2021年01月23日

国士とは「歩」が成った様な者である(國士舘初代館長・柴田徳次郎)

 國士舘初代館長・柴田徳次郎先生は「国士とは『歩』が成った様な者である」と喩えた。将棋では金や銀、飛車や角が大事にされるが、軽く見られる「歩」こそ大事に扱わなければならない駒で、学生を「歩」に喩えて育成の大事さを教えた。

「ヘボ将棋、王より飛車を可愛がり」だとか「桂馬の高飛び歩の餌食」など、将棋には面白い川柳や諺が多くある。中でも「歩の無い将棋は負け将棋」という格言は、教師や会社経営者に人を育てる上での大切さを考えさせる言葉だろう。

「歩」というのは生徒であり、企業でいえば若い社員であり、この社員を活かすも殺すも上司の腕の見せ所。この歩の人材を如何に育てるか、そしていつかはその歩が「金」と成って、会社は言うに及ばず、延いては国の宝となるのである。

 将棋では駒を動かすことを「効かす」とか「働かす」という言葉を使う。つまりは、上司は部下を無闇やたらに「動かす」のではなく、動くに「人偏(にんべん)」をプラスして如何に上手に「働かす」かが大事であるということだ。

 駒の欠点を周りの駒で補いながら、その駒の長所を伸ばし、折角の駒を死に駒にしないで働かせることで勝ちに繋がるもので、会社の経営なんかも同じこと。

 まぁ、愚生は「歩」というより「香車」だろうか。不器用に真っ直ぐにしか進めない。それでも未だ「成れる」可能性もあるが未だに「成る」手前で留まっている。大器晩成と言われたこともあるが、このまま終わる可能性は限りなく大きい(笑)

「一年で育てようと思うなら花を育てるべし。十年で育てようと思うなら木を育てるべし。百年かけて育てようと思うなら人を育てるべし」という言葉がある。

「人材育成というのはインスタントに出来るものではない」というのは、誰もが自覚していることだろう。ならば、普段から学校は勿論のこと、家庭でも、地域でも、周りで子供や若者を育もうという意識がなければダメだ。

 花を育てたり、木を育てるにしても臭い飼料もたまには与える様に、人もまた甘やかすだけでは立派には育たない。温室で育った野菜や果物は見かけだけで味に深みはない。やはり自然の風雪に耐えてこそ味に深みが出るというものだろう。

 人間だって同じ。たまには愛情ある鉄拳も必要だし、厳しく突き放すことも必要だ。「個性を磨く」というのは本来そういうものでもあるのだ。

 人を育てるというのは、日本刀が出来上がる過程と実に似ていると思う。日本刀は先ず卸し鉄を「積み重ねる」ことから始まる。人生も積み重ねから始まる。

 そして「鍛錬」し、更に「下鍛え」し、何回も何回も鍛え上げ「芯鉄」を鍛え造り込む。叩いて叩いて鍛えることで強靭で立派な刀が出来上がるのだ。

 柴田徳次郎先生も「刀というのはトンテンカン、トンテンカンと叩いて叩いて鍛え上げなければ五郎入道政宗とか村正といった立派な刀は出来ません。国士舘の生徒も先生だけの指導だけではダメで、学校も親も一緒になってお子さん方を鍛え上げて行かなければ立派な日本人に育てることは出来ません」と訓示している。

 日本刀を作る上で最も大事なのが「焼き入れ」。この「焼き入れ」を行うことで刀に命を吹き込むのだが焼き入れ一つで刀の出来も価値も変わってしまう。

 本来「ヤキを入れる」とは鍛錬の一つなのだが、最近では行為を正そうとしたビンタでさえも単なる「暴力」として扱われてしまっているのは残念なことだ。

 ヤキとは鍛錬であり、愛情を以て鍛錬しなくてはダメだ。そのヤキ(指導)の在り方を間違うから問題とされる。人を育てるというのは実に難しく「鍛錬」の仕方が悪かったのか、それとも「ヤキの入れ方」が足りなかったのか。

 何れにしても「人創り」というのは一朝一夕に出来上がるものではなく、上に立つ者の力量(指導力)に係っていると言っても過言ではない。つまりは、鍛錬されてない上司や指導者(先生)に仕える生徒や部下は気の毒でもある。

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2021年01月22日

日本には「愛国心」などという言葉はそぐはないのではないか(三島由紀夫)

 日本では何故か「愛国」だとか「愛国心」などと口に出すものなら「右翼」や「反動」と非難される。「右翼」という言葉には悪意が感じられ、愛国者を「右翼」と蔑むことに由って国家と国民の離反を目論んだマスコミの成果でもある。

「愛国」の由来は「日本書記・第三十三巻」に在る「朕嘉厥尊朝愛国売己顕忠」という勅語で、「我(朕)は、貴男が廷を尊び、天皇国を思い、己を売ってまで忠誠を示したことを(顕・あきらかにした)嬉しく思う(嘉・よろこぶ)」と詠む。

 一般個人に与えたられた勅語はこれ以外にない。また、この勅語にある「愛国」の文字は、持統天皇が初めて用いた「国を思う」との意味が込められている。

 天智2年(663年)、唐・新羅連合軍に攻撃され危機に瀕した百済は日本に救援を求めると、日本軍はその要請に応じる。中大兄皇子(天智天皇)を中心とするヤマト朝廷は全国から傭兵を募り、凡そ5万の援軍を朝鮮半島に送った。

 だが、救援虚しく百済日本軍は「白村江(はくすきのえ)の海戦」で大敗を喫し、生き残った者は捕虜となった。 その捕虜の一人、大伴部博麻は「唐が日本を攻める」という情報を得るも、日本に知らせる術はなかった。

 それから26年の歳月が過ぎた持統4年(689年)、博麻は自らを奴隷になって資金を捻出し、仲間を帰国させて日本に唐からの侵略の危機を知らせる。その報を受けて侵攻に備えた。そうした甲斐があって日本は侵略の危機を逃れた。

 奴隷となった博麻が帰国したのは何とその30年後だった。帰国後、持統天皇が博麻を表彰した際に送ったその言葉が前出の「愛国」の勅語だったのである。

 日本人が失った徳目を呼び返そうという標語として「愛国心」は最も相応しい言葉だと思うが、アドルフ・ヒトラーは「国家という概念は今日、明白な内容を持っていない。だから軽薄な愛国教育しかできないのだ」と訓えていることに括目する。

 現在の「保守ブーム」の氾濫や「ネット右翼」の過熱ぶりを目の当たりにし、ややもすればその「愛国心」が軽薄なものになってしまっているのではなかろうか。

 国旗や旭日旗を仰々しく掲げ、意見を異にする連中「天誅」だとか「テロ」といった勇ましい言葉が乱舞するが、そこには日本的気風は感じることはなく、折角の「愛国心」が、ややもすれば贔屓の引き倒しになってしまってる感は拭えない。

「日本の様な国には、愛国心などという言葉はそぐはないのではないか。『大和魂』で十分ではないか」と三島由紀夫は語っていたが、激しく同意する。

 日本人は祖国日本を誰から教わる訳でもなく「穏やかな平和の国」と無意識に思っている。一方「漢心(からごころ)」の大陸では、古代から日本を「倭(ヤマト)」という字を充てて「倭人」や「倭国」などと蔑視してきた。

「倭」とは「醜い」「卑しい」といった軽蔑の意味で、ヤマトの国を「邪馬台国」だとか、日の皇子の女皇を「卑弥呼」というのは明らかに蔑んだ呼称だ。

 日本人が持つべき「大和の心(大和魂)」とは、つまり、花鳥風月、山川草木、春夏秋冬の恵まれた自然に逆らわず調和して暮す従順な心であり、「敷島の大和心を人問わば、朝日に匂う山桜花」、これに極まれり。

 昨今の偏狭な愛国心は、韓国や他の国と同じ「祖国愛」「民族愛」に似てる。本来、我が国の愛国というのは「報国」でなければならないのだ。福澤諭吉も「国を支えて国に頼らず」と訓えているが、国を支えて行くことこそ大事である。

 まぁ、勤労の義務も納税の義務も果たしていない愚生が講釈しても重みは無いが、先ずは軽軽しい愛国心よりも日本人が享受すべき大和の心を涵養しよう。

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2021年01月21日

世の中コロナコロナと騒ぎ立て自粛やらで分からん方向に行ってるなぁ

 新型コロナで亡くなった方は昨日(1月20日)現在で4687名。県内では34人が亡くなっている。尤もこの数値は原発関連死と同じく、死亡原因が心筋梗塞だろうが脳梗塞だろうが新型コロナの陽性ならコロナ死とされるから仰々しい数値になる。

 世界の死亡原因の第1位は微生物感染症で1500万人。続いて心疾患、癌、脳疾患と続く。だが、飢餓での死者は年間で8億2100万人(2017年の統計)で、毎日2万5000人が亡くなってるという。コロナより飢餓問題に危機感を持つべきだ。

 コロナ対策でここまで規制するなら、年間にコロナ以上の犠牲者が出てるクルマも減らさないとダメだし、品川郡山市長もタバコが悪いからと禁煙を徹底するなら、ラーメンが高血圧症に悪いだろうから「禁ラーメン」宣言したら如何か(笑)

 飲食店なんてのは水商売なのだから何があるか分からんし、収入も充てにならないから水商売。それなのに「補償しろ」だとか「補償しますので営業自粛して」だとか、その場しのぎの対策は屋上屋を架すばかりで悪循環は治まる気配無し。

 新型コロナで飲食店が夜の休業を余儀なくされてる。地元の陣屋や朝日のスナック街は軒並み来月7日まで臨時休業。こうした状況を大変だと思うのは勘違いで、コロナでなくても客が来なくて営業困難な店にとっては自粛休業は天佑神助。

 働かなくても休業補償が貰えるとあってウキウキしてる経営者は多い。飲食店に補償するなら従業員やホステスらにも補償すべきで、そうなれば「飲食店だけ優遇するのは不公平」という声も出るだろうから全国民に給付金を交付すべきだが無視。

 新型コロナワクチンが出回れば騒ぎも沈静化するだろう。だがその前に「新型コロナに治療効果の見られるアビガンを承認する」の一言で多くの国民の不安が払拭されるのに、何故か承認しないアホ官僚と責任問題を警戒するマヌケな政治家ども。

 菅総理が批判の矢面に立たされているが、前任の安倍政権下では新型コロナが国内に蔓延しているのに与野党ともに党利党略を優先した。コロナ対策の不作為や不手際を猛省することなく国民の自粛頼みとは本末転倒と言う他はない。

 後手後手の感は否めず屋上屋を架す菅政権。「特措法改正」で自粛に応じない店に罰金だとか言う前に、新型コロナ発症元が武漢ということで中共政府に阿て対策を講じることなく、アビガンの認可すらして来なかった政治家を罰するべきだわな。

 新型コロナウイルスに罹患し、重篤な状況から生還した芸能人や著名人らが口を揃えてアビガンの有効性や特効性を訴えていたのは何だったのか。

 アビガンの有効成分「ファビピラビル」に関するライセンス契約を、富士フイルムと結んだ中共の製薬大手・浙江海正薬業が後発医薬品を増産し絶大な効果を発揮してるというのに、「日本人には有効性が無い」とはどういうことか。

 ワクチンとは、ウイルスの生体から作られ、弱毒化・無毒化された抗原のこと。抗原を体の中に入れることにより、ウイルスをやっつける抗体が出来る。その抗体によってウイルスから守られるのだが、アビガンはワクチンではなく有効な治療薬。

 ウイルスに勘違いを起こさせて、取り込ませることによって、ウイルスの増幅を止めてしまう化学物質であり、効果的なワクチンが開発されるまでの治療薬としてアビガンを認可し使用することに何を躊躇する必要があるというのか。

 専門家らは「安全性」「副作用」という尤もらしい理由を吐けて反対してるが、多くの国民がアビガンに抱くイメージは新型コロナウイルスへの不安解消や罹った際の安心感であり、批判的意見は国民の期待に水を差すものでしかない。

 新型コロナ対策として現在の「二類感染症」指定から「五類」に指定すべきという声がある。確かに、新型コロナは単なる新規のインフルエンザで恐れるに足らず。

 ワクチン接種も始まるし、罹患者急増で病院の収容人数がパンク寸前なことも考慮してアビガンを早期に承認して民間医療機関で対処出来る様にした方が好い。

「五類指定となったら医療費は全額自己負担となってしまう」との声も聞こえる。抗ウイルス薬「レムデシビル」は1回分(5日間、6本)で25万円。最高で2回投与で合計50万円。保険適用により3割負担になっても15万円だと煽る。

 アビガンを認可し「特例」を設けて無料にすれば済むことだろう。要は、政治家の決断力だ。アビガンとワクチン投与で沈静化すれば特例を解除すれば好いだけ。初動対応のミスが現在に降りかかってることを率直に受け止めて対応すべきだ。

 コロナ禍が落ち着いたら新たな冷戦時代として世界の枠組みが変わるのは必至。我が国が今やるべきは、コロナの蔓延を防ぎ経済成長を成す台湾の対応や施策に学ぶことだ。日台関係の絆を深め、新時代の平和を創造して行かねばならない。

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2021年01月20日

任侠道を忘却したヤクザが暴力団と誹られるのも当然

 全国の右翼団体の殆どがヤクザと関わりがあり、組織が大きければ大きいほどヤクザの傘下団体に成り下がっているのが現状。斯くいう愚生もヤクザの友人はいるし、所属していた団体(防共挺身隊)は山口組のケツ持ちだった。

 任侠精神や反権力、反骨精神では与するものはあるが、資本主義の落とし子の様なヤクザに、反資本主義の右翼が配下になるというのも可笑しなことだ。

 況してや昨今のヤクザに任侠精神は無く全てがカネの世界に成り下がった。「任侠とは、弱い者を助け、強い者を挫き、義の為には命を惜しまない気風」のこと。ならば、そういう意味では昨今のヤクザより愚生の方がその気風は高い(笑)

「ヤクザ」というのは、「おいちょかぶ(花札)」の八九三の札の意味で、八(おいちょ)と九(かぶ)と三(さんた)を足すと二十でゼロとなり「ブタ(どぼん)」となる。つまりは「役に立たない」「つまらないこと」という意味だ。

「暴力団」という呼称は戦後に警察やマスコミが命名した言葉だが、「任侠道」を謳っていながら、やってることは覚醒剤や振り込め詐欺やら違法行為と弱い者イジメ。そういう意味ではヤクザより「暴力団」という名前はピッタリだ(苦笑)

 そういう意味では役に立たなくなったヤクザに対し、「暴力団対策法」や「暴排条例」が施行されたのも悪因悪果であり自業自得。それなのに「人権がどうたらこうたら」などと暴力団側に立って訴えてる右翼ってのも嗤うしかない。。

 山口組竹中正久四代目組長は「わしらにも人権はある。人殺ししたとしてもやなあ、裁判受けとるやないか、ええッ。わしが犬か豚か虎か狼やったら、人殺しても裁判受けさすか。せえへんやろ。人間やから裁判受けさせるんや」と語っている。

 ヤクザでは山口組四代目の竹中正久という人物が好きだ。如何にも武闘派という面構えだが、驚くことに刺青はしていなかったというのも大したものだ。

 警察に媚び諂うヘタレヤクザが多い中であの反骨精神は尊敬にも値する。元検事の三井環は竹中組長の取り調べの様子をこう振り返っている。

「捜査や取り調べというのは戦争なんですよ。戦争とは荒いことをやります。相手をやるかこちらがやられるかが戦争なんです。私は29年検事をやりましたが自白をしなかったのは3人しかいなかった。一人は竹中正久で後の二人は中核派です」

 ヤクザは完全な資本主義。反共は基より反民主主義で反資本主義であるべき右翼もやってることはヤクザと変わりない。ヤクザブルの右翼が暴力団の傘下に納まるのも当然で、頭の中はヤクザと同じ金儲けと所帯染みたマイホーム主義(苦笑)

 そんな拝金主義のヤクザや右翼が当たり前になったのは平成に入ってからのこと。昔のヤクザというのは任侠道を重んじていたし、右翼も反骨精神があった。堅気を苛めず、カネは追うものではなく後から結果として付いてくると信じた。

 昭和時代の高倉健や勝新太郎の任侠映画がそうだが、悪を懲らしめ正義が勝つといった勧善懲悪に国民は興じた。その後、菅原文太の「仁義なき戦い」の頃になると抗争事件が主題となり、最近のVシネマに至っては完全な暴力団と化した(笑)

 誰が言ったのか知らないが、「ヤクザはカネも器量の内」だとか「ヤクザはイイオンナ連れてイイ車に乗らなきゃ」というのが当たり前となり虚勢を張る。愚生も付き合いから何百人、何千人と色んなヤクザを見て来たが、ホンモノは極僅かしかおらず、ヤクザの空ツッパリと根性無しはホント嗤うしかない。

 ヤクザの傘下団体に納まった右翼に魅力はもう無くなった。今は右翼団体を辞めてヤクザとの柵もなくなってお蔭で清清したというのが正直なところ(笑)

「仁義なき戦い」の舞台にもなった広島県呉市の商店主の「ヤクザなんぞなんにもかっこええもんじゃありゃせんわ。ほんまに強えやつは決してヤクザにゃならん。一対一じゃ勝てんから群れる。好き勝手暴れて怖いから殺す。人の横車を押して無理難題を押しつけて、あいつらはただそれだけのことじゃ」との言葉が過る。

 ヤクザとは本来は町奴(まちやっこ)であり、強きを挫き弱きを助ける気風が無くてはならない。任侠道を忘却した暴力団を排除し、ヤクザに任侠精神を涵養させたいと思うが、任侠道とは程遠いヤクザにその声が届くことは無い。

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2021年01月19日

憲法第一条を理由に天皇を否定する日本共産党

 第二百四通常国会が召集された。陛下は開会式に於いて「本日、第二百四回国会の開会式に臨み、全国民を代表する皆さんと一堂に会することは私の深く喜びとするところであります。国会が国民生活の安定と向上、世界の平和と繁栄の為、長年に亘り弛みない努力を続けていることを嬉しく思います。国会が、当面する内外の諸問題に対処するに当たり、国権の最高機関としてその使命を十分に果たし、国民の信託に応えることを切に希望します」との御言葉を述べられた。

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 画像は憲法第一条。日本共産党はこの第一条を曲解し「主権の存する我々が反対しているのだから国民の総意ではない。由って天皇は憲法違反の存在だ」として天皇を否定し、陛下が御臨席遊ばされる国会の開会式には出席しない不敬を続けている。

 だが、国会の召集も解散も、憲法七条による天皇の国事行為であり、第一条のみを理由に開会式出席を拒むことは護憲を標榜する政党としては如何なものか。

 憲法は何も第一条と第九条で成り立っている訳ではない。第一条を理由に「反天皇制」を叫ぶなら堂々と憲法改正の狼煙を上げるべきではないのか。抑々、我が国には「天皇制」という制度はない。天皇は制度ではなく天皇なのである。

 天皇制と断じるならば第一条だけではなく第八条までの「天皇」条項を議論すべきで、第一条を理由に天皇を否定するなら全ての国事行為や公的行事はどうなのか。

 こうした「国民の総意」を理由に反天皇を叫ぶ無礼にも、衆参議長も総理大臣も咎めたこともなく、拱手傍観を極め込んで看過しているのはどういうことか。

 共産党の行為を苦々しく思い怒りを覚える国民が殆どだろうが、残念ながらこの共産党の屁理屈は法治国家日本である我が国に於いては憲法上の解釈は正論なのだ。

 憲法改正というと第九条ばかりが問題にされるが、第九条よりもこの第一条の共産党の天皇否定の理由を国民世論に訴えれば、改憲への理解が深まり反対する声は少なくなるだろう。尤も改憲派の第九条改正こそ究極の護憲運動である。

 国の最高法規である現憲法は実に矛盾だらけのクソ憲法。第九条を論拠に誤憲派は「平和憲法」とホザくが、これこそ無知と平和ボケ。平和な時代でしか通用しない憲法であり、九条改正派も九条が大事だと思ってる時点で九条の会と同レベル。

 第九条には「日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と武力による威嚇または行使は国際紛争を解決する手段としては永久に放棄する」と在る。だが第二項で「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」とは理解に苦しむ。

 この九条のどこが「平和憲法」なのだろう。憲法の矛盾点はこれだけではない。例えば、歴代首相の靖國神社への参拝は、第二十条第三項の「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」違反である。

 A級戦犯分祀論や国立追悼施設建立も宗教法人・靖國神社への圧迫干渉であり、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」との憲法二十条条違反。

 私学助成金制度は第八十九条「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない」に抵触する。

 田中角栄が日中国交条約を締結した際に「日華国交条約」を破棄した。第九十八条第二項には「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする」と在り、国際条約を蹂躙した田中の行為は明らかな憲法違反であり、「日華国交条約」破棄は日本国憲法に照らし合わせて無効である。

 第九十六条は「この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする」と改正条項は確かに在るのが確認出来る。

 九十六条に基づき憲法改正の発議を行えば「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」との九十九条違反に問われる。国会に於いて不毛空論の改憲議論が成されて来たのは九十六条と九十九条の関係が大きく、憲法改正で国家の主権が護られることは無い。

 成文憲法のある国の中で最も古いのは1789年の米国。次いでノルーウェー、ルクセンブルグ、スイスと続く。昭和22年発布の日本は15番目だが、一字一句改正されていない日本国憲法は今や世界で最古の憲法ということになる。

 何処の国でも時代の流れに応じて憲法を変えるのが常識。環境問題、情報公開、プライバシー保護、国家の安全等々日本国憲法を施行した時代からは想像もしなかった程社会は変化している。現憲法を無効とし、我が国の正統な国法である大日本帝国憲法(欽定憲法)を復元改正することこそ我が国の採るべき道である。

 天皇陛下の名の下に召集された全国民の代表である国会議員は、危機管理も国防も領土保全も教育も防災も平和の創造も一線上に在るということを自覚せよ!

