なのは今も変りはない。それどころか益々悪くなる一方。

 一流だった経済も崩壊した。国益なんぞお構いなしで金さえ儲かりゃ御の字。商業道徳そっちのけで営利至上主義に狂奔したツケが出た。

 昔は政治が如何に混迷しても、超一流の官僚機構が「日本丸」の舵取りを巧くやってくれるという「神話」があったのも事実だが、今やその官僚が国を滅ぼす一大勢力になってしまっている。

 今は山賊はいないが「三賊」というのが蔓延って人々を苦しめる。「三賊」とは「官賊」「政賊」「労働賊」のことだ。

 昔でいうところの悪代官やそれに阿る輩のことをいう。「士農工商」の階級の名残りで「農工商」の上に胡坐をかいている士階級、特権階級といわれる連中だ。

 強大な国家権力を背景にした高級官僚共の堕落と腐敗は目に余る。モリカケ問題にしろ、安倍首相の責任というより、官僚の立場を勘違いした事勿れ主義と既得権益を巡る悪しき姿が露呈しただけだろう。

 高級官僚らは特定の政治家の手下になって諂屈したフリをしてアホ政治家を操縦し、定年後の安定を求めて特殊法人を手中に収め、天下り先の大企業とべったりくっ付いて私腹を肥やし、目線は国民を向いてはいない。

 正に「下民易虐 上天難欺」、国民を蔑にする政財官界を糺さねばならない。

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2017年12月10日

日本国憲法も教育委員会も労働三法(労働組合法、労働基準法、労働調整法)も米国製

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 米国は「戦前の日本の軍国主義が日本の中央集権的教育制度を齎し、それが結果戦争に繋がった」と結論付け、教育改革を実行する。

 それまでの我が国の学校教育を内務省の中央集権的統制から解き放ち、その管理を地域住民の代表により構成される合議制の委員会の下に置こうと画策し、それを実行したのが「教育委員会制度」である。

 教育委員会のモデルは米国の教育委員会制度。これは、米国の開拓時代の占領統治の思惑から生まれたもので、日本の統治もこれと同様に、占領によって米国の意のままに置こうというのが狙いだった。

 米国の実行した「戦後民主主義教育」と日本国憲法を始めとした様々な法律や制度の押し付けは、米国の思惑以上に大きな成果を齎し続けている。

 米国の押し付けというと現憲法ばかりが論われるが、教育委員会制度も、労働三法(労働組合法、労働基準法、労働調整法)も米国製。

 これらの悉く失敗した米国の策謀を当たり前だと錯覚し、それを変えることすら躊躇しているとは政治の怠慢以外の何物でもない。

「労働三法」は、憲法 28条の労働基本権の理念に基き制定されたもので、企業などの労使関係を規定し、対等的労使関係の基礎となっているが、これも米国の学者らが日本を実験台に謀られたものだ。

「理想的な労働関係の法律を作る」「労働者の保護」という目的で作られたのだが、真意は労働者によるストライキによって勤労意欲を削ぎ、日本企業の生産力低下を狙ったものだった。

 結果は米国の大失策。労働組合が乱立し労働人を蔓延らせ、嗤えることに反米闘争の闘士を育ててしまうという皮肉な結果となった。

 米国のそうした日本弱体化の意図は失敗に終わり、揚句に米国が作った法律で守られた労働者が、あろうことか「反米」を唱える始末で、正に「飼い犬に手を咬まれる」とはこのことだろう(笑)

 我が国は相も変わらず労働者天国というか労働貴族が、労働者らから掠めた組合費でこの世の春を謳歌している。

 労働者にとって中共や北朝鮮の様な社会主義国や共産主義国が理想の国とされたりもするが、どっこい、資本主義であり民主主義の我が国ほど労働貴族といわれるプロ組合員共が優遇されてる国はない。

 米国は「日本国憲法」で国民を骨抜きにし、「労働三法」で労働者を優遇し、「教育委員会」制度の導入によって教育を荒廃させたという事実を冷静に見れば、憲法を見直し、改革を図るのは当然だと考える。

