2021年04月17日

「トリチウムを含んだ処理水」という言葉自体が要らぬ風評を生んでいる

 復興庁が、東京電力福島第一原発の処理水に含まれるトリチウムをキャラクター化して説明したチラシや動画に反原発派らが抗議し取り止めになった。

 ALPS(他核種除去設備)で無害化された処理水を「汚染水」とする反原発派どもらにとって、トリチウムはあくまでも危険な存在でなければならない。「こんな可愛らしいキャラクターはケシカラン」ということなのだろう(苦笑)

「放射線トリチウム」や「トリチウムを含んだ処理水」などと騒いでるが、トリチウムは自然界にも存在する恐れる必要も無い放射線物質でもある。

 細野豪志元環境相が「水道水のトリチウムは毎日飲んでる」と発言すると、反原発派から「失礼なことを言うな。水道局に謝れ」となったという。だが、水道局員は「トリチウム入ってない水ってどこで買えるの?」と相成った(笑)

 麻生太郎財務大臣が「処理水は飲んでも大丈夫らしい」と発言すると、反原発派は「麻生に飲ませろ!」と大騒ぎ。麻生に飲ませてどうするの?

 そんなにトリチウム処理水が恐ろしいというなら、反原発派が「御用学者」と断じて止まない高田純先生に倣い処理水を飲んで自ら発癌性物質というのを証明してみりゃ好いだろう。飲んでも何ら影響はないから一笑に付されるだろうが(笑)

 チェルノブイリや福島原発事故を受けて、高田純先生は自ら汚染水を飲んで放射線セシウムの半減期は100日という科学的根拠を示した。セシウムでの被害者はいないのにセシウムの700分の1程度の放射線トリチウムに怯える不思議。

 原発事故に因る放射線セシウムが人体に影響も及ぼしてない中で、トリチウムを含んだ処理水の処分に反対するのは単なる感情論でしかない。

 処理水の海洋放出を大騒ぐことで風評被害を招く結果となっている。要は、海洋放出反対運動とは原発事故を利用した国家破壊活動と言うのが正しい。

 福島第一原発周辺の処理水タンクがこのまま放置され、更に増設されれば環境破壊にも繋がり、それこそ福島への風評被害が止むことはないだろう。海洋放出反対派のやってることは福島に寄り添うフリをした党勢拡大と革命謀略である。

 原子力規制委員会では「地層注入」「水蒸気放出」「水素放出」「地下埋設」などの処分方法のうち、海洋放出が唯一の方法としている。政府小委員会は原子力規制委員会の提言に沿って海洋放出を現実的な選択肢としている。

 前述した通り、貯水タンクは満水状態で処理水の海洋放出が遅れればタンクを増設するしかない。だが、タンク増設より必要なのは、トリチウムの科学的なデータであり、海洋放出に由って及ぼす環境への影響の周知である。

 意見聴収会では「不安や不信を払拭して欲しい」「国と東電が責任を持って万全の風評対策に取り組んで欲しい」などの意見が出たが全てが他人事。その意見の多くは反原発派に与するものばかり。海洋放出に賛成してる愚生は稀らしい(笑)

 抑々、除染にしろ貯水タンクの増設にしろ民主党政権下での非科学的な愚策が原因。感情的目先の対策を優先し、住民の安心安全を目的に始まった除染は「福島は除染をしないと住めない土地」と、却って風評被害を招く結果となった。

 科学的データで対処してれば除染もする必要も無かったし、処理水も海洋放出してれば済んだこと。放射線への異常な恐怖心と無知が問題を複雑化した。福島への風評と差別は、国の対処も然ることながら福島県民が招いたことでもある。

 海洋放出を決断せず更なるタンク増設で解決しようとする方法は、次の世代へこの問題を丸投げするということだ。原発の出現に拠って豊かで便利な生活を享受した我々世代が、責任を持って解決に当たらなければならない。

 福島原発は関東へ電力を供給する為のものであり、日本の高度成長期にそれらに協力した福島県が風評被害や差別という仕打ちを受けるとはよもや思わなかったが、いつまでも被害者意識丸出しでは復興どころか前には進めない。

「流言」や「デマ」が、混乱に拍車を掛け「風評」という余計な混乱を生む。「トリチウムを含んだ処理水」という言葉自体が要らぬ風評を生んでいるとしか思えない。「流言は知者に止まる」というが福島県民に知者はいないのか。

「流言飛語」とは本来は「流言蜚語」と書く。「世の中で言い触らされる確証のない噂話。根拠のない煽動的な宣伝。デマ」という意味だが、「蜚」とは悪臭を放つ小さな虫の意味で忌み嫌われる語彙だ。因みにゴキブリは「蜚蠊」と書く。

 何の問題もない処理水の海洋放出を、恰も危険であるかの様な流言を撒き散らしたのは反原発派という蜚蠊どもだ。そうした愚論に与してどうするのだ。

 福島県議会の太田光秋議長は非科学的な感情論に与し「県民や国民の理解が十分に得られていない」と語り、国が決定した「海洋放出」に疑問を呈したことがあるが、県内には正論と雖も受け入れられない風潮が横溢しているのも確か。

 太田議長は丁寧な説明を求めるが、県民の代表である県会議員のトップの立場なら、そうした他力本願的な解決手段を求めるべきではなく、処理水問題が全国的な問題であるなら、政治や科学が風評に負けない努力をすべきだ。

 処理水の海洋放出は世界の常識であり福島原発が特別ではない。真剣に福島への風評を阻止したいなら「住民への理解」とかの感情論を止め、政府に依存するだけではなく、正しい科学的データを自ら内外に広めることが肝要である。

 朝日や毎日新聞を始め、反原発派らが「汚染水」という言葉を使うのを止めて、科学的根拠に基づく論評をすれば福島への風評被害が出ることはない。福島を利用して、逆に風評被害を拡散してる反原発派や反日マスコミは恥を知りなさい!

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2021年04月14日

韓国は福島原発処理水の8倍以上のトリチウムを日本海に放出している

 韓国政府は、東京電力福島第一原発周辺で殖え続けてる処理水タンクからの海洋放出に対して「トリチウムは危険であり環境被害を及ぼす」「絶対に容認できない措置」と反発し「強い遺憾」を表明した。反原発派や漁業関係者も同じく。

 韓国の国務調整室担当者は「(日本の決定が)周辺国家の安全と海洋環境に危険を齎すだけでなく、日本の最隣国である我が国との十分な協議や了解なしに行われた一方的な措置だ」と批判してるらしいが、いつもの駄々を捏ねるアレだ(苦笑) 

 トリチウム水(HTO)を含んだ処理水の海洋放出は、福島県漁連を始め、地元住民の反対を理由に中断されているが、政府は、処理水の科学的データを示して人体には全く影響のないことを周知徹底するとして2年後に実施する予定だという。

 原子力規制委員会では「地層注入」「水蒸気放出」「水素放出」「地下埋設」などの処分方法の中で「海洋放出が唯一の方法」としていたが、規制委員会の意見は無視され2020年東京オリンピックが控えていたこともあり先延ばしされていた。

 反対派も科学的データを承知しているのだろう、「科学的に安全というだけで処分方法は決められない」と意味不明の反論をしているが、汚染水問題を引き延ばせば引き延ばすだけ困難を強いられるし、風評問題が解決されることもない。

 福島第一原発周辺の処理水のタンクは約680基に及びその水量は92万トンに上る。2020年には137万トンになる。このまま放置し、またタンクが増設されればそれこそ環境破壊に繋がり、福島への風評被害は止むことはないだろう。

 処理水は、外国の再処理施設から放出される処理水に比べてもトリチウム含有量は100分の1程度で人体に影響を及ぼす数値ではない。菅政権は科学的データを国民に示し、粛々と海洋放出の実行を図ることこそ風評被害を食い止める最良である。

 福島第一原発事故の処理を巡ってIAEAに「海洋環境保護」を理由に汚染水の海洋放出に難癖を吐けてた韓国だが、韓国は月城原子力発電所で4基のCANDU炉を運転している。重水炉は軽水炉に比べてトリチウム放出量が大きいという。

 月城原発が4基体制に入った1999年以降の累積では6000テラベクレルを超える。福島第一原発に貯留されているトリチウム総量は760テラベクレル(2016年3月時)。つまり韓国の累積トリチウム放出量は福島原発の約8倍に相当する。

 月城原発で福島原発の8倍のトリチウムを含んだ汚染水を日本海に放出している。そうした意見に「同じ処理水でも事故後のものと稼働中のものでは違う」という反論も聞こえて来るが、そういうのは意見ではなく単なるイチャモン難癖(笑)

 1テラベクレルとは1ベクレルの1兆倍。「兆」という単位は余りにも大きく危険な数値に感じるが、数値の大きさほど人体に及ぼす影響は少ないという。

 1979年のスリーマイル島原発事故では93000テラベクレル、1986年のチェルノブイリ原発事故では520万テラベクレルが放出されたと推定されている。

 フランスのラ・アーグ再処理施設からは年間1京1600兆テラベクレルが排出されている。「京」とは「兆」の更に上の桁。カナダのブルース原発からは年間1280兆Bq/L排出。かなりの数値だがこれらの数値は国際基準値の範囲内なのだ。

 トリチウムは放射線のエネルギーは弱く、人体の影響はセシウムの700分の1程度に過ぎない。原発事故に因る放射線セシウムが人体に影響も及ぼしてない中で、トリチウムを含んだ汚染水の処分に反対するのは単なる感情論でしかない。

 原発事故後、溜まってた雨水40兆Bq/L(ベクレル)が海に流出し「汚染水にストロンチウムやトリチウムが確認された」と大騒ぎになったのは記憶に新しい。その後、作為的に「ストロンチウム」「トリチウム」の言葉が独り歩きする。

 東電では、地下水バイパスやサブドレンの放出濃度運用目標を1500Bq/Lと定めている。これをトリチウム水の質量濃度に換算してみると、約2.8×10のマイナス14乗、つまり百兆分の2.8Bq/Lという極めて低い濃度となるという。

 ppm(百万分率を表す単位で100万分のいくらであるかという割合を示す数値)、ppb(10億分のいくらであるかという割合を示す数値)、ppt(1兆分のいくらであるかという割合を示す数値)にも至らない低レベルである。

 現在、海へ放出されているサブドレン/地下水ドレンのトリチウムは1000Bq/L以下、地下水バイパスでは100~150Bq/L程度、放出先である海水についても1F港湾内外のトリチウムは検出限界(約2.0Bq/L)以下とのデータが出ている。

 堰内に溜まった雨水(堰内の汚染も含む)も測定後に散水されているが、これも検出限界(約100Bq/L)以下。 これらを質量の濃度に換算すると千兆分の1~十京分の1のオーダーとなる。つまり海洋環境に何ら影響は及ぼさない。

 自分のことは差し置いて海洋放出に反対する韓国も怪しからんが、科学的データを無視し風評を煽り福島を貶めてる反原発派の感情論に与してはならない。

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2021年04月11日

「処理水の海洋放出反対」という感情的主張からは何も生まれない

 地元紙では、東京電力福島第一原発周辺に貯まり続ける処理水に関し、海洋放出に反対する声を取り上げて政府への不信感を煽る。立憲民主党代表の枝野は「政府は福島県民、漁民、漁師の皆さんをバカにしているのか」と怒りを露わにした。

「福島県民の声を無視して結論ありきで走っている。本質(海洋放出)自体が良い悪いではなくて、福島の原発事故による被災者の皆さんを、政府がバカにするような措置であって、許されるものではない」と如何にも福島県民を慮る。

 だが、枝野こそ福島県民をバカにした政治家の筆頭だろう。原発事故が起きると「(放射線は)直ちに人体に影響することは無い」と言い放った。県内入りした枝野は、周辺者が私服なのに本人は防護服を着こんで視察したことは忘れない。

 何を今更、福島県民に寄り添う様な発言をしてるのか。事故当時の民主党政権の愚策こそが福島県の復旧は愚か、復興を阻害した元凶である。原発事故や処理水問題を他人事の様に語って、政争に結び付けるなど言語道断である。

「東電や国が放射線物質トリチウムを含んだ処理水方法が、海洋放出ありきで決定しようとしている」と反対してるが、原発処理水の海洋放出は世界の常識であり、況してや貯蔵されている処理水のトリチウム数値も微量なものだ。

 トリチウムというのは放射線エネルギーは弱く、人体の影響はセシウムの700分の1程度。原発事故に因る放射線セシウムが人体に影響も及ぼしてない中で、トリチウムを含んだ処理水の処分に反対するのは単なる感情論でしかない。

 福島原発周辺に貯蔵されてる処理水のトリチウム総量は2016年3月時点で760テラベクレル。この数値は年々減少している。諸外国の海洋放出処理水に比べても100分の1程度で、専門家の「人体に影響を及ぼす数値ではない」は正しい。

 1979年のスリーマイル島原発事故では93000テラベクレル、1986年のチェルノブイリ原発事故では520万テラベクレルと推定されている。1テラベクレルとは1ベクレルの1兆倍。「兆」という単位は余りにも大きい数値に感じるだけ。

 カナダのブルース原発からは年間1280兆ベクレル排出。フランスのラ・アーグ再処理施設からは年間1京1600兆ベクレルが排出されている。「京」とは「兆」の更に上の桁。かなりの数値だがこれらの数値は国際基準値の範囲内である。

 因みに、福島の漁業関係者よりも強力に処理水の海洋放出に難癖を吐けてる韓国だが、韓国は月城原子力発電所で4基のCANDU炉を運転しているが、月城原発が4基体制に入った1999年以降の累積では6000テラベクレルを超える。

 真剣に福島への風評を阻止したいなら「住民への理解が深まっていない」とか非科学的な感情論ではなく、正しい科学的データを内外に広めることである。

 福島第一原発周辺の処理水タンクは約680基に及びその水量は92万トンに上る。2020年には137万トンになる。このまま放置しタンクが増設されれば環境破壊にも繋がり、それこそ福島への風評被害が止むことはないだろう。

 感情論で進められた「除染」で、福島県は住みやすくなったどころか、「除染しないと住めない土地」とのレッテルを貼られた。処理水も然り。このまま放置することが好いとは思えない。事故を起こした我々の世代が責任を負うべきだ。

 昨年7月に熊本県を襲った豪雨被害も感情論からダム建設が見送られた。蒲島知事は「民意が反対だった」と責任を感じるどころか有権者の所為にしていたが、枝野らの政府批判は似た様なもので、反原発派の破壊活動に騙されてはならない。

 政治が国民目線に(ポピュリズム)に立ち、大衆迎合に陥ったならば必ず国は滅ぶ。政治とは本来、国民目線と掛離れた決断が求められる世界なのだ。

 話が変わるが、食べログで知り合った某男性レビュアーのトップページには、「トリチウム汚染水を海洋投棄しても安全だというなら、全て東京湾に放出すれば良くないですか!? 」との見出しが出てる。これが普通の人の感覚なんだろうな。

 確かに東京電力福島原発は首都圏へ電力を送る為の施設だった。そういう意味では東京湾に放出するのも一つの案だろうが、東京湾に持って行くにしても運搬費用を含めて相当掛かるだろうし、ポピュリズムの小池都知事が容認するとも思えない。

 以前、松井一郎大阪市長が、反原発派らに煽られた感情論から見送られている処理水の問題に対し、「政治や科学が風評に負けることがあってはならない」と、処理水の大阪湾への放出を受け容れると発表したことは記憶に新しい。

「政治や科学が風評に負けることがあってはならない」とは正しく。内堀福島県知事にも大阪市長の様な智慧と決断力を持って欲しいものだ。感情論より科学的根拠に基いて粛々と海洋放出を図ることこそ早々に風評を取っ払う最良の方法である。

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2021年04月08日

福島第一原発周辺に貯まり続ける処理水の処分方法は海洋放出しかない

 福島第一原発周辺に貯まり続ける処理水の処分を巡り、菅総理は「専門家の提言を踏まえて決定したい」と述べた上で海洋放出とする方向性を示した。

 反原発派や海洋放出に反対する勢力は「国民への説明不足」と騒ぐが、何をするにしても全国民の同意を得ることは困難であり、政治家の決断こそ大事。

 処分方法さえ決定していないことは、核のゴミの処分地を決められないことと同じく政治の怠慢であり、処分方法の全国的議論は問題の先延ばしに過ぎない。

 処理方法は海洋放出しかない。福島第一原発周辺に貯まり続ける処理水の海洋放出は住民の反対を理由に中断されていたが、漸く海洋放出を決断した様だ。

 人体に何ら影響もしていないセシウムの700分の1程度に過ぎないトリチウムの放射線に怯えるというのは如何だろう。これこそ感情論の何ものでもない。

 感情論で行われた除染は、住民の安心より「フクシマは除染をしないと住めない町」との風評を生んだ。トリチウム水の海洋放出は世界の常識。我が県を含めて何処に放出するかであって、処理水の開票放出を受け容れる都道府県を探すべきだ。

 原子力規制委員会の進言通り、海洋放出を決定した上で海洋放出する候補地選定をどうするかだ。そういう意味からも感情論を排し、「福島県沖ありきではなく、人体に影響が無い処理水を全国の何処に放出したら好いか」を議論すべきだと思う。

 原発周辺に更なるタンクを増設で問題を先送りしても根本的な解決は図れない。処理水の海洋放出を決定した上で、処理水に含むトリチウムの科学的データを示し、海洋放出は人体には全く影響のないことを周知するべきだろう。

 福島県沖への放出は人体的影響は問題は無いが、風評被害が怖いというのは理解出来る。住民の安心から進められた除染は「福島は除染をしないと住めない町」とのレッテルを貼られた。福島県沖への放出も同じ流言蜚語が飛び交うだろう。

 処理水の海洋放出が決定されれば反原発派らが大騒ぎするのは必至。考えてみれば風評被害を招いているのは反原発派も然ることながら放射線に無理解な県民も同じ。トリチウムの何たるかを知らず「トリチウムを含んだ処理水」などと騒ぎ過ぎ。

 全国漁業協同組合連合会(全漁連)と福島県水産加工業連合会が「深刻な影響が出る」「漁業を守らなければならない」などとして海洋放出に反対したが、こういう連中こそが自ら風評被害を招いているという自覚さえ無い。

 国内のみならず原発が稼働している場所では処理水は放出されている。福島原発も事故前は海に放出しており、周辺は人気の釣り場にもなっていた。福島第一周辺に貯まり続ける処理水だけが問題にされているのは福島差別ではないのか。

 不安を煽るだけのマスコミと反原発派の感情論にはもううんざりだ。政府は科学的データを公表し、核のゴミ(高レベル放射性廃棄物)の最終処分場選定と同じく、補償や地方交付税の増額等を示して放出先を応募すべきだと思う。

 状況からして福島県沖がベストだろう。「更なる福島への風評被害を生ませない」というのなら、粛々と海洋放出してしまえば好い。「人の噂も七十五日」ではないが、放出後に日々のデータを公表すれば反原発派の罵声は日々薄まる(笑)

 原発設置県として最悪の事故が起きてしまった以上、最後まで責任を持つべきだが、「県民の声を大切にして欲しい」なんて言ってるから事が進まない。政治家は、大衆の意見とは違う決断が時には必要であるということを痛感する。

 処理水問題は、福島県以外の数県が名乗り出てくれれば容易に解決出来るのだが、そうした決断を出来る知事が果たしているかどうかといえばそれも疑問。

 以前、松井一郎大阪市長が大阪湾受け入れを示唆したが立ち消えになってしまった。福島原発が主に首都圏の電源だったことをすれば東京なども候補地に名乗りを上げるべきだろう。福島県一県だから福島だけが貧乏籤を引くことになる。

 2020年東京オリンピック委員会の総会に於いて、安倍前首相は「(処理水問題の状況は)完全にコントロール出来ている」と大見得を切ったことは記憶に新しい。処理水問題は、我が国の首相が公約した国際的な約束事でもあるのだ。

 処理水の海洋放出は一歩間違えば国際的な問題に成り兼ねず、オリンピック終了までは断念せざるを得ないだろう。ここに来て東京オリンピックが1年延期されたが、処理水の海洋放出を断念しタンクの増設で事を濁してはならない。

 以前、建屋屋上へ溜まってた雨水40兆Bq/Lが流出したと大騒ぎになった。4京ではなく40兆Bq/Lで年間にすれば20兆Bq/L。汚染水にはストロンチウムやトリチウムが確認されているが、数値の高さに驚くが人体に影響が出る数値ではない。

 世界基準では、地下水バイパスやサブドレンの放出濃度運用目標は1500Bq/Lと定められている。これをトリチウム水の質量濃度に換算してみると、約2.8×10のマイナス14乗、つまり百兆分の2.8Bq/Lという極めて低い濃度となる。

 ppm(百万分率を表す単位で100万分のいくらであるかという割合を示す数値)や、ppb(10億分のいくらであるかという割合を示す数値)、ppt(1兆分のいくらであるかという割合を示す数値)にも至らないレベルということ。