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2021年01月15日

韓国歴代大統領の不正は道徳的価値観に乏しい民族性に起因する

 収賄容疑など逮捕され、歴代大統領の中で最長となる3年6ヶ月という長期拘留された朴槿恵前大統領の懲役20年が確定した。韓国大統領の不祥事は別に驚きもしないが、判決を受ける側と下す側のその民族性には厭きれるばかり。

 男尊女卑が未だ色濃く残り、儒教の国でもある韓国で女性大統領に誕生し、時代は変わったのかと思いきや、その民族性は変わるどころか益々酷くなるばかり。

 韓国歴代大統領の末路というのは実に不幸なものばかり。政絶対的権力が集中する大統領制ということよりも人品に劣る民族性からか利権に奔り、加えて朝鮮人特有の異常な金銭欲と権力欲が不正に奔らせるとしか思えない。

 大韓民国が建国され米国の傀儡として初代大統領に就任した李承晩は、絶大な権力を握り「反日」と「反共」を徹底したが、独裁色が度を越して反感を買い、大統領選の不正で学生らのデモで退陣に追い込まれ、ハワイに亡命した後に病死した。

 韓国の国是である「反共」も「反日」も竹島の不法占拠は李承晩の影響​であり、これこそが悪害となって未だ治まることはない。その後に就任した朴正煕大統領は北朝鮮による「暗殺計画」によって夫人を失い、その五年後自らも暗殺された。

 全斗換大統領は、国際法に違反する事後法の反乱首謀容疑で「死刑判決」を受けた。その後に恩赦を受け無期懲役に処せられたが法の不遡及こそ問題だろう。

 その後の盧泰愚大統領も不正献金事件で逮捕され、反乱と内乱の罪などで懲役17年に処せられるもその後に特赦された。二人の大統領の逮捕後に就任した金永三大統領も、不正融資事件で次男や側近などが逮捕され退陣を余儀なくされた。

 日本国内から拉致され波乱の人生を送りながら大統領にまで上り詰め、韓国初のノーベル賞を受けた金大中も不正資金事件で次男と三男が逮捕され退陣した。

 その後に就任した盧武鉉も不正資金供与の疑いで身内が逮捕されると、自らの逮捕を恐れて自殺した。韓国史上この盧武鉉の実行した反日政策は酷いものだった。

 近年の異常な「反日」世論を形成したのは金大中より廬武鉉に因る処が大きく、中でも廬武鉉が謀った「親日分子取締法」は親日派を一掃する悪法となった。

 歴代大統領の中でも廬武鉉ほど反日を徹底した大統領はいない。親日分子の対象者には朴正煕もいる。朴槿恵は父親の汚名返上の為にも「親日分子取締法」を廃止すべきだったのに、父親の名誉回復より反日の世論に迎合し、最後は逮捕された。

 韓国国民は、こうした事後法という国際的にも恥ずべき幼稚な法律を「愛国的」なものだと信じ、反日こそが愛国心だと信じているのだから始末が悪い。

 廬武鉉の後に就任した李明博は、不資金事件で実兄が逮捕され四面楚歌に陥ると反日のパフォーマンスで竹島へ上陸し、陛下への雑言を浴びせるも退陣した。

 ここまで酷いと大統領に権限が集中し過ぎることの反作用というより、道徳的価値観に乏しい民族性の問題だと断じられても仕方なかろう。

 不祥事が発覚し支持率が下がると「歴史認識」や「靖國問題」「慰安婦問題」などを持ち出し反日のポーズで矛先を逸らす韓国政府とそれらに迎合する韓国人。

 先日も、職業としての売春婦(慰安婦)を「従軍慰安婦」と騙る韓国は、性懲りもなく又候蠢きだし我が国政府に対して賠償という名の無心を強要。更には「反日」のポーズなのだろう我が国の排他的水域に侵入し日本漁船の追い出しを強行した。

 何れにせよ、韓国民こそが自らの責任と歴史的事実を真正面から見詰め直すべきだが、五百年も前の豊臣秀吉の朝鮮征伐を責める国に、人間としての高貴で雅量在る偉大な言葉や行動を期待する方が間違い。関わらないのが一番。呵呵。

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2021年01月14日

本日1月14日は「尖閣諸島開拓の日 (尖閣の日)」

 今日1月14日は、尖閣諸島の主権の正当性を定めた「尖閣諸島開拓の日」。沖縄県石垣市が条例により定めた記念日で「尖閣諸島の日」や「尖閣の日」とも呼ばれる。尖閣諸島とは「魚釣島」「南小島」「北小島」「久場島」「大正島」をいう。

 尖閣諸島は、国際法上、無主地先占(持ち主のいない土地を占有した国にその領有権を与えるという考え方)に基いて、10年に及ぶ現地調査の結果、明治28年1月14日に沖縄県に編入され、世界でも日本の領土として公式に認められている。

 尖閣諸島は日本固有の領土であることは紛れもない事実。大正8年冬、中華民国(当時)福建省の漁民が暴風難で遭難し和洋島(魚釣島の別称)に漂着し地元住民に助けられた。中華民国は翌9年5月20日、魚釣島の四氏に感謝状を贈っている。

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〈感謝状〉「中華民国八年冬福建省恵安縣漁民郭合順等三十一人遭風遇難飄泊至日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島内和洋島承 日本帝国八重山郡石垣島雇玉代勢孫伴君熱心救護使得生還故国洵矚救災恤鄰當仁不譲深堪佩特贈斯状以表謝忱 中華民国駐長崎領事馮冕 中華民国九年五月二十日」

〈解説〉「中華民国八年の冬に、福建省・恵安県の漁民郭合順ら三十一人が、海上で暴風の難に遭って漂流し、日本帝国沖縄県八重山郡尖閣列島内の和洋島(魚釣島の別称)に漂着した。その際、八重山郡石垣村役所の玉代勢孫伴君らが、熱心に救護に当ってくれて、遭難漁民らを故国に生還せしめるまで世話をしてくれた事に深く感謝し、ここにこの感謝状を贈る。中華民国長崎領事馮冕 中華民国九年五月二十日」

 明確に尖閣諸島が中華民国附属の島では無く、日本領の沖縄県八重山郡の行政区域の中に位置付けている。沖縄県領域の日本領であることを当時の中華民国政府が認識していたことの証拠資料の一つだ。中華民国が中共に替わろうが同じこと。

 1960年(昭和35年)に中華人民共和国で出版された「世界地図集」(北京市地図出版社)の中でも沖縄周辺の地図には「魚釣島」と記され、国境線も国連海洋法に従って与那国島と台湾本島の中間に引かれていることに括目したい。

 1960年といえば中華人民共和国が建国された後だ。共産党一党独裁の中共で、一出版会社が中共の許可も無く自らの解釈で国境を定めることは有り得ない。つまり、この地図(世界地図集)からも尖閣諸島が日本の領土であることが読み取れる。

 台湾も同様で、1965年(昭和40年)に国防研究院と中国地学研究所が共同で出版した「世界地図集・第一冊・東亜諸国」の国境線は、与那国島と台湾本島の中間よりも台湾側に寄り、「魚釣島」「尖閣(群島)」と記されている。

 そんな中で、昭和43(1968)年6月、国連アジア極東委員会が尖閣諸島周辺の東シナ海大陸棚に石油・天然ガスが埋没している可能性を報告する。この国連の報告以降、中共と台湾は唐突に尖閣諸島の領有権を主張し始めたのが真相である。

 昭和47(1972)年、日中国交回復に向けて日中正常化交渉が行われると、田中角栄首相は明治政府の決定を無視し、尖閣諸島の領有権を「棚上げ合意」。その後、中共は国際法上の手続きも無しに地図を書き換え、1992年に自国領に組み入れた。

 中共との利権を独占したいが為に領土主権を譲歩した田中政権の容共姿勢が、我が国の国益を損なう結果となっている。我が国の歴史認識や対中外交は、日中国交条約締結時の田中の謝罪と中共への媚び諂いが踏襲され続けている。

 領土は国の主権である。田中角栄を見るまでもなく我が国は領土主権に対する認識が乏しい。ロシアに不法占拠されている北方領土や、韓国に実効支配されている竹島奪還することなど到底無理で尖閣列島も中共に併呑される危険性を孕んでいる。

 反中共を叫ぶ営業右翼らの営業で尖閣諸島問題への危機感を共有してはいるが、悲しい哉、国民の領土主権の防衛意識は乏しく、北方領土がロシア(旧ソ連)に強奪され、韓国に竹島を乗っ取られた歴史的経緯を知る国民は少ない。

 寸土たりとも主権確立には戦いをしてまで死守しているのが世界の常識であり、歴史的にも強奪された領土は奪い返すことでしか解決しない。領土問題が未解決なのは国家主権の甘さと弱腰外交が招いた悪因悪果である。

 我が国の歴代政府は「荒立てる動きはしない方が好い」とか「冷静に対処すべき」だとか、カタチばかりの「遺憾の意」を表明し穏便に遣り過して来た。断固たる抗議の声を上げて来なかった不作為が周辺諸国からの冒涜的挑発行為を許している。

 国際環境が激変する際に動くものが領土問題であり、つまりそれは北方領土や竹島を取り戻す好機であると同時に、尖閣列島や対馬が奪われる危機でもあり、沖縄本島でさえも併呑される可能性が迫っているということを自覚せよ。

 中共なんぞ恐れるに足らないチンピラ国家。尖閣列島で紛争が勃発することは共産主義体制を崩壊させる千載一遇のチャンスでもある。中共軍の敗退は習近平体制の終焉であり、そうなれば我が国は世界から称賛されることだろう。

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2021年01月11日

この身あるは親があり家があるからであり 親があり家があるは国があるからであり

 哲学者・西晋一郎は「この身あるは親があり家があるからであり 親があり家があるは国があるからであり 国があるは国の歴史があり国の精神があるからである」と訓える。実に分かり易いが奥深い言葉だと思う。

 今の自分が存在しているのは、親がいてその親がいて、また沢山の御先祖様の御蔭で存在している。それ以前に国家が在り、国の歴史の下で成り立っている。

 我が国は歴史上、人口移動の殆どない稀有な国である。日本列島に存在していた人は皆、我々の御先祖様なのだ。その共通の御先祖様からの流れの中に今日の我々が存在している。我が国の歴史は、正に御先祖様の歩みそのものなのだ。

 一方で、その我が国の歴史を悪し様に罵る連中がいる。左翼や捻くれ者らだが、そういう輩というのは御先祖様の歩みを否定していることと同じであり、つまりそれは自分の存在自体を否定していることと同じ。日本人として恥ずべきことだ。

「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ」という。自分の人生の中での高が知れてる経験よりも、先人の多くの経験から学ぶことが懸命で、御先祖様の営為を学ぶことが歴史を学ぶことであり、今の自分の生き方が、追追、子孫の歴史となって行く。

 相田みつをの詩に「自分の番 いのちのバトン」というものがある。

 父と母で二人
 父と母の両親で四人
 そのまた両親で八人
 こうしてかぞえてゆくと十代前で
 千二十四人
 二十代前では?
 なんと百万人を越すんです
 過去無量の
 いのちのバトンを受けついで
 いまここに
 自分の番を生きている
 それが
 あなたのいのちです
 それがわたしのいのちです

 今を生きる我々は「今は自分の番」という意識を持って、先人が脈々と紡いで来た長い歴史に思いを馳せて子や孫に繋げて行くという立場でしかないのだ。

 命を繋ぎたくても繋げなかった時代がある。時代に翻弄され、国の為に、家族や故郷の為に、愛する者の為に尊い命を投げ出された英霊の方々の命である。

 靖國神社の「英霊の言の葉」の一つに20歳の青年の次の様な遺書があった。

 お父様お母様。
 ただいま出撃命令がでました。
 私は立派にやって参ります。
 本当はその前に最後のお礼とお別れを申し上げたかったのですが
 その暇もなく行かなければならないことをお詫び申し上げます。
 私の鞄には、缶詰やお酒が入っています。
 軍から支給されたものを皆様とご一緒に食べようと残しておいたものですが
 それも叶わぬ夢となりました。
 どうか皆様で召し上がってください
 それでは行って参ります。
 長い間お世話になりありがとうございました。
 お体お大事になさってください。
 ごきげんよう。
 さようなら。

 日本という国に生を享けた国民全てに英霊の方々の遺書でも読ませたいものだが、祖国に殉じた英霊の方々からすれば、まやかしの平和を謳歌する現代人のだらしない生き方を嘆きながらも、命を賭して護った祖国を見て微笑んでいるに違いない。

 今日は「成人の日」。国民の祝日に関する法律(祝日法)第2条には「おとなになったことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます」との趣旨が明記されている。本来、成人式は「小正月」の1月15日に行われていた。

 平成10年の「国民の祝日に関する法律の一部を改正する法律」及び、平成13年の「国民の祝日に関する法律及び老人福祉法の一部を改正する法律」の所謂「ハッピーマンデー」の施行に伴い夫夫の月曜日に行うこととなった。

 ハッピーマンデーとは国體破壊を謀る左翼陣営の策謀であり、左翼陣営の最終目的は、我が国の重要な祝日である「勤労感謝の日(新嘗祭)」と「建国記念日(紀元節)」をハッピーマンデーに組み込み意味の無い休日にすることである。

 諸外国に比べ、我が国の祝祭日ほど「国柄」の分かる伝統文化はない。何故なら祝祭日の殆どが皇室行事に由来しているからだ。我が国の祝祭日は単なる休日ではないのだ。祝日の意味と意義を教えて行かねばならない。

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 愚生の成人の日は、実家から送って貰った紋付き羽織袴を下宿の三畳一間の部屋で着替えて靖國神社に詣でたのを昨日のことの様に思い出す。玄関を出る際に下宿屋の婆さんが驚いてたっけ。あれからもう40年かぁ。人生とは正に光陰矢の如し。

 成人になった記念に「正論」の懸賞論文に応募したが佳作にも入らなかったなぁ。うろ覚えではあるが「イランイラク戦争に思う」ってなタイトルで「GNP1%以内という防衛費を撤廃し国防の充実を図るべき」という内容だったと思う。

 成人のモラルの低下は「七五三現象」とも呼ばれ、成人式での乱痴気騒ぎが恒例行事となっているが、こうしたことでも「大人になったことを自覚し自ら生き抜こう」という覚悟や自覚に乏しい20歳の成人式に意味があるとも思えない。

 今日「成人の日」を迎える若者よ、大人になった証しとして、両親に感謝を込めて花束に「ありがとう」の一言を添えて贈ってみては如何だろう。

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2021年01月10日

「ライダイハン」問題を抱える韓国に我が国を責める資格など無い

 職業としての売春婦(慰安婦)を「従軍慰安婦」と騙る韓国は、厭きもせずに又候蠢きだし我が国政府に賠償という名の無心を強要して来た。

 対韓外交は無視してるのが最良だが、韓国側がこうした強請り、タカリに奔るのは、朝鮮人の人品の低さも然ること乍ら、歴代日本政府の無知と事勿れ主義と弱腰軟弱外交が要因になっていることは間違いない。

 朝日新聞が捏造した慰安婦問題を、自民党の宮沢内閣下で、河野洋平官房長官が談話を発表し、これが韓国人慰安婦をツケ上がらせる原因を作り、村山談話で火に油を注ぎ、その後の自民党政権下でもこれらを撤回せずした。

 自民党が政権から陥落し民主党政権誕生すると鳩山由紀夫が訪韓して「国家補償」を約束し、前原誠司外相が「戦後賠償支援」を言及したことは記憶に新しい。

 慰安婦問題は、韓国側の裏切りもあるが日本側が国家として「謝罪」も「約束」もしている訳だから、韓国みしてみりゃ要求するのは当然で、単なる強請り、タカリと言ってもいられない現実が厳然と存在してしまったのだ。

 文在寅韓国大統領は、慰安婦問題に関する日韓合意に難色を示し、「国民の大多数が情緒的に受け入れることが出来ない」との立場を取っている。

 そこまで言うなら日本国内の反韓感情も同じく、国際的な約束事を反故にし、事ある毎に難癖を吐ける韓国への日本国民の大多数の怒りでもある。また、ベトナム国民の多くはベトナム戦争での韓国軍の蛮行を決して許すことはない。

 我が国が幾ら丁寧に説明をしたところで、事大思想が根底にある韓国側は理解しない。性悪な韓国は相手にせず、国際社会に訴えて行くことが肝要で、過去に見るまでもなく譲歩や謝罪は却って益々怒りを露わにしツケ上がるのが関の山。

 文大統領は、日本大使館前の慰安婦像に続いて、強制連行されたという朝鮮人労働者像の建立も示唆して実行を謀ったが、こうした御粗末な国と未来志向の関係を築くことは北朝鮮の金一族体制が崩壊することより困難なことだ(笑)

 抑々「慰安婦問題」など存在しない単なるフィクション。 韓国側が慰安婦問題を叫べば叫ぶほど、韓国側がひた隠す「ライダイハン(韓国人とベトナム人の混血児)」問題が世界に発信されて行くし、発信しなければならない大問題だろう。

「ライ」とはベトナム語で「雑種」の意味で、「ダイハン」は「大韓」のベトナム語読み。つまり、韓国人男性とベトナム人女性の間に生まれた子供のこと。

 1964年、ベトナム戦争が激化すると韓国は、米国への忠誠と資金援助を得る為にベトナムに韓国軍を派兵。韓国軍兵士は十万人単位のベトナム人女性を凌辱し強姦、その一部を虐殺、結果、約3万人のライダイハンが生まれ放置された。

「戦争」とは相手を征服することであり、「征服」とは掠奪である。7世紀に興ったイスラムでは「略奪」は正しいと教え、中でも最高の戦利品は「女」だった。

 女を奪い犯すことは、その国家、民族の純粋性を奪い、征服者の血を入れることで征服が完結する。征服の定義とは、正に「掠奪」と「強姦」の歴史だった。

 斯くて世界中の民族、国家は万古不偏、この定義に従って戦争して来たし、ベトナムでの韓国軍もこの定義に従った卑劣なものだった。だが、こうした世界とは違った国が存在した。それが日本である。我が国は日清戦争の昔から「掠奪」と「強姦」を軍律で厳しく規定し、規定を破った者は厳しく処罰された。

 然し、生きるか死ぬかの戦場で、若い兵士に生理的なものにまで我慢を強いるのは逆に統率を失うし、強姦事件も起きるだろうと、街に在る「遊郭」で息抜きをさせた。その遊郭で働いていたのが慰安婦であり売春婦である。

 戦場に遊郭を建て兵士に息抜きをさせるのは肝心で、これはまた当地での性犯罪を防ぎ、相手民族の尊厳を最低限保つことでもあったのだ。

 こうした日本軍の配慮を知らずして、高給に集った売春婦を「従軍慰安婦」と称し、恰も日本軍が関与し、朝鮮人の女性を銃で脅して強制連行し、名誉を傷付け「性奴隷」にしたとは言語道断という他は無い。

 売春婦が戦場迄出張ることは当時は当り前の時代であり、売春が悪で、凌辱の限りを尽くし強姦し、相手国の女性に子供を産ませることは赦されることなのか。

 日本軍が朝鮮人女性を強制的に連行したのなら集団で強姦しただろう。だが、そうした混血児が生まれたなどということはない。ライダイハン問題には沈黙し、我が国の慰安婦問題だけを騒ぎ立てることに矛盾と羞恥心は感じないのか。

 統一後のベトナムでは、ライダイハンは「敵国の子」とされ、迫害の対象となった。1987年に米国政府は戦争責任からか混血児とその家族の移住を受け入れ始めた。だが、韓国側は謝罪もせず沈黙を続けた儘だ。

 ベトナム人の韓国人憎悪は激しく、ベトナムのクァンアイソン・ビンホア村には「韓国軍憎悪碑」というものが建っており、次の様に刻まれている。

「天をつく罪悪、万代に記憶するだろう!この虐殺で犠牲になった者の数は合計430人、そのうち268人は女性、109人は50才から80才まで老人、82人は子供、7人は妊婦だった。2人は生きたまま火に投げこまれ、1人は首を切られ、1人は腹を割かれ、2人は強姦された。2世帯は一人残らず抹殺された」

 当時の朴正煕政権は「反共」を国是とし、驚くことにベトナムでの強姦という蛮行も犯罪ではなく英雄的行為とされた。共産主義者との戦いと弾圧は熾烈さを増した厳しいもので、女性子供であろうが情けは無用との認識だった。

「ライダイハン問題」を抱えながら、ベトナムに対して謝罪も補償もしない韓国に、慰安婦問題で我が国を責める資格など無い。共産主義者である文在寅は、反日より「反共」の名の下に実行された自国の汚辱の歴史を顧みて謝罪するべきだ。

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2021年01月09日

徒然なるまゝにその日ぐらし。あなたにプロ意識はありますか?