 米国製のクソ憲法を護り、米国製の労働三法に守られ、米国製の教育委員会を信奉しているのは「反米」を叫んでいる珍左翼ばかりか、保守を標榜する自民党にも多く存在しているマヌケさである。

 政治の混乱と矛盾、経済の停滞と低迷、社会の沈滞と退廃、戦後体制の諸矛盾は、大日本帝国憲法の改悪を始めとした米国の断行した戦後占領政策が元凶である。戦後ヤルタポツダム体制の検証は待ったなし。

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2017年12月09日

「ともさん(三笠宮寛仁親王殿下)のひとり言」

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 世論というのは国民の声ではなくマスコミの作為的な報道で形成されていく。キチンと突き詰めた議論が成されない儘、安っぽいムードだけで、実に曖昧な次元で賛同者が殖えて行く。最近の「女性宮家」論はその最たるものだ。

「女性宮家」論は「天皇制廃止運動」の枢要な柱として、昭和40年(1970年)代半ば頃に純然たる共産主義者が発案したもので、1932年にソ連共産党から日本共産党へ出された「命令書(コミュンテルンテーゼ)」の命令遂行である。

 あろうことか安倍政権下で「天皇退位」が謀られ「女性宮家」も既定路線となった。皇室会議には沖縄訪問時に両陛下(当時・皇太子両殿下)に火炎瓶を投擲した社会党の同士であった赤松広隆が入り、予備議員には菅直人が名を連ねる。

 天皇制廃止論者の辻本清美や極左の枝野幸男らが、天皇退位を歓迎していることでも如何にも胡散臭げ。岡田克也に至っては「女性宮家創設は急ぐべきテーマだ」と安定的継承策に反発する。正に皇統の危機であるにも拘らず国民レベルでは支持者が多いことに驚く他はない。

「女系天皇問題」が活発に論議されていた平成17年、女系天皇容認論に対して、故三笠宮寛仁親王殿下が会長を勤める福祉団体「柏朋会」の会報「ざ・とど」で、公なものではない私的な見解と前置きした上で、女系天皇に明確に反対し、旧皇族の皇籍復帰などを求めている。

「世間では『女帝問題』がかまびすしいので私の意見を『ともさんのひとり言』として聞いて頂きます」から始まる論文の論点は二つ。

 一つは「2665年(当時)年間の世界に類の見ない我が国固有の歴史と伝統を平成の御世でいとも簡単に変更して良いのか」と疑問を呈す。

「万世一系、125代の天子様の皇統が貴重な理由は、神話の時代の初代神武天皇から連綿として一度の例外も無く、『男系』で続いて来ているという厳然たる事実です」と、歴史的な正統性を重んじる。

 二つ目は、男系継承を維持する為の方法として、皇室典範を改正して、歴史上の幾つかの方法論を提起している。

1.臣下降下された皇籍離脱した旧皇族の皇籍復帰。

2.現在の女性皇族(内親王)に旧皇族(男系)から養子を取れる様にし、その方に皇位継承権を与える。(差当たり内廷皇族と直宮のみに留める)

3.元皇族に廃絶になった宮家(秩父宮・高松宮)の祭祀を継承して戴き、宮家を再興する。(将来の常陸宮家・三笠宮家もこの範疇に入る)

4・として、嘗ての様に「側室」を置くという手も有りますが、国内外共に今の世相からは少々難しいかと思うと述べられ、余談として明治・大正両天皇共に側室との間に出来た子供であることも記している。

 最後に寛仁親王殿下は「陛下や皇太子様は、御自分達の家系の事ですから御自身で、発言される事はお出来になりませんから、民主主義の世であるならば、国民一人一人が、我が国を形成する『民草』の一員として、2665年(当時)歴史と伝統に対しきちんと意見を持ち発言をして戴かなければ、いつの日か、『天皇』はいらないという議論にまで発展するでしょう」と結んでいる。

 正に殿下の意見は隻眼を有するもので、「臣下降下された皇籍離脱した旧皇族の皇籍復帰」の実現を図るべきで、「女性皇族(内親王)に旧皇族(男系)から養子」は好いが、それには旧皇族の皇籍復帰を成すことが求められる。