 現在、世界各国の原発施設から海へ放出されているサブドレン/地下水ドレンのトリチウムは1000Bq/L以下、地下水バイパスでは100~150Bq/L程度。1F港湾内外のトリチウムは検出限界(約2.0Bq/L)以下とのデータが出ている。

 堰内に溜まった雨水(堰内の汚染も含む)も、検出限界(約100Bq/L)以下で、 これらを質量の濃度に換算すると千兆分の1~十京分の1となる。

 仰々しい数値だが、原発周辺に貯まり続ける処理水の数値は気化されたものもあり数値は低い。セシウムの700分の1程度に過ぎないトリチウムの放射線に怯える必要は無い。風評という雑音は直ぐ消える。粛々と海洋放出を実行せよ。呵呵。

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2021年04月05日

旧宮家の再興は皇室の本分である祭祀を継承して戴くということにある

 ポスト安倍の一人でもある河野太郎防衛大臣は「安定的な皇位の継承に向けて、女系天皇についても選択肢の一つとして検討すべき」との認識を示した。

 二階幹事長を筆頭に、自民党内には「今の時代に女性の天皇が即位出来ない方が可笑しい」という意見が横溢しており、河野の認識も別段驚きもしない。

「わが国の皇室はずっと男系で継承されてきているので、男系による皇位継承が続くのが一番望ましいと考えている。ただ現状は秋篠宮殿下、次の世代は悠仁親王殿下しかいらっしゃらないのが現状」と語る。悠仁親王まで皇位継承が決まっているのに、何故に今、女性宮家や女系天皇の議論をしなければならないのか。

 その上で「現在の皇室で男系を維持して行くのはかなりのリスクがある」と述べてる。だが、そのリスクとは何ぞや。況してや「女系天皇についても選択肢の一つとして検討を行うべき」と言うが、そのリスクの方が大きいとは思わないのか。

「男系が継承されていることを強く期待するものだが、やはり万が一という事態を想定しておかなければいけないと思う」とは、女性宮家創出や女系天皇容認論者の単なる言い訳であり、皇統断絶を謀る戯言に過ぎない。

「例えば内親王殿下、女王殿下が女性宮家として皇室に残られ、そのお子様が皇位を継承するというやり方もあるでしょうし、あるいはGHQによって皇籍を離脱することになった旧宮家の男子が宮家を復活させるのか、養子に入るのか。養子に入るのも皇室典範の改正が必要だ」とも述べる。

 これは皇室典範第12条並びに第15条の改正が必要との認識。女性宮家推進派は、皇室典範第12条の「皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる」との条項を見直し女性宮家の創設を謀ろうとしている。

 旧皇族の皇籍復帰や養子縁組を成立させるには、同第15条の「皇族以外の者及びその子孫は、女子が皇后となる場合及び皇族男子と婚姻する場合を除いては、皇族となることがない」の条項の見直しが必要となる。

「1428年に御即位された後花園天皇の弟君が伏見宮を継承されて、その血筋の方々なので600年前に男系が分かれたのが旧宮家。そういう家の男子を戻す、或いは復活させることに国民の合意、支持が得られるのかという議論も当然ある」と指摘してるが、旧宮家の方には現在の陛下よりも血筋としては正統な方もおられる。

「今の日本国憲法第1条では、天皇の地位は国民の総意に基づく、とあるので、やはり国民の広い議論、国民の支持が必要になるんだろうと思う」とは正論だが、天皇を否定する共産党らが存在する限り「総意」にはならない。

 抑々、天皇とはどの様な存在であるかを理解していないから「男系」や「女性宮家」「女系天皇」などという議論に終始してしまっているのだ。況してや反天皇勢力は憲法第2条の「世襲」を曲解し、愛子内親王の即位を謀る。

 天皇とは諸外国の様な「王室」や「国王」の存在だと思っている人も多いが、分かり易く言えば日本固有の信仰である神道を伝え導く神主(神官)の最高の地位者であり、ローマ法王と同じく祈りを重んずる「祭主」である。

「女性天皇」「女性宮家」では天皇の重んじる祭祀が叶わない。神に仕える神事を執り行うことが憚れるのだ。別に女性差別ではなく、これが伝統というものなのだ。女性宮家や女系天皇論者らは国事行為をする便利な存在としか思っていない。

 女性が天皇に就くというのは普通の生活は送れないということを意味する。過去8人の女性天皇は全員独身で即位し、譲位以後も独身を通した意味は重い。

 女性天皇論者は、神道そのものの無理解と天皇が祭主としての祭事の重要性を理解していないから安易に語れる訳で、これこそ天皇を軽んじてる証左でもある。

 過去10代8人全ては男系の「女性天皇」であり「女系天皇」ではない。敬宮愛子内親王が天皇に即位されてもそれは男系の9人目の女性天皇となる。だが、愛子天皇が御成婚遊ばされ第一子を生んだ場合それは男系ではなくなる。

「旧皇族と結婚すれば問題ない」という声もある。ならば、昭和天皇が最後まで反対なされた皇籍離脱させられた方々の皇籍復帰を先に行うべきだろう。

 若し、愛子内親王の御相手が元皇族でなかったらどうなるのか。過去8人の女性天皇が嫡子を産まなかった重い意味を知るべし。女性皇族が結婚することで皇籍を離れるのは、一般人としての生活を重んじよとの天皇の大御心でもある。

 そうしたことを理解せず、「今の時代、女性宮家が無いのが可笑しい」だとか、「女性が天皇に成れないのは女性差別」と安易に語ることこそ女性差別である。

 祭祀を継承するには旧皇族の復帰を図ることが重要で、廃絶になった秩父宮・高松宮、女性皇族しかいない常陸宮と三笠宮の祭祀を旧宮家を再興し継承するべし。

 皇位継承で大事なのは神武天皇以来の「男系」の血筋であり、「今上陛下とは血筋が違う」というのは近年の反天皇勢力に拠って創られた現代の価値観に過ぎない。

 旧宮家とは「伏見(ふしみ)宮」「閑院(かんいん)宮」「山階(やましな)宮」「北白川宮」「梨本宮」「久邇(くに)宮」「賀陽(かや)宮」「東伏見(ひがしふしみ)宮」「竹田宮」「朝香(あさか)宮」「東久邇(ひがしくに)宮」。

 旧11宮家の方々は北朝第3代崇光天皇の皇子、栄仁親王から始まる伏見宮の系統に属し今上天皇との関係は、室町時代の伏見宮貞成親王を共通の祖先とされている。

 河野大臣が「1428年に御即位された後花園天皇の弟君が伏見宮を継承されて、その血筋の方々なので600年前に男系が分かれたのが旧宮家」と説明されいる通り。

 内「山階」「北白川」「梨本」「東伏見」の4宮家は断絶しているが、東久邇家の系統には、歴代天皇と男系で繋がる男子が7名おられ、悠仁親王殿下と又従兄弟になる男子が5名、更に4名が生誕とのことで実に喜ばしい。

 東久邇宮盛厚王(明治天皇の孫)の妻は昭和天皇の長女である茂子内親王であり、上皇后陛下が民間から嫁がれていることをしても男系男子の正統性を有する。

 秋篠宮皇太弟~悠仁親王殿下の継承は決めっているが、東久邇家以外にも男系男子がおられ、皇位継承は旧宮家の皇籍復帰を成すことで盤石となる。

「長く民間人だった人が皇族になることに違和感」というのは付けたりに過ぎない反対理由であり、宮家を再興するということは男系男子の皇位継承の安定を図るだけではなく、皇室の本分である祭祀を継承して戴くということにある。

 大体「宮家」とは男系だからこそ宮家なのであって「女性宮家」とはなんぞや。憲法以前の御存在であらされる天皇が、今や憲法中心の国事行為をやらせるだけの傀儡となってしまっていることを憂慮せざるを得ない。

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2021年04月04日

我が母校でもある国士舘の「読書」「体験」「反省」「思索」の教え

 読書量を自慢し、本棚に並ぶ本の多さに悦に入ってる人がいる。斯くいう愚生も、若い時分にはそういうこともあった様にも思うが、その多くを処分してしまった。押し入れには処分してない段ボールに詰めた本が10個程ある(笑)

 読書量を誇ったところで意味はなく、本の中身の感ずる処を書き記し、自ら実践してみることが何より大事である。実践すれば失敗することが多いだろうが、その失敗を反省し、その失敗を次に繋げる糧とすることが貴重なのだ。

 我が母校の国士舘では「誠意」「勤労」「気魄」の他に、「読書」「体験」「反省」「思索」との四徳目の教育指針を示しているが、正しくこのことである。

 保守陣営などからは道徳教育の拡充や戦前の「修身」復活の声も聞こえる。だが、幾ら教えたところで、その教えを実践しなければ単なる画餅に帰すだけ。

「修身」や「教育勅語」に示された道徳教育とは体育の授業と同じで、理論を教えることは大事だが、学んだことを行動に移して実践しなければ意味はない。

 嘗て、明治開国を目指した我が国は「教育立国」として明冶の試練と昭和の国難を乗り越えた。極貧の中から多くの偉人が輩出したのは立派な教育の故であろう。 「坂の上の雲」で、父親が秋山兄弟に苦諌する場面がある。

「好きで貧乏しているのではない。敢えて君等の将来を考えてやっているのだ。昔の偉人や英雄は極貧の中から生まれた。金持ちから偉人や英雄は生まれん」

 教育の原点とは意外とこんな処に在るのではなかろうか。 現在はどうだろうか。国民の勤勉性、家族愛、愛国心、信義誠実の原則は失われ、心の中の高貴なものを失い、高邁さを忘れ、在るのは自己中心性の欲望だけだ。

 高邁な魂を喪失した日本国民に最も大事なものは教育の再生しかない。将来の祖国日本を担う子供達への教育を如何に充実させるかが肝要。保守派や愛国陣営が道徳教育や「修身」復活を願うなら、先ずは自らが実践して模範を示すことだ。

 修身には「おたけがめくらのてをひいて」との一節がある。少女が目の不自由な人の手を引いてやるシーンだ。だが、「めくら」は差別用語とされ、放送禁止用語。こうしたことを見ても「修身」復活は言うには容易いが導は無理だわな(笑)

 愚生は映画が好きで年間に少なくても200本以上は観てる。「座頭市」や「眠狂四郎」とか、古い映画ってのは放送禁止用語が飛び交ってて実に面白い。

 盲(めくら)、唖(おし)、吃(ども)り、跛(びっこ)、聾(つんぼ)なんてのは日常会話の様にしょっちゅう飛び交う。古い映画や古典落語には差別用語だけではなく、懐かしくも美しい日本語が溢れていて、実に実践した教育でもある。

「憚(はばか)り様でした」(ご苦労様です。恐れ入ります)
「傍杖(そばづえ)を食う」(思わぬ災難に遭う)
「荷が勝つ」(責任・負担が重過ぎる)
「武士は相身互(あいみたが)い」(同じ立場の者は助け合うべし)
「罪業(ざいごう)の深さ」(罪の原因となる行為)
「浮世(うきよ)に拗(すねる」(世の中に逆らう)
「卒爾(そつじながら」(人に声をかける時に言う語)
「阿漕(あこぎ)な奴」(しつこくずうずうしい)
「お為倒し(おためごかし)」(相手の為といいながら、自分の利益を図ること)
「朝未(あさま)だき」(夜の明けきらない頃)
「足元から鳥が立つ」(思いがけないことが起こる)

 こうした言葉を挙げれば限がないが、余り馴染みのない言葉や台詞が出て来るが、こうしたことを気にしながら、観たり聴いたりするのは実に楽しいものだ。

 こうした難解な言葉を四六時中考え、気にして見聞きしている訳ではない。因みに「四六時中」という言葉も、昔は「二六時中」と言ってたそうだ。

 一日を十二刻(昼六時、夜六時)に分けていた時代には「二六時中」だったという。現代の様に二十四時間になって「四六時中」に変わったというから面白い。

 言葉は移ろうものだが、古の日本人のどういう職業の人がどういう風に使っているのかを知れば、また違った世界を知ることが出来るというものだろう。

 道徳教育や歴史教育は大事であるのは言うまでもないが、その前に美しい日本語を教えることこそ肝要である。英語というのはバチカンでは「穢れた言葉」だった。そう考えれば、英語なんていう田舎言葉を教えてる場合じゃないぞ(笑)

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2021年04月03日

直きを友とし 真を友とし 多聞を友とするは益なり!

「朋あり遠方より来たる。また楽しからずや」。親しい友とはかけがえのないものであり、「人生は邂逅の一言に尽きる」というが、人生の中で得た多生の縁を意気に感じつつ気の置けない友人と一献しながらの語らいほど愉しいものはない。

 しかし、親しいからといって近づき過ぎると礼を失することになるし、かといって距離を取り過ぎれば余所余所しくなる。剣道などの武道でもそうだが、人間関係に於いても同じ様に程好い間合いというのが大事となる。

 支那南北朝時代末期の学者で、子孫に対して学問の重要性を説いた願之推(がんしすい)は、「優れた人物を友に持てば、長い間には自分もまた香気を放つ人物になるもので、友人との交際は慎重でありたい」と訓えている。

 自分より優れた人達との交際や交流が、自分自身を成長させる上で役に立つということ。要は、「己に如かざる者を友人とする勿れ」と言う様に、自らを向上させる為には自分より劣った者は友人として交わらない方が好いということ。

 そうした上で自らが香気を放てる立場になったなら、その能力を惜しみなく分け与えることが大事。孔子は「益者三友、損者三友」、つまり「直(なお)きを友とし、真(まこと)を友とし、多聞(たもん)を友とするは益なり」と訓える。

 益者とは「剛直な人」「誠実な人」「教養のある人」であり、損者とは「易きに付く人」「人当たりばかり良い人」「口先だけ巧い人」などをいう。

 見聞に長け教養のある人と交わることは有益であるが、その反対に、媚び諂い、易きに付く人、人当たりばかり良い人、口先だけの人を友とすることは有害なもの。だが、為にならない人も反面教師として見れば役に立つ場合もあるが(笑)

 確かに、自分に諂う様な人物を友としても何の役にも立たないことはよく知っていても、人というのは兎角、自分の短所や欠点を注意されることよりも、何やかんやと御世辞をいう、諂う友(人)を周りに置きたがるものだ。

 だから孔子は「良薬口に苦けれども病に利あり、忠言、耳に逆らえども、行に利あり」とも喩えている。こうした考え方は間違いではないが、如何せん、そういう立派な友などそうそうはいないのではなかろうか。皆、「朱に交われば赤くなる」の喩え通り、似た者同士が集まってしまうのも世の常というものだろう(笑)

 実社会の人間模様を見渡せば、善友、必ずしも善友ではなく、悪友、必ずしも悪友とは限らない。「毒を以て毒を制す」ではないが、悪友の方が、結果として善友以上の働きを示すことの方が多いのも確かだろう。

 分かり易く喩えれば、畳にこぼれた水を拭き取るには、乾いたタオルでは綺麗に拭き取れない。タオルを充分に水に浸し、これをキリリと絞り上げてから使うのがいい。タオルの水気が畳の水を綺麗に吸い上げるのだ。

 新しいタオルが水を吸わないのと一緒で、日頃からキレイゴトを言ってるヤツなどは、いざという時にはクソの役にも立たないものだ(笑)

 そんな上辺だけの者より、共に笑い、共に泣き、ある時は共に悪い遊びをした様な友達の方がいざという時は親身になって心配してもくれるし心強い。

 今どきのマスコミが垂れ流す安っぽい風潮に流され、請け売りの政治学を偉そうに語るヤツより、そんな政治のことは全く分からなくても、酒を愛し、趣味や惚れた女やスケベな話しを自慢顔で話してるヤツの方が信用出来るというもの(笑)

 相手の主体性を重んじることを「君子の交わり」というが、「君子の交わりは淡きこと水の如し、小人の交わりは甘きこと醴の如し」という言葉もある。

 物事をよく弁えた人の付き合いというものは水の様に自然なものなのであるが、つまらぬ小人物の交際というのは、まるで甘酒の様にベタべタした関係であり、一時的には濃密のように見えても、長続きせず、破綻を招き易いものでもある。

 facebookなどでの遣り取りを見ているとキレイゴトを並べ、ベタベタとした上辺だけのコメントが実に多い。互いに抑揚を抑え、大人の遣り取りをしているつもりなのだろうが、そんな付き合いなどに意味があるとは思えない。

「巧言令色鮮矣仁(こうげんれいしょくすくなしじん)」という訓えの通り、言葉巧みで、人から好かれようと愛想を振りまく者には、誠実な人間が少なく、人として最も大事な徳である「仁」の心が欠けているものだ。

 斯くいう愚生も、「巧言」というのは無きにしも非ずだが、「令色」に至っては、相手に気に入られようと機嫌を取ったり、笑顔を振りまく様なことはない。

 愚生の経験上、「女は愛嬌」というが、いつもニコニコと愛想を振りまいて笑顔を見せてる男にロクなヤツはおらず、根が性悪なのが少なくない。

 選挙の時だけニコニコと笑顔を見せて握手してる政治家もそうだが、「笑うと目が無くなる男には気を付けろ!」というのは強ち間違いではない(笑)

「巧言令色鮮矣仁」の言葉の対語は「剛毅木訥近仁(こうきぼくとつじんにちかし)」という。その意味は、意思が強く強固で、素朴で口数が少ない人物が、道徳の理想である「仁」に最も近い者であるということ。

 愚生は剛毅さはあると自負するが、右翼人というのは「よく読み・よく書き・よく喋る」という三拍子が必要不可欠で、そこに「よく呑む」が加われば最強。人から好かれ様とは思わないが、「巧言」というのは無きにしに非ず。呵々

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2021年04月01日

今日はエイプリルフールだが最大の嘘吐きは釈迦牟尼かキリストか(笑)

 卯月朔日。朝未だきから身を清め、神饌を替え、畏くも陛下の弥栄を念じ併せて心願成就を懸ける。今日は「四月馬鹿(エイプリルフール)」。今日だけは嘘を吐いても善い日だと言われている。でも、午前中限定らしいですので御注意を(笑)

「嘘も方便」とか「嘘は世情の宝」ともいうし、嘘というのは相手への思いやりが込められたものや、世間を和ませるシャレの利いたものが好い。

「講釈師見て来た様な嘘を吐き」なんてのもあるし、「商人は損と求めて蔵を建て」とかいう川柳もある。商売人というのは、口では「儲かりません」と言いながら、大きな蔵(家)を建てるなんてのはよくある話し。

「紺屋(こうや)の明後日(あさって)」という喩えもある。紺屋(染物屋)というのは天候に左右されるので、雨や悪天候には仕事にならず仕上がりが不安定で、約束した期日は当てにならないというもの。

 愚生の実家のラーメン屋でもそうだったが、出前の催促が来ると「今、出ました」なんてよく言ってたが、アレと同じ。出たとは言ってたが中々届かない(笑)

 花魁の世界には「手練手管(てれんてくだ)」なんてのもある。今でいうとキャバ嬢やホステスだろうか。「手練」とは人を思うままに操り騙す技巧だが、スナックなどでホステスの嘘を勘違いして、惚れてしまうってことも(笑)

 嘘には好い嘘と悪い嘘がある。自分の為に吐く嘘は感心しないが、周りを安心させる様な、また和ませる「嘘」は吐いても差し支えはない。

 気の利く嘘も吐けないというのはバカ正直。そんな輩は世間からは遠ざけられる傾向があるが、そんな馬鹿正直な人も最近はめっきり見かけなくなった。

 まぁ、何事も上っ面や一面な見方や考え方ではなく、何気の無い一言や小洒落た嘘に隠された真実や優しさを見抜くことが出来れば人生もっと面白い。

 御釈迦様(釈迦牟尼)は「地獄」「極楽」を創られ、民衆の心に安らぎを与えた。キリストもまた「天国」への夢を誘って多くの人々を救ってきたが、アレは嘘だろう。人間死んだら終わり。死んだら「無」だと思っている。

「人は小さな嘘には騙されないが大きな嘘には騙される」とはアドルフ・ヒトラー。死後に訪れるという「極楽浄土」や「天国」なんてのはその最たるもの。だが、こうした噓で、民衆に生きる希望を齎し、死への恐怖を祓った。

 仏教でもそうだが「五戒」「十戒」というのを訓えている。だが、こうした戒めを守ってる坊主や仏教徒なんぞおるまい。正しく、日本国憲法前文に明記されてる「平和を愛する諸国民の公正と信義」のキレイゴトと同列だわな(笑)