 ブログの他にSNSなどもやってるが、政治批評や右翼思想のブログより、食べ歩きのブログや地元ネタの記事の方が好評なのはチョッと複雑でもある(笑)

 まぁ、政治批評や政治に関することというのは余り興味もないし、しょっちゅうアップしてると当り前の様に思われてしまうし、近くの神社が有難く感じないのと同じで、軽く思われるのは当然。もう少し勿体付けた方が好いのかもなぁ(笑)

 そういう愚生といえば相変わらず算段に余念がないが、講演依頼もなく、支援者や協力者も見つからず、暇を持て余してるから精精ブログの更新が関の山。今月の収入予定は2万円だけ。ヤフオクで凌いでるが他の品が目に留まり購入してしまうから何にもならない、というより出品数より余計買ってるし(笑)

「赤字国債はケシカラン」という。我が国の収入(歳入)を分かり易く説明すれば、年収が500万円(歳入約50兆円)ほどだが生活費が年に1000万(歳出100兆円)ほどかかる。借り入れ金(国債)は1億円(1000兆円)余り。

 愚生の場合、年収が100万円も満たない。付き合いは最小限にしているが、現役時代の借金と重なり年間約500万円の赤字になる。このまま行けばギリシャの二の舞だが、そんなギリシャにも支援されるのだから愚生も悲観はしていない(笑)

 震災前には結構あった借金も減り、どうにか返済に目途が立ったと思いきや、震災で先行きが怪しくなった。 また暴排条例などもあってヤクザも元気が無くなって、今日勝つネタも、仲を取り持つ人物もいなくなったのが大きい(笑)

 そんな状況ではあるが、僅かだが支援者がいるから未だ救われている。困窮しているのは右翼人としても本気でやっていないからだ。どんなインチキ宗教でも信者がいるのに支援者が乏しいのは「強烈な努力」が足らないからだろう。

 まぁ、借金はマジメに働いて返すのが一番だし、働いてた方が余計なことを考えないで済むのでいいのだが、都合の好い右翼人には成りたくないと思っているし、浪人なら浪人で中途半端な生き方ではなくホンモノで在りたいと思っている。

 今の時代、ヤクザでも右翼でもどんな職業でもそうだが、「らしい」人やプロ意識や職人気質が乏しくなってしまった様に感じる。 サラリーマンでも教師でも、ダンプの運ちゃんでもパートのおばちゃんでも議員でも報酬を貰えばプロだ。

 どんな生き方でもプロとしての自覚が無ければダメだ。議員なんぞ頭にあるのは如何に次の選挙に当選するかだけで、議員を生業と考えている様ではプロ失格。

 給料とは昔でいう俸禄であり、侍(さぶら)うという自覚もない。「侍う」とは「仕える」という意味。 給料を貰ってるならその会社に仕え、公務員や議員は国家や自治体、国民に仕えるということなのだがそうした意識は乏しい。

 自分の夢がありながら目先の生活に困窮し、或いは分不相応な生活を望んで目先の「食える」職業を選択してしまうが、そんなんでプロに成れる筈もない。

 また生活出来ないからと乞食根性丸出しで、弱者を装い自治体へ無心し生活保護を受給する。勤労の義務を果たさず生活保護が国民の汗した税金という意識は毛頭無く、頂くものは頂きながら国家を批判し更なる無心は止まることは無い。

「好きなことをやり、それで食えるようになりたい」と思うのならば、それに向かい懸命に努力し、我慢し、試練に耐えながら必死に生きれば好いが、現代では手頃なアルバイトで食えてしまうから夢なんぞ二の次、ホント始末が悪い。 これではプロや本物(ホンモノ)は育たないし、ホンモノに成ることは絶対に無い。

「本物(ホンモノ)」になる為の道というのがあるという。「長い囹圄(刑務所)」「長い闘病生活」「長い浪人暮らし」の三つだというが、これらに要求されることは「我慢」以外にはない。我慢こそがホンモノになる近道ということだ。

「使える人物」というのもやはり同じで、これには三つの他に「長い放蕩生活」というのが入る。愚生も右翼浪人と気取ってはいるが放蕩と似た様なものか(笑)

 プロの世界は一見華やかに見える世界だが、そこに至る努力と我慢、精神力を鍛え上げることで開花し一流となる。 己の求める生き方から逃げ、目先の仕事にあり付いて、食えることを優先するというのは、それは単なる自分自身への誤魔化しであり夢への挫折であり、何よりプロやホンモノへの侮辱でもある。

 愚生が右翼の世界に入った昭和50年代は「第一次右翼ブーム」と言われた時代で、取り分けヤクザにも成れない中途半端な暴走族らが興味本位で右翼団体に入隊した。マスコミはそれらを「インスタント右翼」と揶揄したりした。

 愚生も街宣右翼のパイオニアであり、総会屋右翼と呼ばれた「防共挺身隊」に所属し、何百何千の右翼らを見て来たが、殆ど残ることはなく、熱が醒めると去って行き残ったのはホンの僅か。その残った者がホンモノかというとそうでもない。

 最近も過去のインスタント右翼時代よりも気軽に日の丸を掲げて愛国者を標榜出来る様になった。これが好いことなのか、違うのかは未だ分からない。右翼と自称愛国者とのボーダーラインが無くなったのは確かだろう。

 自称愛国者やネット右翼が席巻するのと比例して右翼は聞き分けが好くなり牙も無くなった。今の保守ブームが去れば、自称愛国者も去って行くのは時間の問題だろうし、そういう勢力と与することは右翼陣営にとって好ましいとは思わない。

 政治の世界とはホンモノとホンモノのぶつかり合い。大衆はどちらにも動く。大衆というのはそういうものだ。だが、政治家にホンモノがいるかというとそうでもない。何より、ホンモノが育たない政治システムなのだからしょうがない。

 その政治をダメにしてるシステムの最たるものが小選挙区制度である。物事を白黒で判断することもなく中庸を重んじる日本人には小選挙区制度はそぐわない。

 中選挙区は総選挙ごとに4分の1が一新される。例えば、エネルギー問題に関して反原発議員だけではなく原発推進の無所属候補者も当選する機会が出来る。

 憲法論も同じで、自民党が謀ろうとするインチキ憲法九条改正ではなく、「現憲法の無効」を訴え、大日本帝国憲法復元改正などを訴える候補者が当選する可能性も出てくる。自民党か野党かの二者択一の小選挙区制度は廃止すべきだ。

 営業保守らは尖閣列島の危機を叫び「九条改正」を訴える。アホの政治家が保守票欲しさに迎合する。尖閣の危機は眼前に迫ってる問題なのに九条改正を実現しようとは悠長なことだ。ホンモノの政治家が「現憲法無効」を宣言し、正統な国法である大日本帝国憲法の復元改正こそが我が国が採るべき道である。

 悲しい哉、我が国の政治家にホンモノはいない。我が国の不幸は、日本国家の芯でもある天皇国日本の国體と国益を理解している政治家がいないことに尽きる。

 右翼浪人の先輩であり盟友であった九州天草出身の横山武彦という削げ者がいた。 その横山は常々「乞食でもホンモノは信用出来る」と訓えたのを思い出す。

 乞食のホンモノとは生活保護に頼らず極貧に喘ぎながらも生きている者であり、精神的乞食というのは弱者を標榜して生活保護を無心してるあさましい連中だ。

 思想に限らずどんな業界でも、その道に努力し、財力に諂わず懸命に生きてる人は好感が持てる。あなたにプロ意識がありますか?あなたはホンモノですか?

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2021年01月04日

気になった時局や雑感を徒然なるまゝに綴ってみる(笑)

 正月三箇日も過ぎ徐々に普段の生活に戻ると言いたいが、新型コロナウイルスへの異常な警戒感もあって以前の様な生活に戻ることはないのだろう。

 新型コロナワクチンが出回れば騒ぎも沈静化するだろうが、「新型コロナに治療効果の見られるアビガンを承認する」の一言で多くの国民の不安が払拭されるのに何故に承認しないのだろう。厚労省官僚と新型コロナが日本を崩壊に導く。

 国民に安心安全を尽くすべき政治家が官僚に操られて手を拱き、マスコミが便乗してコロナへの不安を煽っていることは摩訶不思議な現象でもある。警戒するのは別に好いが、殊更に新型コロナに怯えることは中国共産党の思う壺だ。

 第一次世界大戦時に流行したスペイン風邪では、当時の人口の3分の1の5億人が罹患し5000万人~1億人が死亡。日本では約2300万人が罹患し約40万人が死亡。福島県内でも6993人が罹り148人が死亡した。それと比べても驚く数値ではない。

 閑話休題。昨日の地元紙のコラム「あぶくま抄」に「帰省の意味には郷里に帰って父母を見舞う」「『省』」とは(父母を)と顧みるという意味がある」いうのが載っていた。「日曜論壇」は左翼文士らの発言の場だが、このコラムは中々秀逸。

 なるほど、帰省とは「郷里に帰って父母を見舞う」とは妙に納得。そういえば、父母が亡くなってなって帰省する機会が減ったのはやはりそういうことなんだろう。

 菅総理がラジオの放送番組で、皇位継承問題について「現状に於いては男系継承は最優先にすべきだ」と述べたことで、インチキ保守派や自称愛国者らが安堵しているみたいだが、男系は秋篠宮悠仁親王だけではなく敬宮愛子内親王も含まれる。

「男系継承」ではなく、「男系男子の継承」と敢えて言わないところに皇統断絶に与する菅の強かさが見える。安定的皇位継承というなら旧皇族の皇籍復帰を成す以外には無いが、皇籍復帰に「私の立場で発言は控える」とは全く以て意味不明。

 昨年、「日本の尊厳と国益を護る会(代表・青山繁晴参院議員)」のメンバーが菅首相と面会し、皇位継承に関し菅首相が「男系男子が絶えることなく続いて来た重みを踏まえる」との認識を確認したと言ってたが、舌も乾かぬうちに(苦笑)

 菅首相は官房長官時代に安倍と共に退位法案を成立させ、「将来の天皇が退位する際の先例に成り得る」と退位法案を強行させた逆賊の一人でもある。隠れ女系天皇推進派でもある菅がそう簡単に「男系男子」や「皇籍復帰」は成さないだろう。

 皇位継承で大事なのは神武天皇以来の「男系」の血筋であり、「今上陛下とは血筋が違う」という理由は反天皇勢力に拠って創られた現代の価値観に過ぎない。

 宮家を再興するということは男系男子の皇位継承の安定を図るだけではなく、皇室の本分である祭祀を継承して戴くということにある。

 旧宮家とは「伏見(ふしみ)宮」「閑院(かんいん)宮」「山階(やましな)宮」「北白川宮」「梨本宮」「久邇(くに)宮」「賀陽(かや)宮」「東伏見(ひがしふしみ)宮」「竹田宮」「朝香(あさか)宮」「東久邇(ひがしくに)宮」。

 旧11宮家の方々は北朝第3代崇光天皇の皇子、栄仁親王から始まる伏見宮の系統に属し今上天皇との関係は、室町時代の伏見宮貞成親王を共通の祖先とされている。

 東久邇宮盛厚王(明治天皇の孫)の妻は昭和天皇の長女である茂子内親王であり、上皇后陛下が民間から嫁がれていることをしても男系男子の正統性を有する。

 秋篠宮皇太弟~悠仁親王殿下の継承は決めっているが、東久邇家以外にも男系男子がおられ、皇位継承は旧宮家の皇籍復帰を成すことで盤石となる。

 占領下、旧宮家の皇籍離脱に最後まで反対した昭和天皇の意を汲み、旧皇族を皇籍復帰させることこそが皇統断絶を救う唯一の道である。「養子論」で世論を誑かす営業保守に騙されること勿れ。ということで、徒然なるまゝに綴ってみました。

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2021年01月03日

父上様、母上様、三日とろろ美味しゆうございました(円谷幸吉)

 愚生の住む福島県内を始めとする東北地方や北関東の一部の地域では、正月の3日にはとろろメシ(汁)を食べる風習がある。ということで、朝は三日とろろ。

「三日とろろ」を食べるとその年は風邪をひかないと言われている。まぁ、風邪をひかない様にというより「七草粥」の様に、年末年始で飲み過ぎて疲れた胃腸を労わり滋養を付けるという意味からとろろを食べる様になったのだと思う。

「三日とろろ」でいつも思い出すのは、福島県須賀川市出身で東京五輪マラソン銅メダリストの円谷幸吉選手を思い出す。遺書の最初に「父上様、母上様、三日とろろ美味しゆうございました」と認められ、家族皆への感謝が綴られている。

 遺書の最後には「幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました」で結ばれ、中でも「幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません。何卒お許し下さい」の言葉は、マラソントップ選手故の苦悩の現れであり、衝撃的でもある。

 円谷選手が遺書は、世話になった方々から頂いた美味しい食べ物への感謝の言葉で綴られ、彼の人となりが十分伝わってくる内容だ。(以下、遺書の全文)

「父上様、母上様、三日とろろ美味しうございました。干し柿、もちも美味しうございました。敏雄兄姉上様、おすし美味しうございました。勝美兄姉上様、ブドウ酒 リンゴ美味しうございました。巌兄姉上様、しそめし南ばんづけ美味しうございました。喜久造兄姉上様 ブドウ液養命酒美味しうございました。又いつも洗濯ありがとうございました。幸造兄姉上様、往復車に便乗さして戴き有難とうございました。モンゴいか美味しうございました。正男兄姉上様、お気を煩わして大変申し訳ありませんでした。幸雄君、秀雄君、幹雄君、敏子ちゃん、ひで子ちゃん、良介君、敬久君、みよ子ちゃん、ゆき江ちゃん、光江ちゃん、彰君、芳幸君、恵子ちゃん、幸栄君、裕ちゃん、キーちゃん、正嗣君、立派な人になってください。父上様母上様、幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません。何卒お許し下さい。気が休まる事なく御苦労、御心配をお掛け致し申し訳ありません。幸吉は父母上様の側で暮しとうございました」

 アジアで初であり、有色人種国として初めて開催された東京オリンピックで銅メダル獲得という快挙を成し遂げた幸吉は、レース後の会見でこう語った。

「私一人が走っているのではなく、日本国民全部の人が後ろから私を押していてくれるという感じを受けました」。この言葉は正しく幸吉が国士だった証しだろう。

 遺書というのはその人の人物像が現れる。中でも、特攻隊員や靖國に眠る英霊の遺書は正しく「神」そのものの渾身の叫びであり、その言葉には言霊が宿り、その精神は日本人の心の奥に響き、時空を超えて明らかに現代に感応している。

 右翼人の愚生には左翼という生き方はどんなものかは知らないが、二十八歳で自裁した連合赤軍中央委員会委員長・森恒夫の遺書には「自己の責任の重さに絶望し、自らに死刑を下す」と綴られている。その内容は次の様なものだった。

「御遺族のみなさん、十二名の同志はぼくのブルジョア的反マルクス的専制と戦い、階級性、革命性を守ろうとした革命的同志であった。責任はひとえにぼくにある。同志のみなさん、常に心から励まして下さってありがとう。お元気で。父上、ぼくはあなたの強い意志を学びとるべきだった。強い意志のない正義感は薄っぺらなものとなり、変質したのである。お元気で。愛する人へ、希望をもって生きて下さい。さようなら。荷物は坂東君に」

 森は逮捕されてからはキリスト教に関心を示していたという。革命に向けて自ら行った虐殺の罪を悔い改めてはいるが、それはその手法であって遺族への謝罪は全くないことをしても左翼思想云々以前に人間的な幼稚さが露われている。

 一方で、浅沼稲次郎社会党委員長を刺殺した山口二矢は供述調書を取り終えると移送された練馬鑑別所で自裁。その調書の中で遺族に対して心境を吐露している。

「浅沼委員長を倒すことは日本の為と堅く信じ殺害したのですから、行為については法に触れることではありますが今何も悔いる処はありません。しかし、浅沼委員長は最早故人となった人ですから、生前の罪悪を追及する考えは毛頭なく唯故人の冥福を祈る気持ちであります。又浅沼委員長の家族に対しては、如何なる父、夫であっても情愛に変わりなく、殺害されたことによって悲しい想いで生活をし迷惑を掛けたことは事実ですので、心から家族の方に申し訳ないと思っています」

 二矢は練馬鑑別所に於いて、「國のため 神洲男児晴れやかに ほほえみ行かん 死出の旅へ」「大君に 仕えまつれる 若人は 今も昔も 心かわらじ」の辞世を遺し、「天皇陛下万歳」と従容として死に就いた。享年十七歳。

 二矢は、「私には日本人の血が流れており唯物論では到底割り切れない。持って生まれた日本精神という唯心論的なものが滾っており、天性からこういう人生観、思想などが形成されたと思っています。尚、本当の日本人であれば、私の様な人生観、思想というものが心の奥底には必ず在ると思います」と述べている。

 十七歳の二矢と二十八歳の森恒夫との人生観の違いは歴然だろう。二矢と円谷幸吉の遺書に日本人としての惻隠の情を犇々と感じ、人というのはどれだけ長く生きたかではなく、どう生きたか、どう生きるかが大事だと痛感する。合掌再拝。

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2021年01月02日

祭祀が軽んじられて天皇は憲法下で政府の傀儡と化している

 新型コロナの影響で一般参賀が中止となり、代わりに天皇陛下のビデオメッセージが発表された。詔勅ではなく、天皇が御自らの意志をこうした形で吐露遊ばされることは天皇が現憲法下で宮内庁や政府の傀儡と化している様に感じてならない。

 天皇は現憲法では国民統合の象徴とされているが、天皇とはどの様な存在であるかを知らぬ国民が多過ぎる。畏くも陛下の一年は、元旦未明に斎行される「四方拝」で始まる。四方拝は「新嘗祭」に並ぶ宮中祭祀中でも重要な祭事である。

 元旦未明から陛下は潔斎し身を清め、古式に則った黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)の装束を身に纏い、伊勢神宮や陵墓、四方の神々に拝し、国の安寧や豊作を祈る。これこそが歴代天皇が行ってきた努めであり秘儀である。

 近年は天皇の祭祀は軽んじられ、正装である黄櫨染御袍正装ではなく、憲法で明記されている国事行為の「新年祝賀の儀」が優先されてモーニング(礼服)を着ての拝礼で済まし、年始の祭典である「歳旦祭」も掌典職が代拝している。

 元旦の四方拝に続き、正月三日には国と国民の繁栄を祈る「元始祭」、四日は「奏事始め」、七日は「昭和天皇祭」等等、宮中祭祀は年に二十件前後斎行されるのだが、近年は公務の軽減という理由から代拝や短縮などの簡略化が謀られている。

 宮中祭祀でも最も重要な祭事が十一月二十三日に執り行われる「新嘗祭」である。 新嘗祭は、天皇がその年に収穫された新穀などを天神地祇に供えて感謝の奉告を行い、これらの供え物を神からの賜りものとして自らも食する儀式である 。

 因みに、天皇が即位し始めて行う新嘗祭を「大嘗祭」と言う。正しく天皇とは祭主であり、祈る存在であらされるのだが、現憲法にはそうした天皇の祭祀の条項はなく、GHQが改悪を謀った現皇室典範には大嘗祭の規定すらない。

 新嘗祭は、当日の「夕の儀」に始まり、夜半に「暁の儀」が斎行される。だが、平成24年から負担軽減を理由に暁の儀が中止されている。暁の儀の取り止めは、皇極元年より受け継いできた祭祀に、今後少なからず影響を齎すのは明らか。

 本来ならば、歴代天皇が司ってきた祭事を最優先して国事行為こそ軽減すべき。上皇陛下が御高齢を理由に譲位遊ばされたが、負担軽減というなら国事行為や公的行事を当時の皇太子殿下や秋篠宮親王殿下が輔佐する環境こそ整えるべきであった。

 だが、あろうことか当時の安倍亡国内閣は、皇室典範に退位を附帯して実質的な皇室典範の改悪を謀り、畏れ多くも陛下の譲位(退位)を強行し、更には天皇の大権である元号制定権をも剥奪したことは我が国の歴史の汚辱であった。

 現憲法は、実に御粗末なことに歴史的な国家としての継続された「祭祀」に関する天皇の役割を否定し、天皇の「国事行為」のみで「公的行為」は明文化されていない。然し乍ら天皇は憲法以前の御存在であらせられるのだ。

 インチキ愛国者らへの目晦ましと保守票欲しさから憲法九条を改正し自衛隊の憲法明記に躍起だが、陛下の象徴としての御立場や国事行為が列記される憲法第一条から第八条に及ぶ「第一章・天皇」条項こそ議論し見直さなくてはならない。

 神武肇国から続く万世一系の皇統が、平成の世を境に断絶の方向に進み、憲法以前の御存在であらされ、祈る存在であるべき天皇が現憲法下で傀儡と化し、都合好く利用されてしまっている現状は皇国臣民の一人として忝く思う。

 天皇の祭祀を軽んじてるのは皇統断絶を謀る獅子身中の虫である宮内庁か、反天皇勢力でもある左翼どもなのか。それとも保守を標榜しながらそれらに与する自民党が元凶か、自公政権か。祖国日本を破壊する国賊どもを剔抉粛正せねばならない。

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2021年01月01日

全愛国者よ、天皇国日本の真姿開顕に奮励前進、捨身奉公せよ!