「女性宮家」では祭祀が叶わない。旧皇族の復帰を図り、廃絶になった宮家(秩父宮・高松宮、女性皇族しかいない常陸宮と三笠宮)の祭祀を継承して戴き、宮家を再興することこそ皇統を盤石の安きに置く最善最良の策である。

 何れにしても「女性宮家」論は反天皇運動の一環であり、国民はマスコミ主導の実に怪しげな世論誘導に騙されてはならない。

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2017年12月08日

東亞永遠ノ平和ヲ確立シ以テ帝國ノ光榮ヲ保全セムコトヲ期ス

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 昭和16(1941)年12月8日、「宣戦の詔書」が渙発せられ、大日本帝国海軍はハワイの真珠湾を攻撃、東アジアに永遠の平和を確立し、我が国の光栄の保全を期す戦いの火蓋が切られた。

 米国では12月7日(現地時間)を「汚名の日・リメンバー・パールハーバー」とし、戦没者追悼式が行われている。我が国を「騙し討ち」をした卑怯な国として糾弾し、日本蔑視は止むことはない。

 未だに我が国がこうした汚名を着せられ続けるのは、あろうことか前の晩に酒を飲み過ぎて「宣戦布告の覚書」を指定時間に渡せず、真珠湾攻撃から1時間後に持参した駐米大使の大失態に他ならない。

 我が国の外交史上歴史に残る大失態なのに誰一人として咎められず、責任も取っていない。然も、彼らは外務次官や駐英大使、その他第一級ポストに昇進し、叙勲までされている事実には驚く他はない。

 彼らが、職務を遂行していれば我が国も日本国民も「嘘吐き」「卑怯者」といった汚名を着せられずに済んだろう。だが、抑々、大東亜戦争に至ったのは「騙し討ち」と言われる真珠湾攻撃そのものが原因ではない。

 我が国が何故に米英との開戦を決意し、何故に真珠湾攻撃に至ったかは1953年のペリーの黒船来航時代まで遡り、アジアの近代史と世界史を学ばなければ到底理解することは出来まい。

 我が国は西洋列強に追い着くべく、強力な中央集権国家を形成しようと明治維新という大業をたった数年で成し遂げた。

 15世紀の大航海時代以来、白人による世界制覇の波がアジアにも押し寄せ、当時、アジアは次々と列強に蚕食され植民地となった。

 その間に勃発した日清・日露戦争に至ったのも、或いは日韓併合も歴史の必然であり、大東亜戦争もまた支那事変に端を発した日本軍の一方的な侵略戦争ではない、避けては通ることの出来ない歴史の一齣だったのだ。

 その日清戦争に勝利し、その後の日露戦争での「日本大勝利」の報は、固唾を呑んで見守っていた世界の人々を驚嘆させ、特に植民地国や有色人種に与えた影響は強烈なものだった。

 日露戦争勝利から15年後、パリ講和会議で我が国は「人種平等の原則」を国際連盟規約に載せることを提案するも、議長を務める米国大統領・ウイルソンは「有色人種に人権など必要無い」と拒絶し否決した。米国人ら白人による人種差別が横溢していたのは明らかだった。

 その後世界は第二次世界大戦に突入し、米国、英国、中華民国、和蘭から我が国へ所謂「ABCD包囲網」が敷かれ、そして無理難題を強いる最後通牒「ハルノート」が突き付けられることとなった。

 降伏は即ち植民地の道しかなく、最早、我が国の生き残る道は連合国との戦争しかないとの決断、開戦の詔勅を賜り、「宣戦布告」をした上でハワイの米艦隊が停泊する真珠湾攻撃へと至ったのだ。

 今も糾弾して止まない「リメンバー・パールハーバー」も、我が国と日本人への偏見と差別であり、先の大戦を猛省すべきは我が国に非ず、米国自身である。

 抑抑、何故に我が国が大東亜戦争の開戦を決意し、真珠湾攻撃に至ったかが問題であって、現代の幼稚な倫理観や道徳観で一部分の歴史を見て断じることに何の意味が在るというのか。