「不殺生戒(ふせっしょうかい)」。生き物を害してはならない。また他人に殺さしめてはならない。また他人が殺害するのを容認してはならない。

「不偸盗戒(ふちゅうとうかい)」。他人のものを盗んではいけない。また他人をして盗らせてはならない。また他人が盗るのを認めてはならない。

「不邪婬戒(ふじゃいんかい)」。不道徳な性行為を行ってはならない。これは、不倫や強姦を指すが、他にも性行為に溺れるなどの行為も含まれる。

「不妄語戒」。嘘をついてはいけない。また他人をして偽りを言わせてもならない。また他人が偽りを語るのを容認してはならない。

「不飲酒戒(ふおんじゅかい)」。酒を飲んではいけない。また他人をして飲ましめてもならない。また他人が酒を飲むのを容認してはならない。

 この項目に「不塗飾香鬘 (ふとしょくこうまん))」「不歌舞観聴」「不坐高広大牀 (ふざこうこうだいしょう)」「不非時食 (ふひじじき)「不蓄金銀宝」を加えたものが「十戒」。モーセの十誡も似た様なものだろう。

「五戒」や「十戒」とは、経験に基く自戒の意味を込めた箴言だと思ってるが、愚生的にはこの中でも「不飲酒戒」は守るのは絶対無理だわな(笑)

「嘘は泥棒の始まり」「嘘を吐くと閻魔様に舌を抜かれる」という様に、嘘というのは悪いものだと教わって来た。だが、噓が罷り通てるのが政治の世界。

 我が国の政治家の世界はホンネは出来るだけ出さない方が好いとされ、政治家の嘘には馴れっこになってしまっている。現代では「嘘つきは政治家の始まり」。閻魔様に舌を抜かれる様な政治家は地獄行き。つ~か、地獄の概念も噓だろうな(笑)

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2021年03月28日

原発事故の混乱を招いた菅直人の逮捕と民主党政権の総括を

 朝日新聞福島総局の小手川太朗記者の「かつて『原発事故で死亡者は出ていない』と発言した政治家がいたが、実際は全く違った。原発から4.5キロの双葉病院では、自衛隊や警察が放射性物質に阻まれて救出活動ができず、約50人が衰弱して亡くなった。当時の記憶を訪ね歩きました」との取材記事を読んでみた。

「原発事故で死亡者は出ていない」と発言した高市早苗のことを暗に批判してるが、高市は「原発事故の放射線で亡くなった人はいない」と言っただけ。高市が批判された当時もそうだが、感情剥き出しの世論の摩り替えでしかなかった。

 双葉病院の患者50人が衰弱死したのは「自衛隊や警察が放射性物質に阻まれて救出活動が出来なかった」のが原因だとしている。死亡人数は50人ではなく、双葉病院だけではなく介護施設「ドーヴィル双葉」の患者を含めて44名ではないのか。

 東京電力福島第一原発事故の刑事責任を巡り、業務上過失致死傷で強制起訴された東電旧経営陣3名に対し、東京地裁は無罪の判決を言い渡したのは記憶に新しい。反原発派らは「原発行政に忖度した不当判決」と喚いたが、無罪判決は当然だろう。

 東電幹部への強制起訴は「大津波を予見出来たのか?」ということが争点になっているが、双葉病院の患者ら44人を死亡させたとして業務上過失致死傷罪で強制したことに始まる。だが、この患者死亡の原因は民主党政権の避難指示に在る。

 起訴内容では、原発事故で避難を余儀なくされた双葉病院の患者や介護老人施設「ドーヴィル双葉」の入所者44名の死亡の責任を問われているが、死因は民主党政権下での「20キロ圏内」という科学的データを無視した愚策に因るもの。

 移動困難な、動かしてはいけない重篤な患者に移動を強いた責任者は、東電元幹部らではなく当時の首相であり災害対策本部長だった菅直人である。朝日新聞の偏向報道やデマはに事情茶飯事だが、この小手川記者も何かを況や。

 地震発生時、国会では菅直人の外国人からの不法献金が追及されていた。辞任已む無しの状況下で東日本大震災が起きた。菅は不法献金を有耶無耶にしようと、現場視察というパフォーマンスに出た。この軽挙妄動が禍根を遺すこととなる。

 東日本大震災当日から炉心溶融という「最悪のシナリオ」を予測していながら、菅直人自らが強く望んだ現地視察に因って、事故拡大防止の為に採るべき第二第三の矢を放つのが遅れてしまったことは決して見逃せない事実である。

 政府関係者は「首相を被曝させない」ことを優先する余り、1号機の炉圧を低下させる為の「ベント」と呼ばれる応急措置が遅れてしまった。この現場視察という菅の軽挙妄動こそが原発事故の現場の対応に要らぬ混乱を招き被害が拡大したのだ。

 菅直人こそ業務上過失致死傷罪で逮捕され刑務所に送り込まねばならない大悪党であり、菅が強制起訴されない裁判に意味は無い。 「自衛隊や警察が放射性物質に阻まれて救出活動が出来なかった」のであれば批判すべきは民主党政権だろう。

 東日本大震災時、民主党政権は「SPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)」の数値を隠蔽し、科学的根拠の無い「原発周辺20キロ圏内」という避難指示を下した。このSPEEDIの隠蔽が後々屋上屋を架すこととなる。

 双葉病院やドーヴィル双葉周辺は放射線量は低い地域だった。避難指示を解除し治療を優先すべきだったにも拘らず、発令した「原発周辺20キロ圏内」に拘泥して強制的に避難させてしまったことで重篤だった患者が死亡したというのが真相。

 東電旧経営陣らを庇うつもりは毛頭ないが、当時の最高責任者であり、混乱と更なる被害の拡大を生んだ菅直人が逮捕もされず、批判もされないことに正義が在るとも思えない。強制起訴までして旧経営陣のみを断罪してどうなるというのか。

 未曾有の原発事故は混乱を生んだのは致し方ないとして、事後法の如く「大津波を予見出来なかった責任は重い」だとか批判するよりも、過去の原発行政の功罪を検証し、事故当時の民主党政権下で謀られた多くの愚策の総括をするべきだろう。

 騒がれている処理水問題は何故に早くに海洋放出が出来なかったのか。何より「福島は除染をしなければ住めない土地」と風評を悪化させる原因は除染作業であり、何故に除染が強行されたのか予断なく検証するべきである。

 中間処理施設に運ばれるフレコンバッグは人体に影響を及ぼさない除染で出た単なるゴミ。これに20兆円以上の血税が垂れ流され、更には最終処分場建設という難題が残されている。反原発派の扇動に科学が負けたのはどうしてなのか。

 反原発から原発事故を殊更に論い、その責任論を然も当然であるかの様に振り翳すが、生き残った我々がいつまでも被害者意識丸出しで過去ばかりをふり返っている。だが、いつまでもその場に立ち止まっている訳には参らないのだ。

 今も凄惨な事故現場に於いて命懸けで収束しようと頑張っている方々が存在し、また、この教訓を活かそうと懸命に努力している方々が存在する。

 事故責任を問うのは法治国家では当然であろうが、それよりも大事なことは二度とこの様な「人災」と言われる過ちを繰り返さない為に我々はどうすべきなのか、また未曾有の原発事故の教訓をどう活かすかではあるまいか。

 福島原発事故に限らず、いつか起こるであろう韓国や中共、或いは世界に在る原発事故に対して、福島原発事故の収束技術と正確な科学的データが活かされることこそ、福島のこの地に住み続ける我々の願いでもある。

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2021年03月27日

プロ野球開幕。選手団の靖國神社参拝を熱望する!

 プロ野球が開幕した。その昔は、福島県内ではジャイアンツ戦しかテレビ中継しなかった。ジャイアンツファンというより熱烈的な長嶋茂雄ファンなので、どうしてもジャイアンツの結果が気になる。今年は日本一に返り咲いて欲しいものだ。

 野球が当たり前にやれなかった時代がある。支那事変が勃発し、国内では娯楽というのが消えて行った。プロ野球もその一つだが、野球選手が大好きな野球も出来ずに祖国の為に尊い命を投げ出されていることを国民は知っているだろうか。

 平和を謳歌し、愛する野球をやれるという当たり前のことを再認識する為にもプロ野球選手団は、開幕前に靖國神社に参拝し、犠牲となられ英霊となったプロ野球の先輩方に首を垂れ、顕彰することを熱望しているが未だ実現されることはない。

 参拝することで平和の尊さと、野球がやれる有難さを実感すれば選手としての思いもまた違ってくるだろうし、プロ野球人気も高まることだろう。

 読売ジャイアンツは宮崎キャンプインの際に恒例だった宮崎神宮への参拝を個人の信仰の自由(創価学会員の選手)を優先して取り止めたことは記憶に新しい。必勝祈願でさえ宗教行為と認識してる様では靖國神社への参拝は困難を極める。

 先の大戦で亡くなられたプロ野球選手は、我々が想像している以上に多く、試合の途中で出征した方や、幾度かの戦火を潜り抜けて帰還し、再び出征して終には戦場に斃れた方など、実に69名もおられる。この方々が靖國神社に祀られている。

 散華された英霊の中でも有名なのは、東京巨人軍(読売ジャイアンツ)の澤村榮治投手だろう。澤村投手がどんなに凄い選手かは説明するまでもないが、年間最優秀投手に与えられる「沢村賞」はプロ野球選手の最高の名誉である。

 澤村榮治は野球だけではなく、普段の何事に対しても真摯な態度で挑む人だったらしく、人間としても実に立派な方だったという。「巨人軍の選手たるもの紳士たれ」というのは澤村選手を見習ってのことだろうと思っている。

 背番号「14」は永久欠番となっているが、ベーブルースを三振にしたくらいで永久欠番になる訳はないだろう。プロ野球選手であるが愛国心捨て難く、異国の地で散華されたその崇高な精神を忘れない為のものであることは言うを俟たない。

 名古屋軍(現・中日ドラゴンズ)の石丸進一投手と朝日軍(現・横浜DeNA)の渡邉静内野手は特攻作戦に参加し、沖縄戦で散華されている。

 石丸投手は鹿児島県の海軍鹿屋基地から出撃の直前、最後のキャッチボールをして飛び立ったという。数時間後の死を前にどんな思いでキャッチボールをされたのだろうか、これこそが渾身の悩みであり、その心中を察するに余りある。

 渡邉静選手も同じく鹿屋基地から沖縄へ出撃している。夢見て憧れて入団したプロ野球人生での打席はたった二度しかない。戦争が悲しい現実を彼に与えてしまった。さぞ心残りだったろうが、未来を後輩に託して散華されたのだ。

 彼らは野球への情熱を「特攻」というカタチで尊い命を捧げ、沖縄を、そして祖国日本を死守すべく散華された。プロ野球選手団はそれに応える意味でも開幕前に靖國神社に参拝し、先人の御霊に感謝の誠を捧げるべきだと思う。

 現代の平和は英霊の犠牲の上で成り立っているのだ。自らの命を犠牲にすることで、祖国日本や家族、故郷や友人ら愛するものを守るという彼らの至高の精神を決して忘れてはならない。プロ野球選手団の靖國神社参拝を実現しよう。

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2021年03月26日

「聞くは一時の恥、聞かぬは末代の恥」というが

 愚生のブログのサブタイトルに哲学者・西晋一郎の「我が民族の将来と国家の前途を思うは人間の最も真剣なる感情であり、君国に忠、親に孝なるは最も現実なる道徳である。之を離れては人類愛も世界的正義も空想に過ぎない」と記している。

 西は「教えるとは実に教えられることである」とも教えている。本を読んだり、為になる話を聞いたり、感じた部分を書き留め、それを実際に他人に教えることで自分に足らないものに発見したりする。その気付きが学びに繋がる。

 子育てにしても子供に学び共に成長していくもの。また、教諭が生徒に教えられることもあるだろう。「教えるとは実に教えられることである」とは正しく。

 SNSなどでもアップした記事へ反論や批判に応じることで、新たな発見や理論の形成と自分自身の向上にも繋がるということも少なくなく、意見の対立しがちなSNSと雖も、持ちつ持たれつの関係が成り立っている。

「聞くは一時の恥、聞かぬは末代の恥」という。だが、分からないからと直ぐに「分かりません」とか「分からない」を連発するヤツというのは、説明してやるとその場では頷くが実際には全く理解出来ていない場合が多く時間の無駄となる。

 説明を聞く側も自分で調べた上で「分からない」ことを聞けば好いが、その基本的なことさえも備わっていないのに安易に聞いてくるのは余り感心しない。

 後輩や門下生にもいるが、こっちが話しているのに「分からない」と話の鼻を折るから先に進めない。その場で説明してやっても愛想よく返事するばかりで碌々理解していない。分からないならメモを取り、後で自分で調べれば好いこと。

「分からない」とは稚児だけに許された言葉であって、本来は大人が使う言葉ではないのだが、今では恥ずかしくもなく「ワカンナイ」を連発している。

「三つ心、六つしつけ、九つ言葉、十二文、十五理で末決まる」という金言がある。先達はこうした養育法を実践した。昔の寺子屋は三歳入学。それまでに親は愛情を注ぎつつ、心を自覚させることに重点を置いて育てることを意識した。

 六歳くらいになると善悪の判断を知る年齢になる。そこで「躾」というのが必要となって来る。躾とは「仕付け」とも書くが、着物を縫う時に仮縫いが大事な様に、幼少期の躾という仮縫いは親として最も大事な務めでもある。

 九歳までには言葉や挨拶の重要さを教え、十二歳になる頃には文章も書ける様にならなくてはならない。十五歳になれば昔の元服であり、立派な大人の仲間入り。

 そこで「理(ことわり)」を理解しなくてはならない。「理」とは道理であり、条理であり、つまりは当たり前な事であり、生きて行く上での常識である。

 我が国は性善説で成り立っているが、それは三歳頃までの親からの愛情や幼少期の躾、学校での学習と社会全体での「理」を教える環境が整っていなければならないのが大前提。そう考えれば現代の日本人に性善説など通用するとは思えない。

 将来を担う子供達を育むには「親」と「学校」と「社会(地域)」の三つのどれが欠けても好ましくはない。この三つのバランスが大事なのである。

 昨今は親が躾を放棄し、教諭が厳しくすれば「体罰だ」と大騒ぎ。会社の上司や同僚にも恵まれず、社長は社稷を重んじることなく金儲けに狂奔するばかり。

 そういう意味では親からも学校からも社会からも厳しく育てられて来なかった現代の若者というのは現代社会教育の犠牲者と言えなくもない。

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2021年03月24日

皇統断絶を謀る「女性宮家」「女性天皇」「女系天皇」論に騙されるな!

 皇統断絶を目指す勢力の「女性天皇」や「女系天皇」の啓蒙が功を奏し、共同通信社の世論調査では実に国民の70%が賛成しているという。だが、アンケートに答えた人が女系天皇の意味を知っているとは思えない。

 新聞では「女性天皇」や「女系」とのタイトルが躍り皇位継承の危機を煽る。今上陛下が即位し、秋篠宮皇嗣殿下と秋篠宮悠仁親王殿下の皇位継承が確実なのに何を急ぐ必要があるのか。要は、敬宮愛子内親王を即位させる為の姦策に過ぎない。

 日本国憲法第二条には「皇位は世襲のものである」と明記されている。皇統断絶を謀る勢力は護憲派であり、今後はこの条項を理由に「秋篠宮殿下への皇位継承は憲法違反である」と騒ぎ立てて来るのは明らか。

 安倍前首相やその周辺の営業保守派やインチキ右翼らが憲法九条改正に躍起だが、国防とは領土主権だけではない。三島由紀夫は「国防とは、それを失えば日本では無くなってしまうことを護ること」と訓えた。

 畢竟、国防の中でも皇統を死守することこそ肝要であり、ならば、憲法九条より、第一章「天皇」の条項、特に第二条こそ議論すべきである。

 女性が天皇に就くというのは普通の生活は送れないということを意味する。女性天皇論者は、天皇としての国事行為や祭事の重要性を理解していないから安易に語れる訳で、天皇を軽んじてる証左でもある。

 過去に八人の女性天皇が存在したがその全ては男系の「女性天皇」であり、愛子内親王が天皇に即位されてもそれは男系の女性天皇となる。愛子天皇が御成婚となり、第一子を生んだ場合それは男系ではなく「女系」となる。

「旧皇族と結婚すれば問題ない」という声もあるが、ならば皇籍復帰を先に行うべきであり、本末転倒とはこのこと。若し、愛子天皇の御相手が元皇族でなかったらどうなるのか。女性天皇が嫡子を産まなかった重い意味を知るべし。

 女性皇族が結婚することで皇籍を離れるのは、一般人としての生活を重んじよとの天皇の大御心でもある。そうしたことを理解せず、女性が天皇に成れないのは女性差別であるかの様に語ることこそ女性差別だろう。

 多くの国民は陛下の御負担を「女性宮家創設で軽減する」と思っている。だが、天皇が重んずべき「祭祀」の代行は名代として掌典長のみが許され、国事行為の代行は憲法第四条の第二項よる委任か摂政のみが可能である。

「摂政」を置くにしても皇室典範と憲法に基づかねばならず、若し女性宮家を創設し国事行為を担わせるのならば憲法第四条を改正しなければならない。

 だが、安倍の改憲論を始め、それらに与する営業保守派や自称・愛国者らの改憲論は第九条ばかりで「第一章・天皇」の条項が議論されることはない。

 新聞記事には「政府の対応に有識者からは怠慢との批判が出る」と書かれてるが、その有識者とは一体誰か。所詮は女性天皇を推す学匪ばかり。上皇陛下が退位させられたのも所謂「生前退位を考える有識者会議」だったではないか。

 皇統のことは皇族の意見を尊重するべきだが、昭和22年、GHQはこの皇室典範を改悪し、憲法や法律以前の御存在であらされる天皇を法律の配下に置いた。

 現在の「皇室会議」は、皇族2名と衆参両院正副議長、最高裁長官、宮内庁長官ら非皇族8名の10人で構成されている。皇室会議の予備議員には「天皇は逮捕されるべきだ」と断じて憚らない反天皇活動家でもある菅直人がいた。

 明治皇室典範下の「皇族会議」は、成年男子皇族20名によって組織された機関だった。非皇族は内大臣、枢密院議長、宮内大臣、司法大臣、大審院長の5名で、皇族の意見が重んじられたが、今は有識者なる連中の意見が優先される。

 現在の「皇室会議」や胡散臭げな有識者が諸悪の根源でもある。成年皇族が少ないのは戦後、GHQに強制的に11宮家が臣籍降下させられたことが原因であり、皇統を盤石の安きに置くなら旧皇族の復帰を成す以外には無い。

 旧11宮家の方々は北朝第3代崇光天皇の皇子、栄仁親王から始まる伏見宮の系統に属し今上天皇との関係は、室町時代の伏見宮貞成親王を共通の祖先とされている。旧宮家が皇籍復帰すれば男子成年皇族は15名になり安泰だ。

 旧皇族の皇籍復帰に難色を示す勢力と「女性宮家」「女性天皇」「女系天皇」を推進している連中は同じ穴の狢。如何にも皇室の将来を案じているかの様に装ってるが、こうした奸賊共の策謀に騙されてはならない。

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2021年03月22日

今の境遇に合わせて、家に閉篭り、寝て暮らそうと考えている(葉隠)

 座右の書ではないが「徒然草」と「葉隠」は折折目を通す。「徒然草」三十八段には「名利に使われて、閑かなる暇もなく、一生を苦しむこそ、愚かなれ」とある。

 世俗的な名声とか地位とか財産とかに身も心も使われて、心静かにゆったりと生活を楽しむ余裕もなく、一生あくせくと暮らすなど実に愚かなことだと訓える。

 また「葉隠」には「自分は寝ることが好きだ。だから、今の境遇に合わせて、家に閉篭り、寝て暮らそうと考えている」との一節がある。

 こうした教えを真似している訳ではないが、団体を辞して以来、家に閉篭って、只管果報を寝て待つが如く、日々成るが儘に身を委ねている(笑)

 蟄居というのはチョッとカッコ付け過ぎで、何のことはない、「出れば出銭」ともいうし、慢性的手元不如意という今の境遇では、やりたいことがあっても儘ならないというのが正直なところで、閑居して不善を成すと言ったところか(笑)

「葉隠」の正式名称は「葉隠聞書」「葉可久礼」とも言う。佐賀藩士・山本常朝が、同藩の田代陣基(つらもと)に語った口述記録。「葉隠」の冒頭に書かれた「武士道といふは死ぬ事と見付けたり」との一節は誰もが知る言葉だろう。

 一般に我が国の「武士道」を著した本というと「葉隠」よりも、新渡戸稲造の「武士道」を挙げる人は多いのではなかろうか。「武士道」とは違って、「葉隠」から思い浮かべるのは「右翼的」や「忠君愛国的」というイメージだろうか。

「葉隠」は、親鸞の「歎異抄(たんいしょう)」と共に、学徒出陣で戦地に赴いた学生達に最も読まれた本でもある。それは「歎異抄」が「死の平安」を語り、「葉隠」が「死の覚悟」を語ったものだったからだろうと推測する。