 皇紀2681年、令和3年の年頭に当り、謹んで天皇陛下と皇室の弥栄を寿ぎ奉り、併而、御支援御厚情を賜る皆々様方の御隆昌と御健康を祈念申し上げます。

 拙ブログのサブタイトルに「わが民族の将来と国家の前途を思うは人間の最も真剣なる感情であり、君国に忠、親に孝なるは最も現実なる道徳である。之を離れては人類愛も世界的正義も空想に過ぎない(西晋一郎)」との言葉を記している。

 心ある日本人は祖国日本に生を享けた者としてその日本の将来を憂い、心中密かに期するものがあるだろう。それは一体何か、何であらねばならないのか。

 この心中に在る想いを一言にして表現するならば、世界に比類なき天皇国日本の真姿開顕に奮励前進、捨身奉公するということに尽きよう。

 是つまり、皇祖天照大御神が垂示し給うところの、「葦原千五百秋之瑞穂國、是吾子孫可王之地也。宜爾皇孫、就而治焉。行矣。寶祚之降、當與天壤無窮者矣」との天孫降臨の御神勅を、心魂に刻んで日々奉拝することである。

 この御神勅は、皇祖・天照大神が、皇孫である瓊瓊杵尊に対して下した勅にて、日本列島統治に於ける皇室の正統性、皇室及び国の永続性を祝福したものである。

 読み下し文は「豊葦原の千五百秋の瑞穂の國は、是れ吾が子孫(うみのこ)の王(きみ)たるべき地(くに)也。宜しく爾皇孫(いましすめみま)、就(ゆ)きて治(しら)せ。行矣(さきくませ)、寶祚(あまつひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、当(まさ)に天壤(あめつち)と窮(きわま)り無かるべし」と読む。

 大日本帝国憲法(欽定憲法)が施行された明治22年2月11日の紀元節に於いて、明治天皇は国民に下し給える憲法発布勅語の中でこう思召し遊ばされた。

「惟フニ我カ祖我カ宗ハ我カ臣民祖先ノ協力輔翼ニ倚リ我カ帝国ヲ肇造シ以テ無窮ニ垂レタリ此レ我カ神聖ナル祖宗ノ威徳ト並ニ臣民ノ忠実勇武ニシテ国ヲ愛シ公ニ殉ヒ以テ此ノ光輝アル国史ノ成跡ヲ貽シタルナリ」

 この勅語こそ正に天孫降臨の御神勅の精神の継承である。大日本帝国憲法こそが不磨の大典であり我が国の正統な国法であることの証明でもある。

 第一条に「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と記されている通り、我が国は「天皇国日本」なのである。これこそが日本国民たるものとして肝に銘じ、忘れてはならない万古不磨の大原理大原則である。

 南北朝時代の公卿・北畠親房卿は「皇統正統記」の序論で「大日本者神国也、天祖ハジメテ基ヲヒラキ、日神ナガク統ヲ伝給フ。我国ノミ此事アリ。異朝ニハ其タグヒナシ。此故ニ神国ト云也」と記している。

(大日本国は神の国なり。天祖(あまつみおや)が初めて国の基礎を築き、日神(天照大神)が長らく国を統括してきた歴史を持っています。他の国々にはこのような例はありません。故に我が国は神国である)との意味だ。

 この北畠親房卿の「皇統正統記」もまた日本国民が矜持すべき信念であり、日本人としての信仰であらねばならないと断言して憚らない。

 この古より伝えられた日本民族の精神と、道統を受け継ぎ、これを護持し、これを宣布し、そして子孫に伝えるところの責任と使命を有する者は、今を生きる我々日本人であることは言うを俟たないところであろう。

 然るに、この万邦無比の国體、尊厳崇高なる祖国日本の歴史と道統に目を覆い、或いは西洋物質文明に被れ、或いは共産主義反逆思想に随喜して、日本人の本質を自ら喪失し、無機質な人種が増殖する傾向は由々しき一大事と言わざるを得ない。

 江戸時代の国学者である本居宣長は、自著「うひ山ふみ」の中で、「やまと魂だによく堅固(かた)まりて、動くことなければ、昼夜からぶみをのみよむといへども、かれに惑はされるうれひはなきなり」と教示している。

「からぶみ」とは「西洋かぶれ」ということだが、現代人もまた「やまと魂だによく堅固まりて」どころではなく、高邁な日本精神を忘却してしまった。

 国内には未だ米国の占領政策の洗脳から目覚めることなく、米国や中共の走狗となった不逞の徒輩により大和魂の基盤そのものが逐次掘削され、国家の大本を忘却し経済至上主義に現を抜かし祖国日本は消滅寸前の様相を呈している。

 この迫り来る祖国の危機に対処し、天皇国日本を盤石の安きに置く使命を有するものは我ら日本人である。正にその存在の意義を示す神機は近付きつつあるのだ。さあ、全愛国者よ、その一旦緩急に備え遺憾無きを期そうではないか。

 念頭に当り、正統右翼浪人として、貧すと雖も志士の覚悟を忘却することなく一維新者として草莽の道を歩んで往こうと思っておりますれば、本年も引き続き拙ブログに御付き合いの程宜しく御願い申し上げます。すめらぎいやさか。

 皇紀2681年歳旦 佐久間五郎拝

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2020年12月30日

「今日は無礼講だから遠慮しないでどんどん呑め!」とか言われて調子に乗って杯盤狼籍(笑)

 忘新年会のシーズンだが、新型コロナの影響で例年とは事情が違う。忘年会などで「今日は無礼講だから遠慮しないでどんどん呑め」とか言われてその気になって泥酔して杯盤狼籍。翌日には記憶もカネも無いなんてのはよくあるだろう。

 先輩や上司から「無礼講だ」と言われてもやはり酒席では礼節は失ってはいけません。大体、会社や先輩での酒席は修行の一環。気を遣って飲む酒なんぞ旨くもないし楽しくもない。やはり酒は身銭を切って飲むのが旨いし愉しい。

 毘沙門天を信仰し、生涯質素な生活を送った質実剛健の戦国武将の上杉謙信は、東北山形を勢力にしたということもあって敬愛している。謙信は酒には目が無くて、お気に入りの大ぶりの盃を持って部下と一献するのが楽しみだったという。

 部下に大いに酒を勧めながら酔っ払った姿を観察し、酒に呑まれて我を忘れる部下を酷く嫌い、また、酔った勢いでここぞとばかりに進言したりする部下も信用しなかったという。普段も酒席でも同じ態度で接してる者を重用したという。

 そんな謙信も、酒の飲み過ぎでが原因で脳卒中で死んだ。何か親近感が沸くというものだが、脳卒中というのはの脳梗塞を経験してる愚生も他人事ではない。

 酒席を同じくした鼻に付く先輩などには、愚生は敢えて苦言を呈す時もある。ただ、翌日には「昨日は酔っぱらってついつい言い過ぎました」と謝ることにしているが、酒の所為にすれば大概赦される。でも、酔って発した言葉は本音です(笑)

 吉田松陰は「常に直諫なくば」と訓えている。謙信の「酔った勢いで」も同じで、先輩や上司への諫言とはシラフの時に言った方が好い。ただ、そんな諫言を赦してくれる度量の大きな先輩や上司は限りなく少ないので御注意を(笑)

「今日は無礼講だ」と勧める一方で、酒席の様子や酔っ払いぶりを謙信の様に冷静に観察している上司や先輩方がいることを忘れてはいけません。酒席というのは箸の使い方や所作というのも目に付くし、相手の人となりがよく分かるものなのです。

 酒を飲まない人には分からないだろうが、酒っていうのは失敗も多いが失敗で得る方が断然多い。正しく失敗は成功の基。「酒が人間をダメにするんじゃなく、酒は如何に人間がダメなものかを教えてくれる」とは立川談志だが、蓋し正論。

「酒は飲むべし 酒は飲むべし 人生唯酒ありて肝を開く 酔中の快楽人知るなし」とは坂本龍馬。酒は男を磨く道具の一つである。肴は特に拘らなくても好いが、飲む酒にはチョッとは拘りたいものだ。ということで呑み過ぎには御注意を。呵呵。

 この拙文を以て今年最後のブログと致します。今年も「爆ちゃん吼える」に御付き合い頂き感謝申し上げると共に、謹んで陛下と皇室の弥栄を寿ぎ奉り、併而、来る年が皆様にとって実りある年と成ります様に御祈念申し上げます。

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2020年12月24日

袴田事件の再審を急ぎ「無罪」判決を言い渡せ!

 東京高裁は一昨年6月、昭和41(1966)年6月30日、「王こがね味噌橋本藤作商店」の専務宅が放火され、焼跡から専務と妻、次女、長男の計4人の他殺死体が発見された所謂「袴田事件」で、静岡地裁が認めた再審開始を取り消す決定。

 この高裁決定を不服として最高裁に申し立てていた裁判で、最高裁第3小法廷(林道晴裁判長)は、裁判をやり直す「再審」を認めないとした東京高裁決定を取り消し、審理を高裁に差し戻した。一応は妥当な判断だろう。 

 再審決定から徒に4年も費やした上に、検察や警察のメンツを慮った決定は正に不条理そのもので、司法の正義は無きに等しい。今回の最高裁の決定も、再審開始の可否の方向性を示さず賛否が拮抗してたというのだから厭きれてしまう。

 事件発覚から5日後の7月4日、清水警察署は工場及び二階の従業員寮を捜索し、当時、従業員で元プロボクサーの袴田巖の部屋から極微量の血痕が付着したパジャマを押収。8月18日、警察は袴田を強盗殺人、放火、窃盗容疑で逮捕した。

 自供は得られず、事件の証拠品は微量の血痕が付着したパジャマのみ。物的証拠が乏しい中で一審の公判中の昭和42年8月31日、何故か不可思議なことに言い渡せ工場内の味噌タンクの中から麻袋に入っていた血痕の付着した衣類が発見された。

 証拠品はパジャマから一転し、この衣類が決定的な証拠となった。 パジャマの血痕、発酵する味噌タンクから発見された「5点の衣服」、そして犯行時に使用したとする切り出しナイフなど、誰が見ても不可思議な物的証拠だった。

 犯行着衣とされた「5点の衣類」に弁護側は、「サイズから見て被告人の着用は不可能」と疑問を呈すも、検察は「1年間近く、味噌漬けになってサイズが縮んだ」と主張しているが、味噌タンクに漬けてて縮むことはあり得ない。

 袴田被告の実家を家宅捜査した際に犯行着衣と同じ共布を発見。これが犯行を裏付ける証拠として採用された。2010年9月に検察が一部開示した証拠品を弁護側が検証したところ、共布発見の8日前と6日後の2度に渡り、捜査員がズボン製造元から同じ生地のサンプルを入手していたことが判明している。

 事件を担当した紅林麻雄刑事は拷問による尋問、自白の強要、懐柔、供述調書の捏造、自己の先入観による違法捜査、違法な取調べは夙に有名で、袴田さんも紅林刑事の過酷な取り調べによって自白を強要されたのは想像に難い。

「二俣事件」「幸浦事件」「小島事件」など、紅林が過去に主導した数多くの捜査でもその取調べの行き過ぎが指摘されていることでも理解出来るだろう。

 袴田事件の自白調書である全45通の内、44通を「強制的・威圧的な影響下での取調べによるもの」等の理由で任意性を認めず証拠から排除していることでも、紅林に因る自白の強要や違法捜査や証拠品の捏造は明らか。

 高裁で衣類のDNA鑑定や証拠といった地裁判決を悉く覆しながらも、警察に因る捏造を裏付ける為の元警察官の証人申請を認めず、証拠品発見の不可解な経緯については一切言及もせずに「捏造は論理の飛躍」と一蹴している御粗末さ。

 再審決定に至る地裁判決の疑問点を精査することこそ大事なのに、DNA鑑定に関する有効性の否定と証人申請却下は、単に検察のメンツに与しただけ。

 DNAの鑑定を疑問視し「科学的に信用出来ない」と主張するが、この事件に疑問を抱いてる国民は当時の警察による違法捜査と捏造を問題視している。先ずは違法捜査を認めた上で、DNAの鑑定の有効性を検証すべきではなかったか。

 今の時代は科学捜査が当たり前になっているが、一昔前には信じられない様な驚く鑑定が相次いだのも事実。例を挙げれば、昭和24年、弘前大学の松永藤雄教授宅で妻が何者かに咽を斬られ殺された事件が起きた。

 近所に住む那須隆という男が逮捕され、彼の着衣から血痕が見つかり、それを証拠に犯人と断定した。彼は犯行を全面的に否認するも起訴される。

 自白すれば情状酌量が認められる、こうした自白の強要が冤罪を生む要因となっているのも確か。やってもいないのだから自白のしようがないないが、これを「反省も無い」と判断され情状は認められず15年の刑を務めることになった。 

 那須さんが刑期を終え釈放されて間もなく、滝谷福松という男が「弘前大学教授夫人殺害は自分だ」と名乗り出た。証言に因れば、教授宅はミシン修理に行って面識もあり、犯行時の詳細を供述し、紛れもなく滝谷の犯行だった。

 真犯人が那須氏は早速仙台高裁に再審請求するが、摩訶不思議なことに高裁はそれを棄却した。更に2年後、那須さんが再審請求すると今度はあっさり受理されて、直ぐに無罪判決が出た。真犯人が名乗り出ているのだから当たり前。当時証拠とされた着衣の血痕は鑑定で「別の人物のものだった」といけしゃあしゃあと発表した。

 証拠の信憑性の無さは誰もが判りきっていたが、何故に2年前には再審請求が却下されたのかと言えば何のことはない、捜査で血液鑑定を行った古畑種基東大教授が生きてたから。古畑教授が亡くなると再審がすんなり受理された(笑)

 要は、事件の事実解明よりも、科学捜査研究所所長も務め、文化勲章を授与された古畑教授の名誉とメンツが優先されたのだが、「袴田事件」も同じで、死刑判決という重い判断をした裁判官を庇う為だけのもので、そこに正義は無い。

 冤罪を生む元凶は捜査に携わる警察や検事の驕りや傲慢さ、過ちを文(かざ)り、屋上屋を重ねることの結果だが、こうした冤罪によって真犯人を取り逃がすことになることこそ最悪の結果となるということを忘れてはならない。

 過ちを素直に認め改めることこそ、法の正義を守る上で最も大事なこと。司法の世界は未だにメンツを重んじる風潮があるのも確か。最高裁判決で賛否が拮抗したというのが、未だに陋習が蔓延っていることを示唆している。

「過ちて改めざるこれを過ちという」「過ちては即ち改むるに憚ること勿れ」というが、くだらんメンツを重んじて正義を失うことがあってはならない。

 冤罪は不当逮捕された当人にしても最悪だが、被害者遺族にとってもその無念が晴れることは無く、断腸の思いであることは言うまでもない。

 警察の訃報逮捕で人生を翻弄された袴田巌さんも84歳と高齢となった。過去の過ちを改め再審開始を急ぎ、無罪判決を下して袴田さんに謝罪することを望む。

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2020年12月23日

我が国には「A級戦犯」「B・C級戦犯」「戦争犯罪人」はいない

 本日は上皇陛下の御生誕日。謹んで陛下の弥栄と長久を祈念申し上げます。また、12月23日は所謂「A級戦犯」として処刑された方々の命日でもある。

 GHQは当時の皇太子生誕の日を選び処刑を行った。日本人には未来永劫に亘り、戦争犯罪という贖罪意識を持たせる為に敢えてこの日を選んだのだ。こうしたことでも米英を始めとした連合国が如何に非情かが解るだろう。

 我が国には「A級戦犯」「B・C級戦犯」「戦争犯罪人」はいない。第十六国会の議決により「戦傷病者戦没者遺族援護法」が改正され、それを以て法的に復権されている。由って国民が「戦犯」と呼称することは愚かなことだ。

 連合国側が定めたA(class-A war criminal)、B、C級の区分に関係なく、刑死、獄中死された方々は「法務死」、靖國神社では「昭和殉難者」としている。

 所謂「A級戦犯」として処刑された方は東条英機、土肥原賢二、板垣征四郎、木村兵太郎、松井石根、武藤章、広田弘毅の7名。所謂「B・C級戦犯」は1068名。凄惨なリンチに等しいもので亡くなった方など約100名いる。

 戦勝国に因る見せしめとして行われた極東軍事裁判に於いて、弁護する機会も碌々与えられず、一審即結審という復讐という名の茶番劇で、或いは外国の地で不当に処刑されたこの方々の命は決して軽いものではない。

 敢えて反論もせず、その運命を諒とし、命を以て日本への罪を償ってくれたのだ。今を生きる我々は、英霊の方々への恩とその悲劇を決して忘れてはならない。

 極東軍事裁判で、パル判事は「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判した。

「国際法の原理に基づきこの法廷で日本を裁く権利は無い」
「日本の戦争を一方的な侵略戦争とは断定できない」
「真珠湾攻撃以前の案件を扱うことは事後法となり、管轄権を侵害している」
「非戦闘員の生命財産の侵害が戦争犯罪となるならば、日本への原子爆弾投下を決定した者こそを裁くべきであろう」
「各被告は全ての起訴状中の各起訴事実部につき無罪とされなければならない」

 パル判事のこうした公正な意見は連合国側に忙殺された。だが、判決から2年半後、米国軍事委員会でマッカーサーが「彼ら(日本)が戦争に入った目的は、主として自衛の為に余儀なくされたものだ」と証言したのだ。

 極東軍事裁判は連合国最高司令官の権限に基づいて行われたものだが、その責任者であるマッカーサーが公的な場で日本の正当性を認めたことは重い。

 大東亜戦争を「侵略戦争」であるとか、「アジアの人々に多大の迷惑を掛けた」と罵り、戦争の原因を天皇や軍部、そしてA級戦犯であるなどと喧伝しているのは無知に加え、大戦の原因や犯人を隠し続けたいからに他ならない。

 我が国の政治家は安倍首相を筆頭に「歴史は歴史家に任せる」という。だが、歴史の問題は一国の存亡に係わる大事である。その歴史家が偏狭な歴史認識の持ち主ならどうするのか。歴史が捏造された儘で国家が存続出来るのか。

 戦後、東京裁判史観に侵され、近代史や大東亜戦争に至る経緯とその後の検証を怠ったのは、経済復興や景気対策と社会保障といった目先のことばかりが優先され、中韓からの要らぬ抗議を避ける為に謝罪や譲歩を続けたのが大きな要因である。