 歴史の検証をする際には、自国の罪を論うことは大事なことであるが、日本という国に生を享けた者として、先人の苦難を知り、大東亜戦争の真の歴史と意義を知ることは国民としての義務でもある。

 歴史の検証をする上で大切なのは古今東西、世界に蔓延る覇権主義の克服を主張すべきであって、他国の覇権主義には目を瞑り、一方的に我が国だけが自虐の淵に止め処なく漬かり込むことではないのだ。

 我が国にとって先の大戦は結果的に敗れはしたが、日露戦争以降の懸案だったアジア諸民族の独立と復権を齎し、「開戦の詔勅」で示された大義と、アジアの「希望の星」としての役割は見事に果たしたと言えよう。

 大東亜戦争の開戦日に当たり、先の大戦で戦陣に散った英霊に対し感謝の誠を捧げると共に、畏くも陛下の弥栄を祈念する。すめらぎいやさか。

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2017年12月07日

歪曲、偽造、捏造、虚構のでっち上げ、我が国を貶め続けるNHK

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「受信設備を設置した者はNHKと受信契約を結ばなければならない」と定められた放送法64条1項のNHKの強制的受信料制度が憲法に違反するかどうかが争われた上告審判決で、最高裁は「合憲」と結論付けた。

 大法廷は「NHKに国家機関等からの影響が及ばない様にし、広く公平に負担を求める仕組み」だと判断している。

 だが、NHKは国民から強制的に受信料を貰っている特殊法人でありながら、幾多の株式会社の持ち株会社となり、その収益を視聴者(受信契約者)へ還元しないのは公共性とは大きくかけ離れるものだろう。

 この訴えられた男性は、愚生の考えと同じく「放送内容が偏っている」ということで支払いを拒否しているが、こうした認識を共有する国民は多い。偏向内容が正されずに受信料のみを合憲とする事に違和感は更に募る。

 偏向報道で有名なのは、日本の台湾統治を描いた「アジアの一等国」だろう。これは田辺雅泰というNHK幹部が作成した番組だった。

 冒頭から「台湾は漢民族のもの」と如何にも台湾は中華人民共和国の一部であるとの認識を示して、「差別された。だから名前を日本名に変えた」と台湾一中卒の老人にインタビューを流す。

 更にこの老人は「台湾は実は親日的ではない。今迄口に出せなかっただけで、今やっとNHKにホンネを吐露出来た」と語るシーンが流された。

 この番組を見た台湾一中の同窓生らが驚き、この老人に問い質したところ「そんなことは言っていない」と相成った。 何のことはない、NHKお得意の意図的な切り貼り行為だったことがその後に明らかになった。

 朝鮮人の届出制とは違い台湾人の創始改名は許可制であり、その殆んどは「不可」。冒頭での「差別され日本名に変えた」というのが嘘だと分かる。

 番組制作者の田辺雅泰はそうした事実を捻じ曲げ、老人に語らせた言葉を切り貼りし、虚構をでっち上げた。

 NHKのETV特集シリーズ「戦争をどう裁くか」第2夜「問われる戦時性暴力」では、「第二次世界大戦中において旧日本軍が組織的に行った強姦、性奴隷制、人身売買、拷問、その他性暴力等の戦争犯罪を、裕仁(昭和天皇)を初めとする9名の者を被告人として市民の手で裁く民衆法廷」が放映された。

 この「女性国際戦犯法廷」では、天皇を呼び捨てにし「裕仁は有罪、日本政府には国家責任がある」との判決を下しているが、余りにも侮蔑に満ちた偏った内容は公共放送局が取り上げるべきものではなかった。

 この「法廷」では慰安婦問題を扱っており、現在の慰安婦問題を焚き付けた責任は重い。こうした番組を垂れ流しながら謝罪もしていない。

 国家機関からの影響というより、戦後民主主義に拘泥してるNHK幹部やNHK御用達の制作会社の政治思想や価値観の押し付けが目立ち、根拠のない偏向番組が垂れ流され、それが大きく国益を損ねているのも事実だろう。