 多くの人は、冒頭に書かれた「武士道といふは死ぬ事と見付けたり」だけが独り歩きし、ロクに読みもせずに「危険な書」だと決め付けているのではないだろうか。

 三島由紀夫は「葉隠入門」で、葉隠とは「行動の知恵と決意が自ずと逆説を生んで行く、類の無い不思議な道徳書。如何にも精気に溢れ、如何にも明朗な人間的な書物」と語っているが、危険な書というより道徳を分かり易く教えている。

 例えば「意見の仕方」というのがある。「『人に意見してその人の欠点を直す』ということは大切なことであり、慈悲の心とも言える。ただ、意見の仕方には骨を折る必要がある。大方の人は、人に好まれない言い難い事を言ってやるのが親切の様に思い、それが受け入れられなければ、自分の力が足りなかったとしている様だ。こうしたやり方は何ら役に立たない。ただ悪戯に人に恥をかかせ、悪口を言うだけの事と同じ結果になってしまう」と教えてる様に、意見や苦言というのは意外に難しい。

「意見というものは先ず、その人がそれを受け入れられるかどうかを見極め、相手と親しくなり、何時も信用する様な状態で仕向ける処から始めなければならない。言い方なども工夫し、時節を考え、自分の失敗談等を話しながら、余計な事を言わなくても思い当たる様に仕向けるのが良い。先ずは良い処を褒めて気分を引き立てる様に心を砕き、そうした上で欠点を直していくというのが意見というものである」と説く。

 なんと細やかな心遣い、これ程の気遣いをする現代人はいないだろう。「葉隠」は「死に狂いの思想」と云われている様に、狂信的な箇所も少なくないが、一方で現代人にも通用する教えも多く、非常に役に立つ内容も少なくない。 「美しく死ぬか」と教えるが、同時に「何の為に生きるか」とも説いているのだ。

「人間の一生なんて真に短いものだ。だから、好きなことをして暮らすべきである。夢の間の間の中にあって、嫌なことばかりして苦しんで暮らすことは愚かなることである。だが、このことは悪く解釈されては害になるので、若い人などには最後まで話すことがなかった秘伝といったものである。自分は寝ることが好きだ。だから、今の境遇に合わせて、家に閉篭り、寝て暮らそうと考えている」と語っている。

 三島由紀夫はこれを「逆説である」と教えている。「葉隠」は、書かれている内容のその裏の真実を読み取る術が要求されるとも語っているが正しく。

 出来ることなら「家に閉篭って、只管果報を寝て待つが如く、成るが儘に身を委ねている」という、愚生の裏の真実を読み取って、行動右翼としての生き様を全うさせようと物心両面で応援してくれる強力な支援者が現れないだろうか(笑)

「封建道徳は悪である」といった概念で読む人には「葉隠」は全く理解されることはないだろうが、「葉隠」に接することで、武士道の世界というのは現代人よりも、もっと優しさと慈愛に満ち溢れた世界だったことが理解出来るのではなかろうか。

 常朝は世知に長けた人物であり、常朝の日常の言葉を連ねた「葉隠」とは、日本人の優れた道徳規範と処世術を教えてくれる日本人必読の名著である。まぁ、取り敢えず三島由紀夫の「葉隠入門」から読んでみるのが好いと思う。

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2021年03月20日

「春分の日」や「秋分の日」は春季皇霊祭・秋季皇霊祭が始まり

 仏教では「春分の日」や「秋分の日」は、彼岸の中日として墓参りに出向く。祝日法では「自然をたたえ、生物をいつくしむ」ことを趣旨としている。何故にこの日に自然を称え、自然を慈しむのか、意味が今一つ分からない。

「暑さ寒さも彼岸まで」などと、季節の変わり目の様に感じているが、彼岸会法要は天皇の詔(みことのり)として始められた行事だった。皇室行事である春季皇霊祭・秋季皇霊祭を、国民が祖先を供養する日として定着するに至った。

 こうした彼岸会法要からも天皇と国民の深い結び付きを窺い知る。正に我が国は天皇の国であり、天皇即日本である。皇室は常に国民と共に在り、この「君民一体」こそが、万邦無比の我が国體の精華なのである。

 今では「春分の日」「秋分の日」という名称が当たり前になっているが、別にこの日が冬と春の境の日でも夏と秋の分かれ目でもない。祝日法の「自然をたたえ、生物をいつくしむ」とは、皇室行事を葬る為のまやかしである。

 戦前は秋分(春分)の日ではなく「皇霊祭」と称した。明治11年(1878年)、それまでの歴代天皇や主たる皇族の忌日を春と秋に纏め奉祀したのが始まり。

 明治41年制定の「皇室祭祀令」では春季皇霊祭・秋季皇霊祭が大祭に指定された。統治下だった昭和22年5月2日、GHQは「皇室祭祀令」を廃止する。然し乍ら、宮中では従来通りの春季皇霊祭・秋季皇霊祭が続けられている。

 皇居内の宮中三殿の一つである「皇霊殿」には歴代天皇、皇族の霊が祀られており、この日は皇室の重要祭祀である「皇霊祭」が斎行される。また、全国の神々が祀られる「神殿」では、神恩に感謝する「神殿祭」も同日斎行される。

 つまり、春分の日を「春季皇霊祭」として、秋分の日を「秋季皇霊祭」として復活させることは、我が国の国體の精華を取り戻すことでもあるのだ。

「春分の日」「秋分の日」を「彼岸」と言うが、これは「節分」「八十八夜」「土用」「入梅」「半夏生」などの雑節の一つで二十四節気の「五節句」などの暦日の他に、四季折々の季節の移り変りを日本的に表した特別な暦日のことをいう。

 こうした歴日が、我が祖国日本の四季折々の麗しい情景を深める。「春分」と「秋分」は、太陽が真東から昇り、真西に沈むので、西方に沈む太陽を礼拝し、遙か彼方の極楽浄土に思いを馳せたのが彼岸の始まり。

 現在では彼岸の仏事は浄土思想に結びつけて説明される場合が多く、浄土思想での極楽浄土(天国)は西方の遙か彼方にあると考えられている。

 彼岸会とは7日間に行う仏事で、「彼岸」は「日願(ひがん)」に喩えられ、仏教語としての彼岸は後から結びついたものであるという説もある。

 俗に彼岸の中日には先祖に感謝し、前後の6日間は悟りの境地に達するのに必要な6つの徳目「六波羅蜜」を1日に1つずつ修める日とされている。つまり、仏教徒というのは日々修行なのだ。でも、そんな仏教徒に会ったことはないが(笑)

「六波羅蜜(ろくはらみつ)」とは紀元前後頃に起こった大乗仏教に於ける六種の修行で、菩薩が涅槃に至るための六つの徳目のことで「六度」ともいう。

 その六種の修行とは、施しという徳「布施波羅蜜」、戒律を守る徳「持戒波羅蜜」、忍耐という徳「忍辱波羅蜜」、努力という徳「精進波羅蜜」、精神統一という徳「禅定波羅蜜」、智慧という徳「般若波羅蜜」をいう。

 六つの徳目の中で「持戒」「忍辱」「精進」「禅定」「智慧」の五つというのは言葉では理解するが、これらを修めるのは容易なことではない。

「布施波羅蜜」という施しは目に見えて分かるので、仏教の世界、中でも昨今の葬式仏教や新興宗教の世界では「布施」ばかりが信心の裏返しであるかの様な我田引水的な都合の好い解釈が罷り通っているのは仏の教えとは程遠い気がする(笑)

「施し」というのは、愚生的には、自分より能力的に肉体的に劣る者や難渋している者、悩みや壁にぶち当たっている者に対し助言や金銭的なものを含めて支えて悩みを軽くしてあげることこそが真の施しというものだと思っている。

 波羅蜜とは「魔訶般若波羅密多(まかはんにゃはらみた~)心経」で始まる般若心経にも頻繁に出てくる言葉だから馴染みがある言葉だろう。般若波羅密多の「魔訶」とは「尊いもの」という意味だが、理解している仏教徒は少ない(笑)

 死んでも戒名さえ貰えば極楽浄土に往けると思ってる仏教徒ばっかだが、戒名を頂くということは「御釈迦様(釈迦牟尼)の弟子になるということ」。要は、仏教徒というのは生きている間も、死んでからも修行は続くのである。呵呵。

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2021年03月19日

釈迦牟尼は「地獄」「極楽」を創られたがあれもウソだろう(笑)

「ウソも方便」という。だがその「ウソ」は言い訳とかではなく、相手の立場に立って、相手への思いやりが込められたものでなければならない。

 彼岸なのになんだが、釈迦牟尼は「地獄」「極楽」を創られたがアレこそ「ウソも方便」の最たるものだろう。だがこうしたウソを吐いて、民衆の心に安らぎを与えた。キリストもまた「天国」への夢を誘って多くの人々を救ってきた。

「人は小さなウソには騙されないが大きなウソには騙される」とはアドルフ・ヒトラーだが、「地獄」「極楽」「天国」なんてのは大きなウソの典型だろう(笑)

 人間死んだら終わり。「無」、何も無い世界だ。だから「極楽浄土」なんてのは死後の世界には無く、現世にこそ存在してると思っている一人でもある。

 如何にして身近にいる自分よりも劣る者や弱い者を助けられるか、与えられるか、難渋している人に如何に施してあげられるか、現世の苦しみを多少でも救ってやることこそ「極楽浄土」なのではなかろうかと単純にそう考えている。

「不妄語戒(ふもうごかい)」という仏語がある。「ウソ偽りを言ってはいけない」という在家が護るべき「五戒」並びに「十戒」の戒めの一つである。

 コレこそウソの典型の様なもので、人というのはウソや偽りを騙る性分なので守るのは困難。そうした自戒を込めた箴言というのが正しいか(笑)

「五戒」とは「不殺生戒(ふせっしょうかい)」。生き物を害してはならない。また他人に殺さしめてはならない。また他人が殺害するのを容認してはならない。

「不偸盗戒(ふちゅうとうかい)」。他人のものを盗んではいけない。また他人をして盗らせてはならない。また他人が盗るのを認めてはならない。

「不邪婬戒(ふじゃいんかい)」。不道徳な性行為を行ってはならない。これは、不倫や強姦を指すが、他にも性行為に溺れるなどの行為も含まれる。

「不妄語戒」。嘘をついてはいけない。また他人をして偽りを言わせてもならない。また他人が偽りを語るのを容認してはならない。

「不飲酒戒(ふおんじゅかい)」。酒を飲んではいけない。また他人をして飲ましめてもならない。また他人が酒を飲むのを容認してはならない。

 愚生には耳の痛い戒めだが、中でも「不飲酒戒」は守るのは絶対無理だわな。ここまで自分を律して生きてる人というか坊主もおるまい(笑)

 政治家の世界、特に我が国の政治では例え正論でもホンネは出来るだけ出さない方が好いとされている。これは政治家の伝統でもあるし、国民も、これが好いのか悪いのか、政治家のウソには馴れっこになってしまっている。

「ウソは泥棒の始まり」「ウソを吐くと閻魔様に舌を抜かれる」など、嘘を吐くことは悪いものだと教わって来た。だが、現代は「ウソは政治家の始まり」とも揶揄される。こうした政治家しかいないのは国民にとっては不幸なことだ。

「ウソは世情の宝」ともいうし、ウソというのは悪意のない、ウソだとバレバレでも、どこかクスッと笑える世間を和ませるものが好い。

「講釈師見て来た様なウソを吐き」なんてのもあるし、「商人は損と求めて蔵を建て」とかいうのもある。商人というのは、口では「儲かりません、儲かりません」と言いながら大きな蔵(家)を建てるなんてのはよくある話し。

「紺屋(こうや)の明後日」なんてのも笑えるウソだ。実家のラーメン屋でも出前の催促が来ると「今、出ました」なんてよく言ってたが、アレと同じ(笑)

 花魁の世界には「手練手管(てれんてくだ)」なんてのもある。「手練」とは人を思うままに操り騙す技巧だが、皆さんも、飲み屋でホステスのウソを勘違いして、ついつい熱くなってなんて、そんな思い当たる節はありませんか(笑)

 ウソには好いウソと悪いウソがあるのは理解しているだろう。自分の為に吐くウソは感心しないが、周りを安心させる様な、また和ませる「ウソ」は吐いても差し支えはない。そんな「いいウソ」も吐けないのは正直というよりバカ正直。

 そんな輩は世間からは遠ざけられる傾向があるが、そんな馬鹿正直な人も最近はめっきり見かけなくなった。まぁ、何事も一面な見方や考え方ではなく、ホンネやウソに隠された真実や優しさなどを見抜ける能力を身に付けることが肝心。

 皆さんも、シャレの効いたウソをたまには吐きませんか(笑)

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2021年03月12日

東日本大震災後での政治の不作為と混乱を予断なく検証し総括せよ!

 東日本大震災から10年の昨日、政府による追悼式が行われ県内でも追悼復興祈念式などが催された。ネットなどでも犠牲となられた方々へ哀憐の言葉が手向けられた。政府主催の式典では天皇皇后両陛下が御臨席遊ばされ御言葉を述べられた。

 県追悼復興祈念式で、内堀雅雄知事と太田光秋議長は犠牲者を悼み、遺族の方々に哀悼の意を表し「巨大地震と大津波に加え、原子力発電所の事故という未曽有の大災害は4000人を超える尊い命を奪った」と昨年と同じ式辞に違和感を覚える。

 東日本大震災で亡くなられた方々は巨大地震に因る大津波が原因であって、「原発事故関連」の死者はいるが事故での放射線被害で直接亡くなった人はいない。原発事故で尊い命が犠牲となったかの様な「複合災害」との言葉は混乱を生む。

 原発事故の関連死はあるが、放射線で直接亡くなられた人はいない。民主党政権が行った強制避難命令に由り、重篤な患者や医療弱者が緊急に移動させられ亡くなったのは原発事故が原因というより、民主党政権の科学を無視した愚策に在る。

 地震発生時、国会では菅直人首相の外国人からの不法献金が追及されていた。辞任已む無しの状況下で東日本大震災が発生。菅は不法献金を有耶無耶にしようと現場視察というパフォーマンスに出た。この軽挙妄動が混乱に拍車を掛けることとなる。

 東日本大震災当日から炉心溶融という「最悪のシナリオ」を予測していながら、菅直人自らが強く望んだ第一原発視察に因って、事故拡大防止の為に採るべき第二第三の矢を放つのが遅れてしまったことは決して見逃すことは出来ない。

 政府関係者は「首相を被曝させない」ことを優先する余り、1号機の炉圧を低下させる為の「ベント」と呼ばれる応急措置が遅れてしまったのだ。

 この現場視察という菅の軽挙妄動こそが原発事故の現場の対応に要らぬ混乱を招き被害が拡大した要因である。今日の金曜ロードショーで「FUKUSHIMA50」が放映されるが、この映画が野党らに不評なのは、事実が曝されているからだろう。

 東電幹部なんぞより菅直人こそ「業務上過失致死傷罪」で逮捕され刑務所に送り込まねばならない大悪党であり、菅が強制起訴されない裁判に意味は無い。

 東日本大震災時、民主党政権は「SPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)」の数値を隠蔽し、科学的根拠の無い「原発周辺20キロ圏内」という避難指示を下した。このSPEEDI数値の隠蔽行為が後々禍根を残す。

 双葉病院やドーヴィル双葉の周辺は放射線量も低い地域だった。避難指示を解除し治療を優先すべきだったにも拘らず「原発周辺20キロ圏内」に拘泥して強制的に避難させてしまったことで患者が死亡したというのが事実である。

 双葉病院や介護老人施設に入所していた移動困難な動かしてはいけない重篤な患者に移動を強いた責任者は、当時の首相であり災害対策本部長だった菅直人であり、科学的データを無視した避難指示は正しく殺人行為でもあったのだ。

 東電旧経営陣らを庇うつもりは毛頭ないが、当時の最高責任者であり混乱と更なる被害の拡大を生んだ菅が逮捕されないことに正義が在るとも思えない。当時の政権の失政を総括し、政治家全体の責任として猛省しなければその意味は無い。

 騒がれている処理水問題にしても何故に早くに海洋放出が出来なかったのか。何より「福島は除染をしなければ住めない土地」と風評を悪化させる原因を作ったのは除染作業であり、何故に除染が強行されたのか予断なく検証するべきである。

 事故責任を問うのは法治国家では当然であろうが、それよりも大事なことは二度とこの様な「人災」と言われる過ちを繰り返さない為に我々はどうすべきなのか、また未曾有の福島第一原発事故の教訓を今後にどう活かすかだろう。

 福島原発事故に限らず、いつか起こるであろう韓国や中共、或いは世界の原発事故に対し、福島第一原発事故の収束技術と正確な科学的データが活かされることこそ福島のこの地に住み続ける我らの願いでもある。

 余談だが、内閣府は今月初め「3月11日の午後2時46分に1分間の黙とうを捧げ、御冥福をお祈りすることとしております。国民の皆様におかれましても、これに合わせて、それぞれの場所において黙とうを捧げるなど、犠牲者の御冥福をお祈りいただきますよう、お願いいたします」との談話を発表した。

 気になるのは「御冥福を祈る」との言葉だ。「御冥福」とは「死後の幸福」という意味。浄土真宗の教義は「死は穢れ」ではないから死後の幸福は考えない。

 故人を阿弥陀如来の智慧の光明によって極楽浄土へと導くという真理である。「御冥福」を使うことは阿弥陀如来の否定であり、浄土真宗への冒涜でもある。

 ネットなどでも犠牲者を悼み「御冥福」の言葉が氾濫してる。「御冥福」というとそれらしく聞こえるから使いたくなるのだろう。亡くなられた方の宗派が分からないなら「哀悼の意を表します」「お悔やみ申し上げます」と言い換えるべきだ。

 葬儀告別式でも地元選出議員らの選挙活動の一環として弔電披露が行われる。宗派に関係なく「訃報に接し心より御冥福を祈ります」などとやってるアホ議員が多いのには厭きれる。死者を悼むならその前に仏教や宗派の教えを学んだら如何か。

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2021年03月11日

本日は犠牲者を悼み心静かに一日を過ごしたいものです

 震災当日の午後3時頃、国会中継を見ていると「緊急地震速報」のテロップが流れた数秒後、ゴーという不気味な音と共に起きた大きな揺れに徒ならぬ不安を覚えた。約1分程の揺れが数十秒の間隔を置いて3回、凡そ5分間の激震が続いた。

 余震の続く中、部屋を見渡すとは色んな物が散乱し、天井は歪み、サッシ戸や窓は全て開き、風呂場の壁は剥がれ落ちてた。愚妻に連絡を取るも携帯は繋がらない。twitterやfacebookなどのSNSをやらせとけばと悔やんだが仕方ない。

 散乱した物を片付けながら帰りを待った。暫くすると倅夫婦と孫も一緒で全員の無事な様子に安堵した。 倅夫婦は孫のミルクもオムツなども持って来る余裕も無く、余震が続く中で近所のツルハドラッグに買い出しに行った。

 地震で散乱した店内。ミルクや紙オムツなど必要な物を探してレジに持って行くと、「こういう状況なので御代は落ち着いてからで結構です。困ってる時は御互い様です。また来店して下さい」との店員の言葉に甚く感動したのを覚えてる。

 翌日、イトーヨーカドー郡山店へ買い出しに行くも商品が少ない。水を購入しようと探すも2ℓサイズは既に売り切れで、普段は30円程で売ってる小さな300㎖のペットボトルの水が一人2本限定で1本100円で売っていたのには厭きれた。

 正に便乗商法。ツルハドラッグの店員とはエラい違いで、商魂逞しいと言えばそれ迄だが、営利主義の賤しさを目の当たりにし嫌な気分になったのを思い出す。

 兎に角、経験したことの無い長く強い地震だった。大津波で亡くなられた方々に比べれば無事だったことは不幸中の幸いとしか言い様がない。

 福島県の被災者は宮城や岩手県の被災者に比べて恵まれている方だ。だが、県内の被災者は生活の不満を口にし、何かと理由を吐けては帰還を拒み、「賠償」「賠償」のオンパレード。原発事故に託けて甘え過ぎてはいないか。

 原発事故の被害は原発周辺者に限らず県民なら誰もが同じことで、偶偶、原発周辺20㌔以内に住んでたからこそ補償の対象になっているだけのことだろう。

 民主党政権は「SPEDDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム)」の数値を隠蔽して原発周辺20㌔圏内の住民の避難指示を決定した。自称原発被災者のホンネは、菅政権と東電サマサマというのがホンネ(苦笑)

 20㌔圏内だった川内村や楢葉町、双葉町、富岡町といった割かし放射線の低い地域にも避難命令が出された。川内村の住民は郡山市に避難することになったが、川内村の放射線量は当時の郡山市の放射線よりより低かった(笑)

 被災者らは口々に「帰りたくても帰れない」「昔の故郷に戻せ」「生業を補償せよ」というが、帰る気になれば帰れるし、昔の故郷とは原発設置以前の故郷か?農業だけで食えるのか?生業って原発好景気だった頃の生業か?