 世界の如何なる国も国民も、その国家の為に殉じた人々に対して敬意を払う権利と義務があるのは言うまでもない。国家の危機の要請に応じ、敢然と戦場に赴いて戦い散って逝った英霊に対し、感謝の誠を捧げることは当然のこと。

 悲しい哉、靖國神社の在り様を思う時、我が国の政治家らが国家に殉じた英霊に敬意を示さない姿は情けなく恥ずかしい。政治家のこうした姿が、どれだけ国民精神の頽廃を招いていることか政治家どもは省みたこともあるまい。

 愛国心の欠落と国防意識の低下。高邁な精神は欠落し、日本国民としての誇りや自信の喪失。子殺しや親殺しなどの自己本位の犯罪等々、現在の我が国の社会に蔓延する諸問題の全ては国家に殉じた方々への感謝の欠落に起因する。

 何度も言うが、我国には「戦犯」など存在しない。マスコミや政治家、国民までもが「戦犯」という蔑称を使っていることに違和感どころか怒りを覚える。

 上皇陛下の弥栄と長久を祈念すると共に、英霊への戦犯との汚名を雪ぐと共に御霊の安らかならんことを祈る。すめらぎいやさか すめらみこといやさか

「東条英機の遺言書」http://cordial8317.livedoor.blog/archives/52044601.html

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2020年12月22日

その昔は「冬至」からが一年の始まりだった

 昨日は二十四節季の一つである「冬至」。その昔は、冬至からが一年の始まりとされた。古代、冬至は一年の始まりであり、運が巡って来るとされるとされる「一陽来復(いちようらいふく)」とも呼ばれて、実にめでたい日でもあった。

 因みに「めでたい」とは、「愛(めづ)」「甚(いたし)」の「めでいたし(褒め称える程度が甚だしい)」の転で、「目出度い」や「芽出度い」は単なる当て字です。冬至に月を見上げ祈ると金運もアップするらしい(笑)

 冬至の中でも十九年に一度、冬至と新月が重なるのが「朔旦(さくたん)冬至」。「朔」とは「新月(三日月)」のこと。月初めを「朔日(ついたち)」という様に「始まり」という意味で、「旦」には太陽が昇るという意味がある。

「元旦」というのも「一年の初めの日の出」という意味合いがある。冬至に「柚子湯に入ると風邪をひかない」と言われるが、本来は柚子湯に浸かり、その香りと薬効で身を清める「禊(みそぎ)」を意味したからだ。

 冬至に「かぼちゃ」を食べるのは、「ん」の付く食べ物を食べで「運」を呼び込むという縁起担ぎ。かぼちゃに「ん」が付かないというひねくれ者がいるが、かぼちゃを漢字にすると「南瓜(なんきん)」と「ん」が二つも付く。

 この「ん」の付く食べ物は沢山ある。にんじん、だいこん、れんこん、ぎんなん、きんかん、インゲン・・・。ラーメン、タンメン、うどん、天丼、天津丼、アンパン、あんまんなどなど色々と考えるのも楽しいかも(笑)

 落語などでもそうだが、昔の江戸っ子は「牛蒡(ごぼう)」のことを「ごんぼう」と呼んだ。こうした言葉も「ん」を付けて縁起の良い食べ物としたからだ。福島県内でも牛蒡を「ごんぼ」というが、単に訛っただけではないと思う。

 最近は江戸弁なんて殆ど聞かなくなった。都会で使われてるのは標準語。標準語というのは、明治維新後に士族らの蝦夷開拓事業もあって創られた言葉だ。

 愚生の周りに都会っ子ぶってる連中というのは、自分達が使ってる言葉は矯正させられた「標準語」であり、「均一化」された言葉という自覚も無い。標準語が使われ出したと並行して個性の無い同一化された日本人が多くなったのは気の所為か。

「いなかっぺ大将」の影響からか、いなかっぺは「田舎の人」の様に思われてしまっているが、本来は「井の中の蛙大海を知らず」の意味だ。井戸の中からは塀が高くて外は見えないから、江戸っ子らが世間知らずの人を揶揄した言葉だった。

 因みに、田舎や山里で育った人は「田舎っぺ」ではなく、「山家(やまが)育ち」という。尤も、こうした言葉は古典落語や時代劇でしか聞かない(笑)

 古き良き時代には、正月を迎える準備を始める「正月事始め」というものがあった。嘗ては、旧暦の12月13日に行われた。現在は新暦12月13日に行われるが、こうした風習を守ってるのは山口組や芸妓の世界くらいではなかろうか。

 ということで、昨日の朝飯は天津丼を食べ、昼は鴨つけめん。晩酌のつまみに「ん」の付く料理は無かったが、それでも日本酒は「純米大吟醸」、焼酎は「れんと」、ウイスキーの「タンサン」割りを飲んだか別に好いか(笑)

 晩酌のつまみに「イカにんじん」か「みそかんぷら」でも作れば好かったな。因みに「かんぷら」とは、福島県の方言で「ジャガイモ」のことです。呵呵。

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2020年12月21日

汝、ゆめ晴天の友となる勿れ、雨天の友となれ!

「汝、ゆめ晴天の友となる勿れ、雨天の友となれ」という言葉がある。天気の良い時、つまり順調な時にだけは付き合うが、少し具合が悪くなると、いつの間にか遠ざかって寄り付かなくなる。こういうのを「晴天の友」という。

「晴天(人生が順調)の人と友達になろうとはするな。寧ろ雨天(苦難に直面)の人に心を寄り添える様な人間になろう」という意味だが、人間落ち目になったりすると遠ざかって行く。人というのは多くは権威主義だから当然と言えば当然。

「人の痛みの分かる人間になれ」というが、人の痛みなんぞ分かるものではなく所詮は他人事。人の痛みを分かる人間なんぞそう滅多にはいない。

 相手の悩みや苦しみを聞いて、如何にも同情しているフリをしているに過ぎない。そういうヤツに悩みや弱みを見せれば、単に恥を曝すことにもなり兼ねない。「人の不幸は蜜の味」ではないが、それが人間の性でもある(笑)

 会社で出世出来ないのも、設立した会社が倒産したりするのも、要は実力が無いからだが、そんな弱者に寄り添ってくれる人などいないと思え。

 逆境やピンチになると、人というのは潜在能力を発揮するものなのだが、その逆境やピンチを避けて悩み事を直ぐに吐露するというのは如何なものか。

 人間というのはそれだけ精神が弱いのだろうが、眼前の悩みなんぞ死に逝く特攻隊員の渾身の悩みに比べればどうってことは無いではないか。

 苦難とは危険を教える慈悲の鞭でもある。幸福と苦難は表裏一体であり苦難の本質を弁えれば、人生の苦難や悩みとはやはり天の与えた試練と考えるべきだ。

 未だ起きてもいないことに、また将来のことを気に病んでいるよりも、今日一日を本気で真剣に生きることに心血を注げ。「一日一生」とはそういうこと。

 人というのはどうしても自分よりも強い者には媚び諂うが、自分より弱い者や自分の能力より劣る者には強気に出るし、外見や肩書などで見下したりする。

「弱きを助け、強きを挫く」のが仁侠道だが、今やそうしたヤクザはおらず単なる暴力団と化してるが、社会全体も弱い者が淘汰される「仁義なき戦い」そのもので、社会構造そのものが自己中心的で金銭欲逞しい暴力団とどっこいどっこい。

 ヤクザというのはそうしたことを理解しているから見栄を張る。高級車を乗り回し、仕立物の背広を着て、高給時計を身に着けては偉くなったと勘違い。

 組織の名刺ひとつでも貫目が違えば見下し、上の者には諂屈する。漢(おとこ)の世界などとカッコつけたところで、所詮は見かけ倒しの世界でしかない。今や右翼団体もその暴力団傘下に甘んじているのだから何かを況んや。

 要するに、現代に生きる人というのは外見や肩書でしか判断しないし、そうした者にとっての価値感というのはその程度のものなので気にする必要もない。

 愚生の嫌いな輩は「貧銭を以ってこれを軽蔑する者は 富貴を以ってこれに諂屈する(吉田松陰)」という手合い。こういう手合いが暴力団や右翼の世界にはうじゃうじゃいる。こういう輩は何事も掌返しが御上手で晴天の友ばかり(笑)

 そんな友というのはチョッとでも雨天になるといなくなるものだ。良い時も悪い時も同じ様に接してくれる友人が一人でもいてくれたら人生捨てたものでもない。そういう意味では同級生や故郷の幼馴染の友人というのは有難い存在なのだと思う。

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2020年12月17日

「進め社」や「日本労農党」代表・福田狂二の「狂」とは陽明学の「狂」

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 愚生が所属していた団体「防共挺身隊」の創設者は福田進。その父親は「進め社」や「日本労農党」代表の福田狂二。画像を拝しても好い面構えだ。

 極左・中核派の「前進社」も「進め社」のパクリだろうが、狂二は国権から弾圧を受け支那に亡命するなど伝説の革命家で左翼にも信奉者は少なくない。

 日本に帰国すると名を「素顕」と改め、国家社会主義者に転向し、「防共新聞」を創設し主幹となる。防共新聞の行動部隊が長男・進の防共挺身隊である。

 破天荒な父から生まれた息子もその血は争えない。福田進を一躍有名にしたのが、国会議事堂の玄関前での「人糞事件」だろう。一斗缶にクソを詰め、共産党員と共産党被れの国会議員ども5、60人にクソをぶっかけた。

 クソをぶっかけられた連中の屈辱を思えば気の毒としか言い様がない。刺されたり、撃たれたり、殴られたりなら「男子の本懐」ってな具合で納得もするかも知れないが、なんせクソ塗れなんだから恥ずかしかっただったろうよ(爆笑)

 この事件で懲役3年を喰らう。出所すると福田はツキまくり、次から次と活動資金が舞い込んだ。「ウンコ撒いたら運が付いた」という福田は「右翼総会屋」として企業防衛に一役買い、高度成長を陰で支えたのは言うまでもない。 

 この福田進の父の名の狂二の「狂」という字を、単に「気が狂った」という意味に捉える人が殆どだろうが、本来この「狂」は、陽明学の「狂」の教えであり、「狂」の思想とは、王陽明が「伝習録」で訓えたものと言われているものだ。

 陽明学は「知行合一の教え」ということを知ってる人は多いだろう。言葉にしたことは必ず実行するという「知行合一」は極めて陽明学的思考だ。陽明学は「志を立てる」ところから始まり「行動に昇華する」ことで終結する。

 逆を言えば「実行できるかどうか分からないことは言葉にしない」ということでもあり、己の発言に責任を課していることを意味する。最近の政治家の言葉が軽いのは、この陽明学を学ぶことがない故に行動に責任も持てない輩が多い。

 つまり、例えば政治家や起業家を志すにしても、自分の言葉に責任を持ち、自らが率先垂範して国民や社員の模範となることが大事で、そして何よりその志は「親に対する孝」と「国に対する忠」が源でなければならないのだ。

 陽明学は人間の格位を「聖賢」「狂」「狷(けん)」「卿愿(きょうげん)」の四つに分けており、孟子はこれを注釈し「聖賢」とは、知識・人格に優れた人物。「狂」は理想主義。「狷」は不潔を潔しとしない者。「郷愿」は世俗と歩調をあわせた風俗とし、徳の賊(道徳家を装って郷里の評判を得ようとする俗物)だとした。

 要するに、陽明学派の「狂」とは「気が狂う」というのではなく、理想を高く持ち、何の虚飾も隠し立てもなく、一途に率直に行動することであり、「狂」とは、一つの信念に向かって脇目もふらずに突進する仁侠の精神とも言える。

 福田狂二の生き方もその名の通り、理想を高く、心の赴くままの正義感からの行動だったのだろう。因みに福田進の実弟は「狂介」という名だ。第三代、第九代内閣総理大臣に就いた山県有朋も自らを「狂介」と号している。

 また「狂」は、キリストの「悔い改めよ」ではないが、「もし過失があれば改めさえすれば好い」とする臨機応変的なものでもあり、世俗社会の常識に対し果敢に挑戦する「実践的理想主義」とも言える思想だとも言えよう。

 自らの行動を「狂挙」と敢えて言える為には、歴史を見つめる「冷静な目」が必要であり、この陽明学的「狂」の精神こそが、幕末の混乱期を凌ぎ、明治維新への道と切り開く転換点となったと言っても過言ではない。

 旧来の思想や社会構造を打破しようとする時に生まれる常軌を逸した行動こそが「正気」の「狂気」であり「狂挙」である。山口二矢や三島由紀夫、森田必勝、野村秋介などのこの狂気の狂挙こそが混沌たる現状打破の大きな力となり得るのだ。

 愚生的には「狂」といえば無頼の徒「眠狂四郎」を思い浮かべる。高い理想と率直な行動力は無理でも、狂四郎のあのドSぶりは見倣いたいものだ。呵呵。

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2020年12月15日

「喪中につき年末年始の挨拶はご辞退させて頂きます」というが

 年末になると喪中葉書が届き、「喪中につき年頭の挨拶はご辞退させて頂きます」だとか、「喪中なので初詣には行かない」いう様な声を聞く。こうしたことも古くからの習慣であり、大した意味はなく受け継がれている。

「初詣」も、神道ならば50日を過ぎていれば問題はない。仏教でも浄土真宗などは「死」は「穢(ケガ)れ」ではなく、故人を阿弥陀如来の智慧の光明に縁り極楽浄土へと導くという真理であるという教なのだから別に問題はない。

 日本人というのは天皇陛下の御生誕を祝わないのにキリスト誕生を祝い、大晦日には除夜の鐘を撞き、初詣には神社に参拝する。結婚式を教会や神社で挙げ、葬式は仏教と実に好い加減な民族ともいえるが、何故か「喪中葉書」だけはマメ(笑)

 先祖の宗派も分からず、神仏などを軽んじていながら身内の死に対してだけは信心深くなる。「喪中」という言葉にしても都合好く利用してるとしか思えない。

 近親者が亡くなった場合、一定の期間はその死を悼み、身を慎むことを「忌服」、或いは「服喪」という。 古くは、門戸を閉じ、酒肉を断ち、弔せず、賀せず、音曲をなさず、嫁取りをせず、財を分かたずという仕来りがあった。

 今日では、それらの一部分が慣例として受け継がれているだけ。 ここまで喪に服することはないし、そこまでした人を見たことも聞いたこともない。一週間も仕事を休んだものなら「もう、君は会社に来なくてイイよ」と誹られるだろう。

 日本での喪中の規定に関する法律は、奈良時代の「養老律令」が出された頃には既に見られ、江戸時代になると「服忌令」という法律に喪中の規定が記された。これらの法令に由ると父母の喪は12ヶ月~13ヶ月であると制定されている。

 明治7年に出された太政官布告「忌服令」では、「父母、夫、50日、13ヶ月。妻、兄弟姉妹、20日、90日」などと「忌(忌中)」と「服(喪中)」の期間をこと細かく定めている。 この法令は昭和22年に廃止されている。

「忌」と「服」は、謹慎度の深さによって分けられるが、大まかには「忌」は自宅に謹慎する期間で、法要(四十九日)が終わる期間をいう。「服」は、喪服を着用する期間で、死者を偲ぶ期間と考えて好いだろう。

「忌中」とは、神道の「穢れである死を忌む期間」という考え方から、忌中時(五十日)は「出仕(仕事)を控え、殺生をせず、髭や髪を剃らず、神社に参拝しない」としている。 浄土真宗では死は穢れで無いので忌中は意味を成さない。

 現在ではこうした法令は全て撤廃され、仏事の慣例としては今もこの太政官布告が一つの目安にされていて、喩えば父母の死亡に際しては七七忌(四十九日)までが忌中、一周忌(一年間)までが喪中とされることが多いが、今では意味を成さない。

「喪」とは、儒教から生じているもので、父母の死については13ヶ月間喪に服するということになっている。昔は「0」という観念がないので、その月が終われば1ヶ月と数え、翌月は2ヶ月目になる。二年目の法要が三回忌となるのと同じ。

 服喪期間という個人の故人への思いはそれはそれで好い。「喪中葉書」も信心深さの表れなのだろうが、実際に喪に服している訳でもないのに変な風習だ。

 年賀状のやり取りにしても、喪中の相手を気遣うという意味では年賀状を送るというのは思慮不足なのかも知れないが、悪気が在って送る訳でもないだろう。年末年始の挨拶如き亡くなった人まで巻き込んで一喜一憂などする必要はない。

 尤も「喪中だから」と門戸を閉じ、酒肉を断ち、弔せず、賀せず、音曲を成さず、嫁取りをせず、財を分かたず、出仕(仕事)を控え、殺生をせず、髭や髪を剃らずと自らを厳しく律している方なら別だが、そんな人は見たことも無い(笑)

 仏教徒の多くは、死んで戒名さえ貰えば極楽浄土に往けると思ってるが、戒名を頂くということは釈迦牟尼の弟子になるということ。要は、仏教徒というのは生きている間も、死んでからも修行は続くのだ。ホント、御苦労様です。呵呵。

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2020年12月14日

時に元禄十五年十二月十四日、江戸の夜風をふるわせて響くは山鹿流儀の陣太鼓・・・

 実兄の十八番に「俵星玄播」がある。子供の頃から幾度となく聞かされた。その御蔭で門前の小僧ではないが、その歌詞(台詞)をよく覚えている(笑)

「時に元禄十五年十二月十四日、 江戸の夜風をふるわせて、 響くは山鹿流儀の陣太鼓、 しかも一打ち二打ち三流れ、思わずハッと立ち上がり、 耳を澄ませて太鼓を数え、おう、 正しく赤穂浪士の討ち入りじゃ、 助太刀するはこの時ぞ、 もしやその中に、昼間別れたあの蕎麦屋が居りわせぬか、名前はなんと今一度・・・」

 赤穂浪士が吉良邸に討ち入りしたのは元禄15年12月14日夜から翌朝にかけてとされているが、本来は旧暦であって、事実は、元禄16年1月30日。

 映画やテレビドラマでの討ち入りの日は満月とされ、雪もあり明るい夜だったとさているが、旧暦30日だと新月、三日月なので暗かったのではと推測する。

 旧暦は1年が13ヶ月、月の満ち欠けで「1ヶ月」を現した。月の周期は15日で太陽と同じ方向にある場合を新月(朔)、反対方向にある場合を満月(望)となる。

 古の日本人というのは、月の満ち引きで月日を数え、そして生活に生かし、実に自然と共に活き活きとしたロマンチックな生活を営んでいた様に思う。

 因みに、赤穂浪士が討ち入った30日は満月ということになるが、新暦表記の14日では新月となり暗かったのではあるまいか、と勝手に解釈している(笑)

 赤穂浪士の精神的支柱となったのが、陸奥国会津若松城下(現・福島県会津若松市)生まれの山鹿素行(やまがそこう)。素行というと「山鹿流軍学の祖」として知られているが、江戸時代に於ける武士道の理論を確立した人物でもある。

 山鹿の門人達が素行の談話を筆記した「山鹿語類」や、尊皇愛国の書として有名な「中朝事実(ちゅうちょうじじつ)」は日本人必読の著である。

「中朝事実」で素行は、当時の学者の外国(主として漢土)崇拝を批判し、皇統の一貫を根拠にして、「日本こそ万国に卓越した『中華・中国』と呼ぶに相応しい国である」との日本主義を主張した人物としても有名である。

 王朝の度々変わった漢土に対し、「日本は天子の地位を侵すような不義不道の者がいなかった為に皇統が一貫している」と、日本の卓越性を強調している。

 江戸時代の267年の中で、理不尽な御家断絶や御家騒動は他にもあったが、唯一、赤穂藩の四十七士だけが「義士」と呼ばれ「武士道の華」と評価されたのは、素行の「正義の遂行」の本義に基づく教えが在ったからだと言っても好いだろう。

  一方で、忠臣蔵の討ち入りに主君の敵討ちなどという「大義」ではなく、単なる「打算」だと断じる批評家もいるのも確かで、先日、週刊誌で「赤穂浪士の討ち入りは『単なる逆恨み』である」との自説を唱える人の主張に括目した。

 その意見とは「大石内蔵助は忠義心によって討ち入らなければ大石家は山科で帰農し、そのまま埋もれただろうが、けれど吉良を討ち取った結果、子孫は本家の浅野家に千五百石の高録で召し抱えられた」というもの。