 公共放送の役割は事実を淡々と報じることに他ならず、多数の視聴者の常識から逸脱してはならない。だが、NHKは公共放送局として存続に値しない特殊法人で、民営圧迫の最たるもの。早急に解散させるべき団体である。

 歪曲、偽造、捏造、の常習犯。虚構をでっち上げ、我が国を貶め続けるNHKは受信料を払ってまで見る様な類のものではなく、視聴者が「受信料拒否」で抗議することはそれこそ憲法で認められるべき国民の表現の自由であり手段でもある。

 国民の多くは最高裁判所とは「最高の判決を下す裁判所」だと思っているが、最高裁は現憲法との整合性を判断しているだけに過ぎず、最高裁で「違憲」判決が下されたならば現憲法を見直せば好いだけのこと。

 放送法第1条第2項は「放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによって、放送による表現の自由を確保すること」と謳われ、第4条第2項には「政治的に公平であること」と、同条第4項には「意見が対立している問題についてはできるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」と記されている。

 だが、公共放送である筈のNHKの報道はどう見ても真実及び自律を保障を遵守しているとは思えない。なのに最高裁は「表現の自由を確保するという放送法の目的を達成する為に必要で合憲」との判断を示した。

 我が国の品格を貶め、国民の倫理意識を低下させ続けている元凶でもあるが、最高裁はそれらを正さずNHKの我田引水的認識に与した。

 マスコミは口々に「知る権利」を振り翳すが、それはマスコミの知る「権利」ではなく、国民が真実を知る「権利」でなくてはならず、マスコミは知り得た情報を公平公正に国民に伝える役目を担っているに過ぎない。

 そう考えると、NHKが知り得た情報を公平公正に報道しているとは到底思えない。NHKも最高裁も何か勘違いしているが、親方日の丸に胡坐をかいてやりたい放題のNHKのこうした諸問題を放置し続けた政治家の不作為は赦し難い。

 護憲派の集まりとも言うべき最高裁は正義は二の次。国の基本法として機能してはいない日本国憲法下では「違憲」判決は次々と下されるだろう。だが、「違憲」判決が下されたならば時代や世情に鑑みて現憲法を見直せば好いだけのこと。

 安倍も憲法9条への附加とか解釈とかまどろっこしいことをやってないで、とっととクソ憲法を放棄しろっての。序に民営圧迫のNHKを解体すれば、アベノミクスにも博が付くというものだろう。呵呵大笑。

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2017年12月06日

今、孝行を尽くさなければ後悔しても間に合わない(中江藤樹)

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 徳川幕府は儒教の「朱子学」を盛んにしたが、朱子学が形式や礼儀を重んじたのに対し、明の学者・王陽明が唱えた「陽明学」は心の持ち方を大切にする教えであり、日本最初の陽明学者は画像の中江藤樹である。

 陽明学は主体的実践を重視した新儒教と言われるもので、「心即理」「致良知」「知行合一」「無善無悪」などを主要な学説としている。

 王陽明は若い頃は生活もだらしなく、無頼の徒で、仁侠道にも溺れたり、武道に凝り過ぎたり、詩や仏法に惑溺したりしたという。終いに儒教に辿り着き、独自の学派を拓く。

「知識」は「行動」と一つであるという心理は、人を狂人にし、常に人を行動へと駆り立てる。この陽明学でいう「狂」とは、単に「狂った」という意味ではなく、陽明学の教える「理想を高く持ち、何の虚飾も隠し立てもなく、心のままに率直に行動すること」である。

 幕末の英雄・河井継之助にしろ、三島由紀夫にしろ、陽明学を重んじている人物というのは生き様は共通してどことなく破天荒でもある。

 河井継之助が、当時流行していた衒学臭げな尊皇の徒輩とどこか違うのは、陽明学の「実践的理想主義」故のものだったからではなかろうか。

 行動する上で大事なのは、時代を見つめる「冷静な目」であり、この時代を見抜く俯瞰した目と「狂」の精神こそが、明治維新への道と切り開く転換点となったと言っても過言ではない。