 原発周辺の住民は東電関連の仕事に従事していた方が多い。既に福島第二原発の廃炉が決まった現状では、故郷に帰っても仕事が無いというのが現実だ。福島第二原発の再稼働こそが復興の象徴になると考えていただけに残念でならない。

 感情的な反原発の流れから全廃炉を目指すというなら、地元から離れなくてはならなかった被災者に対して避難している土地での再起を促し、納得させるのも政治の責任である。同時に自称被災者の自主避難者への優遇措置は止めるべきだ。

 世界が福島原発事故の行方を注視する中で、ロクに休養も取らずに過酷な現場で従事している方々がいる。「FUKUSHIMA50」は、原発事故後構内に留まって業務対応に従事した勇者らを描いた映画だ。明日の金曜ロードショーで放映される。

 この50人の多くは地元の小高工業高校(現・小高産業技術高校)のOB。海外のメディアは、この従業員たちの勇気を讃え「Fukushima 50」と称えた。一方で、日本のマスコミといえば「東電社員が逃亡」などと噓八百の報道を垂れ流した。

 映画「FUKUSHIMA50」では当時の菅政権の対応がリアルに描かれているという。そんなこともあって中身を知られたくなかった元民主党の議員や反原発派らには至って評判が悪いらしいが、つまりは事実を描いた作品ということだろう(笑)

 原発構内で働いている彼らの勇気ある行動と人智が我が国の未曾有の国難を救い、その努力が必ずや報われる様に無事終息されることを願って止まない。

 マスコミは大震災を忘れまいと犠牲者を取り上げ、反原発派が原発事故を騒ぎ立てるが、本日は心静かに一日を過ごしたいものです。東日本大震災で発生した大津波で犠牲になられた方々に対し衷心より哀悼の意を表します。合掌再拝。

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2021年03月10日

3月10日は日露戦争奉天会戦勝利を祝う「陸軍記念日」

 明治38年(1905年)3月1日から、日露戦争最後の陸上戦である「奉天会戦」が大山巌陸軍大将指揮の下で干戈を交え、激戦の末に同月10日勝利を収めた。

 翌年政府は、奉天会戦の勝利の功績を遺そうと3月10日を「陸軍記念日」として制定。以後、国民挙って御祝いしていた記念日である。因みに「日本海海戦」で、バルッチック艦隊を撃破し劇的勝利を収めたた5月27日は「海軍記念日」である。

 昭和20年3月10日、戦果芳しくない大東亜戦争の起死回生の戦いと神風を信じ、国民が「陸軍記念日」を祝っている日に米国は日本本土一斉攻撃を断行する。

 この「東京大空襲」の爆撃に因って、非戦闘員である多くの無辜の人々の尊い命が失われた。米軍による大空襲はこの日が最初だった。米国は「日本の多くの家屋が木造だ」という理由から火炎の強い焼夷弾を投下したのは言うまでもない。

 米軍この大空襲に飽き足らず4月14日及び5月25日にも空襲を断行した。5月25日の空襲では、その戦災はあろうことか皇居にも及び明治宮殿が全焼した。更には陛下の執務室や御所、正殿などの儀式殿を失うこととなった。

 我が国の記念日への侮辱は東京裁判でも発揮され、所謂A級戦犯が「死刑」の判決日が、昭和天皇の「天長節」、処刑日は12月23日、当時の皇太子の誕生日であり後の「天長節」に合わせて執行され、贖罪意識の植え付けに狂奔した。

 遡ること明治37年12月10日、我が国は当時世界最大の軍事大国ロシアに対し敢然と宣戦布告した。開戦前、世界の軍事専門家の中で日本勝利を予想した者が一人もいなかったが、我が国は1年半に及ぶ大戦に奇跡とも言える勝利を収めた。

 国民が決死の覚悟を以て開戦に踏み切った日露戦争の勝利は、結果として白人主義の欧米列強に有色人種である我が国の地位を認めさせることとなった。

 この勝利に由って幕末以来の懸案事項であった不平等条約の改正に繋がって行く。 即ち、明治維新の真の目的であった「治外法権」と「関税自主権」という二つの不平等条約の改正が、この日露戦争の勝利によって実現されたのだった。

 この二つの不平等条約の内の「治外法権」は、既に日清戦争後の明治32年に克服したが、「関税自主権」は克服出来ず、日露戦争勝利に由り回復実現することで明治維新は成就し、我が国は真に独立を回復することが出来たのである。

 日露戦争の勝利は、世界の植民地政策で搾取や弾圧を受けている民族の独立心を駆り立て、後の大東亜戦争後の植民地の解放に繋がって行くこととなる。

 日露戦争の世界史に於ける歴史的意義は、有色人種の日本人が白人に勝利することに由って、当時、欧米列強に植民地にされていた世界中の被抑圧民族を感動させ、独立への夢を駆り立てた大きな意義を持つものだったのである。

 日露戦争が齎した歴史的課題である「人種平等」の本格的な実現は、大東亜戦争を待たなければならなかった。我が国の先人の努力と苦労に想いを馳せれば感謝と尊敬の念は益々深まり、日本人として生まれた事に感激せずにはいられない。

 陸軍記念日万歳!天皇陛下万歳!すめらぎいやさか!

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2021年03月09日

感情的な議論より日本の技術力をもっと信用しようじゃないか

 東日本大震災の3・11に合わせ、県内を中心に犠牲者を悼む行事が各地で行われる。マスコミの報道は、恰も大震災で亡くなったのは原発事故だったかの様な世論誘導に違和感を覚える。大震災で犠牲になった方々の殆どが大津波に因るものだ。

 マスコミが行った世論調査では「県発事故の風化を感じる」という人も多いという。こうした結果を見ると、あくまでも危険であらねばならないと、放射線の恐怖と不安を煽り続けている反原発派やマスコミの思惑とは裏腹に、徐々にではあるが放射線が及ぼす影響はないということが国民に理解されて来た証左と言えよう。

 一方で「原発事故を風化させてはならない」という。「風化させない」というのは聞こえは好いが、悲しみは風化させなくてはならないし、いつまでも被害者ぶって、被害者意識丸出しで悲しみや慟哭に囚われていても仕方ないではないか。

 マスコミは津波のことより原発事故を取り上げて、故郷に帰れない被災者を悲劇のヒロイン的に報道するが、被災者の多くは民主党政権下でSPEEDI数値を隠蔽し、第一原発から半径20キロという非科学的な施策によって生まれた犠牲者だ。

 ジャーナリズムの本質は社会の木鐸として公正公平に真実を追究する姿勢に在る。風評とデマの差別の元凶が何処に在るのかこそ追求すべきで東京電力のみを糺す姿は正義とは思えない。反原発派に与し、曖昧で根拠のない報道こそが差別を引き起こし、それを助長してるのがマスコミであることを自覚すべきではあるまいか。

 震災直後、陛下は「被災者のこれからの日々を私達皆が、様々な形で少しでも多く分かち合って行くことが大切であろうと思います。被災した人々が決して希望を捨てることなく、身体を大切に明日からの日々を生き抜いてくれるよう、また、国民一人びとりが、被災した各地域の上にこれからも長く心を寄せ、被災者と共に夫々の地域の復興の道のりを見守り続けて行くことを心より願っています」と語りかけた。

 未曾有の国難ともいえる事態に、陛下の大御心に応えようと国民一人一人が心を一にし被災者や被災地を労わりあったことは紛れもないことだろう。

 だが悲しい哉、福島県や県民への差別や風評被害は未だ存在するのも確かで、東京都を始め関東各地へ電力を供給していた福島第一原発事故に因って、供給元の福島県や福島県民がこうした仕打ちを受けるとはよもや思わなかった。

 流言蜚語やデマが余計な混乱を生む。その元凶が民主党政権下で実行され、安倍政権下でも引き継がれている科学的根拠のない除染作業であり、「福島は除染しなければ住めない地域」との風評は止むことがない。こうした愚策が中間処理施設という更なる愚策を生み、復旧は愚か復興をも遅らせ福島県や県民を貶め続けている。

 何故にこうした除染作業という愚策が実行されるに至ったのかと言えば、何のことはない人々の優しさや幼稚な正義感に漬け込んで、原発事故での放射線への無知と無理解から来る憎悪や感情を利用して党勢拡大に利用しているに過ぎない。

 既に福島原発事故の教訓から、全国の各原発では「防波堤の建設」「浸水防止ドアの設置」「高台への非常用電源の確保」などの対策が進められている。大事なのはこうした原発事故の科学的データに基いた具体的な効率ある対策である。

 マグネチュード9という巨大地震の震源地に最も近かった宮城県牡鹿郡女川町 と石巻市に跨る「女川原子力発電所」は地震直後、原子炉は安全に停止し、被災者の避難所にもなった。 世界はこの「女川原発」に注目し、原発の地震対策を講じている。

 女川原発同様に万全だった福島第二原発だが、その安全性は語られることはなく、被害者意識丸出しで「廃炉ありき」から感情的に論じられているに過ぎない。

 福島原発事故で、原発は「冷源」と「電源」が確り保たれてさえいれば「冷温停止」に持ち込むことが可能ということを学んだ。つまりは巨大地震や巨大津波であっても原子炉を安全に停止させることは可能となったのだ。感情的な議論に意味はない。我が国の技術力をもっと信用しようじゃないか。

 多くの尊い命と被災された方々の犠牲の上に於いて、危機管理と防災と国防が万全なものとなり、更により高度な危機管理と対策が構築されて行くことが、先の大震災での犠牲者の無念さに応える唯一無二のものとなることを願って止まない。

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2021年02月27日

ジェンダー平等(ジェンダーフリー)主義を嗤う

 脳科学者だかタレントだか分からない茂木健一郎という男がいる。以前は常識的な学者だと思っていたが徐々に無自覚左翼ぶりが露呈して来た。こうした無自覚ぶりが左翼マスコミにとっては非常に使い勝手が好い様でマスコミによく登場する。

 中日スポーツの記事に由ると、茂木は自身のブログで、俳優の松山ケンイチが、妻で女優の小雪を「嫁」と表現したことについて、「嫁という呼び方」と題して批判的な自説を垂れ流した。因みに記事の「女優」はアウトだろうな(笑)

 茂木は「嫁」という字が「女」が「家」というのが気に入らなかったのだろう。「嫁」がダメなら当然「家内」ってのもダメだわな。「奥さん」もヤバそうだし。相手に遜って「愚妻」とか言ったものなら激怒されるのは間違いない(苦笑)

 茂木らジェンダーフリーに与する連中にとって「かみさん」と呼ぶのがベストなのだろうか。「亭主」の立場である男よりも女性の方が上になってるし満足だろう。

 つ~か、「嫁」に違和感を覚えるなら「姑(しゅうと・しゅうとめ)」はどうなんだ? 要は、単なる言葉遊びと男女共同参画社会の曲解にしか感じない。

 昔から俗に、口喧しくなった愚妻を「山の神」とも揶揄するが、頭が上がらず、いつも感謝しているという意味では神様もかみさんも同じだろう。そう考えれば、男社会だが嫁や女性を尊重していた社会だっとことが分かるというものだろう。

 ジェンダーフリーを叫んでる性的変質者らにとって「婦人」「夫人」もダメ。「婦人とは箒(ほうき)を持って掃除をする女のこと」と「婦人」という言葉を抹殺し、「子供は親の供え物じゃない」と「子ども」表記を強要している。

 平成26年6月、文科省は国会での議論を経て、マスコミや左翼どもが常用してる「子ども」表記を、漢字表記の「子供」に統一する通達を出している。

 現代国語を書き表す場合の漢字使用の目安として用いられる「常用漢字表(内閣告示)」というのがある。これを基にした「新公用文用字用語例集(内閣総理大臣官房総務課監修)」には「子供」と表記する様に示されている。

 マスコミを中心に左翼勢力は確信的に「子ども」表記を続けているが、当時の下村博文文部科学大臣の下で通達を出していることなんぞ知らないのだろう、自民党議員までもが「子ども」表記を使ってることはマヌケとしか言い様がない。

「子ども」表記に固執している連中というのは、「子供」の「供」という字が「お供え物」「お供する」などを連想させ「差別的な印象を与える」というのが理由。共産党は「子供」とは「大人の付属物や人身御供を意味する」と主張している。

 何処のどいつが、子供を「お供え物」「人身御供」と連想するというのだろう。遜った「私ども」の様な接尾語の場合は「原則、仮名で書く」とされているが、「大人」に対する「子供」を意味する場合、漢字二字で表記するのが正しい。

「大人のお供(とも)」を表しているというが、その場合、「お供」ではなく「お伴」と書くことさえ理解してない。供物と同じく「子供とはお供え物」とは正にキチガイどもの言いがかりであり、即ち、子供への敬意が足らない証左でもある。

「子供」と同じく「婦人」も公文書から消されてしまった漢字の一つ。今では看護婦を「看護師」、婦人警官は「女性警察官」、女優も男優も「俳優」と呼ばなくてはならない。前出の中日スポーツの「女優」表記は恐らく勘違いだろうな(笑)

 この「婦人」はインチキ漢字研究者が後漢時代の「説文解字」を紐解いて、「婦人」とは「箒を持って掃除をする女のこと」と紹介したことに始まる。

 この自説に、前出の性的変質者どもとキチガイどもが飛び付いて「婦人は差別だ」と叫んで抹殺した。しかし、間もなくこの説は全く誤りだと判明する。

 甲骨文字、それに続く金文の研究から「婦人」の「婦」は、「宗廟に酒を捧げ清める高貴な女性の意味」だということが判明する。だが、悲しい哉、男女共同参画社会の風潮の中でこうした言葉遊びや造語が改められることなく常用されている。

 また、男女共同参画社会の今では「婦」ではなく「師」と呼ぶ様になった。この「師」という漢字には、師団、軍師、派遣、元帥、追撃などに含まれる「追」のツクリの部位は、軍隊を派遣する時に食料である肉を分けることが原義だという。

 普段、「平和」「平和」と叫んでいるアホンダラ左翼どもらは「師」の意味も分からずに「看護婦」を「看護師」と呼び換えて満足してるが、無意識のうちに軍隊に起因する漢字を使用しているとは夢にも思っていないだろうよ(苦笑)

「男女共同参画社会」というのは、こうした言葉遊びから始まった左翼に拠る共同謀議的愚策であり、「嫁」に異を唱え、「家内」や「奥さん」という言葉を抹殺しようと謀るジェンダーフリー論は我が国文化にとって百害あって一利なし。

「子ども」表記に違和感を覚えることなくそれらに与し、率先して実践しているマスコミや保守派というのは滑稽極まりない。未だに「子ども」表記を使ってるのは共産党どもや左翼どもや単なる無自覚左翼のアホどもと見て間違いない(苦笑)

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2021年02月26日

北京2022冬季オリンピックをボイコットせよ!

 天皇誕生日での記者会見で、欧米の王室問題に繋げて「ジェンダーフリー(ジェンダー平等)」の不敬且つ不躾な質問をした記者がいたが、今や男女平等を曲解したジェンダー論が蔓延し、怪しい世論の動きになっている。

 森喜朗前東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長へのバッシングは異常としか思えない光景だった。そんなジェンダーフリーを翳す連中は、何故か中共のウイグルへの人権蹂躙には口を噤み、ジェノサイドを否定する。

 ウイグルでのジェノサイドをナチスドイツのホロコーストに準える臨調もあるが、ヒトラーがベルリンオリンピックを開催しプロパガンダが成功裏に終わったことを忘れるな。そういう意味でも北京冬季オリンピックは中止に追い込むべきだ。

 政治的問題でオリンピック中止を余儀なくされたり、ボイコットした例は少なくない。1980(昭和55)年、旧ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議して、米国や西側諸国がモスクワオリンピックのボイコットを決め、我が国も同調し参加を辞退した。

 ボイコットが決定したことで、当時、金メダル確実と言われた柔道の山下康裕(日本オリンピック委員会(JOC)会長)やレスリングの高田裕司、マラソンの瀬古利彦、水泳の長崎宏子、男子体操といった多くの選手達が涙を呑んだ。

 当時20歳だった愚生もこのボイコット騒動はよく覚えている。山下選手は涙を流し「個人ででも出場したい」とインタビューで答えたことで批判を招いた。

 山下選手の気持ちは理解するが、スポーツが政治に利用されることは往往にして在ることだ。有名なのが、1936年のドイツのベルリンオリンピックだろう。

「オリンピックはユダヤの祭典である」とオリンピックを批判し、オリンピック開催に難色を示していたヒトラーだが、オリンピックがプロパガンダに利用出来ることを知ったヒトラーはベルリンでのオリンピックを開催を実行する。

 米国や英国は、ヒトラーのナチスの人種差別などを批判し、ボイコットを示唆していたが、「政治とスポーツは別」だとして最終的には出場を決めた。

 結果、ベルリンオリンピックは大成功に終わり、ヒトラーの政治的パフォーマンスとプロパガンダも思惑通りに進んだ。「オリンピックを成功裏に終れば、ヒトラーも大人しやかになるだろう」との米英の思惑は脆くも崩れ去ってしまった。

 オリンピック後、ヒトラーはラインラントへ侵攻し、スペインへ大量の爆撃機を送り、その2年後にはオーストリアを併合し、ズデーデン地方へも侵攻。その翌年の1939年9月にはポーランドに侵攻し、終に第二次世界大戦が勃発するに至った。

 歴史家の間ではドイツのポーランド侵攻とされているが、歴史家で元駐日大使のライスシャワーは、このポーランド侵攻の2年前の1937年の上海での中国軍による日本海軍への全面攻撃こそが第二次世界大戦の始まりだと主張している。

 条約上の権利の下に上海に駐留していた2500人の日本海軍「上海特別陸戦隊」に対し、1936年8月13日、12万人以上の中国軍は全面攻撃を行なった。この1936年8月13日には、ベルリンオリンピックが開催されていた時期なのだ。

「政治とスポーツは別だ」との主張こそ「平和ボケ」の象徴と断じて好かろう。こうした世論誘導はオリンピック利権に肖ろうとする企業や関係者、放映権や放送権が欲しいマスコミらの詭弁である。スポーツが政治や企業に利用されてるのが現実。

 オリンピックは選手にとっては重要な大会だが、大会関係者にとっては単なるショービジネス。先日、島根県の丸山達也知事が「聖火リレーの中止を検討する」と語り反響を呼んだが、聖火リレーの経費に9000万円がかかると聞いて驚いた。

 大会組織前委員長の森発言ばかりが騒がれてるが、スポーツの祭典どころか商業化するオリンピックの在り方や大会スポンサーの経費増額負担や聖火リレー走者からの参加費徴収など、営利至上主義が蔓延るIOCに対するその闇は深い。

 因みに、ベルリンオリンピックの次の開催国は日本だった。支那事変(日中戦争)が拡大しオリンピックどころじゃなり開催を返上。第二次世界大戦終結後の1948年のロンドンでオリンピックでは敗戦国の日本とドイツは招待されなかった。

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2021年02月25日

「中国」と呼ぶことは「ハイル・ヒトラー!」と同じ忠誠である(笑)

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 中国共産党(中共)との尖閣諸島領有権問題やガス田問題、韓国との竹島問題、北朝鮮との拉致問題、ロシアとの北方領土問題など未だ解決の兆しすら見えないのは、全て日本政府の国家主権に対する甘さが招いた結果である。

 未だ共産主義を最高原理として崇め、神や仏という共産主義を超える最高の存在を許さず、人民には信仰の自由は認めない。そういう歪な体制である中共との平和友好など所詮は茶番でしかない。我が国は日台関係の再構築を目指すべきだ。

 集会、結社、出版、言論等々基本的人権が無く、満州、内蒙古、チベット、新疆の異民族を虐殺し土地を奪い、共産主義と漢民族化を強制し、清朝時代の最大版図を「歴史的領土である」と主張する中共こそ最大の帝国主義国である。

 多くの日本人は日中とは「同文同種」とか「一衣帯水」という認識を持ち、「四書五経」のイメージで支那への憧れを膨らませ、「支那」や「中共」ではなく「中国」と呼称する。反共、反中を訴える右翼人の中にもいる。中国と呼ぶくらいならせめて「チャイナ」と呼ぶべきだが、反米を訴える右翼が英語ってのもなぁ(笑)

「中国」という言葉の一番古い意味は「首都」で「国民国家」を意味するものではない。中国と呼ぶことは北京が世界の中心だということを暗に認めていることだ。

 抑々「支那」という言葉は最初の統一王朝の「秦」に由来する。清朝の公的文書にも「支那」との言葉は出てくる。新井白石が「チーナ」を「支那」と翻訳した。「支那」いう呼称は差別でも何でもなく世界の共通語でもある。中共は我が国に対してだけ「中国」と呼ぶよう強要するのは、忠誠を示させ属国化を謀ってるだけ。