 この事実をして「忠義ばかりでなく、子孫の将来まで考えて討ち入った」「吉良からすれば逆恨みと言う他なく、幕府の裁定は妥当」とか意見は様々だが、こういう批評は武士の美学というものを理解していない軽々しい戯言でしかない。

 愚生は別に赤穂浪士の行為を否定するものでもないし、殊更に賛美するものでもない。「葉隠」では、赤穂浪士の討ち入りに触れた部分がある。

「赤穂浪士の仇討ちも、泉岳寺で腹を切らなかったのが落度と言うべきだ。それに主君が死んで、敵を討つまでの間が長過ぎる。もしもその間に、吉良殿が病死でもなされた時にはどうにもならないではないか」とは蓋し正論であろう。

  仇討ちというのは緻密な計画でやるものではなく、武士とは即刻「やられたらやり返す」というのが本道で、事の「成否」は問題ではなく「成否」よりも行為自体に意味が在るという。そういう意味では内蔵助は「打算的」と言える。

 葉隠では、仇討ち計画性に疑問を呈した上で、赤穂武士を「上方の人間は小利口だから、世間から褒められる様にするのは上手である」と嘲笑している。

 愚生は、こうした「葉隠」の批評に賛同しているが、赤穂浪士の討ち入りを日本人の美意識の表れと見るか打算的と見るか否かは夫々だろう。だが「仮名手本忠臣蔵」が日本人の美学を現し、多くの国民から愛されているのは確かだ。

 我が故郷の二本松藩主の丹羽光重と赤穂藩の浅野内匠頭との逸話が遺されている。丹羽公は、吉良上野介を討ち損じたとの報に接し、「何故、浅野公は斬りつけたのか、斬りつけずに突けば好かったものを!」と、酷く悔しがったという。

 以来、二本松に於いては「斬らずに突け」が伝統となった。二本松少年隊の成田才次郎が出陣の際に父から訓されたのも、この「斬らずに突け」だった。

 才次郎、「必ず敵将を斃してやる」との一心で、一の丁の物陰に潜んでいたところ、馬上豊かに立派な武士が一隊を率いてやって来るのが見えた。

 長州藩士・白井小四郎が率いる部隊だった。才次郎、隊列が目前に来るまで充分に引き付け、大刀を真っ直ぐに構えるや、一気に白井に向って突進した。

 歴戦の長州兵は、この遮二無二突進する小さな刺客に即座に反応する。白井隊長を護るべく馬前に出た兵に、白井は「子供じゃ、手を出すでない」と一喝。

 白井は、突っ込んで来るのが子供だと瞬時に見抜き兵を制した。だが、それが徒となった。才次郎の剣は、狙い違わずこの敵将の脇の下から胸部を突き刺した。

 白井が落馬する。驚愕した長州兵らは慌てて才次郎を捕えようとするが、才次郎に近寄ることも出来ず、手古摺った長州兵は已む無く鉄砲を使い、この小さな勇士を仕留めたという。白井が30歳、才次郎14歳だった。

 白井は地元の寺に懇ろに葬られた。少年への一瞬の憐憫が自らの死を招いたこの長州の将の墓前には、今でも参詣者からの香華が絶えることはない。

 会津武士道の昇華を白虎隊に喩えるが、白虎隊よりも更に年少だった二本松少年隊は、正しく二本松武士道の昇華そのものであり、我が故郷の誇りである。

 浅野公と吉良公にしろ、幕末期の東軍と西軍にしろ、それは喩え敵味方と雖も、その生き様は今を生きる我々に何かを示唆しているのではなかろうか。今こそ先人の覇気と生き様に学ばねばならないと痛感する。合掌。

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2020年12月13日

儒教などの外国の思想が輸入され「国意」に悪影響を及ぼした

「万葉集」の研究家でもあり、江戸中期に「国学」の基礎を確立し、支那の歴史と日本の歴史を比較した賀茂真淵。国学とは古事記や日本書記、万葉集など、儒教や仏教伝来以前の日本文化や日本精神を重んずる学問であり教えである。

 支那大陸の「易姓革命」を見るまでもなく、様々な王朝が権力抗争を繰り返して来た支那に対し、我が国の古の時代には大きな諍いもなく、大らかで自然な皇位の継承が成されて来たことに着目した真淵は、その「和」の精神を高く評価した。

 何故に古代の日本はそれ程までに平和であったのか。それは元々、日本人が道徳的に立派な人種であったからで、支那の思想は所謂「中華思想」であり、「中国こそが世界の中心で、周りの国や人種というのは野蛮人である」と考える思想である。

 支那人というのは自己主張が烈しく本性は劣悪で、他人への思い遣りに乏しく、規則を厳しくしないと統制出来ない。中華人民共和国が共産主義を最高原理として崇め、人民に信仰の自由や言論、結社、出版等々の自由を認めないのはその為だ。

 方や日本人はどうだろう。現代人は兎も角として「謙遜」や「謙譲」を知り、それが身に付いていたから細かい規則など無くても人倫の道が行なわれていた。

 真淵は、古代の日本に理想郷を見る。そして古の日本人の美しい心を「国意」と表した。つまり、国意とは儒教や仏教伝来以前の、日本の中だけで育まれた日本独自の倫理であると考えたのだ。それが古事記や万葉集、日本書記に在ると教える。

 政治にしても、人為的で論理的な規則は必要なく人々の心の中で国意が自然に働けば、それで「平和」になるという。然し、実際の日本の歴史というのは平安時代後半からの権力抗争、鎌倉期以降の戦乱の時代と幾つのも乱が起きている。

 この歴史的事実を、真淵は「儒教などの外国の思想が輸入され、国意に悪影響を及ぼしたからだ」と説明する。つまり、日本人本来の心の美しさが歪んだのではなく、外からの邪悪な思想に染まってしまったから日本が悪くなったと考える。

 真淵は、仏教や儒教を安易に享け入れた過去を反省し、国意を取り戻すべきだと訴えた。その具体的な方法とは「万葉集を知ること」だと説いた。

 現在の我が国を顧みれば、仏の教えもなく、儒教の教えもなく、単に米国の新自由主義を妄信し、頭にあるのは私利私欲のみ。迷えるものはつまらぬ宗教に奔り、日本人は心の中の高貴さを失い、高邁な知性の磨きを忘れてしまった。

 右翼陣営も例外ではなく、戦前の右翼と戦後の右翼は全く違う存在となってしまった。戦前の右翼というのは「国粋主義」的要素が強く、外国思想は全て悪と捉えるという考えであり、それは共産主義だけではなく、営利至上主義の資本主義であろうが、大衆迎合の民主主義であろうが批判されるべき対象だった。

 右翼がそうした「大義」を忘れ、居の安きを求め、資本主義に溺れて金儲けなどに興じていれば、ヤクザが「仁侠道」を忘却し暴力団化した様に、国民からの信頼は失せ、必要価値のないものに成り下がって行くのは必然であろう。

 右翼の使命とは、日本の純粋性を曇らすもの、つまりは我が国の国體と皇統を損ねる主義思想に断固として対峙して行かねばならない。

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大和国は丈夫の国にて、古は、おみなもますらおに、習えり。故、万葉集の歌は、凡丈夫のてぶり也

「万葉集の歌は、外国の思想的な影響を受ける前の純粋な日本の心で詠まれた歌である。だから万葉集こそが純粋な国意を伝える日本の聖典である」と説いたのは、万葉集の研究家でもあり、江戸中期、国学の基礎を確立した賀茂真淵。

 真淵は、国学・歌論について記した書である「にひまなび(新学とも表記される)」で、「大和国は丈夫(ますらお)の国にて、古は、おみなもますらおに、習えり。故、万葉集の歌は、凡丈夫のてぶり也」と教えている。

 多くの日本人は「万葉集」も「古今和歌集」も同じ文学的価値のものだと思っているが、真淵は「両者(万葉集と古今和歌集)は大きく違う」という。

 前出の「にひまなび」の続きは、「山背国はたをやめの国にして、丈夫もたをやめを習いぬ。かれ、古今和歌集の歌は、専ら手弱女(たおやめ)のすがた也」

 真淵は「古今和歌集」の歌は、儒教や仏教に毒され、技巧を弄した作品であり、「万葉集」の単純な写実から、素直ではない形式的な技巧と断じている。

「万葉集」の素直でな風景描写や率直な感情表現を「高く直き心」と説き、これこそが素朴で雄渾な日本人の魂であると評し、これを「ますらおぶり」と現した。

 対して、平安時代(山背国)に成立した「古今和歌集」は、外国(とつくに)の影響を受けた歌風であると評し、これを「たをやめぶり」と呼んだ。

「手弱女(たおやめ)」とは、優しいとか、淑やかな、という意味もあるが、浮かれ女、遊び女、という意味もあり、要は、大和国の「丈夫(ますらお)」ぶりを詠った万葉集に比べて、古今和歌集は女々しいと感じたのだろう。

 分かり易く喩えれば、万葉集は男性的であり、古今和歌集は女性的。つまり、真淵の思想は男性優位であり、男女共同参画社会の現代に於ては、ジェンダーフリーを叫ぶ性的変質者らからは非難の対象となるに違いない(笑)

 況してや、古今和歌集に集録されている約1100首の歌は天皇の勅撰和歌集でもあり、今なら国士を気取る自称愛国者らからも糾弾されるかもなぁ(笑)

 真淵は、「和歌は政治の根本であり、経世・経国に役立つもの」と教える。何故なら歌には人心を和らげ、世の中を和やかにする力があるからだという。

 真淵が「万葉集」研究に打ち込んだのは、趣味や文化研究でもなく、日本を佳い方向へ導く為の教えを模索していたのだろう。では、万葉集から何を学ぶか。

 万葉集を学ぶには万葉集で使われている古語を習得することだという。これが凡人の愚生には容易なことではない。ならばどうするか、要は万葉集を見様見真似で何度も何度も繰り返して詠んでみることに尽きる。

「今、右翼にとっての真なる敵は右翼自身である。フィクサーを気取ったただの金権右翼、思想も信念も持たないゴロツキ右翼、詩心を持たない乞食右翼等等、我が内なる敵は多岐にわたる」と喝破したのは新右翼のカリスマ・野村秋介。

 愚生は金権右翼団体に所属はしていたがカネに縁が無いゴロツキ右翼か、詩を詠もうにもどうも語彙に乏しく上手く詠めないから乞食右翼の両方か(笑)

「人真似上手は個性を想像する」という言葉が在る。敬愛する人の言行を何事も真似てみるというのはその道を極める上では重要なことでもある。その人の考えや所作などを真似することは悪いことではないし、後々己の個性が醸成されて行く。

 武道などの「稽古」とは、技芸などを師から習い身に付けることをいうが学問も同じこと。稽古とは「古(いにしえ)の道を考える」ということであり、師や先達に学ぶこともなく、また古の教えも知らないのでは修業とは言えない。

 稽古の「稽」とは「考える」という意味があり、「古書を紐解いて古人の教えを学ぶ」というのが「稽古」の本来の意味でもある。

 真淵は、古代の純粋な日本人の心を会得し復元する為に、万葉集で使われていた言葉を紐解いて蘇らせる。これは「心と言葉は直結した存在である」との考えで、古の人の心や思想、人倫が言葉に現れていると確信したからだろう。

 そのことによって「国意」を形成しようとしたのだ。この発想こそが国学の基本であり日本こそが「世界で唯一正しい国である」との確信に行き着くのだ。

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2020年12月12日

「ガソリン車をゼロにして温室効果ガスを実質ゼロにしよう」だとさ(笑)

 地元紙一面の「安倍前首相に聴取要請」の下に「ガソリン車の新車ゼロへ」という記事が載っている。自動車を全て電気時自動車やハイブリッドにするというが、世界トップを誇る我が国の自動車を見捨てるかの様な愚策には厭きれるしかない。

 我が国の基幹産業は自動車であり、自動車産業の関連事業などに拠って成り立っている。電気自動車やハイブリットでも世界トップレベルだが、ガソリン車を無くすことで温室効果ガスを実質ゼロにしようというのは本末転倒だろう。

 世界で最も多く化石燃料などを使っている国は、中国21%、米国16%、インド6%、ロシア5%、日本はたった3%に過ぎない。ドイツは2%、韓国2%、カナダ2%,フランス2%など。温暖化は温室効果ガスだけが原因ではない。

 地球上の二酸化炭素排出の殆どは海から出ており、人類が出すCO2は僅か3%程とも言われてる。温暖化は自然の摂理であり、地球という星の寿命でもある。それをガソリン車を目の敵にして「持続可能な開発目標(SDGs)」とは嗤うしかない。

 欧州や中共は、我が国の自動車技術には敵わないという理由から電気自動車に力を入れているが、温室効果ガスの問題と電気自動車への移行は別問題。況してや、騒がれている「地球温暖化」は温室効果ガスを減らすことで防げるとも思えない。

 温室効果ガスをゼロにしたいなら原発を再稼働するのが先決だろう。現在のエネルギーの7割近くは化石燃料に因るもの。ガソリン車ゼロ政策は原発技術や核のリサイクルを放棄した流れと同じで、技術立国としての日本の力を削ぐ愚策である。

 日本が脱原発に移行する中で、原発輸出から撤退した英国では原発事業を中共が引き継ぐこととなったという。反原発派や経団連を筆頭に原発の安全性確保に疑問を呈し、原発を斜陽産業と考えてることは中共への利敵行為でもある。

 中共は電気自動車に力を注ぐと同時に、2030年迄に原発を300基に増設する計画を立てている。「原発技術で世界を制することが世界を制することだ」と訴えた鄧小平の確信を継承しているのだが、我が国はマヌケなことにその逆を目指している。

 反原発派は東京電力福島第一原発事故を利用して原発の安全性に疑問を呈し、彼奴の非科学的感情論に煽られた国民の異常とも言える放射線への拒否反応で原発再稼働が停滞し、新規原発の増設は実質的に不可能となってしまった。

 原発を稼働すると使用済み燃料が出る。この使用済み燃料を再処理するとプルトニウムを含む酸化物が精製される。つまり、使用済み核燃料を再処理してしまうと原発を動かし続けなければならないということになる。

 反原発派が頻りに「再処理せずに原発停止」を訴えてるのは無知に加えて無責任の極みである。彼奴等の狙いは国民世論の分断と破壊活動であるのだ。

 精製された酸化物を「プルサーマル」や「フルMOX」として使わなければ、国際公約違反に問われることになってしまうし、処理せずに余剰プルトニウムを持つことは国際的に許されない。こうした問題に誰もが口を噤んで反原発を騙る。

 核燃料サイクルの施設「もんじゅ」が予算の都合で頓挫し、プルサーマルも先行き不透明の儘で再生可能エネルギーに移行して国民から賦課金を詐取している。

 賦課金とは、税金と同じく国民に割り当てられて負担する金のことで、正に再生可能エネルギーとは、原発事故と風評被害に便乗した政治的策謀であり、国家の基幹エネルギー政策を無視した愚策の最たるものと言っても過言ではない。

 技術立国の目玉であった「もんじゅ」は、生成されたプルトニウムや燃え残りのウランを混合酸性物(MOX)燃料に加工し再利用しようというエネルギー政策であり、高速炉開発という夢の方向性が絶たれたことは返す返すも残念至極。

 高速増殖炉に成功させることで世界のエネルギーの平準化を達成出来れば、我が国が世界から尊敬されるだろうに、担当大臣が「予算的に」という理由で廃炉を決定したことは経済大国並び技術立国の放棄であり実に情けないことだ。

 原発利用の普及と同時に原子力システムを構築する必要がある。「もんじゅ」は単にエネルギー確保だけでなく、安全保障などの視点からも重要な問題であり、我が国が高速炉サイクル技術分野でも世界をリードして来たことを放棄するとは何事か。

「ガソリン車ゼロ」も経産省のアホ官僚どもの日本潰しなのだろうが、もんじゅ廃炉と同じ轍を踏んではならない。我が国が目指すべきは技術立国なのである。

 余談だが、郡山市の品川市長もこの政策に迎合し、公用車を電気自動車やハイブリッド車に切り替えるという。品川を見るまでもなく、温室効果ガス削減を理由に「地球環境を守ろう」とか「SDGs」を掲げる連中というのは何か胡散臭い。

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2020年12月10日

「協働」を始めとする共産党用語に最近では「持続可能な開発目標(SDGs)」が加わった

 今や誰もが使う「協働」という言葉だが、この「協働」は抑々共産党系のスーパーでもある生協が使用してた言葉で共産党の造語である。その意味は「同じ目的の為に、対等の立場で協力し て共に働くこと」だと説明する。

 コラボレーション(collaboration)だというのだが、ならば「共同」で十分だろうに、何故か「協働」という言葉を有り難がって使用する不思議。

「共同」と「協働」の意味は同じだと言うが、その目的は全く違うものだ。「共同」とは、一つの目標の為に複数の人が力を合わせることであるが、「協働」のその主体は「国民」ではなく、あくまでも「市民」が主役なのである。

 共産主義者や戦後民主主義教育に侵されてる連中というのは「国民」という言葉を毛嫌いしてる連中は、この「市民」という言葉を使いたがる。

「協働」の目的とは、国家と国民を切り離すことにあるといって好いだろう。国家と地方を切り離して、共同体(commune)を創り上げることを目的とする。

 地方の集落や住民が協力して絆を深めるのは大いに結構なこと。だが、「協働」や「共同参画社会」の究極の目的は、同じ共同体でも共産主義インターナショナル(Communist International)、コミュンテルンの創造であるのだ。

 共産主義とは、生産から分配までの経済行為のすべてを共同的(共産的)に実行しようとする考えで、生産機関の共有や生産物の分配も個人主義的自由を認めず、全て共産的に行おうとするもので「協働」とはその目的達成の為の一つである。

「協働」と同じく「男女共同参画社会」は「共産(共参)社会の実現」が目的であり、これらの企画は、総理府や国立婦人教育会館に巣食っていた元全共闘系と共産党系の女革命家ら革新的左翼が共同謀議的に考案したものである。

 こうした愚策を、戦後民主主義教育で育った無自覚左翼が犇く自民党政権下で疑いも無く導入し、今では担当大臣までいるという御粗末さは厭きれるばかり。

 戦後民主主義教育で育った者は国家から恩恵を享けなが、個人と国家を常に対立させ、恰も国家は人間を抑圧する組織と見做し、反国家反体制のポーズを採ることが進歩的で文化的だと錯覚している。その共通の標語が「市民」なのだ。

「協働のまちづくり」推進派は、「市民とは必ずしも地域住民に限定されるものではなく、NPOを始め、企業などの企業市民も含まれ、また、地域の一員という意味では行政もまた行政市民という名の市民である」と尤もらしく説明する。

 今や「天皇制」を始めとした共産党造語があらゆる場面で飛び交い、保守を標榜する政治家までもが何の疑いも無く使っている始末。最近では女性宮家が受け容れられないと見るや「皇女制度」に切り替えて国民世論を誑かす。

 最近流行りの「持続可能な開発目標(SDGs)」もその一つ。世界規模で共通の目標に向かおうというものだが、世界を股にかけて金儲けを企む「地球市民」と同じ臭いを放つ、世界の共産主義者に因る左翼運動ではあるまいか。

 SDGsとは「全ての人々にとってよりよいより持続可能な未来を築く為の青写真です。貧困や不平等、気候変動、環境劣化、繁栄、平和と公正など、私たちが直面するグローバルな諸課題の解決を目指します」ということらしいが、実に胡散臭い。

 いつの間にやら我が国はカタチを変えた共産主義が蔓延り、その「カタチ」は実に陰湿になった。こうした行政側への共産主義の介入を奨めたのは共産党ではなく、保守を標榜する自民党だったというのは吉本新喜劇以上の御笑い種だ。

 昨今の共産主義者は、昔の様に赤旗を振り翳したあからさまな反対運動は行わない。反天皇運動も如何にも陛下の高齢や体調を慮り、そして世論誘導を謀る。その結果、易易と退位法案を成立させ退位の実行を謀った。

 そうしてカタチを変えた左翼勢力は、男女共同参画社会、夫婦別姓、ジェンダーフリー、人権擁護法案、共生社会、外国人参政権、極め付けは女性天皇や女性宮家論~皇女制度と次から次へと国體破壊の策謀を積み重ねている。

 左翼の造語と左翼に因る企画や愚策が氾濫し、それを国民が疑いも無く使用し、賛同している実態は、我々が想像している以上に左翼勢力が権力側に入り込み、行政権と連結せしめてしまっているという証左でもある。

 嘗て三島由紀夫は「文化防衛論」の中で「我々はあらゆる革命に反対するものではない。暴力的手段たると非暴力的手段たるとを問わず、共産主義を行政権と連結せしめようとするあらゆる企画、あらゆる行動に反対するものである」と語っている。だが、今や 我が国の現状は三島が悲観した当時よりも酷い状況に陥っている。