 中江藤樹は母親を養う為に「今、孝行を尽くさなければ後悔しても間に合わない」と武士を辞め故郷へ帰る。

 武士の魂と言われた刀を売り、生活資金を作り、貧しいながら老母に仕え、そして村人に学問を教えた。噂を聞いて遠近から藤樹の人柄を慕って来る者は絶えなかったという。

 講義を受けていた中の一人の馬方が、客が馬の鞍に結びつけたまま忘れた二百両入りの財布を、藤樹は八里も離れた宿場まで届けるも礼金を享けなかったという。偶々この評判を聞いたのが、熊沢蕃山だった。

「貴男の様な立派な御武家にお教えする様な学も徳もない」と、藤樹は師となることを固く断るも、蕃山は門前に二日間座り込み、漸く入門が叶った。

 後に蕃山は岡山藩主・池田光政に仕えることとなり、藤樹から教わった学問を政治の上に大きく活かした。「大学惑問(だいがくわくもん)」で政治を批判、幕府に咎められ禁錮中に病死した。

 41歳の若さで没した藤樹だったが、多くの門人に熱心に、真面目に、丁寧に教えた故に、今なお「近江聖人」と讃えられ尊敬され続けている。

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2017年12月05日

陛下の御公務の御負担を「女性宮家創設で軽減する」というウソ

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 共同通信社の世論調査に拠れば「女性宮家」創設に賛成する意見が61.3%に上り、皇統断絶を謀る左翼政党よりも自民党支持層が熱心だということが分かる。流石に退位特例法案に女性宮家創設を明記した自民党だけのことはある。

 自民党は表立っては女性宮家創設に難色を示していたのは、単なる保守層を意識してのパフォーマンスに過ぎず、皇統断絶への序章に繋がる「女性宮家」創設に与する自民党は保守を騙った売国政党である。

 皇位継承順位は今上天皇→皇太子殿下→秋篠宮殿下→悠仁親王殿下までは事実上決まっている。「女性宮家」創設を急ぐのはこの流れを阻止し、今上陛下→皇太子殿下→愛子内親王、つまり女系天皇への布石である。

 今上陛下の譲位遊ばされ、皇太子殿下が即位なされるが、秋篠宮殿下は皇太子となるべきものを、皇統の歴史に無い「皇嗣(こうし)殿下」などと称されるのも、自民党主導に因る策謀の一環と見るべきであろう。

 女性宮家の創設となれば対象は愛子内親王と秋篠宮真子内親王と佳子内親王だが、何れも祭祀を重んずる皇位継承者には成り得ない。

 真子内親王の御相手の方は大学時代の同級生であり一般人。女性宮家の創設により一般人男性が皇族になることに違和感を覚える国民は少なくない。御成婚は事実上の女性宮家創設反対の意思表示でもある。

「皇族数の減少」というなら何故に旧皇族方の皇籍復帰を成さないのか。皇統断絶を目論む反天皇勢力は「旧皇族の皇籍復帰は現代にはそぐわない」とか「男系男子を増やす目的だけで」だと反対している。

 然し乍ら、皇籍離脱をされた旧宮家は、北朝第3代崇光天皇の皇子、栄仁親王から始まる伏見宮の系統に属し、今上天皇との関係は、室町時代の伏見宮貞成親王を共通の祖先とされる正当な皇統に属する方々である。

 多くの国民は陛下の御公務の御負担を「女性宮家創設で軽減する」と思っているが、天皇が重んずべき「祭祀」の代行は名代として掌典長のみが許され、「国事行為」の代行は憲法第4条の第2項よる委任か摂政のみ可能であり、つまりは「公務」の代行は皇太子殿下しか成し得ない。

 要は、女性皇族は国事行為も公務も代行出来ることはなく、公務の御負担を「女性宮家創設で軽減する」というのは国民を誑かす詭弁である。胡散臭げな世論調査によって「女性宮家創設」という実に怪しげな世論が醸成されて行く。

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cordial8317 at 06:21|PermalinkComments(0)