 英語圏では「チャイナ」。フランス「シーヌ」。ドイツ「ヒーナ」。イタリア語「チーナ」。ペルシャ語「チーン」。インド「シナスタレ」など、「China」をそのまま母国語で表現している国が殆ど。ロシアは「キタイ」と呼ぶ。

 キタイとは 支那大陸の北部を支配しただけの契丹のことだ。大統一帝国の秦どころか、契丹と呼称とするロシアに「差別だ」との抗議の声が上がったことがない。

 日本を属国と見做す中共は、日本にだけは自分達を世界の真ん中にある「中国」と呼ばせたい。「中国」と呼ぶことは「ハイル・ヒトラー!」と同じ忠誠である(笑)

「支那」が差別というならば「東シナ海」「南シナ海」「インドシナ半島」等ははどう説明するのか。また「中国放送」「中国新聞」「中国電力」「中国ガス」「中国銀行」などの名称でも分かるが、「中国」とは中心という意味でしかない。

「支那」禁止の理不尽な言い掛かりが始まったのは、戦後の混乱期の昭和21年6月に遡る。形式上、連合国の一員で戦勝国であった支那はその力関係を盾に我が国に「中国」という名を強要した。外務省はそれに何ら反論も出来ず従順に受け容れた。

 直ちに「外務省次官・局長通達」が出され、「理屈抜きにして先方の嫌がる文字を使わぬ様に」と言論機関などにこれを強制し、「中国」の呼称が国民に浸透し現在に至っている。一つの譲歩が更なる譲歩を生む典型であろう。

 我が国外交の柱というべき近隣諸国条項は「中国」呼称強要に屈した軟弱外交に起因する。この「隣国が嫌がるようなことはしない」との外務省「言論抑圧」通達は無効であり、「支那」という呼称こそが世界の共通語であることを認識すべし。

 親中派は日本と支那との関係を、「一衣帯水」だとか「同文同種」「古くからの隣人」などと言って国民を誑かしているが、日中間に国交関係が樹立されたのは20世紀に入ってからであり、未だその関係は100年ほどしか経っていない。

 遣唐使は約250年間、菅原道真の献策に由って廃止されるまで派遣され、唐の文化が奈良時代の平城京を中心とした天平文化に影響を与えた例はあるが、我が国が国書を携えて派遣したのは「倭国」であり「日本」と名乗ってからは交易は無い。

 我が国は正式な国交関係は持たずに「政経分離」の方針を貫き、独自の文化を形成して行った。孔孟の教えにしても日本人が好意的に伝え実践しているだけ。

 明治4(1871)年に日清修好条規を結んだ相手は満州人の清朝であり、満州人が支那を支配していたが漢民族の国ではなかった為に、支那との正式な外交は明治45年の中華民国誕生まで待たなければならなかったというのが歴史的事実である。

 日本国政府は、昭和49(1974)年の「日中共同宣言」を受け、昭和53(1978)年8月12日、「日中平和条約」を締結した。締結した「日中平和条約」には「両締結国は、善隣友好の精神に基きかつ平和及び互恵並びに内政に関する相互不干渉の原則に従い両国民の交流促進のため努力する」と踏襲されている。

 尖閣列島の国有化に反発する「反日デモ」は、どう見ても善隣友好の精神に基いての行動とは思えない。況してや日本側が「過去の我が国の侵略行為や植民地支配などで多くの人々に耐え難い苦しみと悲しみを齎した」と譲歩することでもない。

 共産主義一党独裁の中共と友好関係を続けていること自体、国益を大きく損なうもので、平和友好を推進するなら共産主義を崩壊させること以外にない。

 余談だが、世界では日本を「ジャパン」と呼ぶ。だが、本来は「ニッポン」と言うのが正しい呼び名だ。国際会議やオリンピックなどの国際大会などで「JAPAN」と表示されるが、そろそろ「NIPPON」と表記すべきだと思うが如何だろう。

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2021年02月23日

天皇誕生日を寿ぐ

 本日は天長節(天皇誕生日)、誠におめでとうございます。皇国臣民の一人として謹んで陛下の弥栄と長久を御祈念申し上げ奉ります。

 我が国は「神の国」であり、神武肇国の古より、歴史の中から数々の伝統及び制度が生み出されてきた国家である。そんな中で、永遠に無くなってはならぬものが天皇を戴く国家の在り方であることは言うを俟たない。

 皇紀2681年の永きに亙り、我が国は万世一系の天皇を戴き、常に国民や世界の平和を祈り続けておられる天皇を、善き至高の存在として暮らして来た。

 天皇を族長と仰ぐ君民一体の家族国家が日本国であり、「天皇即日本」「日本即天皇」の天皇国家こそが我が国の国柄であり、皇統の歴史こそが象徴である。

 天皇の御代が栄えることは、即国民の代が栄えることでもあり、この国體の精華は万邦類を見ないところであろう。正に、世界に冠絶した「君が代」の世界が厳然と存在する国こそが、我が祖国日本であるのだ。

 陛下は天皇誕生日を前に定例の記者会見に応じた。陛下の御言葉はその影響するところは大であり正に「綸言汗の如し」。政治家の様に口先で誤魔化すことはその御地位、御立場と崇高な御人格がそれを許さない。

 ところが、質問する記者団といえば海千山千の強か者ばかり。恰も皇室を理解している様に取り繕ってはいるが多くは皇室に批判的な輩ばかりである。

 少なくとも尊皇絶対の大義を弁えている記者はいない。ノスタルジアな左翼思想に被れ、反天皇、皇統断絶に与する記者らは、陛下との一問一答形式によって、御言葉を引き出し、言葉尻を捉えて政治問題し、世論誘導を企てる。

 今回も反天皇運動に与するが如く、敬称や敬語不使用で「皇后さまの様子」やら「愛子さまの結婚」だとか、秋篠宮家の「真子さまの結婚」など無礼な質問が並ぶ。極め付けは皇位継承について「欧州では長子優先の動き」などと質す。

 所謂「開かれた皇室論」に基く陛下や皇族への定例会見は一切拒絶するのが妥当であり、宮内庁は別な形での国民への御発露の方法を考えるべきである。

 抑々「敬称・敬語不使用運動」は共産主義者に因る反天皇運動の一環である。売国マスコミに拠る「敬称・敬語不使用」や「開かれた皇室論」の姿勢は、今や国内に蔓延し、天皇陛下や皇室に対する敬愛の念を薄れさせている。

 本来の日本人ならば正式な敬称で呼ぶべきで、「さま」などと呼ぶことに由って、日本の伝統文化や美徳が喪失して行くということを自覚すべきだろう。

「欧州では長子優先」という質問には、敬宮愛子内親王こそ皇位を継承すべきとの思惑が見え隠れする。正しく反天皇及び皇統断絶に与する質問であることは明らか。更には天皇が欧州の王室と同等の立場であるかの認識は誤りである。

 この記者を見るまでもなく、天皇とは「王室」や「国王」の存在だと思っている人も多いが、分かり易く言えば、天皇とは日本固有の信仰である神道を伝え導く神主(神官)の最高の地位者であり、祈りを重んずる「祭主」であるのだ。

「女性天皇」や「女性宮家」では天皇の重んじる祭祀が叶わない。神に仕える神事を執り行うことが憚れるのだ。別に女性差別ではなく伝統というもの。反天皇論者らは国事行為をする便利な存在としか思っていないから軽軽しく皇統を語る。 

 日本という奇跡の国に生を享けながら国の成り立ちも知らず、天皇とはどの様な存在であるかも分からず、反天皇の不遜不敬、不届至極の不逞の輩が存在しそれらに与するとは、戦後の日本人の精神的幼稚さの現れでもある。

「天皇制打倒」を目指す日本共産党や立憲民主党ら左翼陣営が「女性天皇」や「女性宮家」の創設や「女系天皇」容認に狂奔していることこそ何かを況や。

 これらの奸賊を排し、迫る来る祖国の危機に対処し、天皇国日本を盤石の安きに置く使命を有するのは民族派陣営である。正にその存在の意義を示す神機は近付きつつあると確信する。諸君、一旦緩急に備え遺憾無きを期そうではないか。

 すめらぎいやさか すめらみこといやさか すめらみくにいやさか

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2021年02月22日

2月22日は「竹島の日」であり山口二矢烈士生誕日でもある

 韓国人の「虚言癖」という病んだ民族性はどうやっても治ることはない。ウソの中でも最大級のウソが所謂従軍慰安婦の強制連行と竹島の主権主張だろう。 

 竹島を「独島(ドクト)」と称し、「古来から韓国固有の領土である」と主張するその根拠は「三国史記(さんごくしき)」という古代朝鮮の歴史書に帰着する。

 その「三国史記」には、鬱陵島の西隣に在る「干山島(うざんとう)が新羅(しんら)の領土」と書かれていることを論拠に「歴史的事実である」と主張する。

「三国史記」とは、三国(新羅・高句麗(こうくり)・百済(くだら))時代から統一新羅末期までを対象とする紀伝体の朝鮮半島に現存する最古の歴史書である。この史記を論拠に韓国側は「4~5世紀から韓国領だった」と言い張っている。

 古地図を見れば、干山島は鬱陵島の西に接近している島だと分かる。だが、悲しい哉、韓国のいう「独島(竹島)」は、鬱陵島の東南92キロに在る島なのだから「干山島が竹島である」と主張することには無理があるだろう。

 こんな誰でも判りきった事実が存在するのに、聞く耳を持たずそれらを否定し、竹島の領有権を主張し不法占拠を続けているのが現状である。

 歴史的に見れば鬱陵島周辺の小島の呼称が変遷し、「竹島」は「松島」とか「リャンコ島」とか呼ばれた時代もあり、こうしたことが紛らわしくしているのかも。

 だが、李氏朝鮮時代の地図には鬱陵島より90キロも先に在る島のことなど登場したことはない。鬱陵島とその近くの干山島などの小島以外は全く出て来ない。

 考えてみればそれは当然のことで、抑々、李氏朝鮮時代には鬱陵島すら「空島政策」に由って居住が禁止されており、その鬱陵島より遥か先の島の干山島ことなんぞ関心も認識すらもなかったというのが正直なところだろう。

 面白いもので、我が国では鬱陵島を「竹島」と呼んでいたことがあるという。こうした歴史的経緯を、韓国人の我田引水的論法を真似すれば、「鬱陵島も日本固有の領土である」と主張しても可笑しくはないかも知れない(笑)

 韓国初代大統領に就いた李承晩は昭和27年1月、国際法を無視し、軍事境界線「李承晩ライン」を勝手に設定すると、竹島を取り込んで「韓国領」と宣言した。

 我が国の主権がGHQの統治から解放され恢復するのは同年4月28日。その約3ヶ月前に、我が国固有の領土であった竹島を掠め取ったというのが真相であり、韓国側の領有権主張はそれらの不法行為を正当化する詭弁でしかない。

 戦後、この「李承晩ライン」を侵犯したとして拿捕または抑留された日本人漁民は、その後に「日韓漁業協定」が成立する昭和40年(1965年)の間に3929人にも及び、拿捕船舶328隻、死傷者は実に44名を数えたという。

 韓国政府はこの日本人漁民抑留者との引換えに、日本国内で犯罪を犯し収監されていた在日朝鮮人472名の放免と日本滞留特別許可を強要すると、驚くことに我が国政府はその恫喝にあっさり屈し要求に応じた。

 正しく「安易な譲歩が更なる譲歩を生む」という悪しき前例の最たるものであるが、この措置以降、在日が殖え続け、所謂「在日特権」が次々と与えられて行くこととなった。竹島問題は「在日特権」を考える上でも重要な問題でもあるのだ。

 話は変わるが、今日2月22日は2が揃う「にゃんにゃんにゃん」の「猫の日」らしいが、浅沼稲次郎を刺殺した山口二矢のことを思い出さずにはいられない。

 昭和18年2月22日、山口家の二男として東京で生まれる。二月二十二日生まれと「二」の字が続いたことから、父は「二矢(おとや)」と命名したという。

 昭和34年、16歳の時に大日本愛国党に入党。だが、赤尾の運動に懐疑的だった二矢は翌年5月、同党の吉村法俊、中堂利夫(後に防共挺身隊に身を寄せるも脱退、両名共作家に)と共に愛国党を脱党し、「全アジア反共青年連盟」を結成する。

 その後間もなく、日比谷公会堂で演説中だった日本社会党委員長浅沼稲次郎に天誅を加えることとなった。社会党、浅沼稲次郎を刺殺したのが10月12日。練馬鑑別所で自裁したのが11月2日。「二」という数字は烈士にとって運命だったのだろう。

 生きていれば未だ78歳。麻生や二階よりも若い。右翼民族派陣営の現況は先細りの感は拭えない。二矢烈士が生きていれば右翼をどう導いてくれただろう。

 今どきの右翼団体は先覚の生誕祭を祝いや命日を偲ぶのが好きだが、それも大事なこととは思うが先覚各各の生き様を見倣はなければならないと思う。斯くいう愚生も、右翼人を気取りながらも未だ私を捨てきれず忠を全う出来ずにいる。

「自己放棄に達しない思想は賤しい思想である」と訓えたのは三島由紀夫。営業右翼や自称・愛国者を批判する前に、今や二矢の嫌う「愛国屋」風情に流されてしまっている己の怠惰な生き方を猛省せねばならないと自覚する。合掌再拝。

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2021年02月19日

「氏(姓)を変えることにより自己喪失感を覚える」という変態的意見

 東京五輪・パラリンピック組織委員会会長に橋本聖子五輪相が就く。森前会長の女性への揶揄を「女性差別」や「女性蔑視」とバッシングして森を辞任に追い込んだ勢力は、これに味を占めて最終的には敬宮愛子内親王の即位を謀るだろう。

 その手始めに「夫婦別姓」問題について、男性側の姓を名乗ることに抵抗し別姓推進を声高に主張するだろう。「夫婦は同一の姓とする」との民法規定の違憲性が争われた訴訟の上告審で最高裁は「規定は合憲である」との判断を示している。

 民法第750条には「夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する」と明記されている。つまり夫となる人、または妻となる人の何れか一方の「氏」を夫婦の氏とするということであるが、男性の姓を名乗るのが恒例化している。

 この民法の規定を多くの国民は「片方が氏(姓)を変える」と理解しているが、「氏(名字)は個人の名前の一部」という誤解が混乱を招いているのも事実。

 抑々「氏」というものは個人を表す名称ではなく、明治維新以前には武士や大店の商人以外は「氏」は無かった。明治維新後、新政府は全ての国民に「氏」を与え、戸籍を整えた。何より家族の絆の重要性を重んじることとした。

 戸籍抄本や戸籍謄本を見れば分かるが、戸籍の筆頭者のみが「氏」と「名」で書かれており、その他の家族は「続柄」と「名」しか書かれていない。つまり、「氏」は家族を表す名称であり、個人名ではないことが理解出来よう。

 日本人の日本人らしさの根幹を成すのが「戸籍制度」であり、個人だけでなく、親兄弟や子や孫、連綿と続く歴史の縦軸の中に生きるという制度である。正に我が国の「戸籍制度」というのは世界に誇れる制度であると言えるのだ。

 欧米の教育は個人が生存権に勝つ為のものであり、辺り構わぬ闘争が行われ、働く目的は金と享楽の追求のみ。それ故、家族の絆は緩み道徳の深さは生活から離れ、結果、唯物主義の考え方が支配的となり、人々の心を孤独化している。

 我が国は欧米の価値観が蔓延してる中でも個人主義は極僅かで、世代に亘る家族の絆は固く互いに助け合うことで人間本来の善良な姿と優しい心が保たれている。

 夫婦別姓制は個人主義を優先する余り家族の一体感を損ない、子供に与える精神的影響も大きい。事実婚を増加させ離婚の増加や婚姻制度の崩壊を齎すだろう。

 抑々、婚姻に際し氏(名字)を変えることにより職業上不都合が生じる人にとって、通称名で旧姓を使用することが一般化している。婚姻に際し氏を変更したとしても、婚姻を関係者知人に告知することにより何の問題も生じない。

 また、「名字を変えることにより自己喪失感を覚える」という様な意見もある様だが、これは「氏(姓)は個人名ではない」ということを理解していない典型で、同姓が嫌なら、騒がずとも同棲という事実婚で好いだけのことだろう。 

 そうした変態的な意見より、結婚に際して夫婦が同じ姓となり、これから新たな家庭を築くという喜びを持つ夫婦の方が圧倒的多数であり極めて一般的な感覚だ。

 夫婦同姓は、普通の日本人にとって極めて自然な制度であり、現代社会で家族とその絆を支えているのが「戸籍」である。戸籍は、国民の出生・結婚・死亡などの身分の変動を「夫婦と未婚の子」を単位として登録するシステムである。

 戸籍制度は結婚や相続など家族生活を営む上で極めて重要な役割を担うと同時に、家族の一体感を維持する機能も有している。 ところが、別姓推進派には「別姓導入は戸籍制度改廃への一里塚」とする考え方が根強く存在するのは事実。

 別姓するくらいなら結婚などしなきゃ好いと思うのが普通だが、あくまでも夫婦別姓の目的が「戸籍法」の改正に在るのだとすれば合点が行くというものだろう。

 別姓推進派は、現在の戸籍制度が家族単位である点を戦前の「家父長制度」の残滓と捉え、戸籍を個人単位の「個籍」や、欧米諸国を模した「個人登録制」に改めることを求めているが、戸籍法改正を理由にした国體破壊こそが目的である。

 選択的夫婦別姓と雖も導入されれば我が国の戸籍制度や家族制度は瓦解し、祖先と家族・親と子を結ぶ連帯意識や地域の一体感、延いては日本人の倫理道徳観にまで悪影響を及ぼすのは必至。尤も、不倫や重婚には都合が好いだろうが(笑)

 夫婦別姓に限らず突き詰めた議論が無い儘にマスコミが創り上げる安っぽいムードだけで、やれこれが世界の流れだとか、実に曖昧な次元でもって賛同者が広がってるが、こうした怪しい動きに騙され便乗することがあってはならない。

 亀井静香がEテレの夫婦別姓問題特集の番組に出て「夫婦別姓はワガママ。国家の恩恵を受けたいなら国家のルールに従え。日本人はみんな天皇の子」と語ったことがネットで批判されている様だが、この認識は間違いではない。

 我が国は正しく天皇の国であり、臣民とは天皇の子。我が国が世界に誇る家族制度というのは皇室の在り方を理想とするものであり、正しく「父母に孝に兄弟に、夫婦相和し」。実に尊く、神の国に生まれた奇跡を感謝せずにはいられない。

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2021年02月18日

言ってることは分かるがチョッと訛ってるよね(笑)

 いなかっぺ大将の影響か、今では「いなかっぺ」という意味は「田舎の人」と思われてしまっているが、本来は「井の中の蛙大海を知らず」が語源。井戸の中からは塀が高くて外は見えないから、江戸っ子が世間知らずの奴を揶揄した言葉だった。

 田舎や山里で育った人は「田舎っぺ」ではなく、「山家(やまが)育ち」という。尤も、そんな言葉は今じゃ落語や古い時代劇でしか聞かない。

 古い日本映画や古典落語などには、盲(めくら)、唖(おし)、吃(ども)り、跛(びっこ)、聾(つんぼ)など、現代では考えられない放送禁止用語がバンバン飛び交ってて、実に面白く台詞というか日本語そのものが興味深いものばかり。

 差別用語だけではなく、懐かしくも美しい日本語が処処に溢れていて、こうした映画や落語を観たり聴いたりすることこそ生きた耳学問であり実践教育でもある。

 東京や横浜などの都会で育った人というのは、綺麗な標準語を話し、如何にも自分達は都会人なんだと気取っているが、自分達が使ってる言葉は蝦夷地開拓時代に作られた言葉であり、矯正され均一化された言葉だという自覚も無い。

 都会人にこそ「いなかっぺ」や「半可通(はんかつう)」が多く、己の無知を差し置いて地方出身者を貶して悦に入る。 「半可通」とは生半可で中途半端な知識をひけらかすことだが、多くは間違ってることの方が多いから注意すべし。

 その昔、所属していた団体にもいた。如何にも江戸っ子ぶって、べらんめえ調で話すのもので「お前、大田区の部落(目蒲線沿い)出身だろ。江戸ってのは品川までで、大田区なんてのは江戸じゃないよ(笑)」 と揶揄ってみた。

 後輩は怪訝そうな表情で「えッ、そうなんすか」と一言。 大田区大森出身の池田太作がべらんめえ口調で江戸っ子ぶってるのを見て、池波正太郎が「ピント外れ」だと嗤っていたのと同じで、勘違いしてる自称・江戸っ子はホント多い。

「お前の様なのを、いなかっぺって言うんだよ」と言ってみたが、本人は「井の中の塀」が「いなかっぺ」だとは思っていないから馬の耳に念仏、犬に論語(笑)