 これら左翼勢力の謀った愚策に対峙するべき保守陣営や愛国陣営を見渡せば「反中共」や「反韓」を叫んでいるばかり。敵は外患ではなく、正に内憂に在り。

 自民党の「立党宣言」にも「社会的欠陥を是正することに勇敢であらねばならない。われらは暴力と破壊、革命と独裁を政治手段とするすべての勢力又は思想をあくまで排撃する」と在るが、情けないことに単なる画餅と化してしまっている。

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2020年12月08日

東亞永遠ノ平和ヲ確立シ以テ帝國ノ光榮ヲ保全セムコトヲ期ス

 昭和16(1941)年12月8日、「大東亜戦争・開戦の詔勅(米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書)」が渙発せられ、大日本帝国海軍はハワイの真珠湾を攻撃、東アジアに永遠の平和を確立し、我が国の光栄の保全を期す戦いの火蓋が切られた。

 米国では12月7日(現地時間)を「汚名の日・リメンバー・パールハーバー」とし、戦没者追悼式が行われている。我が国を「騙し討ち」をした卑怯な国として糾弾し、日本蔑視は未だに止むことはない。

 我が国がこうした「卑怯者」の汚名を着せられ続けるのは、あろうことか前の晩に酒を飲み過ぎて「宣戦布告の覚書」を指定時間に渡せず、真珠湾攻撃から1時間後に持参した駐米大使の大失態に他ならない。

 我が国の外交史上歴史に残る大失態なのに誰一人として咎められず、責任も取っていない。然も、彼らは外務次官や駐英大使、その他第一級ポストに昇進し、叙勲までされている事実には驚く他はない。

 彼らが、職務を遂行していれば我が国も日本国民も「嘘吐き」「卑怯者」といった汚名を着せられずに済んだろう。だが、抑々、大東亜戦争に至ったのは「騙し討ち」と言われる真珠湾攻撃そのものが原因ではない。

 我が国が何故に米英との大東亜戦争開戦を決意し、何故に真珠湾攻撃に至ったかは、江戸時代末期の1953年のペリーの黒船来航時代まで遡り、アジアの近代史と世界史を学ばなければ到底理解することは出来まい。

 ペリーの黒船来航に衝撃を受けた我が国は西洋列強に追い着くべく、強力な中央集権国家を形成しようと明治維新という大業をたった数年で成し遂げた。

 15世紀の大航海時代以来、白人による世界制覇の波がアジアにも押し寄せ、当時、アジアは次々と列強に蚕食され植民地となった。明治開国後に勃発した日清・日露戦争に至ったのも、或いは日韓併合も歴史の必然である。

 日清戦争に勝利し、その後の日露戦争での「日本大勝利」の報は世界の人々を驚嘆させ、特に植民地国や有色人種に与えた影響は強烈なものだった。

 日露戦争勝利から15年後、パリ講和会議で我が国は「人種平等の原則」を国際連盟規約に載せることを提案する。だが、議長を務める米国大統領・ウイルソンは「有色人種に人権など必要無い」と拒絶し否決した。米国人ら白人による人種差別が横溢していたのは明らかで、中でも日本人差別は異常なものだった。

 大東亜戦争は支那事変に端を発した日本軍の一方的な侵略戦争ではない。これもまた避けては通ることの出来ない歴史の一齣であり必然だったのだ。

 満州国を設立させた我が国への蔑視と差別は止むことはなく、米国、英国、中華民国、和蘭から我が国へ所謂「ABCD包囲網」が敷かれ四面楚歌に陥った。そして決定的となる最後通牒「ハルノート」が突き付けられることとなった。

 降伏は即ち植民地の道しかなく、最早、我が国の生き残る道は連合国との戦争しかないとの決断、開戦の詔勅を賜り、真珠湾攻撃へと至ったのだ。

 今も糾弾して止まない「リメンバー・パールハーバー」も、我が国と日本人への偏見と差別であり、先の大戦を猛省すべきは我が国に非ず、米国自身である。

 抑抑、何故に我が国が大東亜戦争の開戦を決意したかが問題であって、現代の幼稚な倫理観や道徳観で一部分の歴史を見て断じることに何の意味が在るというのか。

 歴史の検証で自国の罪を論うことは大事なことであるが、大切なのは古今東西、世界に蔓延る覇権主義の克服を主張すべきであって、他国の覇権主義には目を瞑り、一方的に我が国だけが自虐の淵に止め処なく漬かり込むことではない。

 我が国にとって先の大戦は結果的に敗れはしたが、日露戦争以降の懸案だったアジア諸民族の独立と復権を齎し、「米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書」で示された大義とアジアの「希望の星」としての役割は見事に果たしたと言えよう。

 日本に生を享けた者として真の歴史と意義を知ることは国民としての義務でもある。大東亜戦争の開戦日に当たり、先の大戦で戦陣に散った英霊に対し感謝の誠を捧げると共に、畏くも陛下の弥栄を祈念する。すめらぎいやさか。

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2020年12月07日

「シュガーキング」と呼ばれた松江春次を知ってますか?



「シュガーキング」呼ばれた日本人がいる。その日本人とは松江春次。角砂糖を作った人物である。台湾に烏山頭ダムを設計した八田興一の銅像が在るが、当時台湾は日本領であり、それ以外に外国で建てられた日本人の銅像は二人だけだという。

 一人は黄熱病の研究で世界的に注目され野口英世博士、そしてもう一人はシュガーキング・松江春次。野口英世博士の説明は要らないだろう。春次は、映画「バルトの楽園」で有名になった板東捕虜収容所所長・松江豊寿大佐の実弟である。

 角砂糖製造で成功を収め「キング・オブ・シュガー 」と称された春次は、明治9年市内馬場町(現在の中央二丁目)に生まれ、会津中学(現会津高校)を卒業。

 苦学して東京工業学校(現東京工業大学)応用化学科を卒業し大日本製糖に入社。春次はその後、米国ルイジアナ大学へ留学し砂糖科を卒業している。

 その後、技術習得の為にヨーロッパへ出向し31歳で帰国し、そして角砂糖の製造に成功する。その後も製糖会社を転々とし台湾での製糖業で成功を収める。

 それでも満足することなく、自身が描く南洋開発の夢の為に退社しサイパンへ渡る。当時、サイパンには5万人もの日本人が入植しており「南国の楽園」と言われた島だった。春次はこのサイパンで人類の共存を目指す夢に走り出す。

「南国の楽園」と言われたサイパン島だったが、ブラジル入植や戦後の北朝鮮帰還事業と同じく、実際には国の入植事業に失敗した日本人が生活に苦しんでいた。

 サイパン島をくまなく調査し、製糖事業の成功を確信した春次は、生活に苦しむ日本人と地元の人々を救う為に「南洋興発株式会社」を設立し開拓に着手する。やがて製糖事業は大成功し、日本からも多くの入植者を迎えることとなった。

 成功した春次は驕ることなく成金趣味を持たず、質素倹約を旨とする会津人らしく清貧な生活を続けた。「松江賞」というものを創設し、日本人や島人を問わず優秀な児童生徒に奨学金や教科書などを贈り若者の育英事業に私財を投じた。

 春次は、自分の苦難の経験から「青年に投資する」を持論とし、自分の土地、株券を売却し、故郷の会津工業高校へ33万円(現在の数億円に相当)を寄付し、機械科を創設させ、多くの技術者が育ち、後に日本の成長に貢献することとなる。

 会津白虎隊の悲劇は誰もが知るところだが、春次もまた日本の将来の為にも青年を育てなければという思いに駆られたのだろう。 だが、第二次世界大戦に巻き込まれ、真珠湾攻撃で大東亜戦争が勃発。激烈を極めた日本軍は終に敗走する。

 サイパンの「バンザイクリフ」は、戦争の悲劇の象徴でもある。サイパンを占領した米軍は、戦前に建てられた「キング・オブ・シュガー・松江春次像」の倒壊を謀るが地元住民からの懇願で断念。春次が如何に慕われていたかが分かる逸話だ。

 春次は、サイパン島の戦いの敗戦に因り財産の殆どを失ったが、砂糖製造を中心に開発事業に成功した優れた開拓者として今も尚語り伝えられている。野口英世もこの松江春次も、我が福島が生んだ偉人であり英雄であり県民の誇りでもある。

 晩年は、サイパンへの郷愁を抱きながら酒を酌み交わすことが楽しみだったという。春次は「生来無一物(しょうらいむいちぶつ)」との言葉を好んで揮った。「生来無一物」という言葉に激動の時代を生き抜いた春次の人となりを感じさせる。

 菩提本無樹「菩提本(もと)樹(じゅ)無し」
 明鏡亦非台「明鏡も亦台に非ず」
 本来無一物「本来無一物(ほんらいむいちもつ)」
 何処惹塵埃「何れの処にか塵埃(じんあい)を惹かん」

「生来無一物」とは禅の教えでもある。前出の詩の大意は「本来菩提には樹などという不変なものはない、明鏡という心もない。故に、本来無一物である。由って塵埃の溜まりようがないから払拭の必要もないではないか」という意味だ。

 私心も無く、また資産も財産も無くなった春次の自虐的洒落に渾身の悩みと満足感が窺える。斯くいう愚生に私財は無いが、生き様は春次に学びたいものだ。

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2020年12月05日

何事も両目をカッと見開いて物事の真意を吟味しよう

 当り前だが人間には目玉が二つある。だが、「明き盲(めくら)」という言葉がある様に、多くの人は世の中の事柄を片目(一面)でしか見ていなかったり、理解力が乏しかったり、自分で判断もせずに大勢に流されてしまう人ばかり。

 伊達政宗や前田利家、柳生十兵衛、乃木希典、北一輝、小泉八雲、双葉山などなど、歴史上で大成した人物には隻眼(せきがん)が多いが、片目の方というのはその不自由さ故に物事の見方や事象を冷静に見て判断するからではあるまいか。

 世の中(大衆)というのは自分で見聞きしたものよりも、数の多いものが「当たり前」と捉え、数の少ないものを「間違い」と決め付ける癖がある。

 徳川時代に日本にやってきた外人は、日本人の丁髷を見て、日本人の男は恐ろしい、頭にピストルを載せているとびっくりしたという。それに尾鰭が付いて「チョンマゲ、ハラキリ、フジヤマ、ゲーシャ」などの変な日本人観が生まれた。

 そういう日本人も来日した外人を見て、背の高い赤毛の天狗が来たとびっくりしたというからお互い様だが、人の見る目と噂というものは存外そんなもの(笑)

 もう直ぐ大東亜戦争の開戦記念日を迎えるが、先の大戦に突入する頃は「対米開戦已む無し」の声が大勢を占め、当時の国会議員の中で反対したのは大日本愛国党総裁で当時参議院議員だった赤尾敏ら少数議員だったというから嗤えない。

 当時の多くの国民は「神州不滅」を信じ「戦争反対」の意見を吐くものなら周りから「非国民」と罵られ、憲兵にしょっ引かれて酷い目に遭わされた。右翼は好戦家に思われがちだが赤尾の行動に見る様に俯瞰した意志と行動こそ大事。

 つまり、いつの世も大衆が時代を創っているのだが、その大衆の多くは無知で愚かであり、扇動される大衆というのは実に操縦し易く、都合好く世論操作が行われる。そういう意味では国民意識というのは戦前から何も進歩もしていない。

 反原発派らが目の敵にする原発だってそうだ。第一次オイルショックを経験した日本は、基幹エネルギーに原発を選択する。そして我が国は高度成長に乗り、三種の神器といわれるテレビ、冷蔵庫、洗濯機といった家電が普及する。

 こうした便利さを多くの国民は当たり前だと思ったのは事実で、今更、原発を批判するのは筋違いだろう。そうした恩恵の全てを否定して「原発の無い時代に戻せ!」とか「故郷を返せ!」というのは本末転倒と言う他は無い。

 民主主義は多数決だが、数の多い意見が正しいとは限らないし、同様に善人必ずしも善人とは限らず、悪人必ずしも悪人と言い難い。大衆から「キチガイ」や「変人」と呼ばれてる人から見れば、大衆こそが変人に見えてるのかも知れない(笑)

「世評なんぞ気にかけるな。人間の評価など十年毎に浮き沈みするものだ。大奸物、大逆物と言われた勝麟太郎も今では伯爵という華族様の勝安芳様と言われる様になった。世評など変わるものだし、信じるものではない」とは勝海舟。

 人間の賢愚、美醜、善悪など、そう簡単に決められるものではない。その時代の価値観や何事も極一部の人間(指導者)の判断で決まるもので、大衆はいつの時代も指導者の意に沿ってどうにでも、どっちにも動き流されるものなのだ。

 ヒトラーは「大衆は、小さな嘘より大きな嘘にだまされやすい。なぜなら、彼らは小さな嘘は自分でもつくが、大きな嘘は怖くてつけないからだ」と叫ぶ。

 そしてこう訓える。「必要不可欠なのは、一人の指導者の意志、一人が命じ、他の人はそれを実行すればよい」。つまりトップに立つ人の意思が大事なのだが、そのトップに立つ人に国家観や人間性が乏しいと国民が不幸に陥ることとなる。

 我が国の政治が大衆迎合主義に陥るのは、マスコミに誘導された大衆に媚びるばかりで強固な意志(国家観)を持った政治家がいないことに尽きる。

 議論し合うことは必要なことではあるが、大事なのは意見が対立した場合に上に立つ者の意志と実行力が結果を左右する。これは組織も会社も同じこと。社長や役員がだらしなければその会社に未来は無い。さっさと辞めるに限る(笑)

 世評なんぞ懼れるに足らず。坂本龍馬は「世の人は我を何とも言わば言え、我が成すことは我のみぞ知る」と訓えているが、強い信念を持つべし。

 時代の怪しい風潮や大勢の意見に流されることなく、何事に於いても両目をカッと見開いて、その中身を吟味し判断する癖を付けたいものだ。呵々

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2020年12月03日

若者よ、あがいて、あがき続けなさい。必ず道は拓ける!

【馬賊の歌】を知ったのは国士舘大学に入ってからだった。防共挺身隊のテーマソングは「出征兵士を送る歌」だが、この歌もよく宣伝車で流したりしていたので耳にこびり付いている。拓大の応援歌でもあるが、実に大陸浪人の浪漫を感じさせる。

【馬賊の歌】

 俺も行くから君も行け 狭い日本にゃ住み飽いた
 海の彼方にゃ支那がある 支那にゃ四億の民が待つ

 俺には父も母もなく 生まれ故郷にゃ家もなし
 慣れに慣れたる山あれど 別れを惜しむ者もなし

 嗚呼いたわしの恋人や 幼き頃の友人よ
 いずこに住めるや今はただ 夢路に姿辿るのみ

 昨日は東今日は西 流れ流れし浮草の 
 果てしなき野に唯独り 月を仰いだ草枕

 国を出るときゃ玉の肌 今じゃ槍傷刀傷
 これぞ誠の男児じゃと 微笑む顔に針の髭

 長白山の朝風に 剣をかざして附し見れば
 北満州の大平野 俺の住処にゃまだ狭い

 御国を出てから十余年 今じゃ満州の大馬賊
 亜細亜高嶺の間から 繰り出す手下五千人

 今日の吉林の城外に 木だまに響く嘶きも
 駒の蹄を忍ばせて 明日は襲わん奉天府

 長髪清くなびかせば 風は荒野に砂を捲き
 パット閃く電光に 今日得し獲物幾万ぞ

 繰り出す槍の穂先より 竜が血を吐く黒竜江
 月は雲間を抜出でて ゴビの砂漠を照らすなり(以上)

 時代が時代なら、愚生も馬賊となって大陸で大暴れしてみたかったとも思ったりもする。日本でも戦国時代には裸馬に跨った野武士や夜盗、素浪人がいた。

 そうした裸馬から立身出世した人物も少なくない。戦国武将の北条早雲も裸馬から出世した一人で、若い頃には「新九郎」と呼ばれて伊勢地方で育った。四十近くまで裸馬の生活をしながら一国一城の主を夢見ていた変わり者だった。

 裸馬というのは乗り熟すのは難しいという。鞍を付けると馬は大人しくなるが、人間もこれと同じで持ってるものがあると大人しくなる。荷鞍が多ければ多いほど、それを落してしまうのではないかと心配し行動が鈍くなるからだ。

「失敗したらどうしよう」「怒られるのではないか」とあれやこれやと余計なことを心配し、裸馬時代の様な若々しい覇気が失せ、こじんまりとしてしまう。

 よくよく考えてみれば、若い頃の荷鞍なんぞ高が知れてるものだ。そういう小さなものに執着し、拘っていては大成なんぞ出来はしない。裸馬の若い時代には失敗して好いのだ。否、若い時代こそ失敗から学ばなければならない。

 裸馬も乗り熟せていないのに荷鞍を付けて、それを護ろうとするから無難に生き様とするのだ。裸馬の時代というのは正に武者修行と捉えるべきなのだ。

 失敗し、ヤケドを負い、その失敗や享けた恥から学ぶことで人としての器が大きくなって行く。場数を踏むとはバカ(失敗)の数でもある。

 戦国時代の英雄と呼ばれる人の多くが、若い時分には野武士の如く戦場を駆け巡って、失敗しながらあの地位に上り詰めたのだ。若者よ、君は今、裸馬の時代ではないか。何を守りに入っているのだ。少しばかりの荷鞍なんぞを気にするな。

 上の者や周りの目ばかりを気にすること勿れ。天下の素浪人になったつもりで暴れてみるのが好い。あがいて、あがき続けなさい。必ず道は拓ける!

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2020年12月02日

多くは自分の意見や理論こそが正しいと思っているが

「人間というものは知性に根拠を持たず、大抵は無意識に、ただ感情によってのみ支えられた先入観に囚われていることが稀ではない。こういった本能的な嫌悪、感情的な憎悪、決めつけられた拒否というような柵を乗り越えることは、欠点のある、或いは誤った学説を正しく直すことよりも千倍も困難である」とはアドルフ・ヒトラー。

 正義や良識というのは己の価値観であって、それが正しいかというとそうでもない。特に正義ということになればその正義は真逆な場合が多い。

 例えば、米国の行動を正しいと思う人もいれば、リビアや北朝鮮の様に米国の圧政を不正義だと思ってる国も在る。中共の弾圧で苦しむ国にとっては、自国の正義を実現しようという行動さえも容易に敢行出来ない国も在る。

 愚生の場合、己の意見が万人に正しいものだとは思ってはいない。右翼を自任する者として、日本国民であるならばこう考える、こう行動しなければならないというものであって、それを絶対無謬で右翼共通のものだとの驕りもない。

 人の多くは自分の意見や理論こそが正しいと思っている。SNSの世界も同じで、自分の意見と異にする者を説き伏せようとしたり、感化させようとしたりする。だが、固定観念や先入観に囚われてる屁理屈ってのは実に厄介なものでもある。

 意見の隔絶してる者を翻意させることなど到底無理なことなのだが、それにも気付かずに意味の無い論争を繰り返している様子は気の毒にも思う(笑)

 論争で理論的な間違いを指摘出来たとしても、論争してる相手側がこちらに「敬」を抱くことがなければ、喩えその指摘や意見が正論であり、また相手を慮っての意見と雖も、相手に通ずることも受け容れられることはないだろう。

 左翼というのは確信犯だから翻意することはないが、無自覚左翼という戦後民主主義者にはこの手が多く、聞く耳を持たず偏狭な屁理屈を垂れる輩が多い。

 まぁ、右でも左でも、どっちにしても、人というのは結局は「好きか嫌いか」で判断される。「正しい」とか「間違ってる」という基準も「好きか嫌いか」の延長であり、好きなものは精神的に正しいと思い込んでいるに過ぎない。

 意見の食い違い以前に、嫌われてる相手に幾ら熱く語ったところで疲れるだけだ。「生理的に合わない」とか「以心伝心」というが、自分が嫌いだとか苦手だなと思ってるいる相手は、向こうも同じ様に感じているものなのだ(笑)

「人に意見や指導をしてその人の欠点を直す」ということは大切なことであり、親切心であり、慈悲の心だとも言えなくもないが、意見される側がそれらを受け容れる気持ちが無ければ、意見や苦言は単なる「余計なお世話」でしかない。

「葉隠」では、意見というものは先ず、その人がその意見を受け入れられるかどうかを見極めることが大事であり、先ずは相手と親しくなり、自分を信用して受け容れる状態になってからでないと意見というものは通じることもないと教えている。

 食事や痛飲しながら相手に心を許し、自分の失敗談などを話し、意見を言わなくても、相手に間違いを思い当たる様に仕向けることが出来れば成功だという。

 相手の長所を先ずは褒めながら、その上で感じた欠点や間違いを指摘し直そうと努力するというのが親切心であり、本来、意見というのは斯く在るべきなのだ。

「人というのは結局は好きか嫌いかである」というのは実に正鵠を射たものだろう。右翼風情が声を大にして正論を吐いたところで、相手に通じないのは世間から忌み嫌われているということ。要は、生理的に合わないということに尽きる(笑)

 まぁ、立派な主張が通じないのは理論よりも人柄や人格の問題か。理論武装も好いが、その性格や人となりを磨くのは容易なことではない。呵呵大笑。

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2020年12月01日

義勇公ニ奉シ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スへシ!