 都会に住んでるということだけが自慢の世間知らずのこういう輩に限って、地方出身者のイントネーションや訛りを面白可笑しく真似して笑ってるのが多い。

 以前、横浜の瑞穂塾の塾長で兄弟分の伊藤満と、伊藤の先輩らとの焼鳥屋で政治談議や世間話をしたことがあった。話の途中で伊藤の先輩の一人が、いきなり愚生に「言ってることは分かるが、チョッと訛ってるよね?」と言ってきた。

 こんな奴らと飲んだ時間が無駄だった。ああいう連中とは絶対仲間にはなれないし、人生意気に感ずることもなく、行動を共にすることもないと痛感。斯くいう伊藤と言えば、情けないことに礼節に欠ける先輩に苦言を呈すことも無かった。

 江戸時代末期には全国から若者らが江戸に出て遊学したり、諸国を遊歴した。その際に地方出身者を嗤い、言葉が訛ってるなどと詰ったなどと聞いたことも無い。

 薩長同盟にしろ、幕末に於いて京都守護職に就くこととなった会津藩にしろ、故郷の言葉を大切にして相手と接した。そうだからこそ互いの心意気を感じ取ったのだと思うし、明治維新もまたそういう草莽の民の結集でもあったのだと思う。

 ブロイラーの如く、均一化された連中が大好きな東京が在るのは、それこそ会津藩主・保科正之公に因る処が大きいと知ってる人が何人いるだろう。

 明暦3(1657)年1月、江戸は「明暦の大火」で大半が焦土と化した。幕閣らは江戸城天守閣の再建を望む声が多い中、保科公は一貫して先送りを主張した。

 というのは、江戸城再建を優先することで木材価格が上がり、庶民の暮らしが滞り、幕府も財政難に陥ることが目に見えており、江戸城再建を最優先に実行すれば、庶民の暮らしが行き詰まり、江戸が懐崩することにもなっただろう。

 都会に居ると目先のことばかりで先が見えないということもよくあること。大局を知るには地方に住むのも悪くはない。そういう意味では団体を辞したのも天命。地方に蟄居したとはいえ、右翼浪人として俯瞰した物の見方を養いたいものだ。

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2021年02月17日

勿体振ってないで持てる力全てを惜しむこと無く与えなさい

 いつぞや、ネットサーフィンをしていたら右翼活動家のブログが目に付いた。そこには何やら、「所謂団塊の世代の人と歴史認識で意見の相違を感じたが、敢えて反論もせず聞き入った」とし、最後には団塊の世代への嫌悪感と雑言が綴られてた。

 右翼の仲間からは同意の声が書き込まれ絶賛されていたが、その場で説得も試みず、後で色々書き連ねるというのは卑怯だし余り感心はしない。仲間も仲間で、諫めたり、苦言を呈す人はいない。仲間内で称えあって何が愉しいのだろう。 

 何故、激論を交わさないのか。「こういう輩と話すことに意味はない」と大人ぶってるつもりかも知れないが、偶にには目線を合わせ、本性剥き出しで一つ一つ反論し、歴史的事実を滔滔と語ることも自分を高める上でも大事だと思っている。

 愚生も旅先や飲み屋など飲んでる関などでよくそういう人とは遭遇するが、そういう輩を面白可笑しく例え話を出しながら議論を交わし諭すことは嫌いじゃない。袖すり合った隣の客との議論こそ横議横行の醍醐味でもある。

 後輩や門下生ならいざ知らず、意見を同じくする仲間内だけで話し合ったところで何になるというのだろう。右翼人が右翼に論じても意味はない。やや左に偏った考えの人や、無自覚左翼を如何に転向させられるかが啓蒙活動の極意じゃなかろうか。

 今迄、何十人もの左翼カブレに出会い、話すと「アンタの様な右翼は初めてだよ」と言われもした。「オマエとは話しにならん!」と怒って席を立ったのは、日教組出身で日本共産党の市会議員になった今は亡き中学時代の恩師くらい(笑)

 ゴールデン街なんかで飲んでると、場所柄か、左翼や団塊の世代、無自覚左翼がうじゃうじゃいて自説を垂れ流してる老左翼によく遭遇したものだ。

 こういった輩の多くは、幼い正義感からそういった思想や考えに辿り着いた人が殆どで、その辺りを擽ってから身近な喩えを出して反対意見を述べると意外にあっさり己の矛盾点と学生運動華やかしき時代の幼稚な正義感を認めるだろう。

 まぁ、政治的意見での隔絶はどうしようもないが、共通の話題を探すことも大事。大体スケベな話題は左右共通で、そういった話や趣味の話題で打ち解け、シャレやオチを付けながら分かり易く、周りを巻き込んで話しするのが好い(笑)

 そういう意味では浅学菲才というか、時局は勿論のこと、スケベなことから哲学的なことまで知識は雑駁に広く、何事にも興味を持って貪欲に学ぶべし。

 右翼人とは「よく読み」「よく書き」「よく喋る」、そして「よく飲む」ことだと右翼浪人の故横山武彦に教わったが、読書をしたら感じた部分や感動した台詞などを書き留めることが大事で、話術としては落語は必修科目とも言える。

 右翼陣営の悪い処は一度書いたものや一度話したことは二度とやらない人が多いが、観念的に同じことを訴えて行くことは大事なことだ。大日本愛国党総裁の赤尾敏の数寄屋橋での街頭演説なんていつも同じ。アレを見習うべきだ。

 演説を10分出来るなら、同じ話を最初からやり直せば好いことで、「さっき話したから」と恥ずかしがったところで、そんな演説なんぞ誰も聞いてないから大丈夫。同じ話でも3回繰り返せば30分。そうしているうちに要領を得るだろう。

「これは前に読んだことがある」とか「前回、同じ話を聞きましたよ」って言われたら、「主義主張なんてのは変わりませんから」と言えば好いし、そう言ってくれる人は「余程のオレのファンなのだ」と感謝すれば好いだけのことだ。

 演説で大事なのは上手く喋ろうというのではなく、自分の言葉で懸命に訴えるのが好い。それが、見栄なのか、恥ずかしいのか、同じ話はやりたがらない。下手くそな演説を勿体ぶってどうすんの。同じ話だっていいじゃないか右翼だもの(笑)

 その点、噺家というのは凄いと思う。サゲ(オチ)を知ってる話なんだが何度聞いても笑える。右翼も空気をカネにするなら業(会話)を磨かなきゃダメ。と言っても、最近の右翼は働きながら活動するのがホンモノらしいから関係ないか。

 噺家が聴衆を引き込むにはマクラ(本題に入る前の面白話)が大事。マクラで聴衆を引き込んで笑いを取ってから本題に入るのだが、マクラが上手いとつい引き込まれてしまう。右翼の演説もいきなり本題から入るから立ち止まらない。

 内容は乏しくても話術でカバー出来る。そういう意味でもツカミは大事であり、演説家は読書も好いが、それより寄席に行って話の技を盗んで来なさい。

 右翼の先生方を見ていると出し惜しみ感は否めない。思想も理論も大したことはないのに、高が知れてる経験や知識を出し惜しみしてどうするのだ。「教えるとは実に教えられることである」。教えることで己の更なる向上に繋がる。

 別に右翼だけに限らず上に立つ者は、勿体を付けることなく持てる力全てを惜しげなく与えて行くことで、心在る者は意気に感じそれに応えてくれるものだ。

 まぁ、それでも裏切られたらそれは人を見る目が無かったということ。人を見る眼というのは人生経験の集大成、修行をやり直すしかないな。呵々大笑。

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2021年02月16日

男子たるもの厨房に進んで這入るべし!

「愚妻の弁当を作ってる」などというと皆さんビックリする。亭主関白に見えるらしいが、山の神には逆らえないというか逆らわない。やることもやってないし、小遣いも月に1万円しかやらないのに偉そうにしてたらブッ飛ばされる(笑)

 ショーケンの「前略おふくろ様」に憧れて、和食料理人を目指そうと思ったこともあるし、料理は好きだから苦にはならない。ストレス解消にもなり、その日の気分で、冷蔵庫の残りものとかの簡単料理ばかりだが、何より作ってて愉しい。

 味覚というのは大事な価値観。互いに同じ料理を食べて「うん、うまいなぁ」となればホンモノの関係だろう。何もこうした関係は夫婦に限らない。友人関係でも、共に食べてるものを同じ様に感じればそれは相性の好い印し。

 料理の他にも、風景にしろ、同じ感動があるならそれは最高の相性と言える。だが、そこに政治や思想や宗教とかが絡んで来るとややこしくなるが(笑)

 閑話休題。昔は「男子厨房に入るべからず」だとか「男は台所へ首を突っ込むものではない」と聞いたものだが、誰がこんなことを言い始めたのだろう。やはり、男性社会日本の陋習とも言えなくもない。そりゃフェミニストらが騒ぐわな(笑)

 家庭での料理は女性が作るものというのは単なる固定観念。男性が外で働き、女性が家を護る時代ならそんなこともあるのだろうが、「男子厨房に入るべからず」とは、家庭を預かる主婦の亭主への思いやりから出でた言葉ではなかろうか。

 織田信長にしろ豊臣秀吉にしろ、加藤清正や伊達政宗でも、戦国時代の一流の男達はみんな台所へ首を突っ込んでいる。愚生の好きな「鬼平」の長谷川平蔵や「剣客商売」の秋山小兵衛にしても料理をあれやこれやと指南するシーンは多い。

 自分で包丁を持たなくても、きっちり女房に指示するのが亭主の責任。居間で偉そうにしているのもそれはそれで好いが、それでいて「これが不味い」「あれじゃダメだ」というのは、つまりは自ら甲斐性が無いと言っている様なものだ。

「御馳走」とは、来客に食事などを振る舞って心から持て成すことをいうが、食材を選りすぐり、調達して、心を込めて料理をして相手を楽しませること。そういう意味では、料理を女房任せにするというのは持て成す側の心構えが乏しい。

「典座(てんぞ)」という僧がいる。多くの僧の床座や食事などの雑事を司る役僧で、今では食事係の僧のことを「典座」という様になったという。

 日本曹洞宗の開祖である道元の教えの一つに「喜心老心大心(きしんろうしんだいしん)」というのがある。「喜心」は、その名の通り喜ぶ心であり、料理する喜び、食べてくれる人の笑顔に喜びを感じる心などをいう。

「老心」は子供を想う親の心で接しなさいという戒めで、「大心」というのは偏りのない広い心を持ち、謙虚にして初心忘れるべからずという意。この「喜心老心大心」の教えは料理人ならば絶対不可欠なものだが、横柄な店も少なくない。

 亭主というのはある意味「典座」であらねばならない。亭主関白ぶって自ら台所に立たずとも、客が来たならそういう「典座」の心で客を持て成し、また毎日料理をしてくれる女房にも感謝することは忘れてはならないということだ。

 日々こういう心構えでいれば「男女共同参画社会」なんてのは要らないし、この無駄な予算を廃止してコロナ対策に回せば好いし、何より国防費の充実に充てよ。

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2021年02月15日

酒飲んで得し、酒飲んで損し、酒止めて徳し(笑)

 新型コロナが収束するまで酒は自粛している。というのは嘘で、ここんとこは自宅で酒1合とウイスキーのハイボールを数杯と休肝日の様な日が続いている(笑)

 東日本大震災以降というか、団体を辞してから碌々金策も講じていないので慢性的手元不如意が続いてるし、酒の誘いはなるべく断わることにしている。

「あんたが(カネを)持っていても、俺が持ってなければ、酒なんざ飲んでも旨くない。酒とはそういうもんぜよ」とは坂本龍馬。ホント、他人のカネで飲んでも大して美味いとも思えないし、自宅でチビチビやってる方が気楽で好い。

 亡父にも「タダ酒は飲むな。卑しくなるから」と口煩く言われたことも影響しているのかも知れないが、酒は身銭を切って飲むことに価値があると思っている。

 酒というのは「百薬の長」とも言われるが、本来はバカになる為に飲むものだ。世の中バカほど愉しいものはないが、酒を飲むとそのバカになれるのだ(笑)

 正気ではとても出来ないことも酒の力を借りれば「一時的バカ」になることが出来る。一時的でもバカの幸福に浸れるのだ。酒呑んでネエチャンを口説くなんてのは酒の勢いだ。酒が別名「キチガイ水」といわれるのはこういうこと。

 バカと言っても酒乱は論外で、酒に飲まれてる様じゃ酒飲みの資格はない。落語の与太郎じゃないが、チョッとマヌケで明るい飲みっぷりが好い。

 先日もヤクザからの誘いを断った。右翼やヤクザとの酒席ぐらいつまらないものはない。どいつもこいつも、自分を大きく見せようと建前や美談ばかり。

 そんな先輩方の話は一応真面目に聞いたフリをしてるが、愛想笑いで誤魔化し、冗談を発したかと思えばシャレにならないくらいつまらないものばっか。

 酒も飲まずに天下国家を論じ、自説に悦に入ってるてる自称・国士を偶に見かけるが、そんな先生方を揶揄うと面白いが、相手は酒を飲んでないから、シャレで言ったことまでも真に受けて、後々までも根に持たれるから困ったものだ(笑)

 体質的に酒を受け付けないなら未だしも、飲めないのは訓練が足らないだけ。何より酒を飲まない男というのは魅力を感じないし、人間的にも小さく見える。

「酒を飲まない人は人生の3分の2を損してる」とは蓋し正論。唯、酒というのは楽しいばかりじゃなく、呑み過ぎて失敗なんてのは数知れず。失敗から人生を学ぶというが、そういう意味では酒は身近な師でもある(笑)

 ストレスは程好い酒で憂さ晴らしするのが手っ取り早い。ストレスが溜まれば何より身体に悪い。そんな時に頭をからっぽにするのに手っ取り早いのが酒だ。

 上に立つ者は人一倍神経を使うもので、ストレスも溜まるのは当たり前。逆を言えば人一倍神経を使えない人間は上には立つ資格は無いということだ。

 下の者からすれば上の者は気楽に見えるかも知れないが、上に立つ者は上なりに頭の中ではあれやこれやと神経を使い考えを廻らせているものなのだ。

 気の利いた店や贔屓の店で陽気に呑む。暗い酒は身体を壊すから愉快に飲むのが好い。愉快に飲む適度の酒は正に「百薬の長」なのである。だが、愉しい時間を切り上げるのは難しく、ついつい飲み過ぎていつものパターンに陥る(笑)

「酒は陽気に身銭を切って飲むべし」。酒飲みとはこれに尽きるが、中には人に奢って貰って喜んでいるのがいる。タダ酒を覚えたヤツというのどうもクセになるらしく、店からも仲間からも嫌われているのだが、当の本人は自覚していない。

「タダほど高いものはない」という言葉があるが、タダで飲めたと喜んでばかりいると後でとんだしっぺ返しが来る。酒でも女でも同じこと。女と遊ぶのも、若い頃なら未だしも歳を重ねてカネも使わずに遊ぶなんてのは愚の骨頂だ。

 歳相応の遊び方もあるし、それなりにカネを使うことを知らなきゃダメだ。地元郡山市の名士には素人女を騙して愛人にしたり、従業員に手を付けたり、子供を孕ましたりしている輩もいるが、遊び方が小者なら経済人としても小者ばかり。

 酒の切り上げ方というのが難しい。気の利いた店で心地好く飲んで、勘定する際に「心付け」を渡して切り上げることが出来れば酒道のかなりの有段者だ。

 世話になったテイケイの会長ほどに過分な心付けを渡せないまでも、ポチ袋にホンの気持ち程度のカネを入れて渡す気遣いは欲しいものだ。酒の道は奥が深い。

 愚生も慢性的不如意ではあるが、財布には大中のポチ袋を3個程は持ち歩いている。高が「心付け」なのだが、これが意外に渡すのは難しいもので、これを何気に渡すことが出来ればもう男としても大人としても一丁前だ。

「お釣りは要らないよ!」とか言ってチップを渡している人がいるが、アレは野暮というもの。釣り銭は受け取り、別に準備してたポチ袋を渡すのが好い。

 喩え、千円、二千円の僅かな心付けは有難いもの。心付けは相手に対しての気遣いでもあるが、後々自分に戻ってくるものなのだ。一見で行った店でも、裏を返した時には覚えていてくれるし、つまみの一品二品、気を遣ってくれたりもする。

「情けは人の為ならず」というが、何事にも気遣いは大事だと思っている。然し、心付けをしても何も感じ入ることのない店も在る。いつぞや、世田谷区奥沢の有名寿司店で勘定後にポチ袋を渡すと受け取ったのは好いが無視されたっけ(笑)

 酒癖は悪い、カネも払わず、大威張りした揚句にスケベってのは嫌われますよ。まぁそんなとこで、つれづれなるまゝに綴ってみました。呵呵。

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2021年02月14日

災難に逢う時節には災難に逢うがよく候・・・

 地震もドカ~ンとくれば驚きもするが、東日本大震災の震度6強を経験してるから震度4や5程度ではそんなには驚きもしない。昨夜も熟睡していたら地震が起きた。どうせ直ぐに治まるだろうと思っていたら、揺れは1分程続いただろうか。

「災難は忘れた頃にやって来る」とはよく言ったもので、10年ぶりの震度6強に恐怖を覚える。強烈な横揺れだったので本棚から本や書類が飛び出し物が散乱してた。兎に角、震度6は尋常な揺れではないので、恐怖から命を意識すると思います。

 熟睡中に起こされて眠い中、部屋の状況を確認する。用心の為にバケツに水を汲んでるのだが強烈な揺れで周りが水浸しに。散乱した本や物などを片付けながら、10年前の様な地震はもう来ないと高を括っていた自分の甘さを反省した。

 地震情報をテレビで流す震度3や4程度の小さな地震に驚いてたら、強烈な地震が来たらパニックになると思う。何事も用心することは大事だが、小さな揺れに一喜一憂することなく、いつどこでも平常心で自然体でいることの方が大事。

 因みに「自然体」という言葉があるが、その意味は、自由気儘とか自分勝手、自分本位ということではなく相手や状況に合わせること。自然の流れに任すこと。

「災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。死ぬ時節には、死ぬがよく候。是ハこれ災難をのがるる妙法にて候」とは、良寛和尚の金言であるが正しく。

 災難に遭ってしまうということは誰でも起こり得ることで、それが何処でいつ起きるかは分からない。起こってしまった災難を取り消すことは出来ない。日頃から、災難や事故に備えて警戒を怠らず、自然体で生活することが大事だ。

 災難に慌てふためいたりしてしまうと、パニックから過った対処をして災難を大きくしてしまうこともある。小さなことで慌てたり驚いたりしてばかりいれば、心の中で災難が大きくなってしまい、いざという時には冷静な判断は出来まい。

 昨夜の地震でも東日本大震災の教訓なんぞ忘れ去って、パニックからか深夜にも拘らず市内のガソリンスタンドには行列が出来て、コンビニからは水が無くなったというニュースが流れていたが、こうした行為は余り感心しない。

 起こってしまった不幸には「こういう時もある」と受け容れることも大事。何より「なるようにしかならないものだ」という開き直りも時には必要となる。

 逆境やピンチになると人間というのは潜在能力を発揮する。だが、その逆境やピンチから逃れようとする人は意外に多く、それだけ人間というのは弱い生き物でもあるのだ。だが、果して、どうにもならない運命などあるのだろうか。

「一休さん」で有名な一休宗純は、忌の際に、弟子達に「自分が死んだ後、どうにもならないことがあったら、これを開けなさい」と遺言状を渡したという。

 やがて、彼の死後、弟子の中で大変困ったことが起こった。弟子達は師に救いを求めようとその遺言状を開けてみることにした。その遺言状には一言だけ、「大丈夫、なんとかなる!」と綴ってあったという。

 どうにもならない様なことなんてないもの。自分でそう思ってしまっているだけで、その悩みも実はそれほど大したことではなく、なんとかなるものなのだ。

 将来のことや、未だ起こりもしないことを一々気を病んでこじんまり生きて行くよりも今を本気で懸命に生きるべきで、「一日一生」とはそういうことである。

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2021年02月13日

東京五輪組織委員会森会長発言騒動に感じる危うさ

「角を矯めて牛を殺す」という諺がある。欠点を直そうとして反ってそのもの自体を駄目にしてしまうという例えだ。森喜朗東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長への総バッシングの裏で怪しい世論が形成されて行く。

 相手が謝罪したらそれを諒とするのが日本人の美徳だが、謝罪しても赦さないというのは日本人の美意識の欠落甚だしい現象でもある。大病を患いながらも頑張っている老人の失言を論い、正義面してバッシング。辞任はさぞや満足に違いない。

 イジメ問題が起こると大騒ぎしている連中が、森を総バッシングしている姿は集団イジメを通り越して集団リンチにも感じる。年寄りを寄って集ってイジメて楽しいのだろうか。「老害」というなら反日売国の老人なんてうじゃうじゃいるぞ。

 森は会長職に就く条件として「無償・無給」を申し出たという。五輪組織委員会の規約上、無報酬には出来ないということを知り、自らの報酬をアルバイト職員と同額の最低額にし、その全額を積み立て職員らとの懇親会費に充ててきたという。

 こうした森の行為にはだんまりを極め込みながら、恰も森は国民意識と乖離してるが如くの報道には違和感しか覚えない。況してや森は癌を患ってるのだ。長男も不慮の事故で亡くし、余生少ない老人をイジメてどうしたいというのだ。 

 森は騒動後、発言を撤回し謝罪。それでも赦さず、後任指名された元サッカー協会会長の川淵三郎が「森さんを顧問にする」との発言に、再度「密室で後任を決めるとは何事か」という声が上がり、川淵も会長就任を辞退することとなった。

 橋本聖子五輪相の声も上がってるが、過去の男子フィギュアスケートで人気の高橋大輔選手へキスを強要したというセクハラ問題が浮上し混沌となっている。こうした報道の連続は、反オリンピック勢力が謀っている様に感じてならない。

 確かに、是が非でも東京オリンピックを成功させたいという思いの裏で、放映権などの巨大な利権が絡んでるのも確か。然し、オリンピックはスポーツの祭典であり、その主役は大会組織委員やボランティアではなく競技する選手達である。

「角を矯めて牛を殺す」の喩え通り、発言を都合よく切り抜いて「女性蔑視」だとか「女性差別」と騒いだことで、どれだけの選手達が心を痛めたことだろう。

 森会長の40分に亘る講話を一体何人の人がその内容を知っているのか。マスコミが垂れ流した「蔑視発言全文」こそウソだと知る人は限りなく少ない。

「女性蔑視」と騒いでる連中は40分に亘る森の講話全文(添付)を読みなさいな。読んでそれでも「女性蔑視」だとか「女性差別」とか感じるようなら、精神が病んでるかジェンダーフリーの性的変質者か確信的破壊活動家だろうな(苦笑)

 冤罪というのはこうして生まれるのだと末恐ろしく感じる。森のあの女性への冷やかし程度の発言が「女性蔑視」と捉えられバッシングされる風潮こそが言論弾圧、言論の封じ込め、言葉狩り、正に共産主義国家以上の異常さを感じる。

 タレントの多くがマスコミの作為的切り貼りに便乗し森発言を批判し、誰だか分からないマスコミ御用達の知識人が森や川淵を「老害」呼ばわりしてる怪しい風潮の中で、森発言の全文を読んだお笑い芸人の小籔千豊の言葉に目が留まった。

「一部の発言を切り取って、印象を強めようという報道は別に今回だけでない。僕も最初ネットかなんかで文字見たとき『あ、えらいこと言いはったな』と思ったんですけど、全文読んだら、たぶんみんな印象変わると思うんですよ」と語っている。

「別に今回だけじゃなくて、どっかの市長の発言も切り取ってバン!って出たら『えらいこと言うたんやな』と。でも全部のこと見たら『そらしゃあないわ』って人、多かったと思うんです。変な発言したから『おい責任とれ! 辞めろ!』っていう空気にするなら、変な切り取り方して、後任決まらへんような状態にした報道の仕方をした人も、辞任とかせなあかんのちゃうかなと」とは蓋し正論。

 切り貼りして世論を煽った反日マスコミに猛省して貰いたいものだが、彼奴等にとって小藪の発言なんぞ馬の耳の念仏、兎に祭文の類。破壊活動を目論む左翼やマスコミらにとって、森を辞任に追い込んだことは功績以外の何ものでもない。

 国内には「天皇制」や「皇嗣殿下」「女性宮家」「協働」「男女共参画社会」などの共産党用語が溢れ、左翼陣営は潤沢な活動資金と政府中枢への蚕食が成功し、行政と共産主義の連結は目を覆うばかり。国家解体は想像以上に進んでいる。

 今後は、森発言を都合好く利用して効果を上げた反日勢力が、国連女子人権委員会や世界のジェンダーフリーを叫ぶ性的変質者らと徒党を組んで、我が国の皇統に口を挟み「女性天皇」を謀って行くだろうことは火を見るより明らか。警戒せよ!

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2021年02月11日

明治22年2月11日の「紀元節」に大日本帝国憲法発布

 昨日10日は日露戦争の「開戦記念日」。本日2月11日は「建国記念日」、戦前の「紀元節」。「建国を偲び、国を愛する心を涵養する日」であり、また本日は「大日本帝国憲法(欽定憲法)」発布を記念する日でもあります。

 欽定憲法は、明治人の智慧が凝縮された日本の至宝である。また、欽定憲法と同じく旧皇室典範も正統な国法である。悲しい哉、この二つは放置され続けている。

 欽定憲法が発布されると、全国の神社では「紀元節祭」の催しを行うこととが慣例となり、青年団や在郷軍人会などを中心とした建国祭の式典が全国各地で盛大に開催されることになった。建国と主権国家の国法の誕生を心から祝った。

 本日も全国各地で「神武天皇陵遙拝式」や建国奉祝パレードが行われるが、新型コロナの影響で自粛を余儀なくされ、中止するところも出ている。然し乍ら、祖国日本に生まれた者として建国を祝うことは至極当たり前のことだろう。

 だが、悲しい哉、「紀元節復活は科学的根拠がない」「軍国主義復活反対」などとして、日本共産党を始めとした売国団体や誤(護)憲派が「奉祝反対」の催しを決行する。こうした光景こそ「平和ボケ」と揶揄される日本人を象徴するものだ。

 日本国憲法を有難がってる連中が、憲法に基き制定された「建国記念日」を蹂躙しているのは嗤うしかないが、連中の「科学的根拠が無い」とする論拠が、歴史学者としての高松宮崇仁殿下の御意見というのも御粗末なことだ。

 左翼どもは、日頃「反皇室」を叫んでいながら、こうした皇族の私感を利用して国民世論や大衆を煽動するのは常套手段でもあるが、「紀元節奉祝反対」を叫ぶ連中の真意は外でもない、正統な国法である欽定憲法の復活を危惧してのものだろう。

 戦前は「四方節(元旦)」「天長節」「明治節」「紀元節」は、四大節として宮中皇霊殿で天皇親祭の祭儀が行われ、各地で神武天皇陵の遙拝式も行われた。だが、敗戦後は「紀元節」の祭祀だけが中止。これ即ち「神道指令」の名残りである。

 戦後、日本国憲法に相応しい祝日の法案には「建国の日」も盛り込まれていたが、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が紀元節復活に難色を示し削除された。

 我が国が占領から解放され主権を回復した昭和27年4月28日に「紀元節復活運動」が起こり、33年に国会へ議案を提出するも実現出来ず、41年に「祝日法」が改正され、翌年2月11日に漸く「建国記念の日」として実施され今日に至っている。

 故中曽根康弘は「戦後政治の総決算」を唱え、安倍前首相が「戦後レジームからの脱却」を唱えたが所詮は画餅でしかなかった。戦後政治を改めるなら「憲法記念日」を祝日から追放し、新たに4月28日を「主権回復記念日」とすべきである。

 誤憲派や左翼陣営は、占領軍が「日本弱体化」の怨念を込めて我が国に押し付けた日本国憲法を有難がっているが、5月3日は「占領基本法」が施行された屈辱の日というのが正しく、反米を唱えながら現憲法容認とは矛盾の極みである。

 本日が「建国を偲び、国を愛する心を涵養する日」とするならば、次代を担う子供達や青少年に日本の神話を教え、建国の意義を伝えて行くべきで、そういう意味でも「建国記念の日」というより、「紀元節」とするのが相応しいと思う。

 国を愛する心の涵養とは、即ち、大和心の涵養であり、国学者・本居宣長の「敷島の大和心を人問わば、朝日に匂う山桜花」との、この和歌に極まれり。

 日の丸や旭日旗を掲げて叫ぶ、安っぽい愛国心を昂揚することではなく、八紘(はっこう)を掩(おお)ひて宇(いえ)にせむこと。神武肇国の大理想である「八紘一宇」を掲げ、天皇國日本の真姿開顕へ奮闘前進することである。

 誰もが誕生日を祝うのと同じ様に、国の誕生を祝うのは当然であり、民族の信念と道統を受け継ぎ、これを護持し、これを宣布し、そして子孫に伝える責任と使命を有する者、それは今を生きる我ら日本人であることは言うを俟たない。

 神武肇国の大理想「八紘一宇」を掲げ、天皇國日本の真姿開顕へ奮闘前進しよう!

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2021年02月10日

本日2月10日は「日露戦争」の開戦記念日である

 15世紀に始まる「大航海時代」以降、白人による世界制覇(植民地支配)の滔々たる流れがアジアにも押し寄せると、危機感を募らせた我が国は、国内統一に向けて明治維新を成し遂げると、近代国家の建設を急いだ。

 そんな極東アジアが危機的情勢であるのに隣国の李氏朝鮮はその意味も分からず、相変わらず我が国を蔑視し続け、清の属国から独立を果たすことはなかった。

 当時、我が国ではロシアに対する安全保障上の理由から、朝鮮半島を勢力下に納める必要との意見が大勢を占めていた。そんな中、朝鮮を属国としていた清と、朝鮮に独立を促す我が国との間で諍いが起き、終に「日清戦争」が勃発する。

 大国・清との戦いで我が国が勝利するも、朝鮮は独立を果たさすことはなく、敗戦した清も崩壊し、その広大な領土は世界の国々に次々と蚕食されて行った。

 日清戦争での勝利に因って「台湾」「澎湖諸島」「遼東半島」が我が国に割譲されることとなった。だが、これをロシア、フランス、ドイツの介入によって、遼東半島は清に返還されることとなった。これが所謂「三国干渉」である。

 因みに、三国干渉での遼東半島のみ返還が成された。つまり「台湾と澎湖諸島は国際法上は未だ我が国の領土である」という意見があるのを紹介しておこう。

 三国干渉で遼東半島が返還されると、清と「露清密約」を結んでいたロシアは、我が国が手放した遼東半島の南端に位置する旅順・大連を租借すると、直ちに旅順に太平洋艦隊の基地を造るなど、満洲への進出を謀ろうとする。

 清で発生した「義和団の乱(義和団事変、義和団事件)」の混乱収拾を理由にロシアは満洲へ侵攻し、全土を占領下に置くこととなって行った。

 当時、国内では、伊藤博文を始め「日露戦争回避派」が大勢を占めていたが、徐々に「ロシアとの開戦已む無し」の声は大きくなり、明治37年2月8日、旅順港に停泊していたロシア旅順艦隊に日本海軍駆逐艦が奇襲攻撃に至った。

 同日、日本陸軍先遣部隊が朝鮮の仁川に上陸。翌9日、仁川港外にて同地に派遣されていたロシアの巡洋艦ヴァリャーグと砲艦コレーエツを攻撃し自沈に追い込んだ。この「仁川沖海戦」でロシアとの火蓋が切られ、翌10日、ロシアに宣戦布告。

 その後の戦いも熾烈を極め、「黄海海戦」「遼陽会戦」「旅順攻略」「奉天会戦」と、生死を分ける戦いが行われ、明治38年5月27日から28日にかけて繰り広げられた「日本海海戦」で我が国が起死回生の劇的大勝利を収めることになる。

「樺太攻略」も日露戦争の延長であり、樺太を全占領した我が国はその後の「ポーツマス条約」の講和によって南樺太の主権を有することとなる。この事実からも「北方四島」返還運動が如何に欺瞞に満ちたものであるかが分かるというものだろう。

「開戦記念日」というと、真珠湾攻撃に至る12月8日を思い浮かべる人が殆どだろうが、今日、2月10日は日露戦争の宣戦布告が成された「開戦記念日」である。

 明治人は国家主権快復の為に気概と誇りを以て爽やかに戦った。現代を生きる我々は、道徳に優れ教養と武士道精神に長けていた明治人の覇気に学ばねばならない。

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2021年02月09日

明治37年2月9日「仁川沖海戦」を以て日露戦争が勃発

 明治37(1904)年2月8日、旅順港に停泊中のロシア旅順艦隊に日本海軍駆逐艦が奇襲攻撃。日本陸軍先遣部隊が朝鮮仁川に上陸。翌9日、仁川港外に派遣されていたロシアの巡洋艦ヴァリャーグと砲艦コレーエツを攻撃し自沈に追い込んだ。

 この「仁川沖海戦(じんせんおきかいせん)」を以て日露戦争の火蓋が切られることとなり、翌10日、我が国政府はロシアに宣戦布告する。

 極東の小国であった我が国と、世界最大の軍事大国ロシアとの民族の生死を賭けた戦いは1年半にも及び、我が国が奇跡的大勝利を成し遂げた。

 固唾を呑んで見守っていた世界の人々の誰もがロシアの勝利を疑わず、そんな中での「日本大勝利」の報は極東小国日本の存在を世界に知らしめ、驚嘆させた。

 戦前、ロシアに占領や弾圧されていたフィンランド、トルコ、ポーランドの国々や、有色人種として差別されていた国家や民族にとっての日露戦争とは、国家と民族の存在を根本且つ決定的に変える程の影響を齎したのである。

 15世紀に始まったヨーロッパ人に因るアフリカ・アジア・アメリカ大陸への大規模な航海が行われた「大航海時代」以来、白人による世界制覇の滔々たる流れがアジアにも押し寄せ、江戸幕府も対応に苦慮したことは想像するに難い。

 我が国は危機感を以て迅速に明治維新の大業を成し遂げた。その後に起きた日清戦争、そして国家の存亡を賭けた日露戦争で我が国が勝利したことによって世界は大きく変化し、全世界の有色人種に強烈な影響を与えることなった。

 インドのガンジー、ネール、ビルマのオッタマ・ミール、フィリピンのリカルテ、ベトナムのファン・ボイ・チャウ、エジプトのムスタファ・カミール、トルコのケマル・パシャ等等、多くの英雄が日露戦争で日本の戦いの影響を受けた。

 大国ロシアに日本が勝利すると世界各地で「日本大勝利」に狂喜し、有色人種が白人に劣らないことに確信を持ち、各地で独立運動が湧き上がり、米国内でも黒人に人種平等の自信を与え、黒人解放運動の支えとなったのだった。

 黒人誌の「インディアナポリス・フリーマン」は当時、次の様な社説を掲げた。

「東洋のリングで黄色い男達のパンチが白人を打ちのめし続けている。事実ロシアは繰り返し何度も日本人にこっぴどくやられて、セコンドは今にもタオルを投げ入れ様としている。有色人種がこの試合をものにするには、もう時間の問題だ。長く続いた白人優位の神話が、遂に今突き崩され様としている」

 日露戦争勝利から15年後、パリ講和会議に於いて日本の全権使節団は、国際連盟規約に「人種平等の原則」を入れる提案を行う為にパリに向かう。

 途中、ニューヨークに立ち寄った折に、黒人指導者四人から「世界のあらゆる人種差別と偏見を無くす事に尽力して欲しい」という嘆願書を全権団が受け取った。

 だが、我が国の全世界の人種平等の願いは、議長を務める米国大統領ウイルソンに、「全会一致」との詭弁を弄されて、この要請は虚しくも拒絶されてしまう。

 結局、日露戦争が齎した歴史的課題である「人種平等の原則」の本格的実現は、その後に起こる大東亜戦争後に実現し、その歴史的大使命が果たされるのだった。

 こうした歴史的現実を顧みれば、我が国は先の大東亜戦争に敗れはしたが、その戦いには人種平等という大義があり、正に聖戦だったことが理解出来よう。

 世界史にとっても日本史にとっても重要な「日清戦争」や「日露戦争」の意義と大勝利という輝かしい出来事が、何故か余りにも軽く扱われているのは、未だ我が国がGHQが謀った戦後民主主義教育から脱却出来ていない証左でもある。

 嘗てアジアと欧米列強に呻吟していた国にとって希望の星であった日本が、国家の大本と歴史を忘却し、いつまでも米国の配下に甘んじてて好い筈がなかろう。

 日露戦争勃発の記念日に当たり、先人が決然たる態度で一戦を決した日清・日露の大英断を、そして大東亜戦争の大義を「民族の魂の記憶」として誇り高く、永く後世に継承して往かねばならないとの決意を新たにする。すめらぎいやさか。

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2021年02月08日

森バッシングに味を占めた連中が次に謀るのは「女性天皇論」だろう

 森喜朗東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長への総バッシングは左翼が謀った男女共同参画社会や男女雇用均等法の弊害である。森の発言が曲解や歪曲されて世界に発信されたことは我が国の汚点には違いない。

 そういう意味では森の発言は不徳の至りでもあるが、単なる女性への揶揄的発言を「女性差別」の大問題として煽り立てて批判してる連中こそ怪しからんことだ。

 以前にも「女性が土俵に上がれない」ことをして、相撲協会や日本全体が女性差別をしているかの如くに大騒ぎし、国内外の反日メディアが取り上げて、「女性差別は日本の風習である」かのような報道を世界にバラ撒いたことがあった。

 相撲協会は伝統や風習を継承しているだけのことで女性差別ではない。女性への差別や蔑視という次元で批判していることこそ日本差別そのものではないか。

 大相撲というのは、明治維新後に「断髪令」が発せられても丁髷の伝統を貫き、国歌「君が代」を斉唱し、「天覧相撲」を行い、「国技」を自称して来た保守の牙城とも言うべき存在である。それが気に入らない勢力が存在するのも事実。

 我が国の歴史・伝統・文化を否定している左翼陣営がそうで、そうした連中が大相撲批判を繰り返している。反天皇運動も同じで、森バッシングも似たり。森バッシングが悪質なのは、批判してる側が反日勢力に利用されてる自覚が無いことだ。

「女性差別」や「女性蔑視」を振り翳すことで成果を上げた勢力は、今後は「日本という国は女性差別や女性蔑視が罷り通る国だ」として、男系男子に限られている皇位継承に繋げて「女性天皇」や「女系天皇」論を謀って行くだろうことは必至。

 左翼と反日の巣窟である「国連女子差別撤廃委員会」が男系男子に限られている皇位継承に関して、皇室典範の改正を女性天皇を強要したことは記憶に新しい。

 国連というのは別名「戦勝国」。その主たる目的は日本バッシングであり、敗戦国なのに目障りな日本の国力を、悉く削ぎ落そうという策謀が見え隠れする。

 所謂「従軍慰安婦問題」でもそうだったが、我が国が女性を差別し、恰も日常茶飯事的に女性の人権を侵害しているかの様な国連のクソどものらの反日且つ一方的な物言いに、違和感と怒りを覚えるのは愚生だけではあるまい。

 皇室の神事の一つ「皇霊祭」では、生理中の女性皇族は参加出来ない。神事では生理は「穢れ」の一つと考えられているからだ。左翼や反天皇勢力からは「生理は汚らわしいものではなく、女性差別、女性蔑視だ」との抗議の声が上がる。

 生理中、女性というのは情緒不安定になるというし、そうした女性の体調を気遣うのは当たり前のことで、差別という次元で語ることが不思議でしょうがない。

 生理中の女性への対応は何も皇室だけの例外ではない。イスラム教では生理中にはモスクには入れないし、ユダヤ教でも生理中の女性との握手を禁じている。こうした対応は別に女性差別というものではなく伝統の中で培った教えである。

「女系天皇論」も女性差別を理由に論じられているのだが、左翼や反天皇勢力というのは考えが偏向してるのもそうだが物事の見方が実に薄っぺらいものばかり。

 それでは聞くが、126代続く天皇の歴史の中で8代10人の女性天皇がいる何処が女性差別なのか。歴代ローマ法王に女性はいないし、ローマ法王を選ぶ枢機卿にさえ女性はいない。「女性差別撤廃」というならこれも女性差別ではないのか?

 日頃「レディーファースト」と自慢し、女性を持ち上げている国でも伝統とはそういうものである。ローマ法王や枢機卿に抗議もしない国連女子差別撤廃委員会が、我が国の皇統に口出しするのは、要は「日本差別」と「日本人差別」である。

 自民党幹事長の二階俊博が、常々「女性尊重の時代に天皇陛下だけはそうはならんというのは可笑しい。時代遅れだ」との認識を披歴してるが、二階の発言は「国連女子差別撤廃委員会」が皇室典範の改正を強要したのと同じ流れである。

 皇統を女性差別で語るマヌケさを自覚せずに、日本差別著しい国連の御先棒を担ぐとは、政権与党幹事長としての資格に乏しく、己の短慮を恥じるべきだ。

 政府や皇統断絶を目指すインチキ有識者らは、皇室典範第12条の「皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる」との条項改正を理由に、「女性宮家」創設と「女系天皇」誕生を謀っていることは周知の通り。

 また、日本国憲法第2条には「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」と、皇位は「世襲」であると記されているが、二階はこの条項を知った上で敬宮愛子内親王の即位を謀る。

 現憲法下で女性天皇・女系天皇を容認する勢力は現憲法第2条を楯に、皇室典範の改悪と敬宮愛子内親王こそ世襲の筆頭であるとし、国連女性差別撤廃委員会と足並みを揃え女性天皇誕生を謀るだろうが、断固として阻止せねばならない。

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