 中国共産党の尖閣諸島への主権侵害を批判し、「日本は滅びる!」「日本が危ない!」と徒に危機を煽り、我が国が滅亡するかの如く騒ぎ立てる営業保守らの言葉を真に受けて、その御先棒を担いでるのがネット右翼や自称愛国者らだ。

「愛国」や「保守」を生業としている営業保守らに共通するのは、尖閣や竹島など日中韓に存在する領土主権には声高に叫んではいるが、北方領土に関する認識は全千島列島並びに南樺太ではなく自民党の院外団的に四島返還に容認する。

 尖閣の危機は叫べども、皇統の危機には拱手傍観を極め込む。国體や尊皇精神というのが決定的に滑落していながら、何故か「靖國神社」だけは贔屓にし、何故だか8月15日の参拝に拘り、自称愛国者やインチキ右翼らがそれに迎合する。

 斯くいう愚生も、右翼重鎮や先輩らに煽られ、読み齧った保守論壇界の文士の言葉を真に受けて右翼運動に身を投じていたのも確かだが、靖國神社に関しては8月15日の参拝を批判し、大東亜戦争のミュージアム的な風潮に苦言を呈している。

 8月15日を「終戦の詔勅渙発記念日」と称し、この日に靖國神社に参拝すれば愛国者という風潮は単なる贔屓の引き倒しであり、営業保守の靖國利用にはうんざり。そんなことより5万円で終身会員になった方が靖國神社側にとっては有難い(笑)

 よくよく考えてみれば営業保守というものは昔から続く生業であり、昨今の愛国ブームも、ネット右翼や自称・愛国者らを狙った売文業というのが正しい。

 こうした保守派や自称愛国者と対象的に左翼ブームでもあるという。確信的左翼の「赤旗」は別にして、朝日新聞を始めとした左翼マスコミにしても、戦後民主主義教育と幼稚な正義感を振り翳す御花畑らを顧客に取り込む営業左翼である。

 世界には多くの共産主義者がいるが、その全ては愛国者だ。我が国の日本共産党や左翼の​様な自国を卑下してる売国奴は世界でも稀で珍現象の一つでもある。

 愚生は右翼人ではあるが、キューバのカストロやゲバラ​ら共産主義者には共鳴を覚え​る。ゲバラの様な真の革命家に出会っていれば行動を共にしたに違いない​。

 アングロサクソンとして生まれていれば敬虔なカトリック教徒として国に忠誠を誓っただろうし、イスラエルに生まれていればユダヤ教徒になっていただろう。

 イスラムならウサマ・ビンラディンと共に行動していたかも知れない。つまり、宗教や思想信条とは、結局は何時の時代に何処で生まれたかの問題であるのだ。我が国の左翼が祖国日本を貶し続ける限り、営業左翼から脱却出来まい。

 日本に生まれた者として、我が国の今が未曽有の危機ならば、夫夫の立場で懸命に努力すべきであって、「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉シ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スへシ」とはこういうことだ。神国日本の不滅を信せずに何が保守か、何が愛国者か。

 正統保守ならば、神州不滅を信じ、神武肇国の精神の高揚と国家国民の繁栄をこそ目指すべきで、我が国が滅んでしまうかの物言いは本末転倒と断じる他は無い。

 現代日本人は、豊葦原瑞穂の国に生を享けていながら「農」という根幹を忘れ去ってしまった。農業を金儲けの道具と捉える営利至上主義こそ見直さなければならないのだが、農家や農業を守るべきJAも政府の出先機関に成り下がってしまった。

「農業」とは愛郷心、祖国愛に繋がるもので、国家の大本でもある。世界の国々では「農業」の保護政策が行われているが、これは「農は国の本」ということを自覚しているからだ。だが、悲しい哉、農耕民族である我が日本人にはその自覚は乏しい。

 何故にこの様になってしまったのか。それは戦後GHQによって強行された日本弱体化政策が元凶であるのは明らか。GHQの洗脳と戦後民主主義教育に因り、戦前からの日本人の美徳や農本主義的国家観は排除されてしまった。

「一国独立」どころか、未だ米国の戦略に嵌ったまま現在に至っているというのが実情。「国防」という国家の大本を米国に依存し軍事的安全保障でも自立出来ず、「食料安保」でも自立出来ず、これで果たして真の独立国家といえるのだろうか。

 種子法廃止法案に見る農業政策にしろ、労働者不足を理由にした実質的な移民政策にしろ、賤しい財界人共の我田引水的政策を謀る自民党は保守とは懸け離れた政党である。他の野党を見渡せばコレもまた自民党の劣後、欠陥政党である。

 正統の保守主義者に於いて時間を体験する仕方は、過去の意味を直視し、その中に価値を見出す発見によって未来を創造して行くものである。

 高い精神の伴わない現在の我が国の様な繁栄はやがて衰退する。我ら大和民族は目先の繁栄ではなく、神武肇国の精神の高揚と国民国家の繁栄をこそ目指さねばならないのだ。ならば、国を愛する心を涵養するとは如何なることなのか。

 街頭に立ち、日の丸や旭日旗を掲げて街中を闊歩することではない。それは、八紘を掩(おお)ひて宇(いえ)にせむこと。つまりは神武肇国の大理想「八紘一宇」を掲げ、天皇國日本の真姿開顕へ奮闘前進すること以外に無いのだ。

 真の愛国者よ、真の保守主義者よ、目先の問題に一喜一憂すること勿れ。今こそ武士道精神と大和魂を以て、堂々と天下国家論を述べ、国家観を共有する同志らと連携を深め、真正保守の再興を目指すと共に天壌無窮の皇運を扶翼すべし!

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2020年11月30日

高レベル放射性廃棄物の最終処分場選定に向け福島県も名乗りを上げよ!

 原発の再処理過程で出る核のゴミ(高レベル放射性廃棄物)の最終処分場選定に向けた文献調査に名乗りを上げてる北海道寿都(すっつ)町の町議会に反原発派が解散請求(リコール)に向けて署名を集めるという記事を目にした。

 日本人ヘイト満載のクソ芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」を主催した愛知県の大村秀章知事の解職請求には沈国を続けたマスコミが、反原発派や最終処分場建設反対派に与することは正しく左翼の破壊活動の一環としか見えない。

 反対派の代表は地元の水産加工会社社長だという。東京電力福島第一原発事故に伴う処理水の海洋放出に徹底して反対してるのも地元の漁業組合らだが、国内の漁師や漁業関係者というのは無知に加えて反原発派というのは始末に負えない。

 最終処分場の候補地に名乗りを上げると電源三法交付金が出る。選定が決まれば莫大な補助金が交付される。処分場の建設に伴い道路、港湾整備などで雇用が増え人口も増える。住民が増えれば学校が造られ医療を施す病院も建つだろう。

 同じく、北海道神恵内(かもえない)村商工会が誘致を目指す請願を村議会に出したのも電源三法交付金目当てだが、過疎化などで人口減少に伴う財政が減少して行く中で、最終処分場建設に関する交付金を町の活性化に繋ぐ考えだ。

 反原発派らは「自然災害が多い日本での最終処分は安全性への懸念も大きい」と批判的だが、専門家に拠れば処理技術には何ら問題はないという。

 反原発派が「御用学者」と批判して止まない物理学者の高田純教授に由れば、核のゴミの地下埋設で起こる危険性は無いと断言している。

 その科学的根拠は「ガラス固化体となった核のゴミから出される放射能は頑丈な金属製の鎧オーバーパックの中で水を通しにくい粘土で囲み300m以下の地層で眠り続ける。その間、物理法則に従い放射能は徐々に減衰し消滅する」という。

 最終処分場の候補地が決まらず頓挫しているのは政治の怠慢に他ならない。高レベル放射性廃棄物の処分地探しを公募したのは小泉政権下だった。

 今や脱原発の急先鋒である小泉は「放射性廃棄物の最処分場が確保されていない」と他人事の様に語るマヌケさ。こんなのが総理だったというのが恥ずかしい。

 使用済み燃料を再処理するとプルトニウムやウランなどの酸化物が精製されるが、この再処理の過程で出るのが高レベル放射性廃棄物という核のゴミだ。最終処分場に埋設されずに原発構内で保管してる方が危険だとは思わないのだろうか。

 余剰プルトニウムを持つことは国際的に許されない。再処理に拠って精製されたプルトニウムやウランを「プルサーマル」や、混合酸性物(MOX)燃料を利用した「フルMOX」として使わなければ国際公約違反に問われることとなる。

 そういう意味では、廃止が決まった高速増殖炉「もんじゅ」は、生成されたプルトニウムや燃え残りのウランをMOX燃料に加工し、高速炉サイクル技術に因って電力を確保しようという夢のエネルギー政策でもあったのだ。

「もんじゅ」は単にエネルギー確保だけでなく安全保障などの視点からも重要な問題だった。高速増殖炉に成功させ世界のエネルギーの平準化を達成出来れば、我が国は経済大国としても技術立国としても世界から尊敬されただろう。

 高速増殖炉を使用するサイクルが完成すれば、8千年間もの発電が可能になると推計されていたが、反原発に煽られた世論に屈し廃炉を決定した。

 高レベル放射性廃棄物処分について、政府はその重要性を認識しつつも反原発の流れから傍観を極め込んでいる。世界が注目する高レベル放射性廃棄物の深地層技術は、今後のエネルギー政策を左右するものとなろう。

 候補地として福島県が名乗りを上げれば好いものを、無自覚左翼の内堀政雄福島県知事は「高レベル放射性廃棄物の最終処分は国の責任で適切に行われるべきもので、本県が最終処分場になることはあり得ない」との認識を示している。

 経産省も福島県に気兼ねして「福島県は現在、政府として原発事故の収束と復興に全力で取り組んでおり、相応の配慮が必要。高レベル放射性廃棄物について、福島県に何か負担をお願いする考えはない」と強調し、その方向で進んでいる。

 原発事故に由る県民感情は重々理解するが、原発設置県の責任として原発事故の責任を東電や国に押し付けるのではなく、現実に起こってしまった事実を鑑みれば、福島第一原発周辺以外に最終処分場の候補地は無いのではあるまいか。

 高レベル放射性廃棄物の最終処分場建設が実現されるまでには文献調査で約2年、ボーリングなどの地下概要調査で約4年、更に精密調査に約14年を要する。

 最終処分場建設が実現するしないは別にして、候補地に名乗りを上げただけで出る電源三法交付金は財源に苦しむ自治体には魅力だろう。最終処分場の候補地が決まらずにいる状況を打破する為にも福島県も候補地に名乗りを上げよ!

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2020年11月28日

政党交付金と小選挙区制度を廃止し中選挙区に戻せ!

 総務省は令和元(2019)年の政治資金収支報告書を公開した。自民党本部の収入は約245億円。第二位は日本共産党の約205億円。公明党約129億円。旧立憲民主党約70億円、旧国民民主党約57億円。日本維新の会約20億円と続く。

 政党交付金受け取りを拒否している共産党だが、収入の大部分は機関誌「赤旗」の事業収入で7年ぶりに増加したという。面白いもので朝日新聞の購読者が激減し、赤旗購読者が殖えたのは昨今の左翼活動の流行が一因だろうか(笑)

 平成6年、リクルート事件やゼネコン汚職事件が相次いだことから、企業、労働組合、団体からの政治献金を禁止する代償として「政党助成法」を制定した。成立させた細川護熙は「何より、クリーンな政治を実現出来る」と胸を張った。

 政党助成法の成立で、企業献金や政治資金パーティーは無くなり、政治家は国家国民の為に汗してくれるものと国民の誰もが思ったのも確かだろう。

 だが、現実は政治資金パーティーは無くなるどころか、カネに賤しい政治家ばかりが殖えた。政治に真剣さが無くなったのは政党交付金制度が一因である。

 政党交付金として、国会議員一人当たり約5000万円が支払われている。国民一人当たり換算で約250円、総額約320億円に上り、今迄支払われた総額は実に6兆円を超える。コロナ対策費は政治家に垂れ流された政党交付金を充てるべきだろう。

 未だ政治献金が無くならない現状は、国民への裏切りではないのか。また、政治活動の自由という観点から政党交付金の使い道には制限も無ければ、立法事務費も使途報告の必要も、解散時の返納する義務もないというのは如何なものか。

 法を作るべ国会議員が「合法的なら」とか「法律の範囲内なら」と法を巧妙に抜け、不動産購入や蓄財をした小沢一郎という議員がいたが、交付金が血税であるなら使途を明記するべきだし、解党した場合には返納を義務付けるべきだ。

 共産党は政党助成金制度の廃止を主張しているが至極真っ当な認識だ。自民党を始めとした他の政党は、細川の嘘から成立させた「政党交付金」を受け取ることは国民への背信行為であり、詐欺行為であるとの認識はないのだろうか。

 憲法には「法の下の平等」が明記されながら、受け取る政党と受け取らない政党があるのは不平等だろう。そうした制度の下で行われる選挙にも問題はありそうだ。

 小沢一郎の策謀に嵌り、我が国は二大政党の道を選択した。然し、小選挙区では「赤か白」的に一人しか選べない、小選挙区制度は中庸を旨とする日本人にはそぐわない。自民党か共産党かではない、選択肢が出来る制度にするべきだ。

 例えば、福島県は以前は中選挙区(5区)に分けられていたが、これを「浜通り」「中通り」「会津地方」の三つに分け、夫夫当選者を4人~5人とすることで、巨大政党に所属しなくても当選出来る制度に替えるべきだと思う。

 現在の選挙制度では、幹事長を始めとした党幹部に気に入られ、主張も政党の意向を優先させられる。つまり、憲法改正にしても「自民党がやろうとしている憲法改正は現憲法を護持することになるから反対」と主張したら党公認は無理だろう。

 原発問題にしろ「原発再稼働」や「我が国が技術立国として高速増殖炉『もんじゅ』の開発を再開しろ」との主張は既成政党では受け容れられることが無いが、中選挙区に戻せばこうした主張の候補が当選出来る可能性も出て来るだろう。

 何事も「和」を重んじる日本人には小選挙区制度は悪害でしかない。今や自民党が政党交付金の恩恵でやりたい放題し放題のこの世の春を謳歌してるが、政党交付金で成り立っている政治システムを終わらせるべきだと痛感する。

 政党交付金制度を廃止すれば共産党が資金力で優るから、自民党は脅威と感じ政党交付金のシステムは死守したいだろう。他のボンクラ野党も同じで、政党交付金の為に離散集合を繰り返してると言っても過言ではない守銭奴ばかり。

 逆に共産党が主張を翻し、政党交付金を受け取った場合には更に潤沢な政党となり脅威は増すだろう。政党交付金の廃止こそ二大政党制の近道かもよ。呵呵。 

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2020年11月26日

憲法改正や九条第三項の加憲は究極の護憲運動である

 昭和45(1970)年11月25日、三島由紀夫は楯の会メンバーの森田必勝、小賀正義、小川正洋、古賀浩靖の4名と共に市谷駐屯地総監室に籠城し、憲法改正の必要性を訴え、森田と共に壮絶な割腹自殺を遂げてから半世紀が経った。

 改めて現憲法の矛盾性と不当性に気付いた多くの国民は、安全保障の観点から憲法改正の必要性を感じている。だが、三島が訴えたかったのは、皇軍であるべき自衛隊の存在を否定する憲法改正の訴えは単なる手段に過ぎない。

 三島が真に訴えたかったのは、現憲法の矛盾の象徴である自衛隊の存在に喩えてはいるが、日本人を骨抜きにしてしまった元凶でもある現憲法に対峙し、矛盾だらけのクソ憲法を破毀することこそが主眼であったと確信する。

 安倍改憲論は第九条へ第三項を加える加憲であり、つまりは現憲法を認めているということ。売文を生業とする営業保守派もコレと同じ認識で、国體よりも尖閣諸島の主権を主張し領土防衛の為の自衛隊強化の為に九条を改を訴える。

 自らの国家の防衛をも否定する矛盾だらけの現憲法を何故に認めるのだろう。違憲状態の自衛隊を「国軍」とすることに異議は無い。だが、現憲法は国家の基本法としては最早機能していない。何故に一部の改正で済ませ様とするのか。

 現在の自民党を始めとした取り敢えず改憲派らに、三島の渾身からの叫びが聞こえているとは到底思えない。現在の改憲論は現憲法護持と同じこと。我が国の正統な国法である大日本帝国憲法(欽定憲法)の復元改正を目指すべきだ。

「国防とは、それが滅びれば日本ではなくなることを死守することである」との三島は訓えた。国防とは、領土主権以上に国體を護持し、皇統を死守することであるならば、改憲ではなく大日本帝国憲法復元改正こそ採るべき道である。

 SNSでは、昨日の日中外相会談での茂木外相の対応を批判し、尖閣への主権侵害を強く抗議しろと騒がれてるが、茂木の媚中派ぶりと売国性は今に始まったことではない。加えて親中派の二階幹事長の後ろ盾だもの強く抗議するとは思えない。

 日中外交は弱腰と軟弱ぶりは、田中角栄が元凶であり、田中が発した日中国交条約締結での歴史認識を改めない限り、こうした弱腰軟弱外交は続くだろう。

 つ~か、尖閣問題や新型コロナ発症に対する問題があり、香港やウイグルへの人権問題に抗議の声が上がってる中で何で呼んだんだ。会談するなら尖閣問題に対する我が国の正当性と周庭の不当拘束を抗議しなきゃ世界から笑われるだけだ。

 力(国防力)の無い外交に意味は無い。営業保守派や自称愛国者らが茂木を批判するのは結構だが、茂木が王毅外相に宣戦布告ではないが、強気で主権侵害を抗議した結果、尖閣で日中衝突となったならそれを支持するのか。

 自衛隊員が殉死した場合に、その慰霊は市ヶ谷駐屯地の儘で好いとは思えない。殉職者を靖國神社に祀られない対応をどう思っているのか。尖閣問題というのは単に領土主権だけではなく多くの問題が山積していることを自覚するべき。

 中共が国連総会に於いて「敗戦国(日本)が戦勝国の領土(沖縄・尖閣列島)を占領しようとしている」と発言したのを覚えているだろうか。この主張は、国連憲章第53条並びに第107条の「旧敵国条項」を念頭にした発言である。

 国連憲章の敵国条項とは「連合国の敵国であった日本などが再び侵略行為を行った場合、他の国は安保理の承認なしに武力行使出来る」と規定されている。つまり、未だ我が国は、国連(戦勝国)からすれば「敵国」の儘なのだ。

 王毅外相が尖閣諸島を「我が国の主権」と発言したことに異を唱えるのは簡単だが、敵国条項が存在する限り、常任理事国である中共が「侵略」と看做せば一方的に排除出来るということ。それを承知で戦争する覚悟は在るや無しや。

 尖閣での日中衝突となれば日本が敗れると予想する評論家は多いが愚生はそうは思わない。軍事力では中共が圧倒するが、自衛隊の能力も士気の高さは世界のトップレベルであり、短期決戦の戦いでは自衛隊が地の利を生かして戦うだろう。

 自衛隊が一時的にでも中共軍を追い払うことが出来なかったとしても、平和ボケしてる国民が領土主権の重要性に目覚め、憲法論や国防力を見直す契機にもなるだろうし、何より我が国がまとまな国家となる好機であり、願ったり叶ったりだ。

 中共の場合はそうはいかない。紛争での失態は、習近平体制の威厳を失墜させ、周辺国への恫喝も通じず、巨大な軍事力を背景に弾圧されてる国々は独立に向けて自信を深める結果になり、共産主義一党独裁体制を崩壊する危険を孕んでいる。

 戦争というのは外交手段の一つであり、国際法で認められている正当な行為。要は、主張が認められないのならば「戦争も辞さない」という覚悟が大事ということだ。 近隣アジアの緊迫と国際情勢の変化は真の独立を果たす契機でもある。

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